第129話 見えないだけで、こんなに足りない
席替えから、三日目の朝。
教室へ入る前から、なつきはいつもより少しだけ落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨日も、一昨日も。
教室へ入り、新しくなった自分の席へ鞄を掛けると、斜め後ろから春樹の声が聞こえた。
――おはよう。
――今日もいる。
――見つけた。
以前は、なつきが春樹の姿を探していた。
今は、春樹の方から声をかけてくれる。
姿が見えにくくなった代わりに、春樹の声を待つようになった。
それが、すでに朝の日常になり始めていた。
だからこそ。
二年十一組の入口から教室の後方を見渡した時、春樹の席が空いていることに気づいてしまった。
「あれ……」
思わず、小さな声が漏れた。
春樹の机。
その隣には圭が座っている。
圭は昨日の続きらしく、祐衣から借りた本を開いていた。
けれど、春樹の席には鞄もない。
椅子も、机の中も空いたまま。
「なつき?」
後ろから亜衣に呼ばれ、なつきは入口の前から少し横へずれた。
「ごめん」
「どうしたの?」
「春樹くん、まだ来てない」
言った瞬間。
亜衣は一度、春樹の席を確認した。
それから、なつきへ視線を戻す。
「本当だね」
「うん」
「少し早いから、まだ来るんじゃない?」
「そうだよね」
時計を見る。
ホームルームまでは、まだ十分以上ある。
遅刻を心配するような時間ではない。
電車の時間。
昇降口の混雑。
途中で紅秋と話している可能性。
考えられる理由はいくらでもある。
「行こう」
亜衣が言う。
「入口で立ってると邪魔になっちゃうから」
「うん」
なつきは、自分の席へ向かった。
鞄を机の横へ掛ける。
黒猫のキーホルダーが、金具に触れて小さな音を立てた。
いつもなら。
その音を聞くように、後ろから春樹の声がする。
今日もいる。
見つけた。
けれど。
今日は何も聞こえなかった。
当然だった。
春樹はまだ来ていない。
分かっている。
分かっているのに。
なつきは椅子へ座ったあと、すぐに後ろを振り返った。
空の席。
その隣で本を読んでいた圭が、顔を上げる。
「春樹?」
「うん」
「まだ来てない」
「見れば分かるよ」
「今言おうと思って」
圭は、机の上の本を閉じた。
「紅秋もまだ来てないから、一緒じゃない?」
教室の中央寄りにある紅秋の席も空いている。
「あ、本当だ」
「いつも一緒に来るから」
「うん」
「たぶん電車」
「遅れてるのかな」
「そこまでは分かんないけど」
圭は少し笑った。
「横田、春樹のことだとすぐ心配するな」
からかうような言葉。
以前なら、なつきは慌てて否定していたかもしれない。
今日は、空いている春樹の席を見ながら、小さく答えた。
「心配するよ」
圭が少し目を丸くする。
「素直」
「だって、いつもいるから」
「うん」
「いないと、気になる」
圭はなつきの顔をしばらく見た。
それから、少しだけ表情をやわらかくした。
「たぶん大丈夫」
「うん」
「春樹なら連絡しないで休むこともないだろうし」
「そうだね」
「来たら、横田が待ってたって言う?」
「それは言わなくていい」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「でも、待ってたんだろ?」
「……うん」
なつきは黒猫へ触れた。
握るほどではない。
けれど、いつものように揺らす気分にもなれなかった。
指先で、黒猫の頭をゆっくり撫でる。
「じゃあ、言わない」
圭が言った。
「本当に?」
「春樹本人には、横田から言えばいい」
「言わないかもしれない」
「何で?」
「朝来るのを待ってたって、重くない?」
「重くないだろ」
「圭くんはそう思う?」
「うん。俺なら、待っててもらえたら嬉しい」
圭はそこで少し考えた。
「まあ、春樹がどう思うかは春樹に聞かないと分かんないけど」
「うん」
「でも、話したいことなら話すって、春樹言ってたじゃん」
「春樹くんが話したいことなら、でしょ」
「横田も話したいこと話していいんじゃない?」
思っていたよりまっすぐな言葉だった。
なつきは、少しだけ笑った。
「圭くん、最近本当に考えるね」
「最近?」
「前から考えてた?」
「前から」
「ごめん」
「声と勢いが先に出てただけ」
紅秋に言われたことを、そのまま言っているらしい。
なつきは少し笑った。
「本の影響?」
「それもある」
「もうどこまで読んだの?」
「百三十二ページ」
「早い」
「昨日、家でいっぱい読んだ」
「授業中は?」
「読んでない」
