第122話 返ってきた答案と、君が見つけてくれたもの
中間考査が終わってから、最初の月曜日。
なつきが教室へ入った時、二年十一組には、考査前とは違う種類の緊張が漂っていた。
試験を受ける前の緊張ではない。
もう、書き直すことはできない。
問題文を読み直すことも、空欄を埋めることもできない。
自分が書いた答えが、点数という形になって返ってくる。
その瞬間を待つ緊張だった。
窓から差し込む朝の光は、穏やかだった。
校庭では、朝練を終えた運動部の生徒達が校舎へ戻ってきている。
教室の机も、黒板も、いつもと何も変わらない。
けれど、登校してきた生徒達の多くが、最初に黒板の横へ貼られた時間割を確認していた。
一時間目、簿記。
二時間目、国語。
三時間目、数学。
返却される可能性が高い科目が、朝から並んでいる。
「朝から重すぎる……」
圭が自分の席で、時間割を見つめていた。
考査前ほど静かではない。
けれど、いつもの圭より明らかに声が小さかった。
「簿記、最初かよ」
田辺が鞄を机の横へ置きながら言った。
「どうせ返ってくるなら、早い方がよくないか?」
島中はそう言いながらも、少し落ち着かない様子で椅子へ座る。
「いや、でも心の準備ってものがあるだろ」
「考査終わってから何日あったんだよ」
「その間は忘れてた」
「逃げてただけじゃねぇか」
田辺と島中の会話に、教室の何人かが笑った。
その笑いにも、少しだけ硬さがある。
紅秋はすでに席へ着き、次の授業の教科書を出していた。
「結果は変わらない」
いつもの落ち着いた声で言う。
「返却前に不安がっても意味はない」
圭が振り返る。
「紅秋は絶対できてるから言えるんだよ」
「できているかどうかは、返却されるまで分からない」
「でも、できてる顔してる」
「どんな顔だ」
「静かな顔」
「いつもだろ」
島中の言葉に、また笑いが起きた。
なつきも、少しだけ笑った。
けれど、胸の奥はやはり落ち着かなかった。
鞄を机の横へ掛ける。
黒猫のキーホルダーが、いつものように小さく揺れた。
なつきは、その頭へそっと指先を触れた。
嬉しい時は揺らす。
緊張している時は握る。
春樹が気づいてくれた、自分でも知らなかった癖。
今の指は、黒猫を少し強く握っていた。
「なつき」
隣から亜衣が声をかけた。
なつきが振り向くと、亜衣は鞄を置いたばかりらしく、まだ立ったままこちらを見ていた。
「握ってる」
「……うん」
「緊張?」
「かなり」
素直に答える。
亜衣は、自分の席へ座りながら小さく息を吐いた。
「私も」
「亜衣ちゃんも?」
「するよ。英語、返ってくるの怖い」
「夢に出てきた単語?」
「そう。acceptとexceptとexpect」
「結局、どれが不安だったの?」
「今それ聞かないで」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
なつきの指から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「簿記」
亜衣がなつきの机に置かれたノートを見る。
「前よりできたって言ってたよね」
「うん。でも、貸倒引当金が合ってるか分からないし、最後の総合問題も……」
「全部合ってなくても、前よりできたなら大丈夫だよ」
「そうかな」
「うん」
亜衣は迷わず頷いた。
「先生にも途中式が良くなったって言われてたし」
「うん」
「春樹くんにも、ずっとできてるって言われてたでしょ」
春樹の名前が出た瞬間、なつきの胸が少しだけ温かくなった。
考査前。
何度も言ってくれた。
大丈夫。
できてる。
横田さんが解いた。
なつき自身が書いた。
その言葉を思い出す。
「……うん」
「じゃあ、点数だけじゃなくて、できるようになったところも見よう」
亜衣の言葉は、考査前に春樹から何度も渡された言葉と少し似ていた。
なつきは小さく頷く。
「うん」
点数。
もちろん気になる。
良い点を取りたい。
勉強した分だけ、数字に表れてほしい。
でも、それだけではない。
前より問題文を読めた。
空欄を作らなかった。
難しい問題を一度飛ばして、あとから戻れた。
自分で間違いに気づいて直せた。
そのことも、忘れないようにしたかった。
◇
茜が教室へ入ってきた。
いつも通り落ち着いた表情だったが、手に持っている鞄を机へ置いたあと、黒板の時間割を一度確認していた。
亜衣がすぐに気づく。
「茜ちゃんも気にしてる」
「何を?」
「時間割」
「確認しただけよ」
「答案返却、緊張してる?」
茜は少しだけ間を置いた。
「していないと言えば嘘になるわ」
なつきは少し驚いた。
「茜ちゃんも?」
