第135話 企画会議は、案より先に収拾がつかない
第一回実行委員会を終えた翌朝。
梅桜高校の校舎には、前日までとは少し違う空気が流れていた。
秋季交流週間の企画案が掲示され、各クラスの実行委員も決まり、放課後には最初の会議まで行われた。
まだ行事が始まったわけではない。
校内に飾りが増えたわけでもなければ、授業の時間割が変わったわけでもない。
それでも廊下を歩けば、どこかの教室から企画の話が聞こえてくる。
「うちのクラス、スポーツ体験を出したらしいよ」
「特進は学習相談だって」
「商業科は店やるんでしょ?」
「店って何を売るの?」
「知らない。夢じゃない?」
「夢は売れないでしょ」
朝からすでに、正確な情報と想像と噂が混ざり合っていた。
中央棟の掲示板には、昨日貼られた企画一覧がまだ残っている。
昨日ほどの混雑はないものの、足を止めて眺める生徒は多い。
その前を通ったなつきは、掲示板の一角へ目を向けた。
『学科・地域交流体験ブース』
昨日の会議で、自分達のグループから提出した案。
正式採用ではない。
候補案としてまとめられただけだ。
けれど、クラスで出た意見を会議室まで運び、知らない生徒達と話し合い、一つの形へまとめた。
名前は固い。
内容も、まだ輪郭しかない。
それでも。
自分が関わって生まれた案だった。
なつきは歩く速度をほんの少し緩めた。
「昨日より、ちゃんと見えるね」
隣を歩いていた亜衣が、掲示板を見ながら言った。
「昨日は人の頭しか見えなかったから」
「正確には、人の頭と、圭くんの失言が聞こえた」
「朝から思い出させないで」
「廊下の向こうまで聞こえたらしいよ。三年生の間でも、恋愛優先道路って何だったのかって話になってるらしい」
なつきの足が止まりそうになった。
「どうして三年生まで知ってるの?」
「全校生徒が集まってる場所で叫んだからじゃない?」
「圭くん……」
怒るよりも先に、深いため息が出た。
思い出す。
人混みの中。
春樹と離れ。
声で見つけ合った。
そこまでは、なつきにとって大切な記憶だった。
その直後。
圭が大声で作った、不名誉な通路。
なつきの記憶の中では、春樹の「見つけた」と圭の「恋愛優先道路」が、ほぼ同じ場面に住み着いている。
片方だけ思い出そうとしても、もう一方が勝手についてくる。
「でも、結果だけ見れば実行委員が前に行けたし、怪我もなかったでしょう?」
後ろを歩いていた茜が、穏やかな声で言った。
「茜ちゃんまで圭くんを擁護するの?」
「行動そのものではなく、結果の一部だけよ。表現は完全に余計だったと思うわ」
「よかった」
「昨日、本人も謝っていたでしょう?」
「半分だけ許した」
「残り半分は?」
亜衣が聞く。
「今日、大人しくできたら少し考える」
「つまり圭くんの更生観察期間」
「そういうこと」
なつきが答えると、亜衣が声を立てて笑った。
朝の冷えた空気の中へ、その笑いが軽く広がる。
なつきも少しだけ笑った。
昨日は疲れた。
人混み。
クラスへの呼びかけ。
初めての会議。
知らない生徒達との話し合い。
帰宅してからも、頭の中には資料の文言や会議室の声が残っていた。
布団へ入ったあと。
今日できたこと。
できなかったこと。
もっと言えたかもしれない言葉。
春樹に助けてもらった場面。
自分が春樹を助けられたと知った場面。
それらを何度も思い返した。
眠りにつく直前。
最後に残っていたのは、春樹の言葉だった。
――今日の横田さんは、今日できること全部してた。
百点だと言われるより、嬉しかった。
なつき自身が感じていた不完全さを、否定しない言葉だったから。
完璧ではなかった。
でも、逃げなかった。
今の自分にできることは、やった。
それでいいのだと。
春樹に言ってもらえた気がした。
◇
二年十一組の教室へ近づくにつれ、聞き慣れた声が廊下まで届いてきた。
「だから今日は大人しくするって言ってるだろ」
「朝から大声で宣言している時点で、すでに大人しくない」
「これは決意表明」
「静かに決意しろ」
圭と紅秋。
昨日と同じ。
いや。
圭の声量を考えれば、昨日より少し元気かもしれない。
なつきが教室へ入ると、圭は自分の席の横に立ち、紅秋へ何かを熱心に説明していた。
机の上には、祐衣から借りた本。
その隣に、ノートが一冊開かれている。
珍しく、文字が細かく書かれていた。
「おはよう」
春樹が、斜め後ろの席から声をかけた。
昨日の会議で使った資料を読んでいる。
なつきは自分の席へ鞄を置きながら、春樹の顔を見た。
「おはよう。今日も早いね」
「横田さんも。昨日、疲れて寝坊するかと思った」
「ちょっと危なかった。目覚まし止めた記憶がなくて、気づいたら五分経ってた」
「間に合ったならよかった」
「春樹くんは平気だった?」
「帰ってから資料を整理して、いつもより少し遅く寝た。でも朝は起きられた」
「整理したの?」
なつきが少し驚くと、春樹は机の上のノートを見せた。
昨日の会議内容が、項目別にまとめられている。
提出期限。
企画候補。
次回までに確認すること。
クラスで聞く内容。
なつきが自分のノートへ書いたものより、ずっと簡潔で見やすい。
「すごい。昨日あんなに長い会議だったのに、これだけにまとまるんだ」
「同じことを何回か言ってたから、重なってるところを消した」
「私のノート、ほとんど会議の再放送みたいになってる」
「あとで一緒に見ればいい。横田さんの方にしか書いてないこともあると思う」
春樹は、自分のノートだけで十分だとは言わなかった。
なつきが書いたものも必要だと、自然に残した。
昨日と同じ。
片方が全部を持つのではなく。
二人の記録を重ねる。
「ホームルームの前に少し見る?」
なつきが聞くと、春樹は時計へ目を向けた。
「時間はある。でも、圭が朝から企画を増やしてる」
「増やしてる?」
その言葉に反応したように、圭が勢いよく振り返った。
「聞いてくれ、実行委員」
「嫌な呼び方」
なつきが警戒すると、圭は胸の前で両手を合わせた。
「今日は真面目な提案。本当に真面目。昨日の会議を踏まえて、巨大人生ゲームを現実的な規模へ縮小した」
「まだ諦めてなかったの?」
「夢は形を変えて生き残る」
紅秋が冷静に補足する。
「内容を聞いたが、縮小後も十分大きい」
「どれくらい?」
なつきが尋ねると、圭は机の上のノートを指した。
校舎の簡単な見取り図。
教室。
廊下。
階段。
各所へ矢印が描かれ、丸い印がつけられている。
「校内人生ゲーム」
「縮小してない」
なつきが即座に言うと、教室の近くにいた生徒達が笑った。
圭は負けずに説明を続ける。
「昨日は体育館に巨大な盤面を作る案だった。でも準備と場所の問題で却下された。だったら、校内そのものを盤面にすればいい」
「学校全部使う方が規模が大きいだろ」
田辺が、教室へ入ってきながら言った。
その後ろから島中も顔を出す。
「圭、朝からまた始めてるの?」
「改善案」
「改悪案じゃなくて?」
「参加者は班ごとに校内を移動して、止まった場所でミッションをする。簿記問題に正解したら三マス進む。体育館でシュート入れたら二マス。図書室で指定の本を見つけたら一マス」
島中が少しだけ考えた。
「内容だけ聞くと、交流企画っぽい」
「だろ?」
「でも校内を人生ゲームにする必要はない」
「そこが核」
「切り捨てろ、その核」
田辺が圭のノートを覗き込む。
「保健室のマスは?」
「一回休み」
「縁起悪い」
「職員室は?」
「先生から課題」
「誰が協力してくれるんだ」
「交渉」
紅秋が淡々と言った。
「お前が最初にすべきことは、案を増やすことではなく、実現に必要な許可を数えることだ。校内全域、各特別教室、部活動施設、図書室、職員室。最低でも複数の先生と委員会へ承認を取る必要がある。参加者の移動管理も必要になる」
圭は、ノートへ視線を落とした。
「多いな」
「今気づいたのか?」
「でも、夢がある」
「夢だけでは人は動かせない」
「紅秋、朝から現実が硬い」
「現実は朝でも夜でも同じだ」
周囲からまた笑いが起こる。
なつきは自分の席へ座り、圭のノートを少し遠くから見た。
無茶だ。
確かに規模が大きすぎる。
けれど。
昨日の会議で出た、学科ごとの体験を組み合わせる案とは、どこか通じている。
「全部は無理だと思うけど、校内を回って、学科ごとの小さい課題に挑戦する部分は使えるかも」
なつきが言うと、圭の顔が一気に明るくなった。
「横田、分かってる!」
「全部採用じゃないよ」
「一部でも夢は生きる」
春樹も、圭の見取り図へ目を向ける。
「スタンプ企画と合わせられるかもしれない」
「ほら、春樹も!」
「人生ゲームにはしない」
「二人とも核を捨てる」
島中が笑いながら、圭の肩を叩いた。
「諦めろ。お前の人生ゲームは、ゲーム部分を失ってスタンプラリーになる運命だ」
「人生には妥協が必要」
田辺が言う。
「まだ企画の話だろ」
圭はしばらく自分のノートを見つめ。
やがて、人生ゲームと書いた部分へ一本線を引いた。
「学科交流ミッションラリー」
「急に現実的」
亜衣が自分の席から言った。
「名前変えただけで、先生に出せそうになった」
「俺、成長した?」
「紅秋くんに削られただけ」
「共同制作」
圭は満足そうに頷いた。
なつきは、そのやり取りを見ながら少しだけ笑った。
昨日。
会議室で知った。
最初から完成した意見ばかりが集まるわけではない。
大きすぎる案。
曖昧な案。
冗談から始まる案。
それを。
否定して終わらせるのではなく。
使える部分を見つける。
削る。
組み合わせる。
圭の無茶な提案も。
少し手を加えれば。
本当に企画の一部になるかもしれない。
実行委員の仕事は。
誰かの案へ丸か、バツをつけるだけではない。
そこにある良い部分を拾い。
形へ変えることなのだろう。
「横田さん」
春樹が小さな声で呼んだ。
「何?」
「今、実行委員の顔してた」
なつきは目を瞬かせた。
「どんな顔?」
「圭の案を本気で考えてた」
「それだけ?」
「前なら、無理って笑って終わってたかもしれない」
