第133話 こちら、恋愛優先道路です
翌朝。
水戸の空には、薄い雲が長く伸びていた。
朝の光はやわらかく、白い校舎の壁へ淡く反射している。
風は前日より少しだけ冷たかった。
校門へ向かう生徒達の中には、制服の袖口へ手を隠すように歩く者もいる。
けれど、校舎へ近づくにつれて聞こえてくる声は、いつもの朝より少し賑やかだった。
「今日、掲示出るんだよな」
「昼休みでしょ?」
「混みそう」
「どんな企画あるんだろ」
「去年の先輩、校内スタンプラリーやったって言ってた」
「販売企画もあるらしいよ」
秋季交流週間。
昨日まで、名前と概要だけだった新しい行事。
今日の昼休み。
全校掲示板へ、正式な企画内容と実行委員向けの集合案内が掲示される。
放課後には、第一回実行委員会。
そのせいか。
学校全体の空気に、始まる前の少し浮ついた熱が混じっていた。
なつきも、通学路を歩きながら鞄の中の資料を何度か確かめていた。
昨日。
自分で手を上げた。
実行委員をやると。
そして春樹も。
同じ役目を引き受けた。
二年十一組。
男子実行委員、大國春樹。
女子実行委員、横田なつき。
担任から渡された資料には、二人の名前がすでに記入されている。
その文字を見るたび。
胸の奥が落ち着かなくなる。
怖い。
嬉しい。
緊張する。
でも、少し誇らしい。
いろいろな気持ちが、まだ一つにはまとまらない。
「なつき」
隣を歩く亜衣が、なつきの鞄を見る。
「朝から三回目」
「何が?」
「資料確認」
「そんなに見てた?」
「見てた」
「忘れてないか心配で」
「学校着く前に忘れ物へ気づいても、もう遅いけどね」
「それ言わないで」
なつきは、もう一度鞄の口を確かめそうになって手を止めた。
少し後ろを歩いていた茜が、穏やかな声で言う。
「必要なものは、昨日一緒に確認したでしょう?」
「うん」
「資料」
「ある」
「筆記用具」
「ある」
「生徒手帳」
「ある」
「黒猫」
亜衣が付け足した。
なつきは鞄の横を見た。
「ある」
「一番大事」
「資料の方が大事だよ」
「春樹くんにとっては?」
「亜衣ちゃん」
なつきの頬が熱くなる。
亜衣は朝から楽しそうだった。
「だって今日、人混みで見失うかもしれないんでしょ?」
「うん」
「黒猫が目印」
「春樹くん、黒猫なくても見つけるって言ってた」
「言ってたね」
「体育館でも見つけたし」
「自慢?」
「違う」
否定したものの。
少しだけ嬉しそうな声になった自覚はあった。
亜衣もすぐ気づいたらしく、口元を緩める。
「今日も見つけてもらえるといいね」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
昨日。
春樹と約束した。
一緒に掲示板へ行く。
人が多くても、見つける。
なつきも、春樹を見つける。
「ただ」
茜が少しだけ真面目な声で言う。
「掲示板の前は、本当に混雑すると思うわ」
「うん」
「実行委員は内容を正確に確認する必要があるから、無理に前へ押し込まないようにね」
「分かった」
「怪我もしないように」
「うん」
亜衣が言う。
「圭くん達がいるから、別の意味で危ないかも」
「昨日、交通整理するとか言ってた」
「紅秋くんが止めてたけど」
「本当にやらないよね」
三人は、一瞬だけ黙った。
圭の顔を思い浮かべる。
「……やるかも」
なつきが言った。
「やるね」
亜衣が即答する。
茜が、少しだけため息をついた。
◇
二年十一組の教室へ入る。
なつきは、新しい席へ向かう前に。
声を探した。
「圭、掲示板で騒ぐな」
「まだ何もしてない」
「昨日、宣言していた」
「交通整理は善行」
「お前がやると余計に混乱する」
「偏見」
いた。
春樹。
紅秋。
圭。
いつもの声。
なつきの胸が、少しだけ落ち着く。
教室へ入る。
自分の席へ近づく。
春樹が、本から顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
なつきも笑う。
「私も、声で見つけた」
「圭に注意してた?」
「うん」
圭が不満そうに言う。
「朝から二人とも俺を目印に使う」
「声が大きいから」
春樹が答える。
「もっと優しい言い方あるでしょ」
「よく通る声」
なつきが言い換える。
圭は少し考え。
「それならいい」
紅秋が前方から振り返る。
「褒められていないぞ」
「気持ちの問題」
田辺と島中も教室へ入ってくる。
「朝から何の話?」
田辺が聞く。
「俺の声が二人をつないでる」
圭が胸を張る。
島中が顔をしかめた。
「何その迷惑な赤い糸」
「俺は糸じゃない」
「じゃあ拡声器」
「さらに悪くなった」
教室に笑いが起きる。
なつきは鞄を机へ掛けた。
黒猫が揺れる。
春樹がすぐに見る。
「今日は」
「何?」
「緊張してる?」
なつきは手元を見る。
黒猫を揺らしたあと、指が少しだけ残っていた。
「少し」
「掲示板?」
「それも」
「会議?」
「うん」
「俺も」
春樹が言う。
なつきは顔を上げる。
「春樹くんも緊張してる?」
「少し」
「黒猫ないから分からない」
「ない」
「春樹くん用もつける?」
言ってから。
なつきは、自分の言葉に驚いた。
