第130話 見えない場所でも、君を見つける
席替えから四日目の朝。
水戸の空は、前日までよりも少しだけ高く見えた。
雲は薄く、秋の光がやわらかく地上へ降りている。
校門へ向かう生徒達の制服の袖が、風に軽く揺れていた。
夏のような強い日差しはもうない。
それでも、朝の空気にはまだ冷たさよりも清々しさの方が勝っていて、歩くたびに胸の奥まで澄んでいくようだった。
なつきは通学路を歩きながら、鞄の横に付いた黒猫へ何度か指先を触れた。
昨日。
春樹が教室へ来るのが遅れた。
ほんの少しの時間。
電車の遅延。
それだけだったのに、なつきは何度も入口を見た。
いつも空いていない席が空いていること。
毎朝聞いていた声が聞こえないこと。
それだけで、自分の朝が足りなくなった。
そして、春樹も。
遅れた電車の中で、なつきがもう教室にいるかを考えていた。
朝の挨拶ができないことを嫌だと思っていた。
なつきを見つけられないと、少しどころか、かなり足りないかもしれないと言ってくれた。
その言葉を思い出すたび、胸が温かくなる。
嬉しくて。
少し恥ずかしくて。
それでも何度も思い返したくなる。
「なつき」
隣を歩いていた亜衣が、少しだけ顔を覗き込んだ。
「今、また昨日のこと考えてた?」
「分かる?」
「黒猫、朝からずっと揺らしてる」
なつきは手元を見る。
確かに、歩く揺れだけではなく、指先でも何度も黒猫を動かしていた。
「うん」
「かなり足りない?」
「そこまで言わないで」
「春樹くんが言ったんでしょ」
「そうだけど」
「嬉しかった?」
「すごく」
なつきは隠さず答えた。
亜衣が少しだけ笑う。
「本当に素直になった」
「もう何回目?」
「でも毎回思うから」
少し後ろを歩いていた茜が、穏やかな声で会話へ入った。
「今日は春樹くん、もう来ているといいわね」
「うん」
「もし、また遅れていたら?」
なつきは少し考えた。
昨日ほど慌てるだろうか。
電車が遅れることもある。
紅秋もいなければ、同じ路線だと考えられる。
理由が分からないまま悪い想像ばかりする必要はない。
「心配はする」
「うん」
「でも、昨日よりは待てると思う」
「どうして?」
「来たら、ちゃんと見つけられるって分かったから」
茜は静かに微笑んだ。
「それなら大丈夫そうね」
「うん」
なつきは黒猫をもう一度揺らした。
昨日まで。
春樹がそこにいることを確認して、安心していた。
今は。
見えない時間があっても、また見つけられると思える。
それは、なつきにとって小さくない変化だった。
◇
二年十一組の教室へ近づく。
廊下には、登校してきた生徒達の足音と話し声が広がっていた。
教室の扉は開いている。
なつきは、少しだけ歩調を速めた。
入口へ立ち。
新しい席の並びを見渡す。
自分の席。
その斜め後ろ。
春樹の席には、すでに鞄が掛かっていた。
本人も座っている。
文庫本を開いている。
隣には圭。
少し前方には紅秋。
いつもの朝。
昨日足りなかった景色が、今日は最初からそこにある。
胸の奥が、ふっとやわらかくなった。
「いた」
小さく言う。
亜衣が隣で笑う。
「よかったね」
「うん」
なつきは教室へ入った。
春樹は本を読んでいた。
けれど、なつきの足音が近づいた時。
本から顔を上げる。
先に黒猫を見る。
それから、なつきの顔。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日は早い」
「昨日より?」
「うん。三分」
圭が本から顔を上げる。
「また分かるの?」
「時計見た」
「横田が来る前から?」
「うん」
「待ってた?」
春樹は少しだけ黙った。
なつきも、春樹を見る。
圭の問いは直球だった。
けれど、昨日のように緊張しすぎることはなかった。
春樹が言葉を探す時間を待つ。
「待ってた」
春樹が答えた。
なつきの胸が大きく鳴る。
「本当に?」
「うん」
「どうして?」
