第132話 君が一人なら、隣に立つ
一時間目が始まってからも。
なつきの頭の片隅には、黒板へ書かれた自分の名前が残り続けていた。
『女子候補 横田』
白いチョークで書かれた、たった二文字の苗字。
いつもなら。
黒板に自分の名前が書かれるのは、日直か、係当番か、先生に提出物を忘れた時くらいだ。
それだけでも、以前のなつきなら少し落ち着かなかった。
けれど、今日は違う。
秋季交流週間。
実行委員。
クラスの意見をまとめ。
他のクラスや学年の生徒と会議をし。
決まったことを教室へ伝え。
当日は運営側へ回る。
そんな役目の候補として、自分の名前がそこにある。
授業の先生が教室へ入ったため、担任が書いた候補欄は消されてしまった。
今、黒板には新しい授業の内容が並んでいる。
それでも。
なつきの目には、消えたはずの自分の名前が何度も浮かんだ。
――私にも、できるかな。
不安は消えない。
むしろ。
少しやってみたいと思ったからこそ、失敗した時のことを具体的に想像してしまう。
会議で当てられて、何も言えなくなる。
クラスへ説明する時、声が小さくて聞こえないと言われる。
誰かの意見を聞き忘れる。
提出期限を間違える。
男子の実行委員へ任せきりになる。
みんなに、やっぱり横田には無理だったと思われる。
胸の奥が、小さく縮む。
なつきはノートを取りながら、無意識に机の横へ手を伸ばした。
黒猫の頭へ指先が触れる。
握りそうになって。
止めた。
少しだけ撫でる。
斜め後ろ。
春樹が見ているかもしれない。
そう思ったからではない。
……と言い切る自信は、少しなかった。
春樹は言った。
『横田さんなら、できると思う』
無理に背中を押す声ではなかった。
誰かに押しつけられた役目を、やれと言ったわけでもない。
春樹は。
なつきが体育祭で声を出したこと。
勉強会で人へ言葉を返せたこと。
分からない時に聞けるようになったこと。
怖くても、自分の気持ちを少しずつ伝えてきたこと。
その全部を見た上で。
できると思う、と言ってくれた。
その言葉を思い出すと。
不安の隣に、小さな熱が残る。
怖い。
でも。
やってみたい。
授業中。
なつきの気持ちは、二つの間を何度も行き来していた。
◇
一時間目が終わる。
先生が教室を出ると。
教室の空気は、授業からすぐに実行委員の話へ戻った。
「男子候補、結局誰が一番やる気あるんだ?」
田辺が椅子へ深く座りながら言う。
「全員ない」
島中が即答する。
「圭は?」
「盛り上げる気はある」
「委員をやる気は?」
「薄い」
「正直」
紅秋が教科書を閉じながら言う。
「薄いなら、候補から外れる理由にはならない」
「紅秋、俺を逃がす気ない」
「候補に名前が出たのは、お前の発言が原因でもある」
「読書家の話しただけなのに」
「余計な主張だったな」
「先生が拾うと思わなかった」
島中が笑う。
「圭、先生相手に自爆しすぎ」
「冗談を記録された」
「記録してないって言ってたろ」
「でも怖かった」
田辺が、斜め後ろの春樹を見る。
「大國は?」
「考えてる」
春樹は短く答えた。
その言葉に。
圭がすぐ反応する。
「朝はやらないって言ってたのに」
「今は考えてる」
「横田が考えるなら?」
春樹は一度、なつきの背中を見る。
なつきは前を向いていた。
けれど。
名前が出た瞬間、肩がほんの少し揺れた。
「うん」
春樹が答える。
「そこは否定しないんだ」
島中が感心したように言う。
田辺も腕を組む。
「もう、だいぶ決まってる気するけどな」
「決まってない」
春樹が言う。
「何が?」
「横田さんも、まだ決めてない」
「そこ待つんだ」
圭が少し笑った。
「春樹らしい」
紅秋は。
春樹の顔をしばらく見た。
「春樹」
「何?」
「横田さんがやらない場合は?」
その問いに。
春樹は、すぐには答えなかった。
圭と島中、田辺も。
少しだけ口を閉じる。
なつきも。
前を向いたまま、無意識に聞いていた。
春樹はプリントへ視線を落とす。
仕事内容。
会議。
意見集約。
連絡。
運営補助。
「その時は」
春樹は言葉を探した。
「もう一度考える」
「やらないとは言わないんだな」
紅秋が聞く。
「うん」
「クラスの役目だから?」
「それも」
春樹は続けた。
「誰かがやらないといけない」
紅秋が小さく頷く。
「朝より、少し考えが進んだな」
「うん」
「では」