「もちろん。自分の予想と実際の点数が違うこともあるもの」
「茜ちゃんでも緊張するんだね」
「私は人間よ」
茜は穏やかに言った。
亜衣が笑う。
「知ってるけど、茜ちゃんは答案返ってくる時も冷静そうだから」
「表に出しにくいだけで、何も感じていないわけではないの」
その言葉を聞いて、なつきは少し安心した。
紅秋も。
茜も。
春樹も。
落ち着いて見える人達も、何も感じていないわけではない。
不安があっても、表し方が違うだけ。
春樹が考査後に「少し疲れた」と言ってくれたことを思い出す。
あの短い言葉は、なつきにとって大きかった。
「なつき」
茜が黒猫を握っているなつきの手を見た。
「今日は、ずいぶん強く持っているのね」
「……緊張してるから」
「なら、返ってきたら少し緩められるといいわね」
「点数が悪かったら、もっと強く握るかも」
「その時は、私達がいるわ」
茜は静かに言った。
「良くても、悪くても。一緒に見ればいいでしょう?」
なつきは茜を見る。
その言葉は、あまりにも自然だった。
一人で答案を見る必要はない。
比べるという意味ではなく。
喜ぶ時も。
悔しがる時も。
次にどうするか考える時も。
友達がいる。
「うん」
なつきは少し笑った。
「ありがとう」
◇
教室の扉が開いた。
なつきは、考えるより先に顔を上げていた。
春樹と紅秋が教室へ入ってくる。
いつもの朝。
制服姿。
鞄。
落ち着いた歩き方。
考査は終わっている。
体育祭も終わった。
それでも、春樹を見つける瞬間に胸が温かくなることは変わらなかった。
春樹も、教室へ入ってすぐになつきへ視線を向けた。
最初に黒猫。
それから、なつきの顔。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
なつきは少しだけ笑った。
「私も、春樹くん見つけた」
「うん」
いつものやり取り。
もう教室のみんなも慣れてきたのか、以前ほど大きな反応は起きなかった。
圭が小さく「朝の恒例」と呟き、田辺に肩を軽く叩かれたくらいだった。
春樹の視線が、なつきの手元へ落ちる。
黒猫を握っている手。
「緊張してる」
問いではなかった。
見て分かったという声だった。
「うん」
なつきは正直に答える。
「答案返ってくるから」
「簿記?」
「うん。国語も、数学も」
「大丈夫」
考査前と同じ言葉。
なつきの胸が静かに鳴る。
「まだ点数分からないよ?」
「分からない」
「それでも?」
「うん」
春樹は少しだけ考えた。
「できるようになったところは、点数で消えない」
なつきは、すぐに言葉を返せなかった。
点数が悪かったら。
努力もなかったことになるような気がしていた。
勉強したのに届かなかったら。
自分にはやっぱり無理だったと、思ってしまうかもしれない。
けれど春樹は、静かに言った。
できるようになったところは、点数で消えない。
「……うん」
なつきは黒猫を握る手を、少しだけ緩めた。
「覚えておく」
春樹は頷く。
「うん」
「でも、良い点だったら一緒に喜んでね」
「うん」
「悪かったら?」
「直す」
「一緒に?」
「うん」
その返事に、胸が温かくなった。
結果がどうでも。
次がある。
春樹と一緒に直せる。
それだけで、答案を受け取る怖さが少しだけ小さくなった。
◇
朝のホームルーム。
担任が教室へ入ってきた時、手に答案の束はなかった。
教室の空気が、一瞬だけ緩む。
「今、安心しましたね?」
担任が教卓へ出席簿を置きながら言った。
教室の何人かが気まずそうに笑う。
圭は素直に頷いた。
「しました」
「一時間目には返却されると思います」
「やっぱり!」
教室に笑いが起きた。
「答案返却の際は、点数だけ見て一喜一憂するのではなく、どこを間違えたのか確認してください」
圭が小声で言う。
「点数で一喜一憂したあとに確認でもいいですか」
紅秋が隣から返す。
「声に出すな」
担任にも聞こえていたらしい。
「三浦くん。それでも構いませんが、授業中に大騒ぎはしないように」
「はい」
また笑いが起きる。
担任は考査後の授業予定や、提出物について説明を続けた。
なつきは聞きながらも、一時間目のことが頭から離れなかった。
簿記。
最も勉強した科目。
最も怖かった科目。
そして、最も自分の変化を感じた科目。
良い点であってほしい。
その気持ちは、どうしても消せなかった。
◇
一時間目。
簿記の先生が教室へ入ってきた。
手には、答案の束。
教室全体の空気が、分かりやすく固くなった。
「おはようございます」
「おはようございます」
返事が、いつもより少し揃っていた。
先生は教卓へ答案を置く。