「……そうかも」
圭の案に限らず。
以前のなつきなら。
自分には関係ない。
決める人が決める。
そう思っていた。
今は。
自分達が会議へ持っていくかもしれない。
クラスの誰かの言葉を。
聞き流してはいけないと思う。
「昨日、聞く人も必要だって言われたから」
なつきが答えると、春樹は少しだけ考えてから言った。
「横田さんは、もう前から聞いてた。ただ、自分が聞けてるって気づいてなかっただけだと思う」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
春樹は。
褒めるために大きな言葉を使わない。
でも。
なつき自身が見落としていたものを、見つけてくれる。
「春樹くんは?」
「俺?」
「春樹くんも、前から人の話を聞いてる。でも、前より自分の考えを言うようになった」
なつきは、圭のノートへ向けた春樹の視線を思い出す。
「さっきも、スタンプ企画と合わせられるって言ったでしょう。春樹くんが言わなかったら、私はそこまで考えられなかった」
春樹は、少しだけ目を伏せた。
照れているのか。
考えているのか。
以前よりは分かる。
けれど。
全部を決めつけない。
春樹が言葉を選ぶ時間を、なつきは待った。
「じゃあ」
春樹は、机の上の資料を指先で揃えた。
「二人とも、少しずつ実行委員になってる」
「昨日、決まったばかりなのに?」
「昨日よりは」
なつきは、ゆっくり笑った。
「それなら、今日も少し増やしたい」
「何を?」
「できること」
春樹も、ほんの少しだけ笑った。
◇
朝のホームルーム。
担任は教室へ入ると、いつもより先に春樹となつきへ視線を向けた。
「大國くん、横田さん。昨日の実行委員会、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
なつきが答え。
春樹も小さく頭を下げる。
教室の視線が二人へ集まった。
昨日の帰りに簡単な報告はしている。
けれど。
今日は、会議内容を正式にクラスへ伝えることになっている。
「朝の連絡事項の後、十分ほど時間を取ります。会議の報告をお願いします」
「分かりました」
なつきが答えた瞬間。
胸の奥が少しだけ重くなった。
十分。
教室の前へ立つのか。
席から話すのか。
昨日は。
昼休みの騒がしい教室で。
その場の勢いもあった。
今日は。
全員が自分達の説明を聞く。
正式な報告。
資料。
提出期限。
企画案。
間違えてはいけない。
なつきは、机の中へ入れていたノートを一度確認した。
昨日のまま。
書き込みが多く。
矢印が飛び。
途中に丸や星があり。
本人以外には理解できないページが混ざっている。
隣では。
春樹のノートが。
見出しと箇条書きで整理されている。
「春樹くん」
ホームルームが始まる前の短い時間。
なつきは後ろを振り返った。
「私のノート、昨日の熱量がそのまま残りすぎて、報告に向いてないかも」
春樹は、なつきの開いたページを見た。
「内容は多い」
「褒めてる?」
「記録としては。でも、そのまま読むと十分で終わらない」
「やっぱり」
「俺のノートを使う?」
「全部任せるのは嫌」
なつきは、すぐにそう答えた。
自分でも。
迷いなく言えたことが少し嬉しかった。
「春樹くんが日程と提出物。私は企画案と、クラスで次に考えてほしいことを話すのはどう?」
「いいと思う。最初の挨拶は?」
なつきは一瞬黙った。
教室の前。
最初に声を出す。
昨日も。
最初の一声が一番難しかった。
だが。
そこを避ければ。
また春樹へ任せきりになる。
「私がやる」
「無理してない?」
「緊張はする。でも、最初に話し始められたら、その後は少し楽になるって昨日分かったから」
春樹は、なつきの顔をしばらく見た。
止めるのではなく。
確認するような視線。
「途中で止まったら、続きは俺が言う」
「ありがとう。でも、少し待ってからにして」
「どれくらい?」
「三秒くらい」
「分かった。三秒待つ」
「五秒は長いから」
「三秒」
隣で聞いていた圭が、静かに片手を上げた。
「俺も三秒待ってから応援する」
「圭くんは最後まで待って」
「十分?」
「ホームルームが終わるまで」
「それは待ちすぎ」
教室に小さな笑いが起きる。
紅秋が、圭の机を指先で軽く叩いた。
「今日は更生観察中だろう」
「覚えてたの?」
「横田さんが朝、廊下で言っていた」
なつきが紅秋を見る。
「聞こえてた?」
「圭の名前が出ていたから、本人へ共有しておくべきだと思った」
「個人情報の扱いが雑」
圭が言う。
「更生状況は公開情報だ」
田辺が笑い。
島中が机へ伏せるように肩を揺らした。
担任が教卓を軽く叩く。
「そろそろ始めますよ」
教室の笑い声が収まっていく。
◇
出席確認。
提出物。
進路関係の連絡。
担任の話が進む。
なつきは、自分のノートの中から。
報告に必要な部分だけを別の紙へ書き出した。
字が少しだけ震える。
緊張している。
でも。
昨日のように、何も考えられなくなるほどではない。
話す順番。
一、挨拶。
二、交流週間の日程。
三、昨日の会議で決まったこと。
四、クラス案の現状。
五、次回までに考えてほしいこと。
なつきは、その番号を見ながら一度呼吸を整えた。
「では」
担任が出席簿を閉じる。
「実行委員から、昨日の会議について報告してもらいます。大國くん、横田さん、前へお願いします」
やはり。
前へ立つ。
なつきは椅子から立ち上がった。
足が少しだけ重い。
教室の前まで。
数歩。
今まで何度も歩いている距離。
それなのに。
自分へ視線が集まっていると思うと、床が少し遠く感じる。
春樹も資料を持ち、隣へ並んだ。
二人が教卓の横へ立つ。
教室全体が見える。
亜衣。
茜。
圭。
島中。
田辺。
紅秋。
いつものクラスメイト達。
知っている顔。
昨日の会議室より、人数は少ない。
それでも。
自分のクラスだからこそ、失敗したくない気持ちもある。
なつきは、持っている紙へ目を落とした。
最初の言葉。
書いてある。
読めばいい。
けれど。
声が出る前に、喉の奥で一度止まった。
一秒。
二秒。
春樹は何も言わない。
三秒を待ってくれている。
なつきは、顔を上げた。
「昨日は、第一回の実行委員会へ参加してきました」
声は。
自分が思っていたより、教室の後ろまで届いた。
「最初に全体の日程や企画の説明があり、その後、学年ごとに分かれて案を出し合いました。今日は、これからクラスで決める必要があることを中心に報告します」
言えた。
最初の一文を越えた。
少しだけ呼吸が戻る。
「まず、日程と提出物については、大國くんから説明してもらいます」
なつきが春樹を見る。
自然に視線を渡す。
春樹が一歩だけ前へ出た。
「秋季交流週間は、来月の月曜から金曜までの五日間です。通常授業を行いながら、昼休みと放課後、一部の授業時間を使って企画を進めます」
春樹の声は大きくない。
だが。
教室が静かに聞いているため、十分届く。
「次回の実行委員会までに、クラス案の内容をもう少し具体的にします。提出期限は来週水曜。展示や体験企画で必要になる場所、人数、準備物も考える必要があります」
春樹が話している間。
なつきは教室の反応を見た。
圭は、今日は本当に静かに聞いている。
島中は腕を組み。
田辺は資料のない机へ指で何かを書いている。
女子達も。
昨日より真剣な表情で聞いている。
春樹の説明が終わる。
なつきが続ける。
「昨日、二年十組と十二組の実行委員と一緒に話して、私達のクラスから出た案の中では、学科ごとの授業体験と、地域のお店や産業を紹介する案を組み合わせる方向になりました」
教室の何人かが小さく反応する。
「それが、学科・地域交流体験ブース?」
女子の一人が聞いた。
「そう。ただ、まだ名前も内容も仮の段階です。簿記の簡単な体験や、商業科の販売企画と地域紹介をつなげる案が出ています」
「昨日出した読書案は?」
圭が、勢いを抑えた声で聞く。
「図書委員会の企画と重なる部分があるから、別で協力できるかもしれないって話になってる」
「消えたわけじゃない?」
「消えてないよ。会議で全部を一つに入れるより、似た企画同士で協力した方がいいって言われた」
圭は納得したように頷いた。
以前なら。
自分の案が中心に入っていないと、もっと騒いだかもしれない。
今は。
話を最後まで聞いている。
なつきは続けた。
「それと、今日から、企画の内容をもっと具体的に考えたいです。何を体験してもらうのか。誰が説明するのか。どれくらいの時間が必要なのか。場所はどこにするのか。案を出すだけじゃなくて、実際にできる形まで考える必要があります」
ここから。
書いた文章にはない。
昨日。
なつきが会議で感じたこと。
自分の言葉。
少しだけ怖い。
でも。
伝えたい。
「正直、昨日までは」
なつきは、一度言葉を切った。
教室の全員が聞いている。
「私は、企画を考えるって、面白そうなことを出して、その中から誰かが選ぶことだと思ってました。でも、昨日話してみたら、最初から完成している案はほとんどなくて。大きすぎたり、曖昧だったり、別の案と似ていたりしました」
圭が少しだけ自分のノートを見る。
巨大人生ゲーム。
なつきは、圭だけを見ずに続けた。
「だから、出された案をすぐに無理だって消すんじゃなくて、どこなら使えるかをみんなで考えたいです。声の大きい人だけじゃなくて、まだ言ってない人の意見も聞きたいと思ってます」
教室が。
ほんの少し静かになる。
担任も。
なつきを見ている。
「私も、まだ実行委員になったばかりで、うまくできないことがあると思います。大國くんも私も、分からない時は聞きます。だから、みんなも、気づいたことがあったら教えてください」
言い終えた。
手に持った紙へ目を落とす。
最後の行。
以上です。
その前に。
春樹が隣から言った。
「俺からも、一つあります」
なつきは顔を上げる。
打ち合わせにはなかった。
春樹は教室全体を見た。
