第123話 点数の向こう側に残ったもの
翌朝。
教室へ入った瞬間、なつきは昨日とは少し違う空気を感じた。
中間考査そのものは、もう終わっている。
答案返却も始まった。
昨日は簿記、国語、数学の三科目が返ってきた。
教室中が点数に揺れ、喜ぶ声と悔しがる声が何度も交差した。
けれど、一日が経った今朝も、考査は完全には過去になっていなかった。
まだ返ってきていない科目がある。
英語。
商業科目。
そして、それぞれの担任や教科担当がいつ答案を持ってくるか分からないという、落ち着かない時間。
黒板の隅には、昨日誰かが書いたらしい小さな文字が残っていた。
『答案返却、第二章』
その下には、別の誰かが矢印を引き、
『最終決戦』
と書き足している。
なつきは思わず笑った。
「おはよう、なつき」
先に教室へ来ていた亜衣が、自分の席から手を上げた。
「おはよう、亜衣ちゃん」
「黒板見た?」
「見た。誰が書いたんだろう」
「圭くんじゃない?」
声を抑えながら言われ、なつきは教室の後方へ視線を向けた。
圭はまだ来ていない。
「でも、『最終決戦』って圭くんっぽい」
「でしょ?」
二人で笑いながら席へ向かう。
なつきは鞄を机の横へ掛けた。
黒猫のキーホルダーが、小さく揺れる。
今日は握っていない。
昨日、簿記の八十二点を受け取ってから、黒猫に触れる指先は何度も嬉しそうに揺らしていた。
家へ帰ってからも、答案をもう一度見返した。
赤い丸。
途中式。
先生の短い言葉。
『よく頑張りました』
その文字を見ていると、図書室で過ごした時間が一つずつ思い出された。
春樹が最初に描いてくれた矢印。
圭が問題文を最後まで読むようになったこと。
田辺や島中が小声で悩んでいたこと。
紅秋が時間を管理していたこと。
茜と亜衣が隣で励ましてくれたこと。
祐衣に英語を教えてもらったこと。
そして、自分で最後まで解いたこと。
八十二点という数字だけではない。
そこへたどり着くまでの全部が、なつきには嬉しかった。
「今日、英語返ってくるかな」
亜衣が机の上へ単語帳を置いた。
その声には、昨日より少し強い緊張が混ざっている。
「一時間目、英語だよね」
「うん」
「たぶん返ってくるよね」
「……言わないで」
「亜衣ちゃんが聞いたんでしょ」
「分かってる。でも、口にされると現実になる」
亜衣は単語帳の表紙を指先で叩いた。
「例の三つ?」
なつきが尋ねる。
「accept、except、expect」
「昨日、祐衣さんと直したところ?」
「そう。考査中にどれを間違えたか、まだ確かめてない」
「一個だけって言ってたよね」
「一個だからこそ怖いんだよ。もし基本問題だったら恥ずかしいし」
「間違えたって、次は分かるよ」
自然に口から出た。
亜衣が動きを止める。
なつき自身も、言ってから少し驚いた。
昨日、美優へ言った言葉。
祐衣が間違えた問題を気にした時に、春樹が言った言葉。
次は分かる。
結果が返ってくることを、終わりにしない言葉。
亜衣は、少しだけ目を細めた。
「なつき、やっぱり変わったね」
「そう?」
「うん。前だったら一緒に『怖いね』って震えてたと思う」
「怖いのは怖いよ」
「でも、そのあとが増えた」
「そのあと?」
「怖いけど、次はどうするかって言えるようになった」
なつきは、黒猫へ指を伸ばした。
その頭を一度だけ撫でる。
「みんなに言ってもらったから」
「春樹くんに?」
「春樹くんにも。亜衣ちゃんにも。茜ちゃんにも」
少し間を置き、なつきは続けた。
「だから、今度は私も言えるようになりたい」
亜衣は何もからかわなかった。
ただ、柔らかく笑った。
「じゃあ、英語が悪かったら慰めてね」
「うん」
「良かったら褒めて」
「いっぱい褒める」
「約束」
「約束」
◇
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
「最終決戦!」
圭の声が教室へ響いた。
一瞬の沈黙。
続いて、数人の笑い声。
亜衣となつきは同時に黒板を見て、それから圭を見た。
「やっぱり圭くん」
「何が?」
圭は鞄を肩にかけたまま首を傾げる。
田辺が後ろから入ってきて、黒板を見る。
「お前、朝早く来て書いたのか?」
「昨日帰る前に書いた」
「認めるの早いな」
島中も入ってきて、黒板の文字を見た。
「『答案返却、第二章』も?」
「それは俺じゃない」
「じゃあ、誰だよ」
近くにいた男子がそっと目を逸らした。
圭はすぐに気づき、指を差す。
「お前か!」
「声でかい」
紅秋の冷静な声が、教室の入口から飛んだ。
圭が振り返る。
「紅秋、おはよう」
「おはよう。黒板はホームルーム前に消せ」
「ええっ。せっかく書いたのに」
「授業に必要ない」
「思い出として」
「写真に撮ってから消せ」
「許された!」
「消せと言っている」
笑い声が広がる。
紅秋の隣には、春樹がいた。
なつきは自然に顔を上げた。
春樹も、教室へ入ってすぐになつきの方を見る。
視線が黒猫へ落ちる。
それから、顔へ戻った。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