圭がすぐに答える。
少し離れた場所から、まだ来ていない紅秋を気にしているようにも見えた。
「紅秋くんに聞かれても大丈夫だね」
「昨日も言われたから」
教室の入口が開くたび、なつきは顔を向けた。
別の男子。
女子の二人組。
担任ではない先生。
春樹ではない。
自分でも驚くほど、何度も入口を見ていた。
◇
茜が教室へ入ってきた。
新しい席が前方になったため、なつき達の近くを通り過ぎてから、自分の机へ向かう。
けれど、なつきが何度も後ろを振り返っていることに気づいたらしい。
鞄を置いたあと、戻ってきた。
「なつき」
「おはよう、茜ちゃん」
「おはよう。どうしたの?」
亜衣が小声で答える。
「春樹くん、まだ来てない」
茜は春樹の空席を見る。
「紅秋くんもいないわね」
「うん」
「二人なら、電車が同じなのでしょう?」
「たぶん」
「なら、何かあっても一人ではないわ」
「うん」
茜の声は落ち着いている。
大丈夫と言い切るのではなく。
今分かっていることを一つずつ並べてくれる。
「でも」
茜は、なつきの黒猫を撫でる指を見る。
「春樹くんがいないと、ずいぶん落ち着かないのね」
なつきは少しだけ頬を赤くした。
「……うん」
「昨日、春樹くんから言ってもらった言葉と同じね」
「同じ?」
「春樹くんは、なつきといると落ち着く」
「うん」
「なつきは、春樹くんがいないと落ち着かない」
言葉にされると、胸が大きく鳴った。
「それって、同じなのかな」
「完全に同じではないでしょうけれど」
茜は微笑む。
「春樹くんがいることが、なつきにとって日常になっているという意味では似ていると思うわ」
「日常」
席替え前。
いつも見えるところに春樹がいた。
席替え後。
見えにくくなっても、斜め後ろに春樹の気配があった。
ページをめくる音。
圭へ返す短い声。
休み時間に呼ばれること。
今朝。
その全部がない。
ただ席が空いているだけで、教室の一部が足りないように感じる。
「春樹くんが言ってた」
なつきは小さく言った。
「私がいないと、少し足りないって?」
亜衣が聞く。
「それは私が言った」
「あ、そうだった」
「春樹くんは、私といると落ち着くって」
「うん」
「私も、今ちょっと分かったかも」
「何を?」
「春樹くんがいると、落ち着く」
昨日までは。
緊張する時の方が多いと言った。
春樹の近くでは、心臓が速くなる。
言葉が詰まる。
黒猫を握る。
それは今も変わらない。
けれど。
春樹が教室にいること自体には、いつの間にか安心していた。
姿が見えなくても。
斜め後ろにいると分かるだけで。
「なつき」
亜衣が少し嬉しそうに言う。
「春樹くんに、それ言う?」
「無理」
「どうして?」
「朝から待ってたのも、いないと落ち着かなかったのも、全部言うの恥ずかしい」
「でも、分かったことは言うって約束してなかった?」
「……した」
「じゃあ?」
「少しずつ」
茜が笑う。
「それでいいと思うわ」
◇
ホームルームまで、あと五分。
なつきは時計を見た。
教室の生徒は、ほとんど揃っている。
春樹と紅秋の席だけが空いている。
教室の入口へ、担任が近づいてくる姿が見えた。
「本当に遅れてる」
亜衣が言う。
「うん」
なつきの指が、黒猫を少し強く握る。
休みなのだろうか。
体調不良。
何かあった。
悪い想像をしそうになる。
その時。
廊下の向こうから、早足の足音が聞こえた。
担任が教室へ入る直前。
春樹と紅秋が、少しだけ息を切らしながら廊下を歩いてくる。
走ってはいない。
けれど、いつもより明らかに速い。
なつきは、立ち上がりそうになるのを堪えた。
春樹。
いる。
来た。
「間に合った」
圭が言う。
紅秋が教室へ入る。
「おはよう」
「紅秋、遅い」
「電車が止まった」
「本当に?」
「信号確認らしい」
続いて、春樹が教室へ入る。
いつもの落ち着いた顔。
けれど、少しだけ髪が乱れている。
急いできたのだろう。
春樹は教室へ入ると、最初に自分の席を見た。
その次に。
なつきの机の横にある黒猫へ視線を向ける。
そして、なつきの顔を見る。
「おはよう」
いつも通りの声。
なつきの胸に溜まっていたものが、一気にほどけた。
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
なつきは、笑おうとした。
けれど、思ったより胸がいっぱいだった。
嬉しい。
安心した。
少しだけ腹も立っている。
心配した。
何も知らずに待っていた。
いろいろな気持ちが混ざる。
「私も」
なつきは、声を整えた。