「昨日、横田さんがクラスの意見を聞いた時、最初に出た案だけじゃなくて、まだ話してない人にも聞いてました。会議でも、俺が書けなかった部分を覚えてました」
なつきの胸が鳴る。
春樹は続ける。
「俺は、日程や内容を整理する方をやります。横田さんは、みんなの話を聞く方が得意だと思います。でも、役割を完全に分けるつもりはありません。二人で確認して、クラスへ戻します」
春樹の言葉は。
短く。
整っている。
でも。
なつきのことを。
みんなの前で、きちんと伝えてくれた。
「だから」
春樹は少しだけ言葉を探した。
「意見がある人は、どちらに言っても大丈夫です」
教室の後方。
圭が。
静かに片手を上げた。
担任が圭を見る。
「三浦くん。質問ですか?」
「拍手していいですか?」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
教室中に笑いが起きた。
なつきは。
緊張が一気にほどけ、思わず下を向いた。
担任も少し笑っている。
「報告が終わったのなら、どうぞ」
圭が拍手をする。
亜衣。
茜。
田辺。
島中。
紅秋。
少しずつ。
教室全体へ拍手が広がった。
昨日の立候補の時とは違う。
役目を引き受けた二人へではなく。
最初の報告を終えた二人へ。
なつきは。
顔を上げる。
「ありがとうございました」
声が、今度は震えなかった。
◇
二人が席へ戻ると。
圭が待ちきれない様子で振り返った。
「俺、最後まで静かだった」
「拍手で目立った」
紅秋が言う。
「拍手はいいだろ」
「先生へ許可を取った点は評価する」
「更生進んだ?」
なつきは、椅子へ座りながら少し考えた。
「恋愛優先道路を叫ばなかった」
「今日は道路がなかった」
「教室で作られても困る」
「じゃあ、半分から七割?」
「六割」
「刻むなあ」
圭が笑った。
島中が、なつきへ声をかける。
「横田、昨日より声出てた」
「本当?」
「昨日は途中からだったけど、今日は最初から聞こえた。ちゃんと説明にもなってた」
田辺も頷く。
「内容も分かりやすかった。で、結局、俺らは何を決めればいい?」
「そこ聞いてた?」
島中が笑う。
「聞いてたから確認してんだよ。体験内容と、人数と、場所だろ?」
「合ってる」
「ならいい」
田辺は、自分の机の上へ腕を置いた。
「商業科の体験って、簿記だけだと地味じゃないか?」
率直な一言。
教室の何人かが頷く。
「それは私も思った」
亜衣が言う。
「商業科の授業、簿記だけじゃないし。パソコン使ったり、広告考えたり、販売の練習もあるでしょう?」
「全部やると時間足りない」
紅秋が言った。
「複数の小さな体験に分ければいい。五分から十分で終わるものを用意して、来場者に選ばせる」
「それならミッションラリーと合う!」
圭が立ち上がりそうになり。
紅秋の視線を受けて、座ったまま手だけ上げた。
「座って提案した。成長」
「自分で評価するな」
教室に笑いが起きる。
担任は時計を見る。
「残り時間は五分ほどです。話し合いを続ける場合は、昼休みか次回のホームルームを使ってください」
圭が即座に言う。
「五分で企画完成させよう」
「無理」
複数の声が重なる。
「じゃあ方向だけ」
島中が言った。
「体験を一個に絞るか、何個か用意するか」
茜が前の席から振り返る。
「先に、企画の目的を決めた方がいいと思うわ。商業科を知ってもらいたいのか、他学科と一緒に何かを作りたいのか。そこが曖昧だと、内容が散らばるでしょう?」
教室が少しだけ静かになる。
茜の言葉は。
いつも話を一段上から整理する。
「交流週間だから、商業科を見せるだけじゃなくて、相手にも参加してもらう方がいいと思う」
女子の一人が言った。
「簿記を教えるだけだと、授業見学みたい」
「じゃあ、簡単な店づくりは?」
別の女子が続ける。
「他学科の人に商品を考えてもらって、商業科が値段や広告を一緒に考える」
「面白そう」
「でも一回で終わる?」
「小さい商品カードなら」
圭が手を上げる。
「仮想店舗」
今回は。
全員がすぐ否定しなかった。
圭は少し得意そうに続ける。
「本物の販売は準備が大変。でも紙の上なら、班ごとに架空の商品を考えて、値段と宣伝文句を作れる。商業科が利益とか広告の考え方を少し説明する」
紅秋も考える。
「それなら短時間でできる。地域紹介とも合わせるなら、地元の食材や特産品を題材にできる」
「地域の新商品を考える?」
亜衣が言う。
「茨城のもの使って」
「納豆」
田辺が即答する。
「早い」
島中が笑う。
「茨城だからって全部納豆にするな」
「分かりやすいだろ」
「納豆味の飲み物」
「売れない」
「納豆香水」
「教室から人いなくなる」
「納豆制服」
「何を作る企画なんだよ」
教室中が笑いに包まれる。
担任まで、口元を少し緩めている。
「田辺案、納豆以外ないの?」
なつきが聞く。
「干し芋」
「急に現実的」
「メロン」
「いいね」
「常陸牛」
「予算が上がった」
「企画は紙だから無料」
圭が言う。
「田辺、今日は強い」
「茨城の物なら出る」
「地元愛?」
「食べ物」
「そっちか」
笑いが続く。
でも。
企画の輪郭は、少し見え始めていた。
地元のものを使い。
他学科と班を作り。
架空の商品を考える。
商業科が。
価格。
広告。
販売方法。
簡単な利益計算を補助する。
ただ授業を見せるのではない。
一緒に作る。
「これ」
なつきが言った。
笑いが少し収まる。
「昨日の会議で出た、地域紹介と学科体験を、両方入れられるかもしれない」
春樹も、ノートへ短く書きながら言う。
「仮想商品企画。地元の素材。学科混合の班」
「名前が固い」
島中が言う。
「名前は後」
紅秋が返す。
「まず内容をまとめる」
圭が手を上げる。
「茨城ドリームショップ」
「夢から離れろ」
「名前候補」
「保留」
担任が時計を見る。
「時間です。続きは昼休みにしてください」
チャイムが鳴る。
話の途中。
まだ言いたいことが残っている。
生徒達の声が一度に上がる。
「昼、続きやろう」
「紙必要じゃない?」
「商品案考えてくる」
「納豆は禁止?」
「禁止じゃないけど一個まで」
「誰が決めた」
「被るから」
教室が。
授業前とは思えないほど、企画の話で満たされていた。
なつきは席へ戻りながら。
不思議な感覚を覚えていた。
最初は。
実行委員二人が。
会議の内容を報告するだけの時間だった。
今は。
圭の無茶な案。
紅秋の整理。
茜の問い。
亜衣の発想。
島中の現実的な指摘。
田辺の食べ物知識。
女子達の小さな提案。
全部が。
一つの方向へ集まり始めている。
実行委員が企画を作るのではない。
クラスが作る。
春樹となつきは。
それを拾い。
つなぎ。
会議へ運ぶ。
昨日。
担任が言った。
実行委員だけですべてを行うわけではない。
今。
その意味が、少し分かった。
◇
一時間目の授業が始まった。
教室の空気は、まだ企画会議の熱を残している。
先生が黒板へ文字を書き始めても。
ノートの端へ、商品名を考えている生徒。
昼休みに使う紙の大きさを相談する生徒。
田辺は、本当に納豆商品を考えているらしく、何度も指を折っていた。
圭は。
人生ゲームの見取り図を裏返し。
新しく「学科交流ミッション」と書き直している。
紅秋が授業前に没収しようとしたが。
「授業中に触らないならいい」
と条件をつけて許したらしい。
なつきは黒板を見ながら。
時々。
自分のノートの端へ書いた一文を見た。
『地元の素材で、学科混合の商品企画』
まだ仮。
完成ではない。
でも。
教室全体が。
少しだけ同じ方向を見始めている。
斜め後ろから。
春樹が小さな紙を回してきた。
なつきは。
一瞬だけ周囲を確認し。
机の下で開いた。
『最初、三秒だった』
なつきは。
意味を考え。
すぐに分かった。
教室の前で。
最初の言葉が出るまで。
春樹が待った時間。
なつきは、ノートの端へ返事を書く。
『本当に数えてたの?』
後ろへ回す。
少しして。
『約束したから』
戻ってくる。
胸が、ゆっくり温かくなる。
なつきは、次の言葉を書く前に少し考えた。
『待ってくれたから言えた』
それだけではなく。
もう一行。
『でも、次は二秒にしたい』
紙を返す。
春樹は読み。
少しだけ顔を上げた。
なつきの背中を見る。
返事は。
授業が終わるまで戻ってこなかった。
◇
休み時間。
春樹から声がかかる。
「横田さん」
なつきが振り返ると。
春樹は、さっきの紙を指先で持っていた。
「二秒にするの?」
「すぐ話せるようになりたいって意味。春樹くんが待ってくれなくていいって意味じゃないよ」
「分かってる」
春樹は紙を折り直した。
「でも、急がなくていいと思う」
「どうして?」
「三秒で言えたなら、次も三秒でもできたことは同じだから。二秒にならなくても、失敗じゃない」
なつきは。
すぐに返事をしなかった。
春樹の言葉を。
胸の中で一度受け止める。
自分は。
できるようになることを。
いつの間にか、速くなることと結びつけていた。
昨日より早く。
前より大きく。
もっと自然に。
もちろん。
成長したい。
でも。
時間がかかっても。
言えたこと自体は変わらない。
「春樹くんって」
なつきは、少し笑った。
「私が自分に点数つけようとすると、いつも違う測り方を出してくるね」
「悪い?」
「ううん。助かってる」
「ならよかった」
「でも、春樹くんも同じだからね」
「俺も?」
「自己紹介とか、みんなの前で話す時。時間がかかっても、言えたならそれでいいって、自分にも言って」
春樹は少し黙った。
なつきは。
その沈黙を急かさなかった。
「自分だと」
春樹が、ゆっくり言う。
「言葉が遅いのは、相手を待たせてるだけだと思うことがある」
「私は待ってると思ってないよ。春樹くんが考えてる時間だと思ってる」
「みんなも?」
「全員が同じとは限らない。でも、実行委員として一緒に話す時は、私が待つ。それに、必要なら『少し考えます』って先に言えば、相手も待ちやすいと思う」
昨日の国語。
対話。
