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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第128話 振り返れば、そこにいる


 席替えの翌朝。


 二年十一組の教室は、まだ新しい並びに馴染みきっていなかった。


 登校してきた生徒が、前の席へ向かいかけて途中で足を止める。


 机の横へ鞄を掛けたあと、それが自分の机ではないことに気づいて慌てて持ち直す。


 昨日まで隣だった相手へ、つい以前の位置から話しかけてしまい、返事が遠くから飛んでくる。


 そんな小さな間違いが、朝から教室のあちこちで起きていた。


「違う。俺の席、こっちだ」


 田辺が廊下側の古い席へ向かいかけ、途中で方向を変える。


 島中が笑った。


「昨日自分で机動かしただろ」


「身体が覚えてんだよ」


「一日で忘れたとも言う」


「お前もさっき前の席座ろうとしてたじゃねぇか」


「見た?」


「見た」


 少し離れた場所では、圭が新しい自分の席へ座り、何度も机の位置を調整していた。


 春樹の隣。


 後方の窓側から二列目。


 教室全体を見渡しやすく、本人にとってはかなり理想に近い場所らしい。


「いいね」


 圭が満足そうに言う。


「何が?」


 春樹が教科書を机へ置きながら聞く。


「この席。後ろだし、窓近いし、春樹隣だし」


「窓は少し遠い」


「気分の問題」


「そう」


「反応薄い」


 紅秋は、少し前方の中央寄り。


 以前より春樹達から離れたが、圭の声は十分聞こえる距離だった。


「三浦」


 紅秋が前を向いたまま言う。


「初日から騒ぐな」


「まだホームルーム前」


「だから騒いでいいわけではない」


「離れても聞こえる」


「お前の声が大きいからだ」


 周囲から笑いが起きる。


 教室は、少しずつ新しい空気を作り始めていた。


   ◇


 なつきは、教室の入口で一度足を止めた。


 昨日までなら。


 教室へ入ってすぐ、少し前方に春樹の姿を探していた。


 黒猫へ触れ。


 目が合うのを待つ。


 今は、春樹は教室の後方。


 なつきの新しい席は、その一列前。


 入った瞬間には、春樹の姿が他の生徒に隠れて見えにくい。


 分かっていたことなのに。


 実際に朝を迎えると、少しだけ落ち着かなかった。


「なつき?」


 後ろから亜衣に呼ばれた。


「入らないの?」


「あ、うん」


「春樹くん探してた?」


 なつきは少しだけ頬を赤くしながら頷いた。


「見えなかったから」


「昨日言ってた通りだね」


「うん」


「でも、新しい席まで行けば見えるよ」


「うん」


 なつきは教室へ足を踏み入れた。


 新しい席。


 中央より少し後ろ。


 窓側から三列目。


 机の横へ鞄を掛ける。


 黒猫のキーホルダーが揺れた。


 その瞬間。


「おはよう」


 斜め後ろから声がした。


 なつきは、思わずすぐに振り返った。


 春樹がいた。


 すでに席へ着いている。


 机の上には文庫本。


 けれど、ページはまだ開かれていなかった。


 なつきが来るのを待っていたのか。


 そう考えた瞬間、胸が大きく鳴る。


「おはよう、春樹くん」


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 春樹の視線は、なつきの鞄の横。


 黒猫。


 それから、なつきの顔へ戻る。


「私も」


 なつきは少し笑った。


「振り返ったら、春樹くんいた」


「うん」


「見つけた」


 昨日までとは逆。


 春樹が振り返り、なつきを見つけていた。


 今日は、なつきが振り返った。


 それだけの違い。


 けれど、その小さな変化が、胸の中へゆっくり残った。


「本当に待ってた?」


 なつきは小さな声で聞いた。


「何を?」


「私が来るの」


 春樹は少し考えた。


「少し」


「少し?」


「いつもより遅いと思った」


「遅かった?」


「いつもより二分くらい」


 圭が隣から顔を上げる。


「二分分かるの?」


「時計見た」


「でも、横田さんが遅いと思ったから時計見たんだろ?」


 春樹は少し黙った。


 圭は、にやりと笑う。


「ほら」


 なつきの頬が熱くなる。


「圭くん」


「俺、事実確認しただけ」


「朝からしなくていい」


 春樹は圭を見る。


「圭、声」


「小さいよ」


「聞こえる」


 亜衣が自分の席から振り返り、肩を揺らして笑っている。


 茜は前方の席から、こちらの様子に気づいたらしく、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 なつきは黒猫へ手を伸ばす。


