第131話 実行委員は、平和には決まらない
席替えから、さらに数日が過ぎた朝。
二年十一組の教室は、ようやく新しい並びに馴染み始めていた。
前の席へ向かいかけて途中で立ち止まる生徒も、以前の隣へ無意識に話しかけてしまう生徒も、ほとんどいなくなった。
机の横へ鞄を掛ける位置。
教科書を置く場所。
隣の人との距離。
黒板の見え方。
窓から差し込む光。
誰もが少しずつ、自分の新しい居場所を作り終えつつあった。
けれど。
なつきにとっては、まだ完全に慣れたとは言い切れない。
教室へ入った時。
以前なら、春樹はすぐ視界に入った。
今は、少し後ろ。
生徒達の背中や机に隠れ、一度では見つけられないこともある。
それでも。
探すこと自体が、もう不安ではなくなっていた。
なつきは教室の入口で一度だけ足を止めた。
朝のざわめき。
笑い声。
椅子を引く音。
誰かがペットボトルを机へ置く音。
その中に。
聞き慣れた圭の声がある。
「だから俺は、静かな本も読めるようになったんだって」
「まだ一冊しか読んでないだろ」
田辺の声。
「二冊目借りた」
「まだ読み終わってないだろ」
島中の声。
「現在進行形で読書家」
「読書家を名乗るの早い」
その少し近く。
短く、落ち着いた声。
「圭、ページ折るな」
「折ってない。栞」
春樹だ。
姿はまだ見えない。
でも。
声で分かる。
なつきの胸が、少しだけやわらかくなる。
「いた」
小さく呟いた。
隣にいた亜衣が、すぐに反応する。
「声だけで?」
「うん」
「もう完全に見つける機能が進化してる」
「何それ」
「横田なつき、高性能春樹探知機」
「変な名前つけないで」
亜衣が笑う。
少し後ろを歩いていた茜も、口元をやわらかくした。
「でも、本当に分かるようになったのね」
「うん」
「黒猫がなくても?」
「春樹くんには黒猫ついてないよ」
「そういう意味じゃないわ」
三人で笑いながら教室へ入る。
なつきが新しい席へ近づく。
机の横へ鞄を掛ける。
黒猫のキーホルダーが、金具に触れて小さく揺れた。
その瞬間。
斜め後ろから声がした。
「おはよう」
なつきは振り返った。
春樹がいる。
机の上には、祐衣から借りた青い表紙の本。
すでに数ページ読んでいたらしいが、今は本を閉じている。
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
なつきも笑う。
「私も、声で見つけた」
「声?」
「教室入る前に、圭くんへ注意してた」
「ページ折るなって?」
「うん」
圭が隣から身を乗り出す。
「本当に折ってないから」
「誰も疑ってないよ」
「春樹は疑った」
「折りそうだった」
「栞を挟もうとしただけ」
春樹が圭の本を見る。
「角を持ってた」
「一瞬」
「危なかった」
「本の保護者が厳しい」
田辺が後方から言う。
「お前、前は本にジュースこぼしたことあるって言ってたろ」
「中学の時」
「前科あるじゃん」
「もう反省した!」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
圭は少し不満そうに本を胸へ抱えた。
「今は大切にしてる」
春樹が頷く。
「ならいい」
「許された」
なつきは、そのやり取りを見ながら黒猫を小さく揺らした。
春樹の視線がすぐに手元へ落ちる。
「嬉しい?」
「うん」
「何が?」
「朝からいつも通りだったから」
「いつも通り?」
「春樹くんがいて、圭くんが騒いでて、紅秋くんが注意する」
少し前の席から、紅秋が振り返る。
「俺はまだ何も言っていない」
「もうすぐ言うと思う」
亜衣が言った。
圭が紅秋を見る。
「今日まだ俺、紅秋に怒られてない」
「今、声が大きい」
紅秋が即座に返した。
圭が両手を上げる。
「はい、いつも通り!」
教室にもう一度笑いが広がった。
◇
始業前。
圭は新しく借りた本を読み始め。
田辺と島中は昨日の部活の話。
亜衣は英語の課題を確認し。
