第13話 帰り道の隣
帰りのバスの中は、行きよりもずっと静かだった。
朝はあんなに騒がしかったのに。
ひたちなか海浜公園へ向かう時は、誰もが窓の外を見たり、友達と話したり、今日一日の予定を口にしたりしていた。
けれど、帰り道は違う。
バーベキューの匂い。
遊園地の疲れ。
春の陽射しの名残。
それらを全身に残したまま、二年十一組の生徒たちは座席に沈み込んでいた。
前の方では、まだ島中良の声が聞こえる。
でも、朝ほどの勢いはない。
田辺守は、たぶん寝ている。
時々、首が大きく揺れて、隣の男子に笑われていた。
伊藤亜衣も、最初はスマホで写真を見返していたが、今は窓にもたれながら目を細めている。
遠山茜は起きていた。
眠そうではあるけれど、委員長として最後まで気を抜かないつもりらしく、時々周りを確認している。
板倉紅秋は、前の席で静かにスマホを見ていた。
そして、大國春樹は。
窓側の席で、外を見ていた。
横田なつきは、その背中を少し離れた席から見ていた。
帰りのバスでも、春樹の隣は紅秋だった。
それは自然なことだった。
春樹と紅秋は仲がいい。
同じクラスで、いつも一緒にいる。
なつきが入る余地なんて、まだない。
でも、今日のなつきは、それほど寂しくなかった。
午前中、春樹と同じ班でバーベキューをした。
火起こしをする春樹を見た。
焼けた肉を自分の皿に入れてもらった。
写真を撮る時に「こっち向いて」と言えた。
観覧車の中で、少しだけ話せた。
春樹は「楽しい」と言ってくれた。
そして、なつきにも「楽しい?」と聞いてくれた。
それだけで、今日一日が宝物みたいだった。
スマホの画面には、今日撮った写真が並んでいる。
バーベキューの煙の向こうにいる春樹。
紙皿を持って笑う亜衣。
時間を確認する茜。
焼きそばを混ぜる紅秋。
観覧車を背景にした班写真。
ゴンドラの中で少しぎこちなく笑う五人。
そして、春樹がほんの少しだけ笑っている写真。
なつきは、その一枚を何度も見てしまった。
見すぎると変な気がして、いったん画面を閉じる。
でも、少しするとまた開いてしまう。
自分のスマホの中に、春樹の今日が残っている。
それが信じられないくらい嬉しかった。
「なつき」
前の席から、亜衣が小声で振り返った。
「起きてる?」
「うん」
「写真、あとでグループに送ってね」
「うん。家に帰ったら整理して送る」
「大國の写真多め?」
「えっ」
なつきの声が裏返りそうになる。
亜衣は疲れているくせに、こういうところだけ元気だった。
「じょ、冗談やめて」
「冗談かなぁ」
「亜衣ちゃん」
「はいはい。大丈夫、みんなの写真もちゃんと撮ってたよ。記録係として優秀」
「本当?」
「本当」
亜衣はにっと笑ったあと、少し声を柔らかくした。
「今日、楽しそうだったね」
なつきは少しだけ黙った。
窓の外に流れる夕方の景色を見る。
水戸へ戻っていく道。
遠くの空が少し橙色になり始めている。
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「すごく楽しかった」
「よかった」
「亜衣ちゃんも、いろいろありがとう」
「何が?」
「島中くんとか田辺とか、流してくれたし。写真も手伝ってくれたし」
「いいって。あたしも楽しかったし」
亜衣は軽く言った。
でも、その目は優しかった。
「なつき、今日ちょっと頑張ってたよ」
「頑張れてた?」
「うん。逃げてなかった」
その言葉に、なつきの胸がふわっと温かくなった。
朝、鏡の前で言った。