 小さく揺らす。


 春樹が見る。


「嬉しい」


「うん」


「二分?」


「春樹くんが、私が遅いって思ってくれたから」


「うん」


「待ってたから」


「少し」


「少しでも嬉しい」


 春樹は、ほんの少しだけ目を細めた。


「そっか」


   ◇


 朝のホームルームが始まる頃には、教室のざわめきも少し落ち着いていた。


 担任が入ってくる。


 新しい席になった生徒達を、一度見渡す。


「全員、正しい席に座れていますね」


 圭が手を上げる。


「田辺が朝、前の席座ろうとしてました」


「三浦!」


 田辺が声を抑えて抗議する。


 担任は少し笑った。


「明日には慣れてください」


「先生、三浦も机の位置三回直してました」


 今度は島中が言う。


「座り心地の調整」


「学校の机だぞ」


「数センチ大事」


 教室に笑いが広がる。


「はい。新しい席でも、授業に集中してください」


 担任は連絡事項を読み上げていく。


 なつきは前を向きながら、背中へ春樹の気配を感じていた。


 気配。


 そんな言い方をすると少し大げさかもしれない。


 けれど、本当にそう思った。


 姿は見えない。


 でも、いると分かる。


 斜め後ろ。


 机を少し動かす音。


 教科書を開く音。


 圭へ小さく返事をする声。


 その一つ一つが、春樹がそこにいると教えてくれる。


 昨日までなら。


 姿が見えることで安心していた。


 今日は、見えなくてもいると分かる。


 それは少し不思議だった。


   ◇


 一時間目。


 国語。


 先生が教科書の文章を読み上げ、生徒達はそれぞれ線を引く。


 なつきは新しい席から黒板を見た。


 少し遠い。


 けれど、見えにくいほどではない。


 窓から差し込む光が、机の端へ淡く落ちている。


 以前の席より、外の景色が近かった。


 風に揺れる木の枝。


 白い雲。


 校庭を走る体育の授業中の生徒。


 新しい景色。


 その中で、なつきは先生の声を聞きながらノートを取る。


 ふと。


 後ろから、かすかな紙の音が聞こえた。


 春樹がページをめくったのだと思う。


 振り返りたくなる。


 でも授業中。


 亜衣に何回振り返るか数えると言われたことを思い出し、なつきは我慢した。


 前を向く。


 ノートを書く。


 少しして。


「横田さん」


 先生に呼ばれた。


「はい」


「この場面で、主人公が返事をしなかった理由は何だと思いますか?」


 なつきは本文を見る。


 登場人物が、相手からの問いに答えられなかった場面。


 気持ちがないからではない。


 言葉にしたら変わってしまうのが怖かった。


 自分の中でも整理できていない。


 最近の出来事が、自然に重なる。


 春樹。


 美優。


 祐衣。


 言葉にすること。


 言わないこと。


 待つこと。


「答えたくなかったんじゃなくて」


 なつきはゆっくり言った。


「自分の気持ちが、まだ言葉にできなかったからだと思います」


 先生が頷く。


「では、なぜ黙ったのでしょう」


「間違った言葉を言って、相手を傷つけたくなかったから」


 教室が少し静かになる。


 先生は、なつきの答えを黒板へ簡単にまとめた。


「良いですね。黙ることは、必ずしも拒絶ではありません。言葉を探している沈黙もあります」


 なつきは、その言葉を聞きながら小さく息を吐いた。


 言葉を探す沈黙。


 春樹の沈黙。


 以前は怖かった。


 嫌われた。


 困らせた。


 そう思っていた。


 今は、春樹が言葉を探していると分かる。


 そして昨日。


 見つけた言葉を一つ、渡してくれた。


 横田さんといると落ち着く。


 胸の中が、また温かくなる。


「いい答えだった」


 後ろから、小さな声。


 先生が黒板へ向いている隙。


 春樹の声だった。


 なつきは振り返らない。


 でも、少しだけ頷いた。


 教科書の端へ指を置き。


 嬉しさを、そこへ逃がす。


   ◇


 休み時間。


 なつきがノートを閉じるより先に、後ろから呼ばれた。


「横田さん」


 春樹の声。


 昨日の約束。


 休み時間に、俺が呼ぶ。


 覚えていた。


 なつきはすぐに振り返った。


「呼んだ?」


「うん」


「忘れてなかった」


「大事だから」


 また、その言葉。