紙の束が机へ触れる音が、やけに大きく聞こえた。
「皆さん、中間考査お疲れ様でした」
圭が机の下で手を組んでいる。
田辺は前を向いたまま、少しだけ肩へ力が入っていた。
島中もいつもより姿勢が良い。
亜衣はなつきへ一度だけ視線を向けた。
茜は静かにノートを開いている。
春樹はいつも通りに見えた。
けれど、なつきは知っている。
春樹も何も感じていないわけではない。
「今回の平均点は、前回より少し上がりました」
教室から、小さな反応が漏れる。
「考査前、図書室や教室で勉強していた人が多かったようですね。答案を見ても、途中式や考え方を書けている人が増えていました」
なつきの胸が、少しだけ動く。
途中式。
考え方。
先生に考査前、良くなったと言ってもらった部分。
「ただし、貸借を逆にしている人や、問題文の条件を読み落としている人もまだいます。点数を見たあと、必ず解説を聞いてください」
圭が小さく肩を揺らした。
問題文。
最後まで読む。
教室のみんなが同じことを思い出したのか、田辺と島中が圭へ一瞬だけ視線を向ける。
圭は小声で言った。
「読んだ」
田辺が小さく笑った。
先生が答案を配り始める。
名前を呼ばれた生徒が前へ出る方式だった。
一人ずつ。
答案を受け取る。
席へ戻る。
紙を裏返す人。
すぐに点数を見る人。
表情が明るくなる人。
少し固くなる人。
周囲へ見せる人。
隠す人。
教室の空気が、一人ずつ変化していく。
「三浦くん」
圭が立ち上がった。
「はい」
いつもより真剣な返事。
前へ出る。
先生から答案を受け取る。
席へ戻るまで、表を見なかった。
椅子へ座り、ゆっくり答案を見る。
しばらく動かない。
田辺が小声で聞く。
「どうだった?」
圭は顔を上げた。
「六十二」
その声には、驚きと喜びが混ざっていた。
「六十二点!」
少し声が大きくなる。
先生がこちらを見る。
圭は慌てて口を押さえた。
「すみません」
島中が小声で言う。
「前より上がった?」
「十一点上がった」
「すげぇじゃん」
田辺が笑う。
「問題文効果だな」
圭は答案を見つめた。
目が少し潤んでいるようにも見えた。
「俺、ちゃんと上がった」
紅秋が静かに頷く。
「やった分は出たな」
「紅秋……」
「ただし、間違いは直せ」
「はい」
圭の返事は、素直だった。
周囲の生徒達も、圭の様子を見て少し笑っている。
からかう笑いではない。
良かったな、と伝わる笑いだった。
なつきの胸も温かくなる。
図書館で。
問題文を最後まで読めと言われ続けて。
小声で苦戦しながら。
圭はちゃんと頑張った。
その結果が数字に出た。
「横田さん」
名前を呼ばれた。
なつきの体が、一瞬固まる。
「はい」
立ち上がる。
教卓までの距離が、いつもより長く感じられた。
一歩。
また一歩。
先生は、答案を表向きにしてなつきへ差し出した。
受け取る前に、赤い数字が目へ入った。
八十二。
なつきは、足を止めそうになった。
「途中式、よく書けていました」
先生が小さく言った。
「考査前より、かなり安定しましたね」
「あ……」
声が出ない。
先生は少し微笑んだ。
「よく頑張りました」
「……ありがとうございます」
答案を両手で受け取る。
席へ戻る。
点数は変わらない。
何度見ても、八十二点。
以前より、はっきり上がっている。
自分が思っていたよりも、ずっと良かった。
椅子へ座った瞬間、胸の奥から何かが一気に込み上げてきた。
嬉しい。
安心した。
頑張ってよかった。
春樹に教えてもらってよかった。
みんなと勉強してよかった。
途中で諦めなくてよかった。
いろいろな気持ちが一度に押し寄せて、なつきは黒猫へ手を伸ばした。
けれど、触れる前に春樹の言葉を思い出す。
嬉しい時は、揺らす。
なつきは黒猫をそっと持ち、小さく揺らした。
亜衣が隣から答案を覗く。
そして、目を大きく開いた。
「なつき」
声を抑えている。
でも、興奮が隠せていない。
「八十二?」
「うん」
「すごい」
なつきは何も言えず、頷いた。
茜も少し身を乗り出す。
「本当に?」
なつきは答案を少しだけ見せる。
茜の表情がやわらかくなった。
「よく頑張ったわね」
「うん」
なつきの目が、少し熱くなる。
泣くほどではない。
でも、涙が出そうだった。
「……嬉しい」
小さく言う。
亜衣が笑う。
「うん。いっぱい喜んでいいよ」
春樹は、まだ答案を受け取る前だった。
それでも、なつきの方を見ていた。
目が合う。
なつきは答案を少し持ち上げた。
八十二。
春樹が見えるように。
春樹は点数を見た。
そして、ほんの少し口元を緩めた。
小さく頷く。
なつきも頷き返す。
声はない。
