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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第131話 実行委員は、平和には決まらない



 席替えから、さらに数日が過ぎた朝。


 二年十一組の教室は、ようやく新しい並びに馴染み始めていた。


 前の席へ向かいかけて途中で立ち止まる生徒も、以前の隣へ無意識に話しかけてしまう生徒も、ほとんどいなくなった。


 机の横へ鞄を掛ける位置。


 教科書を置く場所。


 隣の人との距離。


 黒板の見え方。


 窓から差し込む光。


 誰もが少しずつ、自分の新しい居場所を作り終えつつあった。


 けれど。


 なつきにとっては、まだ完全に慣れたとは言い切れない。


 教室へ入った時。


 以前なら、春樹はすぐ視界に入った。


 今は、少し後ろ。


 生徒達の背中や机に隠れ、一度では見つけられないこともある。


 それでも。


 探すこと自体が、もう不安ではなくなっていた。


 なつきは教室の入口で一度だけ足を止めた。


 朝のざわめき。


 笑い声。


 椅子を引く音。


 誰かがペットボトルを机へ置く音。


 その中に。


 聞き慣れた圭の声がある。


「だから俺は、静かな本も読めるようになったんだって」


「まだ一冊しか読んでないだろ」


 田辺の声。


「二冊目借りた」


「まだ読み終わってないだろ」


 島中の声。


「現在進行形で読書家」


「読書家を名乗るの早い」


 その少し近く。


 短く、落ち着いた声。


「圭、ページ折るな」


「折ってない。栞」


 春樹だ。


 姿はまだ見えない。


 でも。


 声で分かる。


 なつきの胸が、少しだけやわらかくなる。


「いた」


 小さく呟いた。


 隣にいた亜衣が、すぐに反応する。


「声だけで?」


「うん」


「もう完全に見つける機能が進化してる」


「何それ」


「横田なつき、高性能春樹探知機」


「変な名前つけないで」


 亜衣が笑う。


 少し後ろを歩いていた茜も、口元をやわらかくした。


「でも、本当に分かるようになったのね」


「うん」


「黒猫がなくても?」


「春樹くんには黒猫ついてないよ」


「そういう意味じゃないわ」


 三人で笑いながら教室へ入る。


 なつきが新しい席へ近づく。


 机の横へ鞄を掛ける。


 黒猫のキーホルダーが、金具に触れて小さく揺れた。


 その瞬間。


 斜め後ろから声がした。


「おはよう」


 なつきは振り返った。


 春樹がいる。


 机の上には、祐衣から借りた青い表紙の本。


 すでに数ページ読んでいたらしいが、今は本を閉じている。


「おはよう、春樹くん」


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 なつきも笑う。


「私も、声で見つけた」


「声?」


「教室入る前に、圭くんへ注意してた」


「ページ折るなって?」


「うん」


 圭が隣から身を乗り出す。


「本当に折ってないから」


「誰も疑ってないよ」


「春樹は疑った」


「折りそうだった」


「栞を挟もうとしただけ」


 春樹が圭の本を見る。


「角を持ってた」


「一瞬」


「危なかった」


「本の保護者が厳しい」


 田辺が後方から言う。


「お前、前は本にジュースこぼしたことあるって言ってたろ」


「中学の時」


「前科あるじゃん」


「もう反省した!」


 教室のあちこちから笑い声が上がる。


 圭は少し不満そうに本を胸へ抱えた。


「今は大切にしてる」


 春樹が頷く。


「ならいい」


「許された」


 なつきは、そのやり取りを見ながら黒猫を小さく揺らした。


 春樹の視線がすぐに手元へ落ちる。


「嬉しい?」


「うん」


「何が?」


「朝からいつも通りだったから」


「いつも通り?」


「春樹くんがいて、圭くんが騒いでて、紅秋くんが注意する」


 少し前の席から、紅秋が振り返る。


「俺はまだ何も言っていない」


「もうすぐ言うと思う」


 亜衣が言った。


 圭が紅秋を見る。


「今日まだ俺、紅秋に怒られてない」


「今、声が大きい」


 紅秋が即座に返した。


 圭が両手を上げる。


「はい、いつも通り!」


 教室にもう一度笑いが広がった。


   ◇


 始業前。


 圭は新しく借りた本を読み始め。


 田辺と島中は昨日の部活の話。