違う考え。
相手に分かるように伝える。
なつきは。
自分が授業で考えたことを。
春樹へ返していた。
「少し考えます」
春樹が繰り返す。
「それなら、沈黙だけにならない」
「うん。私も使う」
「一緒?」
「実行委員の共通装備」
春樹の口元が、少しだけ緩んだ。
「黒猫じゃないんだ」
なつきは一瞬だけ目を丸くし。
それから笑った。
「今日は出番少なめ」
「そっか」
「黒猫がなくても話せる時間、増やしたいから」
その言葉を口にして。
なつきは。
少しだけ自分の変化を感じた。
黒猫は大切。
春樹との思い出。
自分の気持ちを支えてくれたもの。
でも。
いつも握らなければ何もできないわけではない。
今日。
教室の前へ立った時も。
手には紙があった。
隣には春樹がいた。
それで言えた。
「出番が必要な時は?」
春樹が聞く。
「その時は借りる。でも、毎回じゃなくていい」
「分かった」
春樹は、なつきの言葉を。
大切なこととして覚えるように頷いた。
◇
昼休み。
二年十一組の教室は。
いつもの昼食の時間とは違う形へ変わっていた。
机を中央へ寄せ。
大きな紙を広げる。
企画名。
目的。
内容。
必要な場所。
人数。
準備物。
紅秋が黒板へ項目を書き。
茜が意見を分類し。
亜衣が女子達へ声をかける。
島中は、話が止まりそうになるたびに別の生徒へ意見を振り。
田辺は地元の商品候補を次々に挙げ。
圭は。
今日だけで三度目の新案を出していた。
「商品を考えるだけだと、最後に紙が残るだけだろ。だったら投票して、一位の商品を販売企画へ推薦する」
「それはいいかも」
なつきが言う。
圭が、一瞬黙った。
「今、普通に採用された?」
「普通に使える案だったから」
「俺、人生ゲームを捨ててから評価が上がった」
紅秋が言う。
「執着を手放すのも成長だ」
「今日、みんな俺を育てようとしてない?」
島中が笑う。
「百三十五話かけて育ってる途中」
「何の話?」
「気にするな」
田辺が紙へ「干し芋アイス」と書く。
亜衣がその横へ「メロンパンではなく、本物のメロンを使った何か」と書く。
「何かって何?」
島中が聞く。
「今考える」
「名前だけ先に出した?」
「発想は途中から育つの」
「圭と同じこと言い始めた」
「一緒にしないで」
「失礼」
教室のあちこちで笑いが起きる。
なつきは。
笑いながらも。
出た意見を一つずつ紙へ書いた。
実現できるか。
予算は。
食品なら衛生管理。
本当に販売するのか。
紙上の企画にするのか。
考えることは多い。
だが。
今は、すぐに削りすぎない。
まずは出す。
あとで整理する。
紅秋が、全体を見ながら言った。
「一度、目的を確認する。交流週間で他学科の生徒と一緒に商品企画を体験し、商業科の学びと地域の特徴を知ってもらう。ここから外れる案は、今回は別枠にする」
「納豆香水は?」
田辺が聞く。
「地域の特徴ではある」
圭が真面目に言う。
「だが、需要が不明」
紅秋も真面目に返した。
「真剣に検討しないで」
亜衣が笑い出す。
女子達も笑う。
「田辺くん、本当に作りたいの?」
なつきが聞くと、田辺は腕を組んだ。
「作りたくはない。でも、忘れられない商品にはなる」
「悪い意味で」
島中が返す。
「話題性」
「教室が使えなくなる」
「密封」
「そこまでして作るな」
笑いがまた広がる。
けれど。
教室全体が笑っている間も。
春樹は、出た案を静かに整理していた。
食品。
日用品。
観光。
広告。
学科体験。
紙の上へ線を引き。
似た意見をまとめる。
なつきは、その横へ座った。
「春樹くん、早い」
「話しながらだと、同じ案が増えるから」
「私は全部書いちゃう」
「横田さんは、そのままの言葉を残してる」
「消したくないから」
「それでいいと思う。あとで俺の分類と合わせる」
その会話を。
近くにいた女子が聞いていた。
「二人、本当に役割分かれてるね」
なつきと春樹が顔を上げる。
「横田さんが話を聞いて、大國くんが整理する。でも、お互いの仕事もちゃんと見てる」
女子は、少し感心したように言った。
「実行委員、最初は大丈夫かなって思ってたけど、意外と合ってる」
「意外は余計」
亜衣が言う。
「最初から合ってるよ」
「別の意味でも?」
別の女子が聞く。
教室の数人が笑う。
なつきの頬が熱くなる。
「今は企画の話」
以前なら。
慌てて完全に否定していた。
今日は。
話題を戻すだけで済ませた。
春樹は、何が別の意味なのかを少し考えているようだったが。
紅秋が先に口を開く。
「春樹。今は考えなくていい」
「また?」
「企画が進まなくなる」
「分かった」
圭が囁く。
「紅秋、恋愛の交通整理してる」
「その表現を復活させるな」
教室の笑い声が。
さらに大きくなった。
◇
話し合いは。
昼休みの終わりが近づくまで続いた。
最終的に。
企画の中心は、次のようにまとまった。
他学科の生徒と混合班を作る。
茨城県内の食材、名産品、観光資源から一つを選ぶ。
それを使った架空の商品やサービスを考える。
商業科の生徒が。
価格設定。
宣伝文句。
客層。
簡単な利益計算を手伝う。
最後に。
完成した企画を短く発表し。
参加者同士で投票する。
「形になった」
なつきが、大きな紙を見ながら言った。
朝には。
圭の校内人生ゲーム。
田辺の納豆香水。
亜衣の地元商品。
茜の企画目的。
それぞれ別の方向へ向いていた。
今は。
一つの流れになっている。
「名前」
圭が言う。
「最後に名前」
教室の空気が、少しだけ警戒する。
「圭くん以外から先に出そう」
亜衣が言った。
「信用がない」
「恋愛優先道路のせい」
「昨日からずっと影響してる」
島中が手を上げる。
「茨城新商品企画」
「分かりやすいけど固い」
女子の一人。
「いばらきアイデアショップ」
「少しやわらかい」
田辺。
「納豆から始まる未来」
「納豆から離れて」
教室中が笑う。
茜が、紙の中央を見ながら言った。
「学ぶだけではなく、皆で作る企画でしょう? 『一緒につくる』という言葉が入ってもいいかもしれないわね」
「一緒につくる、茨城の商品」
なつきが呟く。
春樹が、その言葉を紙へ書く。
『いっしょにつくる、いばらきアイデア店』
「店?」
なつきが聞く。
「販売ではなく、企画を並べる場所。店みたいに見せれば分かりやすい」
「いいかも」
亜衣も頷く。
「ひらがなが多い方が柔らかい」
「小学生向けみたいじゃない?」
島中が言う。
「交流週間だから、一年生も三年生も来る。固すぎるよりいい」
紅秋が返す。
「仮タイトルとしては十分だ」
圭が、静かに手を上げた。
「俺の案も言っていい?」
全員が。
少しだけ迷う。
なつきが笑いを堪えながら言った。
「言うだけなら」
「茨城ドリームマーケット」
教室が。
一瞬静かになった。
「普通」
田辺が言う。
「意外と普通」
島中も。
「圭が出したと思わなければ、悪くない」
亜衣が言う。
「前半が少し大きいけど」
茜も考える。
「夢を商品企画と捉えるなら、意味は合うわね」
圭の顔が。
少しずつ明るくなる。
「採用?」
紅秋が言う。
「候補」
「候補でもいい。俺の夢、生きてる」
「人生ゲームは死んだがな」
「紅秋、言い方」
笑いが起きる。
なつきは。
二つの案を紙へ書いた。
『いっしょにつくる、いばらきアイデア店』
『茨城ドリームマーケット』
名前は、まだ決めない。
会議で他クラスとも相談する。
クラスの案。
クラスだけで完成させず。
別の意見が入る余地を残す。
「今日のところは」
なつきは教室全体へ声をかけた。
朝より。
声が出るまでの時間は短かった。
何秒だったのか。
数えていない。
「この二つを仮の名前にして、内容は今まとめた形で次の会議へ持っていきます。午後の授業が終わったあと、私と大國くんで資料にします。追加の案がある人は、帰りのホームルームまでに教えてください」
教室から。
「分かった」
「いいと思う」
「頑張って」
声が返る。
圭が言った。
「巨大人生ゲームは追加案?」
全員から。
「違う」
見事に重なった。
昼休みの最後。
教室は大きな笑いに包まれた。
◇
午後の授業。
さすがに。
話し合いの疲れが出たのか。
教室は午前より少し静かだった。
圭も。
五時間目の途中で、何度か眠そうに瞬きをしている。
紅秋が一度だけ横目で見たが。
今日は注意しなかった。
圭が午前中から本当に考え続けていたことを知っているからかもしれない。
なつきも。
身体に少し疲れを感じていた。
昨日の会議。
今日の報告。
昼休みの話し合い。
頭の中に。
言葉が多い。
声が多い。
企画案。
数字。
商品。
名前。
授業へ集中しなければならないのに。
ふとすると。
昼の大きな紙が浮かぶ。
先生が問題を解かせる時間。
なつきは一度目を閉じ。
呼吸を整えた。
春樹へ頼れば。
あとで教えてもらえる。
でも。
今、自分でできることは。
まず授業を聞く。
問題文を読む。
一行ずつ。
なつきはペンを持ち直した。
問題を解く。
途中で一度止まり。
もう一度読む。
答えを書く。
先生の解説。
合っていた。
以前のように。
大きく喜ぶことはしない。
ただ。
机の下で、指先を軽く握る。
できた。
その小さな達成が。
今日一日の疲れの中へ、静かに残る。
◇
放課後。
教室から部活動へ向かう生徒達が出ていく。
机を動かす音。
鞄を閉じる音。
「企画書、頑張って」
「明日見せて」
「名前は圭案以外で」
「何で!」
最後まで笑い声を残しながら。
教室の人数が少しずつ減っていく。
亜衣と茜は、しばらく残ると言った。
「資料の確認くらいなら手伝えるよ」
亜衣が言い。
茜も頷く。
「文章にする前に、企画の目的と内容がずれていないか見ましょう」
紅秋も。
自分の仕事を終えたあと、少し確認すると言った。
圭、島中、田辺は。
部活や用事で先に帰る。
「俺の案、消さないで」
圭が、教室の扉から顔を出す。
「ドリームマーケットは残ってる」
なつきが答える。
「人生ゲーム」
「消す」
「即答!」
紅秋が言う。
