第126話 君のことを聞かれて、初めて探した言葉
翌日の放課後。
最後の授業を終える鐘が鳴ったあとも、二年十一組の教室には、しばらく授業の余韻が残っていた。
黒板には、商業科目の先生が最後に書いた計算式が消されずに残っている。
窓の外には、薄い雲を透かした秋の光。
校庭へ向かう運動部の生徒達の声が、廊下を通って少しずつ遠ざかっていく。
椅子を引く音。
教科書を鞄へ入れる音。
部活動の予定を確認する声。
帰りにどこへ寄るか相談する声。
授業中の静けさが、放課後のざわめきへほどけていく。
なつきは、机の上に広げていたノートを閉じた。
昨日。
美優、祐衣と三人で話した。
春樹への気持ち。
嫉妬。
寂しさ。
それでも友達でいたいということ。
家に帰ってからも、何度も思い返した。
話してよかった。
その気持ちは変わらなかった。
けれど、話せばすべてが軽くなるわけではない。
美優が知っている春樹の過去。
祐衣が好きだと言った、春樹の言葉の少なさ。
それらを思い出すたび、胸は小さく揺れた。
自分にはないもの。
自分がこれから知っていくもの。
比べなくていいと思う。
それでも比べてしまう。
そんな矛盾を抱えたまま、朝から一日を過ごしていた。
「なつき」
亜衣が声をかける。
「帰る準備できた?」
「うん。もう少し」
なつきは筆箱を鞄へ入れた。
机の横に掛けた鞄が揺れ、黒猫のキーホルダーも小さく動く。
今日は朝から何度も黒猫へ触れていた。
緊張して握るほどではない。
嬉しくて揺らすほどでもない。
指先で確かめるように、そっと撫でる。
自分の気持ちがどこにあるのか、確認するような触り方だった。
「今日は図書室、行く?」
亜衣が聞いた。
「行こうかなって思ってたけど」
なつきは教室の前方を見る。
春樹は自分の席で鞄を閉じていた。
隣には紅秋。
圭が、いつものように何かを話しかけている。
少し離れた場所で田辺と島中が聞いていた。
「春樹くん、今日は紅秋くん達と帰るみたい」
「男子だけ?」
「うん。圭くんが本の途中まで読んだから、帰りに話したいって」
昼休み。
圭は祐衣から借りた本を七十ページ近くまで読み進めたと報告していた。
部活動を題材にした青春小説。
試合に負けたチームが、対立しながらも少しずつ立て直していく物語。
圭はすでに何度も、
『キャプテンが不器用すぎる』
『一年生の気持ちも分かる』
『紅組魂に近い』
と語っていた。
最後の一つは、田辺達に否定されていたけれど。
「男子だけの時間も必要だね」
亜衣が言った。
「うん」
なつきは頷く。
それは分かっている。
春樹が誰と過ごすかを、自分が全部気にする必要はない。
紅秋。
圭。
蓮。
田辺。
島中。
春樹には春樹の友達がいる。
「でも、ちょっと気になる?」
亜衣が小声で続けた。
なつきは少し考え、それから正直に答える。
「うん」
「何を話すか?」
「うん」
昨日は女子三人で春樹の話をした。
春樹がいない場所で。
それぞれがどこを好きなのか。
どんな距離で春樹を見ているのか。
今日は、男子達が何を話すのだろう。
自分のことが出るかもしれない。
美優や祐衣のことが出るかもしれない。
春樹自身の気持ちについて、紅秋や圭が聞くかもしれない。
そう考えると、胸が少し落ち着かなくなる。
「聞きたい?」
「……少し」
「でも盗み聞きは?」
「しない」
「えらい」
「当たり前だよ」
なつきは笑った。
「春樹くんが自分で言ってくれるなら、聞きたい」
「うん」
「でも、男子同士で話したことを無理に聞くのは違うと思う」
昨日。
祐衣の気持ちは祐衣のものだから、勝手に美優へ話さなかった。
今日も同じ。
春樹が誰かに話したことは、春樹自身のもの。
なつきへ話したいと思った時に、聞ければいい。
それでも、気になる。
その気持ちまで否定する必要はない。
「なつき、本当に変わったね」
亜衣が言った。
「また?」
「うん。また」
「毎日言われてる気がする」
「毎日少しずつ変わってるから」
茜が、後ろから二人の会話へ加わった。
「でも、変わらないところもあるわ」
「どこ?」
なつきが聞く。
「春樹くんを気にしているところ」
「それは……」
なつきの頬が熱くなる。
亜衣が笑う。
「そこはずっと同じ」
「もう」
◇