 亜衣は英語の課題を確認し。


 茜は提出物を整理している。


 春樹は再び青い本を開いた。


 なつきも、今日の授業で使う教科書を机へ並べた。


 穏やかな朝。


 大きな出来事のない時間。


 けれど。


 こういう何でもない朝を、なつきは以前より大切に感じるようになっていた。


 春樹がいる。


 目が合う。


 声が届く。


 それだけで、自分の一日がちゃんと始まる。


 少し前まで。


 それは、なつき一人だけの気持ちだと思っていた。


 でも春樹も。


 なつきを見つけられないと少し足りないと言った。


 待っていると。


 見つけたいと。


 その言葉が、今も胸の中に残っている。


 なつきは、斜め後ろを見たい気持ちを堪えながら教科書を開いた。


 毎回振り返っていたら、亜衣に数えられる。


 それに。


 見なくても、春樹がそこにいると分かる。


 ページをめくる音。


 圭の質問に返す短い声。


 その気配だけで、十分だった。


 ――と思っていたのに。


「春樹」


 圭が小声で呼んだ。


「何?」


「この人、何で急に帰ったの?」


「読めば分かる」


「今知りたい」


「三ページ先」


「教えて」


「読めばいい」


「冷たい」


「すぐ分かる」


 なつきは、思わず振り返った。


 春樹と目が合う。


「何?」


「何でもない」


「見てた」


「圭くんとの会話が聞こえたから」


 圭が本から顔を上げる。


「横田も、何で帰ったか気になる?」


「読んでないから分からない」


「じゃあ読んだら貸す」


「祐衣さんに返したあとでしょ」


「そうだった」


 春樹が言う。


「忘れるな」


「二人とも紅秋化してる」


 紅秋が前方から振り返る。


「俺の名前を注意の代名詞にするな」


 朝の笑いが、また教室へ広がった。


   ◇


 ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴った。


 担任が教室へ入ってくる。


 手には出席簿。


 その下に、何枚かのプリントを挟んでいる。


 なつきは、その紙の多さへ少しだけ目を向けた。


 いつもの連絡事項だけではなさそうだった。


「おはようございます」


「おはようございます」


 挨拶が揃う。


 担任は出席を確認し。


 欠席者がいないことを確かめる。


 それから。


 出席簿を閉じると、机の上へプリントを置いた。


「昨日、少しだけ話しましたが」


 教室の空気がわずかに変わる。


 来月の校内行事。


 実行委員。


 詳細は後日。


 前日の朝、そう伝えられていた。


「今年度の秋季交流週間について、正式な通知が届きました」


「秋季交流週間」


 圭が小さく繰り返す。


 田辺が聞く。


「去年あった?」


「一年は別プログラムだった気がする」


 島中が答える。


 担任はプリントを一番前の生徒へ渡した。


「後ろへ回してください」


 紙が列ごとに回っていく。


 なつきの手元にも、一枚届く。


 上部には大きく、


『秋季交流週間実施要項』


 と書かれている。


 その下。


 学年や学科を越えた交流を目的とし。


 複数の企画を一週間かけて行う。


 学年混合の展示。


 交流競技。


 読書や文化活動。


 商業科による販売・企画演習。


 内容は思っていたより多い。


「一週間全部イベント?」


 女子の一人が聞く。


「通常授業もあります」


 担任が答える。


 教室から、分かりやすく落胆した声が漏れる。


「授業あるんだ」


「交流だけでいいのに」


「学校行事は休みではありません」


 担任が落ち着いて返すと、教室に笑いが起きた。


 圭がプリントを見ながら、隣の春樹へ小声で言う。


「販売企画、楽しそう」


「商業科だから?」


「店やる?」


「まだ分からない」


「圭の店は怖い」


 紅秋が言った。


「何売るの?」


「熱意」


「商品にならない」


「応援」


「無料でやれ」


 田辺と島中が、肩を揺らして笑う。


 担任が教室を見渡した。


「説明を続けます」


 ざわめきが収まる。


「各クラスから、実行委員を二名選出します」


 教室の空気が、ぴたりと止まった。


 嫌な予感。


 多くの生徒が同時に感じたらしい。


 担任は続ける。


「原則、男女一名ずつです」


 一秒。


 二秒。


 そして。


「えー……」


 教室全体から、見事に重なった声が漏れた。