「昨日、待ってたって言ってくれたから」
「うん」
「今日は俺が先だったから」
「私が来るの?」
「うん」
春樹は本を閉じた。
「待ってた」
なつきは黒猫へ触れた。
小さく揺らす。
「嬉しい」
「分かる」
「うん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
なつきも笑う。
「私も、春樹くん見つけた」
圭が両手で顔を覆った。
「毎朝更新される」
「何が?」
春樹が聞く。
「二人の朝」
「圭くん」
なつきが少し顔を赤くしながら言う。
「本、読んだ方がいいよ」
「横田まで春樹と同じこと言う」
「もうすぐ返却期限でしょ」
「あと何日かある」
紅秋が前方から言った。
「余裕があると思っていると忘れるぞ」
「忘れない」
「昨日、栞を机に置いて帰ろうとした」
「本は持って帰った」
「栞も大事だ」
圭は慌てて本の間を確認した。
「ある」
教室に小さな笑いが広がる。
なつきは自分の席へ鞄を掛けた。
黒猫が揺れる。
春樹が、それを当たり前のように見ている。
席が変わっても。
朝の形が少し変わっても。
見つけてもらえる。
なつきは椅子へ座りながら、静かに息を吐いた。
◇
朝のホームルーム。
担任が連絡事項を読み上げている。
教室の生徒達も、新しい席へ少しずつ慣れたらしい。
以前ほど座る場所を間違える者はいない。
机の位置も落ち着き。
教科書を置く場所。
鞄を掛ける側。
隣の人との距離。
それぞれが、自分の新しい日常を作り始めていた。
なつきも前を向きながら、春樹の気配を背中へ感じている。
昨日。
春樹がいない時間を経験した。
だから今日は、いることが前よりはっきり分かる。
圭が何かを落とし。
春樹が拾う。
紅秋が少し離れた席から注意する。
その声が、背後から聞こえる。
姿は見えない。
けれど、確かにいる。
「それから」
担任が言った。
「来月の校内行事について、近日中に実行委員を決めます」
教室の空気が少し変わる。
「また行事?」
圭が小声で言う。
田辺が聞く。
「何だろうな」
「文化系の行事じゃね?」
島中が予想する。
「体育祭終わったばかりだし」
担任は教室の反応を見ながら続ける。
「詳しい説明は、全学年合同の集会後に行います。今日は、予定だけ頭に入れておいてください」
新しい行事。
考査。
体育祭。
席替え。
次の日常が、また始まろうとしている。
なつきは少しだけ楽しみになった。
春樹と。
みんなと。
次はどんな時間を過ごすのだろう。
◇
一時間目。
商業科目。
先生は新しい単元の説明を進めていた。
なつきはノートを取りながら、例題を一つずつ確認する。
以前なら。
難しそうな記号が並ぶだけで不安になっていた。
今は、分からなければ印をつける。
説明を最後まで聞く。
それでも分からなければ、休み時間に聞く。
春樹だけではない。
亜衣。
茜。
紅秋。
先生。
聞ける相手がいる。
そして、自分で考える時間もある。
その感覚が、少しずつ身についていた。
先生が黒板へ問題を書く。
「では、ここからは隣同士で確認してください」
教室がざわつく。
席替え後。
隣同士での活動は初めてだった。
なつきの隣は、同じ商業科の女子。
普段から挨拶程度はするが、深く話したことは多くない。
「横田さん、ここ分かった?」
「うん。たぶん」
「私、この記号が分からない」
「先生、さっきここって言ってたと思う」
なつきは、自分のノートを少し見せた。
隣の女子が覗き込む。
「あ、本当だ」
「これを先に入れるみたい」
「横田さん、分かりやすい」
「本当?」
「うん。ありがとう」
胸が少し温かくなる。
以前なら。
自分が誰かへ教えることなど、ほとんどなかった。
間違っていたらどうしよう。
説明できなかったら恥ずかしい。
そう思って、黙っていた。
今は、分かる範囲で言える。
分からないところは一緒に考えられる。
「ここは?」
今度は、なつきが聞く。
「私はこうした」
