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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第142話 十一組ラボの失敗は、教室で次の名前をもらう



 会議室の扉が閉じたあと。


 なつきは、その場からすぐには動けなかった。


 梅桜高校中央棟二階。


 放課後の廊下には、少し前まであった騒がしさが、薄い膜を一枚ずつ剥がすように減っていた。


 遠くの階段から聞こえてくる運動部の掛け声。


 吹奏楽部が音を合わせる前に鳴らした、短い金管楽器の音。


 どこかの教室で机を引きずる音。


 窓の外では、夏へ向かい始めた風が校庭の砂を撫で、白線の端をぼんやりと曖昧にしている。


 なつきは。


 胸の前で、段ボール箱を抱えていた。


 会議室へ入る前より。


 中身は、少しだけ軽くなっている。


 試作品を二つ、会議室に置いてきたからだ。


 けれど。


 代わりに箱の上には、何枚もの付箋と、書き込みの増えた資料が載っていた。


 改善点。


 確認事項。


 費用。


 安全性。


 使う側の視点。


 準備に必要な時間。


 保管場所。


 そして。


 次回までに、もう一度見せてほしいという言葉。


 箱は軽くなったはずなのに。


 なつきの腕には、さっきよりも確かな重さが残っていた。


「……終わった」


 小さく呟く。


 安堵から出た言葉なのか。


 疲れから出た言葉なのか。


 自分でも、すぐには分からなかった。


 隣に立っていた茜が、会議室の扉を一度振り返る。


「終わったっていうより、始まった感じじゃない?」


「うん」


「うん、なんだ」


「だって」


 なつきは箱の上に載った黄色い付箋を見る。


 その一枚には。


『失敗したところを、次は見せてください』


 と、丸みのある字で書かれていた。


 会議の途中。


 試作品の説明を聞いていた教師の一人が、そう言った。


 失敗したものを。


 隠すのではなく。


 捨てるのでもなく。


 次に持ってきてほしい。


 なつきには、その言葉がまだ不思議だった。


「失敗したところ、見せてくださいって言われた」


「言われたね」


「失敗なのに」


「失敗だからじゃない?」


「……失敗だから?」


「そこに、十一組ラボがどう考えたか出るってことじゃないかな」


 茜はそう言って。


 自分の胸元に抱えていたノートを開いた。


 会議中に取ったらしいメモが、几帳面な字で何ページにも続いている。


 行の端には、小さな四角が並んでいた。


 すでに対応できそうなものには斜線。


 確認が必要なものには三角。


 誰かに相談すべき項目には、人の顔らしい小さな丸まで描かれている。


 なつきは、思わずそこを見つめた。


「茜ちゃん、その丸なに?」


「担当者」


「顔?」


「一応」


「耳ある」


「人間だから」


「猫かと思った」


「じゃあ次から三角の耳つける」


「猫になるよ」


「横田さんが猫だと思うなら、最初から猫でも問題ない気がしてきた」


「担当猫」


「仕事してくれそう」


 会議室の前で。


 二人は、少しだけ笑った。


 大きな声ではなかった。


 けれど。


 扉の向こうで張りつめていた空気が、笑った分だけ肺から抜けていく。


 なつきは、箱を抱え直した。


 腕の内側に段ボールの角が当たる。


 その小さな痛みで。


 ようやく、自分が会議室の外に出たのだと実感できた。


「教室、戻ろうか」


「うん」


「たぶん、待ってる」


「誰が?」


「全員」


「……全員?」


 茜は答えず。


 ただ、眼鏡の位置を指先で直して歩き始めた。


 なつきも慌てて、その隣へ並ぶ。


 会議室へ向かうときより、廊下は空いていた。


 すれ違う生徒の数も少ない。


 それでも。


 二人が抱えている段ボール箱と資料は、十分に目を引いた。


「あれ、十一組のやつじゃない?」


「ラボの試作品?」


「会議だったんだっけ」


「通ったのかな」


 小さな声が。


 通り過ぎたあとに残る。


 直接聞かれているわけではない。


 けれど。


 なつきの耳は、一つ一つを拾ってしまう。


 通ったのかな。


 採用されたのかな。


 成功したのかな。


 そんな言葉を聞くたび。


 箱の底に入っている、形の崩れた試作品が気になった。


 角が浮いて。


 貼り直した跡が残って。


 最初に考えていた形から、何度も変わったもの。


 会議で褒められた部分もあった。


 使えそうだと言ってもらえた部分もあった。


 けれど。


 そのままで良いとは、誰も言わなかった。


 だから。


 成功したのかと聞かれたら。


 なつきは、なんと答えればいいのか分からない。


「横田さん」


「ん?」


「下向くと、付箋落ちるよ」


「あ」


 箱の上から、一枚の付箋が滑りかけていた。


 なつきが顎で押さえようとすると。


 茜が無言でそれを取る。


「今、顎で押さえようとした?」


「手、塞がってるから」


「そのまま歩いたら、付箋が横田さんの顔に貼りつくよ」


「それは困る」


「困るんだ」


「前、見えない」


「見える場所に貼れば?」


「それなら大丈夫」


「大丈夫じゃない」


 茜の声は、いつも通りだった。