でも、届いた。
よかった。
できてた。
そう言ってもらえた気がした。
◇
春樹の名前が呼ばれた。
前へ出る。
答案を受け取る。
席へ戻る。
なつきは見ないようにしようと思った。
点数を覗くのはよくない。
本人が言いたくなければ、聞くべきではない。
でも、少し気になった。
春樹は答案を見て、特に表情を変えなかった。
紅秋が小声で聞く。
「どうだった?」
春樹は短く答える。
「九十三」
圭が少し離れた席で目を見開く。
「高い」
島中も思わず振り返る。
「やっぱりできてるじゃん」
春樹は首を傾げる。
「一問間違えた」
「そこ気にするの?」
田辺が苦笑する。
紅秋は答案を一度見た。
「計算ミスか」
「うん」
「直せばいい」
「うん」
春樹は、それ以上何も言わなかった。
なつきは、自分の答案を見たあと、春樹を見た。
目が合う。
「春樹くん」
声を抑えて呼ぶ。
「何?」
「おめでとう」
「うん。横田さんも」
「ありがとう」
少しだけ間を置く。
「八十二点だった」
「見えた」
「すごく嬉しい」
「うん」
「春樹くんのおかげ」
言うと、春樹はいつものように首を横へ振った。
「横田さんが解いた」
その言葉。
何度も言われた。
でも、今は前より素直に受け取れた。
「うん」
なつきは答案を見ながら頷いた。
「私が解いた」
春樹も頷く。
「うん」
「でも、春樹くんが教えてくれたから、解けるようになった」
「それは、うん」
否定しなかった。
なつきは少し笑った。
「じゃあ、二人で喜んでいい?」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
それから頷く。
「うん」
胸が、また温かくなる。
自分が頑張った。
春樹が教えてくれた。
どちらか一つではない。
両方だった。
◇
答案返却が終わり、先生が解説を始める。
教室の空気は、点数を見た直後のざわめきを少し残していた。
圭は六十二点の答案を、何度も見返している。
田辺は七十点台だったらしく、少し安心した顔をしている。
島中は一問の読み落としを見つけて、「これか」と小さく呻いた。
紅秋は九十点近い点数だったが、間違えた問題へすぐに印をつけていた。
亜衣も以前より点数が上がっていた。
茜は高得点だったが、記述の減点箇所を真剣に確認している。
なつきも、先生の解説へ目を向けた。
貸倒引当金の問題。
合っていた。
考査中、最も不安だった問題。
一度飛ばして、あとから戻って書いた問題。
赤い丸がついている。
なつきの胸がまた熱くなる。
最後の総合問題。
一か所だけ計算ミス。
けれど、途中式があるため部分点が入っていた。
先生が言う。
「この問題は、最終的な金額が違っていても、途中式が正しければ部分点を与えています。途中を省かないことが大切です」
なつきは、自分の答案を見る。
丁寧に書いた途中式。
茜に言われた。
途中を書けば、間違えた場所が分かる。
春樹にも、自分の考えを順番に書くよう教えてもらった。
その積み重ねが、点数になっている。
先生の解説を聞きながら、なつきは答案の間違いへ青いペンで正しい答えを書き込んだ。
返ってきた答案は、終わりではない。
ここから直す。
前の自分なら、点数だけを見て安心して終わっていたかもしれない。
あるいは、悪い点なら答案を見たくなくなっていたかもしれない。
でも今は、間違えたところも見られる。
春樹と、あとで話したい。
どこで間違えたのか。
次はどうするのか。
そう思える。
◇
一時間目が終わると、教室は一気に賑やかになった。
「六十二!」
圭が答案を持ち上げる。
「俺、六十二!」
「もう知ってる」
田辺が笑う。
「三回目だぞ」
「何回でも言う。十一点上がった」
島中が圭の答案を覗く。
「読み落とし減ってるじゃん」
「問題文を最後まで読んだから」
紅秋が静かに頷く。
「その習慣は続けろ」
「続ける」
圭は即答した。
考査前のような、笑いを取るための返事ではなかった。
本当に嬉しいのだと分かる。
周囲の生徒達も、それぞれ答案を見せ合っていた。
「ここ何で減点?」
「漢字違う」
「最後の計算、符号逆だった」
「部分点入ってる」
教室中に、点数と間違いと安堵の声が混ざる。
なつきも亜衣と答案を見せ合った。
「なつき、ここ全部丸じゃん」
亜衣が仕訳問題を指す。
「うん。びっくりした」
「考査前、ずっとやってたもんね」
「うん」
「本当に結果出たね」
なつきは答案を見た。
「嬉しい」
何度言っても、足りない気がした。
「頑張ってよかった」
「うん」
亜衣は自分のことのように笑っていた。
茜も横から言う。
「次は、間違えたところを一緒に確認しましょう」