「そっか」
二人でノートを見比べる。
少しして、先生が答えを黒板へ書いた。
二人の答えは合っていた。
「合ってた」
隣の女子が笑う。
「うん」
なつきも笑った。
後ろから、春樹の視線を感じた気がした。
振り返りたい。
でも授業中。
なつきは前を向いたまま、ノートの端へ小さな丸を書いた。
◇
休み時間。
「横田さん」
後ろから声。
なつきは振り返る。
「うん」
「教えてた」
「見てた?」
「うん」
「合ってたよ」
「うん」
「先生の説明聞いて、私なりに話した」
「分かりやすそうだった」
「本当に?」
「隣の人、頷いてた」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
「嬉しい」
「うん」
「前は、教えてもらうばっかりだった」
「今も聞く」
「うん。でも、少し返せるようになった」
「うん」
「春樹くんにも、返せてる?」
少しだけ勇気を出して聞く。
春樹は考える。
「返してる」
「何を?」
「大丈夫」
考査期間。
春樹へ言った。
今日も大丈夫。
頑張ってね。
「うん」
「待ってる」
「昨日?」
「うん」
「私が待ってたって言ったこと?」
「うん」
「それも返したことになる?」
「俺は嬉しかった」
胸が温かくなる。
「そっか」
「それから」
春樹は続ける。
「本」
「本?」
「横田さんの感想を聞くと、違うこと分かる」
「私の読み方?」
「うん」
「それも返せてる?」
「うん」
なつきは少し笑った。
「よかった」
春樹から受け取るだけではない。
なつきも、春樹へ渡せている。
大きなものではなくても。
言葉。
感想。
安心。
待っている気持ち。
「春樹くん」
「何?」
「私、少しずつ春樹くんの隣に立ててるかな」
言ったあと。
自分でも、ずいぶん直球な問いだったと思った。
圭が隣で本から顔を上げる。
亜衣も少し離れた席から、こちらを見た。
春樹は、すぐには答えなかった。
なつきは待つ。
「隣」
春樹が言う。
「うん」
「席は斜め」
「そういう意味じゃなくて」
「分かる」
「分かるんだ」
「たぶん」
春樹は少しだけ考える。
「前より近い」
胸が、大きく鳴る。
「本当に?」
「うん」
「どこが?」
「話すこと」
「うん」
「知ってること」
「うん」
「待つこと」
「うん」
「探すこと」
春樹は、一つずつ言葉を置いた。
「前より増えた」
なつきの目の奥が少し熱くなる。
「じゃあ」
声が少し震える。
「少しは隣?」
「うん」
春樹は頷いた。
「かなり」
「かなり?」
「前より」
なつきは黒猫を揺らした。
小さく。
何度も。
「嬉しい」
「分かる」
「うん」
圭が本を閉じて、机へ額をつけた。
「また朝から更新された」
「圭くん」
「聞こえたから」
「普通にしてていいって言ったけど」
「普通に聞いた」
「普通じゃない反応してる」
周囲に笑いが起きる。
◇
昼休み。
美優、祐衣、蓮が教室へ来た。
席替え後の二年十一組へも、もう迷わず入ってくる。
美優はなつきの近くへ来ると、黒猫が何度も揺れていることに気づいた。
「今日は何?」
「何が?」
「嬉しいことあったでしょ」
「分かる?」
「分かる」
美優は少しだけ春樹を見る。
「春樹関係?」
「うん」
なつきは隠さなかった。
美優の表情が、ほんの少しだけ固くなる。
「聞いていい?」
「うん」
「聞いたら嫉妬すると思う」
「それでも?」
「隠される方が嫌」
昨日までの会話で。
三人は少しずつ、こういう言葉を言えるようになっている。
なつきは、春樹との会話を伝えた。
授業中、隣の女子へ問題を説明したこと。
春樹が見ていてくれたこと。
自分も少しずつ春樹の隣に立てているか聞いたこと。
春樹が、前よりかなり近いと答えたこと。
美優は、しばらく黙った。
祐衣も静かに聞いていた。
「嫉妬した」
美優が言う。
「うん」
「すごく」
「うん」
「かなり近いって」
「うん」
なつきは嬉しさを隠さない。