 担任は眉一つ動かさない。


「予想通りの反応ですね」


「先生、立候補いなかったらどうするんですか」


 圭が聞く。


「推薦または話し合いです」


「最終的に?」


「決まるまで帰れません」


 教室がざわついた。


「強い」


「先生の脅しが強い」


「実行委員より帰宅を人質にしてる」


 担任は平然としている。


「脅しではありません。クラスの役割です」


「先生」


 島中が手を上げた。


「体育祭で働いた人は免除ありますか」


「ありません」


 即答。


 教室から笑いが起きる。


「早い!」


「検討すらされなかった!」


「島中残念!」


 島中は机へ両手をついた。


「俺、紅組で声枯らしたんだけど」


 田辺が横から言う。


「俺も借り人競争で走った」


「それは全員だろ」


「でも俺は目立った」


「自分で言うな」


 圭が手を上げる。


「先生、読書家は免除?」


「何の関係がありますか」


「最近、本を読むようになりました」


「素晴らしいですね。委員もできますね」


「墓穴!」


 教室が大きく笑った。


 圭は慌てて手を下げる。


「今のなし」


「出席簿に記録しました」


「何を!?」


「冗談です」


 担任が、ごくわずかに笑った。


 教室はさらに湧いた。


「先生が冗談言った!」


「交流週間より事件!」


「今日は記念日!」


「静かにしてください」


 担任の声は変わらない。


 けれど、口元は少しだけ緩んでいた。


   ◇


「仕事内容は」


 担任が黒板へ書く。


 企画説明。


 クラス内の意見集約。


 全体会議への参加。


 当日の運営補助。


 提出物管理。


 生徒間の連絡。


 黒板の文字が増えるたび。


 教室の空気は、少しずつ重くなった。


「多くない?」


「一週間あるからな」


「会議何回?」


「プリント見て。放課後って書いてる」


「帰り遅くなるじゃん」


 なつきも、プリントを見つめた。


 実行委員。


 人前で説明する。


 意見をまとめる。


 他学年や他学科の生徒と話す。


 会議へ参加する。


 どれも、以前の自分なら一番避けたかったものばかりだった。


 人の前に立つだけで緊張する。


 自分の意見を言うのが怖い。


 間違えたらどうしようと思う。


 誰かをまとめるなんて、自分にはできない。


 そう思う。


 それは今も、すぐには消えていない。


「立候補したい人はいますか」


 担任が尋ねた。


 教室が、見事なほど静まり返った。


 誰も手を上げない。


 生徒達は、プリントを見る。


 窓を見る。


 机を見る。


 担任だけは見ない。


 圭は、突然ものすごく真剣な顔で本を開いた。


 紅秋が横目で見る。


「ホームルーム中だぞ」


「今、読書家だから」


「都合よく使うな」


 教室の何人かが笑う。


 担任は、静かな教室を見渡した。


「誰もいませんか」


 さらに沈黙。


 秋の風が窓の隙間から入り。


 カーテンの端をわずかに揺らす。


 誰かが咳払いをする。


 誰かのシャープペンが机から落ちる。


 小さな音が、妙に響いた。


「では」


 担任が言う。


「まず男子から決めましょう」


 男子達の間に、目に見えない緊張が走った。


 さっきまで明るかった圭も、姿勢を少し低くする。


 島中が田辺を見る。


 田辺が島中を見る。


 二人の視線がぶつかる。


「島中」


「田辺」


 同時に呼ぶ。


 教室に笑いが起きた。


「お前やれ」


「お前がやれ」


「体育祭で仕切ってた」


「お前も声出してた」


「俺、部活ある」


「俺もある」


「お前、人前得意」


「お前、身体で押し切れる」


「実行委員は相撲じゃない」


 圭が口を挟む。


 田辺が圭を見る。


「じゃあ圭」


「何で?」


「人前得意」


「得意だけど、会議は苦手」


 島中が笑う。


「話すだけ話して、紅秋にまとめてもらえ」


「じゃあ紅秋でいいじゃん」


 圭が言う。


 教室の視線が、紅秋へ集まる。


 紅秋は静かにプリントを見ていた。


「板倉ならできそう」


「真面目」


「まとめ役」


「副委員長っぽい」


「実際そういう感じ」


 紅秋は、ゆっくり顔を上げた。


「できるかできないかで言えば、できる」


「おお」


「でも」


 教室が続きを待つ。


「今回、俺は別の委員会業務がある」


「あ」


「そうだった」


