第125話 好きな人が同じでも、友達でいたい
翌朝。
水戸の空は、薄い雲に覆われていた。
雨が降るほどではない。
けれど、太陽の輪郭は白くぼやけていて、校舎の窓から差し込む光も、昨日より少しだけ弱かった。
夏の名残を抱えていた空気は、日に日に秋へ近づいている。
昇降口を通る生徒達の中にも、制服の袖を少し長く下ろしている者が増えていた。
廊下を流れる風は涼しい。
足元に落ちた光も、以前ほど強くない。
なつきは二年十一組の教室へ向かいながら、鞄の横で揺れる黒猫へそっと触れた。
昨日。
図書室で、祐衣の気持ちを聞いた。
春樹に見つけてもらえる自分が羨ましい。
自分と春樹が知らないところでも近づいていることを、少し寂しいと思った。
それでも、二人が話せるようになったことは嬉しい。
どちらも本当。
祐衣は、そう言った。
なつきも、自分の気持ちを隠さなかった。
怖い。
胸が痛い。
嫉妬もする。
それでも、祐衣と友達でいたい。
春樹への気持ちがあるからといって、祐衣とのつながりを全部なくしたくはない。
昨日の帰り道。
言えたことに安心していた。
けれど、一晩眠って朝を迎えると、別の不安が顔を出した。
祐衣は、後悔していないだろうか。
自分へ本音を話したことを。
春樹の前で、寂しいと言ったことを。
なつきに友達でいたいと言われた時、本当は断りたかったのに無理をしたのではないか。
昨日は、話せてよかったと思った。
でも、今日も同じように話せるのだろうか。
教室へ近づくにつれて、なつきの指が黒猫を少し強く握っていた。
「なつき」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、亜衣が小走りで追いついてくるところだった。
「おはよう」
「おはよう、亜衣ちゃん」
亜衣は隣へ並ぶと、なつきの手元を見た。
「朝から握ってるね」
「うん」
「昨日のこと?」
「……うん」
なつきは隠さなかった。
亜衣は歩調を合わせながら、少しだけ声を落とした。
「後悔してる?」
「話したことを?」
「うん」
「私は、してない」
そこは、はっきり言えた。
「怖かったけど、祐衣さんがどう思ってるのか知らないままよりよかった」
「うん」
「でも、祐衣さんはどうかなって」
「話したことを後悔してるかもって?」
「うん」
なつきは前を向いたまま続ける。
「私と春樹くんが話してるところ、これからも見ることになるし」
「うん」
「私も、祐衣さんと春樹くんが話してたら、たぶん気になる」
「それは普通だと思う」
「でも、友達でいようって言ったからって、すぐ何も気にならなくなるわけじゃないでしょ」
「ならないね」
亜衣は、無理に励まそうとはしなかった。
大丈夫。
気にしすぎ。
そんなふうに軽く片づけなかった。
「昨日は、気持ちを言えた日」
亜衣が言う。
「今日からは、言ったあとどうするかの日なんじゃない?」
なつきは亜衣を見る。
「どうするか?」
「友達でいたいって言ったなら、友達として話す。嫉妬したら、全部は無理でも少し言う。気まずくなったら、気まずいって認める」
「うん」
「一回で全部解決しようとしなくていいよ」
なつきは、ゆっくり頷いた。
昨日の話し合いは、答えではない。
始まり。
祐衣と友達でいながら。
同じ人を好きになるかもしれない関係の中で。
どう過ごしていくかを、これから見つける。
「亜衣ちゃん」
「何?」
「今日、祐衣さんに会ったら、普通に話せるかな」
「話せると思う」
「どうして?」
「なつきが話したいと思ってるから」
「それだけ?」
「それが一番大事でしょ」
亜衣は笑った。
「祐衣ちゃんも、昨日最後まで本の話してたじゃん」
「うん」
「逃げずに帰り道も話してた」
「うん」
「今日もし気まずそうなら、その時考えればいい」
なつきは黒猫を握る手を少し緩めた。
「うん」
「それに」
亜衣が、にやりと笑う。
「今日は祐衣ちゃんだけじゃないかもしれないよ」
「何が?」
「美優ちゃん」
その名前を聞いた瞬間、なつきの胸が少しだけ揺れた。
「美優さん?」
「昨日、図書室に来られなかったでしょ。絶対、本の話聞きに来ると思う」
「あ……」
「しかも、祐衣ちゃんが何か話したって気づくかも」
なつきの指が、また少しだけ黒猫へ力を込める。
「それは、ちょっと怖い」
「だよね」
「亜衣ちゃん、楽しんでない?」
「少しだけ」
「もう」
「でも、本当に危なそうなら助けるよ」
「そこはお願い」
「任せて」
◇
教室へ入ると、昨日まで答案返却でざわついていた空気は、少しずつ日常へ戻り始めていた。
点数の話をしている生徒はまだいる。
間違い直しをしている者もいる。
けれど、黒板には考査範囲ではなく、今日の時間割と提出物が書かれている。
圭は自分の席で、昨日祐衣に借りた本を開いていた。
朝から読んでいる。
田辺が隣から覗き込む。
「本当に読んでる」
「読むって言っただろ」
「何ページ?」
「四十三」
「昨日二十ページじゃなかったか?」
「家でも読んだ」
島中も近くへ来る。
「面白い?」
「面白い。今、負けた試合のあとにキャプテンと一年が喧嘩してる」
「もう熱そう」
「熱い」
圭は顔を上げると、なつき達に本を見せた。
「横田、伊藤、おはよう」
「おはよう」
「圭くん、本当に読んでるね」
「白石さんが選んでくれたから」
なつきは、その言葉に少しだけ笑った。
「祐衣さん、喜ぶと思う」
「今日、昼休みに言う」
田辺が笑う。
「昼休みまでにまた進む気か」
「休み時間読む」
紅秋が後ろから教室へ入ってきた。
「授業中は読むな」
「分かってる」
「本を読むようになっても、授業を聞かなければ意味がない」
「紅秋、朝から先生」
「昨日も言われた」
圭が笑う。
その隣に、春樹がいた。
なつきは自然に顔を上げる。
春樹も、教室へ入ってすぐになつきを見た。
黒猫。
なつきの顔。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