圭が身を乗り出す。
「横田がやったら、春樹もやる?」
春樹は圭を見る。
「そればかり聞く」
「一番気になるから」
「お前が気にすることではない」
紅秋が止める。
「でも教室全員気にしてる」
圭が周囲を見る。
近くで聞いていた男子達が、慌てて視線を逸らす。
「見てた」
「見てない」
「聞こえただけ」
「朝から大國と横田の話してるから」
「声が大きい」
紅秋の言葉。
圭は少しだけ声を落とした。
「じゃあ小声で聞く」
「聞くこと自体をやめろ」
「はい」
春樹は。
なつきの背中を見た。
黒猫。
机の横で、今日はあまり揺れていない。
指先が時々触れている。
怖い。
考えている。
その動き。
春樹には、少しずつ分かるようになっていた。
◇
「なつき」
亜衣が椅子を少し寄せる。
「考えてる?」
「うん」
「どっちに傾いてる?」
「まだ分からない」
「半分半分?」
「少しだけ、やる方」
亜衣の目が少し大きくなる。
「本当に?」
「うん」
「いつから?」
「朝から」
「春樹くんに言われたから?」
なつきは少し頬を赤くした。
「それもある」
「それも?」
「圭くんや島中くん、田辺くんも」
なつきは自分のノートを閉じる。
「周り見てるって言ってくれた」
「うん」
「体育祭で声出してたって」
「うん」
「考査の勉強会でも、人に声かけてたって」
「うん」
「私、自分では全然思ってなかった」
茜も、前方の席から休み時間の間だけ戻ってきた。
「自分にとっては、必死だったからでしょうね」
「必死?」
「体育祭も、考査も。なつきは、目の前のことを一つずつやっていた」
「うん」
「でも周りから見れば、その積み重ねが変化に見えたのよ」
なつきは、黒猫へ指を触れる。
「私、そんなに変わったのかな」
「変わった」
亜衣が即答する。
「最初の頃、春樹くんに挨拶するだけで一日分の勇気使ってた」
「それは」
「図書室で隣に座ると、ページ一枚読むのに十分かかってた」
「そこまでじゃない」
「五分くらい?」
「……近いかも」
茜が小さく笑う。
「今は、皆の前で自分の気持ちを言えることも増えたわ」
「うん」
「実行委員をやるかどうかは別として」
茜は言葉を丁寧に置く。
「できる可能性はあると思う」
「可能性」
「はい。最初から完璧にできる人しか役目を持てないなら、ほとんど誰も何もできないもの」
亜衣も頷く。
「分からないところは聞けばいいし」
「うん」
「説明の練習なら、私達が聞くし」
「うん」
「書類は茜ちゃんが近くにいる」
「必要な範囲で手伝うわ」
「男子委員が春樹くんなら」
亜衣が、わざと少し間を置く。
「かなり安心」
なつきの胸が鳴る。
「まだ春樹くんって決まってない」
「でも考えてる」
「うん」
「なつきが考えるなら、俺も考える」
亜衣が春樹の声を真似する。
「似てない」
「言葉は同じ」
「それはそうだけど」
「嬉しかった?」
「……うん」
なつきは隠さなかった。
「春樹くんが一緒なら」
声を少し落とす。
「怖くても、やってみたいと思った」
亜衣と茜は。
からかわずに聞いた。
「それは」
茜が言う。
「春樹くんへ任せたいという意味?」
「違う」
なつきは、少し考えて答える。
「任せきりにはしたくない」
「うん」
「春樹くんが困ったら、私も助けたい」
言葉にした時。
自分の中で何かが少しだけ整理された。
春樹と一緒なら。
守ってもらえる。
助けてもらえる。
それだけではない。
春樹が人前で言葉に詰まったら。
なつきが、伝えられる部分を補いたい。
春樹が細かいことを忘れる人ではないけれど。
もし疲れたら。
大丈夫と伝えたい。
自分が支えられることを、一つでも見つけたい。
「それなら」
亜衣が笑う。
「二人でやる意味あるね」
「うん」
なつきは、小さく頷いた。
◇
次の授業が始まるまでの数分。
教室のあちこちで。
実行委員の候補について、話し合いが続いていた。
男子側。
「島中は本当に無理?」
近くの男子が聞く。
「無理じゃないけど」
「じゃあできる」
「その理論やめろ」
「田辺とセットなら?」
「男女一名ずつ」
「お前ら両方男だろ」
「今さら確認するな」
田辺が笑う。
「俺は当日の荷物運びならやる」
「会議は?」
「寝る」
「正直すぎ」
「寝ないけど、向いてない」
島中が言う。
「でも田辺、意外と話聞くよな」
「意外は余計」
「利用者……じゃなくて、部活の後輩とか」