茜は提出物を整理している。
春樹は再び青い本を開いた。
なつきも、今日の授業で使う教科書を机へ並べた。
穏やかな朝。
大きな出来事のない時間。
けれど。
こういう何でもない朝を、なつきは以前より大切に感じるようになっていた。
春樹がいる。
目が合う。
声が届く。
それだけで、自分の一日がちゃんと始まる。
少し前まで。
それは、なつき一人だけの気持ちだと思っていた。
でも春樹も。
なつきを見つけられないと少し足りないと言った。
待っていると。
見つけたいと。
その言葉が、今も胸の中に残っている。
なつきは、斜め後ろを見たい気持ちを堪えながら教科書を開いた。
毎回振り返っていたら、亜衣に数えられる。
それに。
見なくても、春樹がそこにいると分かる。
ページをめくる音。
圭の質問に返す短い声。
その気配だけで、十分だった。
――と思っていたのに。
「春樹」
圭が小声で呼んだ。
「何?」
「この人、何で急に帰ったの?」
「読めば分かる」
「今知りたい」
「三ページ先」
「教えて」
「読めばいい」
「冷たい」
「すぐ分かる」
なつきは、思わず振り返った。
春樹と目が合う。
「何?」
「何でもない」
「見てた」
「圭くんとの会話が聞こえたから」
圭が本から顔を上げる。
「横田も、何で帰ったか気になる?」
「読んでないから分からない」
「じゃあ読んだら貸す」
「祐衣さんに返したあとでしょ」
「そうだった」
春樹が言う。
「忘れるな」
「二人とも紅秋化してる」
紅秋が前方から振り返る。
「俺の名前を注意の代名詞にするな」
朝の笑いが、また教室へ広がった。
◇
ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴った。
担任が教室へ入ってくる。
手には出席簿。
その下に、何枚かのプリントを挟んでいる。
なつきは、その紙の多さへ少しだけ目を向けた。
いつもの連絡事項だけではなさそうだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶が揃う。
担任は出席を確認し。
欠席者がいないことを確かめる。
それから。
出席簿を閉じると、机の上へプリントを置いた。
「昨日、少しだけ話しましたが」
教室の空気がわずかに変わる。
来月の校内行事。
実行委員。
詳細は後日。
前日の朝、そう伝えられていた。
「今年度の秋季交流週間について、正式な通知が届きました」
「秋季交流週間」
圭が小さく繰り返す。
田辺が聞く。
「去年あった?」
「一年は別プログラムだった気がする」
島中が答える。
担任はプリントを一番前の生徒へ渡した。
「後ろへ回してください」
紙が列ごとに回っていく。
なつきの手元にも、一枚届く。
上部には大きく、
『秋季交流週間実施要項』
と書かれている。
その下。
学年や学科を越えた交流を目的とし。
複数の企画を一週間かけて行う。
学年混合の展示。
交流競技。
読書や文化活動。
商業科による販売・企画演習。
内容は思っていたより多い。
「一週間全部イベント?」
女子の一人が聞く。
「通常授業もあります」
担任が答える。
教室から、分かりやすく落胆した声が漏れる。
「授業あるんだ」
「交流だけでいいのに」
「学校行事は休みではありません」
担任が落ち着いて返すと、教室に笑いが起きた。
圭がプリントを見ながら、隣の春樹へ小声で言う。
「販売企画、楽しそう」
「商業科だから?」
「店やる?」
「まだ分からない」
「圭の店は怖い」
紅秋が言った。
「何売るの?」
「熱意」
「商品にならない」
「応援」
「無料でやれ」
田辺と島中が、肩を揺らして笑う。
担任が教室を見渡した。
「説明を続けます」
ざわめきが収まる。
「各クラスから、実行委員を二名選出します」
教室の空気が、ぴたりと止まった。
嫌な予感。
多くの生徒が同時に感じたらしい。
担任は続ける。
「原則、男女一名ずつです」
一秒。
二秒。
