第143話 十一組ラボの次の失敗は、知らない手順から見つかる
放課後の教室に。
はさみの音が、一定の間隔で続いていた。
しゃく。
しゃく。
紙を切るたび。
刃の間から、細長い切れ端が机の上へ落ちていく。
窓の外では。
校庭の端を走る陸上部員たちの掛け声が、夕方の風に混ざっていた。
「いち、に!」
「いち、に!」
揃っているようで。
少しだけずれている。
その声の向こうから。
野球部の金属バットが球を打つ音。
体育館の中から響く、バスケットボールの音。
吹奏楽部が何度も繰り返す、同じ旋律。
校舎全体が。
授業とは違う放課後の時間へ、ゆっくり切り替わっていた。
十一組の教室でも。
机を中央へ寄せたまま、試作品の修正が始まっている。
黒板には。
『失敗歓迎作戦(仮)』
という文字が残されていた。
その下には。
新しく作られた作業表。
『安全性』
『初めて見た人にも分かる形』
『準備時間』
『片づけやすさ』
『費用』
五つの項目が並び。
それぞれの下へ、担当者の名前が書かれている。
「……なんで俺だけ、三か所に名前あるんだ?」
三浦が。
黒板の前で腕を組んでいた。
『初めて見た人にも分かる形』
『準備時間』
『片づけやすさ』
その三つに。
『三浦』
と書かれている。
「人数足りないから」
茜が、作業用のノートから顔を上げずに答える。
「板倉も三か所やってる」
春樹が言う。
「板倉はいいんだよ」
「どういう意味だ」
材料費の計算をしていた紅秋が顔を上げる。
「板倉はできる男だから」
「三浦くんは?」
なつきが聞く。
「できれば、楽をしたい男」
「自分で言うんだ」
「人生に正直だから」
「ただ面倒くさがりなだけでしょう」
茜の声は冷静だった。
三浦は。
分かりやすく胸を押さえる。
「遠山の言葉は、紙より俺を切ってくる」
「はさみで紙を切って」
「はい」
三浦は、机へ戻った。
さっきまで。
『失敗歓迎作戦』
という名前が採用されるかどうかで騒いでいたはずなのに。
気づけば全員。
次の試作品を作り始めている。
一度。
手を止めていた時間はあった。
会議の結果が保留だと分かったとき。
教室の空気は。
確かに、少しだけ沈んだ。
けれど。
沈んだままでは終わらなかった。
春樹が。
同じ試作品の中に、成功と失敗の両方があると言った。
その言葉をきっかけに。
誰かが紙を広げ。
誰かが定規を置き。
誰かが新しい案を出した。
今はもう。
教室の中心には。
会議へ持っていった試作品と。
これから作るものの材料が、並んでいる。
なつきは。
春樹の隣に座り。
厚紙の端を両手で押さえていた。
「横田さん、少し右」
「右?」
「俺から見て右」
「私からだと左?」
「同じ右」
「同じなんだ」
「向かい側じゃないから」
「あ、そっか」
なつきは。
厚紙を少し動かす。
春樹が、上から定規を当てた。
目盛りを確認し。
鉛筆で薄い線を引く。
その線は。
紙の上を真っ直ぐ進んだ。
「ここまで?」
「うん」
「切る?」
「まだ」
「折る?」
「まだ」
「じゃあ、何する?」
「もう一本引く」
「なるほど」
なつきは。
再び、紙を押さえた。
春樹の手が。
なつきの指先から、少し離れた場所を通る。
鉛筆の先が。
紙の上を擦る。
しゃっ。
短い音。
その音が。
なつきの耳には、妙に近く聞こえた。
春樹の手。
自分の手。
同じ紙。
さっき交わした。
『次も、一緒に作る?』
『作る』
という会話が。
まだ胸の奥に残っている。
ただの作業の約束。
十一組ラボのメンバーなら。
当たり前の言葉。
それなのに。
何度も思い出してしまう。
「横田さん」
「うん」
「力入れすぎ」
「え?」
「紙、曲がってる」
「あ」
なつきは慌てて力を緩める。
厚紙が。
ほんの少しだけ反っていた。
「ごめん」
「戻るから大丈夫」
「また失敗?」
「このくらいなら失敗じゃない」
「じゃあ、何?」
「力入れすぎ」
「そのまま」
「うん」
春樹は。
紙の反りを指先で直す。
「緊張してる?」
「してない」
「じゃあ、力が強い」
「私、力持ち?」
「そこまでは言ってない」
「大國くんより?」
「それはないと思う」
「競争する?」
「何を?」
「力」
「しない」
「すぐ断られた」
「紙作ってる途中だから」
春樹の声に。
ほんの少しだけ笑いが混ざった。
その隣で。
なつきも口元を緩める。
教室の中では。
それぞれの担当が。
思い思いに作業を進めていた。
紅秋は。
材料の一覧表と、レシートを並べている。
「この透明シート、余りを使うなら追加費用は出ない」
「でも、次回以降も作るなら買う必要あるよね」
女子生徒の一人が言う。
「そうだな。余りを使った場合と、購入した場合の両方を出す」
「百円ショップで似たのなかった?」
「厚さが違う」
「薄いと駄目?」
「形を保てない可能性がある」
「じゃあ、二種類作って比べる?」
「それが一番早い」
少し離れた机では。
三浦が。
説明用に描いた絵を、女子生徒たちへ見せていた。
「どう?」
「なにこれ」
「手」
「カニじゃなくて?」
「手!」
「指、三本しかないよ」
「簡略化」
「その隣は?」
「置く場所」
「池?」
「置く場所!」
