表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
130/176

第130話 見えない場所でも、君を見つける


 席替えから四日目の朝。


 水戸の空は、前日までよりも少しだけ高く見えた。


 雲は薄く、秋の光がやわらかく地上へ降りている。


 校門へ向かう生徒達の制服の袖が、風に軽く揺れていた。


 夏のような強い日差しはもうない。


 それでも、朝の空気にはまだ冷たさよりも清々しさの方が勝っていて、歩くたびに胸の奥まで澄んでいくようだった。


 なつきは通学路を歩きながら、鞄の横に付いた黒猫へ何度か指先を触れた。


 昨日。


 春樹が教室へ来るのが遅れた。


 ほんの少しの時間。


 電車の遅延。


 それだけだったのに、なつきは何度も入口を見た。


 いつも空いていない席が空いていること。


 毎朝聞いていた声が聞こえないこと。


 それだけで、自分の朝が足りなくなった。


 そして、春樹も。


 遅れた電車の中で、なつきがもう教室にいるかを考えていた。


 朝の挨拶ができないことを嫌だと思っていた。


 なつきを見つけられないと、少しどころか、かなり足りないかもしれないと言ってくれた。


 その言葉を思い出すたび、胸が温かくなる。


 嬉しくて。


 少し恥ずかしくて。


 それでも何度も思い返したくなる。


「なつき」


 隣を歩いていた亜衣が、少しだけ顔を覗き込んだ。


「今、また昨日のこと考えてた?」


「分かる?」


「黒猫、朝からずっと揺らしてる」


 なつきは手元を見る。


 確かに、歩く揺れだけではなく、指先でも何度も黒猫を動かしていた。


「うん」


「かなり足りない?」


「そこまで言わないで」


「春樹くんが言ったんでしょ」


「そうだけど」


「嬉しかった?」


「すごく」


 なつきは隠さず答えた。


 亜衣が少しだけ笑う。


「本当に素直になった」


「もう何回目?」


「でも毎回思うから」


 少し後ろを歩いていた茜が、穏やかな声で会話へ入った。


「今日は春樹くん、もう来ているといいわね」


「うん」


「もし、また遅れていたら?」


 なつきは少し考えた。


 昨日ほど慌てるだろうか。


 電車が遅れることもある。


 紅秋もいなければ、同じ路線だと考えられる。


 理由が分からないまま悪い想像ばかりする必要はない。


「心配はする」


「うん」


「でも、昨日よりは待てると思う」


「どうして?」


「来たら、ちゃんと見つけられるって分かったから」


 茜は静かに微笑んだ。


「それなら大丈夫そうね」


「うん」


 なつきは黒猫をもう一度揺らした。


 昨日まで。


 春樹がそこにいることを確認して、安心していた。


 今は。


 見えない時間があっても、また見つけられると思える。


 それは、なつきにとって小さくない変化だった。


   ◇


 二年十一組の教室へ近づく。


 廊下には、登校してきた生徒達の足音と話し声が広がっていた。


 教室の扉は開いている。


 なつきは、少しだけ歩調を速めた。


 入口へ立ち。


 新しい席の並びを見渡す。


 自分の席。


 その斜め後ろ。


 春樹の席には、すでに鞄が掛かっていた。


 本人も座っている。


 文庫本を開いている。


 隣には圭。


 少し前方には紅秋。


 いつもの朝。


 昨日足りなかった景色が、今日は最初からそこにある。


 胸の奥が、ふっとやわらかくなった。


「いた」


 小さく言う。


 亜衣が隣で笑う。


「よかったね」


「うん」


 なつきは教室へ入った。


 春樹は本を読んでいた。


 けれど、なつきの足音が近づいた時。


 本から顔を上げる。


 先に黒猫を見る。


 それから、なつきの顔。


「おはよう」


「おはよう、春樹くん」


「今日は早い」


「昨日より?」


「うん。三分」


 圭が本から顔を上げる。


「また分かるの?」


「時計見た」


「横田が来る前から?」


「うん」


「待ってた?」


 春樹は少しだけ黙った。