 なつきの胸が跳ねる。


「春樹くん、それ言うたびに、私すごく嬉しくなる」


「そう?」


「うん」


 黒猫へ触れようとしたが、机の横で少し遠い。


 なつきは体を少し傾けて、指先で触れた。


 小さく揺らす。


 春樹がそれを見て、少しだけ笑う。


「本当に揺らす」


「春樹くんが言うから」


「嬉しい?」


「うん」


「国語の答えも」


「聞いてた?」


「同じ教室」


「そうだけど」


 春樹は、教科書の該当部分を指した。


「言葉にできないから黙る」


「うん」


「少し分かる」


 なつきは、春樹を見る。


「春樹くん自身が?」


「うん」


「私が前に聞いた時も?」


「何を?」


「どう思ってるか」


「うん」


「言いたくなかったんじゃなくて?」


「言葉がなかった」


「今は?」


 少しだけ期待して聞く。


 春樹は、すぐには答えなかった。


 けれど、なつきは待てた。


「一つ増えた」


「落ち着く?」


「うん」


 なつきは笑った。


「それ、大切にしてる」


「うん」


「春樹くんも?」


「大切」


 短い返事。


 でも、その言葉を急がず置いてくれる。


 なつきは、しばらく春樹の顔を見た。


「何?」


「見てる」


「うん」


「嫌じゃない?」


「嫌じゃない」


 圭が隣から、机に顔を伏せる。


「俺、隣なのに空気になった方がいい?」


「圭くん」


 なつきが笑う。


「普通にしてていいよ」


「普通が難しい」


 春樹が言う。


「本読めば?」


「冷たい」


「読みたいって言ってた」


「確かに」


 圭は鞄から本を出した。


「じゃあ二人が話してる間、俺読む」


「授業始まるまでね」


「横田、紅秋みたいになってきた」


 教室の少し前から、紅秋の声が飛ぶ。


「聞こえている」


「距離あるのに!」


 笑い声が広がった。


   ◇


 二時間目。


 数学。


 新しい席になったことで、先生は何度か生徒の名前を探していた。


「三浦くんは……そこですね」


「はい」


「昨日までと違うので、少し分かりにくいですね」


「俺はどこでも目立つと思います」


「自分で言わないでください」


 教室に笑いが起きる。


 授業は、関数の復習から新しい内容へ入った。


 なつきは途中式を丁寧に書く。


 考査前から続けている習慣。


 途中で一か所、分からないところが出た。


 以前なら。


 春樹が斜め前にいた。


 休み時間になれば、ノートを少し前へ向けるだけで見てもらえた。


 今は、斜め後ろ。


 授業中に聞くことはできない。


 なつきは、問題の横へ小さな印をつけた。


 あとで聞こう。


 休み時間に。


 春樹から呼ぶと言ってくれた。


 そう思うと、分からないままでも少し落ち着けた。


 先生の説明を最後まで聞く。


 すると、さっき分からなかった部分の半分は、自分で理解できた。


 残りは、休み時間。


「横田さん」


 授業が終わると、また後ろから声。


 なつきは振り返る。


「うん」


「途中で印つけてた」


「見えてた?」


「うん」


「ここ、少し分からない」


 なつきはノートを後ろへ向けた。


 春樹が覗き込む。


 席が斜めなので、以前より少し身体を寄せる必要がある。


 近い。


 なつきは一瞬、緊張した。


 黒猫を握りたい。


 でも、机の反対側。


 手が届かない。


 代わりにシャープペンを少し強く握る。


「ここ」


 春樹が指す。


「最初の式は合ってる」


「うん」


「次に、この数字を代入する」


「うん」


「横田さん、こっちへ入れてる」


「あ」


 説明は短い。


 でも、分かりやすい。


 なつきは自分で式を書き直す。


「できた」


「うん」


「合ってる?」


「合ってる」


 嬉しくなる。


 なつきは、反射的に黒猫へ手を伸ばそうとして、途中で止まった。


「遠い」


「何が?」


「黒猫」


 春樹が鞄の横を見る。


 それから、黒猫を指先で少し揺らした。


 なつきの心臓が止まりそうになる。


「春樹くん」


「嬉しい時、揺らすから」


「私が触れないから?」


「うん」


「春樹くんが揺らしたの?」


「うん」


 黒猫が、春樹の指先で小さく揺れている。


 なつきは何も言えなかった。