「早く行け。部活へ遅れるぞ」
圭は。
名残惜しそうに扉へ手をかけ。
「実行委員、任せた!」
と叫んで走っていった。
「廊下を走るな!」
紅秋の声が飛ぶ。
遠くから。
「ごめん!」
返事が響く。
島中と田辺の笑い声も。
廊下の向こうへ消えていった。
教室に。
少し静かな放課後が戻る。
残ったのは。
春樹。
なつき。
亜衣。
茜。
紅秋。
数人の生徒。
窓から差し込む光は。
昼よりも低く。
机の影を長く伸ばしている。
「じゃあ、始めようか」
なつきが言う。
春樹は。
昨日の会議資料。
今日のクラス案。
自分のノートを机へ広げる。
「企画書の項目は、目的、内容、必要な場所、時間、人数、準備物」
「名前は仮で二つ」
「参加人数は、一回六人くらい?」
「学科混合なら、商業科二人と他学科四人くらいが説明しやすいかも」
「一回十五分?」
春樹が聞く。
なつきは。
実際に商品を考える時間を想像した。
「五分で商品を決めて、五分で値段と宣伝を考えて、最後に一分ずつ発表……十五分だと少し足りないかもしれない」
茜が口を挟む。
「説明や席の移動も含めるなら、二十分を見た方がいいわ」
「でも長いと、参加できる人数が減る」
亜衣が言う。
「商品を一から考えず、素材カードを選ぶ方式なら早くなるんじゃない?」
「素材カード?」
「メロン、干し芋、納豆、栗、常陸牛とか。選んでから商品にする」
なつきの頭の中に。
机の上へ並ぶカードが浮かぶ。
「それなら、選ぶところから楽しそう」
「田辺くんの知識が役立つ」
茜が言う。
「食べ物だけでなく、観光地や工芸品も入れた方が、商品以外のサービス案も出せるわね」
春樹が、カード項目へ追記する。
「素材カード、対象カード、販売方法カード」
「対象?」
なつきが聞く。
「高校生向け、観光客向け、子供向け、高齢者向け。誰に売るかを決める」
「春樹くん、それ商業科っぽい」
「授業でやった」
「私、そこ思い出せなかった」
「横田さんは素材カードを思いついた」
「亜衣ちゃんがね」
亜衣が笑う。
「私の案が、二人の会話の中で育ってる」
「それが企画会議」
茜が穏やかに言った。
「誰の案かを競うのではなく、使える形へ重ねていくものだから」
なつきは。
昼間にも感じたことを。
もう一度、言葉として受け取った。
誰か一人の案。
誰か一人の仕事。
ではない。
重ねる。
春樹が書く。
なつきが話す。
亜衣が広げる。
茜が整える。
紅秋が、抜けている条件を見つける。
「安全面」
紅秋が資料を見ながら言った。
「食品を実際に扱うかどうかで、準備が大きく変わる。企画段階では、写真や模型だけにした方がいい」
「本物を食べられないと盛り上がらない」
亜衣が少し残念そうに言う。
「衛生管理、アレルギー、予算、仕入れ。実行委員会だけでは決められない」
「圭くんが聞いたら、夢がないって言いそう」
「現実を通さなければ、夢は実施されない」
「紅秋くん、名言みたい」
「事実だ」
なつきは笑いながら、企画書の準備物の欄へ書き加えた。
『実物の食品は扱わず、写真・カード・模型を使用』
大きく広げた夢を、現実に合わせて少し削る。
けれど、それは夢を捨てることではない。
圭の巨大人生ゲームが、学科交流ミッションへ形を変えたように。
田辺の納豆香水が、話題性という役割だけを残して消えていったように。
無理な部分を取り除きながら、使えるところを残す。
そうすることで、頭の中にしかなかったものが、実際に誰かへ見せられる形へ近づいていく。
「食品を使わないなら、商品をどう見せる?」
亜衣が、企画書の上へ身を乗り出した。
「絵だけだと、班によって上手い下手が出そう。絵が苦手な人が損するのは嫌じゃない?」
「写真を切り抜いて使うとか」
なつきが言うと、茜が少し考えてから頷いた。
「素材カードに写真を入れておけば、そのまま台紙へ貼れるわね。商品の完成図は、既存の形を選べるようにしてもいいかもしれない」
「既存の形?」
「飲み物、菓子、弁当、観光ツアー、日用品。最初から枠を用意して、そこへ地域の素材を組み合わせるの」
亜衣が手を打った。
「それなら絵を描かなくても作れる。例えば、メロンを引いて、飲み物を引いたらメロンドリンク。そこから値段や客層を考える」
「干し芋と日用品を引いたら?」
「干し芋型の抱き枕」
「食べ物としての干し芋が消えた」
なつきが思わず笑う。
亜衣は悪びれもせず、さらに続けた。
「観光ツアーと納豆なら、納豆工場見学」
「それは現実にありそう」
「常陸牛と日用品なら」
「革製品」
春樹が言った。
亜衣が目を丸くする。
「急にまとも」
「牛肉だけじゃなく、革も地域資源として考えられる」
「春樹くん、授業の知識がちゃんと企画へ出てくるね」
なつきが感心すると、春樹は少しだけ視線を下げた。
「商品を考えるなら、材料を一方向だけで見ない方がいいって授業でやったから」
「私、聞いた覚えはあるのに、今すぐ出てこなかった」
「横田さんは、誰が参加しても作れるようにする方を考えてた。俺は材料のことを考えただけ」
「だけじゃないよ。そういう見方を入れたら、商品案が増える」
二人のやり取りを聞いていた茜が、企画書の余白へ指を置いた。
「今の話も入れた方がいいわ。素材を一つの用途へ限定せず、別の使い方も考える。それ自体が商品企画の学びになるでしょう?」
春樹は、その言葉を短くまとめて書き加えた。
『素材の新しい用途も考える』
なつきは、その一文を覗き込んだ。
食品。
観光。
日用品。
最初から答えが決まっていない。
同じカードを引いても、班によってまったく違う商品になる。
価格も。
宣伝も。
誰へ売るかも。
その違いを最後に見比べれば、投票する時にも楽しめそうだった。
「投票は、単純に一番欲しい商品を選ぶ?」
なつきが尋ねると、紅秋は腕を組んだまま、少し考えた。
「それだけでは人気投票になる。商業科の学びを入れるなら、評価項目を分けた方がいい」
「面白さ、売れそうか、地域らしさ?」
亜衣が指を折る。
「ほかに何がある?」
「説明の分かりやすさ」
茜が言った。
「短い発表をするなら、商品自体だけでなく、相手へ魅力を伝えられたかも評価できるわ」
「商業科っぽい」
なつきは、企画書へ項目を書いていく。
『欲しいと思うか』
『地域の良さが伝わるか』
『売り方に工夫があるか』
『説明が分かりやすいか』
四つ。
多すぎるだろうか。
少なすぎるだろうか。
なつきは紙を少し離して眺めた。
「参加する人が全部に点数をつけると、時間かかるかな」
「一人一票にして、評価項目を見ながら総合で選ぶ方法もある」
春樹が言う。
「でも、それだと何が良かったのか分かりにくい」
「じゃあ、項目ごとにシールの色を変える?」
亜衣がまた身を乗り出す。
「赤は欲しい商品。青は地域らしさ。黄色は宣伝が上手い。参加した人が一枚ずつ貼る」
「それ、見た目も分かりやすい」
なつきの頭の中へ、完成した企画が少しだけ浮かんだ。
壁へ貼られた商品カード。
赤。
青。
黄色。
色の違うシール。
自分達の考えた商品に、知らない生徒が足を止める。
どこが良かったのか。
何に惹かれたのか。
色で分かる。
「ただし、投票シールにも費用がかかる」
紅秋が現実へ戻す。
亜衣が机へ額を近づけるようにして呻いた。
「紅秋くん、すぐお金の話する」
「企画書に予算欄がある」
「夢を形にするにはお金がいる」
「ようやく理解したな」
「圭くんの気持ちが少し分かった」
「影響を受けるな」
教室の一角へ、小さな笑いが広がった。
夕方の光は少しずつ傾き、窓際の机だけが橙色に照らされている。
そこから離れた場所は、すでに淡い影へ沈み始めていた。
企画書の上には、五人分の筆跡がある。
春樹の整った字。
なつきの少し丸い字。
茜の細く丁寧な追記。
亜衣が勢いよく書いた矢印。
紅秋の短い注意書き。
一人で作った紙ではないことが、ひと目で分かる。
◇
「一度、最初から流れを確認しよう」
紅秋が言った。
「案を増やし続けると、また収拾がつかなくなる」
「もう最初から収拾ついてなかったよ」
亜衣が笑う。
「だからまとめる」
紅秋は、企画書の一番上へ指を置いた。
「参加者は、学科を混ぜた四人から六人程度の班を作る」
春樹が続ける。
「素材カード、商品やサービスの形を決めるカード、客層カードを引く」
「カードは全部無作為?」
なつきが聞く。
「完全にくじ引きだと、組み合わせによって難しさが違いすぎるかも」
「何枚か引いて、その中から選べる方がいいわね」
茜が答える。
「素材は三枚から一枚。商品形態は二枚から一枚。客層は一枚でもいいと思う」
亜衣が笑いながら言う。
「納豆、日用品、高齢者向けを引いたら、もう納豆香水へ戻るしかない」
「戻さないで」
なつきが即座に止める。
「高齢者向けの納豆日用品なら、開けやすい納豆の容器とか」
春樹が言った。
全員が一度、春樹を見る。
「それ、普通に良い」
亜衣が感心する。
「高齢者だけじゃなく、子供や力の弱い人にも使いやすい」
茜も頷いた。
「商品企画として成立するわね」
「春樹くん」
なつきは、少し笑いながら春樹を見る。
「納豆香水を一瞬で福祉商品に変えた」
「香水にはしてない」
「そこ大事なんだ」
「大事」
春樹の真面目な返答に、亜衣が耐えきれず笑い出した。
茜も口元へ手を添え。
紅秋でさえ、ほんの少し視線を逸らした。
なつきも声を立てて笑った。
企画について真剣に考えている。
けれど。
ずっと張り詰めているわけではない。
笑って。
脱線して。
戻って。
その繰り返しの中で。
自分達だけでは思いつかなかった案が、突然出てくる。
「次」
紅秋が空気を戻す。
「選んだカードをもとに、班で商品やサービスを考える。時間は」
「十分?」
亜衣が言う。
春樹が首を横へ振った。
「カードを選ぶ時間も入れるなら、十分だと短い」
「説明を三分。カード選びを三分。商品案を七分。価格と広告を五分。発表を班ごとに一分」
なつきが指を折りながら計算する。