「図書……じゃなくて、何だっけ」


「学級関係の提出物と進路資料の補助だ」


 圭が言う。


「仕事多い」


「お前達がやらない分が回ってくる」


「ごめん」


 紅秋の視線が、今度は春樹へ移る。


「春樹」


「やらない」


 即答だった。


 教室から笑いが起きる。


「早い!」


「島中より早い!」


「理由は?」


 圭が聞く。


「向いてない」


「どこが?」


「話さない」


「会議でうんしか言わない委員」


 田辺が想像して笑う。


 島中も続ける。


「先生が『意見ありますか』って聞いたら」


「うん」


「意見の内容は?」


「ない」


 圭が言い、男子達が笑った。


 春樹は少しだけ眉を寄せる。


「そこまで話さなくない」


 紅秋が冷静に返す。


「以前なら否定できなかったが、最近は話す」


「紅秋」


「事実だ」


 島中がなつきの方をちらりと見た。


「最近、横田相手だと特に話す」


 教室の何人かが一斉に反応する。


「あー」


「分かる」


「それはある」


「朝のやつ」


 なつきの頬が一気に熱くなる。


「ちょっと」


 春樹は、なぜ教室全体が反応したのか分からないような顔をした。


「朝?」


 圭が楽しそうに言う。


「今日もいる、見つけた」


「言ってる」


「毎朝」


「うん」


「教室公認」


「何が?」


「二人の朝」


 春樹は首を傾げる。


 なつきは黒猫を握った。


「圭くん、もういい」


「まだ何も説明してない」


「しなくていい」


 教室中に笑いが広がる。


 担任が黒板の前で、静かに待っていた。


「話し合いは進んでいますか」


「恋愛の話に逸れました」


 圭が正直に言う。


「戻してください」


「はい」


 さらに笑いが起きた。


   ◇


 男子側は、なかなか決まらなかった。


 島中。


 田辺。


 圭。


 春樹。


 数人の男子の名前が出ては、本人が理由をつけて断る。


「部活」


「委員会」


「人前苦手」


「帰りの電車」


「責任重い」


 どれも、それなりに納得できる理由。


 だからこそ、誰か一人へ強く押しつけるのも難しい。


「じゃあ推薦で投票?」


 田辺が言う。


「投票で一位の人がやる?」


 島中が続ける。


 圭が首を横に振る。


「それ、嫌われ者決定戦みたいにならない?」


「推薦だから好かれてる可能性もある」


「でも本人からしたら罰ゲーム」


 紅秋が言う。


「まず、役割に必要な条件を整理すればいい」


 教室の視線が、再び紅秋へ集まる。


「またまとめ始めた」


「結局紅秋が一番向いてる」


「だができないと言っただろう」


「残念」


 紅秋は黒板へ視線を向けながら続けた。


「必要なのは、会議で内容を聞くこと。クラスへ伝えること。意見をまとめること。当日、勝手な行動をしないこと」


 圭が小さく言う。


「最後、俺を見てない?」


「見ている」


「正直」


「圭は盛り上げ役には向いている。だが、単独で委員にすると、話を広げすぎる可能性がある」


「褒めてから落とした」


 田辺が笑う。


 紅秋は島中を見る。


「島中は人前で話せる」


「うん」


「ただし、面倒になった時に田辺へ投げる」


「否定できない」


「田辺は動ける」


「うん」


「ただし、書類管理が不安」


「それも否定できない」


「春樹は話を聞ける」


「うん」


 春樹が短く答える。


「決めたことを忘れない」


「うん」


「必要な時は動ける」


「うん」


「だが、自分から立候補はしない」


「うん」


「全部うん」


 圭が笑った。


 紅秋は静かに春樹を見る。


「今の春樹なら、以前より向いていると思う」


 教室が少しだけ静かになる。


 春樹も、すぐには答えなかった。


「以前より?」


「話すようになった」


「うん」


「相手が困っている時、以前より早く気づく」


 春樹の視線が、無意識になつきへ向く。


 圭がそれを見逃さない。


「今、横田見た」


「見た」


 春樹は隠さなかった。


 教室から笑いが起きる。


「認めた!」


「強い!」


「もう自然!」


 なつきは黒猫を両手で隠した。


「何でみんな見るの」


 亜衣が小声で言う。


「春樹くんが見たから」


「それは分かってる」


「嬉しい?」


「恥ずかしい」


「両方?」


「……両方」


 茜が、少し前の席から振り返って笑った。


   ◇