「うん」
亜衣が少し肩を落とす。
「もう次の勉強会?」
「答案直しよ」
「分かってるけど、もう少し喜ばせて」
茜は少し笑った。
「もちろん。今日は喜んでいいわ」
なつきは春樹を見る。
春樹は紅秋と答案を確認している。
でも、なつきの視線に気づいた。
「春樹くん」
「何?」
「あとで、間違えたところ見てくれる?」
「うん」
「今日?」
「図書室?」
「うん」
自然に次の約束ができる。
答案返却のあとも、同じ時間が続く。
それが嬉しかった。
◇
二時間目の国語。
答案の束を持った先生が教室へ入ってくると、また緊張が戻った。
「次だ」
圭が小さく言う。
「簿記良かったから、もう心が満足してる」
田辺が笑う。
「国語も受けただろ」
「受けた」
「なら返ってくる」
「現実」
紅秋が言う。
「今日は全員が現実担当だな」
教室に笑いが起きる。
国語の平均点は、簿記より少し低かった。
記述問題で点差がついたらしい。
答案が配られる。
なつきは七十六点。
簿記ほどではない。
でも、自分が予想していたより良かった。
特に、物語文の記述。
主人公の心情変化について書いた問題に、大きな丸がついている。
考査中。
春樹が選んでくれた本を思い出した。
言葉の間。
沈黙。
大きな出来事ではなく、少しずつ距離が変わること。
そういうものを考えながら書いた答え。
先生の赤い文字で、
『本文の言葉を使いながら、心情の変化を丁寧に説明できています』
と書かれていた。
なつきは、その一文を何度も読んだ。
春樹が選んでくれた本。
祐衣と話したこと。
自分が最近、気持ちを少しずつ言葉にするようになったこと。
それが、答案の中にもつながっているような気がした。
「どうだった?」
春樹が小声で聞く。
「七十六点」
「うん」
「記述、丸だった」
答案の先生の言葉を見せる。
春樹は少し読んだ。
「よかった」
「春樹くんが選んでくれた本、少し役に立ったかも」
「本?」
「うん。気持ちの変化を書く問題だったから」
「そっか」
「ありがとう」
春樹は少しだけ考える。
「本が役に立ったなら、よかった」
「うん」
「でも、書いたのは横田さん」
なつきは笑った。
「分かってる」
今度は、すぐに言えた。
「私が書いた」
春樹も少しだけ口元を緩めた。
「うん」
◇
三時間目の数学。
教室の緊張は、朝より少し薄くなっていた。
すでに二科目返ってきた。
良かった人も。
思ったより届かなかった人も。
少しずつ、答案返却というものに慣れ始めている。
それでも数学は、なつきにとって不安だった。
関数の応用問題。
最後に計算を直した。
証明問題も、最後まで書いた。
合っていたのか。
答案が配られる。
なつきの点数は、七十一点だった。
一瞬、簿記の八十二点と比べそうになる。
でも、すぐに答案の中を見る。
関数。
最後に直した答え。
丸。
証明問題。
完全な正解ではない。
けれど、必要な条件を書けていたため、半分以上の点が入っている。
以前なら、証明問題はほとんど空欄だった。
今回は、最後まで書いた。
七十一。
思っていたより、良い。
なつきは黒猫へ手を伸ばした。
今度は、強く握らなかった。
そっと揺らす。
嬉しい。
春樹がこちらを見る。
なつきは指で小さく七と一を作るようにして見せた。
春樹は少しだけ笑い、頷いた。
春樹自身は九十点台だった。
圭は五十点台。
けれど、前回より上がっていたらしく、簿記ほどではないものの嬉しそうだった。
美優や蓮、祐衣の結果はまだ分からない。
昼休みに、きっと顔を出すだろう。
みんな、それぞれの結果を受け取る。
良い点だけではない。
悔しい点もある。
でも、一緒に勉強した時間は消えない。
◇
昼休み。
予想通り、美優、蓮、祐衣が二年十一組へやってきた。
美優は、教室へ入るなり少しだけ肩を落としていた。
「数学、思ったより低かった」
蓮が後ろから言う。
「でも前回より上がってる」
「三点だけ」
「三点も、だよ」
美優は少し不満そうに蓮を見る。
なつきの胸が、ほんの少しだけ動いた。
蓮の言葉。
三点だけではなく、三点も。
春樹が何度も、なつきの変化をなつきへ返してくれたことと似ている。
「美優さん」
なつきは声をかけた。
「途中式、前より書けた?」
「うん。それは先生にも言われた」
「じゃあ、その三点だけじゃないと思う」
美優がなつきを見る。
「横田さん?」
「点数も三点上がったけど、途中式も前より書けたなら、それも増えたところだよ」
言いながら、自分でも少し驚いた。
春樹にもらった言葉を。
今、自分が美優へ渡している。
美優は少しだけ黙った。