 なつきの足取りが重くなったことに。


 たぶん、気づいている。


 けれど。


 無理に励まそうとはしなかった。


 大丈夫だったよ。


 成功だったよ。


 そんな簡単な言葉で、会議の時間を片づけようともしなかった。


 ただ。


 横を歩いて。


 落ちかけた付箋を拾って。


 なつきが考えすぎて廊下の真ん中で止まらないように、少しだけ話を続けてくれる。


 その距離が。


 今は、ありがたかった。


 階段の踊り場へ着く。


 西日が大きな窓から差し込み、壁の掲示物を斜めに照らしていた。


 文化祭に関する古い案内。


 進路講演会のポスター。


 部活動の大会結果。


 その下を。


 運動部らしい男子生徒が三人、階段を駆け上がってくる。


「廊下は走らない!」


 茜が言う。


 三人はほとんど同時に足を緩めた。


「すみませーん」


「委員長、今日もいる」


「委員長って二十四時間委員長なの?」


「下校するまでです」


「意外と勤務時間決まってる!」


「勤務じゃない!」


 男子生徒たちは笑いながら。


 今度は一応、歩いて上がっていった。


 その途中。


 一人がなつきの箱を見て、立ち止まりかける。


「あ、それ。十一組ラボの?」


「うん」


「どうだった?」


 聞かれた。


 なつきは、一瞬だけ迷った。


 どうだった。


 たった五文字の質問に。


 会議室であったことを、全部詰めることはできない。


 褒められた。


 直すところを言われた。


 考えていなかった問題が見つかった。


 失敗した部分を見せてほしいと言われた。


 もう一度、作ることになった。


 どれを言えばいいのか。


 その迷いが。


 少し長い沈黙になった。


 男子生徒は、答えにくいことを聞いたと思ったのか。


「あ、別に言えなかったら――」


「もう一回、作ることになった」


 なつきは答えた。


「もう一回?」


「うん。直すところ、いっぱいあったから」


「じゃあ、駄目だった?」


 胸の奥が。


 ほんの少しだけ、縮んだ。


 駄目だった。


 そう言われると。


 会議室で受け取った言葉も。


 みんなで遅くまで作り直した時間も。


 全部を否定されたように感じてしまう。


 けれど。


 その前に。


 茜が口を開いた。


「駄目だったら、もう一回はないでしょう」


 男子生徒が、茜を見る。


「……ああ、そっか」


「次を見せてほしいって言われたんだよね」


 なつきが続ける。


「へえ」


「失敗したところも」


「失敗したところも見せるの?」


「うん」


「恥ずかしくない?」


 悪意のない質問だった。


 だからこそ。


 なつきは、すぐに答えられなかった。


 恥ずかしい。


 たぶん。


 すごく恥ずかしい。


 自分たちが考えたものを人前に出して。


 ここが弱い。


 ここは危ない。


 これでは使いにくい。


 そう言われるたび。


 胸の中に、小さな穴が開くような感じがした。


 試作品を否定されているだけなのに。


 自分の考えまで浅かったと言われている気がして。


 途中から。


 資料を見るふりをして、顔を上げられなくなった時間もあった。


 でも。


「恥ずかしいけど」


 なつきは。


 箱の中にある、失敗した試作品を思い浮かべた。


「見せないと、たぶん次も同じところで失敗するから」


 言葉にすると。


 自分が思っていたよりも、真っ直ぐな答えになった。


 男子生徒は、少し目を丸くする。


「……なんか、ちゃんとしてる」


「ちゃんとしてる?」


「横田が」


「どういう意味?」


「いや、普段はもっと」


「もっと?」


「ふわっとしてる」


「ふわっと」


「今は、ちょっとラボの人っぽい」


「前からラボの人だよ」


「そうだけど」


 男子生徒は笑う。


 それから。


 階段の上で待っていた友人に呼ばれ、慌てて手を上げた。


「次できたら見せて」


「うん」


「廊下走らない!」


 茜の声が追いかける。


「もう歩いてる!」


「今、二段飛ばしした!」


「歩幅!」


「それは歩幅じゃない!」


 三人の声が、階段の上へ消えていく。


 なつきは。


 少しだけ軽くなった胸で、息を吐いた。


「茜ちゃん」


「なに?」


「駄目だったら、もう一回はないって」


「うん」


「ありがとう」


「私は事実を言っただけ」


「でも、ありがとう」


「……どういたしまして」


 茜は視線を前に向けたまま答えた。


 耳の近くの髪が、夕日に透けている。


 なつきは、それ以上言わなかった。


 二人で。


 商業科棟へ続く渡り廊下を歩く。


 渡り廊下の窓は半分だけ開いていた。


 風が通り抜けるたび。


 箱の上に載せた資料の端が、ぱらぱらと鳴る。


 茜が何度か手を伸ばし。


 飛びそうになる紙を押さえた。


「クリップ、もっと大きいのにすればよかった」


「会議室で外したから」


「戻せばよかったね」


「うん」


「でも、戻るの面倒」


「横田さんが言うと思った」


「茜ちゃんも思ってる?」


「少しだけ」


「じゃあ、このまま行こう」


「落とさないでね」


「頑張る」


「頑張るところじゃなくて、気をつけるところ」


 渡り廊下の先。


 商業科棟に近づくにつれて。