春樹の鞄に。
何か目印をつける。
自分が選んだものを。
そこまで想像し。
頬が熱くなる。
圭が一瞬で反応した。
「お揃い?」
「違う!」
「まだ何も言ってない」
「言った」
「お揃いって聞いただけ」
「だから違う」
春樹は、自分の鞄を見る。
「黒猫?」
「春樹くんにつけるなら、別のもの」
「何?」
「分からない」
「考える?」
「……考えてもいい?」
「うん」
圭が机へ額をつけた。
「朝から新しい企画始まった」
島中が笑う。
「秋季交流週間より先に?」
田辺も続ける。
「大國の鞄デコレーション企画」
「デコレーションしない」
春樹は真面目に否定した。
紅秋が言う。
「そこではない」
教室に、さらに笑いが広がった。
◇
ホームルーム。
担任が教室へ入ると。
昨日より少しだけ、実行委員へ向けられる視線が増えた。
なつきも。
春樹も。
それに気づいている。
責めるような視線ではない。
今日から、本当に役目が始まる。
何をするのだろう。
どんな企画なのだろう。
期待や好奇心。
それらが二人へ向いている。
「本日は」
担任が言う。
「昼休みに全校掲示板へ、秋季交流週間の企画一覧と、実行委員会の案内が掲示されます」
教室が少しざわつく。
「掲示板は中央棟一階です」
「狭いところ」
誰かが言った。
「混むね」
「絶対見えない」
担任も頷く。
「毎年混雑します」
「毎年なら改善してください」
島中が言う。
教室に笑いが起きる。
「今年は昨年より掲示場所を広げています」
「対策済み」
「でも全校生徒来たら無理じゃない?」
「無理に全員が昼休みに見る必要はありません」
担任は少しだけ声を強める。
「特に実行委員以外は、放課後でも確認できます」
圭が小声で言う。
「でも昼に見る」
紅秋が即座に返す。
「なぜだ」
「祭りは初動」
「掲示だ」
「最初に見たい」
担任が、圭へ視線を向けた。
「三浦くん」
「はい」
「実行委員が内容を確認できるよう、通路を塞がないでください」
教室中が、圭を見る。
「先生にも警戒されてる」
「昨日の話聞こえた?」
「俺、何もしてないのに」
担任は、ごく落ち着いた声で続けた。
「昨日、廊下で『恋愛優先道路』という言葉が聞こえました」
教室が。
一瞬。
完全に止まった。
そして。
爆発したような笑いが起きた。
「先生聞いてた!」
「圭、終わった!」
「廊下まで響いてた!」
圭は顔を両手で覆った。
「違うんです。俺が最初じゃない」
田辺がすぐ言う。
「俺らを巻き込むな」
「田辺が言った」
「圭が交通整理って言ったからだろ」
「島中も笑ってた」
「笑うだけなら無罪」
「紅秋!」
「俺に助けを求めるな」
なつきは。
顔が熱くなり。
机へ伏せたくなった。
担任が。
恋愛優先道路。
その言葉を知っている。
しかも。
教室全体の前で口にした。
春樹は。
少しだけ首を傾げている。
「恋愛優先道路って何?」
圭が、さらに頭を抱えた。
「今聞く!?」
島中が笑いながら答える。
「大國と横田が人混みで会うための通路」
「いらない」
春樹は即答した。
「見つけるから」
教室が再び静まる。
なつきの心臓が大きく鳴る。
春樹は、何も特別なことを言ったつもりはない顔で続ける。
「横田さん、人多くても見つけるって約束した」
一秒。
次の瞬間。
教室中から声が上がる。
「そっちの方が強い!」
「道路いらない宣言!」
「人混みでも見つける!」
「もう掲示見なくていいくらい情報量多い!」
なつきは黒猫で口元を隠した。
「春樹くん……」
「何?」
「今は言わなくても」
「約束した」
「したけど」
圭が机を軽く叩く。
「先生、これです!」
「三浦くん」
「はい」
「静かにしてください」
「はい」
担任は。
ほんの少しだけ、春樹となつきを見た。
それから。
何事もなかったように連絡を続けた。
「実行委員の二人は、混雑に注意しながら、掲示内容を正確に確認してください」
「はい」
なつきと春樹が答える。
「必要なら写真を撮って構いません」
「先生」
圭が再び手を上げる。
「恋愛優先道路は?」
「必要ありません」
即答。
教室に三度目の笑いが広がった。
◇
一時間目。
二時間目。
授業は普通に進んだ。
けれど。
昼休みが近づくにつれて。
教室全体が、少しずつ落ち着かなくなっていった。
休み時間には。
他クラスの生徒達も廊下で、掲示板の話をしている。
「何時に貼るんだろ」
「昼休み始まってすぐじゃない?」
「去年は貼る前から並んでた」
「限定商品じゃないんだから」
「でも企画の枠あるかもよ」
噂が噂を呼び。
まだ何も掲示されていないのに。
全校生徒が一斉に見に行くような雰囲気になっている。
なつきは、三時間目の休み時間。
担任からもらった資料を、もう一度確認していた。
「集合案内も掲示されるんだよね」
「うん」
春樹が斜め後ろから答える。
「放課後、大会議室」
「時間、四時?」
「四時十分」
「終礼終わってすぐ?」
「少し余裕ある」
「席、どこかな」
「自由だと思う」
「春樹くん、隣座る?」
聞いてから。
なつきは、一瞬だけ息を止めた。
昨日。
君が一人なら、隣に立つ。
互いにそう言った。