「三浦くん、絵じゃなくて写真にした方がいいんじゃない?」
「俺の芸術が伝わらない」
「伝えるための説明でしょう」
茜が言う。
「芸術性はいらない」
「俺の個性は?」
「利用者が迷わないことの方が大切」
「個性が負けた」
三浦は。
机へ突っ伏した。
けれど。
すぐに顔を上げ。
描き直し始める。
その様子を見て。
なつきは小さく笑った。
「三浦くん、ちゃんとやってるね」
「最初からちゃんとやってる」
春樹が言う。
「そうなの?」
「騒いでるけど、手は止めない」
「大國くん、よく見てる」
「近くにいるから」
「みんなのこと?」
「うん」
「私のことも?」
聞いた瞬間。
鉛筆の音が止まった。
なつきも。
自分が何を聞いたのか理解するまで。
少し時間がかかった。
言葉が。
口から出たあと。
教室の空気の中に浮いたまま。
戻ってこない。
「……あ」
なつきは。
厚紙へ視線を落とした。
「今の、変だった」
「変ではないけど」
春樹は。
すぐには鉛筆を動かさなかった。
なつきの指先は。
紙の端を押さえたまま。
また少し力が入っている。
「見てるよ」
春樹が言った。
声は。
大きくなかった。
周りの会話に紛れるくらい。
でも。
なつきには、はっきり聞こえた。
「近くにいるから?」
なつきが聞く。
今度は。
春樹が黙った。
窓の外から。
野球部の声が聞こえる。
「一本!」
「声出せ!」
その直後。
金属音が響いた。
教室の窓が。
わずかに震える。
春樹は。
鉛筆を持ったまま。
紙ではなく。
なつきを見ていた。
「近くにいなくても」
それだけ言って。
視線を紙へ戻す。
なつきの胸の奥が。
ゆっくりと熱くなる。
何を。
どこまで聞いていいのか。
分からない。
春樹も。
それ以上は言わなかった。
止まっていた鉛筆が。
また紙の上を動き始める。
けれど。
さっきまでと同じ作業には戻れなかった。
なつきは。
紙を押さえながら。
春樹の横顔を、見ないようにした。
見ないようにすると。
余計に。
隣にいることを意識してしまう。
「横田さん」
「うん」
「また力入ってる」
「あ」
「紙より机を押さえてる」
「今度は机?」
「動かないから大丈夫」
「良かった」
「良くはない」
春樹は。
少し困ったように笑った。
そのとき。
教卓の近くで。
茜が手を叩いた。
ぱん。
大きくはない。
それでも。
作業中の全員が顔を上げるには十分な音だった。
「一回、止めて」
「もう休憩?」
三浦が言う。
「違う」
「お菓子?」
「違う」
「帰る?」
「それはもっと違う」
茜は。
会議で使ったノートを机へ置く。
「今、私たちだけで考えてるけど」
その言葉に。
紅秋が計算機から顔を上げた。
「初見の人間が必要だな」
「うん」
「初見?」
三浦が聞く。
「まだ試作品を見ていない人」
「俺、記憶消すよ」
「消えないでしょう」
「気持ちで消す」
「三浦くんは昨日から作ってるから無理」
「演技力ならある」
「信用できない」
「ひどい」
茜は。
黒板の項目を指した。
『初めて見た人にも分かる形』
「ここを確認するには、本当に初めて見る人に使ってもらうのが一番早い」
「誰か呼ぶ?」
女子生徒が聞く。
「まだ残ってる人いるかな」
「部活中の人に頼むのは邪魔になる」
「帰宅部」
「もう帰ってそう」
教室の中で。
全員が少し考える。
放課後も。
すでにかなり時間が経っていた。
校内には多くの生徒が残っている。
けれど。
ほとんどが部活動中。
わざわざ教室へ連れてくるとなれば。
事情を説明し。
時間をもらう必要がある。
「先生は?」
「会議で見てる」
「別の先生」
「忙しいんじゃない?」
「用務員さん」
「仕事の邪魔しないで」
「食堂の人」
「もう閉まってる」
三浦が挙げる候補を。
茜が一つずつ消していく。
その横で。
紅秋が時計を見る。
「一人か二人でいいなら、他の棟へ探しに行くか」
「誰が行く?」
「三浦以外」
「なんで!?」
「知らない人に声をかけて、不審がられそうだから」
「俺、そんな顔してる?」
「顔じゃなくて話し方」
「もっとひどい!」
笑いが起きる。
なつきは。
黒板と時計を交互に見た。
少し迷ったあと。
手を上げる。
「私、行こうか?」
茜が、なつきを見る。
「一人で?」
「一人でもいいけど」
「俺も行く」
春樹が言った。
返事は。
なつきの言葉が終わるのと、ほとんど同時だった。
教室の空気が。
ほんの一瞬だけ止まる。
三浦が。
ゆっくり春樹を見る。
次に。
なつきを見る。
「大國」
「なに」
「早い」
「何が?」
「返事」
「二人の方が説明しやすい」
「なるほど」
三浦は。
わざとらしく何度も頷いた。
「説明しやすい」
「そう」
「横田と二人なら」
「三浦」
紅秋の低い声が飛ぶ。
「作業しろ」
「俺、今重要な確認を」
「必要ない」
「板倉、最近大國に甘くない?」
「お前がうるさいだけだ」
教室の中に。
また笑い声が広がる。
なつきは。
少しだけ熱くなった顔を隠すように。
机の上の紙を整えた。
「じゃあ」
茜が言う。
「横田さんと大國くん、お願いしていい?」
「うん」
「誰でもいいの?」
「まだ試作品を見ていなくて、十分くらい時間をもらえる人」
