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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第121話 同じ本を開いた先で、君の言葉を待つ



 中間考査が終わった日の昼下がり。


 水戸駅へ向かう道には、考査を終えた生徒達の声があふれていた。


 朝までの張り詰めた空気が嘘のようだった。


 制服の肩から力を抜き、友達同士で笑い合う生徒。


 終わった答案について、早くも答え合わせを始めてしまっている生徒。


 今日は帰ったら何をするか相談している生徒。


 眠い、疲れた、終わった。


 似たような言葉が、あちこちから聞こえてくる。


 同じ校門を出ているはずなのに、朝よりも道が明るく感じられた。


 なつきも、歩く足が少しだけ軽かった。


 鞄には、考査範囲表や使い込んだ問題集。


 そして、春樹が選んでくれた一冊の本。


 鞄の横では、黒猫のキーホルダーが歩くたびに小さく揺れている。


「終わったなぁ……」


 圭が前を歩きながら、空へ向かって大きく息を吐いた。


「圭くん、さっきから何回目?」


 亜衣が笑う。


「終わった実感を何回でも味わいたい」


「答案返却までは終わってないぞ」


 紅秋が淡々と言った。


 圭が振り返る。


「今それ言う!?」


「事実だ」


「今日は現実を休ませて!」


 田辺が肩を揺らして笑う。


「紅秋、今日くらいはいいだろ」


「俺も今日は休めと言った」


「言いながら答案返却の話してるじゃん!」


 島中も苦笑する。


「紅秋に完全な休みを求める方が無理だろ」


 蓮が穏やかに笑った。


「でも、今回の圭くんはかなり頑張ってたよ」


「蓮……!」


 圭が感動した顔をする。


「見ててくれたのか!」


「図書館で同じ机だったからね」


「春樹も見てたし、紅秋も見てたし、俺、かなり見守られてた」


 田辺が言う。


「見守られてたっていうか、監視に近かったけどな」


「言い方!」


 みんなの笑い声が、昼の道へ広がる。


 考査前の図書室では、同じ顔ぶれが小声で問題を確認していた。


 今は、周囲を気にしながらも普通の声で笑っている。


 その違いだけで、考査が本当に終わったのだと感じられた。


 なつきはその輪の中で、少し前を歩く春樹を見た。


 春樹は紅秋の隣。


 その少し近くには蓮。


 いつもの落ち着いた歩き方。


 考査が終わったからといって、圭のように大きく両手を上げることはない。


 けれど、さっき校庭を出た時、確かに笑っていた。


 なつきはそれを見つけた。


 そして春樹も、笑っているなつきを見つけてくれた。


 その短いやり取りが、まだ胸の中に残っている。


「なつき」


 隣を歩いていた亜衣が、小さく声をかけた。


「また春樹くん見てる」


「うん」


 なつきは隠さなかった。


 亜衣が少しだけ目を丸くする。


「もう完全に認めるようになったね」


「だって、見てたから」


「そうだけど」


「春樹くんも、私を見つけたって言ってくれたし」


 言葉にすると、頬が少し熱くなる。


 それでも、以前のように慌てて否定はしなかった。


 亜衣は嬉しそうに笑った。


「よし」


「またそれ?」


「なつきが素直になった時の合図」


 茜が二人の少し後ろから言った。


「でも、本当に良い変化だと思うわ」


「茜ちゃんまで」


「気持ちを言えるようになったもの」


 なつきは黒猫に触れた。


 春樹の隣を目指している。


 そのことは、ずっと変わっていない。


 でも以前は、その気持ちを知られることが怖かった。


 今は、少しずつ言葉にできる。


 嬉しい。


 見つけた。


 一緒にいたい。


 また話したい。


 小さな言葉ばかりだけれど、それでも以前より確かに前へ進んでいる。