昨日と同じ。
けれど、聞くたびに胸の中へ小さな灯りがともる。
「私も、春樹くん見つけた」
「うん」
春樹の目が、なつきの手元へ向いた。
今日は黒猫を握っていない。
「今日は、あまり緊張してない?」
「少しはしてるよ」
「でも、握ってない」
「昨日の点数が嬉しかったから」
「うん」
「それに、今日悪い点があっても、直せばいいって思えるようになった」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
「そっか」
「春樹くんが言ってくれたから」
「何を?」
「できるようになったことは、点数では消えないって」
春樹は、なつきの顔を見たまま頷いた。
「うん」
「覚えてる」
「うん」
「ちゃんと使ってる」
なつきが笑うと、春樹の口元も少しだけ緩んだ。
「よかった」
亜衣が隣で、小さく息を吐いた。
「朝から静かに強い」
「伊藤さん」
紅秋が呼ぶ。
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
「なら仕方ない」
紅秋が珍しく受け流したため、亜衣は少し驚いた顔をした。
圭がすぐに近づいてくる。
「春樹、俺は?」
「何が?」
「今日は緊張してるように見える?」
春樹は圭の顔を見る。
少し考える。
「いつもより元気」
「それ、緊張を誤魔化してるんだよ」
「そう?」
「そう!」
田辺が言った。
「でも圭、お前昨日からずっと六十二点って言ってるから、緊張より喜びが勝ってるだろ」
「簿記の六十二点が俺を守ってくれる」
島中が肩を揺らす。
「お守りみたいに言うな」
圭は鞄から答案を取り出した。
透明なファイルへ入れてある。
「ちゃんと持ってきた」
紅秋が眉を上げる。
「なぜ持ってきた」
「眺めるため」
「家に置いてこい」
「今日返ってくる答案が悪かった時、これ見て立ち直る」
少しだけ笑いが起きた。
けれど、紅秋はすぐに否定しなかった。
「まあ、そういう使い方ならいい」
「紅秋が認めた!」
「ただし授業中に眺めるな」
「はい」
なつきは圭の透明なファイルを見た。
昨日、六十二点を受け取った時の圭の顔。
何度も問題文を読み。
図書館で小声になり。
春樹や紅秋に教えてもらって。
十一点上がった。
圭にとっても、あの答案はただの紙ではないのだろう。
自分の八十二点の答案と同じ。
頑張った時間が入っている。
◇
朝のホームルームで、担任は黒板の文字を見た。
『答案返却、第二章』 『最終決戦』
教室全体が、少しだけ静かになる。
圭は消すのを忘れていた。
担任はしばらく黒板を見つめたあと、教室へ向き直った。
「大げさですね」
笑いが起きる。
「ですが、今日もいくつか答案が返却されると思います」
圭が小さく肩を落とした。
「やっぱり最終決戦」
田辺が小声で返す。
「自分で書いたんだろ」
担任は出席簿を開いた。
「昨日も言いましたが、点数だけを見て終わらないように。良かった人は、なぜ良かったのか。思うようにいかなかった人は、どこでつまずいたのかを確認してください」
なつきは、机の中に入れた答案のファイルを思い出した。
昨日、春樹と一緒に直した問題。
間違えた手数料の位置。
小さな矢印。
点数を受け取るだけではなく、次へつなげる。
「また、点数の比較で誰かを傷つけるような発言はしないこと。得意不得意は人によって違います」
教室の空気が少し落ち着いた。
点数が高ければ嬉しい。
低ければ悔しい。
その感情は隠さなくていい。
でも、自分の点数を誰かの点数より上か下かだけで見る必要はない。
昨日の教室でも、自然とそういう空気があった。
圭の六十二点を、九十点台の紅秋も春樹もちゃんと褒めた。
美優の三点上昇を、蓮もなつきも喜んだ。
それぞれの変化。
それぞれの頑張り。
同じ数字では測れないものがある。
◇
一時間目。
英語の先生が教室へ入ってきた時、手には答案の束があった。
教室中から、ほとんど同時に小さな息が漏れた。
「はい。予想通りですね」
先生が答案を教卓へ置きながら言う。
少し笑いが起きる。
亜衣の背中が、わずかに固くなった。
なつきは隣から、机の下でそっと拳を握った。
亜衣も気づき、小さく拳を作って返す。
朝の約束。
良くても。
悪くても。
隣にいる。
「今回の平均点は、前回とほぼ同じです」
先生が言った。
「長文はよく読めていました。一方で、基本的な語句問題と文法問題で失点している人が多く見られました」
亜衣が小さく息を呑む。
三つの単語。
なつきも、自分の答案を思い出しながら緊張した。
長文は読めたと思う。
祐衣に教えてもらった区切り方を使えた。
英作文も最後まで書いた。
図書館でみんなと勉強したこと。
また一緒に勉強したいということ。
どのくらい点になったのだろう。
「答案を配ります。受け取っても、まずは静かに確認してください」
名前が一人ずつ呼ばれる。
今回は列ごとに前へ回される方式だった。
先生が前列へ答案の束を渡し、生徒達が名前を確認して後ろへ送っていく。