そして。
「えー……」
教室全体から、見事に重なった声が漏れた。
担任は眉一つ動かさない。
「予想通りの反応ですね」
「先生、立候補いなかったらどうするんですか」
圭が聞く。
「推薦または話し合いです」
「最終的に?」
「決まるまで帰れません」
教室がざわついた。
「強い」
「先生の脅しが強い」
「実行委員より帰宅を人質にしてる」
担任は平然としている。
「脅しではありません。クラスの役割です」
「先生」
島中が手を上げた。
「体育祭で働いた人は免除ありますか」
「ありません」
即答。
教室から笑いが起きる。
「早い!」
「検討すらされなかった!」
「島中残念!」
島中は机へ両手をついた。
「俺、紅組で声枯らしたんだけど」
田辺が横から言う。
「俺も借り人競争で走った」
「それは全員だろ」
「でも俺は目立った」
「自分で言うな」
圭が手を上げる。
「先生、読書家は免除?」
「何の関係がありますか」
「最近、本を読むようになりました」
「素晴らしいですね。委員もできますね」
「墓穴!」
教室が大きく笑った。
圭は慌てて手を下げる。
「今のなし」
「出席簿に記録しました」
「何を!?」
「冗談です」
担任が、ごくわずかに笑った。
教室はさらに湧いた。
「先生が冗談言った!」
「交流週間より事件!」
「今日は記念日!」
「静かにしてください」
担任の声は変わらない。
けれど、口元は少しだけ緩んでいた。
◇
「仕事内容は」
担任が黒板へ書く。
企画説明。
クラス内の意見集約。
全体会議への参加。
当日の運営補助。
提出物管理。
生徒間の連絡。
黒板の文字が増えるたび。
教室の空気は、少しずつ重くなった。
「多くない?」
「一週間あるからな」
「会議何回?」
「プリント見て。放課後って書いてる」
「帰り遅くなるじゃん」
なつきも、プリントを見つめた。
実行委員。
人前で説明する。
意見をまとめる。
他学年や他学科の生徒と話す。
会議へ参加する。
どれも、以前の自分なら一番避けたかったものばかりだった。
人の前に立つだけで緊張する。
自分の意見を言うのが怖い。
間違えたらどうしようと思う。
誰かをまとめるなんて、自分にはできない。
そう思う。
それは今も、すぐには消えていない。
「立候補したい人はいますか」
担任が尋ねた。
教室が、見事なほど静まり返った。
誰も手を上げない。
生徒達は、プリントを見る。
窓を見る。
机を見る。
担任だけは見ない。
圭は、突然ものすごく真剣な顔で本を開いた。
紅秋が横目で見る。
「ホームルーム中だぞ」
「今、読書家だから」
「都合よく使うな」
教室の何人かが笑う。
担任は、静かな教室を見渡した。
「誰もいませんか」
さらに沈黙。
秋の風が窓の隙間から入り。
カーテンの端をわずかに揺らす。
誰かが咳払いをする。
誰かのシャープペンが机から落ちる。
小さな音が、妙に響いた。
「では」
担任が言う。
「まず男子から決めましょう」
男子達の間に、目に見えない緊張が走った。
さっきまで明るかった圭も、姿勢を少し低くする。
島中が田辺を見る。
田辺が島中を見る。
二人の視線がぶつかる。
「島中」
「田辺」
同時に呼ぶ。
教室に笑いが起きた。
「お前やれ」
「お前がやれ」
「体育祭で仕切ってた」
「お前も声出してた」
「俺、部活ある」
「俺もある」
「お前、人前得意」
「お前、身体で押し切れる」
「実行委員は相撲じゃない」
圭が口を挟む。
田辺が圭を見る。
「じゃあ圭」
「何で?」
「人前得意」
「得意だけど、会議は苦手」
島中が笑う。
「話すだけ話して、紅秋にまとめてもらえ」
「じゃあ紅秋でいいじゃん」
圭が言う。
教室の視線が、紅秋へ集まる。
紅秋は静かにプリントを見ていた。
「板倉ならできそう」
「真面目」
「まとめ役」
「副委員長っぽい」
「実際そういう感じ」
紅秋は、ゆっくり顔を上げた。
「できるかできないかで言えば、できる」
「おお」
「でも」