「私も見つけた」
いつものやり取り。
昨日、春樹は言った。
自分がどう思っているか。
見つけたら言う。
その言葉を思い出すと、胸が少しだけ温かくなる。
同時に、祐衣の寂しそうな表情も浮かんだ。
嬉しいだけではいられない。
でも、嬉しい気持ちまで消す必要はない。
「緊張してる?」
春樹が聞いた。
なつきは手元を見る。
黒猫を少し握っていた。
「少し」
「昨日のこと?」
春樹から聞かれ、なつきは目を瞬かせた。
「分かるの?」
「昨日、いっぱい話したから」
「うん」
なつきは少し迷った。
「祐衣さん、今日も普通に話してくれるかなって」
「話すと思う」
「どうして?」
「白石も、友達でいたいって言った」
「うん」
「本の話も続けるって」
「うん」
「だから、話す」
春樹の答えは単純だった。
でも、その単純さに少し救われる。
「春樹くんは、気まずくない?」
「何が?」
「私と祐衣さんの気持ちを聞いて」
春樹は少しだけ考えた。
「分からないことは増えた」
「増えたの?」
「うん」
「困った?」
「少し」
正直な答え。
なつきの胸がわずかに縮む。
けれど、春樹は続けた。
「でも、知らない方がよかったとは思わない」
なつきは顔を上げる。
「本当?」
「うん」
「どうして?」
「二人が言ったから」
「うん」
「言ったことを、なかったことにしたくない」
春樹は昨日の言葉を、ちゃんと持っている。
祐衣の寂しさも。
なつきの怖さも。
「春樹くん」
「何?」
「ありがとう」
「うん」
なつきの指が、黒猫を握るのをやめた。
少しだけ揺らす。
春樹がそれを見て言う。
「嬉しい」
「うん」
「でも、少し緊張も」
「分かる?」
「少し握って、あとで揺らした」
「よく見てるね」
「うん」
圭が本の向こうから小声で言った。
「朝から高度な黒猫判定」
田辺が笑う。
「もう大國専用の感情計みたいだな」
「専用じゃないよ」
なつきが返すと、島中が肩を揺らした。
「横田、圭への返しが早くなったな」
「昨日も言われた」
「成長」
亜衣が満足そうに頷いた。
◇
午前中の授業は、考査返却後の通常進行へ戻り始めていた。
先生達は新しい範囲へ進み。
黒板には新しい用語が並び。
生徒達は、考査が終わった解放感を引きずりながらも、少しずつノートを取る日常へ戻っていく。
なつきも授業を聞きながら、昨日までとは違う気持ちを抱えていた。
祐衣のこと。
春樹のこと。
そして、美優のこと。
美優は、まだ昨日の話を知らない。
祐衣が寂しいと話したこと。
なつきが怖いと言ったこと。
春樹が、どちらかがいなくなるのは嫌だと言ったこと。
それを美優へ話すべきなのか。
話さない方がいいのか。
祐衣の気持ちは、祐衣のもの。
勝手に伝えるべきではない。
でも、今日美優が来て何かを察したら。
なつきは、どう答えればいいのだろう。
簿記の授業中。
先生が新しい仕訳の説明をしている。
なつきはノートを取りながら、一度だけ手を止めた。
前の席にいる春樹が、少しだけ振り返る。
目が合う。
なつきは慌てて黒板へ視線を戻した。
春樹は何も言わない。
でも、少しだけ待っているように見えた。
休み時間。
春樹がなつきの机へ来た。
「分からなかった?」
「簿記?」
「うん。途中で止まった」
「あれは分かった」
「じゃあ、何?」
なつきは少しだけ笑った。
「授業中も見つけたんだ」
「止まったから」
「祐衣さんと、美優さんのこと考えてた」
「美優?」
「昨日の話、知らないから」
「うん」
「もし聞かれても、祐衣さんが言っていいって言わない限り、勝手には話さない方がいいよね」
春樹は少し考える。
「白石の気持ちだから」
「うん」
「白石に聞く」
「そうだよね」
「今日、来る?」
「美優さん?」
「うん」
「たぶん、昼休みに」
「じゃあ、その前に白石へ聞く?」
「でも祐衣さん、特進棟だよ」
「昼休みに来た時でいい」
「うん」
春樹は、なつきの机に開かれたノートを見る。
「簿記は?」
「ここまでは分かる」
「そっか」
「あとで分からなくなったら聞くね」
「うん」
春樹は自分の席へ戻ろうとする。
なつきは、思わず呼び止めた。
「春樹くん」
「何?」
「今、自分の気持ち考えてる?」
周囲に聞かれないよう、小さな声。
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
「少し」
「何か見つかった?」
「まだ」
「そっか」
少しだけ残念。
でも、焦らせたくない。
「ごめん。聞くの早かった」
「ううん」
「本当に?」
「うん。考えてるか聞かれると、考える」
なつきは少し笑った。
「じゃあ、たまに聞いてもいい?」
「たまに」
「毎日は?」
「多い」
「分かった」
春樹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
昼休み。
なつきは、いつもより教室の扉を気にしていた。
弁当を開きながらも、廊下から聞こえる足音に何度も顔を上げる。
亜衣がすぐに気づいた。
「待ってる?」
「うん」
「春樹くんはもういるよ」
「今日は美優さんと祐衣さん」
「分かってる」
亜衣は笑った。
茜が弁当箱を机へ置きながら言う。
「二人とも一緒に来るかしら」
「分からない」
「来たら、まず祐衣さんに聞く」
「昨日のことを美優さんへ話してよいか?」
「うん」
茜は頷いた。
「それがいいと思うわ」
圭は本を机の上へ置いたまま、弁当を食べていた。
「白石さん来たら、四十三ページまで読んだって言う」
「今は?」
田辺が聞く。
「五十二」
「授業の間に増えてないか?」
「休み時間」
紅秋が確認する。
「授業中は?」
「読んでない」
「ならいい」
島中が笑う。
「紅秋、完全に保護者だな」
「圭が油断できないだけだ」
その時。
教室の扉から美優が顔を出した。
「こんにちは」
続いて、蓮。
その少し後ろに祐衣がいた。
なつきの胸が、一度大きく鳴る。
祐衣と目が合う。
一瞬。
昨日の図書室の沈黙が戻ったように感じた。
