第124話 三人で開く本と、それぞれの見つけ方
翌日の放課後。
図書室の窓には、秋の薄い光が斜めに差し込んでいた。
夏の頃より、日が落ちるのが少し早くなっている。
窓の外に見える校庭では、運動部の生徒達がまだ練習を続けていた。
ボールが地面を弾む音。
遠くから聞こえる掛け声。
短く鳴る笛。
それらの音は、閉じた窓と厚いカーテンにやわらかく遮られ、図書室の中へ届く頃には、どこか遠い世界の出来事のようになっていた。
室内には、本の匂いが満ちている。
古い紙と、新しく入った本のインク。
棚の奥に溜まったわずかな埃。
夕方の空気と混じり合った、図書室特有の静かな匂い。
なつきは、その空気を胸いっぱいに吸い込みながら、鞄を抱え直した。
今日は、答案直しのためではない。
問題集も一応入っている。
返ってきた答案も、折れないようファイルへしまってある。
けれど、今日の一番の目的は別にあった。
祐衣が選んでくれた本について、三人で話すこと。
なつき。
春樹。
祐衣。
図書室で、本を通じて少しずつつながってきた三人。
考査前から約束していた、読書の感想会。
そう思うだけで、なつきの胸は少し落ち着かなくなった。
「緊張してる?」
隣を歩いていた亜衣が、小声で聞いてきた。
「少し」
「本の感想を話すだけなのに?」
「それだけじゃないから」
「何が?」
なつきはすぐには答えなかった。
図書室の入口は、もう少し先。
春樹は紅秋と一緒に、少し後ろを歩いている。
茜もその近く。
圭、田辺、島中は、今日は部活や用事があるため参加しないらしい。
圭は朝から、祐衣に選んでもらった本を鞄へ入れてきたことを何度も報告していた。
昼休みには、すでに二十ページ読んだと誇らしげに言っていた。
けれど、今日は用事があるため、図書室には来られない。
『明日は絶対感想言うから!』
そう宣言して教室を出ていった圭の姿を、なつきは思い出した。
「春樹くんが、どう読んだのか聞きたいし」
なつきは、ゆっくり言った。
「祐衣さんの感想も聞きたい。それに……」
「それに?」
「私が感じたことも、ちゃんと伝えたい」
亜衣は少しだけ表情をやわらかくした。
「うん」
「前は、本の感想なんて、好きだったとか面白かったとか、それくらいしか言えなかった」
「今は違う?」
「少し」
なつきは鞄の中へ入れた本を思い浮かべる。
祐衣から借りた、柔らかな色の表紙の本。
まだ読み終わってはいない。
けれど、昨日話した雨の日の喫茶店の場面から、さらに物語は進んでいた。
主人公は、何度も同じ喫茶店へ通うようになる。
最初は一人になりたくて入った場所。
けれど、店主の何も聞かない優しさ。
窓際の席。
温かい飲み物。
それらが少しずつ、主人公にとって帰りたい場所へ変わっていく。
そして、その店にはもう一人、いつも少し離れた席で本を読んでいる人物がいる。
会話は少ない。
最初は、挨拶すらない。
けれど、雨の日に傘を忘れた主人公へ、黙って予備の傘を差し出す。
次に会った時、主人公はその人物へ小さな焼き菓子を渡す。
たったそれだけ。
でも、その場面を読んだ時、なつきは胸が温かくなった。
「最近、本の中の人の気持ちを、前より考えるようになった気がする」
「春樹くんの気持ちを考えてるから?」
亜衣がすぐに言う。
なつきは頬を赤くした。
「それも……あるかもしれない」
「認めた」
「でも、春樹くんだけじゃなくて」
なつきは続ける。
「美優さんとか、祐衣さんとか。前は、春樹くんの近くにいる人ってだけで、怖くなったりしてた」
「うん」
「今は、みんなそれぞれ考えてることがあるんだって、少しずつ分かってきた」
亜衣は何も挟まずに聞いていた。
「だから、本の中の人も、見えてることだけじゃないのかもって思う」
「いい変化だね」
「うん」
なつきは黒猫へ指先を触れた。
「祐衣さんが、この本を私に選んでくれた理由も、ちゃんと知りたい」
亜衣は小さく頷いた。
「じゃあ今日は、聞く日でもあるんだね」
「うん」
「話す日でも?」
「うん」
「春樹くんを見る日でも?」
「それは、いつも」
答えてから、なつきは自分で驚いた。
亜衣も驚いた顔をしたあと、すぐに笑いを堪えるように口元を押さえた。
「なつき、強くなったね」
「言ってから恥ずかしくなった」
「でも撤回しない?」
「……しない」
亜衣は満足そうに頷いた。
◇
図書室へ入ると、カウンターには祐衣がいた。
返却された本を分類しているところらしい。
本の背表紙を確認し、分類番号ごとに小さな台車へ積んでいる。
白石祐衣は、学校の図書室によく馴染む。
静かな動き。
落ち着いた声。
本に触れる指先も丁寧で、乱暴な音をほとんど立てない。