「十分」
「できれば二人。説明は最小限にして」
「何も言わない?」
「最初は、これを使って準備してください、だけ」
「難しくない?」
「難しいかどうかを確認するの」
「あ」
なつきは納得する。
春樹が。
机の上の試作品を見る。
「まだ完成してないけど」
「今の段階で、どこで迷うか分かった方がいい」
茜の言葉に。
紅秋も頷いた。
「完成してから根本的な問題が見つかる方が面倒だ」
「じゃあ、これ持ってく?」
なつきが試作品へ手を伸ばす。
「いや」
春樹が立ち上がった。
「人だけ呼んでくればいい」
「持って歩いたら、見られちゃう?」
「それもあるし、壊れるかもしれない」
「そっか」
三浦が。
二人へ手を振る。
「いってらっしゃい!」
「遊びに行くんじゃないよ」
「良い人拾ってきて!」
「人を拾うって言わないで」
茜に注意されながら。
三浦は笑っていた。
なつきと春樹は。
教室の後ろの扉から廊下へ出る。
扉が閉じると。
教室の中の声が。
少しだけ遠くなった。
廊下には。
夕方の冷え始めた空気が残っている。
窓から入る光は。
さっきよりも橙色に近づいていた。
床の上へ。
窓枠の影が長く伸びている。
「どこ行く?」
なつきが聞く。
「中央棟」
「人いるかな」
「図書室ならいるかも」
「でも、図書委員の人は?」
「今日の当番は別の学年」
「知ってる人?」
「顔は分かる」
「試作品は知らない?」
「たぶん」
二人は。
並んで歩き始めた。
十一組の教室を離れると。
作業中の緊張が、少しだけほどける。
けれど。
二人きりになったことで。
別の緊張が生まれていた。
さっきの。
『近くにいなくても見てる』
という言葉。
なつきは。
聞き返したかった。
どういう意味。
いつ見てるの。
どこまで見てるの。
でも。
聞けば。
今の距離が何か変わってしまいそうで。
口に出せない。
隣を歩く春樹も。
いつもより少し静かだった。
足音だけが。
廊下に重なる。
なつきの上履き。
春樹の上履き。
少しだけ歩幅が違う。
それでも。
春樹は速くならない。
なつきの速度に合わせている。
そのことも。
前なら。
気づかなかったかもしれない。
「大國くん」
「うん」
「さっきの」
言いかけて。
止まる。
春樹が。
なつきの方を見る。
「紙」
「紙?」
「うん。紙、曲げてごめん」
違う。
本当に聞きたかったことではない。
口から出たのは。
全然違う話だった。
春樹は。
なつきの顔をしばらく見た。
「戻ったから大丈夫」
「うん」
「それだけ?」
「それだけ」
「そう」
春樹は。
前へ向き直った。
何か。
気づかれている気がした。
でも。
追及されなかった。
それが。
安心するような。
少しだけ残念なような。
自分でも分からない気持ちだった。
二人は。
渡り廊下へ出る。
開いた窓から。
風が強く吹き込んだ。
なつきの髪が。
頬へかかる。
「あ」
片手で押さえる。
同時に。
廊下の掲示板に貼られていた紙が、一枚めくれ上がった。
画鋲で留められているため、飛びはしない。
ただ。
ばたばたと大きな音を立てる。
春樹が。
掲示板へ近づき。
外れかけた画鋲を押し込んだ。
「風強いね」
「うん」
「付箋、落ちてないかな」
「教室?」
「黒板の」
「遠山さんがいるから大丈夫」
「茜ちゃん、付箋の番もするの?」
「たぶん三浦が触ろうとして怒られる」
「ありそう」
二人は笑う。
その笑いが。
さっきまでの言葉の間にあった緊張を。
少しだけ薄くした。
中央棟へ入る。
教室の数が増えるにつれて。
まだ残っている生徒の姿も増えた。
廊下の端で。
文化祭の委員らしい生徒たちが、大きな紙を広げている。
別の教室では。
補習を受けている生徒が。
黒板に書かれた問題をノートへ写していた。
階段近くには。
部活動へ向かう途中らしい一年生が、数人集まっている。
「あの人たちは?」
なつきが小さく聞く。
「部活行くところじゃない?」
「そっか」
「声かける?」
「急いでそう」
「じゃあ、やめよう」
知らない人に。
突然。
『十分だけ、試作品を使ってください』
と頼む。
思っていたより。
難しい。
教室にいるときは。
誰かを見つければいいと思っていた。
でも。
実際に廊下へ出ると。
それぞれに行く場所があり。
予定があり。
急いでいるように見える。
「声かけづらいね」
なつきが言う。
「うん」
「大國くん、得意?」
「得意に見える?」
「見えない」
「横田さんよりは、知らない人に話しかけない」
「私も、そんなに話しかけないよ」
「道聞かれることは多そう」
「多い」
「やっぱり」
「なんで分かったの?」
「話しかけやすそうだから」
「大國くんは?」
「聞かれない」
「話しかけにくそう?」
「たぶん」
「私は話しかけたけど」
春樹が。
足を止めかけた。
なつきも。
つられて少し速度を落とす。
「最初から?」
「最初?」
「俺に」
「うん」
なつきは考える。
同じクラスになって。
席が近くなって。
少しずつ話すようになった。
最初に。
どちらから話しかけたのか。
細かいところまでは思い出せない。
ただ。
春樹を。
話しかけにくいと思ったことはなかった。