「春樹くん、見つけた」
春樹の視線が黒猫へ落ちる。
握っている。
「緊張してた?」
「うん」
「どうして?」
担任が教卓へ向かっている。
今は長く話せない。
なつきは、小さな声で言った。
「春樹くん、いなかったから」
春樹の足が止まった。
少しだけ目を瞬かせる。
「待ってた?」
圭が、遠くから小さく口を押さえる。
言わないと言ったため、何も言わずにいる。
なつきは迷った。
恥ずかしい。
でも。
分かったことは、少しずつ言う。
「うん」
答えた。
「待ってた」
春樹は、すぐには何も言わなかった。
担任が出席簿を開く。
「大國くん、板倉くん。間に合ってよかったですが、早く席に着いてください」
「はい」
紅秋が答える。
春樹も自分の席へ向かう。
なつきの横を通る瞬間。
小さく言った。
「ごめん」
「春樹くんが悪いんじゃないでしょ」
「うん。でも、心配させた」
春樹は、斜め後ろの席へ座った。
ホームルームが始まる。
なつきは前を向いた。
胸はまだ速い。
でも。
春樹の椅子が動く音が聞こえる。
圭が何か小さく話しかけ。
春樹が短く返す。
いつもの音が戻った。
それだけで、教室が元の形へ戻ったように感じた。
◇
担任が連絡事項を読み上げている間。
なつきは、春樹に言ったことを何度も思い返していた。
待ってた。
たった三文字。
でも、春樹に伝えた。
春樹が来るのを。
今日も見つけられるのを。
いつもの声を聞けるのを。
待っていた。
恥ずかしい。
顔が熱い。
けれど、後悔はしていなかった。
「それから」
担任が出席簿から顔を上げる。
「大國くんと板倉くんから報告がありましたが、電車の遅延があったようです。同じ路線の人は、遅延証明を提出してください」
紅秋が頷く。
春樹も、後ろで紙を出す音がした。
本当に電車だった。
何もなくてよかった。
それが分かり、なつきはもう一度小さく息を吐いた。
◇
ホームルームが終わる。
担任が教室を出ると、圭がすぐに春樹へ話しかけた。
「遅延、何分?」
「十二分くらい」
「間に合ってよかったな」
「うん」
「横田、すごく待ってた」
「圭くん」
言わない約束。
なつきが振り返って睨むと、圭はすぐに両手を上げた。
「待ってたって本人が言ったから、もう言っていいかと思って」
「それ以上は言わなくていい」
「分かった」
春樹は、なつきの方を見る。
「どれくらい?」
「何が?」
「待ってた?」
なつきは言葉に詰まる。
どれくらい。
教室へ入ってからずっと。
入口が開くたびに見た。
時計を何度も確認した。
悪い想像もした。
紅秋の席まで確認した。
「……かなり」
小さく答える。
春樹が目を瞬かせた。
「かなり?」
「うん」
「圭にも聞いた?」
「春樹くんまだ来てないって」
「うん」
「紅秋くんもいないから、たぶん一緒だって言われた」
「うん」
「茜ちゃんにも、二人なら一人じゃないから大丈夫って言われた」
春樹は、黙って聞いている。
「入口、何回も見た」
「何回?」
「数えてない」
亜衣が横から言う。
「十回以上」
「亜衣ちゃん、数えてたの?」
「途中まで」
「また?」
「今日は心配だったから」
春樹は、なつきの顔を見る。
「そんなに?」
「だって、いつもいるから」
なつきは、少しだけ勇気を出す。
「春樹くんがいないと、教室がちょっと足りなかった」
言ったあと。
自分でも、かなり強い言葉だったと気づいた。
圭が動きを止める。
亜衣も口元を押さえる。
少し前の席から、紅秋が静かに春樹を見る。
春樹は、すぐには答えなかった。
いつもの沈黙。
言葉を探す沈黙。
なつきは待った。
「足りない?」
「うん」
「俺がいないと?」
「うん」
「教室が?」
「教室っていうか」
なつきは黒猫へ触れる。
もう握っていない。
けれど、まだ揺らすほど落ち着いてもいない。
「私の朝が」
春樹の表情が、少し変わった。
「朝が足りない?」
「うん」
「おはようって言って」
「うん」
「今日もいるって言って」
「うん」
「見つけたって言ってくれないと」
なつきは、自分の声が震えているのを感じた。
「朝が、ちゃんと始まらないみたいだった」
言い終える。
教室のざわめきは続いている。
けれど、なつきの周囲だけが静かに感じた。
春樹は、なつきを見つめたまま動かない。
そして。
ゆっくりと言った。
「俺も」
「何が?」
「今日、電車の中で」
春樹は言葉を探す。
「横田さん、もう教室にいるかなって思った」
胸が、大きく鳴る。
「私を?」
「うん」
「電車遅れてる時?」
「うん」
「どうして?」