一枚。
また一枚。
自分の答案が近づいてくる。
亜衣の答案が先に届いた。
亜衣は紙を裏返したまま、机の上へ置く。
すぐには見ない。
なつきの答案も、その数枚後に届いた。
表を伏せたまま受け取る。
二人は一度、顔を見合わせた。
「一緒に見る?」
亜衣が小声で聞いた。
「うん」
「せーの」
二人で答案を返す。
なつきの目に入った赤い数字。
七十九。
思わず、息が止まる。
悪くない。
むしろ、自分が思っていたより良い。
長文問題には、ほとんど丸がついている。
英作文にも大きな丸。
赤字で、
『簡潔で読みやすく、経験が具体的に書けています』
と添えられていた。
なつきの胸が、ゆっくり熱くなる。
隣を見る。
亜衣は答案を凝視していた。
表情が読めない。
「亜衣ちゃん?」
小さく呼ぶ。
亜衣が、ゆっくり顔を上げる。
「七十五」
「良かった?」
「前より、八点上がった」
なつきの顔が明るくなる。
「すごい!」
「でも」
亜衣は語句問題を指差した。
「except、間違えてた」
「一個だけ?」
「うん。acceptとexpectは合ってた」
「じゃあ、二つ分かった」
亜衣が少しだけ目を瞬かせる。
なつきは続けた。
「一個間違えたけど、二個はちゃんと合ってた。それに八点も上がった」
「八点も」
「うん。八点も」
昨日、美優へ伝えた言葉。
三点“だけ”ではなく。
三点“も”。
今日は亜衣へ。
亜衣の口元が、少しずつ笑顔になる。
「なつき」
「うん?」
「朝の約束、守って」
「いっぱい褒める?」
「うん」
なつきは声を抑えながらも、両手を小さく上げた。
「亜衣ちゃん、すごい。八点も上がった。長文もいっぱい丸ついてる。英作文も丸」
「もっと」
「単語も二つ合ってた。文法も前より丸が増えてる」
「よし」
亜衣は満足そうに頷いた。
「ありがとう」
「うん」
「なつきも七十九点、すごいよ」
「ありがとう」
「長文、ほとんど合ってる」
「祐衣さんに教えてもらったから」
「でも、読んだのはなつき」
春樹と似た言葉。
なつきは、すぐに頷いた。
「うん。私が読んだ」
その返事に、亜衣は嬉しそうに笑った。
◇
前方では、圭が答案を見て固まっていた。
田辺が横から聞く。
「どうした?」
「六十八」
「英語?」
「うん」
「良かったじゃん」
「簿記より高い」
島中も覗き込む。
「英作文、紅組魂で点入ってるぞ」
圭は答案を持ち上げた。
英作文の横には赤い丸。
下には先生の短いコメント。
『内容に個性があります。時制に注意しましょう』
「個性があるって!」
圭の声が少し大きくなった。
先生が教卓から見る。
「三浦くん。静かに」
「すみません」
圭はすぐに声を落としたが、顔は明るかった。
「Red team spirit、伝わった」
田辺が笑う。
「本当に書いたんだな」
「言っただろ」
島中も答案を見て笑った。
「文法で結構引かれてるけどな」
「でも内容は伝わった」
紅秋が自分の答案を見ながら言う。
「伝えることも英語の目的だ。次は時制を直せ」
「うん」
圭は素直に頷いた。
考査前なら、直すと言われて肩を落としていたかもしれない。
今は違う。
点数が上がった喜び。
丸がついた英作文。
そして、次に直すところ。
全部を同時に受け取っている。
春樹の点数は九十点台。
紅秋も高得点。
田辺と島中も、前回より少し上がったらしい。
教室のあちこちから、小さな喜びの声が聞こえる。
もちろん、思っていたより低く、俯いている生徒もいた。
先生は答案を配り終えると、すぐに解説へ入らなかった。
「点数が思うようにいかなかった人もいると思います」
教室が少し静かになる。
「ですが、今回できなかったことを、次もできないと決めつけないでください。間違いは、今分かったものです」
なつきは、祐衣が文法問題を間違えた時のことを思い出した。
春樹が言った。
今、間違えた理由が分かったなら、次は分かる。
先生も似たことを言っている。
「これから解説します。点数を隠して終わりにするのではなく、間違えた問題を一つでも減らしてください」
先生が黒板へ最初の問題を書き始める。
なつきは青いペンを出した。
◇
語句問題。
accept。
except。
expect。
先生が三つを黒板へ並べた瞬間、教室の何人かが小さく笑った。
亜衣も、少しだけ肩を揺らす。
「何か面白いですか?」
先生が聞く。
圭が答えそうになったが、紅秋に視線だけで止められた。
「似た単語は、まとめて違いを整理しましょう」
先生が意味と品詞を書いていく。
亜衣は、間違えたexceptの横へ丁寧に説明を書き足した。
「次は分かる」
なつきが小声で言う。
亜衣は頷いた。
「うん。次は」
長文問題の解説では、祐衣に教えてもらった読み方と同じ説明が何度も出た。
主語。
動詞。
接続詞。
代名詞。
なつきは、自分が正しく読めていたところへ小さく印をつける。
英作文。
友達と図書館で勉強した経験。
先生は、文法の細かな間違いを一か所直していた。
でも、内容は伝わっている。
なつきは最後の一文をもう一度見た。