 なつきは、妙な違和感を覚え始めた。


 静かすぎる。


 もう放課後だから。


 帰った生徒も多い。


 部活動へ向かった生徒もいる。


 それでも。


 いつもなら、どこかの教室から笑い声や話し声が聞こえてくる。


 十一組には。


 まだ、十一組ラボのメンバーが残っているはずだった。


 会議へ行く前。


 春樹が言っていた。


『戻ってきたときに、すぐ直せるようにしておく』


 紅秋は。


『会議が長引いたら、先に帰る可能性はある』


 と言っていた。


 けれど。


 そのあとすぐ三浦に。


『板倉の先に帰るは、最後に教室の鍵を閉める人の言葉なんだよな』


 と言われ。


『帰る可能性の話をしただけだ』


 と返していた。


 だから。


 誰かは残っているはずなのに。


 十一組の近くまで来ても。


 話し声がしない。


「……帰ったのかな」


「どうだろう」


「電気、ついてる」


 教室の曇りガラス越しに。


 白い明かりが見える。


 なつきは歩く速度を緩めた。


 箱を抱えた腕に。


 また少し、力が入る。


 会議で言われたことを。


 どう説明しよう。


 うまく伝えられるだろうか。


 みんなは。


 がっかりしないだろうか。


 昨日。


 放課後遅くまで残って。


 何度も作り直した。


 春樹は、角の処理をやり直していた。


 紅秋は、材料費を計算し直していた。


 茜は、説明資料を整えていた。


 三浦は。


 作業中に空気が重くなるたび、どうでもいい話を始めた。


 それでも手は止めず。


 誰よりも散らかった材料を片づけていた。


 他のメンバーも。


 切って。


 貼って。


 測って。


 記録して。


 手を動かしていた。


 その結果を持っていった会議で。


 直すところが、たくさん見つかった。


 なつきは。


 それを伝える役目を任されている。


 教室の前で止まる。


「横田さん?」


「ちょっと待って」


「うん」


「言う順番、考える」


「会議の報告?」


「最初に、良かったところ言って」


「うん」


「それから、直すところ言って」


「うん」


「それから、もう一回作るって言って」


「うん」


「失敗も見せてって言われたこと言って」


「うん」


「……多い」


「資料見ながらでいいよ」


「でも」


 なつきは。


 教室の扉を見る。


「みんな、がっかりするかな」


 茜はすぐに答えなかった。


 それは。


 適当な言葉で否定しないための沈黙だった。


 廊下の窓から入った風が。


 二人の間を通る。


 箱の上の付箋が、一枚だけ揺れた。


「少しは、するかもしれない」


 茜が言う。


 なつきは箱を抱く腕に力を込めた。


「そっか」


「だって、みんな採用されたら嬉しいって思ってたから」


「うん」


「でも」


 茜の指が。


 箱の上にある付箋を押さえた。


「がっかりしたからって、やめる人たちじゃないと思う」


「……うん」


「少なくとも、大國くんはやめない」


 名前を出されて。


 なつきの目が、少しだけ上がる。


「どうして?」


「会議中、横田さんが下向いてたとき」


「うん」


「資料の端、ずっと触ってたでしょう」


「……触ってた?」


「折れそうなくらい」


「知らなかった」


「戻ってきて最初に大國くんの顔を見たら、たぶん安心すると思う」


「そうかな」


「うん」


「なんで?」


「それは本人に聞いて」


「茜ちゃんが言ったのに」


「私は委員長だけど、恋愛相談員じゃないから」


「恋愛」


 なつきの声が。


 少しだけ裏返った。


 その瞬間。


 教室の中から。


 何かが机にぶつかる音がした。


 がたん。


 続いて。


 小さく誰かが。


「三浦、押すな」


 と言った。


 茜の眉が動く。


 なつきも扉を見る。


 教室は。


 静かだった。


 静かすぎた。


「……いるよね」


「いるね」


「聞いてた?」


「どこから?」


「分からない」


「恋愛のところからだったら、三浦くんは今頃もっと騒いでる」


「その前?」


「たぶん」


 なつきは扉に手をかける。


 開ける前に。


 一度だけ、深呼吸をした。


 段ボールと。


 紙と。


 教室の床用ワックスの匂い。


 そこへ。


 窓から入る風が運んだ、少し湿った土の匂いが混ざる。


「開けるよ」


「自分の教室だから、普通に開けていいよ」


「うん」


 扉を引く。


 その瞬間。


 なつきは。


 教室の中を見て、止まった。


 誰もいないように見えた。


 机は。


 中央に寄せられている。


 十一組ラボで使っている材料も、片づけられていた。


 ただ。


 黒板の前に。


 大きな文字が書かれている。


『会議結果発表会』


 その下に。


『成功』


『失敗』


『保留』


 と三つの枠が描かれていた。


 そして。


 教卓の横。


 掃除用具入れの陰。


 カーテンの後ろ。


 一番後ろの机の下。


 明らかに人が隠れきれていない場所から。


 制服の袖や。


 靴の先や。


 髪の一部が見えていた。


 なつきは、扉を開けたまま。


 しばらく黙った。


 茜も。


 隣で黙っている。