実行委員会。
同じクラスの代表として。
隣に座るのは自然なこと。
それでも。
口にすると緊張する。
春樹はすぐに頷いた。
「うん」
「本当に?」
「同じクラスだから」
「うん」
「それと」
春樹は少しだけ言葉を探した。
「横田さんの隣がいい」
なつきの指が止まる。
周囲。
亜衣が聞いている。
圭も聞いている。
島中と田辺も、少し離れた場所で反応した。
なつきの顔が一気に熱くなる。
「春樹くん」
「何?」
「それ、みんなの前で言うと」
「本当」
「本当でも」
「だめ?」
春樹の問いは真面目だった。
なつきは。
黒猫へ手を伸ばす。
握り。
少しして、力を緩める。
「だめじゃない」
「うん」
「すごく嬉しい」
「分かる」
圭が椅子から少しずり落ちた。
「もう俺、昼休みまで持たない」
「何が?」
春樹が聞く。
「感情」
紅秋が言う。
「お前の感情は誰も管理できない」
田辺が笑う。
「圭、掲示板行く前に保健室寄る?」
「恋愛過多で?」
「診断名みたいに言うな」
教室に、やわらかな笑いが広がった。
◇
四時間目。
昼休み直前。
時計の針を気にしている生徒が、明らかに増えていた。
先生も、それに気づいている。
「まだ授業は終わっていません」
誰かが時計を見るたびに。
先生の声が飛ぶ。
圭は、授業中だけで三回注意された。
「三浦くん」
「はい」
「時計を見ても、時間は早く進みません」
「確認です」
「一分ごとの確認は不要です」
教室に笑いが起きる。
なつきも、少しだけ時計を見たい気持ちはあった。
掲示板。
混雑。
春樹と一緒に行く。
人混みの中で見つけ合う。
そればかり考えているわけではない。
実行委員として。
企画内容を正確に確認しなければならない。
放課後の会議に必要な資料もあるかもしれない。
自分は遊びに行くのではない。
何度も、そう言い聞かせる。
それでも。
胸が少しだけ高鳴る。
チャイムが鳴った。
「起立」
挨拶。
先生が教室を出る。
次の瞬間。
圭が立ち上がる。
「行くぞ!」
紅秋が即座に言う。
「まず昼食を持て」
「掲示見てから食べる」
「混雑の中で空腹になるぞ」
「三分で戻る」
島中が笑う。
「絶対三分じゃ無理」
田辺も立ち上がる。
「俺も見る」
「田辺まで」
「企画気になる」
教室のあちこちで。
生徒達が一斉に立ち始めた。
女子達も。
男子達も。
「行こう」
「早くしないと見えない」
「写真撮ってきて」
「誰か場所取って」
担任の言葉。
全員が昼休みに行く必要はない。
誰も覚えていないようだった。
「横田さん」
春樹が呼ぶ。
なつきは鞄から実行委員の資料と生徒手帳を出した。
「うん」
「行く?」
「行く」
「一緒」
「うん」
亜衣も立ち上がる。
「私達も行く」
「茜ちゃんは?」
「私は少し後から行くわ」
茜は、教室の混雑を見ながら苦笑する。
「先発隊がどれほど混むのか確認してから」
「賢い」
亜衣が言う。
圭は、教室の扉の前で振り返る。
「実行委員を先頭に!」
「やめて」
なつきが言う。
「圭」
春樹も呼ぶ。
「何?」
「普通に行く」
「普通に先導」
「先導しない」
「分かった」
圭の返事が。
少しだけ怪しかった。
◇
廊下へ出た瞬間。
予想より早く。
学校全体が動いていることを知った。
中央棟へ向かう廊下。
すでに生徒達が同じ方向へ歩いている。
一年生。
二年生。
三年生。
特進科。
普通科。
商業科。
スポーツ特待。
制服は同じでも。
普段はあまり同じ廊下を歩かない生徒達が、一つの場所へ集まっている。
「もう多い」
なつきが言う。
「うん」
春樹が隣で答える。
少し後ろに。
圭、島中、田辺。
亜衣。
さらに後方から、紅秋が歩いてくる。
紅秋は教室に残るつもりだったが。
圭達が何かしないか監視するために来たらしい。
「紅秋も来た」
圭が嬉しそうに言う。
「お前達が不安だからだ」
「保護者」
「監督だ」
「同じようなもの」
廊下の角を曲がる。
さらに人が増える。
掲示板のある中央棟一階へ続く階段。
そこには、すでに列のようなものができていた。
「まだ貼られてない?」
誰かが言う。
「先生達いる」
「今貼ってる!」
「押すなって!」
階下から。
ざわめきが響いてくる。
足音。
笑い声。
誰かを呼ぶ声。
教師の注意。
「走らないでください!」
「階段で止まらない!」
「手すり側を空けて!」
群衆の熱が、階段の下から上がってくる。
なつきは。
思っていた以上の人の多さに。
少しだけ足が止まった。
「横田さん」
春樹がすぐに気づく。
「うん」
「大丈夫?」
「人多い」
「うん」
「ちょっと怖い」
正直に言う。
春樹は、周囲を見る。
前。
後ろ。
生徒の流れ。
「壁側行く?」
「うん」
二人で、廊下の端へ少し寄る。
春樹が、人の流れ側へ立つ。
なつきが壁側。
それだけで。
少し安心する。
「春樹くん」
「何?」
「ありがとう」
「うん」
圭が後ろから言う。
「自然に守ってる」
紅秋がすぐ返す。
「今は茶化すな」
「分かってる」
圭も。
なつきの顔を見て。
少しだけ声を落とした。
「横田、無理なら後で見る?」
「ううん」
なつきは首を横に振る。