なつき達が入ってきたことに気づくと、祐衣は顔を上げた。
「こんにちは」
「祐衣さん、こんにちは」
「こんにちは」
春樹も短く挨拶する。
紅秋、亜衣、茜も続いた。
祐衣の視線が、なつきの鞄へ落ちる。
「本、持ってきてくださったんですね」
「うん」
なつきは嬉しくなって、鞄の上から本の形を確かめた。
「昨日より少し進んだよ」
「どこまで?」
「喫茶店で、傘を借りた人に焼き菓子を渡すところ」
祐衣の表情が、ほんの少し明るくなった。
「あの場面まで」
「うん」
「どうでした?」
「好き」
すぐに答えたあと、なつきは少しだけ考え直す。
「……でも、今日はちゃんと後で話す」
祐衣が笑う。
「楽しみにしています」
春樹も青い表紙の本を持っていた。
祐衣がそちらを見る。
「大國くんは?」
「三つ目の町」
「もうそこまで読んだんですか?」
「うん」
「やはり早いですね」
春樹は本の表紙を一度見た。
「風の町」
「はい」
「好きだった」
祐衣は少し驚いた。
「本当ですか?」
「うん」
「どのあたりが?」
「あとで話す」
春樹がそう返すと、祐衣は一瞬だけ目を丸くした。
なつきも少し驚く。
春樹が、自分から感想をあとで話すと言った。
以前なら、聞かれれば答える。
言葉を探し、短く返す。
でも今日は、自分から話すことを約束している。
「春樹くんも、楽しみにしてた?」
なつきが聞く。
「何を?」
「今日の本の話」
春樹は少しだけ考えた。
「うん」
「本当に?」
「うん」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
祐衣がその動きを見て、微笑む。
「嬉しい時の動きですね」
「祐衣さんも知ってる?」
「前回、大國くんが教えてくれましたから」
「そっか」
なつきは少し恥ずかしくなった。
でも、黒猫から手を離さなかった。
「今日は、たぶんいっぱい揺らす」
「それは楽しみです」
祐衣の笑顔は、いつもより少しやわらかかった。
◇
祐衣の当番が終わるまで、なつき達は奥の机で待つことになった。
答案直しをする者。
宿題を進める者。
本を読む者。
それぞれが静かに時間を使う。
亜衣と茜は、返却された英語の答案をもう一度確認していた。
紅秋は商業科目の間違いをノートへまとめている。
春樹は、祐衣から借りた本を開いた。
なつきも、自分の本を取り出す。
柔らかな色の表紙。
手に取ると、少しだけ落ち着く。
昨日読み終えた場面の続きから開く。
けれど、なつきはすぐに読み始められなかった。
斜め向かいに座る春樹が、気になった。
春樹は静かに本を読んでいる。
視線がページの上をゆっくり進む。
時々、少しだけ止まる。
読み返しているのだろうか。
紙をめくる指。
本を押さえる手。
ページの端に落ちる夕方の光。
その一つ一つが、なつきの目に入る。
「読まないの?」
春樹が本から顔を上げずに言った。
なつきは肩を揺らした。
「見てたの、分かった?」
「ページ、動いてないから」
「そっか」
「何かあった?」
「ううん」
なつきは少し迷ってから、正直に言った。
「春樹くんが本読んでるところ、見てた」
春樹が顔を上げた。
目が合う。
なつきは頬が熱くなった。
「ごめん。邪魔した?」
「してない」
「嫌じゃない?」
「うん」
春樹は少し考える。
「横田さんも、読む時静か」
「図書室だから」
「それもある」
「他は?」
「本に入ってる時、周り見てない」
「そうなの?」
「うん」
今度は、自分が見られていたと分かり、なつきはさらに恥ずかしくなる。
「春樹くんも、私のこと見てた?」
「たまに」
「どうして?」
春樹は答えを探すように、少し黙った。
図書室の静けさ。
紅秋のペンが動く音。
亜衣が答案をめくる音。
遠くのカウンターで祐衣が本を積む音。
「何読んでる時に、表情が変わるから」
「私、顔に出る?」
「少し」
「どんなふうに?」
「悲しいところは、眉が下がる」
「うん」
「嬉しいところは、少し笑う」
「うん」
「驚いた時は、ページから顔が離れる」
なつきは、思わず黒猫へ手を伸ばした。
「今は?」
「緊張」
「握ってるから?」
「うん」
春樹の口元が、ほんの少し緩む。
なつきも笑った。
「本を読んでるだけなのに、そんなに見られてたんだ」
「いつもじゃない」
「たまに?」
「うん」
「でも、見つけてた?」
「うん」
胸が、静かに温かくなる。
春樹は、黒猫だけではなく。
なつきの表情も見つけている。
本を読んでいる時の、小さな変化まで。
「じゃあ、私ももっと春樹くん見る」
「今も見てる」
「……分かってた?」
「うん」
「恥ずかしい」
「大丈夫」