でも、美優の寂しさもそのまま受け止める。
「でも」
美優は少しだけ息を吐いた。
「春樹が自分で考えて言ったなら、仕方ない」
「仕方ない?」
「私が変えろって言うことじゃない」
祐衣も小さく頷く。
「私も、羨ましいです」
「うん」
「ですが」
祐衣は、なつきの黒猫を見る。
「横田さんが、受け取るだけではなく返したいと考えていることは、素敵だと思います」
「祐衣さん」
「大國くんが近いと感じたのは、その積み重ねでしょう」
胸が、少しやわらかくなる。
「ありがとう」
「はい」
美優が、少し不満そうに言う。
「祐衣、優しい」
「美優さんも、今は否定しませんでした」
「嫉妬はした」
「はい」
「でも、なつきが頑張ってるのも分かる」
美優は、なつきを見る。
「だから、少しだけ褒める」
「少しだけ?」
「たくさん褒めたら悔しい」
なつきは笑う。
「ありがとう」
「うん」
◇
蓮は少し離れた場所で、春樹、紅秋、圭と昼食を食べていた。
圭は本を読み終えたらしい。
昼食より先に、祐衣へ本を返そうとしている。
「白石さん」
「はい?」
「読み終わった」
祐衣の表情が明るくなる。
「もう?」
「昨日の夜、最後まで読んだ」
「どうでした?」
「すごくよかった」
圭は、本を両手で持ちながら真剣な顔をした。
「最後、勝たないんだな」
田辺が少し離れた席から聞く。
「言っていいのか?」
「ここまでなら」
祐衣が頷く。
「勝敗よりも、その後を描く作品ですから」
「最初は、最後に全国大会行くと思ってた」
「うん」
「でも、そうじゃなかった」
圭は少し考える。
「みんなで話せるようになったことが、一番大事だった」
祐衣が静かに微笑む。
「圭くんは、そこが心に残ったんですね」
「うん」
「キャプテンも一年も、最初から悪いやつじゃなかった」
「はい」
「言わなかっただけ」
春樹が圭を見る。
昨日の帰り道。
その本から、自分の気持ちを言葉にすることを考えた。
「圭」
「何?」
「選んでもらってよかった?」
「うん」
圭は迷わず答えた。
「本、また読みたい」
田辺と島中が驚いた顔をする。
「圭が次も?」
「悪い?」
「悪くない」
田辺が笑う。
「俺も借りる」
島中も言う。
「俺にも選んでもらおうかな」
祐衣は、少し嬉しそうに目を細めた。
「もちろんです」
「紅秋は?」
圭が聞く。
「俺は自分で選ぶ」
「おすすめしてもらえばいいのに」
「候補を聞くのは構わない」
「春樹は?」
「今の本、まだ途中」
祐衣が言う。
「大國くんは早いと思っていました」
「横田さんと話すから、少しゆっくり」
春樹の言葉。
美優と祐衣となつきが、同時に春樹を見る。
なつきの胸が鳴る。
「私のせい?」
「せいじゃない」
「じゃあ?」
「感想を言う前に、少し考える」
「私と話すため?」
「うん」
黒猫へ触れる。
小さく揺らす。
美優がすぐに言う。
「嫉妬した」
「うん」
祐衣も笑いながら続ける。
「私もです」
「うん」
なつきは二人を見る。
「でも、嬉しい」
「分かってる」
美優が少しだけ口を尖らせる。
「それくらい顔に出てる」
「黒猫だけじゃない?」
「顔も」
祐衣が穏やかに言った。
「大國くんが見つけるのも分かります」
「祐衣さんまで」
周囲に笑いが広がった。
◇
午後の授業。
新しい席の中で、なつきは以前より少しだけ背筋を伸ばしていた。
春樹から見える。
そう思うからではない。
それも、少しはある。
けれど、それ以上に。
前より近いと言ってもらった言葉が、自分の中へ残っている。
話すこと。
知っていること。
待つこと。
探すこと。
それらが増えた。
近づくということは、ただ席が隣になることではない。
同じ時間を過ごすだけでもない。
相手を知る。
自分を知ってもらう。
受け取る。
返す。
いない時に足りないと気づく。
見えない時に探す。
それらの積み重ねなのだ。
先生が問題を出す。
なつきは自分で考える。