「実行委員だから」
「うん」
「春樹くんもいる」
「うん」
「見る」
圭は頷いた。
「じゃあ、押されないようにする」
「普通にね」
「普通に」
田辺が圭を見る。
「お前の普通が一番不安」
「今日は本当に善良」
島中が笑う。
「今日は、って自分で言った」
◇
階段を下りる。
一段。
一段。
人の流れに合わせて。
急がず。
中央棟一階。
掲示板のある廊下へ入った瞬間。
なつきは。
思わず息を呑んだ。
人。
人。
人。
廊下の両側。
階段前。
掲示板の前。
生徒達が、何重にも重なっている。
掲示板自体は。
例年より広く使われているらしい。
三枚の大きな模造紙。
左右に企画一覧。
中央に実行委員会の案内。
けれど。
後ろからは。
紙の上部しか見えない。
「見えない」
亜衣が言う。
「全然」
島中も背伸びする。
田辺は身体が大きいため、少し見えているらしい。
「一番上に、学年混合企画ってある」
「その下は?」
「頭で見えない」
前方。
「押さないで!」
「写真撮ったら代わって!」
「後ろ見えない!」
「一年、前に詰めすぎ!」
「三年だって見たい!」
教師達が声を上げている。
「立ち止まらず、確認したら移動してください!」
「実行委員を先に通してください!」
その言葉に。
生徒達の一部が少しだけ動く。
けれど。
誰が実行委員か。
見ただけでは分からない。
「大國くん、横田さん」
後ろから声がした。
振り返ると。
同じ学年の別クラスの実行委員らしい生徒が、腕章をつけている。
「腕章、教室でもらってない?」
なつきと春樹は顔を見合わせた。
「もらってない」
春樹が答える。
「担任が渡し忘れた?」
「たぶん」
なつきの胸が少しだけ不安になる。
実行委員。
最初の日。
必要な腕章がない。
「どうする?」
「先生に言う?」
「でも戻ったら、もっと混む」
春樹は少し考える。
「生徒手帳」
「名前?」
「うん」
二人とも、実行委員の記載がある資料を持っている。
近くの教師へ見せれば通してもらえる。
「行こう」
「うん」
春樹が先に進む。
なつきも、その後ろへついていく。
けれど。
人の流れが。
急に横から入ってきた。
「写真撮れた!」
「次代わって!」
「そっち空いた!」
数人の生徒が一斉に動く。
春樹となつきの間へ。
人が入る。
「あ」
なつきは足を止めた。
春樹の背中が。
一瞬で見えなくなる。
白いシャツ。
紺色の制服。
同じような背中が重なる。
「春樹くん」
呼んだ。
でも。
周囲の声に消える。
「横田!」
亜衣の声が後ろから聞こえる。
「大丈夫?」
「うん」
返そうとする。
その間にも。
人の流れが動く。
なつきは、壁際へ押されるように少し移動した。
春樹が見えない。
圭達も。
亜衣も。
ほんの数歩。
それだけ離れただけなのに。
周囲が知らない背中ばかりになる。
胸が速くなる。
黒猫へ手を伸ばす。
握る。
大丈夫。
学校の中。
すぐ近くにみんないる。
掲示板から離れれば、見つけられる。
分かっている。
それでも。
人の多さ。
声。
熱。
視界の狭さ。
少し怖い。
「横田さん」
声がした。
遠くはない。
でも。
どこからか分からない。
なつきは顔を上げる。
「春樹くん?」
「ここ」
人の間。
少し左。
見えない。
それでも。
声で分かる。
「横田さん」
もう一度。
「うん!」
今度は少し大きく返した。
「いる」
「うん」
「動かないで」
「分かった」
春樹の声。
それだけで。
呼吸が少し戻る。
なつきは壁際で待つ。
人の肩。
鞄。
制服。
その間を。
春樹が少しずつ進んでくる。
まだ見えない。
でも。
近づいている。
「すみません」
「通ります」
春樹の短い声。
人が少しずつ避ける。
そして。
人の隙間から。
春樹の顔が見えた。
目が合う。
「見つけた」
春樹が言った。
なつきの胸が。
大きく鳴った。
「私も」
声が少し震える。
「声で見つけた」
春樹は、なつきの黒猫を見る。
強く握られている。
「怖かった?」
「少し」
「ごめん」
「春樹くんのせいじゃない」
「離れた」
「うん」
「次は離れない」
なつきは、春樹を見る。
人混み。
騒がしさ。
それでも。
春樹の声だけは、はっきり届いた。
「うん」
黒猫を握る指から。
少しだけ力を抜く。
◇
「いたー!」
突然。
圭の大きな声が響いた。
なつきと春樹が同時に振り返る。
人混みの向こう。
圭。
島中。
田辺。
亜衣。
紅秋。
全員が。
少しずつこちらへ進んでくる。
「大國、横田確保!」
圭が叫ぶ。
近くの生徒達が何事かと見る。
「確保って言わないで!」
なつきが返す。
「無事ならよし!」
田辺が人の流れを見ながら言う。
「このままだと、実行委員前行けないぞ」
島中も頷く。
「教師のところまで道作る?」
紅秋が言う。
「普通に事情を話して通してもらえ」
圭は。
その言葉を聞いたあと。
何かを思いついた顔をした。
紅秋がすぐ気づく。
「三浦」
「何?」
「やめろ」
「まだ何もしてない」
「顔で分かる」
「善良な交通整理」
「必要ない」
しかし。
圭は。
もう一歩前へ出ていた。
「すみませーん!」
声が響く。