今日は、逃げない。
その言葉を、亜衣が知らないはずなのに。
まるで見ていたみたいに言ってくれた。
「……うん」
なつきは、少しだけ笑った。
「逃げなかった、と思う」
亜衣は満足そうに頷き、また前を向いた。
茜がその横で、ちらりとなつきを見た。
何も言わない。
でも、目だけで「よかったわね」と言ってくれている気がした。
なつきはスマホを胸の前で握った。
今日が終わる。
それは寂しい。
でも、今日があったことは消えない。
写真がある。
会話がある。
春樹の「楽しい」がある。
そのことだけで、帰りのバスの静けさも少し優しく感じられた。
バスが学校へ近づく頃には、空の色はさらに柔らかくなっていた。
梅桜高校の校舎が見えてくる。
スポーツ・商業棟。
普通科棟。
特進棟。
いつも見ている校舎なのに、外から帰ってくると少し違って見える。
今日一日、学校を離れていた。
でも、戻ってくる場所はここなのだ。
バスが校内の駐車スペースへ入る。
車体がゆっくり停まると、生徒たちが一斉に伸びをした。
「着いたー」
「疲れた」
「眠い」
「でも楽しかったな」
「写真送って!」
あちこちで声が上がる。
担任が前方で「忘れ物するなよ」と何度も言っている。
生徒たちは荷物を持ち、順番にバスを降りた。
なつきもバッグを持って立ち上がる。
足が少し重い。
たくさん歩いたからだ。
でも、心はまだふわふわしていた。
バスを降りると、夕方の学校の空気が頬に触れた。
朝とは違う。
少し涼しくて、少しだけ寂しい。
校庭の向こうには部活の声が聞こえていた。
別の学年は普通に授業や部活をしていたのだろう。
全日ホームルームだった自分たちだけが、一日分の特別を抱えて戻ってきた。
「四班、集合」
茜が声をかけた。
最後の確認だった。
なつき、春樹、紅秋、亜衣が自然と集まる。
茜は名簿を見ながら確認した。
「全員、体調大丈夫?」
「大丈夫」
亜衣が軽く手を上げる。
「疲れたけど」
「俺も大丈夫」
紅秋が言う。
春樹も頷く。
「大丈夫」
「なつきは?」
「うん。大丈夫」
「写真も?」
「あ、うん。ちゃんとある」
「あとで班グループに送って」
「うん」
なつきはスマホを見せるように少し持ち上げた。
亜衣がすぐに覗き込む。
「観覧車の写真、絶対送ってね」
「送るよ」
「大國がちょっと笑ってるやつも」
「亜衣ちゃん!」
なつきは慌てて声を抑えた。
春樹が少しだけこちらを見る。
「俺?」
「な、なんでもない」
「写真?」
「うん、写真」
春樹は少し考えるようにしてから言った。
「送ってくれれば見る」
なつきの胸が跳ねた。
「うん。送る」
「ありがとう」
春樹の短い返事。
でも、今日は何度もその短さに救われた。
なつきは頷きながら、胸の奥で今日の余韻を抱きしめる。
四班の空気は、行く前よりも少しだけ柔らかくなっていた。
朝はまだ、どこかぎこちなかった。
でも今は違う。
同じ火を囲んだ。
同じ観覧車に乗った。
同じ写真に写った。
その時間が、五人の間に小さな共通点を作ってくれた。
「今日はお疲れさま」
紅秋が言った。
「横田さん、写真係ありがとう。助かった」
「あ、うん。ちゃんと撮れてるといいんだけど」
「大丈夫。かなり撮ってたし」
「撮りすぎたかも」
「記録係としては優秀」
紅秋の言葉に、なつきは少し照れた。
「伊藤さんも、場を回す係として大活躍だったね」
「でしょ? あたし優秀」
「自分で言うところが伊藤さんらしい」
「褒めてる?」
「褒めてる」
亜衣と紅秋のやり取りに、茜が少し笑う。