教室が続きを待つ。
「今回、俺は別の委員会業務がある」
「あ」
「そうだった」
「図書……じゃなくて、何だっけ」
「学級関係の提出物と進路資料の補助だ」
圭が言う。
「仕事多い」
「お前達がやらない分が回ってくる」
「ごめん」
紅秋の視線が、今度は春樹へ移る。
「春樹」
「やらない」
即答だった。
教室から笑いが起きる。
「早い!」
「島中より早い!」
「理由は?」
圭が聞く。
「向いてない」
「どこが?」
「話さない」
「会議でうんしか言わない委員」
田辺が想像して笑う。
島中も続ける。
「先生が『意見ありますか』って聞いたら」
「うん」
「意見の内容は?」
「ない」
圭が言い、男子達が笑った。
春樹は少しだけ眉を寄せる。
「そこまで話さなくない」
紅秋が冷静に返す。
「以前なら否定できなかったが、最近は話す」
「紅秋」
「事実だ」
島中がなつきの方をちらりと見た。
「最近、横田相手だと特に話す」
教室の何人かが一斉に反応する。
「あー」
「分かる」
「それはある」
「朝のやつ」
なつきの頬が一気に熱くなる。
「ちょっと」
春樹は、なぜ教室全体が反応したのか分からないような顔をした。
「朝?」
圭が楽しそうに言う。
「今日もいる、見つけた」
「言ってる」
「毎朝」
「うん」
「教室公認」
「何が?」
「二人の朝」
春樹は首を傾げる。
なつきは黒猫を握った。
「圭くん、もういい」
「まだ何も説明してない」
「しなくていい」
教室中に笑いが広がる。
担任が黒板の前で、静かに待っていた。
「話し合いは進んでいますか」
「恋愛の話に逸れました」
圭が正直に言う。
「戻してください」
「はい」
さらに笑いが起きた。
◇
男子側は、なかなか決まらなかった。
島中。
田辺。
圭。
春樹。
数人の男子の名前が出ては、本人が理由をつけて断る。
「部活」
「委員会」
「人前苦手」
「帰りの電車」
「責任重い」
どれも、それなりに納得できる理由。
だからこそ、誰か一人へ強く押しつけるのも難しい。
「じゃあ推薦で投票?」
田辺が言う。
「投票で一位の人がやる?」
島中が続ける。
圭が首を横に振る。
「それ、嫌われ者決定戦みたいにならない?」
「推薦だから好かれてる可能性もある」
「でも本人からしたら罰ゲーム」
紅秋が言う。
「まず、役割に必要な条件を整理すればいい」
教室の視線が、再び紅秋へ集まる。
「またまとめ始めた」
「結局紅秋が一番向いてる」
「だができないと言っただろう」
「残念」
紅秋は黒板へ視線を向けながら続けた。
「必要なのは、会議で内容を聞くこと。クラスへ伝えること。意見をまとめること。当日、勝手な行動をしないこと」
圭が小さく言う。
「最後、俺を見てない?」
「見ている」
「正直」
「圭は盛り上げ役には向いている。だが、単独で委員にすると、話を広げすぎる可能性がある」
「褒めてから落とした」
田辺が笑う。
紅秋は島中を見る。
「島中は人前で話せる」
「うん」
「ただし、面倒になった時に田辺へ投げる」
「否定できない」
「田辺は動ける」
「うん」
「ただし、書類管理が不安」
「それも否定できない」
「春樹は話を聞ける」
「うん」
春樹が短く答える。
「決めたことを忘れない」
「うん」
「必要な時は動ける」
「うん」
「だが、自分から立候補はしない」
「うん」
「全部うん」
圭が笑った。
紅秋は静かに春樹を見る。
「今の春樹なら、以前より向いていると思う」
教室が少しだけ静かになる。
春樹も、すぐには答えなかった。
「以前より?」
「話すようになった」
「うん」
「相手が困っている時、以前より早く気づく」
春樹の視線が、無意識になつきへ向く。
圭がそれを見逃さない。
「今、横田見た」
「見た」
春樹は隠さなかった。
教室から笑いが起きる。
「認めた!」
「強い!」
「もう自然!」
なつきは黒猫を両手で隠した。
「何でみんな見るの」
亜衣が小声で言う。
「春樹くんが見たから」