『I want to study with them again.』
またみんなで勉強したい。
考査が終わった今も、その気持ちは変わっていない。
答案を直すために、昨日も図書室へ集まった。
今日もきっと。
目的は少しずつ変わる。
でも、一緒に過ごす時間は続いている。
◇
授業が終わると、亜衣は答案を持ってなつきの方へ完全に向き直った。
「七十九点、おめでとう」
「亜衣ちゃんも七十五点、おめでとう」
二人で小さく答案を合わせる。
紙同士が、かすかに触れた。
茜が後ろから覗き込む。
「二人とも良かったわね」
「茜ちゃんは?」
亜衣が聞く。
「八十八点」
「高い!」
「でも、記述で減点されているわ」
「茜ちゃんはそこ見るよね」
「見るでしょう?」
茜は答案を広げる。
「ここ、理由が一つ足りなかったみたい」
なつきも覗き込む。
「本当だ。でも、ほとんど丸」
「次は全部書けるようにしたいわ」
茜の点数は高い。
それでも、次に直すところを見る。
紅秋と少し似ている。
「茜ちゃん」
「何?」
「頑張ってたもんね。おめでとう」
茜が少しだけ目を丸くした。
それから、やわらかく微笑む。
「ありがとう。なつきも、おめでとう」
点数を競うのではなく。
それぞれの結果を祝う。
教室の中で、そういう言葉が少しずつ広がっていた。
◇
二時間目の授業が始まる前。
春樹がなつきの机の近くへ来た。
「七十九?」
「うん。見えた?」
「少し」
「英作文も丸だった」
なつきは答案を春樹へ見せた。
春樹が、最後の英文を読む。
「勉強会」
「うん」
「また勉強したいって」
「本当のことを書いた」
「うん」
「春樹くんも、図書室のこと書いたんだよね」
「うん」
「何点だった?」
聞いてから、なつきは少しだけ慌てる。
「言いたくなかったら、言わなくていいよ」
「九十二」
「高い」
「文法、一つ間違えた」
「それでもすごいよ」
「ありがとう」
春樹は、以前より自然に礼を言うようになった気がする。
なつきがそう感じているだけかもしれない。
でも、その短い「ありがとう」が嬉しかった。
「春樹くん」
「何?」
「英作文、見せてもらってもいい?」
「いい」
春樹が答案を持ってくる。
なつきは、その英文をゆっくり読んだ。
難しい単語が多いわけではない。
春樹らしく、短く、整理されている。
一人では分からないことも、友達と考えると理解できることがある。
静かな図書館で、友達と勉強した。
そして最後。
『I was glad when my friend understood the problem.』
友達が問題を理解した時、私は嬉しかった。
なつきの目が、その一文で止まった。
「これ」
「うん?」
「私のこと?」
聞いてから、胸が大きく鳴る。
圭達のことかもしれない。
勉強会にいた全員のことかもしれない。
友達、としか書いていない。
春樹は少し考えた。
「横田さんも」
「も?」
「圭も。田辺も。島中も」
「そっか」
少しだけ胸が落ち着く。
そして、すぐに別の温かさが広がった。
自分だけではない。
春樹は、みんなが分かるようになったことを嬉しいと思っていた。
その中に、自分もいる。
「私も入ってる?」
「うん」
「じゃあ、嬉しい」
なつきは黒猫を小さく揺らした。
春樹の視線がそこへ落ちる。
「嬉しい」
「うん」
「分かる?」
「揺らしてるから」
「正解」
なつきは笑った。
春樹も、ほんの少しだけ笑った。
◇
午前中の最後には、商業科目の答案も返ってきた。
なつきは七十七点。
圭は五十八点。
田辺と島中は六十点台後半。
春樹と紅秋は安定して高得点だった。
圭は五十八という数字を見た瞬間、少しだけ肩を落とした。
簿記の六十二。
英語の六十八。
それより低い。
「五十八か……」
小さな声。
田辺が答案を覗く。
「前回は?」
「五十四」
「四点上がってるじゃん」
「でも六十届かなかった」
島中も横から答案を見る。
「この記述、半分点入ってるぞ」
「でも」
圭の表情は、朝までの明るさを少し失っていた。
なつきは自分の席から、その様子を見た。
どう声をかければいいのか迷う。
点数が悪くないと言っても、圭が悔しい気持ちは消えない。
四点も上がったと言っても、六十に届かなかった悔しさは本物だ。
春樹が、圭の席へ近づいた。
「圭」
「何?」
「ここ」
答案の一問を指す。
「前、空欄だった」
「え?」
「勉強会でやったところ」
圭は答案を見る。
記述問題。
完全な正解ではない。
でも、途中まで合っていて、半分の点が入っている。
「前は書けなかった」
春樹が言う。
「うん」
「今回は書いた」
圭はしばらく答案を見た。
田辺と島中は、何も言わず待っている。
紅秋も少し離れた場所から見ていた。
「……四点上がった」
圭が言う。
「うん」
「六十には届かなかったけど」
「うん」
「でも、ここは書けた」
「うん」
春樹は否定しない。
悔しさも。
できたことも。
その両方をそのまま受け止めている。
圭は小さく息を吐いた。
「悔しい」
「うん」