 カーテンの下から出ている三浦の靴が。


 少しだけ動いた。


「……誰もいない」


 なつきが言う。


 教室の中の空気が。


 ぴくりと揺れた。


「帰ったみたい」


 茜が続ける。


 掃除用具入れの陰で。


 誰かが息を呑んだ。


「じゃあ、私たちも帰ろうか」


「そうだね」


 二人が扉を閉めようとすると。


「待った!」


 カーテンが勢いよく開いた。


 三浦が飛び出してくる。


「帰るの早い! 普通、一回くらい教室入るだろ!」


 同時に。


 教卓の横から紅秋が立ち上がった。


 掃除用具入れの陰から、女子生徒が二人。


 机の下から男子生徒が一人、頭をぶつけながら出てくる。


「痛っ!」


「だから机の下は狭いって言ったでしょ」


「三浦が一番広いカーテン取ったからだろ!」


「発案者特権」


「隠れる必要あった?」


 次々に声が重なる。


 その中で。


 春樹だけは。


 一番後ろの窓際に立っていた。


 隠れてはいない。


 黒板横の壁に背を預け。


 開いた本を片手に持っている。


「大國くん、最初から隠れてないじゃん!」


 三浦が指を差す。


「隠れるとは言ってない」


「言った!」


「聞いてない」


「同じ教室にいただろ!」


「本を読んでた」


「参加しろよ!」


 教室の中に。


 一気に声が戻った。


 放課後の静けさを。


 十一組の空気が押し返す。


 なつきは。


 扉の前で立ったまま。


 みんなの顔を見た。


 期待している顔。


 緊張している顔。


 結果が気になっているのに、それを隠すために笑っている顔。


 その中心で。


 春樹と目が合った。


 春樹は。


 本を閉じた。


 いつものように。


 大きな身振りはしない。


 けれど。


 なつきの抱えている箱を見て。


 それから、なつきの顔を見た。


 ほんの少しだけ。


 眉が寄る。


「重い?」


 最初に聞かれたのは。


 会議の結果ではなかった。


「……ちょっと」


 なつきが答えると。


 春樹は窓際から離れ、真っ直ぐこちらへ来た。


「持つ」


「でも」


「資料落ちそう」


「さっきも落ちそうになった」


 茜が言う。


「遠山さん」


「事実」


 春樹は。


 なつきの返事を待たずに奪うことはしなかった。


 箱の下へ両手を差し出し。


 なつきが離すのを待つ。


 なつきは。


 少しだけ迷って。


 腕の力を抜いた。


 箱の重さが。


 春樹の手へ移る。


 その瞬間。


 段ボールを抱えていた腕が、急に軽くなった。


 軽くなりすぎて。


 どこへ置けばいいか分からなくなった両手を。


 なつきは、自分の胸の前で重ねた。


「ありがとう」


「うん」


 春樹は。


 箱の中を勝手に覗くことなく。


 中央に寄せられた机まで運ぶ。


 その背中を見ながら。


 茜がさっき言っていたことを思い出す。


 最初に大國くんの顔を見たら、たぶん安心する。


 どうしてなのか。


 まだ。


 なつきには、うまく説明できない。


 ただ。


 会議室を出てからずっと胸の奥に残っていた固いものが。


 春樹に箱を渡したとき。


 少しだけ、形を失った。


「はい!」


 三浦が両手を叩く。


「では、十一組ラボ代表のお二人に、会議結果を発表していただきます!」


「代表なの?」


 なつきが聞く。


「箱持って行ったから代表」


「それなら大國も昨日ずっと持ってたぞ」


 紅秋が言う。


「大國は現場責任者」


「いつ決まった?」


「今」


「勝手に決めるな」


「板倉は会計責任者」


「それは少し合ってる」


「遠山は書類責任者」


「それも否定できない」


「俺は?」


 机の下に隠れて頭をぶつけた男子生徒が聞く。


「机の下責任者」


「役に立たない!」


「今日一番体張ってた」


「会議関係ないだろ!」


 笑いが起こる。


 それから。


 笑いが少しずつ静まると。


 全員の視線が。


 なつきと茜へ向いた。


 なつきは。


 黒板に書かれた三つの枠を見る。


 成功。


 失敗。


 保留。


 会議へ行く前。


 みんなで結果を予想して書いたのだろう。


『成功』の下には。


 三浦の字で。


『全国展開』


 と書かれている。


『失敗』の下には。


 誰かの字で。


『反省会』


 さらにその下へ、別の字で。


『お菓子あり』


『それ反省する気ある?』


 と追加されていた。


『保留』の下には。


 紅秋らしい整った字で。


『追加資料提出・再試作の可能性』


 と書かれている。


 なつきは。


 その三つを見比べた。


「どれ?」


 女子生徒の一人が聞く。


「えっと」


 全員が待つ。


 さっきまで笑っていた三浦も。


 今は口を閉じている。


 春樹は。


 なつきが持ってきた箱の横に立ち。


 急かさずに待っていた。


「たぶん」


 なつきは。


『保留』の枠へ近づいた。


 黒板の下に置かれているチョークを取る。


 白い粉が。


 指先に付いた。


「ここ」


 保留。


 その文字を。


 丸で囲む。


 教室の中に。


 小さな息が落ちた。


「そっか」


 誰かが呟く。


「保留かあ」


「一発採用ではなかったか」