「急に何の話だよ」
「人の相談乗ってそう」
「たまには」
「じゃあ適性ある」
「押しつけるな」
圭が手を上げる。
「俺、意見まとめるのは紅秋に相談しながらならできる」
「俺を外部補助に使うな」
紅秋が即座に返す。
「相談もだめ?」
「必要なら答える。だが、何も考えずに持ってくるな」
「じゃあ考える」
「なら候補から逃げる理由が一つ減ったな」
「しまった」
教室に笑いが起きる。
女子側。
「横田さん、やるなら応援する」
「私も」
「でも無理しないで」
「女子、他に誰かいる?」
「一応候補はいるけど」
「委員会とか部活あるんだよね」
「横田さん、最近ほんと変わったよね」
その言葉が。
なつきの耳にも少し届く。
悪い意味ではない。
からかっている感じでもない。
驚きと。
期待。
少しの応援。
そんな空気。
以前なら。
周囲の視線を、全部怖いものとして受け取っていたかもしれない。
今も緊張はする。
けれど。
必ずしも、みんなが失敗を待っているわけではない。
むしろ。
できるかもしれないと見てくれている人がいる。
そのことを。
少しずつ信じられるようになっていた。
◇
二時間目。
先生が教室へ入る。
実行委員の話は一旦途切れた。
授業は国語。
題材は、人と人との意見の違いを扱った評論文だった。
先生が黒板へ大きく書く。
『対話とは、相手を自分と同じ意見に変えることではない』
なつきは、その一文をノートへ写した。
対話。
最近。
何度も自分達がしてきたこと。
美優。
祐衣。
春樹。
嫉妬。
寂しさ。
嬉しさ。
全部が同じになるわけではない。
でも。
言葉にすることで、相手がどう感じているかを知る。
相手を消すのではなく。
同じ場所にいられる方法を探す。
「交流週間の実行委員にも必要ですね」
先生が偶然にも言った。
教室が少し反応する。
「先生、もう知ってるんですか?」
圭が聞く。
「職員ですから」
「候補も?」
「それは知りません」
圭はなつきと春樹を見た。
紅秋がすぐに言う。
「見るな」
「何も言ってない」
「顔に出ている」
教室に笑いが起きる。
先生は少し首を傾げたが、そのまま授業を続けた。
「意見をまとめるとは、全員を同じ考えにすることではありません」
なつきは、さらにノートを取る。
「どこが一致していて、どこが違うのかを確認する」
自分にできるだろうか。
クラスの意見を聞く。
全員が同じではない。
やりたい企画も違う。
負担の考え方も。
面倒だと思う人も。
本気で取り組みたい人も。
その中で。
誰か一人の声だけに流されず。
小さな声も拾う。
なつきは。
少しだけ想像した。
会議の机。
隣には春樹。
なつきが聞き。
春樹が内容を整理する。
春樹が言葉を探している時。
なつきが補う。
なつきが緊張した時。
春樹が大丈夫と言う。
一人なら怖い。
二人なら。
できるかもしれない。
ノートの端へ。
なつきは小さく書いた。
『違う意見を消さない』
それは授業の要点。
同時に。
自分が実行委員をするなら、大切にしたいことにも思えた。
◇
授業が終わる。
春樹から、小さな紙が前へ回ってきた。
なつきは開く。
『考えた?』
短い文字。
なつきは少し笑った。
ノートの端へ返事を書く。
『少し。やる方に近づいた』
紙を後ろへ回す。
春樹が読む。
少しして、また戻ってくる。
『俺も』
なつきの胸が鳴る。
『どうして?』
書いて返す。
春樹の答えは。
少し時間がかかった。
後ろで。
紙へ何度かペンを置く音。
消しゴムを使う小さな音。
言葉を選んでいる。
なつきは待った。
紙が戻る。
『横田さんが一人なら、近くにいたい』
なつきは。
その文字を見たまま、動けなくなった。
一人なら。
近くにいたい。
朝。
春樹は言った。
一人でやるのが怖そうだから。
でも。
紙に書かれた言葉は。
少し違う。
助けなければ。
守らなければ。
という強い言い方ではない。
ただ。
近くにいたい。
なつきが一人で不安な場所へ行くなら。
その隣へ。
胸の奥が。
ゆっくりと、熱くなっていく。
なつきは返事を書こうとして。
手が止まった。
何を書けばいい。
『ありがとう』
だけでは足りない。
『嬉しい』
それも本当。
『私も春樹くんの近くにいたい』
そこまで書く勇気。
あるだろうか。
少し迷って。
なつきは書いた。
『私も。春樹くんが一人なら、隣にいたい』