分からないところへ印をつける。
でも、すぐに春樹へ頼ろうとはしない。
まずは、自分で一度解く。
答えを書く。
少し迷う。
もう一度問題文を読む。
考査前に覚えた習慣。
そして。
答えが出た。
先生の解説。
合っていた。
なつきは、机の下で小さく拳を握る。
後ろから、紙が一枚回ってきた。
春樹の字。
『合ってた?』
なつきは少し笑う。
『うん。自分でできた』
返す。
少しして、また紙が戻る。
『よかった』
短い言葉。
でも。
なつきは、その紙を筆箱へしまった。
以前の紙の隣へ。
『俺も、横田さんが見える』
新しい紙。
『よかった』
どちらも短い。
どちらも大切だった。
◇
放課後。
教室には、部活動へ向かう生徒達の慌ただしさが広がっていた。
圭は返却する本を鞄の一番上へ入れている。
田辺と島中は、祐衣に選んでもらう本の条件を話し合っていた。
「俺は短め」
「お前、長いと読まないもんな」
「最初は短い方がいい」
「俺はミステリー」
「急に難しくない?」
「犯人当てたい」
紅秋が言う。
「内容だけでなく、返却期限も考えろ」
「また管理始まった」
亜衣と茜は、なつきの席へ集まる。
「今日も図書室?」
亜衣が聞く。
「少しだけ行こうかな」
「本読む?」
「うん」
「春樹くんも?」
なつきは後ろを見る。
春樹は鞄へ本を入れていた。
「春樹くん」
「何?」
「今日、図書室行く?」
「行く」
「本の続き?」
「うん」
「隣、空いてる?」
言ってから。
自分で、かなり直接的な誘い方だったと思った。
亜衣が目を丸くする。
茜も少し驚いている。
春樹は、少しだけ考えた。
「空ける」
胸が鳴る。
「本当に?」
「うん」
「私のため?」
「うん」
圭が鞄を閉じながら、天井を見上げた。
「もう、自然に約束する」
「圭くんも来る?」
「今日は本返すだけ。田辺達と選んでもらう」
「そっか」
「二人の隣は空けとく」
「圭くん」
なつきは顔を赤くしながら笑った。
◇
図書室。
夕方の光が、棚の間へ細く差し込んでいる。
祐衣はカウンターで、圭から本を受け取っていた。
圭は、借りた時よりも丁寧な手つきで本を返している。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、読んでくださってありがとうございます」
「次もお願い」
「どのようなお話がいいですか?」
「今度は、もう少し静かなやつ」
祐衣が少し驚く。
「静かな?」
「春樹達が読んでるみたいな」
「圭くん」
春樹が呼ぶ。
「何?」
「無理しなくていい」
「無理じゃない。ちょっと読んでみたい」
圭は笑う。
「言葉少ない話も、今なら分かるかもしれない」
祐衣は、少し考えたあと頷いた。
「では、いくつか選んでみます」
田辺と島中も本棚へ向かう。
紅秋は、少し離れた棚で自分の本を探している。
亜衣と茜は課題を進めるらしい。
なつきは春樹と一緒に、いつもの奥の机へ向かった。
二つの椅子。
横並び。
春樹が、自分の隣の椅子を少し引いた。
「ここ」
なつきは目を瞬かせる。
「空けてくれた?」
「うん」
「ありがとう」
鞄を置く。
黒猫が机の横で揺れる。
春樹は、その位置を確認する。
「見える」
「隣なのに?」
「うん」
「探さなくても?」
「うん。でも見る」
胸が温かくなる。
「私も見る」
「うん」
二人は本を開いた。
同じ本ではない。
春樹は青い表紙の旅の物語。
なつきは、祐衣から借りた喫茶店の物語。
それぞれ別のページ。
別の世界。
でも、隣。
静かな時間が流れる。
◇
ページをめくる音。
ペンを走らせる音。
遠くで本を探す圭達の小さな声。
祐衣が説明する声。
外から聞こえる部活動の掛け声。
なつきは物語を読み進めた。
主人公は。
いつも少し離れた席で本を読んでいた人物の名前を、ようやく知る。
名前を知ったからといって、急に会話が増えるわけではない。
挨拶。
天気。
借りた傘。
焼き菓子の感想。
それだけ。
