第127話 席が変わるだけなのに、遠くなる気がした
春樹の言葉が、朝の教室に残り続けていた。
――横田さんといると、落ち着く。
たったそれだけの言葉だった。
好きだと言われたわけではない。
特別だと、はっきり告げられたわけでもない。
恋だと決まったわけでもない。
それでも、なつきにとっては、朝から胸の中へ置かれた小さな宝物のようだった。
一時間目が始まっても。
先生が黒板へ新しい仕訳を書き始めても。
教科書のページをめくっても。
ふとした瞬間に、春樹の声が戻ってくる。
横田さんといると、落ち着く。
教室でも。
図書室でも。
話していなくても。
横田さんだから。
最後の一言まで思い出した瞬間、なつきは慌てて黒板へ視線を戻した。
頬が熱い。
耳まで熱くなっている気がする。
隣の亜衣が、ノートを取りながら横目でこちらを見た。
何も言わない。
けれど、口元が少しだけ笑っている。
なつきは小さく首を横へ振った。
今は授業中。
何も言わないで。
亜衣は肩をわずかに揺らしながら、黒板へ視線を戻した。
「横田さん」
先生の声が飛んできた。
「はいっ」
なつきは思ったより大きな声で返事をした。
教室の何人かが顔を上げる。
圭が後ろで小さく吹き出した。
先生は黒板の仕訳を指す。
「この取引の場合、手数料はどちらへ入りますか?」
手数料。
考査前に何度も解いた問題。
春樹に教えてもらった矢印。
なつきは一度深呼吸した。
「借方です」
「理由は?」
「費用が増えるからです」
「はい、正解です」
先生は何事もなかったように黒板へ続きを書き始めた。
なつきは、そっと息を吐く。
合っていた。
考査前なら、急に当てられただけで頭が真っ白になっていたかもしれない。
今日は、春樹の言葉で頭がいっぱいだったのに、ちゃんと答えられた。
少しだけ嬉しくなる。
視界の端で、春樹が振り返った。
ほんの一瞬。
目が合う。
春樹は小さく頷いた。
できていた。
そう言われた気がした。
なつきも、ほんの少しだけ頷き返す。
その短いやり取りだけで、胸がまた温かくなる。
「横田さん、今日強いな」
圭が小声で言った。
田辺が後ろから圭の椅子を軽く蹴る。
「授業中」
「小声」
「聞こえてる」
島中もノートを取りながら肩を揺らしていた。
教室の空気は、考査前の張り詰めたものから、すっかり日常へ戻っていた。
けれど、なつきにとっては、何もかもが昨日までと同じには見えなかった。
春樹の背中。
机の距離。
休み時間に声をかけられる近さ。
黒猫を見つけてもらえる位置。
それらが全部、少しだけ大切に思えた。
◇
一時間目が終わると、亜衣がすぐになつきの机へ身を寄せた。
「落ち着く人」
「言わないで」
「まだ一回しか言ってない」
「一回でも恥ずかしい」
「横田さんだから」
「亜衣ちゃん」
なつきは両手で頬を押さえた。
熱い。
茜も後ろの席から振り返る。
「でも、本当に大きな一歩だと思うわ」
「うん」
なつきは小さく答えた。
「嬉しい」
「うん」
「すごく嬉しい。でも」
「でも?」
「嬉しすぎて、どうしていいか分からない」
亜衣が笑う。
「黒猫揺らしておけば?」
「さっきから何回も揺らしてる」
「春樹くん、全部気づいてそう」
なつきは机の横を見る。
黒猫は、鞄の金具に付けられたまま静かに揺れていた。
自分が何度も触れたせいで、まだわずかに動いている。
「気づいてるかな」
「気づいてるでしょ」
茜が穏やかに言う。
「春樹くんは、なつきのことをよく見ているもの」
その言葉だけで、また胸が鳴る。
「でも」
なつきは少し声を落とした。
「まだ、好きって決まったわけじゃないよ」
「うん」
茜はすぐに頷いた。
「そこを急いで決めつけない方がいいわ」
「そうだね」
亜衣も、珍しくからかわずに続ける。
「落ち着くって、すごく大事だけど、それだけで全部決めるのは違うと思う」
「うん」
「でも、なつきが春樹くんにとって他の人と同じじゃないのは、かなり確か」
なつきは黒猫を見た。
「それだけで、今は十分」