「大國くんは、大丈夫だった」
「何が?」
「話しかけても」
「理由は?」
「分からない」
「分からないんだ」
「でも」
なつきは。
少し笑った。
「今も話しかけやすいよ」
春樹は。
返事をするまで。
少しだけ時間がかかった。
「……それならいい」
「うん」
また。
二人の足音が重なる。
中央棟二階。
図書室へ向かう廊下を曲がろうとしたとき。
前から。
見覚えのある二人が歩いてきた。
「なつき?」
先に気づいたのは。
蓮だった。
その隣には。
美優がいる。
二人とも。
特進クラスの教材らしい厚い問題集を抱えていた。
「蓮。美優」
なつきは。
自然に足を止める。
春樹も。
なつきの半歩後ろで止まった。
蓮が。
春樹を見る。
「大國も一緒か」
「うん」
春樹が答える。
美優は。
なつきと春樹を交互に見た。
その視線は。
一瞬だけ。
二人の間にある距離を測るようだった。
「何してるの?」
美優が聞く。
「人、探してる」
「人?」
「十分くらい時間がある人」
なつきが答えると。
蓮が少し眉を上げる。
「言い方だけ聞くと怪しいぞ」
「三浦くんも、良い人拾ってきてって言ってた」
「もっと怪しくなった」
蓮が笑う。
美優は。
あまり笑わなかった。
「何に使うの?」
「十一組ラボの試作品」
「ラボ?」
「今、作り直してて。初めて見る人に使ってほしいの」
「へえ」
蓮が。
抱えていた問題集を持ち直す。
「俺は見たことない」
「美優も?」
「見てない」
美優が答える。
なつきの顔が。
少し明るくなる。
「時間ある?」
「俺はある」
「私は」
美優が。
言葉を止めた。
その視線が。
もう一度、春樹へ向く。
「十一組まで行くの?」
「うん」
「大國くんも、そこにいるんだよね」
「俺もラボのメンバーだから」
春樹が答える。
「そう」
美優は。
短く言った。
それから。
なつきを見た。
「なつきが頼むなら、行く」
「ほんと?」
「うん」
「ありがとう」
なつきは。
ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て。
美優の表情も。
ほんの少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ、問題集置いてから行く?」
蓮が聞く。
「持ったままでいい?」
「教室に置く場所あるよ」
「それならこのままでいいか」
四人で。
商業科棟へ戻ることになった。
最初は。
なつきと春樹が並び。
その後ろを。
蓮と美優が歩いた。
けれど。
渡り廊下へ入る前に。
美優が。
なつきの隣へ来る。
「なつき」
「ん?」
「会議、どうだったの?」
「保留だった」
「保留?」
「もう一回作ることになった」
「駄目だったってこと?」
その言葉に。
なつきの足が。
ほんの少しだけ遅くなる。
第142話で。
階段ですれ違った男子生徒にも。
同じように聞かれた。
駄目だったのか。
そのときは。
まだ胸が痛んだ。
けれど。
今は。
前より少しだけ違う。
「駄目なところもあった」
なつきは答える。
「でも、良かったところもあったよ」
「じゃあ、どっち?」
「両方」
「両方?」
「同じ中に、成功と失敗があるんだって」
美優が。
少し不思議そうに見る。
「誰が言ったの?」
「大國くん」
なつきは。
特に意識せず答えた。
その瞬間。
美優の視線が。
前を歩く春樹の背中へ移る。
「……そう」
声は。
さっきと同じ短さだった。
けれど。
なつきには。
美優の声が少しだけ固くなったように聞こえた。
「美優?」
「なに?」
「疲れてる?」
「別に」
「問題集、重い?」
「このくらい平気」
「持とうか?」
「いい」
美優は。
すぐに答える。
「なつきに持たせる方が心配」
「私、力あるよ」
「知ってる。でも、よく落とすでしょう」
「落とさないよ」
「この前、筆箱落とした」
「一回だけ」
「昨日も消しゴム落としてた」
「見てたの?」
「見てた」
なつきは。
少し頬を膨らませる。
その横で。
美優は。
ほんの少しだけ笑った。
後ろを歩いていた蓮が。
春樹へ声をかける。
「大國」
「なに」
「試作品って、何のやつ?」
「見たら分かる」
「説明しないのか?」
「説明すると、初見にならない」
「なるほど」
「教室に着いても、最初は詳しく言わない」
「俺、こういうの得意だぞ」
「何が?」
「勘で使う」
「一番危ない人かもしれない」
「正解を無視する可能性があるな」
「俺への信用がない」
「勘で使うって自分で言ったから」
前の二人の会話を聞きながら。
なつきは笑う。
美優は。
なつきの横顔を見る。
そして。
少しだけ視線を伏せた。
商業科棟へ戻る。
十一組の前まで来ると。
教室の中から。
三浦の大きな声が聞こえた。
「絶対、写真の方が分かるって!」
「印刷代が増える」
「白黒!」
「白黒だと見づらい部分がある」
「俺の絵よりは分かる!」
「それはそう」
「自分で認めた!」
なつきが。
後ろの扉を開ける。
「連れてきたよ」
教室中の顔が。
一斉に扉へ向く。
三浦は。
なつきの後ろにいる二人を見て。
「おお!」
と声を上げた。
「特進クラスから豪華ゲスト!」