 担任は、男子側の話がまだ終わらないと判断したらしい。


「男子は少し考えておいてください」


 黒板の左側へ『男子候補』と書く。


 その下に。


 島中。


 田辺。


 三浦。


 大國。


 四人の名前を書いた。


「俺も入ってる!」


 圭が声を上げる。


「名前が出ましたので」


「冗談だったのに」


「話し合いでは、冗談と本気を分けてください」


「勉強になります」


 担任は次に、黒板の右側へ『女子候補』と書いた。


 女子達の空気が、一斉に固くなる。


「では、女子を決めましょう」


 さっきまで男子を笑っていた女子達が、急に視線を逸らした。


 亜衣が小声で言う。


「来た」


 なつきも、プリントへ目を落とす。


 自分には関係ない。


 そう思おうとした。


 人前が得意ではない。


 実行委員に向いている人は、他にいる。


 亜衣。


 茜。


 もっと話せる女子。


 もっとしっかりした人。


「立候補する人は?」


 担任が聞く。


 誰も手を上げない。


 男子側と同じ。


 今度は男子達が、少し楽しそうに女子側を見ている。


 田辺が小さく言う。


「さっき笑ってたからな」


 女子の一人が返す。


「そっちも決まってないでしょ」


「それはそう」


 教室に小さな笑いが起きる。


「推薦はありますか」


 担任が続けた。


 少しの沈黙。


 その時。


「茜ちゃん」


 女子の一人が言った。


 茜が顔を上げる。


「遠山さん、向いてる」


「まとめられるし」


「真面目」


「説明も上手」


 茜は少しだけ考えてから答えた。


「私は、別の係で秋季交流週間の資料作成を手伝う予定なの」


「茜ちゃんも?」


 亜衣が聞く。


「先生から事前に頼まれていたの」


「みんな仕事ある」


「早めに言えばよかったわね」


 担任が頷く。


「遠山さんは、事務補助として別枠で協力してもらいます」


「じゃあ伊藤さん」


 別の女子が言った。


 亜衣が目を丸くする。


「私?」


「話せるし」


「人前平気そう」


「まとめるのもできそう」


 亜衣は少し悩むように唇を尖らせた。


「できなくはないけど」


「やる?」


 なつきが聞く。


「うーん」


 亜衣はプリントを見た。


「放課後会議多いんだよね」


「うん」


「家の都合で、曜日によって厳しいかも」


 担任が確認する。


「毎回参加できない場合は、もう一人へ負担が偏ります」


「なら、私は候補から外れた方がいいかも」


 亜衣は申し訳なさそうに言った。


「できる範囲では手伝うけど」


「それで構いません」


 担任が黒板へ目を向ける。


「他にいますか」


 また沈黙。


 女子達が互いの顔を見る。


 誰かの名前を出すことにも、少し遠慮がある。


 押しつけたと思われたくない。


 自分が出るのも怖い。


 その空気を。


 圭が見事に壊した。


「横田」


 教室全体が、一瞬で静まった。


 なつきの身体も止まる。


「え?」


 圭は、自分の席からなつきを指した。


「横田、向いてると思う」


「ちょっと待って」


 亜衣が先に反応する。


「圭くん、急すぎ」


「でも本当に」


「どうして私?」


 なつきの声が少し上ずる。


 圭は指を下ろし、真面目な顔で答えた。


「周り見てる」


「私が?」


「うん。体育祭でも、誰が困ってるか気づいてた」


 島中が少し考えて頷く。


「それはあった」


「紅組で、途中から結構声出してた」


 田辺も続ける。


「考査の勉強会でも、分からない人に声かけてたよな」


「私も分からない側だったよ」


「途中から教えてた」


 島中が言う。


「英語とか」


「それは祐衣さんに教えてもらったから」


「教えてもらったことを、別の人へ説明できるのも大事だろ」


 なつきは言葉に詰まった。


 教室の視線が集まっている。


 怖い。


 顔が熱い。


 黒猫を握る指へ力が入る。


「でも」


 なつきは何とか言葉を出す。


「人前で話すの、苦手だし」


 女子の一人が言う。


「前より話せてるよ」


「うん」


「体育祭の応援、横田さん結構大きかった」


「最初は小さかったけど」


「最後は島中より大きかったかも」


「それはない」


 島中が即座に返し、教室に笑いが起きた。


「俺、声枯れたから」


「競うところじゃない」


 田辺が肩を揺らす。


 なつきは、笑いが起きたことで少しだけ息をつけた。


 けれど。