言葉にすると、本当にそう思えた。
春樹が自分の気持ちを探している。
その途中で見つけたものを、ちゃんと渡してくれた。
今は、それを大切にしたい。
◇
二時間目と三時間目の間。
担任が、予定にはなかったのに教室へ入ってきた。
手には大きな紙筒。
もう一方の手には、小さな箱のようなものを持っている。
教室にいた生徒達が、少しずつ担任を見る。
「何ですか、それ」
圭が最初に聞いた。
担任は教卓へ紙筒を置いた。
「少し早いですが、ホームルームで使うものです」
「今日ホームルームあった?」
島中が時間割を見る。
「六時間目のあとだろ」
田辺が答える。
「先生、今来る必要あります?」
「準備です」
担任は紙筒を広げた。
大きな座席表。
教室中の空気が、わずかに変わった。
圭が立ち上がりかける。
「席替え!?」
その一言で、教室全体がざわついた。
「マジ?」
「いつ?」
「今日?」
「聞いてない!」
「今の席気に入ってるのに!」
あちこちから声が上がる。
なつきは、一瞬だけ動けなかった。
席替え。
担任は教卓の上へ、くじ引き用らしい小さな箱を置いた。
「今日の帰りのホームルームで席替えをします」
さらにざわめきが大きくなる。
女子達が顔を寄せ合い。
男子達が黒板側や窓側の席を指差し。
圭はすでにどの位置がいいかを語り始めている。
「俺、後ろがいい」
田辺が言う。
「絶対授業中寝るだろ」
「寝ない」
「お前、前回後ろで一回寝てた」
「一回だけ」
「一回でも寝てるじゃん」
島中が笑う。
亜衣がなつきの腕へ触れた。
「なつき」
「うん」
「大丈夫?」
なつきは、すぐに答えられなかった。
自分の今の席。
春樹は斜め前。
声をかけやすい。
振り返れば目が合う。
黒猫も見つけてもらいやすい。
授業中に困れば、春樹が気づくこともある。
休み時間になれば、自然に近くへ来てくれる。
その距離が変わる。
教室の反対側になるかもしれない。
春樹が見えない場所になるかもしれない。
近くに誰か別の女子が座るかもしれない。
祐衣は別のクラスだから同じ席替えには関係ない。
美優も特進科。
けれど、二年十一組の女子は他にもいる。
亜衣。
茜。
そして、同じクラスの誰か。
春樹の隣に、なつきではない女子が座る可能性。
自分が近いわけでもないのに、そう考えるだけで胸が少し痛くなった。
「席替え」
なつきは小さく言った。
「嫌?」
亜衣が聞く。
「嫌っていうか……」
なつきは春樹の背中を見る。
春樹も、担任が広げた座席表を見ていた。
表情はいつも通り。
席替えに大きな関心はなさそうに見える。
「今の場所、好きだった」
「春樹くんが見えるから?」
「うん」
隠さずに答えた。
亜衣の表情が少しだけやわらかくなる。
「離れたら寂しいね」
「うん」
茜も少し考えながら言う。
「でも、まだ離れると決まったわけではないわ」
「うん」
「近くなる可能性もある」
なつきの胸が、少しだけ跳ねる。
「隣とか?」
亜衣がわざと小声で言った。
「それは……」
一瞬、想像する。
春樹の隣。
毎朝、すぐ近くで挨拶できる。
授業中、同じ教科書の話ができる。
休み時間、振り返る必要もない。
黒猫を見つける前に、なつき自身が見える。
想像しただけで、心臓が速くなった。
「無理」
「何が?」
「隣になったら、授業に集中できない」
亜衣が吹き出す。
「離れるのも嫌で、隣も無理?」
「ちょうどいい近さがいい」
「注文が細かい」
なつきも少しだけ笑った。
でも、胸の奥の不安は消えなかった。
◇
担任は、ざわつく教室を見渡した。
「まだ授業中ではありませんが、静かにしてください」
少しずつ声が収まる。
「今回の席替えは、完全なくじ引きです」
教室の数人が歓声を上げ。
別の数人が不安そうな声を漏らした。
「先生、前の席だけは嫌です」
圭が言う。
「なぜですか?」
「先生と目が合う」
「授業ですから、目を合わせてください」
笑いが起きる。
「視力や身長の事情がある人は、事前に申し出てください。その場合だけ調整します」
担任は説明を続けた。