 自分のもの。


 春樹が取ってくれたもの。


 いつも自分の気持ちを表すように触れていた黒猫。


 それを今。


 春樹が代わりに揺らしてくれた。


「嫌だった?」


 春樹が聞く。


 なつきは、勢いよく首を横に振る。


「全然」


「うん」


「むしろ」


 声が少し詰まる。


「すごく嬉しい」


「そっか」


 春樹の口元が、ほんの少しだけやわらかくなる。


 圭が本から顔を上げて、完全に固まっていた。


「春樹」


「何?」


「それは、かなり強い」


「黒猫揺らしただけ」


「だからだよ」


 亜衣も少し離れた席から見ていたらしく、両手で顔を覆っている。


 茜は前方から振り返り、静かに目を細めていた。


 なつきは黒猫を自分の手へ戻すように、そっと触れた。


 春樹の指と近づく。


 一瞬だけ。


 触れたかどうか分からないほどの距離。


 二人とも、少しだけ手を止める。


 春樹が先に離した。


 なつきは黒猫を握らず、小さく揺らした。


「もう自分で届く?」


「うん」


「よかった」


「でも」


「何?」


「春樹くんが揺らしてくれたの、今日ずっと覚えてると思う」


「今日だけ?」


「たぶん、ずっと」


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


 そして、何も言わず頷いた。


   ◇


 昼休み。


 美優、蓮、祐衣が教室へ来た。


 席替え後の二年十一組へ来るのは初めてだった。


「全然違う」


 美優が教室の入口から中を見回す。


「春樹、後ろになったんだ」


「うん」


「なつきは?」


 亜衣が指差す。


「春樹くんの斜め前」


 美優の目が、その位置関係を確認する。


 なつき。


 春樹。


 圭。


 少し離れた紅秋。


「近い」


 美優が言った。


「うん」


 なつきは逃げずに頷く。


「嫉妬した」


「うん」


「でも、隣じゃない」


「圭くんが隣」


「俺です」


 圭が手を上げる。


 美優は少し笑った。


「圭くんなら安心」


「どういう意味?」


「春樹と恋愛にならない」


「それはそう」


 教室に笑いが起きる。


 祐衣は、なつきの黒猫を見た。


「席が変わっても、見える位置ですね」


「うん」


「大國くんからは、かなり見えそうです」


 なつきの頬が熱くなる。


 美優が春樹を見る。


「春樹、見てる?」


「何を?」


「なつき」


 教室の空気が、ほんの少し止まる。


 春樹は、すぐに否定しなかった。


「たまに」


 美優の表情が少しだけ固くなる。


 祐衣も、静かに目を伏せた。


 なつきの胸が揺れる。


 昨日の約束。


 嫉妬しても、勝手にいなくならない。


 なつきは二人を見る。


「私も、振り返って春樹くん見てる」


「うん」


 美優は少しだけ息を吐いた。


「今、ちょっと嫌だった」


「うん」


「でも言った」


「ありがとう」


 祐衣も続ける。


「私も、羨ましいと思いました」


「うん」


「ですが、席はくじですから」


「祐衣、現実的」


 美優が少し笑う。


 祐衣も微笑む。


「それに」


 祐衣はなつきを見る。


「横田さんが嬉しそうなので、少し嬉しくもあります」


 なつきの胸がやわらかくなる。


「ありがとう」


「はい」


 美優は机へ肘をつく。


「私も、いつかそう思えるかな」


「少しずつ」


 なつきが言う。


「昨日、そう決めたから」


「うん」


   ◇


 圭が、昼食より先に本を取り出した。


「白石さん」


「はい?」


「百ページまで読んだ」


「もうですか?」


「うん。キャプテンと一年、少し話した」


 祐衣の表情が明るくなる。


「どうでした?」


「ちゃんと話せば分かるのにって思った」


 春樹が圭を見る。


 昨日、帰り道で話したこと。


 圭は続ける。


「でも、言い始めるまでが難しいんだよな」


「はい」


「キャプテン、ずっと一人で背負ってた」


「そうですね」


「一年も、怒られてると思ってたけど、本当は期待されてた」


「はい」


「分からないまま喧嘩するの、もったいない」


 祐衣は嬉しそうに頷いた。


「圭くんは、どちらの気持ちも見ていますね」


「俺?」


「はい」


「本読めてる?」


「とても」