春樹もほんの少しだけ表情を緩めていた。
なつきはその空気を、心の中にしまいたくなった。
もう少し、このままいたい。
解散と言われたら、今日が本当に終わってしまう気がした。
けれど、担任が全体へ声をかける。
「今日はこれで解散だ。まっすぐ帰ること。寄り道しすぎるなよ。写真は節度を持って共有。SNSに上げる時は他人の写り込みに注意すること」
「先生、現代的ー」
誰かが言い、教室ではない校庭にも笑いが起きた。
生徒たちは少しずつ散っていく。
自転車置き場へ向かう者。
駅へ向かう者。
迎えを待つ者。
その中で、なつきはもう一度スマホを見た。
班写真。
春樹と隣に写っている写真。
それを見ただけで、また頬が緩みそうになる。
「なつき」
茜が隣に来た。
「帰る?」
「うん……少しだけ写真整理してから」
「家でやれば?」
「今見ちゃう」
「分かるけど」
茜は呆れつつも、優しく笑った。
亜衣も近くに来る。
「なつき、今日の写真でしばらく生きられそうじゃん」
「そんなこと……あるかも」
「認めた」
「だって、今日は楽しかったから」
なつきは素直に言った。
その言葉に、亜衣と茜が少しだけ表情を柔らかくした。
その時だった。
「春樹」
聞き慣れない、けれど柔らかい女の子の声がした。
なつきの指が、スマホの画面の上で止まった。
春樹。
そう呼んだ。
名字ではなく、名前で。
自然に。
校門の方から、一人の女の子が歩いてきていた。
篠崎美優だった。
なつきはすぐに分かった。
特進二組。
春樹の幼馴染。
水戸線通学。
何度か見かけたことのある女の子。
けれど、今日は制服ではなかった。
美優も私服だった。
淡いクリーム色のブラウスに、落ち着いたグリーンのロングスカート。
髪は軽くまとめられていて、耳元で小さな飾りが揺れている。
派手ではない。
でも、柔らかい。
清楚で、自然で、無理がない。
今日のなつきが一日中気にしていた「私服」が、美優には当たり前みたいに似合っていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ縮んだ。
かわいい。
そう思ってしまった。
嫌でも。
なつきは自分の水色のブラウスを、無意識に指でつまんだ。
茜と亜衣が褒めてくれた服。
自分でも少しだけ好きになれた服。
春樹に見てほしいと思った服。
でも、美優を見た瞬間、その自信が少しだけ揺らいだ。
美優は、春樹の名前を呼ぶのが自然だった。
春樹の方へ歩いてくるのも自然だった。
春樹の帰り道に立っていることも、まるで最初から決まっているみたいだった。
「美優」
春樹が顔を上げた。
その声も、自然だった。
なつきは、息をするのを忘れそうになった。
春樹が、名前で呼んだ。
美優、と。
当たり前だ。
幼馴染なのだから。
でも、その当たり前が、なつきの胸には強く刺さった。
「そっちも終わったんだ」
春樹が言う。
「うん。うちのクラスも全日ホームルームだったから。さっき戻ってきたところ」
美優はそう言って、春樹の近くで立ち止まった。
距離が近い。
でも、近づきすぎているわけではない。
幼馴染の距離。
遠慮がなくて、でもわざとらしくない。
「どこ行ったの?」
紅秋が聞いた。
美優は紅秋にも自然に笑う。
「うちは笠間方面。陶芸体験と散策。そっちは海浜公園だよね」
「うん。バーベキュー」
紅秋が答える。
「楽しそう。春樹、ちゃんと食べた?」
美優が春樹を見る。
その言い方に、なつきの胸がまた少し揺れた。
ちゃんと食べた?