「その大丈夫、何に対して?」
「見られても嫌じゃない」
なつきは言葉を失った。
春樹は、また本へ視線を戻す。
まるで、今の言葉が特別なものではなかったように。
でも、なつきの胸の中では、何度も響いた。
見られても嫌じゃない。
春樹を見ることを、許されたような気がした。
もちろん、じっと見続けるのは違う。
でも。
春樹を見つけること。
春樹の小さな変化に気づくこと。
それを嫌ではないと言ってくれた。
「なつき」
亜衣が小声で呼んだ。
なつきが顔を向けると、亜衣は答案の陰からこちらを見ていた。
口元だけで、
『強い』
と言っている。
なつきは顔を伏せ、本を開いた。
文字がなかなか頭へ入ってこなかった。
◇
三十分ほど経った頃。
祐衣の当番が終わった。
本棚へ返却本を戻し終え、カウンターの周囲を確認してから、祐衣が奥の机へやってくる。
「お待たせしました」
「お疲れ様」
なつきが言う。
「ありがとうございます」
祐衣は空いている席へ座った。
なつきの隣。
向かいに春樹。
少し離れた位置に、亜衣と茜。
紅秋は答案直しを続けているが、時々こちらの話も聞いているようだった。
「では」
祐衣は少しだけ姿勢を整えた。
「感想会ですね」
なつきは思わず笑う。
「なんか、ちゃんとした会みたい」
「約束していましたから」
「うん」
「どちらからにしますか?」
祐衣がなつきと春樹を交互に見る。
なつきは少し迷った。
自分から話したい気持ちはある。
でも、春樹の風の町の感想も気になる。
「春樹くんから」
なつきが言う。
春樹が顔を上げる。
「俺?」
「うん。風の町、好きだったんでしょ?」
「うん」
「聞きたい」
祐衣も頷く。
「私もです」
春樹は少しだけ本の表紙を見た。
そして、ゆっくり開く。
風の町の章。
ページの途中に、小さな栞が挟まれている。
「町に入る前」
春樹が言う。
「ずっと向かい風だった」
「はい」
「旅人、進めない」
「うん」
なつきも、その場面を想像する。
「でも町の中では、風が止まってた」
「そうですね」
「みんな、風を怖がって家から出ない」
祐衣は静かに聞いている。
「旅人は、最初は楽だと思う」
春樹は続ける。
「風がないから」
「うん」
「でも、町の人は何も変わらない」
「風が吹かないから?」
なつきが聞く。
「うん。船も動かない。風車も止まってる」
「安全だけど、止まってる」
「うん」
春樹は少しだけ言葉を探した。
「向かい風は、進みにくい。でも、風がないと動けないものもある」
祐衣の表情がやわらかくなる。
「大國くんは、そこをそう読んだんですね」
「白石は?」
「私は、町の人達が風を恐れるようになった理由の方を強く感じました」
「昔の嵐?」
「はい」
祐衣は本を開かずに話し始めた。
何度も読んだのだろう。
内容が頭に入っている。
「一度、大きな嵐で傷ついたから、二度と風が吹かないように町全体を閉じてしまった」
「うん」
「守ろうとしたこと自体は、間違いではなかったと思うんです」
「でも、止まった」
「はい」
祐衣の声は静かだった。
「傷つかないために閉じた場所が、同時に何も始まらない場所になってしまった」
なつきは、その言葉をゆっくり受け取った。
傷つかないために閉じる。
何も始まらない。
以前の自分。
春樹を好きだと認めることが怖かった。
美優や祐衣が春樹の近くにいるのを見るのが怖かった。
傷つかないように、気持ちを隠そうとした。
話しかけなければ、失敗もしない。
近づかなければ、拒まれることもない。
でも、それでは何も変わらない。
「なつき?」
亜衣が少し離れた場所から呼ぶ。
「どうしたの?」
「ううん」
なつきは首を横に振った。
「ちょっと、自分みたいだなって」
祐衣がこちらを見る。
「風の町が?」
「うん」
なつきは、自分の指先を見つめた。
「傷つきたくなくて、何もしなかった時の私」
春樹が静かに聞いている。
「春樹くんに話しかけたいのに、嫌われたらどうしようって思ってた」
言葉にする。
以前よりは言える。
でも、今でも少し恥ずかしい。
「美優さんや祐衣さんが近くにいると、私じゃ無理かもって思ってた」
祐衣の瞳が、わずかに揺れた。
「だから、何もしない方が楽だった」
「でも、した」
春樹が言った。
なつきは顔を上げる。
「何を?」
「話しかけた」
「うん」
「図書委員も」
「春樹くんと一緒だったから」
「勉強会も」
「うん」
「体育祭も、声出した」
春樹は、一つずつ見つけてくれる。
なつきが動いたこと。
閉じた町から、少しずつ外へ出たこと。
「向かい風、あった?」
春樹が聞く。
なつきは少し考えた。
「いっぱい」
島中。