「班が三つなら、全部で二十一分くらい。移動まで入れたら二十五分」
「一回二十五分なら、昼休みだけでは難しい」
茜が言った。
「放課後企画か、一部の授業時間を使う形になるわね」
「授業時間を使う企画は、学年ごとに割り当てがある」
春樹が昨日の資料を開く。
「二年生は、交流週間の水曜三、四時間目」
「二時間あるなら、前半と後半で参加者を入れ替えられる」
なつきは資料へ目を落とした。
「一回三十分にして、三つか四つの班。一時間で二回。説明と片づけを入れても、二時間で二回はできそう」
「一回の参加者を二十四人とすると、二回で四十八人」
紅秋がすぐに数字を出す。
「商業科側の補助役も必要だ。各班へ二人つくなら、一回八人。受付、時間管理、全体説明を含めれば、最低十一人程度」
「クラス全員が交代でやれば足りる」
亜衣が教室を見回した。
今はほとんどの生徒が帰っている。
けれど。
昼休み。
大きな紙を囲んでいたクラスメイト達の顔が、なつきの中へ浮かぶ。
「みんなへ聞いてみる」
なつきが言った。
「企画を考える人だけじゃなくて、当日の役割も選べるようにしたい。人前で説明するのが苦手でも、カードを並べたり、時間を計ったり、シールを数えたりできるから」
「それなら参加しやすいわね」
茜が言う。
「役割を細かく分けておけば、全員が何かを担当できる」
「圭くんは?」
亜衣が尋ねた。
「呼び込み」
なつき、春樹、茜、紅秋。
四人の声が、ほとんど同時に重なった。
一瞬。
全員が互いを見る。
「そこは意見一致」
亜衣が笑う。
なつきも肩を揺らした。
「でも、大声は禁止」
「恋愛優先道路みたいなこと言いそう」
「言ったら呼び込みから外す」
紅秋が淡々と言った。
「圭に一番効く条件だな」
春樹も、ほんの少し笑いながら言う。
圭がこの場にいれば、必死に抗議しただろう。
その姿まで想像できて。
教室に残った五人は、また笑った。
◇
笑いが収まると。
なつきは企画書の下部へ、当日の役割を書き加えた。
全体説明。
班の補助。
カード準備。
時間管理。
発表の進行。
投票案内。
集計。
呼び込み。
片づけ。
並べてみると。
思っていたより多い。
企画の内容ばかりに目が向いていたが。
実際に動かすためには。
表に見えない仕事がいくつもある。
「片づけまで書くんだ」
亜衣が少し意外そうに言う。
「企画は終わったあとまで含める」
紅秋が答えた。
「使った机を戻し、カードや投票用紙を回収し、紛失物がないか確認する。そこまで決めておかないと、最後に一部の人だけが残る」
「体育祭のあとみたい」
なつきが言った。
行事が終わり。
盛り上がりが去り。
残った道具を片づける人達。
前は。
そういう役目を。
誰かがやるものだと思っていた。
今は。
その誰かを、最初から決めておく必要があると分かる。
「役割は、当日まで固定しすぎない方がいいかも」
なつきは、企画書を見ながら言った。
「説明担当になった人が体調を崩すかもしれないし、参加者が多ければ受付を増やす必要もある。全員が、自分の担当以外を少し分かるようにした方がいいと思う」
紅秋が頷いた。
「予備担当を一人ずつ決めるか、前日までに簡単な全体練習を行う」
「全体練習」
亜衣が少し疲れた顔をする。
「準備が増えた」
「必要」
「分かってるけど、企画って考えるほど仕事が増えるんだね」
「圭が夢だけ出して帰った理由が分かる」
なつきが言うと。
春樹が、企画書へ視線を落としたまま答えた。
「圭は、仕事が増えてることにまだ気づいてない」
「明日見せたら?」
「喜んで全部やるって言う」
紅秋が予想する。
「その翌日に量を理解する」
茜が続ける。
「そして、一度落ち込んだあと、また新しい案を出す」
亜衣が締めた。
全員が。
あまりにも想像できる未来に、黙ってしまった。
「……ありそう」
なつきが言うと。
教室へ静かな笑いが広がった。
◇
一時間ほど経った頃。
机の上へ散らばっていたメモは。
一枚の下書きへ、ようやく収まり始めていた。
企画名。
目的。
参加対象。
必要時間。
実施場所。
進行方法。
準備物。
当日の役割。
安全面。
まだ空欄もある。
予算。
正式な場所。
参加人数。
他クラスとの調整。
図書委員会や商業科販売企画との連携。
決めなければならないことは残っている。
それでも。
昨日の会議で提出した、輪郭だけの案とは違う。
誰が見ても。
どんなことをする企画なのか、ある程度想像できる。
「終わった……」
亜衣が椅子の背へ深く身体を預けた。
「私は実行委員じゃないのに、かなり働いた気がする」
「本当にありがとう」
なつきが企画書から顔を上げた。
「亜衣ちゃんが素材カードの案を出してくれなかったら、ここまで具体的にならなかった」
「報酬は?」
「何がいい?」
「企画が完成したら、最初の参加者」
「お客さんじゃなくて?」
「販売しないんでしょ。だったら一番に商品を作る人」
「じゃあ、試運転の一番目」
「それ、失敗を引く役じゃない?」
「改善してくれる役」
「言い方が上手くなった」
亜衣は少し笑い。
疲れたように息を吐いた。
茜も、企画書の最初から最後まで、ゆっくり目を通す。
「目的と内容は、今のところ大きくずれていないと思うわ。ただ、地域紹介の要素がカードだけだと弱いかもしれない」
「素材カードへ説明を入れる?」
なつきが聞く。
「写真、名前、産地や特徴を短く。参加者が知らない素材でも考えられるように」
「説明が長いと読む時間が増える」
春樹が言う。
「三行くらい。例えば、干し芋なら、茨城県が生産量の多くを占めること。保存しやすいこと。柔らかさや甘さに種類があること」
「春樹くん、詳しいね」
「田辺が昼に話してた」
「聞いてたんだ」
「全部」
田辺は。
納豆の話ばかりしていたように見えたが。
実際には。
メロン。
栗。
干し芋。
常陸牛。
いくつもの素材を挙げていた。
春樹は。
笑いの中に混ざった情報も、きちんと拾っていた。
「春樹くんの聞き方って」
なつきは、少しだけ感心しながら言う。
「大事なことだけじゃなくて、その時は使わなかったことも覚えてるよね」
「後から必要になるかもしれないから」
「私は、その時必要だと思ったことを全部書く」
「だから、合わせると多く残る」
春樹は、下書きと二人のノートを並べた。
なつきのノート。
春樹のノート。
同じ会議を聞いていた。
同じクラスの話し合いへ参加した。
それでも。
残している言葉は違う。
なつきは、発言者の言葉をできる限りそのまま書いている。
春樹は、内容を短く分類している。
片方だけなら。
こぼれていたものがある。
二つを重ねることで。
案が厚くなる。
「本当に相性いいね」
亜衣が、二冊のノートを覗き込みながら言った。
「企画の話だからね」
なつきは先に釘を刺した。
「今日は逃げないんだ」
「逃げてない。話を限定しただけ」
「前より強くなった」
亜衣が笑う。
「別の意味でも相性がいいかは、また今度聞く」
「聞かなくていい」
「今度ならいいんだ」
「言い方!」
なつきの声が教室へ響き。
亜衣と茜が笑う。
春樹は。
何を今度聞かれるのか考えかけ。
紅秋に先回りされた。
「春樹。考えなくていい」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ている」
「圭みたい?」
「そこまでは出ていない」
春樹が少し安心した顔をする。
なつきは。
そんな春樹を見て、また笑った。
◇
茜と亜衣は。
企画書の確認を終えると、先に昇降口へ向かうことになった。
「私達、下で少し待ってる」
亜衣が鞄を肩へ掛ける。
「二人とも片づけまで始めたら、また時間かかりそうだから」
「もうほとんど終わってるよ」
なつきが言う。
「『ほとんど』は信用しない。さっきも一項目増えた」
「地域説明は必要だったから」
「そうやって増える」
茜が穏やかに言った。
「遅くなりすぎないようにね。企画は今日中に完成させなくても大丈夫なのだから」
「うん。下書きまでにする」
「大國くんも、なつきが止まらなくなったら声をかけて」
春樹は少しだけ考え。
「横田さんより、俺が止まらなくなるかもしれない」
「二人とも?」
亜衣が呆れたように笑う。
「紅秋くん」
「俺も帰る」
紅秋はすでに、自分の鞄を持っていた。
「確認するところは確認した。あとは実行委員の二人で決める範囲だ」
「止め役いなくなる」
「時計を見ろ。現在時刻は五時前。五時十五分を過ぎたら帰る準備を始めろ」
「紅秋くん、本当に保護者みたい」
「時間を伝えただけだ」
「明日も授業あるからって言いそう」
「明日も授業がある」
亜衣が吹き出した。
茜も笑いながら、紅秋へ軽く頭を下げる。
「では、先に下へ行きましょう。二人とも、お疲れさま」
「ありがとう」
なつきが答える。
春樹も。
「助かった」
と短く伝えた。
亜衣と茜が教室を出る。
紅秋も、その後へ続く。
扉を通る直前。
「春樹」
呼び止める。
「何?」
「提出前に、数字だけはもう一度確認しろ。人数と時間が合っていなければ、内容以前の問題になる」
「分かった」
「横田さんは、説明する時、自分の言葉へ直しておいた方がいい。企画書の文章を読むだけだと、質問された時に詰まる」
「はい。今日のうちに一度、流れを話してみます」
紅秋は頷いた。
「ならいい」
教室を出る。
春樹が、その背中へ声をかけた。
「紅秋」
紅秋が足を止める。
「ありがとう」
振り返らないまま。
片手だけを軽く上げる。
廊下へ出て。
扉の向こうへ姿が消えた。
◇
教室に。
春樹となつきだけが残った。
完全な静寂ではない。
窓の外。
校庭から、部活動の掛け声が聞こえる。
廊下の遠くを、誰かが歩く足音。
下の階から、椅子を動かすような音。
けれど。
昼間の教室と比べれば。
驚くほど静かだった。
人のいなくなった机が。
夕方の光の中へ整然と並んでいる。
黒板には。
昼休みに書いた項目の一部が、薄く残っていた。
『目的』
『内容』
『場所』
『人数』
紅秋が消しきれなかったチョークの跡。