   ◇


 カフェへ着くと、昼時を少し過ぎていたものの、店内にはまだ何組もの客がいた。


 コーヒーの香り。


 焼き菓子の甘い匂い。


 食器が触れ合う音。


 控えめに流れる音楽。


 図書館とは違う、やわらかなざわめきが広がっている。


 人数が多いため、今回も二つのテーブルへ分かれることになった。


 一つ目のテーブルには、圭、田辺、島中、蓮、紅秋。


 もう一つには、なつき、亜衣、茜、美優、祐衣、春樹。


 前回とほとんど同じ分かれ方だった。


「俺、今回もそっちじゃない」


 圭が少し残念そうに言う。


 田辺が椅子を引きながら笑った。


「何が不満なんだよ」


「本の感想会、近くで聞きたかった」


「圭くん、本読んでないでしょ」


 亜衣が言う。


「読んでないけど、反応は見たい」


「完全に私と同じ目的」


 亜衣が妙に納得した顔をした。


 なつきは二人を見比べる。


「二人ともやめて」


 島中が笑う。


「横田の反応観察会になってるぞ」


 紅秋が冷静に言った。


「周囲の客に迷惑をかけない範囲にしろ」


「紅秋、もう店員みたい」


 圭が言う。


「必要なら管理する」


「考査終わったのに管理される!」


 また笑いが広がる。


 店員が注文を取りに来ると、みんなそれぞれ飲み物や軽食を頼んだ。


 圭は考査終了記念と言って甘いものを二つ頼もうとし、田辺に止められた。


「一個にしとけ」


「今日は二個でもよくない?」


「腹壊したら明日後悔するぞ」


「現実担当、こっちにもいた」


 島中が肩を揺らす。


「田辺も染まってきたな」


 蓮が笑う。


「紅秋一人に任せるには人数が多いからね」


 紅秋は何も言わず、静かにコーヒーを注文した。


 なつきは、ミルクティーと小さなケーキ。


 亜衣はアイスティーとパフェ。


 茜は紅茶。


 美優は季節限定の甘いドリンクを選び、祐衣はカフェオレ。


 春樹は前と同じように、コーヒーとシンプルな焼き菓子だった。


「春樹くん、前と同じだね」


 なつきが言う。


「うん」


「気に入った?」


「うん。甘すぎない」


「やっぱり春樹くんらしい」


 自然に言うと、美優が少しだけ笑った。


「横田さん、ほんと春樹のこと分かってきたね」


 なつきの胸が、小さく跳ねる。


「少しだけ」


「春樹は?」


 美優が今度は春樹を見る。


「横田さんのこと、分かってきた?」


 突然向けられた問いに、テーブルの空気が少しだけ止まった。


 亜衣がカップへ手を伸ばしかけた姿勢で固まる。


 茜は静かに春樹を見る。


 祐衣も、わずかに目を細めた。


 なつきは、何も言えなかった。


 春樹は少し考えた。


「少し」


 美優が笑う。


「何が分かるようになった?」


「美優さん」


 なつきが思わず止めようとする。


 けれど美優は意地悪そうではなかった。


 純粋に、少し興味があるような顔だった。


 春樹はさらに考える。


「ゆっくり進む話が好き」


「うん」


「嬉しい時、黒猫を触る」


 なつきの指が、反射的に鞄の黒猫へ向かった。


 それに気づいて、さらに恥ずかしくなる。


 亜衣が小さく息を呑んだ。


「本当に触った」


 茜が口元を緩める。


 祐衣も静かに笑った。


 春樹は続ける。


「緊張してる時も触る」


「どっちも?」


 美優が聞く。


「うん。触り方が少し違う」


 なつきの顔が一気に熱くなる。


「違うの?」


「嬉しい時は、少し揺らす」


「緊張してる時は?」


「握る」


 春樹は普通の顔で言った。


 なつきは黒猫を持ったまま固まった。


 今は、少し握っている。


 美優が目を丸くし、それから楽しそうに笑った。


「春樹、すごく見てるじゃん」


 亜衣も耐えきれないように口元を押さえた。


「春樹くん、それはかなり見てる」