けれど。
同じ店にいるだけだった相手が、名前のある人になる。
次に会うことを、少しだけ待つようになる。
いなければ、窓際の席がいつもより広く見える。
その一文で。
なつきは、読む手を止めた。
いなければ。
いつもの場所が広く見える。
昨日の教室。
春樹の空席。
まさに、同じだった。
隣にいる春樹を見る。
春樹は本を読んでいる。
なつきの視線に気づき、顔を上げた。
「何?」
「本」
「うん」
「今、昨日みたいなところ出てきた」
「どこ?」
なつきは、該当する一文を小声で読んだ。
「いつもいる人がいないと、席が広く見えるって」
春樹は、しばらくそのページを見る。
「昨日」
「うん」
「俺の席?」
「うん」
「広く見えた?」
「少し」
「そっか」
「春樹くんは?」
なつきが聞く。
「電車の中だったから、教室見てない」
「そっか」
「でも」
春樹は、少し言葉を探した。
「時間が長かった」
「電車が止まってたから?」
「それも」
「他は?」
「朝、間に合うか考えてたから」
「私を見つけるのに?」
「うん」
なつきは黒猫を揺らす。
「やっぱり、少し似てる」
「本と?」
「うん」
春樹は、なつきの本を少し覗き込む。
「名前を知って、待つようになった」
「うん」
「俺達は名前、前から知ってた」
「そうだけど」
なつきは少し笑う。
「本当に知るのは、最近だったのかも」
「何を?」
「春樹くんが何を好きか」
「うん」
「どういう時、言葉を探すか」
「うん」
「何を大事にするか」
「うん」
「そういう春樹くんの中身」
春樹は静かに聞いている。
「前は、春樹くんっていう名前しか知らなかった」
「うん」
「今は、少しずつ春樹くんを知ってる」
春樹は、少しだけ目を細めた。
「俺も」
「私を?」
「うん」
「何を知った?」
春樹は、本を閉じた。
なつきの顔を見る。
「横田さんは、怖くても聞く」
「うん」
「嬉しいこと、前より言う」
「うん」
「人に返したいと思う」
「うん」
「待つ」
「うん」
「探す」
「うん」
「本を読む時、顔に出る」
「それは恥ずかしい」
「でも分かる」
「うん」
「いないと、朝が足りないって思う」
「……うん」
自分で言ったことなのに。
春樹から返されると、また胸が熱くなる。
「かなり知ってる?」
なつきが聞く。
「前より」
「これからも?」
「知りたい」
なつきは、息を止めた。
「私のこと?」
「うん」
「もっと?」
「うん」
「どうして?」
春樹は、すぐには答えなかった。
沈黙。
図書室の空気。
ページがめくられる音。
遠くで圭が祐衣へ何かを聞く声。
なつきは待った。
「知ってる方が」
春樹が言う。
「見つけやすい」
胸が、大きく鳴る。
「見つけたいから?」
「うん」
黒猫へ手を伸ばす。
小さく。
何度も揺らす。
「嬉しい」
「分かる」
「顔でも?」
「うん」
「今、すごく笑ってる?」
「うん」
春樹の口元も、少しだけやわらかくなる。
「春樹くんも笑ってる」
「そう?」
「うん」
「横田さんが笑ってるからかも」
なつきは、また言葉を失った。
今日は何度も。
春樹から、胸の奥へ残る言葉を受け取っている。
「それ」
「何?」
「覚えておく」
「うん」
「大切にする」
「うん」
◇
しばらく、二人はまた本を読んだ。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、手を伸ばせば相手の本へ届く距離。
息遣いが分かる距離。
ページをめくる音が、自分の音と重なる距離。
なつきは、少しずつ本へ集中した。
以前なら。
春樹が隣にいるだけで、文字が頭へ入らなかったかもしれない。
今も緊張はする。
でも。
その緊張の中に、安心もある。
春樹が隣にいる。
見られても嫌ではない。
なつきが見ても、春樹は嫌ではない。
話さなくても。
同じ机で、違う本を読む。
その時間が自然になり始めている。
◇
祐衣が、三人分の本を抱えて戻ってきた。