春樹が鞄を肩へ掛けた。
紅秋も準備を終える。
圭は借りた本を透明なブックカバーへ入れ、大切そうに鞄へしまっていた。
「春樹」
圭が言う。
「今日は一緒に帰るよな?」
「うん」
「紅秋も」
「分かっている」
「蓮は?」
「昇降口で合流するらしい」
田辺が聞く。
「俺らは?」
「田辺と島中は部活だろ」
「そうだった」
島中が笑う。
「圭、全員引き連れて帰る気かよ」
「本の話したいから」
「俺ら、明日聞く」
「感想、今日言いたい」
圭は本当に、この物語を気に入っているらしい。
考査前。
図書室で小声になることを覚えた。
考査後。
本を読むようになった。
なつきは、その変化を少し嬉しく思った。
祐衣が選んだ本が、圭の世界を少し広げている。
「横田さん」
不意に春樹から呼ばれた。
なつきは顔を上げる。
「うん?」
「今日は、図書室?」
「うん。亜衣ちゃんと茜ちゃんと行く」
「本?」
「少し読む。あと、宿題」
「そっか」
「春樹くんは、男子で帰るんだよね」
「うん」
「圭くんの感想会?」
「たぶん」
圭がすぐに反応した。
「たぶんじゃない。正式な感想会」
「圭くん一人しか読み終わってないでしょ」
亜衣が言う。
「途中感想会」
「名前が変わった」
教室に小さな笑いが起きる。
春樹はなつきの黒猫を見る。
「今日は、少し考えてる」
「分かるの?」
「撫でてる」
「それも分かるようになった?」
「たぶん」
「何を考えてるかは?」
「分からない」
「そっか」
なつきは黒猫をもう一度撫でた。
「男子で何話すのかなって、少し気になってた」
正直に言った。
春樹が少しだけ目を瞬かせる。
「本の話」
「それだけ?」
聞いたあと、少しだけ踏み込みすぎたかもしれないと思う。
けれど、春樹は嫌そうな顔をしなかった。
「分からない」
「圭くんいるもんね」
「うん」
「余計なこと聞きそう」
圭が遠くから言った。
「余計なことって何!?」
なつきと春樹は、同時に圭を見る。
圭は少し怪しい笑顔を浮かべている。
「何も聞かないよ」
田辺がすぐに言う。
「その顔で言っても信用ないぞ」
島中も頷く。
「絶対何か聞く」
「男子だけの秘密」
圭が言う。
なつきの胸が少しだけ揺れた。
でも、笑って返す。
「じゃあ、無理には聞かない」
圭が意外そうな顔をした。
「いいの?」
「うん。春樹くんが話したいことなら、あとで話してくれると思うから」
春樹がなつきを見た。
ほんの少し、表情が変わる。
「話したいことなら」
「うん」
「話す」
なつきの胸が温かくなる。
「待ってる」
昨日と同じ。
春樹が自分の気持ちを見つけるまで。
待つ。
でも、完全に何もしないわけではない。
なつきも言葉を渡す。
聞きたい時は聞く。
怖い時は言う。
その上で、春樹の速度を待つ。
「じゃあ、また明日」
春樹が言う。
「うん。また明日」
少し間を置いて、なつきは続けた。
「帰り道、気をつけてね」
「うん。横田さんも」
春樹達が教室を出ていく。
なつきは、その背中を見送った。
黒猫へ触れる。
今度は少しだけ揺らした。
「嬉しい?」
亜衣が聞く。
「うん」
「何が?」
「話したいことなら話すって言ってくれたこと」
「そっか」
「でも、気になる」
「それは仕方ない」
茜が微笑む。
「今日は自分達の時間を過ごしましょう」
「うん」
◇
昇降口。
蓮は、靴箱の近くで春樹達を待っていた。
特進科の制服姿。
鞄を肩へ掛け、片手には小さなノートを持っている。
「お疲れ」
蓮が言う。
「お疲れ」
春樹が返す。
圭は靴を履き替えながら、すぐに本の話を始めた。
「蓮、この本すごい」
「祐衣が選んだ本?」
「うん。今、チームがバラバラ」
「どこまで読んだの?」
「朝練を二人だけで始めたところ」
「じゃあ、まだ前半だね」
「蓮、読んだことある?」
「あるよ」
圭が目を見開く。
「先輩!」
「先輩ではないけど」
紅秋も靴を履き替えながら聞く。
「蓮は最後まで読んだのか?」
「中学の時に」
「結末言うなよ」
圭が真剣に釘を刺す。
「言わないよ」
「絶対」
「言わない」
「キャプテンと一年、仲直りする?」
「それも言わない」
「そこだけ」
「だめ」
「厳しい」
春樹が短く言う。
「聞いたら面白くない」
「分かってるけど気になる」
「読めば分かる」