 茜は驚きながらも、どこか納得したように頷いた。


「さすが『最近、よく見つける人』ね」


 体育祭の借り人競争。


 その言葉が出た瞬間、なつきの胸へあの日の熱が戻ってきた。


 紅組席。


 春樹が持っていたお題カード。


 黒猫。


 来て。


 歩幅を合わせてくれた春樹。


 なつきは黒猫から指を離そうとした。


 けれど、春樹が言った。


「今は、少し緊張してる」


「分かるの?」


「握ってたから」


「……うん」


 なつきは逃げずに頷いた。


「緊張してる」


 春樹は短く返す。


「大丈夫」


 考査は終わったのに。


 また、その言葉。


 今度は、春樹に見られていることへの緊張に向けられたようだった。


 なつきは少しだけ笑った。


「うん」


 美優は二人を交互に見て、それから小さく息を吐いた。


「なんか、前よりすごく自然になったね」


 なつきは美優を見る。


 美優の表情は明るい。


 けれど、その奥にほんの少しだけ、言葉にしにくい何かが見えた気がした。


 寂しさなのか。


 安心なのか。


 どちらもなのか。


 なつきには分からなかった。


 でも、美優はすぐに笑った。


「いいと思う」


 その言葉に、なつきの胸が柔らかくなる。


「ありがとう」


 なつきは小さく答えた。


   ◇


 注文した飲み物と甘いものが運ばれてくると、テーブルの空気は少しやわらいだ。


 ミルクティーから上がる湯気。


 カフェオレのやわらかい色。


 美優のグラスに浮かぶクリーム。


 亜衣の前に置かれた背の高いパフェ。


 春樹の焼き菓子。


 茜の紅茶。


 考査前の教室では、机に問題集ばかり並んでいた。


 今は、甘いものと飲み物。


 それだけで、みんなの表情も少しずつ緩んでいく。


「改めて」


 亜衣がグラスを少し持ち上げた。


「中間考査、お疲れ様」


「お疲れ様」


 茜が言う。


 美優も明るく続ける。


「お疲れ!」


 祐衣も微笑む。


「皆さん、お疲れ様でした」


 春樹は短く言った。


「お疲れ」


 なつきもカップを持ち上げる。


「お疲れ様」


 隣のテーブルから、圭が身を乗り出した。


「こっちも!」


 田辺が止める。


「座れ」


「乾杯みたいなのしたい」


「飲み物来てからにしろ」


「まだ来てなかった」


 島中が呆れたように笑う。


「勢いだけで動くな」


 蓮が楽しそうに言う。


「圭くん、考査終わって完全に戻ったね」


 紅秋はコーヒーが運ばれてくるのを待ちながら言った。


「考査前の静けさは貴重だった」


「ひどい!」


 テーブルを越えて笑い声が重なる。


 なつきはその笑いの中で、考査前の図書室を思い出した。


 圭が小声で問題に苦戦していたこと。


 田辺と島中が真面目にノートを取っていたこと。


 紅秋が時間を管理していたこと。


 蓮が穏やかにみんなを助けていたこと。


 亜衣と茜が隣で励ましてくれたこと。


 美優が数学と向き合っていたこと。


 祐衣が英語を丁寧に教えてくれたこと。


 春樹が、何度もなつきの問題を見てくれたこと。


 考査は一人で受けた。


 でも、そこへ向かうまでの時間は一人ではなかった。


「みんなで勉強できてよかったね」


 なつきが言うと、テーブルの会話が少しだけ静かになった。


 亜衣が頷く。


「うん。家で一人だったら、あそこまでやらなかった」


 美優も言う。


「私も。蓮や祐衣がいなかったら、数学途中で投げてた」


「美優は問題文の途中で雰囲気で進むから」


 蓮が隣のテーブルから言う。


「今日は言わないで!」


「考査終わったから言える」


 祐衣が小さく笑う。


「でも、美優さんは最後まで途中式を書いていました」


「祐衣、優しい」


「本当のことです」


 茜は紅茶へ口をつけてから言った。