周囲の生徒達が振り返る。
紅秋が額へ手を当てる。
「実行委員、通りまーす!」
圭が言った。
ここまでは。
まだ正しい。
「二年十一組、男女一名ずつでーす!」
それも。
間違いではない。
そして。
圭は。
大きく息を吸った。
「こちら、恋愛優先道路でーす!」
一瞬。
廊下が。
止まった。
教師も。
生徒も。
近くにいた一年生も。
三年生も。
なつきも。
春樹も。
全員が。
圭を見た。
次の瞬間。
廊下中から、爆発するような笑い声が上がった。
「何それ!」
「恋愛優先道路!?」
「誰と誰!?」
「実行委員カップル?」
「付き合ってんの?」
「二年十一組強い!」
なつきの顔が。
一瞬で真っ赤になる。
「圭くん!!」
声が裏返った。
「道路開けて!」
圭は、もう後戻りできない。
田辺と島中が。
笑いながらも。
なぜか人の流れを整理し始める。
「はい、少し右寄って!」
「実行委員通るから!」
「写真撮った人は後ろ!」
「前詰めすぎ!」
結果として。
本当に小さな通路ができ始めた。
「圭」
紅秋が低い声で呼ぶ。
「何?」
「後で話がある」
「道路できた」
「それとこれとは別だ」
亜衣は。
笑いすぎて壁へ手をついている。
「なつき、ごめん」
「絶対思ってない!」
「ごめん、でも無理」
「笑わないで!」
周囲。
「どの二人?」
「あの黒猫の子?」
「隣の男子?」
「本当に?」
「仲良さそう」
知らない生徒達まで。
なつきと春樹を見る。
春樹は。
少しだけ困った顔をしている。
「恋愛優先道路」
「言わないで」
なつきが即座に返す。
「でも」
「何?」
「道できた」
「それはそうだけど!」
春樹の真面目な返事に。
近くの生徒達から、さらに笑いが起きる。
「男子、天然!」
「否定しないんだ!」
「付き合ってないの?」
誰かが聞いた。
なつきが答える前に。
春樹が言う。
「付き合ってない」
周囲から。
なぜか残念そうな声が上がる。
「えー」
「まだ?」
「まだって何!」
なつきが思わず返す。
その反応に。
笑いがさらに広がる。
圭が言う。
「付き合ってないのが一番怖い!」
「圭くん!」
田辺が笑う。
「それ昨日も言ってた」
島中も。
「この距離で付き合ってない」
春樹が少しだけ首を傾げる。
「距離?」
紅秋が。
静かに言った。
「春樹は今、考えなくていい」
「そう?」
「今は掲示を見ろ」
「うん」
紅秋だけが。
この混乱の中で。
実行委員の役目を思い出していた。
◇
圭達が作った。
不本意な恋愛優先道路。
そのおかげで。
なつきと春樹は。
教師のいる位置まで進めた。
近くにいた教師が。
二人の資料を確認する。
「二年十一組の実行委員ですね」
「はい」
「腕章は?」
「担任からもらってません」
「では、放課後の会議で渡します」
「はい」
「先に掲示を確認してください」
教師が。
前方のスペースを少し空けてくれる。
なつきと春樹は。
ようやく。
掲示板の真正面へ立った。
後ろからは。
まだ笑い声。
圭への注意。
知らない生徒達の囁き。
でも。
なつきは。
一度深呼吸し。
掲示へ視線を向けた。
「見よう」
春樹が言う。
「うん」
実行委員として。
最初の仕事。
掲示の中央。
大きく。
『秋季交流週間 企画一覧』
一つ目。
『学年・学科混合交流展示』
各クラスが。
別学年、別学科のクラスと合同で。
一つの展示を作る。
二つ目。
『校内交流スタンプ企画』
校内の複数の場所を巡り。
簡単な課題や交流を行う。
三つ目。
『読書・文化交流展示』
図書委員会を中心に。
学科を越えた推薦図書や作品紹介を行う。
祐衣が関わると言っていた企画。
四つ目。
『商業科販売・企画演習』
商業科の各学年が。
企画、広報、簡易販売を担当する。
「これ」
なつきが指す。
「商業科」
「うん」
「私達、関わる?」
「たぶん」
五つ目。
『交流競技・協力活動』
体育祭のような勝敗中心ではなく。
学年混合で行う協力型の競技。
「また運動?」
なつきが少し不安そうに言う。
「協力」
「うん」
「走るとは書いてない」
「それならいい」
春樹は、資料へメモを取る。
なつきも。
必要な部分を書き写す。
中央の案内。
『第一回実行委員会』
日時。
本日、午後四時十分。
場所。
特別棟一階、大会議室。
持ち物。
生徒手帳。
筆記用具。
配布資料。
各クラス一件以上、交流企画に関する意見を持参。
「意見」
なつきの手が止まる。
「今日まで?」
「放課後まで」
「クラスから聞かないと」
「うん」
「時間短い」
「昼休み、戻ったら聞く?」
「うん」
「一件以上」
「みんな、いっぱい言いそう」
「圭とか」
二人は同時に。
後ろを見た。
圭は。
教師から注意を受けていた。
「人の流れを整理した点は良いですが」
「はい」
「恋愛優先道路という表現は不要です」
「はい」
「校内で大声を出さない」
「はい」
「分かりましたか」
「恋愛部分を消して、実行委員優先道路なら」
「三浦くん」
「はい。分かりました」
島中と田辺が。
後ろで必死に笑いを堪えている。
紅秋は。
心底疲れた顔をしていた。
「圭くん、いっぱい意見出しそう」
なつきが言う。