「それ以外は、くじの番号通りです。友人同士で交換は認めません」
「運命」
圭が呟く。
紅秋が言う。
「大げさだ」
「席は一か月以上使うんだぞ」
「それでも運命ではない」
「でも、隣が誰か大事」
島中も頷く。
「それは分かる」
田辺が春樹の方を見る。
「大國はどこでもいいだろ」
春樹は少し考えた。
「黒板見えれば」
「ほら」
「でも」
春樹が言葉を止めた。
なつきは反射的に春樹を見る。
田辺も聞く。
「でも?」
「今の席、慣れた」
それだけだった。
でも、なつきの胸が少しだけ温かくなる。
今の席。
なつきが斜め後ろにいる席。
春樹は、その場所に慣れたと言った。
自分のことを含めているとは限らない。
黒板の見え方。
窓からの光。
紅秋や圭との距離。
いろいろある。
それでも、なつきは少し嬉しかった。
亜衣が隣で小さく囁く。
「今の席、落ち着くのかな」
「亜衣ちゃん」
「言ってないよ。可能性」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
◇
担任が準備を終えて教室を出ると、席替えの話題で教室は一気に満たされた。
「どこがいい?」
「窓側」
「一番後ろ」
「前だけは嫌」
「廊下側寒いよね」
「冬は窓側も寒い」
それぞれの希望が飛び交う。
圭は、教室の後方へ行き、座席表を見ながら理想の場所を指していた。
「ここ」
「一番後ろの窓側?」
田辺が聞く。
「最高」
「先生から見えるぞ」
「後ろでも?」
「圭は目立つから」
「なんで」
島中が笑う。
「声」
「それはある」
紅秋は自分の席で、すでに次の授業の教科書を出していた。
「紅秋はどこがいい?」
圭が聞く。
「どこでもいい」
「春樹と同じ」
「黒板が見えればいい」
「本当に同じ」
圭が二人を交互に見る。
「隣になれば?」
「別に構わない」
紅秋が答える。
春樹も頷く。
「うん」
「じゃあ俺も近く」
「くじだ」
「願うのは自由」
少し離れた場所で、女子達も盛り上がっていた。
「横田さん、どこがいい?」
同じクラスの女子に聞かれ、なつきは少し迷う。
「真ん中くらい」
「窓側じゃなくて?」
「窓側も好きだけど、黒板見えにくい時あるから」
「横田さん、最近真面目」
「前から真面目だよ」
亜衣がすぐに言った。
「最近さらに」
なつきは少し照れながら笑った。
春樹の隣。
そんな本音は、さすがに言えない。
「亜衣ちゃんは?」
「なつきの近く」
「くじだよ」
「願うのは自由」
圭と同じことを言い、二人で笑う。
茜は前方でも構わないらしい。
「黒板が見やすい方がいいわ」
「茜ちゃんは先生の近くでも平気だよね」
「授業中は先生を見るでしょう?」
「正論」
◇
次の授業が始まっても、教室の空気は少し浮ついていた。
先生が黒板へ文字を書くたび、生徒達は現在の席を見回す。
この景色も、今日までかもしれない。
隣の人。
前の人。
後ろの人。
これまで自然に聞こえていたペンの音や、椅子の動く音。
席が変われば、すべて少しずつ変わる。
なつきも、授業へ集中しようとしながら、何度も春樹の背中を見た。
この角度から見る春樹。
少し振り向けば目が合う位置。
先生に当てられた時、春樹が小さく頷いてくれる距離。
それが今日で終わるかもしれない。
そう思うと、今まで当たり前だったものが急に大切に見えた。
春樹がシャープペンを持ち替える。
教科書のページをめくる。
少しだけ首を傾げる。
なつきは、そんな小さな動きまで目で追っていた。
春樹が、不意に振り返る。
目が合った。
なつきは慌ててノートへ視線を落とした。
けれど、数秒後。
机の上へ小さく折られた紙が置かれた。
前から後ろへ回されたようだ。
なつきは周囲を見てから、そっと開いた。
『席替え、嫌?』
春樹の字。
短い言葉。
なつきの胸が鳴る。
授業中に紙を回すこと自体、春樹には珍しい。
なつきは、先生に気づかれないようノートの端へ返事を書く。
『少し。今の席が好きだから』
少し迷う。
それだけでは、春樹に伝わらない気がした。