「一緒に勉強すると、自分が理解できていない部分も分かるものね」


 春樹も頷く。


「教えると、自分も確認できる」


 なつきは春樹を見る。


「春樹くんも?」


「うん」


「私に教えることで?」


「うん。説明できないところは、自分も曖昧」


「そっか」


 なつきは少し嬉しくなった。


 いつも教えてもらうばかりだと思っていた。


 でも、春樹にも何かが返っていた。


 ほんの少しでも、自分と勉強することが春樹にとって意味があった。


 それが嬉しかった。


「じゃあ」


 なつきは少し笑った。


「私が分からなかったのも、少し役に立った?」


「うん」


 春樹は普通に頷いた。


「役に立った」


 亜衣が小声で言う。


「こういう言葉が自然に出るようになってる」


 なつきは聞こえないふりをしようとした。


 でも、口元は少し笑っていた。


   ◇


 ひと通り甘いものを食べ、考査の話も少し落ち着いた頃。


 祐衣が、なつきの鞄へ視線を向けた。


「横田さん」


「うん?」


「本、持ってきていますか?」


「うん」


 なつきは鞄を開けた。


 春樹が選んでくれた文庫本。


 何度も読んだわけではない。


 けれど、持ち歩いたせいか、最初より手に馴染んでいた。


「読み終わった」


「どうでした?」


 祐衣の目が少しだけ明るくなる。


 本の話になると、祐衣の表情はいつもよりさらに柔らかくなる。


 なつきは本を両手で持った。


「すごく好きだった」


「どこが?」


 美優も興味深そうに顔を向ける。


 亜衣もパフェのスプーンを置いた。


 茜は静かに聞く姿勢になった。


 春樹も、コーヒーカップから手を離してなつきを見た。


 それだけで、少し緊張した。


 学校の図書室で、春樹とは途中まで感想を話している。


 私たちに似ている。


 最初より話すようになった。


 一緒にいる時間が増えた。


 そこまでは言った。


 でも、最後まで読んだ今、もう少し伝えたいことがあった。


「最後の場面」


 なつきはゆっくり言葉を選んだ。


「最初と同じ場所に、二人が座るでしょ」


 春樹が頷く。


「うん」


「場所も、やってることも、最初とほとんど同じなのに」


「うん」


「読んでる側には、全然違って見える」


 祐衣が静かに微笑む。


「二人の関係が変わったからですね」


「うん」


 なつきは頷いた。


「最初は、隣に座るだけでも何を話せばいいか分からなくて。相手のこともよく知らなくて」


 言葉にしながら、春樹との最初の頃を思い出す。


 同じ教室。


 近くにいるのに、話す理由がない。


 話したくても、何を言えばいいか分からない。


 春樹が静かだから、嫌われているのではないかと思うこともあった。


 自分から近づく勇気もなかった。


「でも、最後は」


 なつきは続ける。


「何も話さなくても、隣にいるのが自然になってる」


 春樹がなつきを見ている。


 その視線を感じて、胸が少し熱くなる。


「特別じゃなくなったってこと?」


 美優が聞く。


 なつきは少し考えた。


「特別じゃなくなったんじゃなくて」


 言葉を探す。


「特別なことが、日常になった感じ」


 テーブルが少し静かになった。


 祐衣が、ゆっくり頷く。


「素敵な言い方ですね」


 茜も微笑む。


「なつきらしいと思うわ」


 亜衣は、完全に春樹の反応を見ていた。


 なつきも、少し怖いけれど春樹を見た。


「春樹くんは?」


「何?」


「最後、どう思った?」


 春樹はすぐには答えなかった。


 焼き菓子の残りへ視線を落とすわけでもなく、ただ少し考えている。


 なつきは待った。


 春樹の沈黙は、もう怖くない。


 ちゃんと言葉を探してくれている。


 それを知っている。


「戻った」


 春樹が言った。


「戻った?」