書いた瞬間。
顔が一気に熱くなった。
消そうかと思った。
けれど。
今分かっていることは言う。
そう約束した。
なつきは紙を折った。
後ろへ回す。
春樹が受け取る。
開く。
しばらく。
動かない。
圭が、春樹の隣から覗こうとする。
春樹は、紙をすぐに閉じた。
「見せて」
「だめ」
「即答」
「俺宛て」
「横田から?」
「うん」
「じゃあ余計見たい」
「だめ」
春樹が紙を筆箱へしまった。
圭が目を丸くする。
「春樹が紙、大切にしまった」
「悪い?」
「悪くない。強い」
なつきは前を向いたまま。
黒猫を握る。
嬉しい。
恥ずかしい。
春樹は、自分の言葉を取っておいてくれた。
以前。
春樹からもらった紙を。
なつきが筆箱へしまったように。
今度は。
春樹が。
◇
昼休み。
美優と祐衣、蓮が教室へやってきた。
いつものように。
二年十一組の生徒達も、三人が来ることに慣れている。
「今日は何の話?」
美優が教室へ入るなり聞いた。
「すごく騒がしかったんだけど」
「実行委員」
圭が答える。
「男女一人ずつ」
「決まったの?」
「まだ」
「候補は?」
圭が黒板を見る。
授業中に消されている。
けれど。
指を折りながら言う。
「男子、島中、田辺、俺、春樹」
「多いね」
「女子、横田とか」
美優の表情が、少し変わる。
「なつき?」
「うん」
「やるの?」
なつきは少し迷い。
答える。
「まだ決めてない。でも、やる方に近づいてる」
「そうなんだ」
美優は。
少しだけ驚いた顔をした。
「前なら、絶対やらないって言いそう」
「うん」
「怖くない?」
「怖い」
「じゃあ、どうして?」
なつきは、黒猫へ指先を触れた。
「みんなが、できるって言ってくれたから」
「春樹も?」
美優の問い。
胸が少し鳴る。
「うん」
「何て?」
祐衣も、静かになつきを見る。
昨日までの約束。
嬉しかったことを隠さない。
相手が嫉妬しても。
責めずに。
なつきは答えた。
「私なら、できると思うって」
美優が小さく息を吐く。
「嫉妬した」
「うん」
祐衣も、ほんの少し笑う。
「私もです」
「うん」
「でも」
美優は続ける。
「春樹がそう言うなら、本当に見てたんだと思う」
「うん」
「体育祭とか、勉強会とか」
「うん」
「悔しいけど」
「うん」
「なつき、前よりできると思う」
なつきは少し驚いた。
「美優さんも?」
「うん」
「本当に?」
「人前はまだ緊張してるけど」
「うん」
「逃げなくなった」
美優の言葉は。
少し強い。
でも。
悪意はない。
「ありがとう」
「まだ褒め足りない?」
「十分」
祐衣が、穏やかに言う。
「私は、横田さんは人の言葉を急いで否定しないところが、委員に向いていると思います」
「私が?」
「はい」
「でも、答えられない時もある」
「考えているからでしょう?」
「うん」
「実行委員は、すぐに結論を出す人だけが向いているわけではありません」
祐衣は、なつきの顔を見る。
「聞いてから考えられる人も必要です」
胸が温かくなる。
「祐衣さん」
「はい」
「ありがとう」
「本当のことです」
美優が春樹を見る。
「男子候補、春樹も?」
「うん」
「やるの?」
「考えてる」
「どうして?」
美優の問いに。
春樹は、少しだけなつきを見る。
その動きだけで。
美優も、祐衣も気づく。
美優の口元が、少し固くなる。
祐衣は目を伏せる。
「横田さんが」
春樹は言葉を選んだ。
「やるなら」
短い沈黙。
「近くにいたい」
なつきの心臓が。
大きく鳴る。
紙に書かれた言葉。
今度は。
みんなの前で、声にした。
教室の一角が。
一瞬だけ、静かになる。
圭が箸を止め。
田辺が口を少し開け。
島中が春樹を見る。
紅秋は。
静かに目を閉じた。
まるで。
ついに言ったか。
とでも思っているように。
「春樹」
美優が言う。
「それ、どういう意味?」
声は。
明るくしようとしている。
でも。
少しだけ揺れていた。
春樹は、美優を見る。
「横田さん、一人だと怖いって」
「うん」
「俺も人前で話すの苦手」
「うん」
「二人なら、一人よりできるかもしれない」
「それだけ?」
美優の問いは。
少し鋭かった。
なつきの胸が縮む。
祐衣も、美優を見る。
「美優さん」
「分かってる」
美優はすぐに言った。
「責めたいわけじゃない」
少し呼吸を整える。
「でも、聞きたい」
春樹は。