 なつきも、春樹を見る。


 圭の問いは直球だった。


 けれど、昨日のように緊張しすぎることはなかった。


 春樹が言葉を探す時間を待つ。


「待ってた」


 春樹が答えた。


 なつきの胸が大きく鳴る。


「本当に?」


「うん」


「どうして?」


「昨日、待ってたって言ってくれたから」


「うん」


「今日は俺が先だったから」


「私が来るの?」


「うん」


 春樹は本を閉じた。


「待ってた」


 なつきは黒猫へ触れた。


 小さく揺らす。


「嬉しい」


「分かる」


「うん」


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 なつきも笑う。


「私も、春樹くん見つけた」


 圭が両手で顔を覆った。


「毎朝更新される」


「何が?」


 春樹が聞く。


「二人の朝」


「圭くん」


 なつきが少し顔を赤くしながら言う。


「本、読んだ方がいいよ」


「横田まで春樹と同じこと言う」


「もうすぐ返却期限でしょ」


「あと何日かある」


 紅秋が前方から言った。


「余裕があると思っていると忘れるぞ」


「忘れない」


「昨日、栞を机に置いて帰ろうとした」


「本は持って帰った」


「栞も大事だ」


 圭は慌てて本の間を確認した。


「ある」


 教室に小さな笑いが広がる。


 なつきは自分の席へ鞄を掛けた。


 黒猫が揺れる。


 春樹が、それを当たり前のように見ている。


 席が変わっても。


 朝の形が少し変わっても。


 見つけてもらえる。


 なつきは椅子へ座りながら、静かに息を吐いた。


   ◇


 朝のホームルーム。


 担任が連絡事項を読み上げている。


 教室の生徒達も、新しい席へ少しずつ慣れたらしい。


 以前ほど座る場所を間違える者はいない。


 机の位置も落ち着き。


 教科書を置く場所。


 鞄を掛ける側。


 隣の人との距離。


 それぞれが、自分の新しい日常を作り始めていた。


 なつきも前を向きながら、春樹の気配を背中へ感じている。


 昨日。


 春樹がいない時間を経験した。


 だから今日は、いることが前よりはっきり分かる。


 圭が何かを落とし。


 春樹が拾う。


 紅秋が少し離れた席から注意する。


 その声が、背後から聞こえる。


 姿は見えない。


 けれど、確かにいる。


「それから」


 担任が言った。


「来月の校内行事について、近日中に実行委員を決めます」


 教室の空気が少し変わる。


「また行事?」


 圭が小声で言う。


 田辺が聞く。


「何だろうな」


「文化系の行事じゃね?」


 島中が予想する。


「体育祭終わったばかりだし」


 担任は教室の反応を見ながら続ける。


「詳しい説明は、全学年合同の集会後に行います。今日は、予定だけ頭に入れておいてください」


 新しい行事。


 考査。


 体育祭。


 席替え。


 次の日常が、また始まろうとしている。


 なつきは少しだけ楽しみになった。


 春樹と。


 みんなと。


 次はどんな時間を過ごすのだろう。


   ◇


 一時間目。


 商業科目。


 先生は新しい単元の説明を進めていた。


 なつきはノートを取りながら、例題を一つずつ確認する。


 以前なら。


 難しそうな記号が並ぶだけで不安になっていた。


 今は、分からなければ印をつける。


 説明を最後まで聞く。


 それでも分からなければ、休み時間に聞く。


 春樹だけではない。


 亜衣。


 茜。


 紅秋。


 先生。


 聞ける相手がいる。


 そして、自分で考える時間もある。


 その感覚が、少しずつ身についていた。


 先生が黒板へ問題を書く。


「では、ここからは隣同士で確認してください」


 教室がざわつく。


 席替え後。


 隣同士での活動は初めてだった。


 なつきの隣は、同じ商業科の女子。


 普段から挨拶程度はするが、深く話したことは多くない。


「横田さん、ここ分かった?」


「うん。たぶん」