家族みたいな言葉。
幼馴染だからこそ言える言葉。
春樹は特に気にした様子もなく答える。
「食べた」
「ほんとに?」
「うん」
「春樹、イベントだと食べるの忘れる時あるから」
「忘れない」
「小学校の遠足で忘れてたじゃん」
「それは昔」
「覚えてるよ、私」
美優が笑った。
春樹は少しだけ目を細めた。
「覚えてなくていい」
「無理。あれ面白かったもん」
その会話に、なつきは入れなかった。
当たり前だ。
小学校の遠足。
なつきは知らない。
春樹の昔。
美優は知っている。
春樹が食べるのを忘れたこと。
それを笑える距離。
それを今も話せる時間。
今日一日かけて、なつきは少し春樹に近づけたと思っていた。
でも、美優は最初から、もっとずっと奥にいた。
春樹の帰り道にも。
春樹の過去にも。
なつきが知らない春樹の中にも。
「春樹、帰るよ」
美優が言った。
その一言は、あまりにも自然だった。
誘う、というより、いつもの確認。
今日も帰るよ。
そう言っているみたいだった。
春樹は頷いた。
「うん」
なつきの胸が、静かに沈んだ。
うん。
たったそれだけ。
でも、春樹は美優と帰る。
今日、なつきが同じ班で過ごした春樹は、ここから先、美優の隣へ行く。
水戸線の駅へ。
なつきの知らない帰り道へ。
「蓮は?」
春樹が聞いた。
「先に駅。あとで合流するって」
「分かった」
蓮。
桐谷蓮。
春樹の中学からの友達。
また、なつきの知らない名前が自然に出てくる。
その輪の中に、美優はいる。
春樹もいる。
蓮もいる。
なつきはいない。
「写真、撮った?」
美優が春樹に聞いた。
「横田さんが撮ってくれた」
春樹が言った。
なつきの心臓が跳ねた。
名前が出た。
春樹の口から。
美優の前で。
美優がなつきの方を見る。
柔らかい目だった。
「横田さん?」
「あ……はい」
なつきは慌てて返事をした。
美優はふわりと微笑んだ。
「写真係だったんだ。大変だったでしょ」
「いえ、楽しかったです」
なぜか敬語になってしまう。
美優は同級生なのに。
でも、なつきには美優が少し大人びて見えた。
「春樹、写真あまり撮らないから、助かったと思う」
「えっと……はい」
春樹のことを知っている言い方。
春樹は写真をあまり撮らない。
それを知っている。
なつきも今日知った。
でも、美優はきっと前から知っている。
また、胸がちくりとした。
「あとで見せて」
美優が春樹に言う。
「気が向いたら」
「それ、見せないやつじゃん」
「かも」
「もう」
美優は少しだけ頬を膨らませた。
その仕草が自然で、可愛かった。
春樹もそれを見慣れているように流している。
なつきは、何も言えなかった。
亜衣が隣で、ほんの少しだけなつきを見た。
茜も気づいている。
でも、この場で何かを言うことはできない。
「じゃあ、俺帰る」
春樹が言った。
紅秋が軽く手を上げる。
「お疲れ、春樹。写真、グループに送られたら見ておく」
「うん」
亜衣も言う。
「大國、明日感想言うから写真ちゃんと見てよ」
「分かった」
茜が静かに頷く。
「今日はお疲れさま」
「お疲れ」
春樹の視線が、最後になつきへ向いた。
「横田さん」
「はい」
「写真、ありがとう」
その言葉に、なつきの胸が一瞬だけ温かくなった。
でも、その温かさのすぐ後ろに、美優の存在があった。
「うん」
なつきは笑おうとした。
ちゃんと笑えたかは分からない。
「送るね」
「うん」
春樹は頷き、美優と並んで歩き出した。
校門の方へ。
駅へ向かう道へ。
美優が何かを言う。
春樹が短く返す。
美優が笑う。
春樹は大きく笑わない。
でも、自然にそこにいる。
なつきは、その後ろ姿を見ていた。
今日一日、同じ班で過ごした。