「それは分かってる」
「嬉しい?」
「恥ずかしい」
「両方?」
「……両方」
茜が、少し前の席から振り返って笑った。
◇
担任は、男子側の話がまだ終わらないと判断したらしい。
「男子は少し考えておいてください」
黒板の左側へ『男子候補』と書く。
その下に。
島中。
田辺。
三浦。
大國。
四人の名前を書いた。
「俺も入ってる!」
圭が声を上げる。
「名前が出ましたので」
「冗談だったのに」
「話し合いでは、冗談と本気を分けてください」
「勉強になります」
担任は次に、黒板の右側へ『女子候補』と書いた。
女子達の空気が、一斉に固くなる。
「では、女子を決めましょう」
さっきまで男子を笑っていた女子達が、急に視線を逸らした。
亜衣が小声で言う。
「来た」
なつきも、プリントへ目を落とす。
自分には関係ない。
そう思おうとした。
人前が得意ではない。
実行委員に向いている人は、他にいる。
亜衣。
茜。
もっと話せる女子。
もっとしっかりした人。
「立候補する人は?」
担任が聞く。
誰も手を上げない。
男子側と同じ。
今度は男子達が、少し楽しそうに女子側を見ている。
田辺が小さく言う。
「さっき笑ってたからな」
女子の一人が返す。
「そっちも決まってないでしょ」
「それはそう」
教室に小さな笑いが起きる。
「推薦はありますか」
担任が続けた。
少しの沈黙。
その時。
「茜ちゃん」
女子の一人が言った。
茜が顔を上げる。
「遠山さん、向いてる」
「まとめられるし」
「真面目」
「説明も上手」
茜は少しだけ考えてから答えた。
「私は、別の係で秋季交流週間の資料作成を手伝う予定なの」
「茜ちゃんも?」
亜衣が聞く。
「先生から事前に頼まれていたの」
「みんな仕事ある」
「早めに言えばよかったわね」
担任が頷く。
「遠山さんは、事務補助として別枠で協力してもらいます」
「じゃあ伊藤さん」
別の女子が言った。
亜衣が目を丸くする。
「私?」
「話せるし」
「人前平気そう」
「まとめるのもできそう」
亜衣は少し悩むように唇を尖らせた。
「できなくはないけど」
「やる?」
なつきが聞く。
「うーん」
亜衣はプリントを見た。
「放課後会議多いんだよね」
「うん」
「家の都合で、曜日によって厳しいかも」
担任が確認する。
「毎回参加できない場合は、もう一人へ負担が偏ります」
「なら、私は候補から外れた方がいいかも」
亜衣は申し訳なさそうに言った。
「できる範囲では手伝うけど」
「それで構いません」
担任が黒板へ目を向ける。
「他にいますか」
また沈黙。
女子達が互いの顔を見る。
誰かの名前を出すことにも、少し遠慮がある。
押しつけたと思われたくない。
自分が出るのも怖い。
その空気を。
圭が見事に壊した。
「横田」
教室全体が、一瞬で静まった。
なつきの身体も止まる。
「え?」
圭は、自分の席からなつきを指した。
「横田、向いてると思う」
「ちょっと待って」
亜衣が先に反応する。
「圭くん、急すぎ」
「でも本当に」
「どうして私?」
なつきの声が少し上ずる。
圭は指を下ろし、真面目な顔で答えた。
「周り見てる」
「私が?」
「うん。体育祭でも、誰が困ってるか気づいてた」
島中が少し考えて頷く。
「それはあった」
「紅組で、途中から結構声出してた」
田辺も続ける。
「考査の勉強会でも、分からない人に声かけてたよな」
「私も分からない側だったよ」
「途中から教えてた」
島中が言う。
「英語とか」
「それは祐衣さんに教えてもらったから」
「教えてもらったことを、別の人へ説明できるのも大事だろ」
なつきは言葉に詰まった。
教室の視線が集まっている。
怖い。
顔が熱い。
黒猫を握る指へ力が入る。
「でも」
なつきは何とか言葉を出す。
「人前で話すの、苦手だし」
女子の一人が言う。
「前より話せてるよ」
「うん」
「体育祭の応援、横田さん結構大きかった」
「最初は小さかったけど」
「最後は島中より大きかったかも」