もう一行、足した。
『春樹くんが見えるし』
書いたあと、顔が熱くなった。
消そうか迷う。
でも、春樹は分かったことを言ってくれた。
自分も、分かったことは言うと約束した。
なつきは紙を折り、前へ回した。
春樹の手へ渡る。
春樹は机の下で紙を開いた。
しばらく動かない。
なつきは、その背中を見つめる。
返事が来るのか。
来ないのか。
胸が速くなる。
少しして、紙が戻ってきた。
『俺も、横田さんが見える』
なつきは、文字を見たまま固まった。
意味は単純。
今の席なら、春樹からもなつきが見える。
それだけ。
でも。
春樹は、見えていることを意識していた。
なつきの黒猫。
表情。
ノートを取る手。
授業中に止まった時。
それらを、今の席から見つけていた。
なつきは黒猫へ触れようとして、授業中であることを思い出す。
代わりに、紙をそっと握った。
嬉しい。
でも、それを春樹に見られたら、また分かってしまう。
春樹が振り返る。
なつきは紙を胸元へ隠すように持った。
春樹は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
見つかった。
そう思った。
◇
昼休み。
美優、蓮、祐衣が二年十一組へやってきた時、教室は席替えの話題でいっぱいだった。
「席替えするの?」
美優がすぐに聞いた。
「今日の帰り」
圭が答える。
「完全なくじ」
「楽しそう」
「美優のクラスは?」
「来週かな」
蓮が言う。
「特進科も、そろそろ席替えの話が出てたね」
「祐衣はどこがいい?」
美優が聞く。
祐衣は少し考える。
「窓側です」
「本読むから?」
「授業中は読みません」
「景色?」
「光が好きなので」
「祐衣らしい」
なつきは三人の会話を聞きながら、春樹から届いた紙を筆箱の中へそっとしまった。
捨てられなかった。
たった二行。
でも、自分にとっては大切な言葉だった。
亜衣が、その動きを見逃さない。
「何しまったの?」
「何でもない」
「春樹くんから?」
「何でもない」
「二回言った」
なつきは顔を赤くする。
美優が気づく。
「何?」
「授業中、春樹くんとなつきが紙を回してた」
亜衣が言った。
「亜衣ちゃん!」
美優の目が、少しだけ大きくなる。
祐衣も一瞬だけなつきを見る。
昨日の約束。
嫉妬することはある。
嫌になる時もある。
でも、勝手に友達をやめない。
なつきは、逃げずに二人を見る。
「席替え、嫌かって聞かれた」
「春樹から?」
美優が聞く。
「うん」
「それだけ?」
胸が少し緊張する。
祐衣も、静かに待っている。
なつきは正直に言った。
「今の席なら、春樹くんが見えるって書いた」
美優の表情が少しだけ固くなる。
祐衣の指先も、弁当箱の端で止まった。
「春樹は?」
美優が聞く。
「春樹くんからも、私が見えるって」
短い沈黙。
教室の中は騒がしい。
圭や田辺達が、理想の席について話している。
別の女子達が、くじの番号を予想して笑っている。
でも、三人の間だけ、少し静かになった。
「嫉妬した」
美優が言った。
なつきは頷く。
「うん」
「結構」
「うん」
祐衣も、少しだけ苦笑する。
「私もです」
「うん」
なつきは黒猫へ触れた。
少し緊張する。
「でも、言ってくれてよかった」
なつきが答える。
「昨日の約束」
「うん」
美優は少しだけ息を吐く。
「春樹、そういう紙回すんだ」
「私も驚いた」
「昔は?」
なつきが聞く。
「ない」
美優はすぐに答えた。
「授業中に手紙とか、絶対しなかった」
その言葉に、なつきの胸が少しだけ跳ねる。
自分と春樹の間にできた、新しいもの。
美優も知らない春樹。
嬉しい。
でも、美優が寂しくなる理由も分かる。
「美優さん」
「何?」
「嬉しいって思ってもいい?」
美優が少し驚く。
「私が嫉妬してても?」
「うん。でも、隠したくない」
美優は、しばらくなつきを見た。
それから、小さく笑った。
「いいよ」
「ありがとう」
「でも、ちょっと悔しい」
「うん」
「それも言う」