田辺。
美優。
祐衣。
白石への嫉妬。
自分の自信のなさ。
春樹の短い言葉を、悪い意味に取ってしまったこと。
自分の中にある怖さ。
「でも」
なつきは黒猫へ触れた。
「風があったから、動けたのかも」
祐衣が静かに頷いた。
「大國くんの感想とつながりましたね」
「うん」
なつきは春樹を見る。
「進みにくいけど、風がないと動けないものもある」
「うん」
「今なら、少し分かる」
春樹も小さく頷いた。
◇
「では、次は横田さんの本ですね」
祐衣が言った。
なつきは、自分の本を机の上へ置いた。
「私は、まだ途中だけど」
「途中だからこそ、今感じていることがあります」
「うん」
なつきは、傘の場面を開いた。
主人公が、いつも本を読んでいる人物から予備の傘を渡される。
ほとんど会話はない。
ただ、差し出される傘。
次に会った時に渡す焼き菓子。
「この二人」
なつきは言った。
「全然話してないのに、少しずつ気にしてる」
「はい」
「最初は、お互いに同じ店にいるだけ」
「うん」
春樹もページを見る。
「でも、相手が困ってるのを見つけた」
「傘?」
「うん」
「そう」
なつきは嬉しくなった。
「傘を渡した人、ずっと主人公を見てたわけじゃないと思う」
「うん」
「でも、困ってる時には気づいた」
「見つけた」
春樹が短く言った。
その言葉に、胸が鳴る。
「うん。見つけた」
なつきは黒猫をそっと揺らした。
「春樹くんみたいだと思った」
春樹が少し目を瞬かせる。
「俺?」
「また?」
亜衣が思わず小声で言い、茜が隣で笑う。
なつきは恥ずかしくなりながらも続けた。
「いつもずっと見てるわけじゃないのに」
「たまに見てる」
春樹が言う。
「うん。でも、私が困ってる時とか、緊張してる時は見つける」
「黒猫で」
「黒猫だけじゃない」
なつきは答えた。
「顔も見てるって、さっき言った」
「うん」
「だから、この人みたいだなって」
春樹は少しだけ黙った。
祐衣が、静かに二人を見ている。
「横田さんは、焼き菓子を渡した主人公の方でもあると思います」
祐衣が言った。
「私が?」
「はい」
「どうして?」
「受け取ったものを、そのままにしないから」
なつきは祐衣を見る。
「傘を借りた主人公は、ありがとうと言うだけでも良かったはずです」
「うん」
「でも、次に会う時のために焼き菓子を選んだ」
「うん」
「横田さんも、受け取った言葉を誰かへ渡しています」
美優へ。
亜衣へ。
圭へ。
できるようになったことは、結果だけでは消えない。
次は分かる。
“だけ”ではなく、“も”。
春樹からもらった言葉を、少しずつ別の誰かへ返した。
「私、主人公みたい?」
「はい」
祐衣は微笑んだ。
「それに、大國くんから受け取ったものを、大國くんにも返そうとしています」
なつきの胸が熱くなる。
考査前。
春樹に大丈夫と言ってもらった。
翌日、自分も春樹へ大丈夫と言った。
支えてもらうだけではなく、支えたいと思った。
「祐衣さん、見てたんだね」
「皆さんの近くにいましたから」
祐衣の声は穏やかだった。
「横田さんだけではなく、大國くんも少しずつ変わっているように見えます」
「春樹くんも?」
なつきが聞く。
祐衣は春樹へ視線を向けた。
「以前より、自分から言葉を足すようになりました」
春樹は首を傾げる。
「そう?」
「はい」
祐衣は笑う。
「前なら、『うん』で終わっていたところに、もう一言増えることがあります」
亜衣が強く頷いている。
「分かる」
茜も言う。
「確かにそうね」
紅秋が答案から顔を上げた。
「増えたな」
春樹は少しだけ周囲を見た。
「みんな思ってる?」
「思ってる」
なつきが答えた。
「今日も、見られても嫌じゃないって言ってくれた」
言ってから、みんなの前だったことに気づく。
亜衣が完全に固まった。
茜が目を少し見開く。
祐衣も一瞬だけ驚いた顔をした。
紅秋は、ゆっくり春樹を見る。
「春樹」
「何?」
「また無自覚に強いことを言ったのか」
「本を読んでるところを見られても嫌じゃないって言った」
「説明するとさらに強いな」
なつきは顔を伏せた。
「今のなし」
「なしにはならない」
亜衣が小声で言う。
「もう聞いた」
「亜衣ちゃん」
春樹は少し考えた。
「でも、本当」
なつきが顔を上げる。
「本当?」
「うん。横田さんなら」
図書室の空気が止まった。
今度こそ、完全に。
ページをめくる音。
遠くで椅子がわずかに動く音。
外のグラウンドから聞こえる掛け声。
それらだけが、妙に鮮明に聞こえる。
「……私なら?」
なつきは聞き返した。
「うん」
春樹は、なぜ周囲が静かになったのか分かっていないような顔で頷いた。