圭は本の入った鞄を軽く叩いた。
「今日、帰ったら読む」
四人は校舎を出た。
放課後の校門付近には、部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒が行き交っている。
空は少し曇っていた。
西の方には薄い橙色が残っているが、雲のせいで夕方の光は弱い。
風は冷たすぎない。
けれど、半袖では少し心許ないような秋の空気だった。
圭は春樹と紅秋の間に入り、蓮が少し外側を歩く。
男子四人だけ。
体育祭の時には、それぞれ紅組と白組に分かれていた。
春樹と紅秋、蓮は白組。
圭は紅組。
その違いも、今では大きな意味を持たない。
考査前。
図書館で同じ机を囲み。
互いに問題を見せ。
圭の声量を何度も注意し。
少しずつ関係が近くなった。
「俺さ」
圭が言う。
「前より春樹と話してるよな」
「うん」
春樹が答える。
「うんだけ?」
「話してる」
「そうだよな」
圭は満足そうに頷く。
「紅秋とは前から話してた」
「同じクラスだからな」
「蓮とも体育祭から増えた」
「そうだね」
蓮が笑う。
「考査前の勉強会もあったし」
「俺、友達増えた」
圭は少し誇らしげに言った。
紅秋が横目で見る。
「今まで友達がいなかったような言い方だな」
「いたけど、増えた」
「なら良いことだ」
「紅秋が肯定した」
「友人が増えることを否定する理由はない」
「今日、紅秋優しい?」
「普通だ」
春樹が言う。
「紅秋の普通は少し厳しい」
「春樹に言われたくない」
蓮が笑った。
「二人とも似てるところあるよね」
「どこが?」
春樹と紅秋が、ほとんど同時に聞いた。
圭が吹き出す。
「そこ!」
「何が?」
また二人が重なった。
蓮も声を立てずに笑った。
◇
駅へ向かう道の途中。
圭は本の感想を話し始めた。
「このキャプテン、最初すごい嫌なやつに見える」
「どうして?」
蓮が聞く。
「一年に怒る。自分は何も言わない。負けたのに、全員に『切り替えろ』だけ」
「うん」
「でも、たぶん本当は一番悔しい」
圭は少し真剣な表情になっていた。
「夜、一人でグラウンドに戻ってる場面あるんだよ」
「そこまで読んだんだ」
「うん。誰にも見られてないと思ってる」
「見られてる?」
春樹が聞く。
「一年が見てる。でも声かけない」
「どうして?」
「たぶん、何て言えばいいか分からないから」
春樹が少しだけ頷いた。
「似てる」
「誰に?」
「キャプテンと一年」
「何が?」
「二人とも言えない」
圭は少し考えた。
「確かに」
蓮も頷く。
「怒っているように見えるキャプテンも、反発している一年も、本当は同じくらい悔しいんだよね」
「でも、言わないから喧嘩する」
圭が言う。
紅秋は静かに続けた。
「相手が何を考えているか、自分の想像だけで決めている」
「そう。それ」
圭は紅秋を指差す。
「キャプテンは一年が本気じゃないと思ってる。一年はキャプテンが何も感じてないと思ってる」
「どちらも違う」
「うん」
圭はしばらく歩きながら黙った。
いつもなら、沈黙を埋めるように何かを話す。
けれど今日は、本の内容を自分の中で考えているようだった。
「言わないと分からない」
春樹がぽつりと言った。
紅秋が春樹を見る。
蓮も少しだけ視線を向けた。
圭は何気なく頷く。
「うん。読んでて思った」
春樹は、昨日の図書室を思い出していた。
祐衣が寂しいと言った。
なつきが怖いと言った。
美優も今日、何かを話している。
三人は、春樹がいない場所で自分達の気持ちを言葉にしている。
言わなければ、春樹には分からなかった。
祐衣が笑いながら寂しさを隠していたことも。
なつきが黒猫を握るほど怖がっていたことも。
美優が何を恐れているのかも。
圭の本の中の二人と同じ。
自分の想像だけでは、相手の本当の気持ちは分からない。
けれど。
自分も言わなければならない。
なつきは言った。
いつか、春樹自身の気持ちを聞きたい。
見つけたら、言う。
春樹はそう約束した。
でも、自分の気持ちとは何なのか。
まだ、はっきりとは見つけられていない。
◇
「春樹」
圭が呼んだ。
「何?」
「今、何考えてた?」
「本のこと」
「本当に?」
「うん」
「横田のことじゃなくて?」
春樹の足が、ほんのわずかに止まりかけた。