でも、祐衣は逃げなかった。
穏やかに微笑む。
「こんにちは」
なつきも笑った。
「祐衣さん、こんにちは」
その一言を交わせただけで、少し安心した。
昨日までとは完全に同じではない。
でも、壊れてはいない。
「祐衣さん!」
圭が本を持ち上げる。
「五十二ページまで読んだ」
祐衣の表情が明るくなる。
「もうそこまで?」
「うん。今、二人で朝練始めたところ」
「あの場面ですね」
「面白い」
「よかったです」
圭は嬉しそうに本を抱えた。
「今日も読む」
「ぜひ」
美優がそのやり取りを見て、目を丸くした。
「圭くんが本読んでる」
「白石さんに選んでもらった」
「すごい」
「俺も読める」
「読めないと思ってたわけじゃないよ」
「一瞬思った顔した」
美優が笑い、教室の空気が少しやわらぐ。
祐衣はなつきの近くへ来た。
なつきは小さな声で聞く。
「祐衣さん」
「はい?」
「昨日のこと」
祐衣の表情が少しだけ緊張する。
なつきは続けた。
「美優さんに、話してもいい?」
「私が寂しいと話したことですか?」
「うん。でも、祐衣さんが嫌なら言わない」
祐衣は少しだけ美優を見る。
美優は蓮や圭と話していて、こちらの会話にはまだ気づいていない。
祐衣はしばらく考えた。
「私から話します」
「本当に?」
「はい」
「今?」
「できれば、三人で話したいです」
なつきの胸が少しだけ緊張する。
「春樹くんは?」
祐衣は春樹を見る。
春樹は少し離れた席で、紅秋と弁当を食べている。
「今日は、いない方が話しやすいかもしれません」
なつきも同じことを思った。
春樹がいると。
言葉を選びすぎる。
春樹の反応ばかり気にしてしまう。
女子三人で。
美優。
祐衣。
なつき。
春樹とそれぞれ違う距離でつながる三人。
「放課後?」
なつきが聞く。
「はい。少しだけ」
「どこで?」
「空き教室か、中庭はどうでしょう」
「今日は少し寒いかも」
「では、空き教室で」
「うん」
なつきは頷いた。
亜衣が、二人の様子を少し離れたところから見ていた。
目が合う。
なつきは小さく頷いた。
話す。
亜衣も頷き返した。
◇
美優は、なつき達の空気が少し違うことに気づいたらしい。
昼食の途中。
春樹へ考査の話をし。
蓮へ数学の質問をし。
圭の本を覗き込んで笑っていた。
けれど、何度か祐衣となつきへ視線を向けていた。
「何かあった?」
ついに、美優が聞いた。
明るい声。
でも、その目は真剣だった。
祐衣が少しだけ姿勢を正す。
「放課後、少しお話ししてもいいですか?」
「私と?」
「はい。横田さんも一緒に」
美優の視線が、なつきへ向く。
なつきは頷いた。
「うん」
美優は二人を交互に見る。
「怖い話?」
「怖い話ではありません」
祐衣が言う。
なつきは、少し迷ってから付け足した。
「でも、ちょっと大事な話」
美優の表情から、いつもの明るさが少しだけ消えた。
「春樹のこと?」
核心。
なつきの胸が鳴る。
祐衣は逃げずに答えた。
「はい」
教室の周囲が、一瞬だけ静かになったように感じた。
実際には、圭達の会話も続いている。
別の生徒達も笑っている。
でも、三人の間だけ、音が薄くなる。
「分かった」
美優はそれ以上聞かなかった。
「放課後ね」
「はい」
なつきは黒猫へ触れた。
少し握る。
春樹がその動きを見ていた。
目が合う。
春樹は何も聞かなかった。
でも、昨日のことから、何を話すのか少し分かっているのかもしれない。
◇
午後の授業は、なつきにとって長く感じられた。
黒板の文字を写す。
先生の説明を聞く。
問題を解く。
それでも、頭の片隅には放課後のことが残っている。
美優は、どう思うだろう。
祐衣が春樹へ好意を抱いていることを、知っていたのか。
美優自身は、春樹をどう思っているのか。
幼馴染。
家族のように近い。
でも、なつきには時々、美優の中にも別の気持ちがあるように見える。
独占したい気持ち。
春樹が自分の知らない人と近づくことへの寂しさ。
それは恋なのか。
家族的なものなのか。
美優自身にも分からないのかもしれない。
授業中。
美優は特進棟にいる。
祐衣も別の教室。
なつきだけが二年十一組で、放課後を待っている。
亜衣が隣から小さな紙を滑らせてきた。
『大丈夫?』
なつきは紙の下へ書く。
『緊張してる』
少し考えて、もう一行。
『でも話したい』
亜衣はそれを読み、短く返した。
『なら大丈夫』
なつきは紙を折り、筆箱の下へしまった。
◇
放課後。
終礼が終わると、教室の生徒達はそれぞれ部活や帰宅の準備を始めた。
圭は本を鞄へ丁寧にしまう。
田辺と島中は、今日は部活へ向かうらしい。
紅秋は春樹へ声をかけた。
「今日は図書室へ行くのか?」
春樹は、なつきを見た。
なつきは少し迷ってから答える。
「今日は、美優さんと祐衣さんと話す」
「三人で?」
「うん」
春樹は頷いた。
「分かった」
「春樹くんは?」
「図書室」
「本読む?」
「うん」
「あとで、話せたら話すね」
「うん」
春樹は、なつきの黒猫を見る。
「握ってる」
「緊張してるから」
「大丈夫」
「うん」
「でも、無理なら途中でやめていい」
なつきは少し驚いた。
「春樹くん」
「何?」
「そういうことも言うようになったね」
「何が?」
「大丈夫だけじゃなくて、無理ならやめていいって」
春樹は少し考える。
「大丈夫じゃない時もあるから」
胸が、静かに温かくなる。
無理に進まなくてもいい。
逃げではなく。
自分を守るために止まることもできる。
「うん」
なつきは頷いた。
「でも今日は、話したい」
「分かった」
「終わったら、図書室行くかも」
「待ってる」
なつきの指が、黒猫を握るのをやめた。
「うん」
◇
選んだのは、特別棟の二階にある空き教室だった。
普段は選択授業や委員会で使われる部屋。
今日は予定がないらしく、扉の横の使用表も空白だった。
祐衣が先に先生へ使用許可を確認し、三人で中へ入る。
教室は、二年十一組より少し小さい。
机は整然と並んでいる。