「私、この記号が分からない」


「先生、さっきここって言ってたと思う」


 なつきは、自分のノートを少し見せた。


 隣の女子が覗き込む。


「あ、本当だ」


「これを先に入れるみたい」


「横田さん、分かりやすい」


「本当?」


「うん。ありがとう」


 胸が少し温かくなる。


 以前なら。


 自分が誰かへ教えることなど、ほとんどなかった。


 間違っていたらどうしよう。


 説明できなかったら恥ずかしい。


 そう思って、黙っていた。


 今は、分かる範囲で言える。


 分からないところは一緒に考えられる。


「ここは?」


 今度は、なつきが聞く。


「私はこうした」


「そっか」


 二人でノートを見比べる。


 少しして、先生が答えを黒板へ書いた。


 二人の答えは合っていた。


「合ってた」


 隣の女子が笑う。


「うん」


 なつきも笑った。


 後ろから、春樹の視線を感じた気がした。


 振り返りたい。


 でも授業中。


 なつきは前を向いたまま、ノートの端へ小さな丸を書いた。


   ◇


 休み時間。


「横田さん」


 後ろから声。


 なつきは振り返る。


「うん」


「教えてた」


「見てた?」


「うん」


「合ってたよ」


「うん」


「先生の説明聞いて、私なりに話した」


「分かりやすそうだった」


「本当に?」


「隣の人、頷いてた」


 なつきは黒猫を小さく揺らした。


「嬉しい」


「うん」


「前は、教えてもらうばっかりだった」


「今も聞く」


「うん。でも、少し返せるようになった」


「うん」


「春樹くんにも、返せてる?」


 少しだけ勇気を出して聞く。


 春樹は考える。


「返してる」


「何を?」


「大丈夫」


 考査期間。


 春樹へ言った。


 今日も大丈夫。


 頑張ってね。


「うん」


「待ってる」


「昨日?」


「うん」


「私が待ってたって言ったこと?」


「うん」


「それも返したことになる?」


「俺は嬉しかった」


 胸が温かくなる。


「そっか」


「それから」


 春樹は続ける。


「本」


「本?」


「横田さんの感想を聞くと、違うこと分かる」


「私の読み方?」


「うん」


「それも返せてる?」


「うん」


 なつきは少し笑った。


「よかった」


 春樹から受け取るだけではない。


 なつきも、春樹へ渡せている。


 大きなものではなくても。


 言葉。


 感想。


 安心。


 待っている気持ち。


「春樹くん」


「何?」


「私、少しずつ春樹くんの隣に立ててるかな」


 言ったあと。


 自分でも、ずいぶん直球な問いだったと思った。


 圭が隣で本から顔を上げる。


 亜衣も少し離れた席から、こちらを見た。


 春樹は、すぐには答えなかった。


 なつきは待つ。


「隣」


 春樹が言う。


「うん」


「席は斜め」


「そういう意味じゃなくて」


「分かる」


「分かるんだ」


「たぶん」


 春樹は少しだけ考える。


「前より近い」


 胸が、大きく鳴る。


「本当に?」


「うん」


「どこが?」


「話すこと」


「うん」


「知ってること」


「うん」


「待つこと」


「うん」


「探すこと」


 春樹は、一つずつ言葉を置いた。


「前より増えた」


 なつきの目の奥が少し熱くなる。


「じゃあ」


 声が少し震える。


「少しは隣?」


「うん」


 春樹は頷いた。


「かなり」


「かなり?」


「前より」


 なつきは黒猫を揺らした。


 小さく。


 何度も。


「嬉しい」


「分かる」


「うん」


 圭が本を閉じて、机へ額をつけた。


「また朝から更新された」


「圭くん」


「聞こえたから」


「普通にしてていいって言ったけど」


「普通に聞いた」


「普通じゃない反応してる」


 周囲に笑いが起きる。


   ◇


 昼休み。


 美優、祐衣、蓮が教室へ来た。