紅秋が圭を見る。
「唐突だな」
蓮は驚きながらも、圭を止めなかった。
圭は少しだけ笑っていた。
からかうための笑い。
でも、それだけではない。
「聞くと思った」
紅秋が言う。
「だって、昨日から気になる」
「何が?」
春樹が聞く。
「横田と白石さんと美優が、春樹のことで話してたんだろ?」
春樹は少しだけ目を瞬かせる。
「知ってる?」
「教室で雰囲気違ったから分かる」
「内容は?」
「知らない。でも、春樹の話なのは分かった」
圭は歩調を少し落とした。
四人の周囲を、他の生徒達が追い越していく。
駅へ向かう道。
車の音。
自転車が通る音。
夕方の街のざわめき。
「だから」
圭は春樹をまっすぐ見た。
「春樹は横田のこと、どう思ってる?」
質問は、あまりにも直球だった。
春樹は答えなかった。
歩みも少し遅くなる。
紅秋は圭を止めない。
蓮も黙っている。
圭だけが、少し不安そうに続けた。
「嫌なら言わなくていいけど」
「分からない」
春樹が答えた。
「また?」
圭が言う。
「うん」
「でも、何も思ってないわけじゃないだろ?」
春樹は黙った。
「黒猫見つけるし」
「うん」
「横田が緊張してるの分かるし」
「うん」
「嬉しいと一緒に喜ぶし」
「うん」
「本の感想も聞きたいって言うし」
「うん」
「横田が教室にいなかったら、探すだろ?」
春樹の視線が、少しだけ圭へ向く。
「探す?」
「探すと思う」
圭は言い切った。
「朝、横田が遅いと扉見るじゃん」
春樹は、自分では意識していなかった。
朝。
教室へ入る。
黒猫を探す。
なつきを見つける。
もし、黒猫がいつもの机の横にない時。
春樹は確かに教室の入口や廊下を見る。
まだ来ていないのか。
休みなのか。
少し気になる。
「見てる」
春樹が言う。
「でしょ?」
「うん」
「それ、何で?」
「今日もいるか確認する」
「どうして確認するの?」
春樹は、すぐには答えられなかった。
今日もいる。
見つけた。
そのやり取りは、いつの間にか朝の日常になっている。
なつきがいれば、少し落ち着く。
黒猫が揺れれば、今日は嬉しいのか、緊張しているのか考える。
目が合えば、朝が始まった気がする。
いない時には、少し足りない。
でも、それを何と呼ぶのか分からない。
「圭」
紅秋が静かに言った。
「質問を重ねすぎだ」
「ごめん」
圭は少しだけ肩を落とした。
「でも、横田ずっと待ってるじゃん」
春樹は圭を見る。
「何を?」
「春樹が自分の気持ち見つけるの」
昨日の教室。
圭は全部聞いていたわけではない。
でも、春樹となつきの会話。
見つけたら言う。
待っている。
その断片は聞こえていたのだろう。
「だから、春樹も少しは考えた方がいい」
圭の言葉は、不器用だった。
けれど、からかいだけではなかった。
なつきの気持ちを知っている。
春樹が曖昧なままでいることを、少し心配している。
「考えてる」
春樹が言う。
「本当に?」
「うん」
「何か見つかった?」
「まだ」
「一個も?」
春樹は黙った。
本当に何もないのか。
圭に聞かれたことで、頭の中へいくつもの場面が浮かんでいる。
黒猫。
図書室。
なつきのノート。
八十二点の答案。
体育祭で声を出していた姿。
借り人競争で、一緒に歩いた時の横顔。
美優や祐衣のことで揺れながらも、逃げずに話す姿。
嬉しいと言う声。
寂しいと言う声。
大丈夫と返してくれた朝。
なつきと一緒にいる時。
春樹は以前より言葉を使うようになった。
なつきが分からないと言えば、教えたいと思う。
できれば嬉しい。
怖がっていれば、大丈夫と言いたくなる。
笑っていれば、見つけたくなる。
いなければ、気になる。
それらは、何なのか。
「一つ」
春樹が言った。
三人が春樹を見る。
「ある?」
圭が聞く。
「横田さんといると」
春樹は言葉を探した。
風が、制服の袖を揺らす。
駅前の車の音。
信号の電子音。
周囲のざわめき。
その中で、自分の言葉だけが妙にゆっくり聞こえる。
「落ち着く」
圭が黙った。
蓮は少しだけ目を細めた。
紅秋は何も言わず、続きを待つ。
「話さない時も?」
圭が聞いた。
「うん」
「図書室で隣にいる時?」
「うん」
「教室でも?」
「うん」
「朝、見つけた時?」
「うん」