黒板には、前に使った授業の跡が少しだけ残っていた。
窓から差し込む夕方の光は淡い。
カーテンの端が風でわずかに揺れている。
誰も話さないまま、三人は前方の机を寄せた。
なつき。
祐衣。
美優。
三角形になるように座る。
春樹はいない。
亜衣も茜もいない。
蓮もいない。
三人だけ。
「それで」
美優が最初に口を開いた。
いつもの明るい声ではなかった。
責めているわけでもない。
ただ、少し緊張している。
「春樹のことって?」
祐衣が、自分の手を膝の上で重ねた。
「昨日、図書室で話しました」
「三人で?」
「はい。横田さんと、大國くんと、私で」
美優の視線が、なつきへ移る。
なつきは頷いた。
「本の感想を話してたの」
「うん」
「その時に、祐衣さんが」
ここからは、祐衣自身が話すこと。
なつきは祐衣を見る。
祐衣は小さく息を吸った。
「私は、大國くんに好意があります」
美優の表情が止まった。
予想していたのか。
していなかったのか。
すぐには分からない。
祐衣は続ける。
「昨日、それをはっきりと申し上げたわけではありません。でも、横田さんと大國くんが近づいていくことを、寂しいと思っていると話しました」
美優は黙って聞いている。
「横田さんに見つけてもらえる大國くんと、大國くんに見つけてもらえる横田さんが、少し羨ましいと」
沈黙。
カーテンが揺れる音。
校庭から遠く聞こえる掛け声。
美優は、机の上へ視線を落とした。
「そっか」
小さな声だった。
「祐衣も、春樹が好きなんだ」
「はい」
「いつから?」
「はっきりと意識した時期は、自分でも分かりません」
「でも、好き?」
「はい」
祐衣は逃げなかった。
美優は、なつきへ視線を向ける。
「横田さんも」
「うん」
なつきは黒猫へ手を伸ばしかけた。
でも、今は机の下へ鞄を置いている。
触れられない。
代わりに、自分の指を握った。
「私は、ずっと春樹くんが好き」
「一年の頃から?」
「うん」
「知ってた」
美優が言った。
なつきは少し驚く。
「知ってたの?」
「たぶん。ちゃんとは聞いてなかったけど」
美優は少しだけ苦笑した。
「横田さん、分かりやすいから」
「そんなに?」
「春樹を見る時だけ、ちょっと違う」
祐衣が小さく頷く。
「私も、そう思います」
「二人とも」
なつきの頬が熱くなる。
美優は笑いかけた。
でも、笑いは長く続かなかった。
「じゃあ」
美優は祐衣を見る。
「昨日、二人で春樹のことを話したの?」
「はい」
「喧嘩した?」
「していません」
なつきも首を横に振る。
「怖かったけど、話した」
「何を?」
「祐衣さんが春樹くんを好きかもしれないことが、私は怖いって」
美優の目が、なつきへ向く。
「本人に言ったの?」
「うん」
「すごいね」
「祐衣さんも、寂しいって言ってくれたから」
なつきは、自分の指を見つめながら続ける。
「友達でいたいって言った」
「好きな人が同じでも?」
「うん」
「できるの?」
美優の問いは、意地悪ではなかった。
本当に分からないのだと思う。
なつきも、少し考えた。
「分からない」
「分からないの?」
「うん。嫉妬すると思う。祐衣さんと春樹くんが話してたら、気になる」
祐衣も静かに言う。
「私もです」
「それでも?」
美優が聞く。
「それでも、友達でいたい」
なつきは答えた。
「だって、祐衣さんと話せるようになったことも、本当だから」
祐衣の瞳が、少しやわらかくなる。
「春樹くんのことだけで、祐衣さんの全部を嫌いになりたくない」
美優は黙った。
窓の外へ視線を向ける。
夕方の校庭。
部活の生徒達が、グラウンドを走っている。
「私は」
美優が言った。
声は、今までより少し小さかった。
「春樹が誰かと仲良くなるの、嫌だった」
なつきの胸が静かに鳴る。
祐衣も、美優を見た。
「昔から?」
「うん」
美優は窓を見たまま続ける。
「春樹って、昔からあんまり人と話さないでしょ」
「うん」
「だから、私と蓮くらいしか近くにいないのが普通だった」
なつきが知らない春樹。
中学以前。
幼い頃。
美優と蓮が知っている春樹。
「春樹が本読んでて、私が隣で勝手に話して。返事が少なくても、聞いてるの分かってた」
美優の声には、懐かしさが混ざる。
「家族同士でも会ってたし。春樹がうちに来ることもあった。私が春樹の家に行くことも」
なつきの胸に、細い痛みが走る。
自分が入れない時間。
もう変えられない過去。
春樹の隣に、最初からいた美優。
指先に力が入る。
けれど、目を逸らさなかった。
昨日、祐衣の話を聞いた時と同じ。
怖くても、聞く。
「高校に入って」
美優は続けた。
「春樹が商業科で、私は特進科になって。教室が分かれた」
「うん」
「でも、最初は何も変わらないと思ってた」
美優は自分の手元を見る。
「昼休みに会えばいい。帰りに話せばいい。春樹は春樹のままだから」
少しだけ沈黙。
「でも、横田さんがいた」
なつきの胸が鳴る。
「私?」
「うん」
美優は、なつきを見た。
「最初は、春樹のこと見てる子がいるなって思った」
「気づいてたんだ」
「すぐ分かった」
「そんなに?」
「うん」
美優は少しだけ笑う。
「春樹の近くに行きたいのに、行けない顔してた」
なつきは恥ずかしくなった。
でも、美優の表情はすぐに真剣へ戻る。
「図書委員で話すようになって。教室でも話して。黒猫を春樹が見つけて」
「うん」
「春樹が、横田さんを見るようになった」
その言葉に、胸が温かくなる。
同時に、美優の寂しさが分かる気もした。
「嫌だった?」
なつきは聞いた。
美優は、少し考える。
「嫌だった」
はっきりと答えた。
なつきの胸が痛む。
それでも、美優は続ける。
「でも、横田さんが嫌いだったわけじゃない」
「うん」
「春樹が、私の知らない春樹になるのが嫌だった」
祐衣が静かに言う。
「知らない大國くん?」
「うん」
「横田さんと話してる時、春樹が少し笑うとか」
なつきの心臓が跳ねる。
「図書室で、本の感想を話すとか」