「最初の場所に」


「うん」


「でも、最初とは違う」


「うん」


「二人が、相手のことを知ってるから」


 なつきの胸が、静かに鳴る。


「それから」


 春樹は少し間を置いた。


「隣にいることを、もう迷ってない」


 なつきは何も言えなかった。


 春樹は物語の話をしている。


 もちろん、それは分かっている。


 けれど、その言葉が自分達へ重なる。


 隣にいることを、もう迷っていない。


 今の自分達は、まだそこまでではない。


 なつきは、春樹の隣を目指している途中。


 まだ迷う。


 美優や祐衣が近くにいれば胸が揺れることもある。


 周囲にからかわれれば恥ずかしい。


 春樹の短い言葉を、何度も確かめたくなる。


 それでも、以前よりはずっと近い。


 春樹の近くにいることを、怖がらなくなっている。


「春樹くん」


 なつきは小さく呼んだ。


「うん?」


「私も、いつかそうなれたらいいな」


 言った瞬間、テーブルの空気が止まった。


 何に、とは言わなかった。


 でも、分かってしまうような言葉だった。


 隣にいることを迷わない関係。


 特別なことが日常になる距離。


 なつきの頬が熱い。


 逃げたくなる。


 けれど、春樹から目を逸らさなかった。


 春樹も、なつきを見ていた。


「うん」


 短い返事。


 でも、否定ではない。


「俺も」


 その一言が続いた。


 なつきの胸が、大きく鳴った。


「……春樹くんも?」


「うん」


「いつか?」


「うん」


 春樹はそれ以上を言わなかった。


 けれど、それで十分だった。


 亜衣が両手で口元を押さえている。


 茜は静かに目を細めていた。


 美優は少しだけ驚いた顔をして、その後、柔らかく笑った。


 祐衣は本を見つめるように目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。


 誰も大きく騒がなかった。


 ただ、二人の言葉をそのまま置いておいてくれた。


 その沈黙が、なつきにはありがたかった。


   ◇


 しばらくして、祐衣が自分の鞄から二冊の本を取り出した。


「考査が終わったら、おすすめをお持ちすると約束していましたので」


 なつきは目を輝かせた。


「持ってきてくれたの?」


「はい」


 一冊は、柔らかな色の表紙。


 もう一冊は、少し深い青色の表紙だった。


「こちらが横田さんに」


 祐衣は柔らかな色の本を差し出す。


「日常の中の小さな変化を描いたお話です。少し切ない場面もありますが、最後は温かいです」


 なつきは両手で受け取った。


「ありがとう」


「きっとお好きだと思います」


「嬉しい」


 次に、祐衣は青い表紙の本を春樹へ差し出した。


「こちらが大國くんに」


 春樹は受け取る。


「どういう話?」


「静かな旅のお話です。会話は少ないですが、風景と言葉が綺麗です」


 春樹は表紙を見る。


「読む」


 祐衣は嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


 美優が身を乗り出す。


「私にもない?」


 祐衣は少し驚き、それから笑った。


「次は美優さんにも選びます」


「やった」


 亜衣も手を上げる。


「私も!」


「もちろんです」


 茜も穏やかに言った。


「祐衣さん、大変になってきたわね」


「でも、楽しいです」


 祐衣の言葉は本心のようだった。


 本を通して、輪がまた広がっていく。


 春樹となつきだけではない。


 美優も。


 亜衣も。


 茜も。


 みんなが少しずつ、互いの好きなものを知っていく。


 それがなつきには嬉しかった。


   ◇


 隣のテーブルでは、考査の話がまだ続いていた。


「俺の英作文、Red team spiritで大丈夫かな」