それから、やわらかく笑った。
「そっか」
「うん」
「横田さん、なんか春樹みたい」
「えっ」
なつきの頬が熱くなる。
春樹も少しだけ目を瞬かせた。
亜衣が嬉しそうに口元を押さえる。
「影響受けてる」
「亜衣ちゃん」
美優は答案をもう一度見た。
「じゃあ、三点も上がった」
「うん」
「途中式も前より書けた」
「うん」
「次は、もう少し上げたい」
蓮が頷く。
「その調子」
美優は少し笑って、なつきへ言った。
「ありがとう」
「ううん」
胸が温かくなった。
春樹から受け取った言葉を、別の誰かへ渡せた。
それが嬉しかった。
◇
祐衣は、英語で高得点を取っていた。
けれど、一問だけ迷っていた文法問題を間違えたらしい。
「やはり、あの問題でした」
祐衣は少し残念そうに答案を見る。
なつきが隣から覗く。
「考査のあと、気にしてたところ?」
「はい」
「でも、他はほとんど合ってる」
「そうなのですが」
祐衣は少しだけ苦笑した。
「一度迷った問題は、やはり間違えていました」
春樹が答案を見る。
「次は分かる」
祐衣が顔を上げる。
「はい?」
「今、間違えた理由が分かったなら」
「……そうですね」
祐衣は少しだけ笑った。
「次は分かります」
なつきも頷く。
「答案直し、一緒にしよう」
「横田さんも?」
「うん。英語、私も間違えてるし」
「では、また図書室で」
「うん」
また一つ、次の予定が決まる。
考査前は、点数を上げるための勉強会。
今度は、返ってきた答案を次へつなげるための勉強会。
同じ図書室。
同じ顔ぶれ。
でも、少しずつ内容が変わっていく。
◇
昼食を食べながら、みんなで結果を話した。
無理に点数を言う必要はない。
比べすぎない。
けれど、自分から話したい人は話す。
圭は簿記の六十二点を何度も誇らしげに見せた。
田辺は、簿記で読み違えた問題を笑いながら話した。
島中は、数学の計算ミスを「これさえなければ」と悔しがった。
紅秋は高得点だったが、間違い直しをすでに始めている。
亜衣は英語の単語問題で悔しがり。
茜は国語の記述で減点された理由を確認していた。
蓮は全体的に安定していた。
美優は三点“も”上がった数学の答案を、さっきより明るい顔で見ている。
祐衣は文法問題へ青いペンで説明を書き足していた。
春樹は静かに答案を見ている。
なつきは、その輪の中で自分の簿記答案をもう一度開いた。
八十二点。
嬉しい。
でも、もう数字だけではなかった。
赤い丸。
途中式。
自分の字。
先生の言葉。
間違えた一問。
そのすべてが、自分が頑張った跡だった。
「なつき」
亜衣が言う。
「さっきから、答案見て笑ってる」
「嬉しいから」
「うん」
「この点数も嬉しいけど」
なつきは少し考えた。
「前より、分かるようになったのがちゃんと見えたのが嬉しい」
茜が頷く。
「良い受け止め方ね」
春樹が静かに言う。
「うん」
なつきは春樹を見る。
「春樹くんが、何度も言ってくれたから」
「何を?」
「できるようになったところは消えないって」
春樹は少しだけ頷いた。
「うん」
「今日、分かった」
「そっか」
短い返事。
でも、その声は少しだけやわらかかった。
◇
放課後。
予定通り、答案直しのために図書室へ集まることになった。
考査前のような切迫した空気はない。
けれど、返却された答案を持つ手には、それぞれ違う思いがあった。
嬉しさ。
悔しさ。
安心。
次への課題。
図書室のカウンターには祐衣がいた。
当番の仕事を終えたあと、一緒に勉強する予定だった。
なつきは春樹と並んで奥の机へ向かう。
鞄の黒猫が揺れる。
春樹が見る。
「今日は嬉しい」
「分かる?」
「揺らしてる」
「うん」
なつきは笑った。
「すごく嬉しい」
「うん」
「春樹くんも、嬉しい?」
「何が?」
「私の点数」
聞いたあと、少し欲張りな質問だったかもしれないと思う。
でも、聞きたかった。
春樹はすぐに答えた。
「うん」
「本当に?」
「うん。頑張ってたから」
なつきは胸がいっぱいになる。
「ありがとう」
「うん」
「春樹くんの九十三点も、私、嬉しいよ」
「そう?」
「うん。教えてくれながら、自分の勉強もしてたでしょ」
「うん」
「すごい」
春樹は少しだけ目を伏せた。
照れているのか。
考えているだけなのか。
なつきにはまだ分からない。
でも、ほんの少しだけ口元がやわらかくなったように見えた。
「ありがとう」
春樹が言った。
なつきは目を瞬かせる。
「春樹くんが、ありがとうって」
「言う」
「言うけど」
なつきは笑った。
「今日は少し特別に聞こえた」
「そう?」
「うん」
◇
机に答案を広げる。
考査前は、白い問題集を前にしていた。