 席替え後の二年十一組へも、もう迷わず入ってくる。


 美優はなつきの近くへ来ると、黒猫が何度も揺れていることに気づいた。


「今日は何?」


「何が?」


「嬉しいことあったでしょ」


「分かる?」


「分かる」


 美優は少しだけ春樹を見る。


「春樹関係?」


「うん」


 なつきは隠さなかった。


 美優の表情が、ほんの少しだけ固くなる。


「聞いていい?」


「うん」


「聞いたら嫉妬すると思う」


「それでも?」


「隠される方が嫌」


 昨日までの会話で。


 三人は少しずつ、こういう言葉を言えるようになっている。


 なつきは、春樹との会話を伝えた。


 授業中、隣の女子へ問題を説明したこと。


 春樹が見ていてくれたこと。


 自分も少しずつ春樹の隣に立てているか聞いたこと。


 春樹が、前よりかなり近いと答えたこと。


 美優は、しばらく黙った。


 祐衣も静かに聞いていた。


「嫉妬した」


 美優が言う。


「うん」


「すごく」


「うん」


「かなり近いって」


「うん」


 なつきは嬉しさを隠さない。


 でも、美優の寂しさもそのまま受け止める。


「でも」


 美優は少しだけ息を吐いた。


「春樹が自分で考えて言ったなら、仕方ない」


「仕方ない?」


「私が変えろって言うことじゃない」


 祐衣も小さく頷く。


「私も、羨ましいです」


「うん」


「ですが」


 祐衣は、なつきの黒猫を見る。


「横田さんが、受け取るだけではなく返したいと考えていることは、素敵だと思います」


「祐衣さん」


「大國くんが近いと感じたのは、その積み重ねでしょう」


 胸が、少しやわらかくなる。


「ありがとう」


「はい」


 美優が、少し不満そうに言う。


「祐衣、優しい」


「美優さんも、今は否定しませんでした」


「嫉妬はした」


「はい」


「でも、なつきが頑張ってるのも分かる」


 美優は、なつきを見る。


「だから、少しだけ褒める」


「少しだけ?」


「たくさん褒めたら悔しい」


 なつきは笑う。


「ありがとう」


「うん」


   ◇


 蓮は少し離れた場所で、春樹、紅秋、圭と昼食を食べていた。


 圭は本を読み終えたらしい。


 昼食より先に、祐衣へ本を返そうとしている。


「白石さん」


「はい?」


「読み終わった」


 祐衣の表情が明るくなる。


「もう?」


「昨日の夜、最後まで読んだ」


「どうでした?」


「すごくよかった」


 圭は、本を両手で持ちながら真剣な顔をした。


「最後、勝たないんだな」


 田辺が少し離れた席から聞く。


「言っていいのか?」


「ここまでなら」


 祐衣が頷く。


「勝敗よりも、その後を描く作品ですから」


「最初は、最後に全国大会行くと思ってた」


「うん」


「でも、そうじゃなかった」


 圭は少し考える。


「みんなで話せるようになったことが、一番大事だった」


 祐衣が静かに微笑む。


「圭くんは、そこが心に残ったんですね」


「うん」


「キャプテンも一年も、最初から悪いやつじゃなかった」


「はい」


「言わなかっただけ」


 春樹が圭を見る。


 昨日の帰り道。


 その本から、自分の気持ちを言葉にすることを考えた。


「圭」


「何?」


「選んでもらってよかった?」


「うん」


 圭は迷わず答えた。


「本、また読みたい」


 田辺と島中が驚いた顔をする。


「圭が次も?」


「悪い?」


「悪くない」


 田辺が笑う。


「俺も借りる」


 島中も言う。


「俺にも選んでもらおうかな」


 祐衣は、少し嬉しそうに目を細めた。


「もちろんです」


「紅秋は?」


 圭が聞く。


「俺は自分で選ぶ」


「おすすめしてもらえばいいのに」


「候補を聞くのは構わない」


「春樹は?」


「今の本、まだ途中」


 祐衣が言う。


「大國くんは早いと思っていました」


「横田さんと話すから、少しゆっくり」


 春樹の言葉。


 美優と祐衣となつきが、同時に春樹を見る。


 なつきの胸が鳴る。


「私のせい?」