美優は祐衣を見る。
「祐衣もそう。春樹と同じ本を読んで、私が分からない話をしてる」
「美優さん」
「置いていかれる感じがした」
美優の声が、少しだけ揺れた。
「春樹はずっと近くにいると思ってたのに」
なつきは、美優の言葉を胸の中で受け止めた。
春樹への恋。
幼馴染としての独占欲。
家族のような安心。
置いていかれる怖さ。
全部が混ざっている。
「美優さんは」
祐衣が慎重に聞く。
「大國くんが好きですか?」
空気が止まった。
美優は、すぐに答えなかった。
目を伏せる。
指先が机の端をなぞる。
「分からない」
やがて、そう言った。
「分からないの?」
なつきが聞く。
「うん」
美優は、少し困ったように笑った。
「横田さんや祐衣みたいに、好きって言い切れない」
なつきは何も言わず待つ。
「春樹が誰かと付き合うって考えたら、嫌」
胸が揺れる。
「私より大事な人ができるのも嫌」
祐衣の表情も少しだけ固くなる。
「でも、春樹と付き合いたいかって聞かれたら」
美優は言葉を探した。
「分からない」
「どうして?」
なつきが聞く。
「春樹は、ずっと春樹だから」
「うん」
「恋人になったら、何か変わるでしょ」
「たぶん」
「それも怖い」
美優は小さく息を吐いた。
「今の近さを失いたくない。でも、誰かに取られるのも嫌」
矛盾している。
けれど、祐衣の「寂しいけど嬉しい」と同じように。
人の気持ちは、いつも一つではない。
「私、ずるいよね」
美優が言った。
なつきは、すぐに否定できなかった。
春樹を誰にも渡したくない。
でも、自分が恋人になりたいかは分からない。
なつきの立場から見れば、苦しい。
ずるいと思う気持ちも、確かにある。
「少し」
なつきは正直に答えた。
美優が目を瞬かせる。
祐衣もなつきを見る。
「少し、ずるいと思う」
なつきは続けた。
「春樹くんのこと、誰にも取られたくないって言われたら、私は怖い」
「うん」
「美優さんは、春樹くんと私よりずっと長い時間があるから」
「うん」
「私は、そこに勝てないって思う」
声が少し震える。
「春樹くんの昔を知らない。家族も知らない。美優さんみたいに、春樹って呼べない」
美優の瞳が揺れる。
「だから、美優さんが春樹くんを誰にも渡したくないって言ったら、私には入れる場所がないみたいで苦しい」
「横田さん」
「でも」
なつきは、自分の指を開いた。
握っていた力を緩める。
「美優さんが分からないって言うのも、本当なんだと思う」
「うん」
「それを嘘ついて、好きじゃないって言われるよりは、今聞けてよかった」
美優は何も言わない。
「私、美優さんの気持ち全部を分かることはできない」
なつきは言った。
「でも、ずるいって思ったことも、怖いって思ったことも言いたい」
「嫌いにならない?」
美優が聞いた。
「少し嫌になる時はあるかも」
正直な答え。
美優は少しだけ苦笑する。
「正直」
「昨日、祐衣さんにも言った」
「何を?」
「友達だから、全部平気なふりしないでほしいって」
祐衣が静かに頷いた。
「私も、そう言われました」
「美優さんにも、平気なふりしてほしくない」
「うん」
「でも私も、平気なふりしない」
なつきは、美優をまっすぐ見た。
「美優さんと春樹くんが昔の話をしたら、嫉妬する」
「うん」
「祐衣さんと春樹くんが本の話をしたら、寂しくなる時がある」
「はい」
「それでも、二人と話したい」
祐衣の目が、少しだけ潤む。
美優は唇を結んだ。
「どうして?」
「二人とも、春樹くんの近くにいる人だからじゃない」
なつきは言った。
「二人と話して、二人のことを知ったから」
美優が黙る。
「美優さんは明るくて、誰とでも話せるけど、本当は置いていかれるのが怖い」
美優の瞳が揺れる。
「祐衣さんは静かで優しいけど、寂しいって思うし、嫉妬もする」
祐衣が小さく頷く。
「そういうところも知ったから、友達でいたい」
静かな教室。
外の空が少しずつ暗くなる。
誰もすぐには話さなかった。
言葉が、三人の間へ落ちている。
「横田さん」
美優が、ようやく言った。
「強いね」
「強くない」
「祐衣も同じこと言った?」
「言いました」
祐衣が答える。
三人の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「怖いよ」
なつきは続けた。
「今も怖い」
「黒猫ないね」
美優が机の下の鞄を見る。
「うん。触れないから、自分の手握ってた」
なつきが手を見せると、指先が少し赤くなっていた。
美優は、それを見て小さく笑った。
「本当に強くないね」
「うん」
「でも話してる」
「うん」
「私も話さないとだめか」
美優は息を吐いた。
「私は、春樹が好きかまだ分からない」
「うん」
「でも、横田さんや祐衣に取られたくないって思う時はある」
「うん」
「その時、嫌な態度になるかもしれない」
「うん」
「でも」
美優は二人を見る。
「二人を嫌いになりたいわけじゃない」
祐衣が静かに聞く。
「友達でいたいですか?」
「うん」
美優は頷いた。
「私も友達でいたい」
なつきの胸が、少しだけ軽くなる。
「じゃあ」
なつきは言った。
「三人とも同じ?」
「何が?」
「春樹くんのことで嫉妬するかもしれない。でも、友達でいたい」
祐衣が微笑む。
「そうですね」
美優も、少し困ったように笑う。
「変な友達」
「うん」
なつきも笑った。
「すごく変」
◇
少しだけ空気がやわらいだあと。
美優が、なつきへ顔を向けた。
「一つ聞いていい?」
「うん」
「横田さんは、春樹のどこが好きなの?」
突然の問い。
なつきの顔が一気に熱くなる。
「今?」
「今」
「祐衣さんもいるのに?」
「祐衣も聞きたいでしょ?」
祐衣は少し迷ったあと、正直に頷いた。
「聞きたいです」
「二人とも」
なつきは机へ視線を落とした。
春樹のどこが好きか。
ずっと好きだった。
でも、最初は見ているだけだった。
静かに本を読む姿。
誰かの話を、短くてもちゃんと聞くところ。
騒がしくない。