言葉を探す。
「それと」
「うん」
「横田さんが困った時、近くにいたい」
「どうして?」
美優は、さらに聞く。
春樹は黙った。
なつきは。
止めるべきか迷った。
春樹はまだ。
自分の気持ちを全部見つけていない。
問いを重ねられれば。
困る。
でも。
美優にも、聞く権利がないとは言えない。
春樹をずっと近くで見てきた。
置いていかれる寂しさを抱えている。
祐衣も。
静かに言った。
「大國くん」
「うん」
「答えが分からないなら、分からないでもいいと思います」
春樹が祐衣を見る。
「ですが」
祐衣は続ける。
「今分かることがあるなら、聞かせてください」
春樹は。
なつきを見た。
なつきの手。
黒猫を握っている。
目。
不安。
でも。
逃げずに待っている。
「横田さんが」
春樹は、ゆっくり言う。
「一人で怖い場所に行くのを、見てるだけは嫌」
なつきの指が止まる。
「助けたい?」
蓮が穏やかに聞いた。
「うん」
「守りたい?」
春樹は少し考える。
「それだけじゃない」
「他は?」
「一緒にやりたい」
教室の空気が。
さらに静かになった。
「横田さんが変わっていくところ」
「うん」
「近くで見たい」
なつきは。
何も言えなかった。
嬉しい。
胸が痛いほど。
春樹は。
なつきができるようになる瞬間を。
近くで見たいと思っている。
美優は。
目を伏せた。
祐衣も。
胸の前で指を重ねる。
二人とも。
嫉妬している。
寂しい。
それは、表情だけでも分かる。
でも。
美優は。
少しして、顔を上げた。
「嫉妬した」
「うん」
なつきが答える。
「すごく」
「うん」
「でも」
美優は春樹を見る。
「今の春樹の言葉なら、仕方ない」
「美優」
「何?」
「ありがとう」
「そこは、まだ素直に受け取れない」
「うん」
「でも、言った」
「うん」
祐衣も。
なつきを見て言う。
「私も、羨ましいです」
「うん」
「ですが」
祐衣は少し笑った。
「大國くんが、今分かることを話してくれたのは嬉しいです」
春樹が頷く。
「うん」
なつきは。
黒猫を握っていた指を。
少しずつ緩めた。
小さく揺らす。
「私も」
声を出す。
「春樹くんが一人なら、隣にいたい」
美優と祐衣が、なつきを見る。
「紙にも書いた」
なつきは言った。
「でも、ちゃんと声でも言いたい」
春樹の目が少し大きくなる。
「私は」
なつきは続ける。
「助けてもらうだけじゃなくて」
「うん」
「春樹くんが困った時、助けたい」
「うん」
「人前で言葉が出なくなったら」
「うん」
「一緒に考えたい」
「うん」
「だから」
黒猫を小さく揺らす。
「二人でやるなら、やってみたい」
春樹は。
しばらくなつきを見た。
そして。
ゆっくり頷いた。
「俺も」
◇
圭が。
両手で顔を覆った。
「昼休みに決まった」
田辺が言う。
「何が?」
「実行委員」
島中が笑う。
「本人達もう立候補みたいなこと言ってる」
「まだ担任には言ってない」
紅秋が冷静に返す。
「でも、決まっただろ」
圭が顔を上げる。
「男女一名ずつ」
「圭」
「何?」
「今は騒ぐな」
紅秋が言う。
「大事な話のあとだ」
圭は。
少しだけ口を閉じた。
「うん」
以前なら。
大きな声で。
『もう付き合え』
くらいは言ったかもしれない。
でも。
今は。
美優と祐衣の表情を見て。
なつきと春樹の言葉の重さを感じて。
少し待った。
蓮が、静かに圭へ笑いかける。
「本当に本の効果出てるね」
「うん」
「そこは自分で認めるんだ」
「今、我慢した」
「偉い」
「もっと褒めて」
「それは後で」
少しだけ笑いが起きた。
緊張していた空気が。
ゆっくりと戻ってくる。
◇
午後。
特進科の教室でも。
実行委員の候補選びが始まっていた。
美優、祐衣、蓮が自分達の教室へ戻ると。
黒板にはすでに。
『秋季交流週間実行委員』
と書かれていた。
担任が言う。
「こちらも、男女一名ずつ決めます」
教室から。
二年十一組とほとんど同じ反応が起きた。
「えー」
「誰やるの?」
「部活ある」
「面倒そう」
美優は、自分の席へ座る。
さっきの春樹の言葉が。
まだ胸に残っている。
横田さんが困った時、近くにいたい。
変わっていくところを、近くで見たい。
以前なら。
その言葉を聞いただけで。
なつきから春樹を離したくなったかもしれない。
自分の方が長く知っている。