「圭くん、田辺くん、島中くんの本が決まりました」
圭は、少し薄めの文庫本。
田辺は、スポーツと家族を題材にした小説。
島中は、学園を舞台にしたミステリー。
「三人とも違うね」
なつきが言う。
「好みを聞いたので」
祐衣は嬉しそうに微笑む。
「圭くんには、静かな会話が中心の作品です」
「読めそう?」
なつきが圭へ聞く。
「読む」
「今度は騒げない話かも」
「図書室で読む時は静かだから」
「成長」
圭が少し誇らしげになる。
田辺と島中も、自分の本を見ている。
「白石さん、選ぶの早いな」
田辺が言う。
「話を聞いて、合いそうな作品を考えました」
「俺、読書感想文以外で小説読むの久しぶり」
島中も頷く。
「俺も」
祐衣は、少しだけ驚いたあと笑った。
「では、無理をせず少しずつ」
「うん」
紅秋は自分で選んだ本を持って戻ってきた。
「紅秋、何?」
圭が聞く。
「経済に関する新書」
「小説じゃない」
「読みたいものを読めばいい」
「正論」
春樹が小さく笑う。
その笑いにつられ。
なつきも笑った。
◇
図書室を出る頃。
窓の外は、すでに夕方の色へ変わっていた。
空は薄い橙色。
校庭には長い影。
部活動の声も、少しずつ少なくなっている。
なつき達は、図書室の前の廊下を歩いた。
圭は借りたばかりの本を、さっそく鞄へ入れながら説明を受けている。
「返却期限は二週間です」
祐衣が言う。
「分かった」
「栞を忘れないでください」
「紅秋に言われた」
「大切ですから」
田辺と島中も笑う。
なつきは春樹の近くを歩いた。
すぐ横。
教室では斜め前と斜め後ろ。
図書室では隣。
廊下では、自然に近く。
「春樹くん」
「何?」
「さっき」
「うん」
「私のこと、もっと知りたいって言った」
「うん」
「まだ本当?」
「うん」
「図書室出たから変わるとかない?」
「ない」
なつきは少し笑う。
「聞いてみただけ」
「横田さんは?」
「何が?」
「俺のこと」
「もっと知りたい」
迷わず答えた。
春樹が少しだけ目を瞬かせる。
「何を?」
「まだ知らないこと全部」
「全部は多い」
「じゃあ、少しずつ」
「うん」
「好きな本」
「うん」
「昔のこと」
「美優が知ってる」
「美優さんからだけじゃなく、春樹くんから聞きたい」
「うん」
「嫌なこと」
「うん」
「嬉しいこと」
「うん」
「落ち着くこと」
「うん」
「私のこと、どう思ってるか」
最後だけ、少し声が小さくなる。
春樹は、すぐには答えない。
なつきは笑った。
「これは、まだだよね」
「まだ全部は」
「うん」
「でも」
春樹が言う。
「今日、増えた」
「何が?」
「知りたい」
「私のこと?」
「うん」
「それが、春樹くんの気持ち?」
「今分かること」
なつきの胸が温かくなる。
「じゃあ、大切にする」
「うん」
「また増えたら、教えて」
「うん」
◇
昇降口。
靴を履き替える。
圭達は本の話を続けている。
亜衣と茜も、図書室で進めた課題について話している。
祐衣は途中で別の方向へ分かれるため、なつきへ手を振った。
「また明日」
「うん。また明日」
美優と蓮は今日は来なかった。
明日。
今日のことを話せば、また美優と祐衣は嫉妬するだろう。
なつきは、それを怖がりすぎなくなっていた。
自分が嬉しかったことを隠さない。
二人が寂しいと思ったことも聞く。
同じ場所にい続けるために。
少しずつ言葉を渡す。
◇
校門の前。
それぞれが帰る方向へ分かれる。
春樹は紅秋と駅へ。
圭、田辺、島中も途中まで同じ。
なつきは亜衣と茜。
別れる直前。
春樹がなつきを呼んだ。
「横田さん」
「うん?」
「今日は」
春樹が言葉を探す。
なつきは待つ。
「朝、待てた」
「私を?」
「うん」
「嬉しかった?」
「うん」
「図書室も?」
「うん」
「隣、落ち着いた?」
なつきは少しだけ緊張しながら聞く。
春樹は頷いた。
「落ち着いた」
「私も」
「緊張は?」
「した」