「朝、見つけられないかもしれないと思った」
なつきは、黒猫へ触れた指を止めた。
「見つけたかった?」
「うん」
短い返事。
でも、迷いはなかった。
「間に合って、よかった」
春樹が言う。
「横田さん、いたから」
胸の奥が熱くなる。
さっきまで握っていた黒猫を。
今度は、小さく揺らす。
「嬉しい」
「うん」
「春樹くんも、私のこと考えてたんだ」
「うん」
「見つけたかった?」
「うん」
何度聞いても、春樹は頷いた。
圭が、机の上の本を開いて顔を隠した。
「朝からすごい」
「圭」
紅秋が言う。
「今は黙っておけ」
「黙ってる」
「声が出ている」
「小声」
亜衣も、自分の席で頬を緩めていた。
茜は前方から振り返り、なつきへ小さく頷く。
言えた。
春樹がいないと足りなかった。
春樹も、なつきを見つけたかった。
昨日より。
また一つ、言葉が増えた。
◇
一時間目。
英語の授業が始まる。
先生の声。
黒板の英文。
教科書をめくる音。
いつもの教室。
なつきはノートを取りながら、斜め後ろにいる春樹の気配を感じていた。
今朝。
春樹がいなかった時間。
教室の入口ばかり見ていた。
今は。
姿は見えない。
でも、いる。
紙をめくる音。
シャープペンが机へ触れる音。
圭が何かを小声で聞き。
春樹が短く答える声。
その一つ一つに、なつきの胸が少しずつ落ち着いていく。
これが。
春樹が言っていた「落ち着く」ということなのかもしれない。
何か特別なことをしているわけではない。
話していない。
見つめ合ってもいない。
ただ、そこにいる。
それだけで。
自分の中にあった空白が埋まる。
「横田さん」
英語の先生に呼ばれ、なつきは顔を上げる。
「はい」
「この文章の主語はどれですか?」
なつきは文を見る。
長い文。
関係代名詞。
祐衣に教えてもらった区切り方。
主語。
動詞。
なつきは答える。
「この部分です」
「はい。では動詞は?」
「こちらです」
「正解です」
先生が黒板へ線を引く。
なつきは小さく息を吐いた。
後ろから、春樹の声は聞こえない。
授業中だから。
でも、きっと見ている。
そう思うと、少しだけ背筋が伸びた。
◇
授業が終わる。
いつもなら。
すぐに春樹から呼ばれる。
横田さん。
その声を待つ。
けれど。
今日は、英語の先生が春樹を呼び止めた。
「大國くん」
「はい」
「少し教材を運ぶのを手伝ってもらえますか?」
「はい」
先生は教卓の横に置かれた問題集の束を示した。
「板倉くんもお願いできますか?」
「分かりました」
紅秋も席を立つ。
春樹は教材を持ち上げる前に、なつきの方を見た。
目が合う。
「少し行く」
小さな声。
「うん」
「休み時間」
「大丈夫。行ってきて」
「うん」
春樹と紅秋が、先生と一緒に教室を出る。
なつきは、しばらくその扉を見ていた。
朝。
春樹がいないだけで、足りないと思った。
今は理由が分かっている。
先生の手伝い。
すぐ戻る。
それでも。
斜め後ろの席が空くと、また少しだけ気になった。
「横田」
圭が呼ぶ。
「何?」
「春樹、すぐ戻るよ」
「分かってる」
「でも見てる」
「癖になったの」
「入口見るの?」
「春樹くんが戻ってくるか」
圭は少しだけ笑う。
「もう完全に待つ人だな」
「圭くんだって、本のキャプテンと一年が話すの待ってたでしょ」
「それと同じ?」
「少し」
「俺も、続き気になって仕方なかった」
「私も同じ」
「春樹の続き?」
「春樹くんとの時間の続き」
言ってから、自分で恥ずかしくなった。
圭も一瞬黙った。
「横田」
「何?」
「今日、強い」
「朝からいなかったから、気持ちが変になってる」
「でも、いいと思う」
「本当?」
「うん。春樹、言わないと分かんないし」
「私も?」
「二人とも」
圭は本を取り出しながら言う。
「本のキャプテンと一年みたい」
「喧嘩してないよ」
「喧嘩はしてないけど、二人とも考えてること全部は言わない」
「うん」
「でも最近、少しずつ言ってる」
「うん」
「だから、前より分かる」
なつきは、圭の言葉を胸の中で繰り返した。
前より分かる。
春樹が、なつきといると落ち着くこと。
なつきがいない朝を、少し気にすること。
電車の中で、なつきを見つけられるか考えたこと。
知らなかった春樹。
言ってくれたから、知れた。
◇
次の授業が始まる直前。
春樹と紅秋が戻ってきた。
春樹は教室へ入ると、すぐに自分の席へ向かう。
けれど、途中でなつきの机の横へ少しだけ足を止めた。
「戻った」
「うん」
なつきは笑う。
「見つけた」
春樹が少しだけ目を瞬かせた。