 名前は消えない。


 黒板の女子候補欄。


 担任が、ゆっくり『横田』と書いた。


「先生」


「候補です」


「まだ何も決まってないです」


「はい。ですから候補です」


 教室のあちこちから笑いが漏れる。


「逃げ道ない」


「黒板に書かれた」


「公式候補」


 なつきは黒猫を握ったまま、亜衣を見る。


「亜衣ちゃん」


「私も、向いてると思う」


「味方じゃなかった」


「味方だから言ってる」


「茜ちゃん」


「私も」


「茜ちゃんまで」


 茜は穏やかに続ける。


「できないと思うなら、無理には勧めないわ」


「うん」


「でも、怖いからできないと思っているだけなら、少し考えてもいいと思う」


 なつきの胸が、静かに揺れた。


 怖いから、できない。


 その二つは同じではない。


 以前。


 春樹へ話しかけることも。


 図書委員の仕事も。


 体育祭で声を出すことも。


 分からないと伝えることも。


 全部、怖かった。


 でも。


 少しずつできた。


 怖さが消えたからではない。


 怖いまま。


 誰かと一緒に。


 一つずつ。


「でも、実行委員は」


 なつきはプリントを見る。


「会議とか、他のクラスの人と話したり」


「一人じゃない」


 亜衣が言う。


「男女二人」


「男子が誰か分からない」


 亜衣は、少しだけ斜め後ろを見る。


「分からないね」


 その視線の先。


 春樹。


 なつきの胸が大きく鳴った。


「何で今、春樹くん見るの」


「何となく」


「絶対何となくじゃない」


 圭がすぐに口を挟む。


「男子、大國。女子、横田」


 教室が、一瞬でざわついた。


「セット推薦!」


「分かりやすい!」


「圭が言った!」


「もう決まりじゃん!」


 なつきの顔が一気に熱くなる。


「決まってない!」


 春樹も圭を見る。


「俺、やるって言ってない」


「横田がやるなら?」


 圭が聞く。


 春樹は黙った。


 教室が静かになる。


 島中も。


 田辺も。


 女子達も。


 担任さえ、少しだけ待っている。


 なつきは、春樹を見られなかった。


 黒猫を握る。


 胸が速い。


 春樹がどう答えるか。


 怖い。


 やらないと言われても当然。


 実行委員は遊びではない。


 春樹がなつきのためだけに引き受ける必要もない。


 それでも。


 少しだけ期待してしまう自分がいる。


「まだ」


 春樹が言った。


 なつきが顔を上げる。


「横田さんも決めてない」


「うん」


「だから、今は決めない」


 圭が少しだけ肩を落とす。


「慎重」


 紅秋が言う。


「当然だ」


 春樹は続ける。


「でも」


 なつきの胸がまた鳴る。


「横田さんが考えるなら、俺も考える」


 教室の空気が、もう一度揺れた。


「おお」


「強い」


「二人セットが現実味!」


「付き合ってないのに共同作業!」


「うるさい」


 なつきは耐えきれず、黒猫で口元を隠した。


 春樹は、なぜ教室が騒いでいるのか完全には分かっていないようだった。


「何?」


 圭が両手で頭を抱える。


「本人だけ温度が違う」


 紅秋が静かに言う。


「春樹は春樹だ」


   ◇


 担任は教室が落ち着くのを待った。


「では、現時点の候補を書きます」


 男子候補。


 島中。


 田辺。


 三浦。


 大國。


 女子候補。


 横田。


 数名の女子。


「今日の帰りのホームルームまでに考えてください」


 担任が言う。


「無理に立候補する必要はありません。ただし、誰かが必ず担当します」


 圭が小声で言う。


「逃げ道はない」


 田辺が返す。


「お前も候補だからな」


「忘れてた」


「早い」


「それと」


 担任は続けた。


「実行委員だけですべてを行うわけではありません。クラス全員が協力します」


 なつきはプリントを見る。


 クラス全員。


 一人で抱える役目ではない。


 それでも。


 中心に立つ。


 人へ伝える。


 決める。


 責任を持つ。


 胸の中に、不安が広がる。


「横田さん」


 斜め後ろから、小さな声。


 なつきは振り返った。


 春樹がこちらを見ている。


「握ってる」


「うん」


「怖い?」


「うん」


「やりたくない?」


 なつきは、すぐには答えられなかった。


 やりたくない。


 そう言えば、簡単だった。