でも冷たいわけではない。
「最初は」
なつきはゆっくり話し始めた。
「静かなところ」
「静かなところ?」
美優が聞く。
「うん。教室がうるさくても、一人で本読んでた」
「春樹らしい」
「でも、周りを見てないわけじゃなかった」
体育で誰かが転べば見る。
困っている人がいれば手伝う。
圭が問題に詰まれば教える。
「それから、待ってくれるところ」
祐衣が微笑む。
「昨日も話しましたね」
「うん」
「分からない時も、言葉が出ない時も、急かさない」
なつきは思い出す。
図書室。
勉強会。
体育祭。
駅前。
短い沈黙。
「私ができた時、自分のおかげって言わない」
「横田さんが解いたって?」
美優が言う。
「うん」
「春樹、そういうところある」
「それが好き」
口にすると、胸が熱くなる。
「見つけてくれるところも」
「黒猫?」
「黒猫だけじゃない」
「知ってる」
美優が少し笑う。
「最近、横田さんの顔も見てる」
「美優さんも分かる?」
「分かるよ。春樹、前より横田さんを見るから」
その言葉に、なつきの胸が大きく鳴る。
「本当に?」
「うん」
「美優さんが言うなら、本当かも」
「私、春樹歴長いから」
その言い方に、少しだけ胸が痛む。
でも、なつきは笑った。
「そこは、ちょっと嫉妬する」
「早速?」
「うん」
美優は少し驚いたあと、声を立てずに笑った。
「言うんだ」
「言うことにしたから」
「そっか」
祐衣も柔らかく笑う。
「良いと思います」
「祐衣さんは?」
今度は、なつきが聞いた。
「春樹くんのどこが好き?」
祐衣の頬が、ほんの少し赤くなる。
「私もですか?」
「うん」
美優も興味深そうに身を乗り出す。
「聞きたい」
祐衣は、少しだけ本を抱えるような仕草をした。
今日は持っていないのに。
祐衣らしい動き。
「言葉が少ないところです」
「少ないところ?」
「はい」
祐衣は続ける。
「一般的には、話しにくいと思われるかもしれません」
「うん」
「でも、大國くんの短い言葉は、考えていないから短いのではありません」
なつきは頷く。
「ちゃんと考えてる」
「はい」
「必要な言葉を選んでる」
「そうです」
祐衣の表情が、少しやわらかくなる。
「それから、本を読む時に、作者の言葉を急いで決めつけないところ」
「どういうこと?」
美優が聞く。
「私がこの場面はこういう意味だと思うと話しても、大國くんは否定しません」
「うん」
「自分は違う読み方をしていても、どちらもあるかもしれないと言ってくれる」
なつきは昨日の感想会を思い出す。
春樹は風を見た。
祐衣は傷を見た。
なつきは距離を見た。
どれか一つが正解ではない。
「違う見方を怖がらないところが、好きです」
祐衣は最後にそう言った。
なつきの胸が少しだけ痛む。
祐衣も、春樹をちゃんと見ている。
自分とは違う部分を見て。
違う理由で好きになっている。
その気持ちは、本物だ。
「嫉妬する?」
美優がなつきへ聞く。
「うん」
「今?」
「少し」
なつきは正直に答えた。
祐衣が少し不安そうになる。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
「でも」
「私が聞いたから」
なつきは、指先へ入った力を抜く。
「祐衣さんの好きなところを聞けて、ちょっと苦しい。でも、知れてよかった」
「本当に?」
「うん」
「どうして?」
「私が知らない春樹くんを、祐衣さんは見てるから」
祐衣は何も言わず、なつきを見た。
「それを聞いたら、私も春樹くんのことをもっと知れる」
「横田さん」
「だから、嫉妬はするけど、聞きたい」
美優が小さく息を吐いた。
「二人とも、すごいね」
「美優さんは?」
なつきと祐衣が、ほぼ同時に聞いた。
美優は目を見開く。
「私?」
「うん」
「春樹くんのどこが好きか」
「好きか分からないって言ったじゃん」
「でも、離したくないところはあるでしょ?」
祐衣の問いは穏やかだった。
美優は少し考える。
「春樹は」
ゆっくり言葉を探す。
「変わらないところ」
「変わらない?」
「私がどれだけ騒いでも、変に機嫌取ったりしない」
美優は少し笑った。
「私が怒っても、泣いても、面倒くさがるけど、いなくならない」
幼い頃からの春樹。
美優が知っている春樹。
「私が失敗しても、次の日には普通に話す」
「うん」
「嫌なことは嫌って言うけど、ずっと引きずらない」
美優の声に、少し懐かしさが混ざる。
「私にとって、春樹は帰る場所みたいだった」
なつきの胸に、細い痛み。
でも、同時に理解もした。
美優が失いたくない理由。
恋人にしたいか分からなくても、誰かに取られたくない理由。
「だから、変わるのが怖い」
美優が言う。
「横田さんや祐衣と話す春樹は、私が知らない春樹だから」
「でも」
なつきが聞く。
「知らない春樹くん、嫌い?」
美優は少し考えた。
「……嫌いじゃない」
「うん」
「むしろ、楽しそうだと思う」
「うん」
「だから余計に、寂しい」
祐衣が頷いた。
「嬉しいのに寂しい」
「祐衣と同じ?」
「少し」
美優は祐衣を見る。
祐衣も美優を見る。
これまで、美優と祐衣は同じ特進科で。
友達でもあった。
でも、春樹について、ここまで話したことはなかったのだろう。
「祐衣」
「はい」
「今まで言わなかったね」
「美優さんも」
「うん」
二人の間に、少しだけ気まずい沈黙が落ちた。
「私達」
美優が苦笑する。
「友達なのに、春樹のこと全然話してなかった」
「言えば壊れる気がしていました」
「私も」
「同じだったんですね」
祐衣が笑う。
美優も、少しだけ笑った。
「横田さんが一番後から来たのに、一番先に言った」
「私?」
「うん」
美優はなつきを見た。
「好きって顔に出てたし」
「それは言ってない」
「でも分かった」
「昨日は怖いって言った」
「それも、私達より先」
祐衣が頷く。
「横田さんが聞いてくださったから、私も言えました」
なつきは少し恥ずかしくなる。
「私だけ怖がりだと思ってた」