「次、六十超えたい」
「直せばいい」
「一緒に?」
「うん」
圭は顔を上げた。
「じゃあ、また教えて」
「うん」
田辺が笑う。
「俺らもやろうぜ」
島中も頷く。
「記述、俺も減点されてる」
紅秋が静かに言った。
「次の小テストまでに、この範囲を直す。期限を決めればいい」
「紅秋、もう予定立ててる」
「やるなら早い方がいい」
圭の口元へ、少しだけ笑顔が戻った。
「じゃあ、今日?」
「今日は返却された問題の整理だけでいい」
「カフェは?」
「ない」
「やっぱり!」
教室に笑いが起きる。
圭も笑った。
悔しさは消えていない。
でも、その悔しさの隣に次ができた。
なつきは、その様子を見ながら思った。
大丈夫という言葉は、無理に笑わせるためのものではない。
悔しさをなくすものでもない。
悔しいままでも、次へ向けるようにするものなのかもしれない。
◇
昼休み。
教室には、昨日より多くの答案が並んでいた。
弁当の横。
問題集の上。
赤い点数と丸。
それぞれの結果。
美優、蓮、祐衣も、また二年十一組へやってきた。
美優は英語の答案を持っている。
「英語、上がった!」
教室へ入るなり、明るい声で言った。
圭が反応する。
「何点?」
「言わない」
「俺は言った」
「圭くんは自分から言いたい人でしょ」
「そう」
美優は笑い、なつきの近くへ来た。
「前より五点上がった」
「五点も?」
「うん。五点も」
昨日の言葉を覚えていたらしい。
二人で顔を見合わせて笑う。
「途中式も?」
「今日は英語だから途中式はないよ」
「あ、そっか」
「でも、長文は前より読めた」
「祐衣さんに教えてもらった区切り方?」
「うん」
祐衣も後ろから入ってきた。
「役に立ったなら良かったです」
「祐衣、本当にありがとう」
「美優さんが読んだ結果です」
祐衣も、春樹と似たことを言う。
なつきは思わず春樹を見る。
春樹も祐衣を見ていた。
「白石も言う」
「何をですか?」
「自分でやったって」
祐衣は少し考えたあと、穏やかに笑った。
「大切なことですから」
なつきの胸がやわらかくなる。
似た言葉を持つ二人。
春樹と祐衣。
以前なら、その似た部分に不安を感じたかもしれない。
今は、どこか安心する。
二人とも、誰かの頑張りをその人自身へ返してくれる。
だから、なつきは二人と話すと少しずつ自分を信じられる。
「祐衣さんは?」
なつきが聞く。
「英語、九十一点でした」
「すごい」
「ただ、やはり例の文法問題は間違えていました」
「直した?」
「はい。もう大丈夫です」
祐衣は答案の端を見せる。
青いペンで、丁寧に説明が書き込まれていた。
「次は分かるね」
「はい」
祐衣は迷わず頷いた。
◇
昼食を食べながら、答案の話は少しずつ別の話題へ移っていった。
どの先生の採点が細かいか。
記述の字が読みにくいと言われた人。
名前を書き忘れかけた人。
考査中、消しゴムを落として焦った人。
圭のRed team spirit。
笑い声が増える。
点数の緊張が少しずつ日常の話へ溶けていく。
「これで、ほとんど返ってきたね」
亜衣が言った。
茜が頷く。
「残りは細かい科目だけでしょうね」
「答案返却、第二章終了?」
圭が黒板を見る。
朝の文字は、ホームルーム前に消されている。
「最終決戦、終わった」
島中が言う。
「次は答案直し編だな」
「タイトルつけるなよ」
田辺が笑う。
蓮が穏やかに言った。
「でも、今回の勉強会は本当に良かったね」
「うん」
なつきはすぐに頷いた。
「点数も上がったし」
「点数だけ?」
春樹が聞いた。
なつきは少し考える。
「違う」
みんなの視線が少しだけ集まる。
「分からないって言えるようになった」
なつきは、自分の言葉を確かめながら続ける。
「前は、分からないのが恥ずかしかった。聞いたら迷惑かなって思ってた」
図書室で、初めて春樹へ付箋のページを見せた時。
距離が近くて緊張した。
問題が分からないことを見られるのも恥ずかしかった。
でも、春樹は笑わなかった。
短く。
丁寧に。
分かるまで待ってくれた。
「でも、聞いたら教えてもらえた。私も誰かに教えられることがあった」
美優へ言葉を渡した。
亜衣へ、次は分かると言えた。
「だから、点数だけじゃなくて」
なつきは少し笑った。
「前より、みんなと話せるようになったのが良かった」
短い沈黙。
誰もすぐにはからかわなかった。
茜が最初に微笑んだ。
「本当にそうね」
亜衣も頷く。
「なつき、前よりかなり話すもん」
圭が言う。
「俺にも普通に突っ込むようになった」
「圭くんには、みんな突っ込むよ」
「確かに」
笑いが起きる。
田辺が言った。
「俺も、前より横田と話すようになった気するな」
島中も頷く。
「体育祭からだな」
紅組。
同じ場所で声を出した。
応援した。
それから、勉強会。
春樹は静かになつきを見ていた。
「春樹くん」
「何?」
「春樹くんも、前より話すようになった?」
以前、本の感想で聞いたこと。
春樹は頷く。
「うん」
「誰と?」
亜衣がわざと聞く。
春樹は少し考えた。
「みんなと」