春樹は、自分で答えながら少しずつ気づく。
なつきを見つけると、落ち着く。
隣で本を読んでいても。
問題を解いていても。
黙っていても。
なつきがいることが、春樹の中で自然になっている。
「じゃあ、好きなんじゃない?」
圭が言った。
春樹は、すぐに頷かなかった。
「分からない」
「また分からない」
「落ち着くと、好きは同じ?」
圭が詰まる。
「うーん……」
紅秋が言った。
「同じとは限らない」
「紅秋」
「だが、何も感じていない相手ではないのは確かだろう」
春樹は紅秋を見る。
「確か?」
「少なくとも、春樹にとって横田さんが特別な位置にいることは否定できない」
「特別」
「同じクラスの他の女子全員に、同じことをしているか?」
春樹は考える。
黒猫を探す。
表情を見る。
緊張を見つける。
点数を一緒に喜ぶ。
読んだ本の感想を待つ。
いなくなってほしくないと思う。
他の女子全員へ同じことをしているわけではない。
「してない」
「なら違う」
「でも、美優もいる」
春樹が言った。
蓮の表情が少し変わる。
幼馴染として、美優のことを最も知っている一人。
「美優は昔からいる」
「うん」
「いないと、変な感じする」
蓮が頷く。
「家族に近いからね」
「白石も」
春樹は続ける。
「本の話、楽しい」
「うん」
「白石がいなくなるのも嫌」
圭が少しだけ頭を抱えた。
「春樹、全員大事じゃん」
「うん」
「じゃあ分からなくなるな」
「だから分からない」
春樹は正直に言った。
紅秋が静かに歩きながら言う。
「大事の種類が同じとは限らない」
「種類?」
「美優は幼馴染としての安心がある。白石さんとは本という共通の関心がある。横田さんとは、また別のものがあるかもしれない」
「別のもの」
「それを見つけろと言われているんだろう」
「うん」
春樹は少しだけ視線を落とした。
なつきが待っている。
自分の気持ちを見つけたら言う。
そう約束した。
適当には言いたくない。
大事だから。
その気持ちは変わらない。
◇
信号が赤になり、四人は横断歩道の前で立ち止まった。
人の流れも一緒に止まる。
道路を車が走り抜ける。
夕方の空は、さらに暗くなっていた。
圭は少しだけ申し訳なさそうに春樹を見る。
「聞きすぎた?」
「少し」
「ごめん」
「でも」
春樹は続けた。
「聞かれたから考えた」
「迷惑じゃなかった?」
「少し困った」
「やっぱり」
「でも、嫌じゃない」
圭は安心したように息を吐いた。
「よかった」
蓮が穏やかに言う。
「圭くんの聞き方は直球だけど、悪意はないからね」
「うん」
「ただ、春樹」
蓮は春樹を見る。
「一つだけ気をつけた方がいい」
「何?」
「答えが出るまで待つのはいい。でも、何も伝えないまま待たせ続けるのは、横田さんには苦しいかもしれない」
春樹は黙った。
「好きかどうかが分からなくても」
蓮は続ける。
「今分かっていることは、少しずつ伝えていいと思う」
「落ち着く、とか?」
「うん」
「それ、言っていい?」
圭が即座に言う。
「絶対言った方がいい」
紅秋が圭を見る。
「お前が決めることではない」
「でも横田、絶対嬉しい」
「それも春樹が考えることだ」
「紅秋、厳しい」
「大事なことだからだ」
春樹は、なつきの顔を思い出す。
嬉しい時。
黒猫を揺らす。
緊張する時。
握る。
春樹が「一緒にいると落ち着く」と言ったら。
なつきは、どちらの触り方をするだろう。
おそらく、最初は握る。
そのあと、揺らす。
想像すると、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「春樹」
圭が驚いたように言う。
「今笑った」
「そう?」
「横田のこと考えてた?」
春樹は少し黙った。
それから頷く。
「うん」
圭が両手で口元を押さえた。
「もう、それ答えじゃない?」
「圭」
紅秋が止める。
「分かった。言わない」
信号が青に変わる。
四人は歩き出した。
◇
駅前へ着く頃。
圭は本の話へ戻っていた。
キャプテンと一年が、いつ本音を言うのか。
チームはどう立て直されるのか。
自分ならどうするか。
「俺なら、すぐ話す」
圭が言った。
田辺や島中がいれば、絶対に「お前はすぐ話しすぎる」と返しただろう。
紅秋が代わりに言う。