 圭は、少し照れたように笑った。


「白石さんに褒められた」


 田辺が後ろから言う。


「よかったな」


 島中も頷く。


「読み終わったら俺らにも貸して」


「いいよ。でも白石さんに返してから」


「当たり前だ」


 圭が本を読むようになったことを、教室のみんなも少し面白がりながら喜んでいた。


 笑うだけではない。


 ちゃんと応援している。


 なつきは、その空気が好きだった。


   ◇


 美優は春樹の机の近くへ行き、斜め前のなつきの位置から春樹を見た。


「本当に近いね」


「うん」


 なつきが答える。


「春樹から、なつきの黒猫すごく見える」


「うん」


「授業中も?」


「見てる時あるみたい」


 美優の口元が少しだけ固くなる。


「嫉妬」


「うん」


「でも、私も昔の話する」


「うん。聞く」


「今日する?」


 なつきは少し身構える。


「どんな話?」


「春樹が小学生の時、席替えで一番前になって嫌がった話」


「聞きたい」


 即答すると、美優が少し驚く。


「嫉妬しない?」


「昔の春樹くん知りたいから」


「少しは?」


「する」


「どっち?」


「両方」


 祐衣が小さく笑う。


「もう慣れてきましたね」


「言うことに?」


「はい」


 美優も笑った。


「じゃあ話す」


 春樹が、少し嫌そうな顔をする。


「美優」


「何?」


「言わなくていい」


「なつき聞きたいって」


「うん」


 なつきも頷く。


 春樹は少しだけ眉を寄せた。


 それは、珍しい表情だった。


「春樹くん、嫌?」


「少し」


「なら、無理に聞かない」


 なつきがすぐに言うと、春樹は目を瞬かせた。


 美優も少しだけ驚く。


「聞きたいけど、春樹くんが嫌なら聞かない」


「うん」


「でも、いつか自分で話してくれたら嬉しい」


 春樹は少し考える。


「一番前、嫌だった」


「もう話した」


「理由は?」


「先生が近い」


 圭が吹き出す。


「俺と同じ!」


 春樹は続ける。


「でも、美優が後ろから消しゴム投げてきた」


「投げてない。転がした」


「同じ」


「違うよ。春樹が困ってたから励ましたの」


「授業中」


「小学生だから」


 なつきは、二人の会話を聞きながら少しだけ胸が痛んだ。


 自分の知らない春樹。


 美優しか知らない時間。


 でも。


 春樹自身が話してくれた。


 嫌だと言ったあと。


 なつきが無理に聞かないと伝えたら、少しだけ言葉をくれた。


 そのことが嬉しかった。


「今、嫉妬した?」


 美優が聞く。


「うん」


「でも?」


「春樹くんが自分で話してくれたのは嬉しい」


「両方」


「うん」


 祐衣も、少しだけ寂しそうに笑う。


「私も、昔の大國くんは知りません」


「今から知ればいい」


 美優が言った。


「祐衣も、なつきも」


 祐衣が美優を見る。


「いいのですか?」


「昔は私だけのものだけど」


 美優は少しだけ意地悪そうに笑う。


 なつきの胸が痛む。


 美優はすぐに続けた。


「今の春樹は、私だけのものじゃない」


 その言葉は、少し寂しそうだった。


 でも、確かに前へ進んでいた。


「美優さん」


「何?」


「今の言葉、少し嬉しい」


「私は寂しい」


「うん」


「でも言った」


「ありがとう」


 祐衣も静かに言う。


「ありがとうございます」


 美優は二人を見て、少し困ったように笑った。


「二人にお礼言われると変な感じ」


   ◇


 午後。


 なつきは新しい席に、少しずつ慣れ始めていた。


 黒板の見え方。


 机の光。


 亜衣の位置。


 後ろから聞こえる春樹と圭の小さな会話。


 今までとは違う。


 でも、悪くない。


 授業中。


 分からないところへ印をつける。


 休み時間。


 春樹から呼ばれる。


 振り返る。


 話す。


 その流れが、すでに一日の中にでき始めている。


 席が変わったことで。


 春樹から声をかけてもらう回数が、以前より増えた気がする。


 見えないから。


 春樹が呼ぶ。


 なつきが振り返る。


 それは、少し不思議な変化だった。


   ◇


 放課後。


 亜衣が鞄を閉じながら、なつきへ聞いた。


「何回振り返ったと思う?」


「数えてたの?」


「途中まで」