 圭が真剣に聞いている。


 蓮が少し考える。


「文章全体が成立してれば、意味は伝わると思うよ」


「やった」


 田辺が言う。


「何を書いたんだよ」


「体育祭で紅組のみんなと頑張りました。紅組魂は大切です」


 島中が笑う。


「最後、日本語でも怪しいぞ」


「大切だろ!」


「大切だけど、英作文のテーマとしてどうなんだ」


 紅秋はコーヒーを飲みながら言った。


「語数を満たし、文法が合っていれば一定の点は入る」


「紅秋が認めた!」


「内容を認めたわけではない」


「でも希望はある!」


 圭の声に、こちらのテーブルでも笑いが起きる。


 春樹も少しだけ笑った。


 なつきはすぐに気づいた。


「春樹くん、また笑ってる」


「うん」


「見つけた」


「横田さんも」


「私も?」


「笑ってる」


「うん」


 なつきは笑ったまま頷いた。


「考査終わったから」


「うん」


「本の話もできたし」


「うん」


「次の本もできた」


 春樹は祐衣から受け取った青い本へ目を落とす。


「また感想」


「交換する?」


「うん」


 なつきの胸が温かくなる。


 また、次の約束。


 この本を読み終える頃。


 どんな日になっているだろう。


 どんな距離で、春樹と感想を話すのだろう。


 今はまだ分からない。


 でも、その分からなさが楽しみだった。


   ◇


 カフェでの時間は、考査前の勉強会後より長く感じられた。


 時間そのものは、そこまで変わらない。


 けれど、今日は明日の考査を気にする必要がない。


 問題集を開く必要もない。


 帰ってから復習しなければと焦る必要もない。


 それだけで、一つ一つの会話にゆっくり留まれた。


 美優が体育祭後から変わった教室の雰囲気について話し。


 蓮が特進科での考査前の様子を話し。


 圭が図書館で小声を覚えたことを何度も誇り。


 田辺と島中がそれをからかい。


 紅秋が次回の答案返却後には間違い直しをすると言い。


 圭が「もう次の勉強会が決まってる」と頭を抱える。


 亜衣と茜は、それを笑いながら聞く。


 祐衣は時々本の話を加え。


 春樹は必要な時だけ短く言葉を置く。


 なつきは、その全部を見ていた。


 以前の自分なら、この輪の中でこれほど自然に笑えただろうか。


 春樹と美優が話せば、胸が苦しくなったかもしれない。


 祐衣が春樹に本を渡せば、自分には入れない世界があると思ったかもしれない。


 圭や島中にからかわれれば、逃げ出したくなったかもしれない。


 でも今は。


 胸が揺れる時はあっても、ここにいられる。


 笑っていられる。


 自分から話しかけられる。


 春樹の隣を目指すことと、みんなの輪の中にいることは、どちらか一つを選ぶことではなかった。


   ◇


 そろそろ店を出ようという頃。


 紅秋が時計を確認した。


「今日はここまでにしよう」


 圭が少し驚く。


「もう?」


「前回より長い」


「そう?」


 田辺が言う。


「考査終わったから時間感覚なくなってんだよ」


 島中も頷く。


「帰って寝るんだろ」


「そうだった」


 蓮が笑う。


「みんな、今日は休もう」


 美優も大きく伸びをした。


「私も帰ったら寝る」


 祐衣が言う。


「私は少し本を読みます」


「祐衣らしい」


 美優が笑った。


 なつきも、新しく借りた本を鞄へ大切にしまった。


 春樹がその様子を見る。


「読む?」


「うん。でも今日は少しだけ」


「疲れてるから?」


「うん。春樹くんも無理しないでね」


「うん」


「寝ちゃってもいいよ」


「読むかも」


「やっぱり春樹くんらしい」


 春樹は少しだけ首を傾げた。


「横田さんも」


「私も?」


「本、持って帰る時、嬉しそう」


「……見てた?」


「うん」