少しだけ近づけたと思った。
観覧車で同じ景色を見た。
楽しいと言ってくれた。
なのに。
春樹の帰り道には、美優がいた。
なつきが今日一日かけて近づいた距離を、美優は一言で越えていく。
春樹、帰るよ。
それだけで。
「へぇ」
背後から、島中の声がした。
なつきは振り返る。
いつの間にか、島中と守が近くにいた。
守は春樹と美優の後ろ姿を見て、何の気なしに言った。
「あの子、可愛いな」
なつきの胸が、小さく痛んだ。
田辺は悪気がない。
本当にただ思ったことを言っただけだ。
だからこそ、痛かった。
「田辺くん」
茜の声が低くなる。
守はきょとんとした。
「え、何?」
「今の、わざわざ言わなくていい」
「なんで?」
「田辺」
島中が少し笑いながら守の肩を叩いた。
「お前、空気読め」
「え、俺?」
「まあでも、確かに可愛いよな。大國、彼女いたんだ?」
島中の声は軽かった。
けれど、なつきの胸には重く落ちた。
彼女。
その言葉だけで、息が詰まる。
「違う」
紅秋が静かに言った。
島中が紅秋を見る。
「板倉、知ってんの?」
「幼馴染だよ。篠崎さん。特進二組」
「へぇ、幼馴染」
島中は少しだけ口元を上げた。
「いいね、そういうの」
その言い方が、少し嫌だった。
なつきは何も言えない。
守はまだ不思議そうにしている。
「幼馴染なら、まあ仲いいよな」
「田辺くん」
今度は亜衣が言った。
いつもの明るさより、少しだけ抑えた声だった。
「もういいって」
「え?」
「なつき、疲れてるし。今日は解散でしょ」
「あ、そうか」
守はようやく少しだけ気づいたのか、なつきを見た。
「なつき、大丈夫か?」
「うん」
また、そう言った。
大丈夫。
言い慣れた言葉。
本当は、大丈夫ではない時ほど言ってしまう。
でも、ここで何を言えばいいか分からなかった。
春樹が美優と帰るのがつらい。
美優が可愛くて、自分と比べてしまう。
今日近づけたと思った分だけ、急に遠く感じてしまった。
そんなこと、言えるはずがない。
「……ちょっと疲れただけ」
なつきはそう付け加えた。
守は少し安心したように頷く。
「そっか。今日いっぱい歩いたしな」
「うん」
島中はなつきをじっと見ていた。
少しだけ何かを考えるような顔。
「横田」
「何?」
「写真、俺のやつも今度撮ってよ」
今それを言うのか。
なつきは少しだけ返事に困った。
亜衣がすぐに間に入る。
「島中、今日はもう終了。写真の受付も終了」
「伊藤、ほんとガード固いな」
「固いよ。今日はなつき休ませる」
「過保護じゃね?」
「過保護でいいです」
亜衣は笑っている。
でも、その笑顔には少しだけ強さがあった。
茜もなつきの隣に立つ。
「なつき、帰ろう」
「うん」
茜の声は静かだった。
なつきは頷いた。
島中は何か言いたそうだったが、紅秋が軽く間に入るように立った。
「島中くんたちも、もう解散でしょ」
「板倉まで?」
「疲れてる時に長話しても仕方ないよ」
「はいはい」
島中は肩をすくめた。
守はまだ少し首を傾げていたが、島中に引っ張られるように離れていった。
その場に、なつき、茜、亜衣、紅秋が残る。
春樹はもう校門の向こうへ行っていた。
美優と並んで。
なつきは、見ないようにした。
でも、見てしまった。
春樹と美優の後ろ姿は、もう少し小さくなっていた。
美優が春樹の方へ顔を向けて話している。
春樹が短く返す。
その距離が自然すぎて、胸が苦しくなる。
「なつき」
亜衣がそっと声をかけた。
「大丈夫じゃないよね」
なつきは、すぐには答えられなかった。
大丈夫と言おうとした。
でも、亜衣の声が優しかったから。
茜が隣にいてくれたから。
紅秋が何も言わずに少し離れて立っていてくれたから。