春樹のことなら、自分の方が分かる。
そう言いたくなった。
今も。
胸は痛い。
悔しい。
でも。
春樹が、自分で見つけた言葉だった。
美優が変えられるものではない。
「女子、誰かいる?」
クラスメイトが聞く。
誰も手を上げない。
美優は。
プリントを見る。
実行委員。
全学年・全学科の会議。
もし。
なつきと春樹が二年十一組の実行委員になれば。
会議へ来る。
そこで。
自分も実行委員なら。
二人と関わることができる。
そう考えた瞬間。
美優は、自分の胸の中へある気持ちに気づく。
近くにいたい。
置いていかれたくない。
少しだけ。
同じ場所に立ちたい。
それは。
ずるい理由かもしれない。
でも。
実行委員をやるなら。
仕事もちゃんとする。
春樹だけを見るつもりはない。
「私」
美優が手を上げた。
教室の視線が集まる。
祐衣も。
少し驚いた顔で美優を見る。
「女子、やってもいい」
クラスがざわつく。
「美優?」
「意外」
「人前は平気そう」
「まとめるの上手そう」
美優は、少しだけ苦笑する。
「人前、そんなに得意じゃないけど」
「でも話せるよ」
「やるなら助かる」
担任が確認する。
「立候補でいいですか?」
美優は。
一度だけ、祐衣を見る。
祐衣の表情。
静か。
けれど。
少し寂しそう。
「うん」
美優は答えた。
「立候補します」
拍手が起きる。
大きなものではない。
でも。
クラスの女子達が、安心したように笑う。
「助かった」
「ありがとう」
「美優なら任せられる」
美優は。
その言葉を受け取りながら。
祐衣を見た。
◇
休み時間。
祐衣が美優の机へ来た。
「立候補したんですね」
「うん」
「大國くんと横田さんが理由ですか?」
祐衣は。
遠回しにせず聞いた。
美優も。
隠さなかった。
「それもある」
「それも?」
「置いていかれたくない」
祐衣は、静かに頷く。
「正直ですね」
「昨日までなら、別の理由言ってたかも」
「はい」
「でも、それだけじゃないよ」
「分かっています」
「本当に?」
「美優さんは、引き受けた役目を適当にはしません」
美優の表情が少しやわらかくなる。
「祐衣は?」
「私ですか?」
「実行委員」
「女子は美優さんで決まるでしょう」
「別の係でも、交流週間に関われる」
祐衣は少し黙った。
自分も。
春樹となつきが同じ役目へ立つなら。
近くにいたい。
でも。
美優のように、すぐ手を上げることはできなかった。
「私は」
祐衣は言う。
「図書企画の補助へ入ろうと思います」
「本の展示?」
「はい。交流週間の中に、学科横断の読書展示があります」
「春樹、絶対来る」
「それが理由の全てではありません」
「それもある?」
祐衣は少しだけ笑った。
「はい。それもあります」
美優も笑う。
「私達、だいぶ正直になったね」
「横田さんの影響でしょうか」
「たぶん」
美優は窓の外を見る。
「祐衣」
「はい」
「私、実行委員で二人の近くにいたら、また嫉妬すると思う」
「私も、図書企画で大國くんと横田さんが一緒に来たら嫉妬します」
「うん」
「でも、勝手にいなくならない」
「約束したから」
「はい」
二人は。
少しだけ笑った。
◇
二年十一組。
帰りのホームルーム。
担任が。
朝と同じように出席簿を教卓へ置く。
「考える時間は取りました」
教室の空気が変わる。
「実行委員を決めます」
黒板へ。
再び候補名が書かれる。
男子。
島中。
田辺。
三浦。
大國。
女子。
横田。
ほか二名。
「まず」
担任が教室を見る。
「立候補へ変わった人はいますか?」
教室が静かになる。
なつきの心臓が速くなる。
手を上げる。
それだけ。
でも。
腕が重い。
みんなが見る。
逃げたい気持ちが。
最後に一度だけ顔を出す。
その時。
斜め後ろ。
小さな声。
「横田さん」
なつきは振り返らない。
でも聞こえる。
「大丈夫」
春樹。
なつきの指が。
机の横の黒猫へ触れる。
一度。
小さく揺らす。
それから。
手を上げた。
「私」
声は少し震えた。
教室の視線が集まる。
でも。
なつきは手を下ろさなかった。
「やります」
一瞬。
教室が静まり。
次の瞬間。
拍手が起きた。
最初は亜衣。
次に茜。
圭。
田辺。
島中。
女子達。
男子達。
大きすぎる拍手ではない。
でも。
教室全体から。
なつきへ届く。
「横田さん、ありがとう」
「頑張って」
「手伝うから」