「うん」
「まとめるの大変」
「一緒にやる」
春樹が答える。
なつきは。
少しだけ春樹を見る。
「うん」
◇
「横田さん」
別の声がした。
美優。
祐衣。
蓮。
三人も。
人混みの中からこちらへ来ていた。
美優の腕には。
実行委員の腕章。
特進科では、きちんと渡されたらしい。
「美優さん」
「すごかったね」
美優は。
圭の方を見ながら苦笑する。
「恋愛優先道路」
「言わないで」
なつきが顔を赤くする。
「廊下の向こうまで聞こえた」
祐衣も。
口元へ手を当てている。
「私も、驚きました」
「笑ってる?」
「少し」
「祐衣さんまで」
蓮は、春樹を見る。
「春樹、大丈夫だった?」
「何が?」
「恋愛優先道路」
「道はできた」
蓮が、一瞬黙る。
そして。
珍しく声を立てて笑った。
「そこなんだ」
「違う?」
「間違ってはいないけど」
美優がなつきと春樹の位置を見る。
二人は。
掲示板の前。
並んでいる。
肩の距離は近い。
同じ資料を見て。
同じ場所へメモを取っている。
胸が少し痛む。
「嫉妬した」
美優が言った。
なつきはすぐに頷く。
「うん」
「実行委員だから仕方ないって分かってる」
「うん」
「でも、二人並んでるの自然すぎる」
「うん」
「そこは少し否定して」
「私も、そうだったら嬉しいから」
美優が目を丸くする。
祐衣も少し驚く。
なつきは黒猫へ触れた。
「ごめん。でも、隠したくない」
美優は。
少しだけ唇を尖らせた。
「本当に正直になった」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも」
美優は、なつきの資料を見る。
「内容、確認できた?」
「うん。美優さんも実行委員?」
「うん」
「同じ会議?」
「同じ」
なつきの胸が少し動く。
「じゃあ、一緒」
「春樹とだけじゃないよ」
美優が言う。
「うん」
「私もいる」
「嬉しい」
「本当に?」
「うん。美優さんもいてくれたら安心する」
美優の表情が。
ほんの少しやわらかくなる。
「そっか」
祐衣が言う。
「私は図書展示の補助として、後日関わります」
「祐衣さんも」
「はい」
「じゃあ、みんないる」
なつきは嬉しくなる。
春樹。
美優。
祐衣。
クラスの仲間達。
一人ではない。
美優は。
その言葉を聞いて。
少しだけ苦笑した。
「春樹と二人だけがよかった?」
問いは。
少し意地悪に聞こえる。
でも。
本音。
なつきは、少し考える。
「二人でやるのも嬉しい」
「うん」
「でも、みんながいるのも嬉しい」
「どっち?」
「両方」
祐衣が笑う。
「横田さんらしい答えですね」
「そう?」
「はい」
美優も。
小さく息を吐いた。
「なら、今はそれでいい」
◇
掲示板から離れる。
圭達が作った通路は。
もう消えていた。
人の流れは。
相変わらず多い。
なつき達は。
壁沿いに少しずつ進む。
春樹。
なつき。
美優。
祐衣。
蓮。
亜衣。
圭。
島中。
田辺。
紅秋。
いつの間にか。
かなり大きな集団になっていた。
「交流週間始まる前から交流してる」
島中が言う。
「クラスも学科も混ざってるし」
田辺も頷く。
「企画達成」
圭が言う。
「じゃあもう終わり?」
「始まってない」
紅秋が返す。
亜衣が、圭を見る。
「先生に怒られた?」
「注意」
「恋愛優先道路は禁止?」
「表現が不要だって」
「じゃあ次から」
「次はない」
紅秋が即座に止める。
「実行委員優先道路なら」
「それも教師がやる」
「俺の仕事がない」
「元からない」
笑い声が起きる。
なつきも。
さっきまでの緊張が。
少しずつほどけていく。
「春樹くん」
「何?」
「さっき」
「うん」
「離れた時、声で呼んでくれた」
「うん」
「見つけた」
「うん」
「約束、守ってくれた」
春樹は。
なつきを見る。
「横田さんも」
「私も?」
「返事した」
「うん」
「声で分かった」
「春樹くんって?」
「うん」
なつきの胸が温かくなる。
「私も、春樹くんの声すぐ分かった」
「うん」
「姿見えなかったのに」
「俺も」
少し離れたところで。
圭が聞いている。
けれど。
今回は。
すぐに口を挟まなかった。
紅秋が、その変化へ気づく。
「言わないのか」
「何を?」
「何か言いたそうだ」
「今、いいところだから」
「学習したな」
「本読んだから」
圭は。
少しだけ得意そうに笑った。
◇
教室へ戻る。
昼休みは。
まだ半分以上残っていた。
しかし。
実行委員の二人には。
もう一つ仕事がある。
放課後の会議へ持参する。
クラスの意見。
「みんな」
なつきは。
自分の席へ戻る前に。
教室へ向けて声を出した。
最初は。
思ったより小さかった。
ざわつく教室。
何人かしか振り返らない。
喉が少し狭くなる。
以前なら。
ここでやめたかもしれない。
でも。
春樹が隣へ立つ。
何も言わない。
ただ。
なつきと同じ方向を見る。
それだけで。
少し呼吸が戻る。
「みんな!」
今度は。
もう少し大きく。
教室の声が。
少しずつ収まる。
「おお」
島中が小さく言う。
「横田、声出た」
田辺が頷く。
圭は。
今度は黙っている。
なつきは。
教室全体を見る。