「話す前に考えろ」
「でも、言わないと分からない」
「考えてから言え」
「難しい」
「両方必要だ」
蓮が笑う。
「圭くんは、話す力はあるから、少しだけ待つ力を増やせばいいんじゃない?」
「春樹は?」
「春樹は待つ力があるから、少し話す力を増やす」
「反対だ」
「ちょうどいいね」
圭は春樹の肩を軽く叩こうとして、春樹が少し避ける。
「避けた」
「急だったから」
「ごめん」
「うん」
圭は気にせず笑う。
「じゃあ俺が春樹に話す力教える」
「圭から?」
「失礼!」
「でも、少し役に立った」
春樹が言う。
圭が固まる。
「本当?」
「うん」
「俺、春樹の役に立った?」
「聞かれたから、少し分かった」
「何が?」
「横田さんといると、落ち着く」
圭の顔が一気に明るくなる。
「やった!」
周囲の通行人が振り返るほどの声。
紅秋がすぐに言う。
「声」
「外だから!」
「駅前だ」
「はい」
四人で少し笑った。
◇
駅の改札前。
それぞれの帰る方向が分かれる。
蓮は別の路線。
圭も春樹達とは少し違う方向。
紅秋と春樹は、途中まで同じ。
「じゃあ、明日」
圭が言う。
「本、もっと読んでくる」
「授業中は読むな」
紅秋が念を押す。
「分かってる」
「返却期限も」
「覚えてる」
「感想は祐衣さんへ言え」
「言う」
圭は少し歩き出してから、振り返った。
「春樹」
「何?」
「横田に、少しくらい言ってやれよ」
春樹は黙った。
「全部分からなくても、分かったこと」
圭はそれだけ言い、今度こそ歩いていった。
蓮も春樹へ言う。
「無理に今日でなくてもいい。でも、言葉にした方が春樹自身も分かることがあると思う」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
蓮も別の方向へ向かう。
残ったのは、春樹と紅秋。
二人は改札を通り、ホームへ向かう階段を上った。
◇
電車を待つホーム。
夕方の風が、線路の上を通り抜ける。
アナウンス。
遠くから近づく電車の音。
帰宅する学生や仕事帰りの人々。
春樹と紅秋は、少し人の少ない場所へ立った。
「紅秋」
「何だ」
「圭、変わった」
「本を読むようになったことか?」
「それも」
「他は?」
「人のこと、考えてる」
紅秋は少しだけ笑った。
「以前から考えてはいた。ただ、声と勢いが先に出ていただけだ」
「そう?」
「考査前に、横田さんが不安そうなら笑わせようとしていた。体育祭でも、紅組を盛り上げようとしていただろう」
「うん」
「圭は昔から、自分なりに周囲を見ている」
「そっか」
「お前と同じだ」
「俺?」
「見ているが、言葉にするのが得意ではない」
「圭はいっぱい話す」
「話す量と、気持ちを言葉にできるかは別だ」
春樹は、少し考えた。
圭も。
なつきも。
祐衣も。
美優も。
見えているものと言葉にしているものは、いつも同じではない。
「春樹」
「何?」
「横田さんといると落ち着くという言葉は、おそらくお前にとって重要だ」
「どうして?」
「お前は、基本的に一人でいることを苦にしない」
「うん」
「本を読む時も、考える時も、他人がいない方が楽なことが多い」
「うん」
「そのお前が、誰かが隣にいても落ち着くと思う。それは、かなり珍しい」
春樹は黙った。
確かに。
一人は嫌いではない。
静かな方がいい。
誰かと無理に話す必要もない。
けれど、なつきが隣にいる時。
春樹は静けさを奪われたとは思わない。
なつきも、本を読む時は静かだ。
でも、それだけではない。
なつきがいる静けさは、一人の静けさとは違う。
気配がある。
ページをめくる音がある。
時々、黒猫が揺れる。
分からない問題があれば、小さく呼ばれる。
その時間が、嫌ではない。
むしろ。
なくなると、少し足りない。
「紅秋」
「何だ」
「落ち着く相手は、好き?」
「俺に聞くな」
「分からないから」
紅秋は小さく息を吐いた。
「必ずしも恋愛とは限らない」
「うん」
「だが、恋愛感情の中に安心や落ち着きが含まれることはある」
「難しい」
「簡単なら、みんな悩まない」
「紅秋は分かる?」
「自分のことか?」
「うん」
「今は答えない」
「男子の秘密?」
「そういうことにしておけ」
春樹は少しだけ首を傾げた。
電車がホームへ入ってくる。