「横田さんに見られるのは、嫌じゃない」
胸の奥が、熱くなる。
黒猫を握りそうになって。
でも、今は緊張だけではない。
なつきは、指先の力を少し緩めた。
そして、小さく揺らした。
「嬉しい」
「うん」
「すごく嬉しい」
春樹の表情も、ほんの少しやわらかくなった。
「よかった」
祐衣は、二人を見ながら静かに微笑んだ。
けれど、その微笑みの奥に、またわずかな寂しさが見えた気がした。
なつきは、それを見逃さなかった。
◇
感想会は、そのあとも続いた。
祐衣が本を選んだ理由。
なつきの好きそうな、日常の小さな変化。
春樹が好きそうな、静かな風景と少ない会話。
「二人とも、派手な事件より、小さな変化を大切に読むと思ったんです」
祐衣が言う。
なつきは、本の表紙へ目を落とした。
「私と春樹くん、似てる?」
「少し」
祐衣は頷く。
「同じではありません」
「うん」
「でも、読んだあとに残るものを大切にするところは、似ていると思います」
春樹も祐衣を見る。
「白石は?」
「私ですか?」
「どう読む?」
祐衣は少しだけ驚いた。
春樹から、自分の読み方について聞かれると思っていなかったのかもしれない。
「私は……」
祐衣は言葉を選んだ。
「登場人物が言わなかったことを考えるのが好きです」
「言わなかったこと?」
なつきが聞く。
「はい。口にした言葉だけでなく、なぜそれを言わなかったのか。どこで黙ったのか」
「祐衣さんらしい」
「そうでしょうか」
「うん。人のこと、よく見てるから」
祐衣は少し照れたように笑った。
「横田さんには言われたくありません」
「私?」
「最近、とてもよく見ています」
「春樹くんを?」
「大國くんだけではなく」
祐衣は穏やかに言った。
「美優さんのことも。私のことも」
なつきは、さっき見えた祐衣の寂しそうな表情を思い出した。
「祐衣さん」
「はい?」
聞いていいのだろうか。
今、寂しかった?
春樹の言葉を聞いて、何か思った?
以前のなつきなら、聞けなかった。
祐衣が春樹を好きなのではないか。
その答えが怖かったから。
でも今は、祐衣の気持ちを怖いものとして扱いたくなかった。
祐衣は、友達になりつつある。
なつきに本を選び。
英語を教え。
結果を一緒に喜んでくれた。
「何か、言わなかった?」
なつきは、本の話に重ねるように聞いた。
祐衣の瞳が、わずかに揺れた。
「今?」
「うん」
図書室の空気が、少しだけ変わった。
春樹も祐衣を見る。
亜衣と茜は何も言わない。
紅秋も、今度は完全に答案から顔を上げていた。
祐衣はすぐには答えなかった。
自分の手元にある本へ視線を落とす。
指先が、表紙の端をなぞる。
「少し」
やがて、祐衣は言った。
「寂しいと思いました」
なつきの胸が静かに鳴る。
やはり、見間違いではなかった。
「どうして?」
声を柔らかくする。
責めるようにならないように。
答えを急かさないように。
春樹がしてくれるように。
祐衣は、小さく息を吸った。
「横田さんと大國くんが、私の知らないところでも少しずつ近づいているから」
誰も言葉を挟まなかった。
なつきの胸に、わずかな痛みが走る。
祐衣も、春樹に好意がある。
以前から分かっていた。
けれど、はっきりと聞くのは初めてに近かった。
怖くないわけではない。
胸は揺れる。
黒猫を握りそうになる。
でも、なつきは祐衣から目を逸らさなかった。
「大國くんに見つけてもらえる横田さんが、少し羨ましいです」
祐衣は続けた。
声は静かだった。
泣いてはいない。
責めてもいない。
ただ、自分の中にあった気持ちを言葉へしている。
「でも」
祐衣は顔を上げた。
「二人が話せるようになったことを、嬉しいとも思っています」
「両方?」
なつきが聞く。
「はい。両方です」
祐衣は少しだけ困ったように笑った。
「だから、うまく言えませんでした」
なつきは、自分の胸の揺れをそのまま感じた。
祐衣が羨ましいと思う。
春樹に見つけてもらえる自分を。
その言葉は、少し怖い。
でも同時に。
祐衣も、なつきと同じように揺れているのだと分かった。
羨ましい。
寂しい。
でも嬉しい。
矛盾した気持ち。
どちらか一つだけではない。
「祐衣さん」
「はい」
「言ってくれてありがとう」
祐衣が少し驚いた。
「怖くなかったですか?」
「少し怖い」
なつきは正直に答えた。
「胸も、ちょっと痛い」
亜衣が心配そうになつきを見る。
なつきは黒猫を握った。
「でも、祐衣さんが何も感じてないふりをする方が嫌かも」
祐衣の瞳が揺れる。
「友達だから」
なつきは言った。
「全部、平気なふりしないでほしい」
祐衣は、しばらく何も言わなかった。
目を伏せる。