いつもは、春樹が言う言葉。
今日は、なつきから。
「俺も」
春樹が答える。
「横田さん、いた」
「ずっといたよ」
「うん」
「待ってた」
「うん」
教師が教室へ入ってくる。
春樹は自分の席へ急いだ。
なつきは前を向きながら、口元の笑いを抑えられなかった。
◇
昼休み。
美優、蓮、祐衣が二年十一組へ来た。
美優は、なつきの顔を見るなり言った。
「今日、すごく機嫌いい?」
「分かる?」
「黒猫ずっと揺れてる」
なつきは手元を見る。
確かに、無意識に何度も揺らしている。
「朝、春樹くん遅かったの」
「遅刻?」
「ぎりぎり間に合った。電車の遅延」
「そうなんだ」
「ずっと待ってた」
なつきは、昨日の約束を思い出しながら正直に話した。
美優の表情が、ほんの少しだけ固くなる。
祐衣も、静かに目を伏せた。
「春樹くんも」
なつきは続ける。
「電車の中で、私がもう教室にいるかなって考えたって」
短い沈黙。
美優が机へ手を置く。
「嫉妬した」
「うん」
「かなり」
「うん」
「春樹、私が教室にいるかは考えないのに」
声に、少しだけ寂しさが混ざっている。
なつきは、すぐに何かを返そうとして。
やめた。
美優の寂しさを消すために、自分の嬉しさを否定するのは違う。
「私、嬉しかった」
なつきは言った。
「うん」
美優は少しだけ唇を結ぶ。
「それも分かる」
「でも、美優さんが寂しいのも分かる」
「本当に?」
「昔は、春樹くんと一緒に登校することもあった?」
「中学の時は」
「うん」
「今は科も違うし、電車の時間も少しずれる」
「それ、寂しい?」
美優は少し考えた。
「今、言われるまで考えてなかった」
「うん」
「でも、寂しいかも」
祐衣が静かに言う。
「美優さんは、大國くんが近くにいることを当たり前だと思っていたのでしょうね」
「うん」
「当たり前が変わると、後から寂しさに気づくことがあります」
「祐衣も?」
「はい」
祐衣はなつきを見る。
「私は、大國くんと横田さんが話していることを知ったあと、自分が話せていない時間を気にするようになりました」
なつきの胸が少し痛む。
「今も、寂しい?」
「少し」
「うん」
「ですが」
祐衣は穏やかに続ける。
「横田さんが、嬉しかったことを隠さず話してくださったのは嬉しいです」
「どうして?」
「私達を友達として信じてくださっているから」
なつきは少しだけ目を見開いた。
「信じてる?」
「はい」
「嫉妬されるって分かってても?」
「それでも、話してくれました」
「うん」
「隠された方が、あとで知った時に寂しいです」
美優も小さく頷く。
「それは分かる」
「じゃあ、話してよかった?」
なつきが聞く。
「嫉妬はする」
美優は即答した。
「でも、話してくれた方がいい」
「うん」
「その代わり、私も話す」
「何を?」
「今朝、春樹が遅れたの知らなかったの、少し悔しい」
美優は春樹を見る。
少し離れた席で、圭や蓮達と昼食を取っている。
「昔なら、連絡してきたかもしれない」
その言葉に、なつきの胸が揺れる。
美優もすぐに気づいた。
「今、嫉妬した?」
「うん」
「昔の春樹だから?」
「うん」
「言ってくれてありがとう」
二人で、少しだけ笑った。
「私も」
祐衣が言う。
「大國くんから個人的に連絡をいただいたことは、ほとんどありません」
美優が少しだけ得意そうな顔になる。
「私はある」
「美優さん」
「ごめん。今、ちょっと優越感出た」
「うん」
「でも言った」
「うん」
三人の会話は、不思議だった。
以前なら。
傷つけたくないから隠し。
知られるのが怖いから黙り。
表情だけで相手を判断していた。
今は。
嫉妬した。
寂しい。
嬉しい。
少し悔しい。
そのままでは強すぎる言葉を、相手を責めないように少しずつ渡している。
「面倒くさいね」
美優が言った。
「うん」
なつきは笑う。
「でも、前より楽かも」
「嫉妬してるのに?」
「何を考えてるか分からないより」
祐衣が静かに頷いた。
「私も、そう思います」
◇
蓮が三人の方へ顔を向けた。
「今日は大丈夫そう?」
美優が返す。
「何が?」
「三人」
「今、嫉妬の報告会」
「報告会?」
圭も反応する。
「何それ」
亜衣が笑う。
「男子には分からない会」
「春樹が原因?」
圭の直球。
美優が言う。
「だいたい」
「俺?」
春樹が顔を上げる。
「春樹は食べてていい」
「うん」
素直に昼食へ戻る春樹。
圭が笑う。
「気にしないんだ」
「話したい時は話すと思う」
春樹は、なつき達を見る。
なつきと目が合う。
春樹が少しだけ首を傾げる。
大丈夫?