「全国展開が」


「そこは最初からない」


 冗談を言う声にも。


 少しだけ落胆が混ざっていた。


 笑おうとして。


 でも。


 思ったより笑えない。


 そんな空気が。


 教室にゆっくり広がる。


 なつきは。


 その空気を見ないふりにはできなかった。


 みんな。


 期待していた。


 自分も。


 もしかしたら。


 このまま通るのではないかと、少し思っていた。


 だから。


 残念に感じることは悪くない。


 なつきは。


 チョークを置く。


「でも」


 全員の顔が上がる。


「もう一回、見せてくださいって言われた」


「もう一回?」


 三浦が聞く。


「うん」


「再提出?」


「たぶん、再試作」


 茜がノートを開く。


「改善点がいくつか出た。材料、形、保管方法、それから実際に使う人の負担。特に、準備する側が迷わないようにした方がいいって」


「やっぱりそこか」


 紅秋が。


 黒板の『保留』の下へ歩きながら言う。


「昨日、説明がないと分かりにくい箇所があった」


「うん」


 なつきが頷く。


「会議でも言われた」


「じゃあ、図を入れる?」


 女子生徒の一人が聞いた。


「文字増やしたら余計に見づらくならない?」


「色で分けるとか」


「色覚の違いも考えた方がいいって言われた」


 茜が答える。


「そこまで?」


「学校で使うなら、そこまで考えてほしいって」


 教室の空気が。


 落胆から、少しずつ別のものへ変わっていく。


 机の上に資料が広げられる。


 茜のノートを。


 紅秋が横から覗く。


 三浦も近づく。


「費用は?」


「今より抑えた方がいい。ただ、安くするために壊れやすくなるなら意味がないって」


「先生らしい」


「どの先生?」


「知らないけど、先生っぽい」


「雑だな」


「実際に使ってみた反応は?」


「そこは」


 なつきは。


 箱の上に載せてきた付箋を、一枚取った。


「良かったって」


「お」


「おお」


 教室のあちこちから声が出る。


「分かりやすいところもあったし、前より良くなったって」


「前より」


「昨日作り直した意味あったじゃん」


「うん」


 なつきは。


 付箋を黒板の『保留』の下へ貼った。


『前より使いやすくなった』


 会議中に書いてもらった言葉。


 その隣に。


 もう一枚。


『意見を受けて修正できている』


 さらに。


『実際の使用場面を、もう少し想像してください』


『説明がなくても使える形へ』


『失敗した部分も次回見せてください』


 一枚ずつ。


 黒板へ貼っていく。


 黄色。


 桃色。


 水色。


 色の違う付箋が。


 白いチョークの文字の周りに並ぶ。


 最後の一枚を貼ると。


 三浦が。


 黒板の前で腕を組んだ。


「褒められてるのか、直せって言われてるのか、どっちだ?」


「両方だろ」


 紅秋が答える。


「両方か」


「試作品なんだから、両方でいい」


「なるほど」


 三浦は頷き。


『成功』と『失敗』の枠を見た。


「じゃあ、この二つ、いらなくない?」


「いると思う」


 春樹が言った。


 それまで。


 全員のやり取りを聞いていた春樹が。


 箱の中から、形の崩れた試作品を取り出す。


 角が少し浮いている。


 貼り直した場所に皺がある。


 昨日。


 最後まで直しきれなかったものだった。


 春樹はそれを。


 机の中央へ置く。


「ここは失敗」


 浮いた角を指で示す。


「こっちは成功」


 今度は。


 前よりも使いやすくなった部分を示す。


「同じものの中に、両方ある」


 教室が。


 静かになる。


 春樹は。


 黒板を見る。


「だから、分けなくていいと思う」


「……板倉」


 三浦が。


 隣の紅秋の肩を叩く。


「大國が、なんか良いこと言った」


「聞こえてる」


 春樹が言う。


「今のは記録しよう」


「もう遠山が書いてる」


 茜は、本当にノートへ書いていた。


「遠山さん」


「使える発言は記録する」


「恥ずかしいから消して」


「会議資料に使えるかもしれない」


「使わないで」


「検討します」


「使う言い方だ」


 少しだけ。


 笑いが戻る。


 なつきは。


 机の中央に置かれた試作品を見る。


 失敗した部分と。


 成功した部分。


 同じものの中に。


 両方ある。


 会議室で。


 自分は。


 直すべき場所を言われるたび。


 試作品全部が駄目になったように感じていた。


 けれど。


 違う。


 浮いた角は失敗だった。


 前より分かりやすくなったところは成功だった。


 使う人のことを考えきれなかった部分は失敗だった。


 意見を受けて作り直せたことは。


 きっと、成功だった。


 どちらかだけではない。


 失敗したから、全部駄目ではない。


 褒められたから、全部正しいわけでもない。


 その間で。


 まだ形になりきらないものを。


 みんなで触って。


 考えて。


 直していく。


 それが。


 十一組ラボなのかもしれない。


「横田さん」


 春樹に呼ばれ。


 なつきは顔を上げる。


「会議で、一番気になったのどこ?」


「一番?」