風が強くなる。
紅秋は、電車へ乗る前にもう一度言った。
「春樹」
「何?」
「横田さんに答えを出す前に、完璧な言葉を探しすぎるな」
「どうして?」
「完璧になるまで何も言わなければ、その間に相手は不安になる」
「蓮も言ってた」
「なら二人分だ」
「圭も」
「三人分だな」
電車の扉が開く。
二人は乗り込んだ。
◇
一方、その頃。
なつきは亜衣と茜と一緒に図書室を出たところだった。
宿題を進め。
祐衣から借りた本を少し読み。
亜衣と茜に、昨日の三人の会話を話せる範囲で伝えた。
美優と祐衣の気持ちを、細かく勝手に話すことはしなかった。
ただ。
三人とも嫉妬するかもしれないこと。
それでも友達を勝手にやめないと約束したこと。
それだけ。
「今日は、男子だけで何話したかな」
亜衣が廊下を歩きながら言った。
なつきは少し笑う。
「亜衣ちゃんも気になってる」
「気になるよ」
「私は無理に聞かないよ」
「分かってる。でも、春樹くんが何か言ってくれるかも」
「明日?」
「うん」
茜が言う。
「春樹くんは、一日考えてから言うことも多いでしょう」
「うん」
「待ちましょう」
「うん」
なつきは黒猫へ触れた。
春樹が、男子達とどんな話をしたかは分からない。
でも。
春樹も自分の時間の中で、少しずつ気持ちを探している。
そのことを信じたい。
「なつき」
亜衣が黒猫を見る。
「今は?」
「少し寂しい」
「春樹くんいないから?」
「うん」
なつきは正直に答えた。
「でも、それだけじゃない」
「何?」
「明日会えるから、楽しみ」
亜衣が笑う。
「寂しいと楽しみ、両方?」
「うん」
祐衣の言葉を思い出す。
寂しいけれど嬉しい。
人の気持ちは、一つではない。
なつきも今、それを少しずつ分かるようになっていた。
◇
翌朝。
なつきが教室へ入ると、春樹はまだ来ていなかった。
鞄を机の横へ掛ける。
黒猫が揺れる。
亜衣と茜へ挨拶し。
圭が本を九十ページまで読んだという報告を聞き。
田辺と島中が、それを本当に驚きながら褒める。
いつもの朝。
でも、なつきは何度も扉を見た。
「待ってるね」
亜衣が言う。
「うん」
「昨日の話?」
「それもあるけど」
「会いたい?」
なつきは少しだけ頬を赤くした。
「うん」
否定しなかった。
やがて、扉が開く。
紅秋と春樹が入ってくる。
春樹は、いつものように教室へ入ってすぐ黒猫を見る。
そして、なつきを見る。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
「私も見つけた」
そのやり取りだけで、胸が落ち着く。
春樹は自分の席へ鞄を置いた。
でも、すぐには座らなかった。
なつきの机の近くへ来る。
「横田さん」
「うん?」
「昨日」
胸が鳴る。
男子達との話。
何かを言ってくれるのだろうか。
「圭に聞かれた」
「何を?」
「横田さんのこと、どう思ってるか」
亜衣が隣で固まった。
茜も少しだけ顔を上げる。
圭は後方の席で、自分の本の陰へ隠れた。
「圭くん」
なつきが小さく呼ぶ。
「俺は何も言わない!」
明らかに何かを知っている声。
春樹は、なつきから目を逸らさなかった。
「何て答えたの?」
なつきは聞いた。
声が少し震える。
黒猫へ手を伸ばす。
握る。
春樹は、その手元を見た。
少しだけ沈黙する。
教室のざわめき。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
その中で、春樹の言葉を待つ。
「分からないって言った」
なつきの胸が、少し沈む。
「そっか」
分かっていた。
春樹はまだ、自分の気持ちを見つけていない。
だから、落胆するのは違う。
でも、期待していた。
少しだけ。
その期待が、胸の中で小さくしぼむ。
春樹は続けた。
「でも」
なつきが顔を上げる。
「一つ、分かった」
指が黒猫を握ったまま止まる。
「何?」
春樹は言葉を探した。
昨日、圭に聞かれた。
紅秋と蓮にも言われた。
完璧な答えではなく。
今分かっていることを伝える。
「横田さんといると」
春樹の声は静かだった。
「落ち着く」
なつきは、何も言えなかった。
聞き間違いではない。
春樹はまっすぐこちらを見ている。
「教室でも」
「うん」
「図書室でも」