「それはない」
島中が即座に返し、教室に笑いが起きた。
「俺、声枯れたから」
「競うところじゃない」
田辺が肩を揺らす。
なつきは、笑いが起きたことで少しだけ息をつけた。
けれど。
名前は消えない。
黒板の女子候補欄。
担任が、ゆっくり『横田』と書いた。
「先生」
「候補です」
「まだ何も決まってないです」
「はい。ですから候補です」
教室のあちこちから笑いが漏れる。
「逃げ道ない」
「黒板に書かれた」
「公式候補」
なつきは黒猫を握ったまま、亜衣を見る。
「亜衣ちゃん」
「私も、向いてると思う」
「味方じゃなかった」
「味方だから言ってる」
「茜ちゃん」
「私も」
「茜ちゃんまで」
茜は穏やかに続ける。
「できないと思うなら、無理には勧めないわ」
「うん」
「でも、怖いからできないと思っているだけなら、少し考えてもいいと思う」
なつきの胸が、静かに揺れた。
怖いから、できない。
その二つは同じではない。
以前。
春樹へ話しかけることも。
図書委員の仕事も。
体育祭で声を出すことも。
分からないと伝えることも。
全部、怖かった。
でも。
少しずつできた。
怖さが消えたからではない。
怖いまま。
誰かと一緒に。
一つずつ。
「でも、実行委員は」
なつきはプリントを見る。
「会議とか、他のクラスの人と話したり」
「一人じゃない」
亜衣が言う。
「男女二人」
「男子が誰か分からない」
亜衣は、少しだけ斜め後ろを見る。
「分からないね」
その視線の先。
春樹。
なつきの胸が大きく鳴った。
「何で今、春樹くん見るの」
「何となく」
「絶対何となくじゃない」
圭がすぐに口を挟む。
「男子、大國。女子、横田」
教室が、一瞬でざわついた。
「セット推薦!」
「分かりやすい!」
「圭が言った!」
「もう決まりじゃん!」
なつきの顔が一気に熱くなる。
「決まってない!」
春樹も圭を見る。
「俺、やるって言ってない」
「横田がやるなら?」
圭が聞く。
春樹は黙った。
教室が静かになる。
島中も。
田辺も。
女子達も。
担任さえ、少しだけ待っている。
なつきは、春樹を見られなかった。
黒猫を握る。
胸が速い。
春樹がどう答えるか。
怖い。
やらないと言われても当然。
実行委員は遊びではない。
春樹がなつきのためだけに引き受ける必要もない。
それでも。
少しだけ期待してしまう自分がいる。
「まだ」
春樹が言った。
なつきが顔を上げる。
「横田さんも決めてない」
「うん」
「だから、今は決めない」
圭が少しだけ肩を落とす。
「慎重」
紅秋が言う。
「当然だ」
春樹は続ける。
「でも」
なつきの胸がまた鳴る。
「横田さんが考えるなら、俺も考える」
教室の空気が、もう一度揺れた。
「おお」
「強い」
「二人セットが現実味!」
「付き合ってないのに共同作業!」
「うるさい」
なつきは耐えきれず、黒猫で口元を隠した。
春樹は、なぜ教室が騒いでいるのか完全には分かっていないようだった。
「何?」
圭が両手で頭を抱える。
「本人だけ温度が違う」
紅秋が静かに言う。
「春樹は春樹だ」
◇
担任は教室が落ち着くのを待った。
「では、現時点の候補を書きます」
男子候補。
島中。
田辺。
三浦。
大國。
女子候補。
横田。
数名の女子。
「今日の帰りのホームルームまでに考えてください」
担任が言う。
「無理に立候補する必要はありません。ただし、誰かが必ず担当します」
圭が小声で言う。
「逃げ道はない」
田辺が返す。
「お前も候補だからな」
「忘れてた」
「早い」
「それと」
担任は続けた。
「実行委員だけですべてを行うわけではありません。クラス全員が協力します」
なつきはプリントを見る。
クラス全員。
一人で抱える役目ではない。
それでも。
中心に立つ。
人へ伝える。
決める。
責任を持つ。
胸の中に、不安が広がる。
「横田さん」
斜め後ろから、小さな声。
なつきは振り返った。
春樹がこちらを見ている。