「全部一度に直すと、また分からなくなる」


「あ」


 紅秋も頷く。


「優先順位を決めた方がいいな」


「安全面から?」


「安全面は必須。そこを除いて、最初に一つ」


 視線が。


 なつきへ集まる。


「私が決めるの?」


「会議に行った人が一番空気を分かってる」


 春樹が言う。


「遠山さんでもいいけど」


「横田さんが答えて」


 茜は。


 迷わず、なつきへ返した。


「え」


「私は記録するから」


「委員長っぽい」


「委員長です」


「こういうときだけ主張が強い」


 三浦の言葉を。


 茜は無視した。


 なつきは。


 会議の時間を思い返す。


 先生たちの顔。


 実際に試作品へ触れてくれた人。


 持ち上げ。


 裏返し。


 説明を読んで。


 途中で手を止めた人。


 そのとき。


 なつきが一番気になったこと。


「……聞かれたの」


「なにを?」


「これ、誰が準備するのって」


 なつきは。


 黒板に貼った付箋の一枚を見る。


「私たちは、自分たちで作ったから、使い方も準備の仕方も分かってた。でも、初めて見る人は分からなくて」


 教室に。


 会議室で感じた沈黙が戻ってくる。


 ただ。


 今度の沈黙は。


 なつきを責めるものではない。


 全員が。


 同じ場所を見ようとしている沈黙だった。


「説明書を作る?」


 女子生徒が聞く。


「説明書がないと使えないものにするのか?」


 紅秋が返す。


「でも、説明なしは無理じゃない?」


「全部を説明なしにする必要はない。ただ、見た瞬間に何をすればいいか分かる部分は増やせる」


「形を変える?」


「順番が分かるように置くとか」


「番号」


「番号だけだと、途中から見た人が迷うかも」


「絵をつける?」


「絵、誰が描く?」


「横田」


「私?」


「猫なら描けそう」


 茜が言う。


「さっきの担当猫」


「なにそれ」


 三浦が食いつく。


「遠山さんのノートにいる」


「見せて」


「嫌」


「一瞬」


「嫌」


「委員長の秘密、見たい」


「ただの丸です」


 話が逸れかける。


 けれど。


 今度は。


 誰も完全には脱線しなかった。


 机の上へ。


 新しい紙が置かれる。


 紅秋が線を引く。


 春樹が試作品の位置を変える。


 茜が会議で言われたことを読み上げる。


 三浦が。


「初めて見る人役、俺やる」


 と言い出す。


「三浦くん、昨日から見てるでしょ」


「記憶を消す」


「どうやって?」


「今から校庭十周して、全部忘れてくる」


「疲れるだけだ」


「じゃあ、別のクラスから連れてくる?」


「誰を?」


「さっき廊下にいた一年」


「知らない生徒を勝手に連れてこないで」


 会話が重なり。


 誰かが笑い。


 別の誰かが。


 その横で真剣に紙へ書き込んでいる。


 なつきは。


 その光景を見ていた。


 会議の結果を報告したら。


 みんなががっかりすると思っていた。


 実際。


 少しは、がっかりした。


 一発で通らなかったことに。


 昨日の形が完成ではなかったことに。


 誰も。


 何も感じなかったわけではない。


 けれど。


 がっかりしたまま。


 立ち止まる人はいなかった。


 もう。


 次の紙が広げられている。


 次の線が引かれている。


 次の案が。


 誰かの口から出ている。


 失敗を。


 なかったことにするのではなく。


 机の真ん中へ置いたまま。


 その周りに。


 みんなが集まっている。


「横田さん」


「うん?」


「座らないの?」


 春樹が。


 自分の隣の椅子を少し引いた。


 なつきは。


 そこで初めて。


 自分だけが机から一歩離れた場所に立っていたことに気づく。


「座る」


 椅子へ近づく。


 春樹の隣。


 いつもなら。


 それだけで少し意識してしまう距離。


 けれど今日は。


 箱を渡したときのように。


 自然にそこへ座れた。


 机の上には。


 失敗した試作品。


 会議資料。


 付箋。


 定規。


 ペン。


 切り残した材料。


 そして。


 春樹がさっきまで読んでいた本が、伏せて置かれている。


「本、途中だった?」


「うん」


「ごめんね」


「なんで横田さんが謝るの?」


「待ってたから」


「待ってたけど」


 春樹は。


 なつきの方を見た。


「待ちたくて待ってたから、謝らなくていい」


 教室の音が。


 一瞬だけ、遠くなった。


 紅秋が紙をめくる音。


 三浦が誰かに消しゴムを投げて、怒られている声。


 茜が。


「投げないで」


 と注意する声。


 全部聞こえているはずなのに。


 春樹の言葉だけが。


 なつきの近くに残った。


「……うん」


 それしか。


 返せなかった。


 春樹は。


 何か特別なことを言ったつもりはないらしい。


 すぐに視線を机へ戻す。


「会議、怖かった?」


 小さな声だった。


 みんなには聞こえないくらいの。


 隣に座っているなつきにだけ届く声。


「少し」


「少し?」


「……結構」


「うん」


「途中で、全部駄目なのかなって思った」


 春樹の指が。


 試作品の浮いた角を、軽く押さえる。


「全部じゃなかった」