「せいじゃない」


「じゃあ?」


「感想を言う前に、少し考える」


「私と話すため?」


「うん」


 黒猫へ触れる。


 小さく揺らす。


 美優がすぐに言う。


「嫉妬した」


「うん」


 祐衣も笑いながら続ける。


「私もです」


「うん」


 なつきは二人を見る。


「でも、嬉しい」


「分かってる」


 美優が少しだけ口を尖らせる。


「それくらい顔に出てる」


「黒猫だけじゃない?」


「顔も」


 祐衣が穏やかに言った。


「大國くんが見つけるのも分かります」


「祐衣さんまで」


 周囲に笑いが広がった。


   ◇


 午後の授業。


 新しい席の中で、なつきは以前より少しだけ背筋を伸ばしていた。


 春樹から見える。


 そう思うからではない。


 それも、少しはある。


 けれど、それ以上に。


 前より近いと言ってもらった言葉が、自分の中へ残っている。


 話すこと。


 知っていること。


 待つこと。


 探すこと。


 それらが増えた。


 近づくということは、ただ席が隣になることではない。


 同じ時間を過ごすだけでもない。


 相手を知る。


 自分を知ってもらう。


 受け取る。


 返す。


 いない時に足りないと気づく。


 見えない時に探す。


 それらの積み重ねなのだ。


 先生が問題を出す。


 なつきは自分で考える。


 分からないところへ印をつける。


 でも、すぐに春樹へ頼ろうとはしない。


 まずは、自分で一度解く。


 答えを書く。


 少し迷う。


 もう一度問題文を読む。


 考査前に覚えた習慣。


 そして。


 答えが出た。


 先生の解説。


 合っていた。


 なつきは、机の下で小さく拳を握る。


 後ろから、紙が一枚回ってきた。


 春樹の字。


『合ってた?』


 なつきは少し笑う。


『うん。自分でできた』


 返す。


 少しして、また紙が戻る。


『よかった』


 短い言葉。


 でも。


 なつきは、その紙を筆箱へしまった。


 以前の紙の隣へ。


『俺も、横田さんが見える』


 新しい紙。


『よかった』


 どちらも短い。


 どちらも大切だった。


   ◇


 放課後。


 教室には、部活動へ向かう生徒達の慌ただしさが広がっていた。


 圭は返却する本を鞄の一番上へ入れている。


 田辺と島中は、祐衣に選んでもらう本の条件を話し合っていた。


「俺は短め」


「お前、長いと読まないもんな」


「最初は短い方がいい」


「俺はミステリー」


「急に難しくない?」


「犯人当てたい」


 紅秋が言う。


「内容だけでなく、返却期限も考えろ」


「また管理始まった」


 亜衣と茜は、なつきの席へ集まる。


「今日も図書室?」


 亜衣が聞く。


「少しだけ行こうかな」


「本読む?」


「うん」


「春樹くんも?」


 なつきは後ろを見る。


 春樹は鞄へ本を入れていた。


「春樹くん」


「何?」


「今日、図書室行く?」


「行く」


「本の続き?」


「うん」


「隣、空いてる?」


 言ってから。


 自分で、かなり直接的な誘い方だったと思った。


 亜衣が目を丸くする。


 茜も少し驚いている。


 春樹は、少しだけ考えた。


「空ける」


 胸が鳴る。


「本当に?」


「うん」


「私のため?」


「うん」


 圭が鞄を閉じながら、天井を見上げた。


「もう、自然に約束する」


「圭くんも来る?」


「今日は本返すだけ。田辺達と選んでもらう」


「そっか」


「二人の隣は空けとく」


「圭くん」


 なつきは顔を赤くしながら笑った。


   ◇


 図書室。


 夕方の光が、棚の間へ細く差し込んでいる。


 祐衣はカウンターで、圭から本を受け取っていた。


 圭は、借りた時よりも丁寧な手つきで本を返している。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、読んでくださってありがとうございます」