「握ってる」
「うん」
「怖い?」
「うん」
「やりたくない?」
なつきは、すぐには答えられなかった。
やりたくない。
そう言えば、簡単だった。
以前なら。
迷わずそう答えた。
でも今は。
怖い。
それと同時に。
自分がやったら、どうなるのだろうと思う。
みんなの役に立てるだろうか。
体育祭の時のように。
考査の勉強会のように。
以前より、少し変わった自分を試せるのだろうか。
「分からない」
なつきは正直に答えた。
「怖いけど」
「うん」
「絶対嫌ってわけでもない」
春樹は頷いた。
「そっか」
「春樹くんは?」
「分からない」
「同じ?」
「少し」
「何が怖い?」
「人前で話す」
なつきは少し驚く。
「春樹くんも?」
「うん」
「平気そうなのに」
「話すこと決まってれば平気」
「決まってなかったら?」
「困る」
なつきは、少しだけ笑った。
「同じだね」
「うん」
「私だけじゃないんだ」
「うん」
春樹は、なつきの黒猫を見る。
「でも、横田さん」
「何?」
「前より話せる」
胸が少し動く。
「本当に?」
「うん」
「みんなの前でも?」
「体育祭」
「うん」
「勉強会」
「うん」
「今も」
「今?」
「できないってすぐ言わなかった」
なつきは言葉を失った。
確かに。
最初は無理だと思った。
でも、完全には拒まなかった。
怖い。
考えたい。
その言葉を、自分で言った。
「春樹くん」
「何?」
「私、少し変わった?」
「うん」
「良い方に?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
いつもの短い返事。
でも。
一つずつ、なつきの不安を包んでいく。
◇
ホームルームが終わる。
担任が教室を出た瞬間。
クラスは、実行委員の話で一気に騒がしくなった。
「男子どうする?」
「女子は横田さん有力?」
「春樹と横田でいいじゃん」
「安易すぎ」
「でも相性いい」
「委員の相性?」
「それ以外も」
なつきは机へ額をつけたくなった。
「もうやだ」
亜衣が隣へ来る。
「まだ何も決まってないよ」
「みんな決まったみたいに言う」
「期待されてるんだよ」
「別の意味も混ざってる」
「それはある」
「否定して」
「無理」
茜も近くへ来た。
「なつき」
「うん」
「本当に嫌なら、断っていいのよ」
「うん」
「でも、少しやってみたいと思っている?」
なつきは黒猫へ触れた。
握ったまま。
少しだけ指を動かす。
「少し」
「なら、その気持ちも大切にして」
「うん」
「怖いから消す必要はないわ」
亜衣も頷く。
「私達、手伝うし」
「本当に?」
「うん」
「途中で逃げない?」
「私は曜日によって先に帰るけど、その前にできることはやる」
「茜ちゃんは?」
「資料作成で関わるから、かなり近くにいると思う」
少し安心する。
一人ではない。
「圭くん達も手伝うと思うよ」
亜衣が言う。
なつきは男子側を見る。
圭、島中、田辺が。
男子委員をどうするか、まだ押しつけ合っていた。
「俺は盛り上げ担当」
「委員やれ」
「島中こそ」
「田辺がいい」
「書類なくす」
「なくさない」
「圭は会議で話脱線する」
「しない」
紅秋が言う。
「すでに脱線している」
三人が同時に黙る。
なつきは思わず笑った。
「……手伝ってくれそう」
「でしょ」
◇
春樹は、自分の席でプリントを見ていた。
さっきまで圭達に囲まれていたが。
今は少しだけ静かだった。
なつきは、迷ったあと振り返る。
「春樹くん」
「何?」
「本当に考える?」
「うん」
「私が考えるなら?」
「うん」
「どうして?」
春樹は少しだけ黙った。
教室は騒がしい。
けれど。
二人の間だけ、少し静かになる。
「横田さん」
「うん」
「一人でやるの、怖そうだから」
胸が鳴る。
「私が?」
「うん」
「春樹くんが一緒なら、怖くないと思う?」
「少しは」
「うん」
「でも、俺も怖い」
「さっき言ってた」
「うん」
「じゃあ、二人とも怖い」