 以前なら。


 迷わずそう答えた。


 でも今は。


 怖い。


 それと同時に。


 自分がやったら、どうなるのだろうと思う。


 みんなの役に立てるだろうか。


 体育祭の時のように。


 考査の勉強会のように。


 以前より、少し変わった自分を試せるのだろうか。


「分からない」


 なつきは正直に答えた。


「怖いけど」


「うん」


「絶対嫌ってわけでもない」


 春樹は頷いた。


「そっか」


「春樹くんは?」


「分からない」


「同じ?」


「少し」


「何が怖い?」


「人前で話す」


 なつきは少し驚く。


「春樹くんも?」


「うん」


「平気そうなのに」


「話すこと決まってれば平気」


「決まってなかったら?」


「困る」


 なつきは、少しだけ笑った。


「同じだね」


「うん」


「私だけじゃないんだ」


「うん」


 春樹は、なつきの黒猫を見る。


「でも、横田さん」


「何?」


「前より話せる」


 胸が少し動く。


「本当に?」


「うん」


「みんなの前でも?」


「体育祭」


「うん」


「勉強会」


「うん」


「今も」


「今?」


「できないってすぐ言わなかった」


 なつきは言葉を失った。


 確かに。


 最初は無理だと思った。


 でも、完全には拒まなかった。


 怖い。


 考えたい。


 その言葉を、自分で言った。


「春樹くん」


「何?」


「私、少し変わった?」


「うん」


「良い方に?」


「うん」


「本当に?」


「うん」


 いつもの短い返事。


 でも。


 一つずつ、なつきの不安を包んでいく。


   ◇


 ホームルームが終わる。


 担任が教室を出た瞬間。


 クラスは、実行委員の話で一気に騒がしくなった。


「男子どうする?」


「女子は横田さん有力?」


「春樹と横田でいいじゃん」


「安易すぎ」


「でも相性いい」


「委員の相性?」


「それ以外も」


 なつきは机へ額をつけたくなった。


「もうやだ」


 亜衣が隣へ来る。


「まだ何も決まってないよ」


「みんな決まったみたいに言う」


「期待されてるんだよ」


「別の意味も混ざってる」


「それはある」


「否定して」


「無理」


 茜も近くへ来た。


「なつき」


「うん」


「本当に嫌なら、断っていいのよ」


「うん」


「でも、少しやってみたいと思っている?」


 なつきは黒猫へ触れた。


 握ったまま。


 少しだけ指を動かす。


「少し」


「なら、その気持ちも大切にして」


「うん」


「怖いから消す必要はないわ」


 亜衣も頷く。


「私達、手伝うし」


「本当に?」


「うん」


「途中で逃げない?」


「私は曜日によって先に帰るけど、その前にできることはやる」


「茜ちゃんは?」


「資料作成で関わるから、かなり近くにいると思う」


 少し安心する。


 一人ではない。


「圭くん達も手伝うと思うよ」


 亜衣が言う。


 なつきは男子側を見る。


 圭、島中、田辺が。


 男子委員をどうするか、まだ押しつけ合っていた。


「俺は盛り上げ担当」


「委員やれ」


「島中こそ」


「田辺がいい」


「書類なくす」


「なくさない」


「圭は会議で話脱線する」


「しない」


 紅秋が言う。


「すでに脱線している」


 三人が同時に黙る。


 なつきは思わず笑った。


「……手伝ってくれそう」


「でしょ」


   ◇


 春樹は、自分の席でプリントを見ていた。


 さっきまで圭達に囲まれていたが。


 今は少しだけ静かだった。


 なつきは、迷ったあと振り返る。


「春樹くん」


「何?」


「本当に考える?」


「うん」


「私が考えるなら?」


「うん」


「どうして?」


 春樹は少しだけ黙った。


 教室は騒がしい。


 けれど。


 二人の間だけ、少し静かになる。


「横田さん」


「うん」


「一人でやるの、怖そうだから」


 胸が鳴る。


「私が?」


「うん」


「春樹くんが一緒なら、怖くないと思う?」


「少しは」


「うん」


「でも、俺も怖い」


「さっき言ってた」


「うん」


「じゃあ、二人とも怖い」


「うん」


「それで大丈夫?」


 春樹は、ほんの少しだけ考えた。


「一人よりは」


 なつきの胸へ、静かな温かさが広がる。


「そっか」


「うん」


「私、春樹くんが一緒なら、少しやってみたいかも」