なつきは、今度は小さく頷いた。
大丈夫。
春樹も頷く。
それを見た美優が言う。
「今も嫉妬した」
「うん」
祐衣も続ける。
「私もです」
「うん」
なつきは少し困ったように笑う。
「どうすればいい?」
「そのままでいい」
美優が言った。
「私達が言うだけ」
「そう?」
「うん。横田さんが悪いわけじゃない」
祐衣も頷く。
「大國くんも、今のところ何も悪いことはしていません」
「今のところ?」
春樹が聞こえたらしく反応する。
美優が笑う。
「今のところ」
「難しい」
「恋愛は難しいの」
「まだ恋愛か分からない」
春樹の言葉。
美優と祐衣の表情が、少しだけ固くなる。
なつきの胸も、わずかに痛んだ。
でも。
春樹は、嘘をついていない。
分からないことを、分からないと言っている。
「うん」
なつきは言った。
「まだ分からない」
春樹が、なつきを見る。
「でも」
なつきは黒猫へ触れた。
「今日、分かったことは増えた」
「何?」
「春樹くんがいないと、私の朝が足りない」
圭が箸を止める。
蓮も目を少し見開く。
美優と祐衣は、一度なつきを見たあと、春樹へ視線を移した。
春樹は、少しだけ黙った。
「俺も」
静かに言う。
「横田さんを見つけられないと、少し足りない」
今度こそ。
教室の一角が完全に静かになった。
圭が小声で言う。
「少しどころじゃない」
紅秋が隣から返す。
「黙れ」
「はい」
美優は、少し苦しそうに息を吐いた。
「嫉妬した」
「うん」
祐衣も、笑いながら少しだけ目を伏せる。
「私もです」
「うん」
「ですが」
祐衣は顔を上げた。
「今の言葉は、大國くんが見つけた気持ちなのでしょうね」
春樹は祐衣を見る。
「うん」
「それなら、大切にしてください」
「うん」
美優は、少し不満そうな顔をしながらも言った。
「私も、なくせとは言わない」
「美優」
「何?」
「ありがとう」
春樹が言った。
美優の表情が揺れる。
「春樹が、私にありがとうって」
「言う」
「知ってるけど」
少しだけ笑う。
完全に平気ではない。
でも、同じ場所にいる。
◇
午後。
なつきは、春樹が斜め後ろにいることを何度も意識した。
朝の空席。
それが埋まった今。
いつもの音が、いつも以上に大切に聞こえる。
授業中。
春樹のシャープペンが止まる音。
教科書をめくる音。
先生に当てられ、短く答える声。
圭が小さく何かを落とし。
春樹が拾って渡す気配。
見えなくても分かる。
そこにいる。
見えないことが、以前ほど不安ではなくなった。
むしろ。
見えないからこそ、音や気配を探すようになった。
春樹も。
なつきの背中を見ているのだろうか。
黒猫が揺れるたびに気づいているのだろうか。
◇
五時間目。
体育。
男子と女子は、それぞれ別の場所で授業を受ける。
女子は体育館。
男子は校庭。
席替え後。
同じ教室で春樹の姿が見えなくても、気配があると分かるようになったばかり。
でも。
体育の時間は、本当に別々だった。
なつきは体育館で、亜衣や茜達とバレーボールの練習をしていた。
ネットの向こうへボールを返す。
声を掛け合う。
考査前の体育の時より、少しだけ身体が動く。
「横田、前!」
亜衣の声。
なつきは一歩前へ出る。
ボールを受ける。
少し大きく弾く。
「茜ちゃん!」
「任せて」
茜が返す。
ネットを越える。
女子達から小さな歓声が上がる。
「続いた!」
「今の良かった!」
なつきも笑った。
体育祭や勉強会を通して。
クラスの女子達とも、以前より声を掛け合えるようになった。
それでも。
休憩に入ると、体育館の窓から校庭を見てしまう。
男子達が遠くで走っている。
春樹はどこだろう。
制服ではない。
距離もある。
簡単には見つからない。
「探してる?」
亜衣が隣から聞く。
「うん」
「春樹くん?」
「うん」
「いた?」
「分からない」
男子達が並んでいる。
圭。
田辺。
島中。
紅秋。
誰が誰なのか、遠くて見分けにくい。
その時。
列の端にいた一人が、体育館の方を見た。
白い体操服。
遠くからでも、少し静かな立ち姿。
春樹かもしれない。
けれど、確信はない。
「なつき」
「何?」
「今、春樹くんもこっち見てない?」
「本当?」
「たぶん」
なつきは、窓へ少し近づく。
校庭の端。
男子の列。
春樹らしい人物。
目が合ったのかは、分からない。
距離がある。
表情も見えない。
でも。
その人物が、ほんの少しだけ手を上げた。
大きくではない。
胸の近くで。
周囲に気づかれないような、小さな動き。
「春樹くん」
なつきは小さく言った。