「模範解答」
圭が笑う。
春樹は続けた。
「横田さんとも」
なつきの胸が跳ねる。
圭が両手で顔を覆った。
「追加が強い」
紅秋が静かに言う。
「春樹は時々、必要以上に正直だな」
「正直はいいことでしょ」
亜衣が返す。
「横田さんの心臓への配慮は必要だ」
「紅秋くん、もう慣れたんじゃなかったの?」
「慣れたが、負担は負担だ」
なつきは顔を赤くしながらも、笑っていた。
「私も、春樹くんと前より話せて嬉しい」
今度は自分から言った。
教室の輪が一瞬だけ静まる。
春樹は、なつきを見た。
「うん」
短い返事。
でも、表情は少しやわらかい。
「俺も」
カフェで聞いた言葉と同じ。
なつきの胸の中で、小さく何かが鳴った。
◇
放課後。
答案直しのため、図書室へ向かう生徒は昨日より少なかった。
全員が毎日集まれるわけではない。
今日は圭、田辺、島中、紅秋、春樹、なつき、亜衣、茜。
祐衣は図書委員の当番。
美優と蓮は特進科の補習があり、あとから来られれば来ると言っていた。
図書室へ向かう廊下には、夕方の薄い光が差している。
窓の外では、運動部が練習を始めていた。
笛の音。
ボールの弾む音。
走る足音。
体育祭の白線はもうない。
考査の緊張も、少しずつ遠ざかっている。
季節は、何も待たずに進んでいく。
「ねえ」
亜衣が歩きながら言った。
「答案直し終わったら、今日は本の話もするんでしょ?」
「うん」
なつきは鞄を少し持ち直した。
中には、祐衣から借りた新しい本。
まだ読み始めたばかり。
「三人で?」
「春樹くんと、祐衣さんと」
「私は?」
「亜衣ちゃんも聞きたいなら」
「聞きたい。内容より、三人がどう話すのか興味ある」
「やっぱりそっち」
茜が笑う。
「私も少し興味があるわ」
「茜ちゃんまで」
「本の感想に、性格が出るでしょう?」
「それは分かるかも」
なつきは春樹を見る。
「春樹くん、祐衣さんの本、どこまで読んだ?」
「半分くらい」
「早い」
「横田さんは?」
「まだ四分の一くらい」
「ゆっくり」
「うん。ゆっくり読む」
「その方がいい」
「春樹くんは早くてもいいの?」
「早く読んで、あとでまた見る」
「読み返すんだ」
「うん」
同じ本の読み方でも、少し違う。
なつきは、一度ゆっくり世界へ入りたい。
春樹は先に全体を読み、そのあと必要なところへ戻る。
そういう違いを知ることも楽しかった。
圭が少し前から振り返る。
「俺も本読もうかな」
島中が驚く。
「どうした、急に」
「本の感想会、楽しそうだから」
田辺が聞く。
「何読むんだよ」
「体育祭の本」
「どんな本だよ」
「熱いやつ」
紅秋が言う。
「まず図書室で探せ。白石に聞けば選んでくれるだろう」
「祐衣さん、本当に全員の本選ぶことになるな」
圭は楽しそうに笑った。
◇
図書室へ入ると、祐衣がカウンターで本を整理していた。
「こんにちは」
「祐衣さん、こんにちは」
祐衣はなつき達の姿を見て、少し嬉しそうに微笑んだ。
「今日も答案直しですか?」
「うん。それと」
なつきは鞄の中の本へ触れた。
「少しだけ、本の話」
「読んでくださったんですね」
「まだ途中だけど」
「途中の感想も素敵です」
春樹も青い表紙の本を取り出した。
「半分」
「もうそこまで?」
祐衣が少し驚く。
「面白い」
「よかったです」
圭がカウンターへ近づいた。
「白石さん」
「はい?」
「俺にも本選んで」
祐衣は一度目を瞬かせた。
圭が本を読むイメージがなかったのかもしれない。
「どのようなお話がお好きですか?」
「熱い話」
「熱い?」
「みんなで頑張って勝つやつ。友情とか、努力とか、紅組魂とか」
田辺が後ろで額に手を当てる。
「最後のは気にしないでくれ」
島中が笑う。
「でも、スポーツものとか合いそうじゃね?」
祐衣は少し考えた。
「それでしたら、部活動を題材にした作品がいくつかあります」
「本当に?」
「はい。少しお待ちください」
祐衣がカウンターを出て、本棚の方へ向かう。
圭は嬉しそうに後をついていった。
紅秋が言う。
「静かにしろ」
「分かってる」
圭の声が、すぐに小さくなる。
図書館モード。
亜衣が肩を揺らして笑った。
◇
奥の机へ答案を広げる。
なつきは英語の間違えた問題を確認した。
文法、一問。
前置詞の使い方。
英作文の小さな時制ミス。
春樹が隣から見る。
「ここ」
「うん」
「図書館へ行った、だから過去形」
「うん。ここだけ現在形になってた」
「直せばいい」
「次は分かる」
「うん」
自分から言えた。
春樹が少しだけ口元を緩める。
「使ってる」
「何を?」
「次は分かる」
「あ」
なつきは少し笑った。
「うん。使ってる」
「いいと思う」
「春樹くんの間違いは?」
「ここ」
文法問題。
難しい選択肢。
なつきには、すぐには違いが分からなかった。
「どうして間違えたの?」
「文全体より、前の単語だけ見た」
「春樹くんでも読み急ぐことあるんだ」
「ある」
「次は?」
「最後まで読む」
圭の方を見る。
少し離れた本棚で、祐衣から本を渡されている。
なつきは小さく笑った。
「圭くんと同じ」