唇が、ほんの少し震えたように見えた。
「横田さんは、強いですね」
「強くないよ」
なつきは首を横に振った。
「今も黒猫、握ってる」
祐衣が手元を見る。
なつきは少し笑った。
「怖いから」
「それでも、聞いてくれました」
「祐衣さんも言ってくれたから」
春樹は、二人の間で静かに聞いていた。
自分が話の中心にいることを、どこまで理解しているのか分からない。
けれど、逃げずに聞いている。
「春樹くん」
なつきが呼ぶ。
「うん?」
「今、どう思ってる?」
急な問い。
春樹は少し考えた。
「二人とも、言ってくれてよかった」
「それだけ?」
亜衣が小声で言い、茜が肘で軽く止める。
春樹は続けた。
「白石が寂しかったこと、知らなかった」
祐衣が顔を上げる。
「横田さんが怖いことも、全部は分からなかった」
「うん」
「でも、今は少し分かった」
春樹の言葉は短い。
けれど、誰か一人を選ぶような答えではなかった。
今は、それでいいとなつきは思った。
春樹自身も、自分の気持ちを見つけている途中なのだ。
「俺も、言わないと分からないことある」
春樹が言った。
紅秋が少しだけ目を細める。
「何を言う?」
なつきが聞く。
春樹はなつきと祐衣を交互に見た。
「二人と本の話するの、楽しい」
祐衣が目を瞬かせる。
なつきも少し驚く。
「白石が選ぶ本も好き」
「ありがとうございます」
「横田さんの感想も、聞きたい」
胸が温かくなる。
「うん」
「どちらかがいなくなるのは、嫌」
静かな声。
祐衣の瞳が、わずかに潤んだように見えた。
なつきも胸が詰まる。
恋愛としての答えではない。
けれど、春樹は二人との時間を大切だと言った。
今の三人にとって、それは大きな言葉だった。
「私も」
なつきが言う。
「祐衣さんがいなくなるの、嫌」
祐衣がなつきを見る。
「春樹くんと話せる時間は大切。でも、祐衣さんと話せるようになったことも大切」
祐衣は、ゆっくり頷いた。
「私もです」
「本当?」
「はい」
祐衣は、少しだけ笑った。
「横田さんと友達になれたことを、なくしたくありません」
なつきは黒猫から手を離した。
握っていた指が、少し痛い。
でも、胸はさっきより軽くなっていた。
◇
しばらく、三人の間に沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。
言葉にした気持ちが、それぞれの胸へ届くまで待つための沈黙。
図書室には、本をめくる音が戻ってきていた。
外の校庭では、練習終了を知らせる笛が鳴った。
夕方の光が、さらに低くなる。
「本の話」
春樹が言った。
「続ける?」
なつきは一瞬驚き、それから笑った。
「うん」
祐衣も笑う。
「続けましょう」
亜衣が小声で息を吐いた。
「春樹くんらしい」
茜が頷く。
「今は、それが一番いいのかもしれないわね」
祐衣は、本の続きを開いた。
「横田さんが読んだ場面の少し先に、主人公が相手の名前を初めて知る場面があります」
「まだそこ読んでない」
「では、これ以上は言いません」
「楽しみ」
春樹が言う。
「名前を知らなくても、傘は渡せる」
「うん」
「でも、名前を知ると変わる?」
祐衣は少し考えた。
「変わると思います」
「どう?」
「相手が、ただ同じ店にいる人ではなくなる」
なつきはその言葉を受け取った。
名前を知る。
好きな本を知る。
苦手なものを知る。
緊張する時の癖を知る。
言葉の短さの奥を知る。
知るたびに、相手が特別になっていく。
「私も、春樹くんのこと最初は苗字しか知らない人みたいだった」
「同じクラスだった」
「知ってたけど、話したことなかったから」
「うん」
「今は、好きな本も知ってる」
言ってから、「好き」という言葉に自分で反応する。
好きな本。
春樹が好き。
同じ音。
亜衣が少しだけ肩を揺らしたが、何も言わなかった。
「春樹くんは、私のこと何知ってる?」
なつきは聞いた。
春樹は少し考える。
「ゆっくり進む話が好き」
「うん」
「簿記は前よりできる」
「うん」
「嬉しい時、黒猫を揺らす」
「うん」
「緊張すると握る」
「それは何回も言われた」
「声を出す時、最初は小さい」
「体育祭?」
「うん。でも、途中から大きくなる」
なつきの胸が温かくなる。
春樹は続けた。
「分からないって言えるようになった」
「うん」
「最近、嬉しいも言う」
「うん」
「寂しいも」
「うん」
「俺を、よく見てる」
なつきの頬が熱くなる。
「それも知ってる?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
祐衣が、そのやり取りを静かに聞いていた。