窓から差し込む光に照らされ。
白く浮かんでいる。
なつきは。
企画書を最初から読み直した。
「昨日の朝は」
紙から目を離さないまま、ゆっくり話し始める。
「実行委員になるかどうかだけで、あんなに怖かったのに」
春樹は、隣の机へ座ったまま聞いている。
「今は、企画書を作ってる」
「昨日より進んだ」
「うん。朝も、みんなの前で話した」
「三秒で」
なつきは顔を上げた。
「そこ、本当に覚えてるね」
「約束したから」
「五秒だったら?」
「五秒待ってた」
「十秒なら?」
「十秒」
「ずっと出なかったら?」
春樹は少し考えた。
「横田さんを見る」
「それだけ?」
「助けてほしそうなら、続きを言う。まだ考えてそうなら、待つ」
なつきは。
企画書を持ったまま、少し黙った。
春樹は。
ただ待つわけではない。
ただ助けるわけでもない。
なつきが。
自分で言おうとしているのか。
もう言葉が出なくなっているのか。
そこまで見ようとしてくれている。
「春樹くんって、前より私のこと見てるよね」
口にしたあと。
少しだけ頬が熱くなる。
でも。
訂正はしなかった。
春樹も。
否定しなかった。
「前より分かることが増えたから」
「分かると、もっと見るの?」
「たぶん」
「どうして?」
問いを投げたあと。
なつきはすぐに答えを求めなかった。
春樹が言葉を探す時間。
窓の外から、笛の音が聞こえた。
校庭のどこかで。
練習が一区切りついたらしい。
「横田さんが」
春樹は、机の上で重ねた資料へ視線を落とした。
「前と違うことをするから」
「実行委員になったり?」
「みんなの前で話したり。自分から意見を聞いたり。前なら怖くて止まってたところで、進むようになった」
「それを見たい?」
「うん」
春樹は一度だけ頷いたあと。
もう少し言葉を足した。
「できるようになるところだけじゃなくて、怖いって言うところも。無理だった時も。全部見た方が、横田さんのことを知れると思う」
なつきの胸が。
静かに。
けれど深く動いた。
成功するところだけではない。
立派に変わっていく姿だけでもない。
怖い。
できない。
迷う。
そんな部分まで。
知りたい。
きれいに成長した自分だけを見せなければならないわけではない。
そう言われたような気がした。
「じゃあ」
なつきは、少しだけ笑った。
「失敗しても、春樹くんががっかりしない?」
「失敗だけで、横田さんが変わるわけじゃない」
「実行委員、向いてないって思うかも」
「一回で?」
「何回か」
「何回失敗しても、向いてないって決まる前に、直せるところを考えると思う」
「春樹くん、企画みたいに考えるね」
「同じかも」
大きすぎる案。
実現しにくい案。
すぐに捨てず。
使えるところを探す。
人も。
失敗したからといって。
全部がだめになるわけではない。
「私も」
なつきは、企画書を机へ置いた。
「春樹くんが言葉に詰まっても、話すのが苦手だって決めつけないようにする」
「もう決めてない?」
「前は、春樹くんは話したくない人だと思ってた」
「今は?」
「話したくないんじゃなくて、ちゃんとした言葉を探してる人。短くしか言わない時もあるけど、その短い言葉の中に、春樹くんが考えたことが入ってる」
春樹は。
すぐに何も言わなかった。
なつきは。
その沈黙を。
以前のように不安には思わない。
何か間違えたか。
嫌われたか。
そうではなく。
受け取っている時間。
「でも」
春樹が、ようやく口を開く。
「短すぎて伝わらない時もある」
「あるね」
なつきが素直に答えると。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
「否定しない」
「本当だから。『うん』だけだと、何にうんって言ったのか分からない時あるし」
「最近、言われた」
「誰に?」
「圭と紅秋」
「二人とも言いそう」
「横田さんにも、たぶん思われてた」
「たぶんじゃなくて、少しは」
なつきは笑った。
「でも最近は、理由も言ってくれるようになった。今日も、私のノートだけでいいって言わないで、私にしか書けてないこともあるって言ってくれた。そういうの、前より分かりやすい」
「横田さんが聞くから」
「聞かないと話してくれない?」
「今は、聞かれなくても少し言いたいと思う」
言葉が。
静かな教室へ落ちた。
なつきは。
一度、呼吸を止めた。
「私に?」
「横田さんに」
春樹の視線は。
机ではなく。
なつきへ向いていた。
窓から差し込む夕方の光が。
その横顔を柔らかく照らしている。
「どうして?」
なつきは尋ねた。
期待している。
自分でも分かる。
でも。
答えを決めつけず。
待つ。
「話したら」
春樹は。
ゆっくりと、一つずつ言葉を選んだ。
「横田さんが考えてくれるから。俺がうまく言えなくても、途中で切らずに待つ。違ってたら聞き返す」
「うん」
「それと」
春樹は、少しだけ目を伏せた。
「俺のことを知りたいって言ってくれたから」
なつきの胸の奥へ。
温かいものが広がった。
以前。
図書室の帰り。
まだ知らない春樹のことを。
少しずつ知りたいと伝えた。
春樹は。
その言葉を覚えていた。
そして。
知ってもらいたいと思い始めている。
「私」
なつきは、すぐに続けようとして。
一度止まった。
嬉しい。
それだけでは足りない。
「もっと知りたい」
言葉を選び直す。
「実行委員の春樹くんだけじゃなくて。本を読んでる時も、言葉を探してる時も、困ってる時も。春樹くんが自分でもまだ分かってないことも、急がなくていいから、いつか聞きたい」
春樹は。
長い沈黙のあと。
「俺も」
と答えた。
以前なら。
その二文字だけで終わっていたかもしれない。
けれど。
今は。
春樹自身が、少し考え。
続きを言った。
「横田さんが自分でも気づいてないことを、見つけたい。今日みたいに」
「今日?」
「横田さんは、みんなの意見をつないでた。自分では企画書を書いてただけだと思ってるかもしれないけど」
「……うん。春樹くんに言われるまで、そんなふうには思ってなかった」
「だから、見つけたい」
なつきは。
視線を落とした。
机の上。
重なった二人のノート。
その横に。
皆で作った企画書。
自分一人では気づけないもの。
春樹が見つける。
春樹一人では言葉にできないもの。
なつきが聞く。
互いに。
知らなかった自分を。
相手の目を通して知っていく。
「それって」
なつきは、小さく笑った。
「実行委員の仕事より難しいかも」
「企画書ないから?」
「期限もない」
「なら、急がなくていい」
「ずっと?」
「分かるまで」
胸が。
大きく鳴る。
大げさな約束ではない。
恋人としての未来を語ったわけでもない。
それでも。
分かるまで。
急がず。
互いを見つけていく。
その時間を。
春樹が終わらせようとしていないことが、嬉しかった。
◇
時計を見ると。
五時十二分。
紅秋が言った時間まで、あと三分。
「帰る準備しないと」
なつきが言う。
「紅秋に怒られる」
「いなくても?」
「次の日に聞かれる」
「聞かれそう」
二人は笑いながら、机の上を片づけ始めた。
企画書をファイルへ入れる。
別紙のメモをまとめる。
机を元の位置へ戻す。
椅子を整える。
黒板に残った文字を。
春樹が消し始めた。
「私もやる」
なつきは反対側から黒板消しを持つ。
二人で。
昼休みに残った文字を消していく。
『目的』
『内容』
『場所』
白い粉が。
黒板の下へ薄く落ちる。
全部消える。
けれど。
企画書の中には残っている。
教室で交わされた言葉も。
笑いも。
誰かの案も。
形を変えて。
「消してるけど」
なつきが言う。
「今日の話は残ってるね」
「企画書に?」
「それも。私達の中にも」
春樹は黒板消しを置き。
少しだけ黒板を見た。
「圭の人生ゲームも?」
「それは薄くていい」
「納豆香水は?」
「消していい」
春樹の口元が緩む。
なつきも笑った。
◇
教室を出る。
扉へ鍵はかけない。
まだ校内には部活動の生徒や教師が残っている。
それでも。
自分達が最後に近いことを確認し。
電気を消した。
明るかった教室が。
一瞬で薄暗くなる。
廊下の窓から入る夕方の光だけが。
机の輪郭を残している。
「春樹くん」
なつきは、扉を閉じる前に教室を一度振り返った。
「何?」
「明日も、ここで話し合うのかな」
「たぶん」
「また収拾つかなくなる?」
「圭がいるから」
「なるね」
二人で笑う。
扉を閉じた。
◇
階段へ向かう廊下。
昼間より。
二人の足音が大きく聞こえる。
窓の外では。
運動部の練習が終わり始めている。
ボールを片づける音。
顧問の声。
仲間を呼ぶ声。
校庭の端では。
何人かの生徒が、走りながら笑っていた。
「今日」
なつきが歩きながら言った。
「楽しかったって言ったら、変かな」
「どうして?」
「大変だったし、疲れたし、圭くんの案は増えるし。昼休みもほとんど休めなかった」
「最後が一番大変?」
「春樹くん、圭くんに厳しくない?」
「企画を増やすから」
「でも、今日の案には結構残ったよ」
「人生ゲーム以外」
「そこだけは譲らないね」
「校内全部使うから」
なつきは笑い。
そのあと。
少しだけ声を落とした。
「でも、本当に楽しかった。みんなが別々に言ってたことが、一枚の紙へまとまっていくのを見るのが」
「俺も」
春樹は。
以前のように短く終えず。
続きを言った。
「一人で考えてたら、あの企画にはならなかった。圭の無茶な案も、田辺の食べ物も、亜衣のカードも、茜の目的も、紅秋の条件も必要だった」
「春樹くんの整理も」
「横田さんの記録も」
「また二人とも入った」
「必要だから」
なつきの歩幅が。
少しだけ軽くなる。
「実行委員って、前に立ってみんなを引っ張る人だと思ってた」
「今は?」
「真ん中で、いろんな方向から来る言葉をつなぐ人かもしれないって思ってる。私は、引っ張るよりそっちの方ができるかもしれない」
「今日できてた」
「圭くんの案と、会議のスタンプ企画をつないだこと?」