「うん」
春樹も少しだけ笑った。
春樹は何でもできるように見える。
でも、間違える。
読み落とす。
疲れる。
少し悩む。
そういう部分を知るたび、春樹が遠い人ではなくなっていく。
◇
答案直しが一段落すると、祐衣が圭達と一緒に戻ってきた。
圭の手には、一冊の文庫本。
表紙には、夕暮れのグラウンドと、何人かの高校生らしい影。
「これ借りる」
圭が小声で言う。
「白石さんが選んでくれた」
田辺が表紙を見る。
「確かにお前好きそう」
島中も覗き込む。
「読み終わるか?」
「読む」
「何日で?」
「考査じゃないから期限ない」
紅秋が言う。
「貸出期限はある」
圭が祐衣を見る。
「いつまで?」
「二週間です」
「現実があった」
みんなが笑う。
祐衣は、なつき達の机へ近づいた。
「答案直しは終わりましたか?」
「うん」
なつきは答案をファイルへしまう。
「英語、七十九点だった」
「おめでとうございます」
「祐衣さんに教えてもらった長文、ほとんど合ってた」
「横田さんが読めた結果です」
また同じ言葉。
なつきは、今度はすぐに受け取った。
「うん。私が読んだ」
祐衣の顔が少し明るくなる。
「はい」
「でも、教えてくれてありがとう」
「こちらこそ、一緒に勉強できて楽しかったです」
春樹が青い本を机へ置く。
「感想」
「はい」
祐衣は空いている席へ座った。
亜衣と茜も、少し近くへ椅子を寄せる。
圭達は別の机で、新しく借りた本の最初のページを開いていた。
図書室の夕方。
考査前とは違う静けさ。
今度は、数字ではなく物語について話す時間。
◇
「横田さんは、どこまで読みましたか?」
祐衣が聞く。
「主人公が、雨の日に古い喫茶店へ入るところ」
「ああ、あの場面」
「祐衣さん、そこ好き?」
「はい。とても」
「私も、まだ途中だけど好き」
「どうしてですか?」
なつきは少し考えた。
雨。
知らない喫茶店。
窓際の席。
主人公は、誰にも会いたくないと思っている。
けれど、店主は無理に話しかけない。
温かい飲み物だけを置いて、少し離れる。
「何も聞かないところ」
なつきは言った。
「主人公、絶対何かあった顔してるのに、店主さんは理由を聞かない」
「はい」
「でも、放っておくわけでもない」
「飲み物を置きますね」
「うん」
なつきは本の表紙を指先で撫でた。
「聞かない優しさもあるんだなって」
祐衣が静かに頷く。
「私も、そう感じました」
春樹は、少し考えてから言った。
「待ってる」
「誰が?」
「店主」
「主人公が話すのを?」
「うん。話さなくてもいいけど、話すなら聞く」
なつきの胸が少し動いた。
春樹に似ている。
分からないと言うまで待ってくれる。
気持ちを言葉にするまで急かさない。
でも、言えば聞いてくれる。
「春樹くんみたい」
自然に言っていた。
春樹がなつきを見る。
「俺?」
「うん」
祐衣も、少しだけ微笑む。
「確かに、大國くんは待ってくれる人ですね」
「そう?」
「そうだと思います」
春樹は、すぐには否定しなかった。
なつきは続ける。
「私が分からないって言うまで待ってくれるし」
「うん」
「嬉しいとか寂しいとか、言葉になるまで待ってくれる」
自分で言って、少し恥ずかしくなる。
けれど、春樹は笑わない。
「横田さんは、言うから」
「前より?」
「うん」
「春樹くんが聞いてくれるから」
短い沈黙。
図書室のどこかで、ページがめくられる音がした。
亜衣は何も言わず、ただ二人を見ている。
茜も静かに微笑んでいた。
祐衣は、少しだけ視線を本へ落とした。
「良い関係ですね」
小さな声。
なつきは祐衣を見る。
その表情は穏やかだった。
でも、ほんの少しだけ寂しそうにも見えた。
気のせいかもしれない。
祐衣はすぐに顔を上げた。
「大國くんの本は、どこまで?」
「旅人が二つ目の町を出たところ」
「早いですね」
「風景が多いから、進む」
「退屈ではありませんでしたか?」
「ううん」
春樹は本を開いた。
「会話が少ないけど、景色で気持ちが分かる」
「例えば?」
なつきが聞く。
「最初の町では、ずっと曇ってた」
「うん」
「出る時に、少し晴れた」
「旅人の気持ちが変わった?」
「たぶん」
祐衣が嬉しそうに頷く。
「私も、そこが好きです」
「白石が選んだ理由、少し分かった」
「本当ですか?」
「うん。静かだけど、止まってない」
なつきは、その言葉へ反応した。
「私が前に言った本と似てる?」
「少し」
「ゆっくり進むけど、ちゃんと前に進んでる」
「うん」
また、自分達に重なる。
急激には変わらない。
大きな告白もない。
でも、会話が増える。
同じ時間が増える。
言える気持ちが増える。
少しずつ前へ進んでいる。
◇
圭が、別の机から小声で言った。
「本、面白い」
田辺が驚く。
「もう?」
「まだ五ページ」
「早いだろ」
「でも、最初から試合負けてる」
島中が覗き込む。
「そこから始まるのか」
「負けたあとから、みんなで立て直す感じ」
圭の声には、すでに興味が混ざっていた。
祐衣が少し嬉しそうに笑う。
「合っていたようで良かったです」