なつきは、嘘を飲み込んだ。
「……ちょっと」
声が小さくなる。
「ちょっと、びっくりした」
「うん」
茜が頷く。
「美優さん、私服すごく似合ってた」
なつきは、言いながら自分の服を見た。
水色のブラウス。
今日、朝から大事に着ていた服。
茜と亜衣に選んでもらった服。
春樹に見てもらいたかった服。
「私、今日この服で少し自信あったの」
言葉が、少しずつこぼれた。
「茜ちゃんも亜衣ちゃんも可愛いって言ってくれて。写真も撮って。大國くんと同じ写真にも写れて。今日、少しだけ……少しだけ、近づけた気がしてた」
亜衣は何も言わない。
茜も黙って聞いている。
「でも、美優さんが来て」
なつきは校門の方を見た。
もう春樹と美優の姿は見えない。
「春樹、帰るよって言って。大國くんも普通に、うんって言って。名前で呼んで、昔の話して、ちゃんと食べたか聞いて……」
胸の奥が詰まる。
「私が今日一日かけてやっと少し話せたことを、美優さんは最初から持ってるみたいだった」
言ってしまった。
自分でも情けないと思う。
でも、本当だった。
美優が悪いわけではない。
春樹が悪いわけでもない。
幼馴染なのだから自然なこと。
それは分かっている。
でも、分かっていても痛い。
なつきは視線を落とした。
「私、何と比べてるんだろうね」
小さく笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
亜衣が近づいて、なつきの肩にそっと手を置いた。
「比べちゃうよ」
「……うん」
「好きなんだから」
その言葉に、胸がまた揺れた。
好きなんだから。
だから比べる。
だから苦しい。
だから、美優を悪く思いたくないのに、羨ましくなる。
茜も静かに言った。
「今日のことが消えるわけじゃないわ」
なつきは顔を上げる。
「え?」
「美優さんが迎えに来たことと、今日なつきが大國くんと過ごした時間は別のものよ」
「別……」
「そう。なつきは今日、ちゃんと話した。写真も撮った。楽しいと言えた。大國くんも楽しいと言った。それは消えない」
茜の言葉は、ゆっくり胸に落ちていく。
今日のことは消えない。
美優が来ても。
春樹が美優と帰っても。
観覧車での会話は消えない。
春樹の「楽しい」は消えない。
写真も、記憶も、消えない。
でも。
「でも、遠く感じた」
なつきは正直に言った。
茜は頷いた。
「それも本当」
亜衣が言う。
「なつき、今日は疲れてるから余計刺さったんだよ。楽しかった後って、落差が来るし」
「うん」
「だから今日は、ちゃんと帰って、写真見て、寝よ」
「写真、見たらまた泣きそう」
「泣いてもいいじゃん」
亜衣は優しく笑った。
「嬉しかった写真で泣くなら、それも今日の一部だよ」
なつきは、少しだけ目を伏せた。
泣きそうだった。
でも、涙はまだ落ちなかった。
紅秋が少し離れた場所から静かに言った。
「篠崎さんは、春樹の昔を知っている。でも、今日の春樹を一番撮ったのは横田さんだと思うよ」
なつきは驚いて紅秋を見た。
紅秋は淡々としている。
「少なくとも、今日の四班の春樹は、横田さんの写真の中にいる」
その言葉に、胸が静かに震えた。
今日の春樹。
火起こしをしている春樹。
焼きそばを取り分ける春樹。
観覧車の中の春樹。
少し笑っている春樹。
それを撮ったのは、なつきだ。
美優ではない。
春樹の昔は知らない。
帰り道の隣にもいない。
でも、今日の春樹の一部は、自分が見て、自分が残した。
それは少しだけ、なつきの胸を支えてくれた。
「板倉くん」
なつきは小さく言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