「やっぱり?」
亜衣が聞く。
「うん。たぶん」
なつきも、窓の近くで小さく手を上げた。
遠すぎて見えたか分からない。
それでも。
校庭の春樹らしい人物が、少しだけ頷いたように見えた。
「見つけた?」
亜衣が笑う。
「うん」
なつきは胸の中で答えた。
見つけた。
◇
同じ頃。
校庭では、男子達が長距離走の説明を受けていた。
体育教師が記録用紙を準備している間。
春樹は、体育館の窓を見ていた。
女子達が休憩している。
窓際に何人かいる。
遠くて、顔までは見えない。
けれど。
なつきらしい姿を探していた。
髪。
背丈。
立ち方。
黒猫は、体育着なので鞄についていて見えない。
いつもの目印がない。
それでも。
亜衣らしい人物の隣。
少しだけ窓へ近づく姿。
なつきだと思った。
小さく手を上げる。
向こうからも、手が上がった。
確信する。
横田さん。
「春樹」
紅秋が隣から呼ぶ。
「何?」
「何をしている」
「横田さん」
紅秋は体育館を見る。
「見えたのか?」
「うん」
「黒猫はないだろう」
「うん」
「それでも?」
「分かった」
春樹は、自分でも少し驚いていた。
黒猫がなくても。
教室の席でなくても。
遠くても。
なつきを見つけられた。
「春樹」
圭も会話へ入ってくる。
「横田、いた?」
「うん」
「どこ?」
春樹が指差す。
けれど、圭には分からないらしい。
「全員同じ体操服」
「うん」
「何で分かるの?」
春樹は少し考えた。
「横田さんだから」
圭が、その場で両手を顔へ当てた。
「体育中も強い」
田辺が後ろから聞く。
「何の話?」
「春樹が遠くから横田見つけた」
島中が笑う。
「借り人競争の再現かよ」
春樹は体育館の窓を、もう一度見る。
なつきは、すでにコートへ戻っていた。
姿が見えなくなる。
でも。
さっき見つけた。
それだけで、少し落ち着いた。
◇
体育が終わり。
教室へ戻る。
汗を拭きながら、女子達が先に教室へ入った。
なつきは自分の席へ座り、鞄の黒猫へ触れる。
体育中にはなかった目印。
戻ってきた日常。
少し遅れて、男子達も入ってくる。
圭が教室へ入るなり言った。
「横田」
「何?」
「春樹、黒猫なくても見つけた」
春樹が圭を見る。
「言わなくていい」
「でも、すごいから」
なつきの胸が鳴る。
「本当に?」
春樹が自分の席へ座る。
「うん」
「体育館、遠かったよ?」
「うん」
「私、黒猫もなかった」
「うん」
「どうして分かったの?」
春樹は少しだけ考えた。
「横田さんだったから」
同じ言葉。
圭に答えた時と。
なつきは、黒猫を握りそうになる。
でも、今は緊張より嬉しさが強かった。
小さく揺らす。
「見つけてもらった」
「うん」
「私も見つけた」
「うん」
「最初、分からなかったけど」
「俺も少し探した」
「探したの?」
「うん」
胸が、さらに温かくなる。
「私を?」
「うん」
「どうして?」
「見つけたかったから」
春樹は、今日何度目か分からないほど、まっすぐな言葉を置いた。
なつきはしばらく何も言えなかった。
朝。
電車の中で、なつきを見つけられるか考えた。
体育。
遠くの窓に、なつきを探した。
春樹も。
なつきを探している。
「春樹くん」
「何?」
「私だけじゃなかった」
「何が?」
「探してるの」
なつきは笑った。
「私ばっかり、春樹くん探してると思ってた」
春樹は、少しだけ首を横へ傾けた。
「俺も探す」
「うん」
「席が変わってから、増えた」
「探すこと?」
「うん」
春樹は、なつきの背中を見ている。
休み時間になれば呼ぶ。
体育館にいれば探す。
朝、いなければ気になる。
席替え前。
いつも見える場所にいた。
探す必要がなかった。
今は、少し見えにくい。
だから。
見つけようとする。
「席、離れてよかったかも」
なつきが言った。
「どうして?」
「春樹くんも探してくれるって分かったから」
春樹は少しだけ考えた。
「近い方がいい」
「どっち?」
「近くても、探す」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、次の席替えで隣でも?」
言ってから、自分で顔が熱くなる。
圭が隣で固まる。
春樹は、少し考えた。
「隣なら、探さなくてもいる」
「そうだけど」
「でも、見る」
なつきの胸が跳ねる。
「見るの?」
「うん」
「授業中も?」
「たまに」
「今も?」
「見てる」
なつきは、黒猫を両手で隠した。
「恥ずかしい」
「でも、嫌じゃない?」
以前、自分が春樹へ何度も聞いた言葉。
見られても嫌じゃない?