「怖がりだから言えたのかも」
美優が言う。
「どういうこと?」
「怖いって分かってるから、そのままにできなかったんじゃない?」
なつきは少し考えた。
確かに。
怖くなければ、聞く必要もなかった。
失いたくないから、言葉にした。
「そうかも」
◇
気づけば、空き教室の外はかなり暗くなっていた。
廊下の照明が点いている。
窓の外では、運動部の練習が終わり始めていた。
三人は長い時間、話していた。
泣いてはいない。
大声も出していない。
でも、胸の奥にあったものを、少しずつ机の上へ置いた。
「これから」
祐衣が言う。
「どうしましょう」
「どうするって?」
美優が聞く。
「大國くんのことです」
三人の間に、再び緊張が走る。
なつきは、少しだけ考えた。
「普通にする」
「普通?」
「うん」
「遠慮しない?」
美優が聞く。
「できるだけ」
なつきは正直に答える。
「祐衣さんがいるから、春樹くんと話さないとかはしたくない」
「はい」
「でも、見せつけるみたいなこともしたくない」
「横田さんはしないと思います」
「分からない。嬉しいと黒猫揺らすし」
美優が笑う。
「それは止めなくていいでしょ」
「春樹くんが見るから」
「春樹が勝手に見てる」
「勝手にって」
少し笑いが起きる。
なつきは続ける。
「祐衣さんも、春樹くんと本の話していい」
「はい」
「美優さんも、昔の話していい」
「嫉妬するのに?」
「するけど」
なつきは息を吐く。
「私が嫌だからやめてって言うのは、違うと思う」
美優は少し驚いた顔をした。
「でも、すごく嫌な時は言うかも」
「うん」
「少しだけ待ってって」
「それは言っていいと思います」
祐衣が言う。
「私も、苦しい時は少し離れるかもしれません」
「うん」
「でも、何も言わずにいなくならないようにします」
美優も頷く。
「私も、嫌な態度取ったら、あとで言う」
「その場では?」
「その場では無理かも」
「美優さんらしい」
「横田さんも無理でしょ」
「うん」
三人で笑う。
「じゃあ」
美優が机の中央へ手を出した。
「約束する?」
「何を?」
なつきが聞く。
「春樹のことで嫉妬しても、勝手に友達やめない」
祐衣の表情が、やわらかくなる。
「良いと思います」
なつきも、少しだけ笑った。
「うん」
三人は、子どものように手を重ねるわけではなかった。
ただ、それぞれ自分の手を机の上へ置いた。
近い位置に。
「勝手に消えない」
なつきが言う。
「何かあったら、少しずつ話す」
祐衣が続ける。
「すぐ話せなくても、あとで言う」
美優が言った。
三人の言葉。
完璧な約束ではない。
守れない日もあるかもしれない。
嫉妬して。
傷ついて。
相手の顔を見たくないと思う日も。
それでも。
友達でいたいという気持ちまで、簡単になかったことにはしない。
◇
空き教室を出ると、廊下には亜衣と茜が待っていた。
「終わった?」
亜衣が聞く。
「うん」
なつきは答えた。
「長かったね」
「いっぱい話した」
茜が三人の顔を見る。
「大丈夫そうね」
美優が少し疲れたように笑う。
「大丈夫かは分からないけど」
祐衣が続ける。
「友達ではいられそうです」
亜衣は大きく息を吐いた。
「よかった」
「聞いてた?」
美優が尋ねる。
「聞いてないよ。さすがに」
「本当?」
「扉に耳つけたりしてない」
「少し考えた顔してる」
「考えただけ」
なつきが笑う。
緊張が少しほどけた。
「春樹くんは?」
なつきが聞く。
茜が答える。
「図書室にいるはずよ。紅秋くんと」
「まだいるかな」
「待っていると言っていたでしょう?」
「うん」
黒猫に触れたくなる。
今は、鞄の横で揺れている。
なつきは、そっと指先を伸ばした。
握らない。
小さく揺らす。
「嬉しい?」
美優が聞いた。
「うん」
「春樹に会えるから?」
「それも」
「他は?」
今度は美優が、春樹のように聞いた。
なつきは少し笑う。
「三人で話せたから」
祐衣が微笑む。
美優も、やわらかく笑った。
◇
図書室へ入ると、春樹と紅秋は奥の机にいた。
春樹は青い表紙の本を読んでいる。
紅秋はノートを開いている。
なつき達が入ってくると、春樹が顔を上げた。
最初に黒猫。
次になつきの顔。
それから、美優と祐衣。
「終わった?」
「うん」
なつきが答える。
「どうだった?」
春樹は、昨日より少し言葉を足して聞いた。
なつきは、美優と祐衣を見る。
二人とも、小さく頷いた。
「いっぱい話した」
「うん」
「美優さんも、祐衣さんも、私も」
「うん」
「嫉妬するかもしれない」
「うん」
「嫌になる時もあるかも」
「うん」
「でも、友達でいることは勝手にやめないって決めた」
春樹は、少しだけ目を見開いた。
紅秋も顔を上げる。
美優が言う。
「春樹のせいだからね」
「俺?」
「三人とも、春樹が関係してる」
「うん」
「うん、じゃない」
美優が少し笑う。
祐衣も、穏やかに言う。
「大國くんに責任を取っていただく、という意味ではありません」
「じゃあ、何?」
「私達が話したことを、軽く扱わないでほしいです」
祐衣の声は静かだった。
春樹は頷く。
「分かった」
「本当に?」
美優が聞く。
「うん」
「私達が嫉妬しても?」
「困るかもしれない」
「正直」
「でも、逃げない」
春樹は言った。
なつきの胸が、静かに熱くなる。
「分からないことは聞く」
祐衣の表情もやわらぐ。
「ありがとうございます」
美優は少しだけ春樹を見つめた。
「春樹、本当に変わったね」
「そう?」
「前なら、困るで終わってた」
「今も困る」
「でも、そのあとが増えた」
亜衣が後ろで強く頷く。
「昨日と同じ」
紅秋が春樹を見る。
「考えている成果は出ているようだな」
「少し」
なつきの胸が跳ねる。
「自分の気持ち?」
「それも」
「見つかった?」
「まだ」
美優と祐衣が、同時に春樹を見る。
春樹は少しだけ困った顔をした。
「見られると考えにくい」
美優が笑う。
「三人分だからね」
「重い?」
なつきが聞く。