紅秋は軽く頷いた。
亜衣が少し笑う。
「板倉、たまにいいこと言うよね」
「たまに?」
「かなり」
「ならいいです」
そのやり取りに、なつきは少しだけ笑えた。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
茜がなつきのバッグを見た。
「帰ろう。今日はもう十分頑張った」
「うん」
「写真は家で送って。無理なら明日でもいい」
「ううん。今日送る」
「大丈夫?」
「うん」
なつきはスマホを握った。
「今日の写真、みんなに見てほしいから」
春樹にも。
その言葉は、声には出さなかった。
でも、胸の中ではちゃんとあった。
なつきたちは自転車置き場へ向かった。
亜衣は途中まで一緒に歩き、駅へ向かう方向で別れる。
「なつき」
「うん」
「今日はちゃんと寝なよ」
「うん」
「あと、美優のこと、今すぐ勝ち負けで考えなくていいから」
なつきは少しだけ目を見開いた。
亜衣は真剣な顔で言った。
「なつきはなつき。美優は美優。大國がどう思うかは、まだ分からないでしょ」
「うん」
「だから勝手に負けたことにしない」
その言葉は、少し強かった。
でも、優しかった。
「……うん」
なつきは頷いた。
「ありがとう、亜衣ちゃん」
「いいよ。恋の作戦会議、まだ続くから」
「作戦会議なんだ」
「もちろん」
亜衣は笑って手を振った。
茜となつきは、自転車置き場へ向かう。
夕方の校舎に、部活の声が響いている。
今日という特別な一日が、学校の日常に少しずつ溶けていく。
なつきは自転車の鍵を開けながら、もう一度だけ校門の方を見た。
春樹の姿は、もうない。
美優の姿もない。
二人はきっと、水戸駅へ向かっている。
そして、水戸線に乗る。
なつきの知らない帰り道を、二人で。
胸はまだ痛い。
でも、さっきより少しだけ息ができた。
「なつき」
茜が言った。
「今日は楽しかった?」
なつきは少しだけ考えた。
美優が来た瞬間の痛み。
劣等感。
遠く感じた春樹。
それらは確かにあった。
でも、今日一日が全部悲しくなったわけではない。
バーベキューは楽しかった。
観覧車は嬉しかった。
春樹の写真を撮れた。
楽しいと言い合えた。
だから。
「楽しかった」
なつきは答えた。
「すごく」
茜は頷いた。
「なら、それを忘れないで」
「うん」
なつきは自転車を押しながら、校門へ向かった。
夕方の風が、水色のブラウスの袖を揺らす。
今日、春樹がこの服をどう思ったかは分からない。
何も言われなかった。
でも、それでもいい。
この服で、今日の一日を過ごした。
春樹と同じ写真に写った。
観覧車の下で笑った。
それは、なつきの中にちゃんと残っている。
校門を出る前に、なつきはスマホを開いた。
写真フォルダ。
今日撮った写真。
春樹の小さな笑顔。
なつきはその写真を見つめた。
胸はまだ痛い。
でも、同時に温かい。
好きという気持ちは、こんなふうに一つではないのだと思った。
嬉しくて。
苦しくて。
近づけたと思って。
遠く感じて。
それでも、やっぱり好きで。
なつきはスマホを閉じた。
そして、自転車にまたがる前に、小さく息を吸った。
今日、少し近づけた。
でも、春樹の隣には、なつきが知らない帰り道があった。
その道の先に、美優がいる。
それを知ってしまった。
でも。
今日の写真の中には、自分が見た春樹がいる。
自分が声をかけて、こちらを向いてくれた春樹がいる。
それも、確かに本当だった。
なつきは夕方の道へ、自転車をゆっくり走らせた。
胸の痛みを抱えたまま。
それでも、消えない今日の嬉しさも一緒に抱えて。
春の帰り道を、ひとり進んでいった。