「うん」
祐衣も穏やかに言う。
「私も、少し寂しいです」
「うん」
「でも」
祐衣はなつきの筆箱を見る。
「その紙は、大切にしてください」
「いいの?」
「私が捨ててほしいと言っても、横田さんは捨てたくないでしょう?」
「うん」
「それなら、大切にした方がいいです」
なつきの胸が温かくなる。
「ありがとう」
美優が祐衣を見る。
「祐衣、大人」
「美優さんも、捨ててほしいとは言わなかったでしょう?」
「言いたい気持ちは少しある」
「正直」
「約束したから」
三人で、少しだけ笑った。
嫉妬は消えない。
でも、言葉にすれば。
相手を傷つけるためではなく、自分の気持ちを知らせるために使えば。
同じ場所にいられる。
◇
「それより」
美優が話題を変える。
「席替えで春樹の隣、誰になるんだろう」
なつきの胸が、一気にざわつく。
「言わないで」
「気になるでしょ?」
「気になる」
祐衣も少しだけ考える。
「隣の方が、話す機会は増えますね」
「祐衣さんまで」
美優がなつきを見る。
「なつきが隣になったら?」
「無理」
「どうして?」
「緊張して授業できない」
美優が吹き出す。
「近づきたいのに?」
「近すぎる」
「難しいね」
「美優さんなら平気?」
「春樹の隣?」
「うん」
「昔から近いから平気」
少し胸が痛む。
なつきはすぐに言う。
「今、嫉妬した」
美優が目を丸くしたあと、笑った。
「言うの早い」
「言うことにしたから」
「そっか」
祐衣も静かに笑う。
「良いと思います」
なつきは続ける。
「祐衣さんが春樹くんの隣でも、たぶん嫉妬する」
「同じクラスではありません」
「もしもの話」
「私も、横田さんが大國くんの隣なら嫉妬します」
「うん」
「でも、本の感想は聞きます」
「うん」
美優が二人を見比べる。
「本当に変な友達」
「昨日も言った」
「今日も思った」
◇
春樹は、少し離れた席で蓮と紅秋、圭達と昼食を食べていた。
なつき達の会話までは聞こえていないらしい。
けれど、時々こちらを見る。
美優が春樹の視線へ気づいた。
「春樹、見てる」
なつきは反射的に春樹を見る。
目が合う。
春樹は少しだけ首を傾げた。
何かあった?
そんな顔。
なつきは、小さく首を横へ振った。
大丈夫。
春樹は頷き、また昼食へ戻る。
美優が、そのやり取りを見て小さく息を吐いた。
「嫉妬した」
「うん」
「今のは、かなり」
「ごめん」
「謝らなくていい」
美優はすぐに言った。
「私が勝手に嫉妬しただけ」
「でも」
「約束したでしょ。嫉妬しても友達やめない」
祐衣も頷く。
「私も、今のやり取りは少し羨ましかったです」
なつきは二人を見た。
「言ってくれてありがとう」
美優が少し苦笑する。
「毎回これやるの?」
「慣れるまで?」
「慣れるかな」
「分からない」
三人で、また少し笑った。
◇
午後の授業。
席替えまで、あと数時間。
なつきは、今の席から見えるものを何度も確かめた。
黒板。
窓。
亜衣の横顔。
茜の後ろ姿。
春樹の背中。
紅秋。
圭。
田辺。
島中。
この並びで過ごした日々。
体育祭の準備。
中間考査前の緊張。
朝の「今日もいる」。
授業中に春樹が振り返る瞬間。
それが、今日で終わる。
もちろん、席が変わっても同じクラス。
休み時間には話せる。
図書室にも行ける。
帰り道も。
本の感想も。
何も終わるわけではない。
それでも、日常の形が変わることは少し怖かった。
なつきは、授業中に何度も筆箱へ触れた。
中には、春樹からの小さな紙。
『俺も、横田さんが見える』
それがあるだけで、少し落ち着いた。
◇
六時間目が終わる。
帰りのホームルーム。
担任が、朝準備していた座席表とくじ箱を持って教室へ入ってきた。
教室の空気が一気に変わる。
「来た!」
圭が言う。
「声」
紅秋がすぐに返す。
担任は教卓へくじ箱を置いた。
「説明した通り、完全なくじ引きです」
生徒達が椅子へ座り直す。
期待。
不安。
教室全体が、どこか落ち着かない。