「ゲストって何」
美優が。
少し警戒するように言う。
「三浦くん、普通にして」
なつきが言う。
「俺、普通」
「今の時点で大きい」
「声が?」
「全部」
「全部!?」
教室の中に笑いが起こる。
蓮は。
慣れた様子で教室へ入った。
「邪魔するぞ」
「どうぞ」
紅秋が答える。
美優は。
なつきのすぐ後ろを歩く。
教室の中央には。
材料や道具が広がっていた。
黒板に書かれた。
『失敗歓迎作戦(仮)』
という文字を見て。
蓮が止まる。
「何だ、これ」
「作戦名」
三浦が胸を張る。
「仮って書いてあるけど」
「遠山が勝手につけた」
「正式決定していないので」
茜が言う。
「三浦が考えたのか?」
「名付け親」
「仮なのに?」
「蓮まで!」
また笑いが広がる。
その笑いが落ち着くのを待って。
茜が。
蓮と美優の前へ、試作品を置いた。
「協力してくれてありがとう」
「何すればいい?」
蓮が聞く。
「まず、二人には別々に使ってもらいます」
「別々?」
「相談すると、どちらがどこで迷ったか分からなくなるから」
「なるほど」
「横田さん」
「うん」
「美優さんを前の机へお願い」
「分かった」
「大國くんは、蓮くんを後ろへ」
「うん」
自然に。
なつきと美優。
春樹と蓮。
二組に分かれる。
美優は。
なつきの隣へ座った。
「なつきが説明するの?」
「最初だけ」
「ちゃんとできる?」
「できるよ」
「心配」
「なんで?」
「なつき、説明してる途中で別の話するから」
「今日はしない」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
美優の声が。
少しだけ柔らかくなる。
なつきは。
机の上に試作品を置いた。
茜から言われた通り。
詳しい説明はしない。
「これを使って、準備してください」
「準備?」
「うん」
「何の?」
美優の質問に。
なつきは答えかける。
けれど。
茜が。
離れた場所から首を横に振った。
「あ」
「何?」
「そこから考えて」
「何の準備かも分からないの?」
「……うん」
美優は。
試作品を見る。
目を細め。
表。
裏。
横。
順番に確認する。
なつきは。
何も言わず見守った。
いつもの美優なら。
分からないことがあれば。
すぐになつきへ聞く。
なつきも。
すぐに答える。
でも。
今日は答えてはいけない。
「これ、開くの?」
「どう思う?」
「質問を質問で返した」
「言っちゃ駄目って」
「不親切」
「そういう確認だから」
「……これ?」
美優が。
折り目のある部分へ指をかける。
ただ。
本来開く場所ではない。
なつきの胸が。
少しだけざわつく。
「そこじゃ」
言いかける。
茜の視線が飛んでくる。
なつきは。
両手で口を押さえた。
「そこじゃないのね」
美優が言う。
なつきは答えない。
「なつき、顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
「今のなし」
「もう分かった」
美優は。
別の場所へ手を伸ばす。
一方。
教室の後方では。
蓮が。
試作品を持ち上げていた。
「これ、上下あるか?」
「ある」
春樹が答える。
「今の言っていいの?」
三浦が聞く。
「上下があることは説明に書いてある」
「どこに?」
蓮が言う。
全員が。
蓮の手元を見る。
上下を示す小さな印。
確かにある。
けれど。
蓮は気づいていない。
「見えない?」
春樹が聞く。
「どれ?」
「いや、いい」
春樹は。
何かをノートへ書く。
茜も。
同じように記録する。
「今、失敗?」
三浦が小声で聞く。
「見つけた」
紅秋が言う。
「失敗じゃなくて?」
「見つけたなら、次に直せる」
「良い言い方する」
蓮は。
上下が分からないまま。
試作品を逆向きに置いた。
その結果。
次の部分がうまく開かない。
「壊した?」
「まだ壊してない」
春樹が言う。
「でも、力入れたら壊れる」
「じゃあ、初見の俺が雑なんじゃなくて」
「雑ではある」
「おい」
「雑な人が使っても壊れない方がいい」
紅秋が横から言う。
「俺、役に立ってる?」
「かなり」
「褒められてる気がしない」
教室のあちこちから。
小さな笑いが起こる。
美優は。
なつきの前で。
まだ開く場所を探していた。
「これ、引っ張る?」
「……」
「なつき」
「……」
「答えて」
「駄目」
「じゃあ、引っ張る」
「待って」
「答えた」
「あ」
美優が。
なつきを見る。
「本当に顔と声に出るね」
「難しい」
「なつきが説明役なの、向いてないんじゃない?」
「私も今、そう思った」
二人は。
小さく笑う。
けれど。
美優の指は。
まだ試作品の正しい位置へ届いていない。
なつきは。
それを見ながら。
少しずつ不安になっていく。
昨日。
みんなで作った。
会議でも。
前より分かりやすくなったと言われた。
自分たちは。
かなり改善できたと思っていた。
でも。
美優は。
目の前に置かれたものを。
どう使えばいいか分からない。
蓮も。
上下を見つけられていない。
もしかしたら。
会議で言われた以上に。
自分たちには見えていない問題がある。
「分からない」
美優が。
手を止めた。