「うん」
「それで大丈夫?」
春樹は、ほんの少しだけ考えた。
「一人よりは」
なつきの胸へ、静かな温かさが広がる。
「そっか」
「うん」
「私、春樹くんが一緒なら、少しやってみたいかも」
言葉にした瞬間。
自分自身が一番驚いた。
やってみたい。
怖い。
でも。
少し。
その気持ちが、本当に自分の中にあった。
春樹は、なつきを見た。
「本当?」
「うん」
「無理してない?」
「少しは無理してる」
「少し?」
「怖いことする時は、少しくらい必要かなって」
春樹は、しばらく黙った。
それから。
「横田さん」
「何?」
「できると思う」
なつきの指が止まる。
「私が?」
「うん」
「実行委員?」
「うん」
「どうして?」
「周り見てる」
圭と同じ言葉。
「困ってる人に気づく」
「うん」
「話を聞く」
「うん」
「前より、自分のことも言う」
「うん」
「だから」
春樹は、まっすぐな目でなつきを見た。
「横田さんなら、できると思う」
教室のざわめきが、少し遠くなった。
圭達の押しつけ合い。
女子達の会話。
椅子を動かす音。
廊下の足音。
全部が、薄くなる。
なつきの中に。
春樹の言葉だけが残った。
できる。
頑張れではない。
無理にやれでもない。
春樹が、今までのなつきを見て。
考えて。
選んでくれた言葉。
「……本当に?」
「うん」
「失敗するかも」
「うん」
「人前で詰まるかも」
「うん」
「緊張して、黒猫ずっと握るかも」
「うん」
「それでも?」
「できると思う」
なつきの指から、少しずつ力が抜ける。
握っていた黒猫を。
小さく揺らす。
「嬉しい」
「うん」
「すごく」
「分かる」
「顔でも?」
「うん」
「黒猫でも?」
「うん」
春樹の口元が、ほんの少しだけやわらかくなる。
なつきも笑った。
◇
圭が、そのやり取りに気づいた。
「何話してた?」
「何でもない」
なつきがすぐに答える。
「絶対何かあった」
「候補者同士の秘密?」
島中が言う。
「まだ候補」
春樹が返す。
田辺が笑う。
「でも大國、さっきよりやる顔してる」
「どんな顔?」
「覚悟決まってる顔」
「分からない」
圭がなつきを見る。
「横田は?」
「考えてる」
「おお」
「まだ決めてない」
「でも前進」
紅秋が静かに言った。
「無理に煽るな」
「応援」
「本人の速度で考えさせろ」
「はい」
圭は素直に引いた。
なつきは少し驚いた。
以前なら。
もう一言、二言、何か言っていたはず。
でも。
圭も少しずつ変わっている。
「圭くん」
「何?」
「ありがとう」
「俺?」
「少し待ってくれたから」
圭は一瞬目を丸くし。
それから笑った。
「本読んだから」
「全部本の効果?」
「たぶん」
教室に、やわらかな笑いが広がった。
◇
一時間目の準備が始まる。
生徒達は席へ戻り。
教科書を開き。
さっきまでの実行委員の話を、それぞれ胸へ残したまま授業へ向かう。
なつきも前を向いた。
黒板の女子候補欄。
横田。
自分の苗字が書かれている。
以前なら。
見ただけで消してほしいと思っただろう。
今も怖い。
心臓は少し速い。
でも。
完全に逃げたいとは思わない。
春樹が言ってくれた。
横田さんなら、できると思う。
その言葉が。
背中を無理に押すのではなく。
なつきの足元へ、小さな道を作ってくれた。
やるかどうか。
まだ決めていない。
春樹がやるかも。
まだ分からない。
けれど。
怖いから無理。
その一言だけで、全部を閉じなくてもいい。
少し考える。
少し想像する。
少しだけ、自分を信じてみる。
なつきは机の横の黒猫へ触れた。
握らない。
小さく揺らす。
斜め後ろ。
春樹が、その動きを見つけた気配がした。
振り返らなくても分かる。
そして。
なつきは、授業が始まる直前。
胸の中で小さく呟いた。
――私にも、できるかな。
不安は残る。
けれど。
その問いの隣には。
春樹の言葉が、確かにあった。
――横田さんなら、できると思う。