「番号を引いたら、座席表の同じ番号へ移動してください。机ごと移動します」
担任は座席表を黒板へ貼った。
縦六列。
横に並ぶ机。
番号が振られている。
一番前。
一番後ろ。
窓側。
廊下側。
「男女で分けるんですか?」
女子の一人が聞く。
「今回は分けません」
教室がさらにざわつく。
圭が小声で言う。
「本当の運命」
紅秋がため息を吐く。
「まだ言うか」
「男女混合くじだぞ」
「教室の席だ」
「でも隣が」
「圭」
「はい」
なつきの心臓も速くなった。
男女混合。
春樹の隣になる可能性。
春樹の隣に誰か別の女子がなる可能性。
どちらも怖い。
「出席番号順に引きます」
担任が言った。
教室の前方から、一人ずつ呼ばれていく。
くじ箱へ手を入れる。
紙を引く。
番号を見る。
反応する。
「前だ!」
「窓側!」
「後ろ!」
歓声と落胆が交互に起きる。
引いた生徒は、座席表を確認してから自分の席へ戻る。
全員が引き終わってから、一斉に移動する方式らしい。
なつきの順番は、まだ少し先。
亜衣が先に呼ばれた。
「伊藤さん」
「はい」
亜衣はくじ箱へ手を入れる。
一枚引く。
開く。
「二十三」
座席表を確認する。
教室中央より少し後ろ。
「悪くない」
亜衣がなつきの近くへ戻ってくる。
「どこ?」
「中央の後ろから二列目」
「いいね」
「なつきの近くだといいな」
「うん」
茜も呼ばれた。
番号は八。
前方の廊下側。
「茜ちゃん、前」
亜衣が言う。
「黒板は見やすいわ」
茜は平然としている。
「先生に近いよ」
「授業ですから」
「やっぱり平気」
春樹の名前が呼ばれた。
なつきの心臓が、一度大きく鳴る。
春樹は静かに前へ出る。
くじ箱へ手を入れる。
一枚引く。
紙を開く。
「三十一」
教室の後方。
窓側から二列目。
かなり後ろ。
圭が反応する。
「いい場所!」
春樹は座席表を見て、静かに戻ってくる。
なつきは、その番号を頭の中で何度も繰り返した。
三十一。
後ろ。
窓側から二列目。
隣は三十と三十二。
誰が引くのか。
「横田さん」
自分の名前が呼ばれた。
なつきは立ち上がった。
足が少し頼りない。
くじ箱の前へ行く。
中には、折られた紙がいくつも残っている。
どれを選んでも同じ。
それでも、指が迷う。
春樹の隣。
三十か三十二。
願っていいのか。
隣になれば嬉しい。
でも、緊張する。
離れれば寂しい。
なつきは、右側にあった紙を一枚掴んだ。
取り出す。
開く。
二十六。
一瞬、数字が頭へ入らなかった。
座席表を見る。
二十六。
中央より少し後ろ。
窓側から三列目。
春樹の三十一とは。
同じ後方ではある。
けれど、一列前。
そして、斜め。
完全に隣ではない。
遠すぎもしない。
今より少し位置が変わる。
なつきは、静かに息を吐いた。
「横田さん、二十六番ですね」
担任に言われ、頷く。
「はい」
席へ戻る。
亜衣が座席表を見る。
「近い」
「うん」
「春樹くんの斜め前くらい?」
「たぶん」
なつきは、もう一度位置を確認した。
春樹はなつきの斜め後ろ。
今までは春樹が斜め前。
今度は逆。
なつきから春樹は見えにくい。
でも、春樹からはなつきが見える。
そのことに気づき、胸が少し動く。
「今度は春樹くんが見る側」
亜衣が小声で言った。
「亜衣ちゃん」
「違う?」
「……違わないかも」
なつきは少しだけ黒猫を揺らした。
◇
残りの生徒達も、次々に番号を引いていく。
圭は三十二番。
春樹の隣。
「やった!」
圭が声を上げる。
「春樹の隣!」
春樹は少しだけ目を瞬かせる。
紅秋は十九番。
教室中央。
田辺は後方の廊下側。
島中は前方寄り。
亜衣は、なつきから二席ほど離れた位置。
茜は前方。
最後までくじが引かれ。
春樹のもう片方の隣は、同じクラスの男子になった。
なつきは、少しだけほっとした。
そのことに気づき、少し恥ずかしくなる。
誰か別の女子ではなかった。
安心した。
美優や祐衣へ、嫉妬は隠さないと言った。
今の自分も、かなり嫉妬していたのだと思う。
「では、移動してください」
担任の声。