「どっち?」
「両方」
春樹の口元が少し緩む。
「横田さんらしい」
「私らしい?」
「うん」
「春樹くん、私のこと知ってきたから?」
「うん」
「もっと知ったら?」
春樹は少しだけ考えた。
「もっと見つけられる」
「どこにいても?」
「うん」
「黒猫なくても?」
「体育で分かった」
「うん」
「教室の反対側でも?」
「探す」
「人が多くても?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ分からないけど、探す」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
「私も」
「うん」
「春樹くんがどこにいても、探す」
「うん」
「見つける」
春樹は、ほんの少しだけ笑った。
「待ってる」
今度は、春樹が言った。
なつきの胸が、大きく鳴る。
「私が見つけるの?」
「うん」
「待っててくれる?」
「うん」
「じゃあ、絶対見つける」
「うん」
◇
春樹達が駅へ向かって歩き出す。
なつきは、その背中を見送った。
少しずつ人の中へ混ざっていく。
圭が何かを話し。
田辺と島中が笑い。
紅秋が注意する。
その輪の中に、春樹がいる。
制服姿。
鞄。
静かな歩き方。
黒猫のような目印はない。
それでも。
なつきには、すぐに分かる。
春樹。
「見つけた」
小さく呟く。
離れていても。
人の中でも。
後ろ姿でも。
なつきは春樹を見つけられる。
そして。
春樹も。
なつきを見つけようとしている。
「なつき」
亜衣が隣へ並ぶ。
「今、見つけたって言った?」
「うん」
「春樹くん、もう遠いよ」
「でも分かる」
「黒猫なくても?」
「春樹くんだから」
以前、春樹が言った言葉。
横田さんだから分かる。
なつきも、同じ言葉を返せる。
茜が穏やかに笑う。
「席替え編、綺麗に終わった感じね」
「席替え編?」
亜衣が反応する。
「何それ」
「何となく」
なつきも笑った。
「でも、本当に」
席が変わった。
最初は、遠くなると思った。
見えなくなることが怖かった。
春樹の近くに誰かが座ることも。
今までの日常がなくなることも。
でも。
実際に席が変わって分かった。
見えない時は、探せばいい。
呼ばれたら、振り返ればいい。
いない時は、待てばいい。
戻ってきたら、見つけたと言えばいい。
そして。
ただ近くに座っている時よりも。
互いに見つけようとすることで、心の距離が近づくこともある。
「前より近くなった?」
亜衣が聞く。
なつきは少しだけ考えた。
春樹も言ってくれた。
前よりかなり近い。
「うん」
「席は斜めなのに?」
「うん」
「不思議」
「でも、そう思う」
なつきは黒猫へ触れた。
秋の風が吹く。
指先で揺らすより先に、黒猫が自然に動く。
今日まで。
君の隣を目指してきた。
見える場所へ。
話せる場所へ。
同じ時間を過ごせる場所へ。
けれど。
本当の隣は、席の位置だけでは決まらない。
見えない場所でも。
人の中でも。
離れていても。
互いに探し。
見つけ。
戻ってくるのを待てること。
それが。
少しずつ。
君の隣へ近づくということなのかもしれない。
なつきは、春樹の姿が駅前の人混みへ消えるまで見送った。
完全に見えなくなったあとも。
胸の中には、春樹がそこにいた。
明日の朝。
また教室で会える。
春樹が先なら、なつきを待つ。
なつきが先なら、春樹を待つ。
そして。
どちらからともなく、きっと言う。
今日もいる。
見つけた。
それが二人の日常になっている。
なつきは亜衣と茜の隣を歩き出した。
夕方の街。
秋の風。
遠くなっていく駅の音。
鞄の黒猫が、歩くたびに小さく揺れる。
君の隣は、まだ少し遠い。
けれど。
以前のように、届かない場所には見えなかった。
互いに見つけようとしているなら。
その距離は、きっと。
今日より明日。
明日より、その次の日。
少しずつ。
確かに縮まっていく。