「困ったら言って」
なつきの目の奥が、少しだけ熱くなる。
怖い。
でも。
手を上げた。
自分で。
担任が黒板の『横田』へ丸をつける。
「横田さん、ありがとうございます」
「はい」
なつきは手を下ろした。
黒猫を握る。
今度は。
緊張だけではない。
春樹が斜め後ろから言う。
「できた」
なつきは小さく頷く。
「うん」
「すごい」
「まだ手を上げただけ」
「それでも」
胸が温かくなる。
◇
「では、男子」
担任が言う。
教室の視線が。
一斉に男子候補へ集まる。
「立候補へ変わった人は?」
島中が田辺を見る。
田辺が圭を見る。
圭が春樹を見る。
春樹は。
なつきの背中を見ていた。
なつきが。
怖いまま手を上げた。
手が少し震えていた。
声も。
それでも。
逃げなかった。
春樹は。
朝。
紙に書いた。
『横田さんが一人なら、近くにいたい』
昼休み。
声で言った。
『一緒にやりたい』
今。
なつきは。
実行委員になると決めた。
春樹は。
手を上げた。
「俺」
教室が、一瞬でざわつく。
「やります」
次の瞬間。
拍手より先に。
圭が立ち上がった。
「決まったー!」
「三浦くん」
担任がすぐに注意する。
「すみません!」
でも。
教室はすでに笑いに包まれていた。
「やっぱり!」
「二人セット!」
「圭の予想当たった!」
「共同作業!」
「秋季交流週間、始まる前から交流してる!」
なつきの顔が、真っ赤になる。
「みんな、もう」
春樹は、少しだけ首を傾げる。
「何が?」
島中が笑う。
「大國は分からなくていい」
田辺も肩を揺らす。
「そのままでいてくれ」
紅秋が、静かに言う。
「二人とも、役目を引き受けたことは評価する」
圭が言う。
「紅秋、祝福が固い」
「お前よりは適切だ」
担任が。
黒板の『大國』へ丸をつける。
「では、二年十一組の実行委員は」
教室の空気が少し落ち着く。
「大國くんと、横田さんに決定します」
もう一度。
拍手が起きた。
今度は。
少し真面目な拍手。
二人へ。
期待。
応援。
頼むね。
そんな気持ちが混ざっている。
なつきは。
斜め後ろを振り返った。
春樹も。
なつきを見ている。
「決まったね」
「うん」
「春樹くん、本当にやるんだ」
「横田さんも」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「俺も」
二人で。
ほんの少し笑う。
「でも」
なつきが言う。
「一人じゃない」
「うん」
春樹も頷く。
「二人」
「うん」
圭が隣から口を挟む。
「クラス全員もいる」
島中が言う。
「俺らも手伝う」
田辺も。
「荷物運び任せろ」
紅秋も。
「会議の整理が必要なら相談には乗る」
亜衣が。
「説明練習する」
茜が。
「資料は私も確認できる」
教室の女子達。
男子達。
「協力するよ」
「当日もやる」
「無理に二人で抱えないで」
なつきは。
その声を聞きながら。
胸の中にあった不安が。
完全ではないけれど。
少しずつ形を変えていくのを感じた。
怖い場所。
でも。
一人ではない。
春樹が隣にいる。
クラスのみんなもいる。
「春樹くん」
「何?」
「私、やってみる」
「うん」
「失敗しても」
「一緒に直す」
春樹は。
すぐに答えた。
なつきの胸が。
静かに満たされる。
「春樹くんも、困ったら言ってね」
「うん」
「私が助けられること、探すから」
「うん」
「隣にいる」
なつきが言う。
春樹は。
少しだけ目を細めた。
「俺も」
◇
ホームルームが終わる。
担任から。
二人へ最初の資料が渡された。
明日。
昼休みに全校掲示板で企画内容が発表される。
その後。
放課後に第一回実行委員会。
集合場所は、特別棟の大会議室。
「いきなり明日」
なつきがプリントを見る。
「うん」
春樹も隣で確認する。
「昼休みに掲示」
「全校生徒見るのかな」
「たぶん」
「混むね」
「うん」
「見えるかな」
「見つける」
春樹が言った。
なつきは顔を上げる。
「人が多くても?」
「うん」
「私も」
黒猫を小さく揺らす。
「春樹くん見つける」
圭が、二人の後ろから言う。
「俺らが交通整理する?」
「何の?」
「二人が会うための」
「しなくていい」
春樹が即答する。
島中が笑う。
「明日、掲示板絶対混むぞ」
田辺が言う。
「圭、本当にやりそう」
「『こちら大國・横田専用通路です』って」