 なつきは黒猫に触れた。


 嬉しい時の触り方。


 少し揺らす。


 春樹に言われたことを思い出し、今度は意識して黒猫を小さく揺らした。


「今は?」


 なつきが聞く。


 春樹は黒猫を見る。


「嬉しい」


「正解」


 なつきは笑った。


   ◇


 店を出ると、午後の空は少し白く霞んでいた。


 駅前には、学校帰りの生徒や買い物客が行き交っている。


 カフェの中にいた時より、外の風は少し冷たかった。


 みんな、それぞれの帰る方向へ分かれていく。


「また学校で!」


 美優が手を振る。


「うん。またね」


 なつきも振り返す。


 祐衣が微笑む。


「本、急がなくて大丈夫ですから」


「うん。ゆっくり読むね」


「感想、楽しみにしています」


「私も」


 蓮が圭達へ声をかけ、田辺と島中も一緒に駅へ向かう。


 紅秋は春樹を待っていた。


 亜衣と茜は、なつきと途中まで同じ方向。


 別れる前に、春樹がなつきを呼んだ。


「横田さん」


「うん?」


「本」


 春樹は祐衣から受け取った青い表紙の本を、少しだけ持ち上げる。


「読む」


「うん」


「横田さんも」


「読む」


「感想」


「交換しようね」


「うん」


 なつきは少しだけ間を置いた。


「それから」


「何?」


 カフェで話したこと。


 特別なことが日常になる。


 隣にいることを迷わなくなる。


 いつか、そうなれたら。


 春樹も、俺もと言ってくれた。


 その言葉をもう一度確かめたい気持ちがあった。


 でも、今すぐ何度も聞く必要はないと思った。


 春樹の「俺も」は、ちゃんと胸に残っている。


「また、隣で本の話しようね」


 なつきはそう言った。


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


 そして頷く。


「うん」


「図書室でも」


「うん」


「カフェでも」


「うん」


「教室でも」


 春樹はほんの少しだけ口元を緩めた。


「どこでも」


 なつきの胸が大きく鳴った。


「……うん」


 どこでも。


 場所ではなく。


 隣にいて話せれば。


 その意味に聞こえた。


「また明日」


 春樹が言う。


「うん。また明日、春樹くん」


 春樹と紅秋が駅の方へ歩いていく。


 なつきはその背中を見送った。


 鞄には、新しい本。


 横には黒猫。


 胸の中には、今日交わした言葉。


 考査は終わった。


 けれど、また次の物語が始まっている。


 同じ本を読む。


 違う言葉で感じたことを渡す。


 少しずつ相手を知る。


 そして、いつか。


 隣にいることを迷わなくなる。


「なつき」


 亜衣が隣で呼んだ。


「今、すごくいい顔してる」


「嬉しいから」


 なつきは素直に答えた。


 亜衣が笑う。


「うん。知ってる」


 茜も穏やかに微笑む。


「次の本も、大切な一冊になりそうね」


「うん」


 なつきは鞄の上から、本の形をそっと確かめた。


「大切に読む」


 春樹が選んだ本。


 祐衣が選んだ本。


 どちらも、なつきの世界を少しずつ広げてくれる。


 そして、その先にはまた春樹との会話が待っている。


 なつきは黒猫を軽く揺らした。


 嬉しい時の揺らし方。


 春樹が見つけてくれた、自分でも知らなかった癖。


 午後の風の中で、黒猫が小さく揺れる。


 君の隣を目指す日々は、考査が終わっても続いていく。


 大きな出来事がなくても。


 静かな本のページをめくるように。


 一日ずつ。


 一言ずつ。


 少しずつ。


 なつきは亜衣と茜の隣を歩きながら、次に春樹と本を開く時間を思い浮かべていた。

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