春樹は少し考える。
「少し」
胸がきゅっとなる。
でも、春樹は続ける。
「でも、大事」
三人が黙った。
「大事だから、急いで適当に言いたくない」
なつきは、黒猫へ手を伸ばした。
小さく揺らす。
祐衣は目を伏せながら、少し笑った。
美優は困ったように額へ手を当てる。
「そういうこと言うから、余計に分からなくなるんだよ」
「何が?」
「春樹は分からなくていい」
「そう?」
紅秋がため息を吐く。
「春樹。自分の言葉が人へどう届くかも、少しずつ考えろ」
「考える」
◇
帰り道。
学校を出る頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
街灯が点く。
駅へ向かう生徒達の影が、道の上へ長く伸びる。
今日は、なつき、美優、祐衣、亜衣、茜、春樹、紅秋の七人で途中まで歩いた。
蓮は部活の用事で先に戻ったらしい。
少し不思議な並び。
でも、昨日までとは違う。
美優が春樹の昔話をした。
祐衣が春樹の本の読み方を好きだと言った。
なつきも、春樹のどこが好きなのか話した。
それを聞いたあとで、こうして同じ道を歩いている。
「横田さん」
祐衣が隣から呼ぶ。
「うん?」
「今日は、ありがとうございました」
「私こそ」
「怖かったですか?」
「すごく」
「私もです」
美優が反対側から言う。
「私も」
三人で少し笑う。
「また嫉妬するかな」
美優が聞く。
「すると思う」
なつきは答える。
「私もです」
祐衣も言う。
「じゃあ、今日の話意味なかった?」
「あるよ」
なつきは首を横に振った。
「嫉妬しない約束じゃないから」
「じゃあ何?」
「嫉妬しても、勝手にいなくならない約束」
美優は少し考える。
「そっか」
「うん」
「面倒くさいね、私達」
「うん」
祐衣が小さく笑う。
「とても」
春樹が少し前から振り返った。
「何の話?」
「春樹には教えない」
美優が即答する。
「どうして?」
「女子の話だから」
「そっか」
春樹は素直に前へ戻る。
三人は顔を見合わせて笑った。
◇
駅前へ近づき、それぞれが分かれる場所。
祐衣が先に別の道へ向かう。
「また明日」
「うん。また明日」
なつきが手を振る。
美優も続ける。
「祐衣、明日は本貸して」
「分かりました。美優さん向けに選びます」
「楽しみ」
祐衣は少し笑い、歩き出した。
次に、美優が蓮との待ち合わせ場所へ向かう。
別れる前。
美優はなつきの近くへ来た。
「横田さん」
「うん?」
「春樹のこと、まだ渡したくないって思うかも」
なつきの胸が少しだけ痛む。
でも、美優は続けた。
「その時、嫌な顔したらごめん」
「私もするかも」
「うん」
「でも、友達はやめない」
美優は少しだけ笑った。
「約束」
「うん。約束」
美優も歩き出す。
なつきは、その背中を見送った。
「横田さん」
春樹が呼ぶ。
「うん?」
「今日は、黒猫いっぱい動く」
「いっぱい話したから」
「嬉しい?」
「うん。疲れたけど」
「そっか」
「春樹くん」
「何?」
「私達、変かな」
「何が?」
「同じ人を好きかもしれないのに、友達でいたいって」
春樹は少し考えた。
「分からない」
「正直」
「でも」
春樹は続ける。
「三人がそれでいいなら、いいと思う」
「うん」
「俺は、いなくならないでほしい」
昨日と同じ言葉。
なつきの胸が温かくなる。
「それ、祐衣さんと美優さんにも言ってね」
「うん」
「私にだけ言ったら、また嫉妬される」
「難しい」
「うん。難しいね」
二人で少し笑う。
「でも、考えてね」
「うん」
「自分の気持ち」
「考えてる」
「今日は?」
「三人とも、怖くても話せる」
「それが春樹くんの気持ち?」
「違う」
「違うの?」
「気づいたこと」
なつきは少しだけ笑った。
「じゃあ、最初の発見」
「うん」
「次も見つけてね」
「うん」
春樹は頷いた。
「見つける」
◇
春樹と紅秋が駅へ向かって歩いていく。
なつきは亜衣と茜の隣に並んだ。
胸は疲れている。
たくさん話した。
聞きたくなかったことも、少し聞いた。
美優が春樹にとって帰る場所のような存在だったこと。
祐衣が春樹の言葉の少なさを好きなこと。
どちらも、なつきにはないものだった。
でも。
春樹は、なつきのことも見ている。
黒猫だけではなく。
本を読む表情。
分からないと言えるようになったこと。
嬉しいも、寂しいも言えるようになったこと。
それは、美優にも祐衣にもない、なつきと春樹の間に積み重なったもの。
比べなくてもいい。
比べてしまう日はあっても。
自分達にしかない時間まで消えるわけではない。
「なつき」
亜衣が言う。
「どうだった?」
「すごく疲れた」
「うん」
「嫉妬もした」
「うん」
「美優さん、ずるいって思った」
「うん」
「祐衣さんの好きなところ聞いて、苦しくなった」
「うん」
「でも」
なつきは黒猫をそっと揺らした。
「友達でいたいって、やっぱり思った」
茜が穏やかに微笑む。
「それなら、今日の答えとしては十分ね」
「答え?」
「ずっと同じ答えでなくてもいいのよ」
茜は言った。
「今日は友達でいたい。明日もそう思えたら、また続ければいい」
「思えない日は?」
「少し休めばいいわ」
なつきは頷いた。
「うん」
秋の夜風が、制服の袖を揺らす。
黒猫も揺れる。
君の隣を目指す道には、自分一人だけがいるわけではない。
同じ場所を目指している人がいる。
ずっと前から隣にいた人もいる。
そのことは、怖い。
苦しい。
けれど。
誰かを蹴落とさなければ進めない道にはしたくなかった。
好きな人が同じでも。
嫉妬しても。
傷ついても。
それでも友達でいたいと思う気持ちを、大切にしたい。
簡単ではない。
きっと、何度も揺れる。
それでも。
なつきは今日、また一つ、自分の気持ちを言葉にできた。
春樹の隣へ立つために。
そして、自分が自分を嫌いにならないために。
なつきは亜衣と茜の隣を歩きながら、暗くなり始めた水戸の道を、ゆっくりと家へ向かって進んでいった。