緊張する。
視線。
でも。
昨日。
自分で手を上げた。
今日。
実行委員として。
初めてクラスへ伝える。
「放課後の実行委員会で」
声が、少し震える。
「クラスから、交流週間でやりたいことを、一つ以上持っていくことになってます」
みんなが聞いている。
「だから」
一度息を吸う。
「昼休みの間に、案があったら聞かせてください」
言えた。
教室に。
短い沈黙。
なつきの胸が速くなる。
返事がなかったら。
聞こえていなかったら。
その時。
「はい!」
圭が。
勢いよく手を上げた。
なつきは。
少しだけ安心し。
同時に不安になる。
「圭くん」
「学年混合読書バトル」
「何するの?」
「読んだページ数で競う」
紅秋が言う。
「交流ではなく個人戦だ」
「チームで読む」
「本を急いで読む企画は内容が入らない」
「却下?」
「改善が必要」
島中が手を上げる。
「販売企画で、クラスごとに店出す」
「何売る?」
なつきが聞く。
「そこから考える」
「案が大きい」
田辺も。
「スポーツ系の協力競技」
「体育祭と同じにならない?」
「勝敗じゃなくて、全員で何か運ぶ」
「田辺が運べば終わる」
圭が言う。
「全員でやるんだよ」
女子達からも。
少しずつ声が上がる。
「学科混合で、制服アレンジ展示」
「校則に触れそう」
「飾るだけ」
「地元のお店紹介」
「商業科らしい」
「おすすめ本と、関連する映画や音楽」
「図書企画と合いそう」
なつきは。
一つずつ。
ノートへ書く。
春樹も。
隣で。
出た意見を整理する。
「今の、似てる」
「どれ?」
「地元紹介と販売企画」
「まとめられる?」
「うん」
春樹は。
書いたものへ線を引く。
なつきは。
クラスの生徒達を見る。
声の大きい圭や島中だけではない。
少し離れた席。
まだ何も言っていない女子。
「ほかに」
なつきが聞く。
「まだ言ってない人も、何かありますか」
少し静かになる。
その中で。
女子の一人が。
小さく手を上げた。
「私は」
「うん」
「他学科の授業体験みたいなの、少しやってみたい」
「授業体験?」
「商業科の簿記を、特進や普通科の人に簡単に教えるとか」
「逆に、特進の勉強方法とか」
なつきの目が少し明るくなる。
「いいかも」
春樹も頷く。
「交流になる」
「うん」
「それ、書く」
女子は。
少しだけ安心したように笑った。
なつきも。
胸が温かくなる。
小さい声。
聞けた。
実行委員になったら。
こういう声を拾いたい。
昨日。
自分で考えたこと。
最初の仕事で。
少しだけできた。
◇
意見は。
予想以上に集まった。
圭の案だけで七個。
「多い」
春樹が言う。
「発想力」
「半分は現実的じゃない」
「夢」
「会議には持っていけない」
「選んで」
「今選ぶ」
圭は。
机へ身を乗り出す。
「学年混合巨大人生ゲーム」
「場所」
「体育館」
「時間」
「一週間」
「通常授業ある」
「じゃあ放課後」
「全員参加できない」
「難しい」
「最初から難しいと思ってた」
「言うな」
教室に笑いが起きる。
紅秋は。
なつきと春樹が書いたメモを見る。
「分類した方がいい」
「分類?」
なつきが聞く。
「展示」
「うん」
「販売」
「うん」
「競技」
「うん」
「体験」
「うん」
「文化」
「うん」
「各分類で一案ずつ残し、会議へ持っていけばいい」
「一件以上だから、複数でもいい?」
「多すぎるとクラスの希望が分かりにくい。三件程度でいいだろう」
春樹が頷く。
「地元紹介と販売」
「うん」
「学科授業体験」
「うん」
「読書と文化紹介」
「それもいい」
なつきは。
三つへ丸をつける。
「みんな、これでいい?」
教室へ聞く。
「いいよ」
「任せる」
「会議で話聞いてきて」
「無理なら別案」
声が返る。
圭が言う。
「巨大人生ゲームは?」
教室全体から。
「なし」
見事に重なった。
圭が肩を落とす。
「民主主義」
紅秋が言う。
「受け入れろ」
笑いが広がった。
◇
昼休みの終わり。
美優達は。
自分の教室へ戻るため立ち上がった。
「放課後、会議室で」
美優が言う。
「うん」
なつきが答える。
「一緒に行く?」
美優の問い。
なつきは、少しだけ春樹を見る。
昨日は。
二人で行く約束をしていた。
でも。
美優も同じ実行委員。
同じ場所へ向かう。
「みんなで行く?」
なつきが言う。
美優は。
少しだけ意外そうな顔をした。
「いいの?」
「うん」
「春樹と二人じゃなくて?」
「二人も嬉しいけど」
「うん」
「美優さんも一緒がいい」
美優の表情が。
やわらかくなる。
「分かった」
祐衣が言う。
「私は図書委員の仕事があるので、今日は参加しません」
「終わったら?」
「会議が終わる頃まで図書室にいます」
「じゃあ、あとで話す」
「はい」
春樹も言う。
「白石にも内容伝える」
祐衣の瞳が少し揺れる。
「ありがとうございます」
なつきの胸も。
少しだけ揺れる。
嫉妬。
でも。
昨日までの約束。
「私も一緒に伝える」
「はい」
祐衣は、なつきを見て笑った。
「お待ちしています」
◇
午後の授業。
なつきは。
午前中より少しだけ落ち着いていた。
掲示を見た。