少し寂しそうではある。
でも、もう無理に笑っているようには見えなかった。
なつきは今度、祐衣を見る。
「私は、祐衣さんのこと何知ってるかな」
「私ですか?」
「うん」
なつきは考える。
「本を選ぶのが上手」
「ありがとうございます」
「英語を教えるのも上手」
「それは、皆さんが聞いてくださるからです」
「人の言わなかったことを考えるのが好き」
「はい」
「静かだけど、何も感じてないわけじゃない」
祐衣の表情が少し変わる。
「寂しい時もある」
「……はい」
「それを、今日言ってくれた」
「はい」
なつきは微笑んだ。
「だから、前より祐衣さんのこと知った」
祐衣も、ゆっくり笑った。
「私も、横田さんのことを前より知りました」
「何を?」
「怖くても、聞こうとする人」
なつきの胸が、静かに熱くなった。
「それから、受け取ったものを誰かへ返せる人」
焼き菓子を渡す主人公。
祐衣がなつきをそう読んでくれた。
「ありがとう」
「はい」
春樹が祐衣を見る。
「白石のこと、俺も前より知った」
「何をですか?」
「寂しいって言う」
あまりにもそのままの言葉で、祐衣は一瞬固まった。
亜衣が噴き出しそうになり、口元を押さえる。
春樹は続けた。
「でも、本の話は続ける」
祐衣の瞳が、少しやわらかくなる。
「はい」
「それは、強い」
祐衣は目を見開いた。
春樹の言葉は短い。
でも、祐衣の胸へ届いたことが、表情から分かった。
「ありがとうございます」
「うん」
◇
感想会が終わる頃には、図書室の窓の外は薄暗くなっていた。
室内の照明が、机の上の本を白く照らしている。
なつきは本へ栞を挟んだ。
今日話した場所。
焼き菓子を渡した場面。
この先、主人公は相手の名前を知る。
関係がまた一つ変わる。
なつきは続きを読むのが楽しみだった。
物語だけではない。
次に三人で話す時、自分達の関係も少し変わっているかもしれない。
祐衣の気持ちを聞いた。
なつきの怖さも伝えた。
春樹も、自分の言葉を置いた。
どちらかがいなくなるのは嫌。
その言葉は、恋の答えではない。
けれど、今の三人が同じ机に座るための、大切な言葉だった。
「そろそろ帰りましょうか」
茜が時計を見て言った。
紅秋もノートを閉じる。
「そうだな」
亜衣は椅子を戻しながら、なつきの耳元へ小さく言った。
「大丈夫?」
「うん」
「本当に?」
なつきは少し考える。
「胸は、まだ少し痛い」
祐衣が春樹を好きかもしれない。
その事実は消えない。
これからも、揺れることはあるだろう。
「でも」
なつきは祐衣を見る。
祐衣は本を抱えながら、春樹と返却期限について話している。
「前より、祐衣さんを怖いと思わない」
「うん」
「祐衣さんも、同じように悩んでるって分かったから」
亜衣は優しく頷いた。
「それなら、今日話せてよかったね」
「うん」
◇
図書室を出る。
廊下は、夕方を通り越して夜へ近づいていた。
窓の外には、部活を終えた生徒達が校舎へ戻ってくる姿が見える。
汗を拭きながら笑う声。
顧問へ挨拶する声。
校庭の照明が、少しずつ点き始めていた。
なつきは春樹の隣に近い位置を歩いた。
反対側には祐衣。
三人で並んでいる。
少し不思議だった。
以前なら、この並びは苦しかったかもしれない。
春樹の隣に祐衣がいる。
自分と同じように、春樹へ気持ちを持つ人。
でも今は。
胸が揺れながらも、ここにいられる。
「横田さん」
祐衣が声をかける。
「うん?」
「今日は、聞いてくださってありがとうございました」
「ううん。言ってくれてありがとう」
「嫌われるかもしれないと思いました」
なつきは足を少しだけ緩めた。
「私も、怖かった」
「はい」
「でも」
なつきは祐衣を見る。
「祐衣さんと友達でいたい」
祐衣の表情が、ゆっくりやわらかくなる。
「私もです」
「春樹くんのことがあっても?」
少し直球だった。
亜衣が後ろで息を呑む気配がした。
祐衣は逃げなかった。
「はい」
「私も」
なつきは言った。
「たぶん、嫉妬することはある」
「私も、あると思います」
「でも、その時も言えるかな」
「少しずつ」
祐衣は微笑んだ。
「今日のように」
「うん」
春樹は二人の会話を聞いていた。
「春樹くんも」
「何?」
「言わないと分からないこと、言ってね」
「うん」
「私達だけ言うの、ずるいから」
祐衣も少し笑う。
「そうですね」
春樹は少しだけ困ったような顔をした。
「何を言えばいい?」
紅秋が後ろから言う。
「まず、自分がどう思っているかを考えろ」
「考える」
「それを、言える範囲で言えばいい」
「分かった」
春樹は頷いた。
なつきは、春樹が何を思っているのか知りたい。