教室中で、一斉に机が動き始める。
床を擦る音。
椅子がぶつかる音。
鞄を持つ生徒達。
「そこ違う!」
「俺の机どれ?」
「先に椅子動かして!」
「狭い!」
教室が一気に騒がしくなる。
なつきも机の中身を鞄へ移し。
机と椅子を持って、新しい場所へ向かう。
途中。
春樹と机が近くなる。
「横田さん」
「うん?」
「近い」
春樹が言った。
なつきは少し笑った。
「うん。でも、今度は私から春樹くん見えにくい」
「俺からは見える」
胸が鳴る。
昼間の紙。
『俺も、横田さんが見える』
その言葉が戻ってくる。
「黒猫も?」
「たぶん」
「そっか」
「横田さんは、振り返れば見える」
「授業中は振り返れないよ」
「休み時間」
「うん」
圭が、春樹の隣へ机を運びながら言う。
「俺が間に入らないから安心して」
「何の話?」
「何でもない」
圭は楽しそうに笑った。
◇
机の移動が終わる。
新しい席。
なつきは椅子へ座り、周囲を見渡した。
今までとは違う景色。
黒板は少し遠い。
窓は近い。
亜衣は斜め前。
茜はかなり前。
春樹は、なつきの斜め後ろ。
振り返らなければ見えない。
でも。
背中へ春樹の視線があるかもしれない。
そう思うだけで、落ち着かない。
「横田さん」
後ろから、小さな声。
なつきが振り返る。
春樹がいた。
近い。
思っていたより距離が近い。
斜め後ろだから、少し体を向けるだけで顔が見える。
「何?」
「見える」
春樹の視線が黒猫へ落ちる。
鞄は机の横。
黒猫も、春樹から見える位置。
「本当?」
「うん」
「私からは、振り返らないと見えない」
「うん」
「ちょっと寂しい」
正直に言う。
春樹は少し考えた。
「俺が呼ぶ」
なつきは目を瞬かせる。
「何を?」
「休み時間」
「春樹くんから?」
「うん」
胸が温かくなる。
「じゃあ、待ってる」
「うん」
圭が春樹の隣で、机へ突っ伏した。
「始まる前からもう強い」
「圭くん」
なつきが言う。
「授業中、春樹くんの邪魔しないでね」
「俺が言われる側!?」
田辺が後方から笑う。
「横田、完全に大國の管理側になってる」
「違うよ」
「でも圭は邪魔しそう」
島中が前方から振り返って言う。
「みんなひどい」
教室に笑いが広がる。
担任が教卓を軽く叩いた。
「席替えは終わりましたね。少し静かにしてください」
笑い声が収まっていく。
「新しい席は、次の席替えまで使用します。授業に集中してください」
圭が小声で言う。
「次まで長い」
春樹が返す。
「一か月くらい」
「長い」
「でも、慣れる」
なつきは、その言葉を聞いた。
今の席にも。
この距離にも。
少しずつ慣れる。
春樹が斜め後ろにいる日常。
見えなくても、いると分かる距離。
それも、いつか自然になるのだろうか。
◇
帰りのホームルームが終わる。
新しい席になった教室は、まだ少し落ち着かなかった。
いつもの場所へ鞄を取りに行きそうになる生徒。
前の席へ戻りかける生徒。
圭は春樹の隣になったことを何度も喜んでいる。
「明日からよろしく」
「うん」
「授業中、分からなかったら聞く」
「先生に聞く」
「休み時間」
「ならいい」
「本も貸す」
「読み終わってから」
「分かった」
なつきは鞄を持ち上げた。
新しい位置から、黒猫が揺れる。
春樹がすぐに見る。
「嬉しい?」
「うん」
「席、近かったから?」
「それも」
「他は?」
「春樹くんから、休み時間に呼ぶって言ってくれたから」
春樹は頷く。
「うん」
「忘れないでね」
「忘れない」
「本当?」
「大事だから」
なつきの胸が、大きく鳴った。
春樹は、以前言った。
大事なことは覚えている。
なつきが必要だと言ったこと。
言ってほしいと頼んだこと。
「……嬉しい」
「うん」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
◇
教室を出ると、廊下には放課後の空気が流れていた。
部活動へ急ぐ生徒。
帰宅する生徒。
新しい席の話を続ける生徒達。
なつきは亜衣と茜の隣を歩いた。