「うん」


「でも」


 なつきは。


 自分の指先を見る。


 黒板のチョークの粉が。


 まだ少し残っていた。


「みんなに言うのも、怖かった」


「なんで?」


「がっかりするかなって」


「したと思う」


 茜と同じ答えだった。


 なつきは。


 少し驚いて、春樹を見る。


 春樹は続ける。


「俺も、少しした」


「そっか」


「昨日のが、そのまま使えたら嬉しかったから」


「うん」


「でも」


 春樹の視線が。


 教室の中央へ動く。


 三浦が。


 試作品の置き方を変え。


「これなら初見でもいける」


 と主張している。


 紅秋が。


「初見役が説明してどうする」


 と返している。


 女子生徒たちは、別の紙に簡単な絵を描き始めた。


 茜は。


 会議でもらった付箋を、内容ごとに分けている。


「がっかりしたのと、やめるのは別だから」


 春樹が言う。


 なつきは。


 ゆっくり頷いた。


「うん」


「横田さんも?」


「私も」


「なら、いい」


「うん」


「あと」


「なに?」


「会議から戻ってきたとき」


 春樹は。


 少しだけ言葉を止めた。


「横田さんが、駄目だったって顔してたから」


「そんな顔してた?」


「してた」


「どんな顔?」


「箱より重そうな顔」


「分かりにくい」


「俺には分かった」


 心臓が。


 一度だけ。


 少し強く鳴った。


 春樹は。


 そういうことを。


 時々。


 何でもない声で言う。


 大きな言葉ではない。


 周りが聞けば、聞き流してしまうくらいの言葉。


 でも。


 なつきには。


 聞き流せない。


「大國くん」


「うん?」


「箱、持ってくれてありがとう」


「さっきも聞いた」


「もう一回」


「うん」


「あと」


 なつきも。


 少しだけ言葉を止めた。


 会議室を出たあと。


 自分の中にあったものを。


 全部説明することはできない。


 けれど。


「待っててくれて、ありがとう」


 春樹は。


 すぐには答えなかった。


 目を少しだけ見開き。


 それから。


 窓の外へ視線を逃がす。


 夕日が。


 春樹の横顔に当たっていた。


「……うん」


 返ってきたのは。


 なつきと同じ。


 短い言葉だった。


 それでも。


 その短さの中に。


 さっきまでとは違う温度があった。


「そこの二人」


 突然。


 茜の声が飛んでくる。


 なつきと春樹が。


 同時に顔を上げる。


「話が終わったなら、こっち見て」


「終わってない可能性は?」


 三浦が言う。


「何の話?」


「さあ」


「三浦くん」


「はい」


「消しゴム投げた件、まだ終わってないから」


「そっち!?」


 教室に。


 また笑い声が広がる。


 なつきは。


 少し熱くなった頬を隠すように。


 机の上の紙へ視線を落とした。


 春樹も。


 咳払いを一つして。


 試作品へ手を伸ばす。


 茜は。


 二人を見たあと。


 ほんの少しだけ目を細めた。


 けれど。


 何も言わない。


「優先順位、一つ目」


 茜がノートを読み上げる。


「初めて見る人でも、準備と使用の流れが分かる形にする」


「賛成」


 紅秋が言う。


「異議なし」


「異議あり」


 三浦が手を上げる。


「なに?」


「堅い」


「会議だから」


「十一組ラボ会議に、もう少し夢がほしい」


「夢?」


「作戦名つけよう」


「いらない」


「いる!」


「時間がない」


「名前があると、やる気出るだろ!」


「出る人だけ出して」


「冷たい!」


 女子生徒の一人が。


 笑いながら言う。


「じゃあ、三浦くんが考えてる間に、こっちは進めよう」


「待って! それ、俺が置いていかれるやつ!」


「早く考えて」


「えっと、初めてでも分かるようにする作戦だから……」


 三浦は黒板を見る。


 成功。


 失敗。


 保留。


 その周りに貼られた、色とりどりの付箋。


 机の上の。


 形の崩れた試作品。


 そして。


 もう新しい線が引かれ始めた紙。


「失敗歓迎作戦」


 一瞬。


 教室が静かになる。


「……そのまま過ぎない?」


 誰かが言った。


「じゃあ、失敗大歓迎作戦」


「大をつけただけ」


「でも、悪くないかも」


 なつきが言う。


 全員の視線が。


 なつきへ向く。


「失敗、持ってきてって言われたから」


 なつきは。


 黒板に貼った付箋を見る。


「会議室でも歓迎されたし。ここでも、みんな捨てないで見てくれたから」


「お」


 三浦が。


 嬉しそうに胸を張る。


「横田から正式採用いただきました!」


「正式ではない」


 紅秋が言う。


「保留?」


「保留」


「また保留!」


「良かったな。今日のテーマに合ってる」


「保留に愛されてる!」


 笑いが起きる。


 なつきも笑った。


 今度は。


 無理にではない。


 会議室を出たときには。


 保留という言葉が。


 止められたように感じていた。


 進めないと言われたように。


 けれど。


 今。


 黒板の『保留』の下には。


 いくつもの付箋が貼られている。