「次もお願い」


「どのようなお話がいいですか?」


「今度は、もう少し静かなやつ」


 祐衣が少し驚く。


「静かな?」


「春樹達が読んでるみたいな」


「圭くん」


 春樹が呼ぶ。


「何?」


「無理しなくていい」


「無理じゃない。ちょっと読んでみたい」


 圭は笑う。


「言葉少ない話も、今なら分かるかもしれない」


 祐衣は、少し考えたあと頷いた。


「では、いくつか選んでみます」


 田辺と島中も本棚へ向かう。


 紅秋は、少し離れた棚で自分の本を探している。


 亜衣と茜は課題を進めるらしい。


 なつきは春樹と一緒に、いつもの奥の机へ向かった。


 二つの椅子。


 横並び。


 春樹が、自分の隣の椅子を少し引いた。


「ここ」


 なつきは目を瞬かせる。


「空けてくれた?」


「うん」


「ありがとう」


 鞄を置く。


 黒猫が机の横で揺れる。


 春樹は、その位置を確認する。


「見える」


「隣なのに?」


「うん」


「探さなくても?」


「うん。でも見る」


 胸が温かくなる。


「私も見る」


「うん」


 二人は本を開いた。


 同じ本ではない。


 春樹は青い表紙の旅の物語。


 なつきは、祐衣から借りた喫茶店の物語。


 それぞれ別のページ。


 別の世界。


 でも、隣。


 静かな時間が流れる。


   ◇


 ページをめくる音。


 ペンを走らせる音。


 遠くで本を探す圭達の小さな声。


 祐衣が説明する声。


 外から聞こえる部活動の掛け声。


 なつきは物語を読み進めた。


 主人公は。


 いつも少し離れた席で本を読んでいた人物の名前を、ようやく知る。


 名前を知ったからといって、急に会話が増えるわけではない。


 挨拶。


 天気。


 借りた傘。


 焼き菓子の感想。


 それだけ。


 けれど。


 同じ店にいるだけだった相手が、名前のある人になる。


 次に会うことを、少しだけ待つようになる。


 いなければ、窓際の席がいつもより広く見える。


 その一文で。


 なつきは、読む手を止めた。


 いなければ。


 いつもの場所が広く見える。


 昨日の教室。


 春樹の空席。


 まさに、同じだった。


 隣にいる春樹を見る。


 春樹は本を読んでいる。


 なつきの視線に気づき、顔を上げた。


「何?」


「本」


「うん」


「今、昨日みたいなところ出てきた」


「どこ?」


 なつきは、該当する一文を小声で読んだ。


「いつもいる人がいないと、席が広く見えるって」


 春樹は、しばらくそのページを見る。


「昨日」


「うん」


「俺の席?」


「うん」


「広く見えた?」


「少し」


「そっか」


「春樹くんは?」


 なつきが聞く。


「電車の中だったから、教室見てない」


「そっか」


「でも」


 春樹は、少し言葉を探した。


「時間が長かった」


「電車が止まってたから?」


「それも」


「他は?」


「朝、間に合うか考えてたから」


「私を見つけるのに?」


「うん」


 なつきは黒猫を揺らす。


「やっぱり、少し似てる」


「本と?」


「うん」


 春樹は、なつきの本を少し覗き込む。


「名前を知って、待つようになった」


「うん」


「俺達は名前、前から知ってた」


「そうだけど」


 なつきは少し笑う。


「本当に知るのは、最近だったのかも」


「何を?」


「春樹くんが何を好きか」


「うん」


「どういう時、言葉を探すか」


「うん」


「何を大事にするか」


「うん」


「そういう春樹くんの中身」


 春樹は静かに聞いている。


「前は、春樹くんっていう名前しか知らなかった」


「うん」


「今は、少しずつ春樹くんを知ってる」


 春樹は、少しだけ目を細めた。


「俺も」


「私を?」


「うん」


「何を知った?」


 春樹は、本を閉じた。


 なつきの顔を見る。


「横田さんは、怖くても聞く」


「うん」


「嬉しいこと、前より言う」


「うん」


「人に返したいと思う」


「うん」


「待つ」


「うん」


「探す」


「うん」


「本を読む時、顔に出る」


「それは恥ずかしい」


「でも分かる」


「うん」


「いないと、朝が足りないって思う」


「……うん」


 自分で言ったことなのに。


 春樹から返されると、また胸が熱くなる。


「かなり知ってる?」


 なつきが聞く。


「前より」


「これからも?」


「知りたい」


 なつきは、息を止めた。


「私のこと?」


「うん」


「もっと?」


「うん」


「どうして?」


 春樹は、すぐには答えなかった。


 沈黙。


 図書室の空気。


 ページがめくられる音。


 遠くで圭が祐衣へ何かを聞く声。


 なつきは待った。


「知ってる方が」


 春樹が言う。


「見つけやすい」


 胸が、大きく鳴る。


「見つけたいから?」


「うん」


 黒猫へ手を伸ばす。


 小さく。


 何度も揺らす。


「嬉しい」