その一言が。
教室の中へ落ちる。
後ろでは。
蓮も。
逆向きに置いた試作品を前に。
腕を組んでいた。
「俺も、分からない」
誰も。
すぐには声を出さなかった。
笑い声が消える。
放課後の音が。
急に大きく聞こえた。
窓の外の掛け声。
廊下を走る足音。
どこかの教室で閉まる扉。
試作品は。
机の上に置かれている。
壊れてはいない。
形も。
昨日のものより整っている。
でも。
初めて見る二人には。
使い方が伝わらなかった。
三浦が。
描きかけの説明用イラストを見た。
紅秋が。
作業表へ視線を落とす。
女子生徒たちも。
誰も軽い言葉を出さない。
なつきの胸に。
会議室で感じたものと似た重さが戻ってくる。
また。
失敗した。
昨日から。
何度も作り直しているのに。
まだ。
伝わらない。
自分たちだけが分かっていて。
分かりやすくなったつもりで。
実際には。
初めて触る人を置き去りにしていた。
「ごめん」
なつきは。
思わず言った。
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
美優に。
分かりにくいものを渡したこと。
みんなに。
会議のあと、すぐにうまく直せなかったこと。
それとも。
失敗した試作品そのものに。
「なんで、なつきが謝るの?」
美優が聞く。
「分からなかったから」
「私が?」
「うん」
「でも、分からないか試すために呼んだんでしょう」
「そうだけど」
「じゃあ、分からなくて良かったんじゃない?」
なつきは。
顔を上げる。
美優は。
机の上の試作品を見ていた。
「完成したものを使ってって言われたなら困るけど」
美優は。
指先で、開けなかった部分を軽く触る。
「分からないところを見つけるためなら、これでいいんじゃない?」
蓮も。
後ろから言う。
「俺もそう思う」
逆向きに置いた試作品を。
正しい向きへ戻しながら。
「俺たちが迷わなかったら、呼ばれた意味ないだろ」
「でも」
なつきは。
まだ言葉を探していた。
そのとき。
隣へ。
春樹が来た。
なつきの前に置かれた試作品を見る。
美優が。
どこを触り。
どこで迷ったのか。
手元を確認する。
「横田さん」
「うん」
「見つかったね」
「……失敗?」
「直すところ」
春樹は。
美優が最初に触れた場所を指さす。
「ここを開くように見える」
「うん」
「でも、本当は違う」
「うん」
「なら、開かないように見せるか、本当に開くように変える」
「変えられる?」
「考える」
春樹の声は。
落ち着いていた。
失敗したことに。
驚いていない。
責めてもいない。
ただ。
次に何を変えるかを見ている。
「蓮が上下を間違えた方も、印を大きくすればいい?」
なつきが聞く。
「大きくするだけじゃ、見ない人は見ないかも」
紅秋が近づいてくる。
「向きを間違えたら、置けない形にする方が確実だ」
「置けない形?」
「上下で幅を変えるとか」
「でも、それだと材料が増えない?」
「計算する」
三浦も。
描きかけの紙を持ってくる。
「説明の絵、最初に上下から入れた方がいい?」
「説明を見る前提にしすぎない方がいい」
茜が言う。
「形で分かる部分と、説明で補う部分を分けよう」
「失敗歓迎作戦」
三浦が呟く。
「何?」
「いや」
三浦は。
さっきまでより少し真面目な顔で。
試作品を見る。
「本当に、失敗が来たなと思って」
教室に。
また短い沈黙が落ちる。
けれど。
今度の沈黙は。
重いだけではなかった。
みんなが。
同じ失敗を囲んでいる。
会議で言われたから。
仕方なく直すのではない。
実際に。
美優と蓮が迷うところを見た。
その手が。
どこへ伸びたのか。
どこで止まったのか。
自分たちの目で見た。
だから。
直す意味が。
前よりもはっきりしている。
「もう一回、最初からやってもいい?」
なつきが聞く。
「私が?」
美優が言う。
「うん。今度は、どこ見たか言いながら」
「分かった」
「蓮もお願い」
「いいぞ」
蓮は。
問題集を机の端へ置き直した。
「次は壊さないようにする」
「壊してない」
春樹が言う。
「大國、俺への当たり強くない?」
「事実を言っただけ」
「遠山みたいになってきたぞ」
「私は関係ない」
茜が返す。
少しだけ。
教室に笑いが戻る。
そこから。
二度目の確認が始まった。
美優は。
試作品を見る前に。
机の上全体を確認した。
「最初に、説明の紙を探した」
茜が記録する。
「説明があると思った?」
「こういうものは、説明があると思うから」
「説明が見つからなかったら?」
「本体を見る」
「どこから?」
「一番目立つところ」
美優の指が。
装飾のように付けた部分へ向かう。
そこは。
本来の使用には関係がない。
「そこ目立つ?」
なつきが聞く。
「色が違うから」
なつきは。
試作品を見る。
作っている側には。
補強部分にしか見えなかった。
でも。
初めて見る人には。
最初に触る場所に見える。
「これ、色変えない方がいい?」
「補強なら、本体と同じ色にする」
紅秋が言う。
「逆に、触る場所だけ色を変える?」
「色だけに頼らない」
「形も変える」
「印もつける?」
意見が。
一つずつ重なる。