今度は、春樹から返ってきた。
なつきは、黒猫を隠した手を少しずつ開いた。
「嫌じゃない」
「うん」
「春樹くんなら」
春樹の目が、少しだけやわらかくなる。
「俺も」
短い返事。
二人の間に、静かな時間が流れた。
◇
放課後。
なつきは、今日一日のことを思い返しながら帰り支度をしていた。
朝。
空いていた春樹の席。
入口を何度も見たこと。
春樹が来た瞬間。
自分の朝が足りなかったと伝えたこと。
春樹も、電車の中でなつきを探していたこと。
体育館と校庭。
黒猫がなくても、互いを見つけたこと。
席が離れて。
姿が見えにくくなった。
その代わり。
以前より、互いを探すようになった。
「横田さん」
春樹が呼ぶ。
なつきは振り返る。
「うん」
「今日」
「何?」
「朝、待ってたって言ってくれた」
「うん」
「嬉しかった」
なつきは、少し驚いた。
「春樹くんが?」
「うん」
「待たせたのに?」
「待っててくれたから」
「……うん」
「俺が来るの」
「待ってた」
「うん」
春樹は少しだけ言葉を探す。
「必要だったみたいで、嬉しかった」
胸の奥が、静かに満たされていく。
なつきは黒猫へ触れた。
小さく揺らす。
「必要だよ」
「うん」
「春樹くんがいないと、朝が始まらない」
今度は、迷わず言えた。
春樹も静かに頷く。
「俺も」
「私がいないと?」
「見つけられないと、少し足りない」
「少し?」
「かなりかも」
なつきは目を見開いた。
春樹自身も、言ってから少し驚いたようだった。
「かなり?」
「今日、間に合わないかもって思った時」
「うん」
「嫌だった」
春樹は、自分の気持ちを一つずつ確認するように話す。
「横田さんが来て、黒猫掛けるところ見られないの」
「うん」
「おはよう言えないの」
「うん」
「嫌だった」
なつきの目の奥が、少し熱くなる。
「春樹くん」
「何?」
「それ、すごく嬉しい」
「うん」
「でも、電車は仕方ないから」
「うん」
「今度遅れたら、心配するけど」
「うん」
「来たら、今日みたいに見つける」
「俺も」
言葉が重なる。
◇
亜衣が、少し離れた場所からなつきを待っていた。
茜も鞄を持っている。
圭は本をしまいながら、春樹となつきの会話を聞こえないふりで聞いていた。
紅秋は、静かに時計を確認する。
「そろそろ帰るぞ」
「うん」
春樹が答える。
なつきも鞄を持ち上げた。
黒猫が揺れる。
春樹が見る。
「今日は、ずっと嬉しい?」
「朝は心配だった」
「うん」
「でも、春樹くん来たから安心した」
「うん」
「体育で見つけてもらった」
「うん」
「今、かなり足りないって言ってくれた」
「うん」
「だから、今はすごく嬉しい」
春樹は、ほんの少しだけ笑った。
「分かる」
「黒猫?」
「それも」
「他は?」
「顔」
なつきの頬が熱くなる。
「笑ってる」
「うん」
「見つけた」
いつもの言葉。
でも今日は、一日の終わりに聞く。
「私も」
なつきは答えた。
「春樹くん、見つけた」
◇
帰り道。
秋の夕方は、少しずつ短くなっていた。
校門を出る頃には、空の青さは薄れ始めている。
街路樹の葉が風に擦れ。
歩道の端に、乾いた葉が何枚か落ちている。
なつきは亜衣と茜の間を歩きながら、何度も今日の言葉を思い返した。
「今日、すごかったね」
亜衣が言う。
「何が?」
「全部」
「全部?」
「朝から春樹くん待って。足りないって言って。体育館と校庭で見つけ合って。最後にかなり足りないって」
なつきは顔を赤くする。
「全部聞いてたの?」
「全部ではないけど、かなり」
「亜衣ちゃん」
「でも」
亜衣は、なつきの顔を見る。
「本当に嬉しそう」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
「嬉しい」
茜が微笑む。
「席が離れたからこそ、気づけたことがあったのね」
「うん」
「見えていた時は、探さなかった」
「うん」
「見えにくくなったから、互いに探すようになった」
なつきは鞄の黒猫へ触れる。
「春樹くんも、探してくれてた」
「それが一番嬉しい?」
亜衣が聞く。
なつきは、少し考えた。
「うん」
春樹を見つけたい。
ずっとそう思っていた。
君の隣を目指して。
君の姿を探して。
少しずつ近づいてきた。
でも。
今日分かった。
春樹も。
なつきを探している。
朝。
教室。
体育館。
黒猫がなくても。
遠くても。
「私だけじゃなかった」
なつきは、小さく言った。
「何が?」
「見つけたいって思ってたの」
亜衣と茜が、やわらかく笑う。
「うん」
なつきは黒猫を揺らした。
見えないだけで。
そこにいると分かっていても。
少し寂しい。
足りない。
だから、振り返る。
だから、探す。
そして。
相手も同じように探してくれていると分かった時。
離れたはずの距離が。
以前よりも近く感じられる。
明日の朝。
春樹は、いつもの席にいるだろうか。
自分が先なら、待つ。
春樹が先なら、見つけてもらう。
どちらでもいい。
最後には。
今日もいる。
見つけた。
そう言い合えるなら。
君の隣は、すぐ横でなくても。
少しずつ。
本当に近い場所へ変わっていく。
なつきは、秋の風に揺れる黒猫を見つめながら、明日の朝も春樹を探す自分を思い浮かべていた。