「分かる」


「顔でも?」


「うん」


「今、すごく笑ってる?」


「うん」


 春樹の口元も、少しだけやわらかくなる。


「春樹くんも笑ってる」


「そう?」


「うん」


「横田さんが笑ってるからかも」


 なつきは、また言葉を失った。


 今日は何度も。


 春樹から、胸の奥へ残る言葉を受け取っている。


「それ」


「何?」


「覚えておく」


「うん」


「大切にする」


「うん」


   ◇


 しばらく、二人はまた本を読んだ。


 肩が触れるほど近くはない。


 けれど、手を伸ばせば相手の本へ届く距離。


 息遣いが分かる距離。


 ページをめくる音が、自分の音と重なる距離。


 なつきは、少しずつ本へ集中した。


 以前なら。


 春樹が隣にいるだけで、文字が頭へ入らなかったかもしれない。


 今も緊張はする。


 でも。


 その緊張の中に、安心もある。


 春樹が隣にいる。


 見られても嫌ではない。


 なつきが見ても、春樹は嫌ではない。


 話さなくても。


 同じ机で、違う本を読む。


 その時間が自然になり始めている。


   ◇


 祐衣が、三人分の本を抱えて戻ってきた。


「圭くん、田辺くん、島中くんの本が決まりました」


 圭は、少し薄めの文庫本。


 田辺は、スポーツと家族を題材にした小説。


 島中は、学園を舞台にしたミステリー。


「三人とも違うね」


 なつきが言う。


「好みを聞いたので」


 祐衣は嬉しそうに微笑む。


「圭くんには、静かな会話が中心の作品です」


「読めそう?」


 なつきが圭へ聞く。


「読む」


「今度は騒げない話かも」


「図書室で読む時は静かだから」


「成長」


 圭が少し誇らしげになる。


 田辺と島中も、自分の本を見ている。


「白石さん、選ぶの早いな」


 田辺が言う。


「話を聞いて、合いそうな作品を考えました」


「俺、読書感想文以外で小説読むの久しぶり」


 島中も頷く。


「俺も」


 祐衣は、少しだけ驚いたあと笑った。


「では、無理をせず少しずつ」


「うん」


 紅秋は自分で選んだ本を持って戻ってきた。


「紅秋、何?」


 圭が聞く。


「経済に関する新書」


「小説じゃない」


「読みたいものを読めばいい」


「正論」


 春樹が小さく笑う。


 その笑いにつられ。


 なつきも笑った。


   ◇


 図書室を出る頃。


 窓の外は、すでに夕方の色へ変わっていた。


 空は薄い橙色。


 校庭には長い影。


 部活動の声も、少しずつ少なくなっている。


 なつき達は、図書室の前の廊下を歩いた。


 圭は借りたばかりの本を、さっそく鞄へ入れながら説明を受けている。


「返却期限は二週間です」


 祐衣が言う。


「分かった」


「栞を忘れないでください」


「紅秋に言われた」


「大切ですから」


 田辺と島中も笑う。


 なつきは春樹の近くを歩いた。


 すぐ横。


 教室では斜め前と斜め後ろ。


 図書室では隣。


 廊下では、自然に近く。


「春樹くん」


「何?」


「さっき」


「うん」


「私のこと、もっと知りたいって言った」


「うん」


「まだ本当?」


「うん」


「図書室出たから変わるとかない?」


「ない」


 なつきは少し笑う。


「聞いてみただけ」


「横田さんは?」


「何が?」


「俺のこと」


「もっと知りたい」


 迷わず答えた。


 春樹が少しだけ目を瞬かせる。


「何を?」


「まだ知らないこと全部」


「全部は多い」


「じゃあ、少しずつ」


「うん」


「好きな本」


「うん」


「昔のこと」


「美優が知ってる」


「美優さんからだけじゃなく、春樹くんから聞きたい」


「うん」


「嫌なこと」


「うん」


「嬉しいこと」


「うん」


「落ち着くこと」


「うん」


「私のこと、どう思ってるか」


 最後だけ、少し声が小さくなる。


 春樹は、すぐには答えない。


 なつきは笑った。


「これは、まだだよね」


「まだ全部は」


「うん」


「でも」


 春樹が言う。


「今日、増えた」


「何が?」


「知りたい」


「私のこと?」


「うん」


「それが、春樹くんの気持ち?」


「今分かること」


 なつきの胸が温かくなる。


「じゃあ、大切にする」


「うん」


「また増えたら、教えて」


「うん」


   ◇


 昇降口。


 靴を履き替える。


 圭達は本の話を続けている。


 亜衣と茜も、図書室で進めた課題について話している。


 祐衣は途中で別の方向へ分かれるため、なつきへ手を振った。


「また明日」


「うん。また明日」


 美優と蓮は今日は来なかった。


 明日。


 今日のことを話せば、また美優と祐衣は嫉妬するだろう。


 なつきは、それを怖がりすぎなくなっていた。


 自分が嬉しかったことを隠さない。


 二人が寂しいと思ったことも聞く。


 同じ場所にい続けるために。


 少しずつ言葉を渡す。


   ◇


 校門の前。