 言葉にした瞬間。


 自分自身が一番驚いた。


 やってみたい。


 怖い。


 でも。


 少し。


 その気持ちが、本当に自分の中にあった。


 春樹は、なつきを見た。


「本当?」


「うん」


「無理してない?」


「少しは無理してる」


「少し?」


「怖いことする時は、少しくらい必要かなって」


 春樹は、しばらく黙った。


 それから。


「横田さん」


「何?」


「できると思う」


 なつきの指が止まる。


「私が?」


「うん」


「実行委員?」


「うん」


「どうして?」


「周り見てる」


 圭と同じ言葉。


「困ってる人に気づく」


「うん」


「話を聞く」


「うん」


「前より、自分のことも言う」


「うん」


「だから」


 春樹は、まっすぐな目でなつきを見た。


「横田さんなら、できると思う」


 教室のざわめきが、少し遠くなった。


 圭達の押しつけ合い。


 女子達の会話。


 椅子を動かす音。


 廊下の足音。


 全部が、薄くなる。


 なつきの中に。


 春樹の言葉だけが残った。


 できる。


 頑張れではない。


 無理にやれでもない。


 春樹が、今までのなつきを見て。


 考えて。


 選んでくれた言葉。


「……本当に?」


「うん」


「失敗するかも」


「うん」


「人前で詰まるかも」


「うん」


「緊張して、黒猫ずっと握るかも」


「うん」


「それでも?」


「できると思う」


 なつきの指から、少しずつ力が抜ける。


 握っていた黒猫を。


 小さく揺らす。


「嬉しい」


「うん」


「すごく」


「分かる」


「顔でも?」


「うん」


「黒猫でも?」


「うん」


 春樹の口元が、ほんの少しだけやわらかくなる。


 なつきも笑った。


   ◇


 圭が、そのやり取りに気づいた。


「何話してた?」


「何でもない」


 なつきがすぐに答える。


「絶対何かあった」


「候補者同士の秘密?」


 島中が言う。


「まだ候補」


 春樹が返す。


 田辺が笑う。


「でも大國、さっきよりやる顔してる」


「どんな顔?」


「覚悟決まってる顔」


「分からない」


 圭がなつきを見る。


「横田は?」


「考えてる」


「おお」


「まだ決めてない」


「でも前進」


 紅秋が静かに言った。


「無理に煽るな」


「応援」


「本人の速度で考えさせろ」


「はい」


 圭は素直に引いた。


 なつきは少し驚いた。


 以前なら。


 もう一言、二言、何か言っていたはず。


 でも。


 圭も少しずつ変わっている。


「圭くん」


「何?」


「ありがとう」


「俺?」


「少し待ってくれたから」


 圭は一瞬目を丸くし。


 それから笑った。


「本読んだから」


「全部本の効果?」


「たぶん」


 教室に、やわらかな笑いが広がった。


   ◇


 一時間目の準備が始まる。


 生徒達は席へ戻り。


 教科書を開き。


 さっきまでの実行委員の話を、それぞれ胸へ残したまま授業へ向かう。


 なつきも前を向いた。


 黒板の女子候補欄。


 横田。


 自分の苗字が書かれている。


 以前なら。


 見ただけで消してほしいと思っただろう。


 今も怖い。


 心臓は少し速い。


 でも。


 完全に逃げたいとは思わない。


 春樹が言ってくれた。


 横田さんなら、できると思う。


 その言葉が。


 背中を無理に押すのではなく。


 なつきの足元へ、小さな道を作ってくれた。


 やるかどうか。


 まだ決めていない。


 春樹がやるかも。


 まだ分からない。


 けれど。


 怖いから無理。


 その一言だけで、全部を閉じなくてもいい。


 少し考える。


 少し想像する。


 少しだけ、自分を信じてみる。


 なつきは机の横の黒猫へ触れた。


 握らない。


 小さく揺らす。


 斜め後ろ。


 春樹が、その動きを見つけた気配がした。


 振り返らなくても分かる。


 そして。


 なつきは、授業が始まる直前。


 胸の中で小さく呟いた。


 ――私にも、できるかな。


 不安は残る。


 けれど。


 その問いの隣には。


 春樹の言葉が、確かにあった。


 ――横田さんなら、できると思う。

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