蓮は。
別の机で。
試作品を正面から見た。
「俺は、これが上だと思った」
「理由は?」
春樹が聞く。
「文字が読める向き」
「文字?」
「ここ」
蓮が指したのは。
材料に元から印刷されていた、小さな商品名だった。
作る側の誰も。
そこを目印として見ていなかった。
「それ、消した方がいいな」
三浦が言う。
「何となく残してた」
「切る位置を変えれば入らない」
「裏返して使う?」
「表面の滑りが変わる」
また。
新しい問題が見つかる。
一つ直そうとすると。
別の部分へ影響が出る。
形。
色。
手触り。
文字。
置く向き。
自分たちが。
何気なく決めたすべてに。
使う側の理由が生まれる。
なつきは。
美優の手元を見ながら。
初めて。
会議で言われた言葉の意味を実感していた。
『実際の使用場面を、もう少し想像してください』
想像するだけでは。
足りなかった。
使う人は。
自分たちと同じようには考えない。
同じところを見ない。
同じ順番で触らない。
正しい使い方を知っている自分たちには。
見えない道を通ってしまう。
「三回目、やる?」
美優が聞く。
「疲れてない?」
「まだ平気」
「勉強は?」
「今日の分は終わってる」
美優は。
少しだけ胸を張る。
「さすが特進」
三浦が言う。
「俺も終わってるぞ」
蓮が言う。
「蓮も、さすが」
「扱いに差がないか?」
「気のせい」
笑いの中。
試作品は。
一度、机から下げられた。
春樹と紅秋が。
すぐに直せる部分だけを修正する。
補強部分の色を隠し。
上下の向きが分かる仮の形をつける。
茜は。
美優と蓮の発言を。
一つずつ整理していく。
三浦は。
説明用の絵を描き直していた。
今度は。
指を五本描いている。
「増えた」
なつきが言う。
「人間の手になった」
「まだ少しタコっぽい」
「横田まで!」
「丸いから」
「写実的に描いたら時間かかるんだよ」
「写真にする?」
「俺の絵でいく!」
「芸術性はいらないって言われたのに」
「今度は実用性」
「上がった?」
「上がる予定」
なつきは笑いながら。
三浦の紙を覗き込む。
その少し後ろで。
美優が。
なつきと春樹を見ていた。
春樹は。
机へ身を屈め。
紅秋と修正箇所を確認している。
なつきは。
そのすぐ近くで。
三浦の絵に笑っている。
十一組の中で。
なつきが自然に笑っている。
自分の知らない時間を。
この人たちと過ごしている。
それは。
当たり前のことだ。
高校では。
クラスが違う。
授業も違う。
幼い頃のように。
一日の大半を一緒にいるわけではない。
頭では。
美優も分かっている。
それでも。
胸の奥に。
小さなざらつきが残る。
「美優?」
名前を呼ばれ。
美優は顔を上げた。
なつきが。
すぐ目の前に立っている。
「どうしたの?」
「何が?」
「ぼーっとしてた」
「考えてただけ」
「試作品?」
「……うん」
美優は。
少しだけ嘘をついた。
なつきは気づかない。
「何か気づいた?」
「まだ」
「そっか」
なつきは。
美優の隣へ座る。
「協力してくれて、ありがとう」
「別に」
「すごく助かってる」
「私じゃなくても良かったでしょう」
「でも、美優が来てくれて良かったよ」
「どうして?」
「ちゃんと分からないって言ってくれたから」
「分からなかったから言っただけ」
「それが大事なんだって」
なつきの声は。
真っ直ぐだった。
「美優が最初に触ったところ、私たち誰も気づいてなかった」
「そう」
「だから、本当にありがとう」
美優は。
すぐに返事をしなかった。
なつきは。
昔から変わらない。
人の言葉を。
そのまま受け取る。
誰かが向ける視線の裏側も。
声の奥にあるものも。
気づかないことが多い。
だから。
心配になる。
自分がいなければ。
誰かに傷つけられるのではないか。
困らされるのではないか。
間違ったものを信じるのではないか。
そう思ってきた。
でも。
今。
目の前のなつきは。
自分が知らなかった失敗を受け止め。
誰かの手を借りて。
もう次の形を考えている。
守られているだけではない。
自分で。
知らない場所へ進もうとしている。
「なつき」
「ん?」
「楽しい?」
「ラボ?」
「うん」
なつきは。
少し考えた。
「失敗すると、きつい」
「今日も?」
「うん。美優が分からないって言ったとき、また駄目だったって思った」
「ごめん」
「なんで美優が謝るの?」
「なつきが落ち込んだから」
「でも、言ってくれて良かった」
なつきは。
試作品を直している春樹たちを見る。
「落ち込むけど。みんなで直すと、前より良くなるから」
「……楽しいの?」
「うん」
なつきは笑った。
「楽しい」
その笑顔を見て。
美優は。
胸のざらつきを。
完全には消せなかった。
けれど。
否定することもできなかった。
「そっか」
短く答える。
それから。
直し終えたらしい春樹が。
試作品を持ってくる。
「もう一回、お願いしていい?」
美優に向けた。
丁寧な声。
距離を守った話し方。
美優は。
春樹を見上げる。
「いいよ」
「ありがとう」
春樹は。
試作品を机へ置いた。
その隣に。
なつきがいる。
美優は。
二人の間に流れる空気を。