 それぞれが帰る方向へ分かれる。


 春樹は紅秋と駅へ。


 圭、田辺、島中も途中まで同じ。


 なつきは亜衣と茜。


 別れる直前。


 春樹がなつきを呼んだ。


「横田さん」


「うん?」


「今日は」


 春樹が言葉を探す。


 なつきは待つ。


「朝、待てた」


「私を?」


「うん」


「嬉しかった?」


「うん」


「図書室も?」


「うん」


「隣、落ち着いた?」


 なつきは少しだけ緊張しながら聞く。


 春樹は頷いた。


「落ち着いた」


「私も」


「緊張は?」


「した」


「どっち?」


「両方」


 春樹の口元が少し緩む。


「横田さんらしい」


「私らしい?」


「うん」


「春樹くん、私のこと知ってきたから?」


「うん」


「もっと知ったら?」


 春樹は少しだけ考えた。


「もっと見つけられる」


「どこにいても?」


「うん」


「黒猫なくても?」


「体育で分かった」


「うん」


「教室の反対側でも?」


「探す」


「人が多くても?」


「たぶん」


「たぶん?」


「まだ分からないけど、探す」


 なつきは黒猫を小さく揺らした。


「私も」


「うん」


「春樹くんがどこにいても、探す」


「うん」


「見つける」


 春樹は、ほんの少しだけ笑った。


「待ってる」


 今度は、春樹が言った。


 なつきの胸が、大きく鳴る。


「私が見つけるの?」


「うん」


「待っててくれる?」


「うん」


「じゃあ、絶対見つける」


「うん」


   ◇


 春樹達が駅へ向かって歩き出す。


 なつきは、その背中を見送った。


 少しずつ人の中へ混ざっていく。


 圭が何かを話し。


 田辺と島中が笑い。


 紅秋が注意する。


 その輪の中に、春樹がいる。


 制服姿。


 鞄。


 静かな歩き方。


 黒猫のような目印はない。


 それでも。


 なつきには、すぐに分かる。


 春樹。


「見つけた」


 小さく呟く。


 離れていても。


 人の中でも。


 後ろ姿でも。


 なつきは春樹を見つけられる。


 そして。


 春樹も。


 なつきを見つけようとしている。


「なつき」


 亜衣が隣へ並ぶ。


「今、見つけたって言った?」


「うん」


「春樹くん、もう遠いよ」


「でも分かる」


「黒猫なくても?」


「春樹くんだから」


 以前、春樹が言った言葉。


 横田さんだから分かる。


 なつきも、同じ言葉を返せる。


 茜が穏やかに笑う。


「席替え編、綺麗に終わった感じね」


「席替え編?」


 亜衣が反応する。


「何それ」


「何となく」


 なつきも笑った。


「でも、本当に」


 席が変わった。


 最初は、遠くなると思った。


 見えなくなることが怖かった。


 春樹の近くに誰かが座ることも。


 今までの日常がなくなることも。


 でも。


 実際に席が変わって分かった。


 見えない時は、探せばいい。


 呼ばれたら、振り返ればいい。


 いない時は、待てばいい。


 戻ってきたら、見つけたと言えばいい。


 そして。


 ただ近くに座っている時よりも。


 互いに見つけようとすることで、心の距離が近づくこともある。


「前より近くなった?」


 亜衣が聞く。


 なつきは少しだけ考えた。


 春樹も言ってくれた。


 前よりかなり近い。


「うん」


「席は斜めなのに?」


「うん」


「不思議」


「でも、そう思う」


 なつきは黒猫へ触れた。


 秋の風が吹く。


 指先で揺らすより先に、黒猫が自然に動く。


 今日まで。


 君の隣を目指してきた。


 見える場所へ。


 話せる場所へ。


 同じ時間を過ごせる場所へ。


 けれど。


 本当の隣は、席の位置だけでは決まらない。


 見えない場所でも。


 人の中でも。


 離れていても。


 互いに探し。


 見つけ。


 戻ってくるのを待てること。


 それが。


 少しずつ。


 君の隣へ近づくということなのかもしれない。


 なつきは、春樹の姿が駅前の人混みへ消えるまで見送った。


 完全に見えなくなったあとも。


 胸の中には、春樹がそこにいた。


 明日の朝。


 また教室で会える。


 春樹が先なら、なつきを待つ。


 なつきが先なら、春樹を待つ。


 そして。


 どちらからともなく、きっと言う。


 今日もいる。


 見つけた。


 それが二人の日常になっている。


 なつきは亜衣と茜の隣を歩き出した。


 夕方の街。


 秋の風。


 遠くなっていく駅の音。


 鞄の黒猫が、歩くたびに小さく揺れる。


 君の隣は、まだ少し遠い。


 けれど。


 以前のように、届かない場所には見えなかった。


 互いに見つけようとしているなら。


 その距離は、きっと。


 今日より明日。


 明日より、その次の日。


 少しずつ。


 確かに縮まっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