「やめて」
なつきが顔を赤くする。
紅秋は。
少しだけ嫌な予感を覚えたように、圭を見る。
「三浦」
「何?」
「明日、余計なことをするな」
「まだ何もしてない」
「今のうちに言っておく」
「信用がない」
「実績がある」
教室に笑い声が広がった。
◇
帰り道。
校門を出た頃には。
空は薄い夕色へ変わっていた。
秋の風。
少しずつ色づく街路樹。
なつきは。
亜衣と茜の少し前を歩く春樹を見た。
今日は。
学校の中では。
実行委員として初めて同じ役目を持った。
春樹。
なつき。
二人。
その言葉だけで。
胸が少し落ち着かない。
でも。
恋愛のためだけではない。
クラスのため。
自分の成長のため。
そして。
互いに支え合うため。
「なつき」
亜衣が隣へ並ぶ。
「決まったね」
「うん」
「どう?」
「怖い」
「うん」
「でも、嬉しい」
「春樹くんと一緒だから?」
「それも」
「他は?」
なつきは少し考える。
「私が、自分で手を上げられたから」
茜が穏やかに微笑む。
「それが一番大きいかもしれないわね」
「うん」
「誰かに無理やり決められたわけではない」
「うん」
「春樹くんの言葉はきっかけでも、最後に決めたのはなつき」
なつきは黒猫へ触れる。
「私が決めた」
「うん」
「言える?」
「うん」
なつきは、少しだけ笑った。
「私、実行委員やる」
今度は。
震えずに言えた。
◇
少し前。
春樹と紅秋、圭。
「春樹」
圭が聞く。
「何?」
「本当に横田が理由?」
「それも」
「他は?」
「クラスの役目」
「うん」
「誰かがやる」
「うん」
「横田さんとなら、できると思った」
圭が少しだけ笑う。
「それ、横田に言った?」
「一部」
「全部言えば?」
紅秋が言う。
「無理に一度で全部言う必要はない」
「紅秋、慎重」
「だが」
紅秋は春樹を見る。
「今分かっていることは、少しずつ伝えろ」
「うん」
「今日の言葉も」
「うん」
「横田さんが変わるところを近くで見たい。それは、お前にとってかなり大きい」
春樹は。
少し黙った。
「大きい?」
「他のクラスメイト全員へ、同じことを思うか?」
春樹は考える。
圭が本を読むようになった。
面白い。
嬉しい。
田辺や島中が勉強を頑張った。
それも嬉しい。
でも。
なつきが。
怖いまま手を上げる。
少しずつ話せるようになる。
自分の気持ちを言う。
人へ言葉を返す。
その変化を。
春樹は。
見逃したくないと思った。
「全員ではない」
「なら、覚えておけ」
紅秋が言う。
「それも、今のお前の気持ちだ」
「うん」
春樹は。
少し後ろを振り返った。
なつきは。
亜衣と茜の間で笑っている。
黒猫が揺れる。
春樹は。
小さく言った。
「見つけた」
「今?」
圭が聞く。
「うん」
「すぐ近くにいるけど」
「うん」
「それでも?」
「見たかったから」
圭は。
何か言いかけて。
紅秋を見る。
紅秋が、わずかに首を横へ振る。
圭は口を閉じた。
そして。
少しだけ笑った。
◇
明日。
全校掲示板へ。
秋季交流週間の企画内容が発表される。
大勢の生徒。
混雑。
新しい仕事。
初めての会議。
不安はある。
けれど。
なつきは。
少し前を歩く春樹の背中を見ながら思った。
一人なら。
怖くて立ち止まったかもしれない。
でも。
春樹が一人なら。
自分も、その隣に立ちたい。
守られるだけではなく。
支えるために。
同じ役目を背負うために。
君が一人なら。
隣に立つ。
春樹も。
同じように言ってくれた。
だから。
明日から始まる新しい時間も。
きっと。
二人で、一つずつ見つけていける。
なつきは歩幅を少しだけ速めた。
春樹の背中が。
先ほどより少し近くなる。
春樹が気づき。
振り返る。
目が合う。
「横田さん」
「うん?」
「明日」
「うん」
「一緒に行く?」
「掲示板?」
「うん」
なつきは、黒猫を小さく揺らした。
「一緒に行く」
「うん」
「人が多くても」
「見つける」
「私も」
二人で、少しだけ笑った。
その後ろで。
圭が小声で言う。
「明日、絶対何か起きる」
紅秋が返す。
「お前が起こすな」
「まだ何もしてない」
「今のうちに止めている」
島中と田辺の笑い声が、夕方の道へ広がる。
秋季交流週間。
実行委員。
新しい章は。
少しの不安と。
たくさんの騒がしさと。
二人の小さな約束を連れて。
静かに始まりかけていた。