「それも。昼休み、まだ話してない人へ聞いた。放課後は、亜衣の案と俺の案をつないだ」
「春樹くんも、私のメモと自分のメモをつないだよ」
「じゃあ二人とも」
「つなぐ方?」
「うん」
短い返事。
けれど。
そこまでの会話がある。
二人が。
同じ役目を。
同じように受け止め始めている。
「昨日より、実行委員っぽくなった?」
なつきが尋ねる。
「昨日より」
「またそれ」
「毎日少しずつなら、分かりやすい」
「じゃあ、明日も少し?」
「増やす」
「できることを?」
「横田さんのことも」
なつきの足が。
ほんの少し止まりかけた。
春樹は。
自分が何を言ったか考えたように、少し遅れて足を止めた。
「今」
なつきは、春樹を見る。
「私のことも、少しずつ知るって意味?」
「うん」
春樹は頷いたあと。
今度は自分から言葉を足した。
「今日より明日。急がないけど、増やしたい」
なつきの胸が。
静かに満たされていく。
「私も」
すぐに返す。
「春樹くんのこと、今日より明日、少し知りたい。実行委員の仕事だけじゃなくて」
「うん。俺も、仕事だけじゃない」
二人の間に。
短い沈黙が落ちた。
廊下を抜ける風。
夕方の匂い。
遠くの部活動の声。
恥ずかしさはある。
けれど。
どちらも目を逸らさなかった。
◇
「なつきー!」
階段の下から。
亜衣の声が響いた。
なつきと春樹が同時に下を見る。
踊り場。
亜衣と茜が並んでいる。
「遅いよ! もう紅秋くんが時間過ぎるって三回時計見た!」
その隣には。
本当に紅秋もいた。
「帰ったんじゃなかったの?」
なつきが階段を下りながら聞く。
亜衣は肩をすくめた。
「初めての企画書を作った日に、二人だけ置いて帰るのも気になるでしょう?」
「私は帰ってもよかったと言った」
紅秋が訂正する。
「でも待ってた」
「確認したいことが一つあった」
「何?」
春樹が聞く。
「企画書を持ったか」
春樹となつきが。
同時に自分の鞄を見る。
なつきの鞄。
春樹の鞄。
どちらにも。
企画書は入っていない。
二人の顔が。
ゆっくり見合う。
「机」
春樹が言った。
「机に置いた」
なつきの声も重なる。
一秒。
二秒。
亜衣が吹き出した。
「二人とも実行委員っぽくなったって言ってたのに!」
「企画書を忘れる実行委員」
茜も、珍しく肩を震わせている。
紅秋は。
深いため息をついた。
「確認しに戻って正解だった」
「今取ってくる」
春樹が階段を上ろうとする。
「私も!」
なつきも続こうとしたが。
亜衣が笑いながら手を振った。
「一人でいいでしょう!」
「でも、私の鞄に入れる予定だったから」
「春樹くんが持ってきたら、下で受け取ればいいよ」
「横田さん、待ってて」
春樹は、少し急ぎながら階段を戻っていく。
廊下の奥へ。
その背中が消える。
なつきは。
踊り場へ立ったまま。
少しだけ肩を落とした。
「最後に失敗した」
呟くと。
紅秋が言った。
「失敗ではなく、忘れ物だ」
「それ、余計悪くない?」
「今気づいたなら、明日の提出には影響しない」
茜も穏やかに続ける。
「次から、片づけの最後に持ち物確認を入れればいいわ」
「企画書の当日役割に、忘れ物確認も追加しようかな」
「自分達から必要になったね」
亜衣が笑う。
なつきも。
少ししてから笑った。
朝。
春樹に言われた。
失敗しても。
すぐに向いていないと決まるわけではない。
直せるところを考える。
「次から、机の上を指差し確認する」
なつきが言う。
紅秋が頷いた。
「有効だ」
「紅秋くん、そこは褒めるんだ」
「改善案として妥当だからだ」
階段の上から。
春樹の足音が戻ってくる。
手には。
企画書の入ったファイル。
「持ってきた」
なつきは、一段上へ上がり。
春樹からファイルを受け取った。
「ありがとう。最後まで一緒に確認しないとだめだったね」
「俺も忘れてた」
「二人で忘れた」
「次は二人で確認する」
「うん。忘れ物確認、共通装備に追加」
「少し考えますの次?」
「二番目」
亜衣が、二人を見ながら呆れたように笑った。
「実行委員の共通装備、地味」
「実用的」
春樹が答える。
「二人で持ってるなら、それでいいんじゃない?」
茜がやわらかく言った。
紅秋は時計を見る。
「今度こそ帰るぞ。五時十五分を過ぎた」
「一分?」
なつきが尋ねる。
「三分」
「企画書を取りに戻った分は?」
「必要経費だ」
「時間にも経費あるの?」
亜衣が笑う。
紅秋は答えず、階段を下り始めた。
◇
昇降口へ向かう途中。
校庭の方から。
聞き慣れた大声が響いた。
「ドリームマーケット、消すなよー!」
四人が。
窓の外を見る。
遠く。
部活動へ向かう途中なのか。
圭が大きく腕を振っている。
隣では田辺と島中が笑い。
少し離れた場所にいた別の生徒達まで、何事かとこちらを見ていた。
「大人しくする約束は?」
なつきが窓を少し開けて返す。
「授業中だけ!」
「初めて聞いた!」
「更生六割のまま!」
「明日は七割目指す!」
「自分で決めないで!」
校庭と校舎。
離れた場所から。
声が行き来する。
圭の近くで。
田辺が腹を抱えるように笑い。
島中が何かを叫ぶ。
「人生ゲームも忘れるなって!」
「それは消す!」
春樹が。
なつきより先に返した。
一瞬。
校庭が静かになる。
そのあと。
圭達の大きな笑い声が。
夕方の空へ広がった。
「春樹くんまで叫んだ」
なつきが驚いて見ると。
春樹は少しだけ気まずそうに窓を閉めた。
「聞こえないと思ったから」
「ちゃんと聞こえてた」
「でも伝わった」
「言葉が遅いどころか、今は早かったね」
「圭の人生ゲームだから」
「そこだけ反応速い」
なつきは耐えきれず、声を立てて笑った。
亜衣も。
茜も。
紅秋も。
それぞれ違う笑い方で。
春樹の珍しい大声を受け取った。
◇
企画会議は。
案より先に収拾がつかなくなった。
圭の夢は。
巨大人生ゲームから。
校内人生ゲームへ広がり。
学科交流ミッションラリーまで削られた。
田辺の納豆は。
香水になりかけ。
制服になりかけ。
最後には開けやすい容器という、思いがけない商品案へ変わった。
亜衣の思いつきは素材カードになり。
茜の問いは企画の目的になり。
紅秋の現実は、夢を実施できる形へ整えた。
春樹の整理と。
なつきの記録。
クラスメイト達の笑い声。
いくつもの言葉が重なり。
一枚の企画書になった。
完璧ではない。
空欄はある。
忘れ物もした。
名前さえ決まっていない。
それでも。
昨日より。
確かに形になっている。
なつきは、胸の前へファイルを抱え直した。
紙の重さ。
クラスの声の重さ。
責任。
少し前なら。
重くて、怖いとしか思えなかったかもしれない。
今は違う。
一人で持っているものではないと分かる。
春樹が隣で。
同じ内容を覚えている。
亜衣と茜が。
企画へ言葉を残している。
紅秋が。
抜けた部分を見つけてくれる。
圭達が。
次の日も、きっと新しい案を持ってくる。
その重さは。
誰かに押しつけられたものではなく。
みんなで持ち上げたものだった。
「なつき」
亜衣が隣を歩きながら聞いた。
「今日は、黒猫ほとんど触らなかったね」
なつきは鞄の横へ目を向けた。
いつもの場所。
黒猫は、歩く揺れに合わせて小さく動いている。
「うん。朝も、報告の時も、企画書を作ってる時も。触ろうと思う前に話が進んでた」
「寂しい?」
なつきは少し考えた。
「大切じゃなくなったわけじゃないよ。でも、毎回助けてもらわなくても大丈夫な時間が増えたのは、少し嬉しい」
茜が頷く。
「必要な時だけ頼れる方が、長く大切にできるでしょうね」
「うん」
なつきは。
すぐ隣を歩く春樹を見た。
春樹も。
黒猫ではなく。
なつきの顔を見ていた。
「春樹くんも、黒猫がなくても分かる?」
春樹は、少しだけ考え。
以前より長い言葉で答えた。
「全部は分からない。でも、今日の横田さんは、話したい時に少し前を向く。迷ってる時は、紙の端を揃える。嬉しい時は、声が少し軽くなる。それくらいは分かる」
なつきは。
驚いて。
自分の手元を見る。
今も。
企画書のファイルの端を、無意識に揃えていた。
「そんなに見てたんだ」
「見てた」
「黒猫より?」
「横田さんの方を見る時間が増えた」
亜衣の足が。
ぴたりと止まった。
茜も。
少しだけ目を見開く。
紅秋は。
前を歩いたまま、歩調をほんの少し速めた。
なつきは。
言葉を失った。
春樹だけが。
なぜ周囲の空気が変わったのか、完全には分かっていない顔をしている。
「今の」
亜衣が、ゆっくり言った。
「かなり強い」
「何が?」
春樹が尋ねる。
紅秋が振り返らずに答えた。
「今は考えなくていい。帰るぞ」
「また?」
「今日も企画が進まなくなる」
なつきは。
頬が熱くなるのを感じながら。
それでも。
笑った。
春樹が。
黒猫ではなく。
なつき自身を見る時間が増えた。
その言葉を。
今は。
細かく意味へ分けなくてもよかった。
嬉しい。
それだけは。
はっきり分かる。
「春樹くん」
「何?」
「私も、春樹くんを見る時間、増えてるよ」
春樹は。
少しだけ目を見開いた。
そして。
今度は。
自分の言葉が周囲へ与えた意味を、少しだけ理解したように。
耳のあたりを赤くした。
亜衣が。
すぐに何か言おうとする。
けれど。
茜が、その腕へそっと触れた。
今は。
二人へ返さなくていい。
そう伝えるように。
亜衣は口を閉じ。
代わりに、堪えきれない笑みだけを浮かべた。
夕暮れの廊下。
企画書を抱えるなつき。
その隣を歩く春樹。
少し前を行く紅秋。
隣で笑う亜衣と茜。
窓の外からは。
圭達の騒がしい声が、まだ遠く聞こえている。
企画は。
ようやく下書きになったばかり。
秋季交流週間は。
まだ始まってもいない。
けれど。
クラスは動き始めた。
春樹となつきも。
助けてもらうだけでも。
助けるだけでもなく。
同じ紙を覗き込み。
同じ言葉を拾い。
互いが見落としているものを見つけながら。
昨日より。
少しだけ深く。
隣を歩き始めていた。