「白石さん、すごい」
「ありがとうございます」
「読み終わったら感想言う」
「ぜひ」
紅秋が言う。
「二週間以内にな」
「分かってる!」
小さな笑いが広がる。
本の輪が、また一人分広がった。
なつきは、その光景を見て胸が温かくなる。
最初は、春樹と話すための本だった。
図書室へ行く理由。
春樹の好きなものを知るための入り口。
でも今は。
祐衣と仲良くなる理由になった。
美優や亜衣、茜も興味を持った。
圭まで本を借りた。
春樹の隣を目指して始まったことが、みんなの輪へつながっている。
◇
図書室を出る頃には、窓の外が薄い橙色に染まっていた。
答案。
本。
問題集。
鞄は少し重い。
けれど、歩く気持ちは軽かった。
「今日、良い日だったね」
亜衣が言う。
「英語も良かったし」
「うん」
「本の話もできたし」
「うん」
「春樹くんとまたいい感じだったし」
「最後だけ急に言わないで」
亜衣は笑った。
「でも本当でしょ?」
なつきは少しだけ考える。
否定はしなかった。
「うん」
茜が隣で微笑む。
「本当に素直になったわね」
「もう二人には隠せないから」
「私達だけ?」
亜衣が聞く。
なつきは前を歩く春樹を見た。
紅秋と圭達の近く。
圭が借りた本について話している。
「春樹くんにも、少しずつ」
亜衣と茜は、同時にやわらかく笑った。
◇
昇降口を出る前、春樹がなつきの近くへ来た。
「横田さん」
「うん?」
「今日は、黒猫」
「何?」
「ずっと揺らしてた」
なつきは黒猫を見る。
気づかないうちに、何度も触れていたらしい。
「嬉しいことが多かったから」
「英語?」
「それも」
「本?」
「それも」
「他は?」
春樹が尋ねる。
なつきは少しだけ驚いた。
春樹から、続きを聞かれた。
以前なら、春樹は一度聞いて、なつきが答えなければ待っていた。
今は、少しだけ先へ来てくれる。
「春樹くんと話せたこと」
なつきは、正直に言った。
頬が熱い。
けれど、目は逸らさなかった。
春樹は少し黙った。
夕方の昇降口。
靴を履き替える生徒達の声。
外から入る風。
圭達の笑い声。
その中で、春樹の声は静かだった。
「俺も」
「春樹くんも嬉しかった?」
「うん」
「本の話?」
「それも」
今度は、なつきが聞く番だった。
「他は?」
春樹が少しだけ目を瞬かせる。
なつきは待った。
沈黙。
でも、怖くない。
春樹は言葉を探している。
「横田さんが、点数を自分のものとして喜んでたこと」
なつきの胸が、ゆっくり熱くなる。
「見てた?」
「うん」
「八十二点の時も?」
「うん」
「今日の七十九点も?」
「うん」
「ずっと?」
「少しずつ」
なつきは黒猫を揺らした。
「嬉しい」
「分かる」
「揺らしてるから?」
「うん」
二人で、ほんの少し笑う。
◇
校門の近く。
それぞれの帰る方向へ分かれる前に、圭が借りた本を掲げた。
「二週間で読む!」
田辺が言う。
「なくすなよ」
「なくさない」
島中が言う。
「途中で飽きるなよ」
「飽きない」
紅秋が言う。
「返却日を忘れるな」
「スマホに入れた!」
「準備がいい」
祐衣が嬉しそうに微笑んだ。
「感想、楽しみにしています」
「任せて」
亜衣が手を上げる。
「次、私にも選んでね」
「はい」
茜も頷く。
「私もお願いするわ」
「喜んで」
美優と蓮は今日は来られなかった。
明日、今日の本の話を聞けば、きっとまた輪が広がる。
春樹が紅秋と駅へ向かう前に、なつきを見た。
「また明日」
「うん。また明日、春樹くん」
「答案、持ってくる?」
「何の?」
「残り返ってきたら」
「うん。良くても悪くても見てくれる?」
「うん」
「春樹くんのも見せてね」
「うん」
なつきは少しだけ笑った。
「一緒に喜んで、一緒に直そう」
春樹は頷く。
「うん」
それは、考査前とは違う約束だった。
分からない問題を教えてもらうだけではない。
春樹の間違いも、一緒に見る。
なつきの結果も、春樹へ見せる。
どちらか一方が支えるのではなく。
少しずつ、互いに渡し合う。
春樹と紅秋が歩いていく。
なつきはその背中を見送った。
鞄の中には、返ってきた答案。
祐衣から借りた本。
使い込んだノート。
横には黒猫。
考査編は、これで一つの区切りを迎えた。
点数は返ってきた。
喜びも。
悔しさも。
次に直す場所も分かった。
そして何より。
考査へ向かう前よりも、なつきは少しだけ自分のことを信じられるようになっていた。
春樹の隣へ近づくためだけではない。
自分の足で、春樹の隣へ立てるようになるために。
その違いを、なつきはまだうまく言葉にできなかった。
けれど、確かに感じていた。
「なつき」
亜衣が隣から呼ぶ。
「帰ろう」
「うん」
茜も並ぶ。
三人で歩き出す。
夕方の風に、黒猫が揺れた。
今日は、なつきが触れなくても揺れていた。
風に押されて。
自然に。
いつか、春樹の隣にいることも。
こんなふうに自然になればいい。
特別なことが、日常になるように。
なつきはその小さな願いを胸に置いたまま、夕暮れの帰り道を歩いていった。