でも、急かしたくはない。
春樹の速度で。
春樹自身が見つけた言葉を、いつか聞きたい。
◇
昇降口へ着く。
靴を履き替える生徒達の声が響く。
なつきはローファーへ履き替え、鞄を持ち上げた。
黒猫が揺れる。
春樹が見る。
「今は?」
春樹が聞いた。
「何が?」
「嬉しい? 緊張?」
なつきは自分の指を見る。
黒猫を握ってはいない。
小さく揺らしている。
「嬉しい」
「うん」
「でも、少し疲れた」
「話したから?」
「うん。いっぱい話した」
「横田さん、前より話す」
「春樹くんも」
「うん」
祐衣が隣で微笑む。
「今日は、皆さんよく話しましたね」
「祐衣さんも」
「はい」
「また話そうね」
「もちろんです」
春樹も頷く。
「うん」
◇
校門の近くで、それぞれの帰る方向へ分かれる。
亜衣と茜は、なつきと途中まで同じ。
紅秋と春樹は駅の方。
祐衣は別の路線を使うため、途中で方向が分かれる。
「また明日」
祐衣が言う。
「うん。また明日」
なつきは手を振った。
祐衣も小さく手を振り返す。
春樹が、祐衣へ言った。
「白石」
「はい?」
「本、面白い」
祐衣の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「最後まで読む」
「はい。感想、また聞かせてください」
「うん」
胸が少しだけ揺れた。
祐衣と春樹だけの会話。
でも、なつきは逃げなかった。
それも、二人の大切なつながり。
なつきが壊していいものではない。
祐衣が歩き出す。
その背中を見送ってから、春樹がなつきを見る。
「横田さん」
「うん?」
「今日は」
春樹が言葉を探している。
なつきは待った。
「話せてよかった」
「本の話?」
「それも」
胸が鳴る。
春樹が、「それも」と言った。
なつきは続きを待つ。
「白石が寂しかったこと」
「うん」
「横田さんが怖かったこと」
「うん」
「知らないままより、よかった」
なつきは、ゆっくり頷いた。
「私も」
「うん」
「春樹くんが、どちらかがいなくなるのは嫌って言ってくれたことも」
「うん」
「嬉しかった」
「そっか」
「でも」
なつきは少しだけ勇気を出した。
「いつか、春樹くん自身の気持ちも聞きたい」
春樹は黙った。
なつきは、すぐに続ける。
「今すぐじゃないよ」
「うん」
「春樹くんが分かった時」
「うん」
「言えるようになった時」
春樹は、なつきの顔を見た。
「待ってる?」
「うん」
「どれくらい?」
聞かれて、なつきは少し考えた。
「分からない」
正直に答える。
「ずっとは、ちょっと困るかも」
亜衣が後ろで肩を揺らす。
紅秋も、ほんの少し口元を緩めた。
なつきは笑いながら続けた。
「でも、急がせたくない」
春樹は小さく頷いた。
「考える」
「うん」
「見つける」
なつきの胸が、大きく鳴る。
「何を?」
「自分がどう思ってるか」
春樹は、はっきり言った。
「見つけたら、言う」
なつきは黒猫を揺らした。
嬉しい時の揺らし方。
「うん」
声が少し震えた。
「待ってる」
春樹も、ほんの少しだけ笑った。
「うん」
◇
帰り道。
亜衣と茜に挟まれながら歩くなつきの胸には、たくさんの言葉が残っていた。
祐衣の寂しさ。
自分の怖さ。
春樹の、どちらかがいなくなるのは嫌という言葉。
そして。
自分の気持ちを見つけたら、言う。
春樹がそう言った。
まだ答えはない。
春樹がどんな気持ちを見つけるのかも分からない。
なつきが望む言葉になるとは限らない。
怖い。
それでも。
何も始まらない風のない町へ戻りたいとは思わなかった。
向かい風があっても。
胸が揺れても。
傷つく可能性があっても。
少しずつ進みたい。
「なつき」
亜衣が呼ぶ。
「うん?」
「今日、頑張ったね」
「うん」
なつきは素直に頷いた。
「すごく頑張った」
茜が微笑む。
「自分で言えるのも、大きな変化ね」
「うん」
なつきは鞄の中の本へ触れた。
三人で開いた本。
同じ場面を読んでも、見つけるものは違った。
春樹は風を見た。
祐衣は傷と沈黙を見た。
なつきは、自分達の距離を見た。
違うからこそ、話す意味がある。
分からないからこそ、聞く意味がある。
言わなければ分からないことを。
少しずつ、言葉にしていく。
夕方の風に、黒猫が揺れる。
今度は、なつきが触れていなくても。
自然に。
少しずつ。
君の隣を目指す道は、まっすぐではない。
時々、誰かの気持ちとぶつかる。
自分の怖さにも立ち止まる。
それでも、隣に立ちたいと思うなら。
見つけることを、やめたくない。
なつきは、春樹がいつか見つける言葉を胸の中で待ちながら、秋の帰り道をゆっくり歩いていった。