 良かったところ。


 直すところ。


 次に見たいところ。


 全部が。


 保留の中にある。


 保留は。


 終わりではない。


 失敗でもない。


 まだ。


 続きを考えてもいいという場所だ。


「じゃあ」


 茜が。


 黒板へチョークを走らせる。


『失敗歓迎作戦』


 整った字で書き。


 その横に。


 小さく。


『仮』


 と付け足した。


「仮いらなくない!?」


 三浦が叫ぶ。


「正式決定ではないので」


「横田が採用した!」


「悪くないかも、と言っただけ」


「遠山、会議の言葉に厳しい!」


「正確に記録してるだけ」


「じゃあ、横田! 正式採用って言って!」


 三浦が。


 なつきへ顔を向ける。


「えっと」


 なつきは。


 黒板を見た。


 失敗歓迎作戦。


 その少し不格好な名前が。


 十一組ラボらしい気もする。


 完璧ではない。


 格好良くもない。


 でも。


 失敗を机の下へ隠さず。


 みんなで囲んで。


 次の形へ変えていく。


「仮でいいと思う」


「横田まで!」


「まだ、もっと良い名前あるかもしれないから」


「名前まで改善対象!」


「十一組ラボだから」


 なつきが言うと。


 一拍置いて。


 教室中から笑いが上がった。


 三浦は。


 黒板の『仮』を消そうとして。


 茜に手首を掴まれる。


「消さない」


「せめて鉛筆書きに!」


「黒板に鉛筆は無理」


「じゃあ薄いチョーク!」


「同じです」


 その横で。


 紅秋が。


 新しい作業表を作り始める。


「名称は仮でいい。今日中に、次回までの担当だけ決めるぞ」


「今日中?」


「もう始めてるだろ」


「帰る可能性があるって言ってたのに」


「可能性の話だ」


「やっぱり最後までいる人の言葉じゃん」


 机が。


 もう一つ中央へ寄せられる。


 椅子が鳴る。


 窓から入る風に。


 黒板の付箋が揺れる。


 一枚が剥がれかけ。


 なつきが立ち上がるより先に。


 春樹が手を伸ばして押さえた。


『失敗した部分も次回見せてください』


 その付箋を。


 春樹は。


 さっきより強く、黒板へ貼り直す。


「落ちない?」


 なつきが聞く。


「たぶん」


「また落ちたら?」


「そのとき、貼り直す」


「何回でも?」


「必要なら」


 春樹の指が離れる。


 付箋は。


 今度はしっかりと黒板に残った。


 なつきは。


 その言葉を聞きながら。


 付箋ではない何かを、胸の中へ貼り直されたような気がした。


 失敗したら。


 貼り直す。


 落ちたら。


 拾う。


 形が違ったら。


 作り直す。


 一人で難しいなら。


 誰かと持つ。


 それは。


 試作品だけの話ではないのかもしれない。


 人との距離も。


 言えなかった言葉も。


 思っていた形にならなかった一日も。


 一度で正解にしなくていい。


 なつきは。


 春樹の隣へ座り直した。


「大國くん」


「うん?」


「次も、一緒に作る?」


 聞いたあとで。


 少しだけ変な質問だったと思った。


 春樹は。


 十一組ラボのメンバーなのだから。


 一緒に作るに決まっている。


 けれど。


 春樹は笑わなかった。


 なつきの方を見て。


 ごく自然に答えた。


「作る」


「失敗しても?」


「そのためのラボじゃないの?」


「……うん」


「横田さんは?」


「作る」


「じゃあ、一緒」


「うん」


 教室の中では。


 次の試作品について。


 もう新しい意見が飛び交っている。


 誰かの案に。


 別の誰かが疑問を出す。


 少し黙り。


 また別の案が出る。


 笑い声が挟まり。


 机の上に線が増えていく。


 放課後の校舎は。


 少しずつ夕方の色へ沈み始めていた。


 部活動の声も。


 遠くなる。


 廊下を歩く人影も減っている。


 それでも。


 十一組の教室だけは。


 まだ終わらなかった。


 黒板の中央には。


『保留』


 という文字。


 その下には。


『失敗歓迎作戦(仮)』


 そして。


 色の違う付箋が、何枚も並んでいる。


 成功だけでは。


 次へ進めない。


 失敗だけでも。


 次へ進めない。


 その両方を。


 同じ机の上に置いて。


 誰かと一緒に考えたとき。


 失敗は。


 ようやく。


 次の名前をもらう。


 改善点。


 再試作。


 可能性。


 そして。


 まだ続けていいという許可。


「横田さん、ここ押さえて」


「うん」


「大國、そっち測って」


「分かった」


「三浦くん、勝手に切らない!」


「まだ切ってない!」


「はさみ持ってる!」


「持ってるだけ!」


「掃除用具のところでも、同じ会話聞いた気がする」


 なつきが呟く。


「なに?」


「ううん」


 笑いながら。


 紙の端を押さえる。


 そのすぐ隣で。


 春樹の手が。


 定規を真っ直ぐに置く。


 二人の指先は。


 触れそうで。


 触れない。


 けれど。


 同じ紙の上に。


 同じ次の形を描いていた。

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