何となく感じ取っていた。
まだ。
言葉になっていない。
本人たちも。
分かっていないのかもしれない。
けれど。
前より。
少しだけ近い。
「始めるよ」
美優が言う。
「うん」
なつきが頷く。
三度目。
今度は。
美優の手が。
最初から正しい場所へ近づいた。
途中。
一度だけ迷う。
でも。
仮につけた形を見て。
自分で向きを変える。
「あ」
なつきの声が出る。
「何?」
「今、分かった?」
「たぶん」
「何で?」
「形」
美優が指で示す。
「こっちは広いから、下だと思った」
教室の空気が。
少しだけ明るくなる。
後方では。
蓮も。
今度は上下を間違えなかった。
「できた」
蓮が言う。
「まだ途中」
春樹が返す。
「でも、最初は進んだ」
「うん」
「俺、成長したな」
「試作品が成長した」
「俺じゃない?」
「両方でいいんじゃない?」
なつきが言う。
蓮が笑う。
「成功と失敗が同じ中にある、か」
「覚えてたの?」
「さっき聞いたからな」
三度目の確認でも。
全部がうまくいったわけではない。
途中。
美優は別の場所で手を止めた。
蓮は。
片づける順番を逆にした。
新しい問題が。
また二つ見つかった。
それでも。
最初より。
進める距離が長くなった。
なつきは。
その変化を見て。
胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
一度で。
全部を正しくしなくてもいい。
直したら。
前より一つ進める。
また止まったら。
そこで考える。
教室の黒板には。
新しい付箋が増えていった。
『上下は形で分ける』
『補強部分を目立たせない』
『説明を探す人がいる』
『片づける順番が分かりにくい』
成功。
失敗。
どちらとも書かれていない。
全部。
次へ進むための記録だった。
窓の外が。
だいぶ暗くなってきた頃。
茜が時計を見る。
「今日は、ここまでにしよう」
「まだいける」
三浦が言う。
「下校時間」
「あと少し」
「片づけも作業です」
「委員長、現実を持ってくる」
「現実から逃げないで」
全員が。
名残惜しそうに。
それでも手を止める。
材料をまとめ。
紙を重ね。
はさみと定規を戻す。
美優と蓮も。
机の上を片づけるのを手伝った。
「今日はありがとう」
茜が言う。
「かなり参考になった」
「また呼んでくれ」
蓮が答える。
「俺、雑な人役できるから」
「役じゃなくて本人」
三浦が言う。
「お前に言われたくない」
「俺は芸術担当」
「仮だろ」
「お前まで!」
教室に。
最後の笑い声が広がる。
美優は。
試作品を一度見た。
「次は、もっと分かりやすくなる?」
「する」
なつきが答える。
「たぶん」
「たぶん?」
「絶対って言うと、また失敗したとき困るから」
「弱気」
「でも、直すよ」
なつきの声は。
弱くなかった。
美優は。
少しだけ目を細める。
「じゃあ、次も見る」
「ほんと?」
「なつきが頼むなら」
「ありがとう」
なつきが笑う。
その横で。
春樹が。
今日増えた付箋を、黒板から一枚ずつ剥がしていた。
落ちないように。
折れないように。
端を丁寧に持つ。
なつきは。
春樹の手元を見る。
最後の一枚。
『分からないと言ってもらえて良かった』
それは。
誰が書いたのか。
丸みのある字だった。
たぶん。
自分。
会議のあと。
何かの紙へ書いたものを。
茜が付箋へ写したのかもしれない。
春樹が。
その付箋を見て。
なつきへ視線を向ける。
「横田さん」
「うん」
「今日も見つかったね」
「失敗?」
「次に直すところ」
なつきは。
少し笑った。
「うん」
「落ち込んだ?」
「少し」
「今は?」
なつきは。
片づき始めた教室を見る。
美優と蓮。
十一組ラボのみんな。
黒板の。
『失敗歓迎作戦(仮)』
その下に残る。
たくさんの消し跡。
失敗は。
消えていない。
でも。
失敗だけでもない。
「今は」
なつきは答えた。
「次、作りたい」
春樹が。
小さく頷く。
「俺も」
「また一緒?」
「一緒」
短い言葉だった。
けれど。
なつきの胸の中には。
その言葉が。
今日見つけたどの改善点よりも。
長く残った。
教室の明かりが消える。
廊下へ出る。
最後に。
茜が鍵を閉める。
扉の向こうには。
未完成の試作品が残っている。
失敗した場所も。
まだ直していない場所も。
たくさんある。
それでも。
明日。
また扉を開ければ。
続きを作ることができる。
なつきは。
春樹の隣を歩いた。
少し前には。
美優と蓮。
後ろには。
三浦と紅秋。
茜たちの声。
誰かが。
今日の失敗を笑い。
誰かが。
次の案を口にする。
その輪の中で。
なつきは思った。
知らない手順は。
怖い。
自分の考えた通りに。
相手が動いてくれないことも。
分からないと言われることも。
自分だけでは見えなかった間違いを。
誰かの手で見つけられることも。
少し怖い。
けれど。
知らない手が触れたからこそ。
初めて見えるものがある。
自分一人では。
正しいと思い込んでいた形。
相手には。
違って見える場所。
それを知ることは。
失敗ではなく。
きっと。
誰かの隣へ近づくための。
新しい手順だった。