人混みで春樹を見失った。
声で見つけた。
恋愛優先道路という。
人生で二度と聞きたくない言葉を。
全校生徒の前で叫ばれた。
でも。
実行委員として。
企画内容を確認した。
クラスから意見を集めた。
小さな声も拾えた。
今。
ノートには。
会議へ持っていく三つの案が書かれている。
怖かった。
でも。
できた。
授業の合間。
斜め後ろから。
小さな紙が回ってくる。
『昼、できてた』
春樹の字。
なつきは。
少しだけ笑う。
『春樹くんも』
返す。
紙が戻る。
『二人でできた』
胸が。
ゆっくり温かくなる。
なつきは。
その紙も。
筆箱へしまった。
◇
放課後。
終礼が終わる。
二年十一組の生徒達が。
春樹となつきを見送る。
「会議頑張って」
「意見、通るといいね」
「巨大人生ゲームも一応」
「圭くん、もう諦めて」
「夢だけ持っていって」
「持っていかない」
なつきは。
資料を抱える。
春樹も。
筆記用具と生徒手帳を確認する。
美優が教室の入口へ来た。
「行ける?」
「うん」
なつきが答える。
「春樹は?」
「行ける」
「じゃあ、行こう」
三人。
少し後ろから。
蓮。
蓮は男子実行委員になったらしい。
「蓮も?」
なつきが聞く。
「男子が決まらなくて」
蓮が苦笑する。
「最終的に推薦された」
美優が言う。
「蓮なら何とかすると思われた」
「美優も推薦したよね」
「一緒にやる人が蓮なら安心」
「それ、春樹達と同じ理由みたいだね」
美優が少しだけ黙る。
そして。
「そうかも」
と答えた。
◇
特別棟へ向かう廊下。
昼休みほどではない。
でも。
実行委員達が。
同じ方向へ歩いている。
腕章をつけた生徒。
資料を抱えた生徒。
緊張した顔。
友達同士で話す声。
なつきは。
資料を胸の前へ抱えた。
春樹が隣。
反対側に美優。
少し後ろに蓮。
「緊張してる?」
美優が聞く。
「うん」
「私も」
「美優さんも?」
「人多い会議、得意じゃない」
「意外」
「みんな同じこと言う」
春樹も言う。
「俺も」
四人。
全員。
少し緊張している。
なつきは。
そのことが。
少しだけ嬉しかった。
自分だけではない。
「春樹くん」
「何?」
「さっき」
「うん」
「人混みで見つけてくれてありがとう」
「うん」
「本当に声で分かった」
「俺も」
「今日は探すの大変だった?」
春樹は少し考える。
「少し」
「でも?」
「声ですぐ分かった」
なつきの胸が鳴る。
「私も」
「うん」
「春樹くんの声、すぐ分かった」
美優は。
その会話を隣で聞いていた。
胸が少し痛む。
でも。
昨日より。
その痛みを隠さず言える。
「嫉妬した」
「うん」
なつきが答える。
「でも」
美優は続ける。
「人混みで見つけてもらえてよかったとも思う」
「両方?」
「うん。両方」
なつきは笑った。
「ありがとう」
蓮が。
少し後ろから言う。
「三人とも、前より話せるようになったね」
美優が振り返る。
「蓮、全部分かった顔する」
「幼馴染だから」
その言葉に。
なつきの胸が少しだけ揺れる。
美優がすぐ気づく。
「今、嫉妬した?」
「少し」
「春樹の幼馴染じゃなくて、私の話」
「分かってるけど」
「それでも?」
「うん」
美優は、少し笑った。
「本当に早く言うようになった」
「約束したから」
◇
大会議室の前。
大きな扉。
中から。
すでに多くの声が聞こえる。
なつきの足が。
ほんの少し止まった。
初めての実行委員会。
知らない生徒達。
先生達。
自分の意見を話す時間。
怖い。
黒猫へ触れたい。
でも。
今日は鞄の横。
資料を抱えているため、すぐには触れられない。
その時。
「横田さん」
春樹の声。
「うん」
「隣」
春樹が。
自分の隣の位置を。
少しだけ示す。
なつきは。
そこへ立つ。
「うん」
「一人じゃない」
「うん」
美優も。
反対側へ立った。
「私もいる」
「うん」
蓮も。
「クラスは違うけど、同じ学年」
なつきは。
少しだけ笑った。
「みんないる」
呼吸を整える。
「行こう」
春樹が言う。
「うん」
扉を開く。
大会議室。
新しい時間。
その中へ。
四人は。
一緒に足を踏み入れた。
◇
昼休み。
人混みの中で。
姿が見えなくなった。
声だけが届いた。
横田さん。
ここ。
動かないで。
その声を頼りに。
なつきは春樹を見つけた。
そして。
春樹も。
なつきの返事を見つけた。
人が多くても。
姿が隠れても。
同じ制服の中へ紛れても。
声で分かる。
気配で分かる。
探そうとすれば。
見つけられる。
「こちら、恋愛優先道路でーす!」
圭の声が。
まだ頭の中に残っている。
思い出すだけで。
顔が熱くなる。
けれど。
あの騒がしい道の先で。
二人は。
初めての仕事を終えた。
そして今。
次の扉の前に立っている。
秋季交流週間。
実行委員。
新しい役目。
新しい人達。
不安は消えない。
でも。
君の声が聞こえる。
君が隣にいる。
それなら。
見えない場所でも。
騒がしい場所でも。
なつきは。
きっと。
春樹を見つけられる。
そして春樹も。
なつきを見つけてくれる。
大会議室の扉が。
二人の後ろで。
ゆっくりと閉じた。