今は、赤い丸と点数の入った答案。
春樹が、なつきの間違えた総合問題を見る。
「ここ」
「うん」
「最初の金額は合ってる」
「うん」
「次で、手数料を引く位置が違う」
「ここ?」
「うん」
春樹がシャープペンで、答案の横へ小さく矢印を書く。
最初にノートへ書いてくれた矢印と似ていた。
なつきは、その矢印を見て少し笑う。
「何?」
春樹が聞く。
「最初も、矢印だったなって」
「簿記?」
「うん。春樹くんがノートに書いてくれた」
「うん」
「そこから始まった」
「何が?」
「簿記が分かるようになったの」
なつきは答案へ視線を戻す。
「最初は、春樹くんの矢印しか分からなかった。でも、少しずつ自分で書けるようになって」
「うん」
「今日、八十二点になった」
春樹も答案を見る。
「うん」
「この答案、大切にする」
「点数が良かったから?」
「それもあるけど」
なつきは少し考える。
「頑張った時間が全部入ってる気がするから」
春樹は黙って聞いていた。
「図書館で勉強したことも。春樹くんに教えてもらったことも。圭くん達と笑ったことも。祐衣さんに英語教えてもらったことも」
「うん」
「全部、この考査につながってた」
「そっか」
なつきは答案を丁寧に机へ置いた。
「だから、大切」
春樹は少しだけ間を置いた。
「俺も」
「春樹くんも?」
「答案、取っておく」
「九十三点だから?」
「横田さんに教えた考査だから」
なつきは息を止めた。
春樹は何でもないことのように、答案へ視線を落としている。
でも、その言葉は、なつきにとって何でもなくなかった。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「急に嬉しいこと言う」
「そう?」
「うん」
なつきは黒猫へ手を伸ばした。
そして、小さく揺らす。
春樹が見る。
「嬉しい」
「うん」
「すごく」
春樹は、ほんの少しだけ笑った。
◇
少し遅れて、亜衣、茜、圭、田辺、島中、紅秋、美優、蓮も奥の席へ集まった。
祐衣もカウンターの仕事を終え、英語の答案を持ってくる。
答案直しの時間。
でも、考査前とは違って、空気は少し明るかった。
「俺、ここの問題、本番ではできたのに今分からない」
圭が言う。
田辺が答案を見る。
「本番でどうやって解いたんだよ」
「紅組魂」
「絶対違う」
島中が笑う。
紅秋は圭の答案を受け取る。
「途中式がある。これを見れば分かる」
「本当だ」
「自分で書いたんだろ」
「考査中の俺、すごい」
「今の自分も同じだ」
「紅秋、今日優しい」
「事実を言っているだけだ」
美優は数学の答案を広げ、蓮となつきに途中式を見せていた。
「ここ、前より書けてるって先生にも言われた」
なつきが頷く。
「うん。すごく丁寧」
「三点も上がったし」
美優が少し笑う。
「うん。三点も」
二人で笑った。
その会話を聞いていた春樹が、なつきを見る。
なつきも春樹を見る。
美優へ渡した言葉。
春樹からもらったもの。
ちゃんとつながっている。
祐衣は亜衣と英語の文法問題を確認していた。
「exceptは前置詞として使われています」
「やっと三つの違いが完全に分かった」
亜衣が言う。
「考査後に完成した」
「次は大丈夫です」
「うん。次は」
茜がみんなを見渡しながら言った。
「良い答案直しになっているわね」
圭が顔を上げる。
「カフェは?」
紅秋が即座に答える。
「今日はない」
「やっぱり!」
図書室なので、大きな笑いにはならない。
けれど、全員の肩が小さく揺れた。
◇
答案直しが終わる頃。
窓の外は、夕方の色に染まり始めていた。
考査前から何度も集まった図書室。
同じ机。
同じ顔ぶれ。
でも今日は、少しだけ違う。
ただ不安を抱えて問題を解いているのではない。
自分達が頑張った結果を受け取り。
間違いを確認し。
次へ進もうとしている。
なつきは答案を鞄へしまった。
折れないように。
丁寧に。
春樹がそれを見る。
「大切にする?」
「うん」
「そっか」
「春樹くんも?」
「うん」
なつきは少し笑った。
「同じだね」
「うん」
机の上には、祐衣から借りた新しい本もあった。
まだ読み始めたばかり。
日常の中の小さな変化を描く物語。
考査の結果を受け取った今日も、きっと小さな変化の一日だった。
点数が上がった。
それだけではない。
自分が頑張ったことを、自分のものとして受け取れた。
春樹から受け取った言葉を、美優へ渡せた。
春樹の結果を、自分のことのように嬉しいと思えた。
そして春樹も、なつきの答案を喜んでくれた。
◇
図書室を出る。
夕方の廊下。
窓から入る少し冷たい風。