少し後ろには春樹、紅秋、圭。
「結局、ちょうどいい距離だったね」
亜衣が言う。
「うん」
「隣ではない」
「うん」
「遠すぎない」
「うん」
「春樹くんからは、なつきが見える」
「うん」
亜衣が笑う。
「全部うん」
「だって、本当にそうだから」
「どう? 満足?」
なつきは少し考えた。
「まだ分からない」
「見えにくいから?」
「うん。でも」
後ろを少しだけ見る。
春樹は圭の話を聞いている。
なつきの視線に気づいたのか、すぐにこちらを見る。
目が合う。
春樹が少しだけ首を傾げる。
なつきは、小さく笑って前へ戻る。
「振り返れば見える」
茜が穏やかに言う。
「前より、自分から見つける必要がある席ね」
「うん」
「作品の題名みたい」
亜衣が言う。
「君の隣を目指して?」
「そう。今までは見える場所にいた。これからは、少し振り返る」
なつきは、教室の新しい席を思い浮かべる。
見えない。
でも、遠くない。
春樹からは見える。
自分は振り返れば見つけられる。
「悪くないかも」
なつきは言った。
「うん」
◇
昇降口。
靴を履き替えたところで、春樹がなつきへ声をかけた。
「横田さん」
「うん?」
「席」
「どう?」
「落ち着くか、まだ分からない」
「私も」
「でも、近い」
「うん」
「見える」
「うん」
春樹は黒猫を見る。
「明日も見つける」
なつきの胸が温かくなる。
「私も、振り返って見つける」
「うん」
「授業中は、あまり振り返れないけど」
「休み時間」
「うん。呼んでね」
「分かった」
少しだけ沈黙。
なつきは、筆箱の中の紙を思い出した。
今の席が好き。
春樹くんが見えるから。
俺も、横田さんが見える。
明日からは、少し形が変わる。
でも。
見えなくなるわけではない。
「春樹くん」
「何?」
「席が離れたら、距離も遠くなるかと思った」
「遠い?」
「ううん」
なつきは首を横に振った。
「思ったより近かった」
「うん」
「それに」
少し勇気を出す。
「春樹くんが、見つけるって言ってくれたから」
春樹は頷く。
「席が変わっても、見つける」
なつきは黒猫を揺らした。
「嬉しい」
「分かる」
「うん」
◇
帰り道。
秋の空は、雲の間から薄い夕焼けを覗かせていた。
街路樹の葉が、少しずつ色を変え始めている。
風が吹くたび、乾いた葉の音がする。
席替え。
ただ、教室の中の机が動いただけ。
数歩。
ほんの少し。
それなのに、なつきにとっては大きな出来事だった。
今までの距離が変わる。
見えていたものが、見えにくくなる。
近くなる人。
離れる人。
日常は、ずっと同じ形では続かない。
それでも。
席が変わったからといって、積み重ねた時間が消えるわけではない。
春樹は、自分から休み時間に呼ぶと言った。
席が変わっても、見つけると言った。
なつきも、振り返れば春樹を見つけられる。
君の隣は。
必ずしも、すぐ横の席だけではない。
同じ時間を過ごし。
互いの言葉を待ち。
見えない時にも、そこにいると信じられる距離。
それも、隣へ近づく一つの形なのかもしれない。
「なつき」
亜衣が隣から呼ぶ。
「何?」
「明日、最初に何回振り返るか数えようかな」
「やめて」
「春樹くんが何回呼ぶかも」
「亜衣ちゃん」
茜が笑う。
「授業の妨げにならない範囲にしなさい」
「茜ちゃん、止めるところそこ?」
三人の笑い声が、夕方の道へ広がる。
なつきは鞄の横の黒猫へ触れた。
小さく揺らす。
新しい席。
新しい景色。
少しだけ変わる日常。
明日の朝。
教室へ入った時。
春樹は、後ろの席から黒猫を見つけるだろう。
なつきも、自分の席へ座ってから振り返る。
そして。
今日もいる。
見つけた。
そう言い合える。
その瞬間を思い浮かべると、胸が静かに温かくなった。
君の隣を目指す道は、時々、少しだけ遠回りをする。
でも。
見失わなければ。
互いに見つけようとすれば。
席が変わっても、距離はきっと遠くならない。
なつきはそう信じながら、秋の帰り道をゆっくり歩いていった。