「やめてって言ったのに」


「七回」


「そんなに?」


「授業中は二回。休み時間は五回」


「意外と少ない」


「もっと振り返ったと思ってた?」


「ううん」


「春樹くんから呼ばれた回数は四回」


「それも数えてた?」


「うん」


 なつきは顔を赤くする。


「亜衣ちゃん、暇なの?」


「観察が忙しい」


「授業受けて」


「受けてる」


 茜が前方からやってくる。


「亜衣、なつきをからかいすぎないの」


「でも、席替え初日だから記録」


「明日からはやめて」


「たぶん」


「たぶんじゃない」


 三人で笑う。


 春樹は、自分の席で本を鞄へしまっていた。


 圭が隣で、今日の続きについて話している。


 なつきは鞄を持ち上げる。


 黒猫が揺れる。


 春樹が見る。


「今日は」


 春樹が言った。


「何?」


「新しい席、どうだった?」


 なつきは少し考える。


「最初は寂しかった」


「うん」


「春樹くん見えないから」


「うん」


「でも、呼んでくれた」


「うん」


「分からないところも見つけてくれた」


「うん」


「黒猫も、代わりに揺らしてくれた」


 春樹が少しだけ目を瞬かせる。


 圭が隣で、また顔を伏せる。


「それは忘れられない」


 なつきは笑った。


「だから」


「うん」


「思ってたより、いい席だった」


 春樹の表情が、少しだけやわらかくなる。


「俺も」


「春樹くんも?」


「横田さんが見える」


 胸が鳴る。


「ずっと?」


「ずっとは見ない」


「分かってる」


「でも、いるって分かる」


 なつきは黒猫へ触れた。


 小さく揺らす。


「私も」


「見えないのに?」


「声と、音で分かる」


「音?」


「本めくる音とか。圭くんに返事してる声とか」


「圭の声の方が大きい」


「それはそう」


 圭が顔を上げる。


「俺、二人をつなぐ音?」


「うるさい音」


 春樹が言う。


「ひどい!」


 教室に笑いが広がった。


   ◇


 帰り道。


 なつきは亜衣と茜の間を歩きながら、今日一日を思い返していた。


 新しい席。


 振り返った朝。


 春樹から呼ばれた休み時間。


 数学のノート。


 春樹が代わりに揺らした黒猫。


 美優と祐衣の嫉妬。


 それでも続いた会話。


 今までなら。


 席が離れることを、ただ寂しい出来事として受け取っていたかもしれない。


 でも実際には。


 離れたから生まれた言葉があった。


 春樹から呼ぶ。


 見えなくても、いると分かる。


 黒猫へ手が届かない時は、春樹が揺らす。


 形が変わることで、関係まで変わるとは限らない。


 むしろ。


 今までにはなかった動きが生まれることもある。


「なつき」


 亜衣が呼ぶ。


「何?」


「今日、嬉しかったこと一番は?」


「一番?」


「うん」


 なつきは考える。


 朝、二分遅いことに春樹が気づいた。


 国語の答えを褒めてもらった。


 何度も呼ばれた。


 黒猫を揺らしてもらった。


 美優が、今の春樹は自分だけのものではないと言った。


 どれも大きい。


「決められない」


「じゃあ全部」


「うん。全部」


 茜が微笑む。


「良い一日だったのね」


「うん」


「席替え、怖がってたのに」


「怖かった」


「でも?」


「変わるのも、悪いことばかりじゃなかった」


 なつきは鞄の黒猫へ触れる。


 春樹の指が触れたことを思い出す。


 少しだけ頬が熱くなる。


「明日も振り返る?」


 亜衣が聞く。


「うん」


「何回?」


「数えないで」


 三人の笑い声が、秋の夕方へ溶けていく。


 君の隣を目指している。


 でも。


 すぐ横にいることだけが、隣ではない。


 背中越しに気配を感じる。


 呼ばれて振り返る。


 見えなくても、そこにいると分かる。


 互いに見つけようとする。


 それもきっと。


 隣へ近づいている途中なのだ。


 なつきは、明日の朝の教室を思い浮かべた。


 鞄を掛ける。


 黒猫が揺れる。


 後ろから声がする。


 今日もいる。


 見つけた。


 その言葉を待つことが。


 もう、なつきの日常になり始めていた。

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