生徒達の少なくなった校舎。
圭達は前を歩きながら、答案の話を続けていた。
「六十二点、家で見せる」
「十一点上がったなら褒められるだろ」
「額に入れようかな」
「それはやりすぎ」
田辺と島中が笑う。
紅秋も、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
亜衣と茜は、なつきの隣。
美優と蓮、祐衣も少し後ろにいる。
春樹は、なつきのすぐ近くを歩いていた。
「春樹くん」
「何?」
「今日、朝に言ってくれたこと」
「何?」
「できるようになったところは、点数で消えないって」
「うん」
「点数も良かったから、安心したけど」
なつきは少しだけ黒猫へ触れた。
「もし思ったより低くても、あの言葉があったら、ちゃんと答案を見られたと思う」
春樹は黙って聞いている。
「だから、ありがとう」
「うん」
「私も、誰かが結果で落ち込んでたら言えるようになりたい」
「今日、言ってた」
「美優さんに?」
「うん」
「聞いてた?」
「聞こえた」
「そっか」
「横田さん、ちゃんと渡してた」
胸が温かくなる。
「春樹くんからもらった言葉」
「うん」
「勝手に使った」
「いい」
春樹は短く言った。
「もっと使っていい」
なつきは春樹を見る。
その横顔はいつも通り静かだった。
けれど、言葉は優しかった。
「じゃあ」
なつきは少し笑った。
「春樹くんが落ち込んだ時にも使うね」
「俺に?」
「うん。点数悪かった時とか」
「今日は悪くなかった」
「今日はね」
「次は分からない?」
「そう。春樹くんでも、何か上手くいかない日あるでしょ」
春樹は少し考えた。
「ある」
「その時は、私が言う」
「何て?」
「できるようになったことは、結果だけでは消えないよって」
春樹は少しだけ黙った。
夕方の廊下。
周囲の話し声が少し遠くなる。
「うん」
春樹は頷いた。
「覚えておく」
なつきの胸が、静かに鳴った。
「私が言ったこと?」
「うん」
「大事?」
少しだけ欲張って聞いた。
春樹はなつきを見た。
「大事」
迷わずに言った。
なつきは何も言えなくなる。
頬が熱い。
黒猫へ手を伸ばす。
でも今度は握らなかった。
小さく揺らした。
春樹がそれを見る。
「嬉しい」
「……うん」
なつきは笑った。
「すごく嬉しい」
◇
校門の近くで、みんながそれぞれの方向へ分かれる。
美優が答案の入った鞄を持ち直す。
「次はもっと上げる」
蓮が笑う。
「その前に、今日の直しを忘れないように」
「分かってる」
祐衣がなつきへ微笑む。
「本も、ゆっくり読んでくださいね」
「うん。答案直しも終わったから、今日から読む」
「感想、楽しみにしています」
「私も」
亜衣が手を振る。
「明日も答案返ってくるかもね」
「言わないで」
圭が少し離れたところから反応する。
「今日は六十二のまま終わりたい」
田辺が笑う。
「明日も現実は来るぞ」
「みんな紅秋化してる!」
笑い声が広がる。
春樹は紅秋と駅の方へ向かう前に、なつきを見る。
「横田さん」
「うん?」
「今日は、おめでとう」
なつきは一瞬、目を丸くした。
考査の点数。
自分が頑張った結果。
春樹が、改めて祝ってくれた。
「ありがとう」
なつきも言う。
「春樹くんも、おめでとう」
「うん」
「それから、お疲れ様」
「横田さんも」
少しだけ沈黙。
でも、もう気まずくない。
言葉がなくても、相手がそこにいることを感じられる。
祐衣から借りた本の最後の場面を思い出す。
最初と同じ場所。
同じように座っている二人。
でも、関係は変わっている。
特別なことが、日常になっていく。
「また明日」
春樹が言う。
「うん。また明日、春樹くん」
「明日も見つける」
なつきの胸が温かくなる。
「私も」
春樹と紅秋が歩き出す。
なつきはその背中を見送った。
鞄の中には、八十二点の答案。
新しい本。
使い込んだ簿記ノート。
そして鞄の横には、黒猫。
考査の結果が返ってきた。
数字は、確かに嬉しかった。
でも、それ以上に嬉しかったものがある。
頑張った時間が、自分の中に残っていたこと。
春樹が見つけてくれたこと。
自分でも、自分の変化を見つけられたこと。
なつきは黒猫をそっと揺らした。
嬉しい時の揺らし方。
もう、春樹だけが知っている癖ではない。
自分でも知っている。
自分の気持ちを、自分で見つけられるようになった証拠だった。
君の隣を目指す日々は、点数が返ってきても終わらない。
答案を直すように。
本のページをめくるように。
一つずつ。
少しずつ。
なつきは亜衣と茜の隣を歩きながら、明日の朝も春樹を見つける自分を思い浮かべていた。