「うん」
「話してなくても」
「うん」
「横田さんがいると、落ち着く」
黒猫を握っていた指から、少しずつ力が抜ける。
胸の奥へ。
春樹の言葉が、ゆっくり落ちていく。
好き。
そう言われたわけではない。
恋だと分かったわけでもない。
でも。
春樹の中で、なつきがただの同級生ではないこと。
隣にいても嫌ではないだけではなく。
そこにいることで、落ち着くと思ってくれていること。
それは、なつきが待っていた言葉の一つだった。
「……本当?」
「うん」
「私、緊張してばっかりなのに?」
「うん」
「黒猫握るし」
「うん」
「話す時、詰まるし」
「うん」
「それでも?」
「うん」
春樹は少しだけ口元を緩めた。
「横田さんだから」
教室の空気が、なつきの周囲だけ止まった。
亜衣が両手で口元を押さえる。
茜の目も、少しだけ大きくなる。
圭は本の陰で、何度も小さく頷いていた。
紅秋は、静かに春樹を見ている。
なつきは黒猫へ触れた。
もう握っていない。
ゆっくり。
小さく揺らす。
「嬉しい」
「うん」
「すごく嬉しい」
「分かる」
「黒猫?」
「うん」
なつきは笑った。
目の奥が、少しだけ熱くなる。
「春樹くん」
「何?」
「私も」
勇気を出す。
「春樹くんといると、落ち着く時がある」
「時がある?」
「まだ、緊張する時の方が多いから」
春樹の口元が少しだけやわらかくなる。
「そっか」
「でも」
なつきは続ける。
「春樹くんがいないと、少し足りない」
今度は、春樹が目を瞬かせる番だった。
「足りない?」
「うん。朝、見つけられないと寂しい」
なつきの頬が熱い。
けれど、言えた。
「だから」
黒猫を小さく揺らす。
「今日も見つけられてよかった」
春樹は少しだけ黙った。
そして、静かに頷いた。
「俺も」
短い言葉。
でも、以前より意味が分かる。
春樹も、なつきを見つけられてよかったと思っている。
◇
圭が我慢できず、机へ額をつけた。
「よかった……」
田辺が教室へ入ってきて、その姿を見つける。
「朝から何してんだ?」
島中も続く。
「本読んで泣いた?」
「違う」
圭は顔を上げる。
「俺、昨日いい仕事した」
春樹が言う。
「圭が聞いたから」
「ほら!」
圭は小声で両手を上げた。
「俺、役に立った!」
紅秋が言う。
「確かに今回はな」
「今回は?」
「毎回ではない」
「でも今回は!」
「うん」
春樹も頷いた。
圭は嬉しそうに笑った。
田辺と島中は、何があったのか分からないまま周囲を見る。
亜衣が小声で言う。
「あとで説明する」
「何を?」
「朝から強い出来事」
なつきは顔を赤くしながら、黒猫を揺らしていた。
◇
春樹は自分の席へ戻る前に、もう一度なつきを見た。
「横田さん」
「うん?」
「まだ、全部は分からない」
「うん」
「でも、分かったことは言う」
昨日、蓮や紅秋から言われたこと。
完璧な答えが出るまで、何も言わないのではなく。
今、見つけたものを渡す。
なつきは頷いた。
「うん」
「私も、分かったことは言う」
「うん」
「だから、少しずつでいい」
「うん」
春樹は席へ戻った。
なつきは、その背中を見た。
まだ、恋の答えは出ていない。
春樹がどんな気持ちを見つけるのかも分からない。
美優も。
祐衣もいる。
三人の友情も、きっと何度も揺れる。
それでも。
今日は、一つ言葉が増えた。
春樹となつきの間に。
『横田さんといると、落ち着く』
その言葉は、大きな告白ではない。
でも、なつきには十分すぎるほど大切だった。
君の隣を目指してきた。
ただ近くに立ちたいと思っていた。
今。
その隣が、春樹にとっても落ち着ける場所かもしれない。
まだ可能性。
まだ途中。
でも、春樹自身が見つけた最初の言葉。
なつきは黒猫を、もう一度ゆっくり揺らした。
嬉しい時の揺らし方。
春樹が見つけてくれた、自分の気持ちの形。
朝の光が窓から入り。
教室のざわめきが戻ってくる。
新しい一日が始まる。
大きく変わったようで。
何も変わっていないようで。
でも、確かに昨日までとは違う朝だった。
なつきは机の上へ教科書を置きながら、春樹の背中を見つめた。
焦らずに。
急がずに。
それでも、少しずつ。
君の隣へ。
そしていつか。
君にとって、帰りたくなる場所になれるように。




