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『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


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12/17

第12話 観覧車の下で


 バーベキュー広場を離れると、空気が少しだけ軽くなった気がした。


 炭の匂い。


 焼けた肉の匂い。


 タレの甘い匂い。


 それらが服や髪に少し残っている。


 けれど、歩き出すと春の風がその匂いを薄くさらっていった。


 ひたちなか海浜公園の空は、午前よりも青く見えた。


 雲は少なく、遠くまで広がっている。


 道の両側には緑があり、ところどころに花が咲いている。


 遠くには観覧車が見えた。


 ゆっくり、ゆっくり回っている。


 その姿が見えた瞬間、伊藤亜衣が声を上げた。


「やっぱ観覧車行きたい!」


 亜衣は午前中からずっと元気だった。


 バーベキューで肉を食べ、焼きそばを食べ、写真を撮り、島中たちのうざ絡みを流し、それでもまったく疲れた様子がない。


 なつきは少しだけ感心していた。


「亜衣ちゃん、元気だね」


「イベントで元気出さないでいつ出すの」


「名言っぽい」


「でしょ」


 亜衣は笑いながら前を歩く。


 その隣で、遠山茜が園内マップを広げていた。


「まずプレジャーガーデン方面へ行くとして、集合時間まであと二時間少し。移動時間を考えると、乗れるものは限られるわね」


「茜、完全に引率の先生」


 亜衣が言う。


「時間管理は大事」


「分かってるけどさ。せっかくだから楽しもうよ」


「楽しむために管理してるの」


「それもそう」


 板倉紅秋が横から頷いた。


「遠山さんがいると安心だね」


「班長だから」


 茜は淡々と返す。


 紅秋は少し笑った。


「じゃあ副班長として、俺も時間は見るよ」


「助かる」


 その後ろを、大國春樹が歩いていた。


 午前中の火起こしや調理のあとでも、春樹は変わらず落ち着いている。


 少しだけ髪が風で乱れている。


 パーカーの袖は軽くまくっている。


 なつきはその姿を、何度も目で追ってしまった。


 バーベキューの時もそうだった。


 春樹が炭を並べるところ。


 肉を焼くところ。


 焼きそばを取り分けるところ。


 紙皿を渡してくれたところ。


 その一つ一つが、まだなつきの中で温かく残っている。


 そして、午後も同じ班で一緒に歩いている。


 それだけで胸が少しふわふわした。


 でも、今日は写真係だ。


 ぼんやり見ているだけではいけない。


 なつきはスマホを持ち直した。


「写真、撮るね」


 声に出すと、少しだけ背筋が伸びる。


 茜が頷く。


「お願い」


 亜衣がすぐにピースする。


「撮って撮って。観覧車入るように!」


 なつきは少し後ろへ下がった。


 亜衣、茜、紅秋、春樹。


 四人が歩いているところを、少し斜めから撮る。


 観覧車が遠くに入る。


 空が広い。


 春樹は写真を撮られていると気づくと、少しだけこちらを見る。


 なつきは手が震えないように、シャッターを押した。


 画面に映る春樹は、午前より少し柔らかく見えた。


 気のせいかもしれない。


 でも、なつきにはそう見えた。


「撮れた?」


 春樹が聞いた。


「うん。観覧車も入った」


「ありがとう」


「ううん。記録係だから」


 なつきがそう言うと、春樹は少しだけ頷いた。


「ちゃんとしてる」


 なつきは、一瞬だけ固まった。


「え?」


「写真。ちゃんと撮ってる」


「あ……うん」


 褒められた。


 たぶん。


 春樹に。


 ちゃんとしてる、と。


 なつきは胸の奥が一気に温かくなるのを感じた。


「ありがとう」


「うん」


 短い会話。


 でも、今日のなつきには十分すぎる。


 亜衣が少し前から振り返り、にやにやしていた。


 なつきは慌てて視線を逸らす。


 茜は何も言わない。


 でも、全部見ている気がした。


 プレジャーガーデンへ近づくにつれて、周囲の音が変わっていった。


 遊具の動く音。


 子どもたちの笑い声。


 アナウンス。


 軽快な音楽。


 園内を走る小さな乗り物の音。


 クラスメイトたちの姿も増えていく。


 あちこちで二年十一組の生徒が写真を撮ったり、乗り物の列に並んだりしていた。


「まず何乗る?」


 亜衣が聞く。


「観覧車は最後にしたい」


 紅秋が言った。


「なぜ?」


「最後に乗る方が時間調整しやすい。集合場所へ戻る前に位置を確認できるし」


「副班長、堅い」


「でも合理的」


 茜が頷く。


「なら、最初は軽めの乗り物か、写真を撮りながら回る?」


「写真撮りたい!」


 亜衣が手を上げる。


「なつき、可愛い場所探そう」


「うん」


 なつきは頷いた。


 そして、少しだけ春樹を見る。


 春樹は特に乗りたいものを主張しない。


 いつものように静かに班の流れを見ている。


「大國くんは、何か乗りたいのある?」


 なつきは勇気を出して聞いた。


 自分から。


 自然に。


 春樹は少し考えた。


「特には」


「そっか」


「でも、歩くのは嫌じゃない」


「うん」


「写真撮るなら、見晴らし良いところがいいと思う」


「見晴らし……」


 春樹は少し先の方を見た。


「あっち、少し高くなってる」


 なつきもその方向を見る。


 園路の向こうに、少し開けた場所がある。


 そこから観覧車や遊具が見えそうだった。


「行ってみたい」


 なつきが言う。


「じゃあ行こう」


 春樹がそう言った。


 それだけ。


 でも、なつきの胸はまた跳ねた。


 自分の「行ってみたい」に、春樹が「行こう」と返してくれた。


 ほんの少しだけ、二人で決めたみたいに感じてしまう。


 もちろん、班全員で行くのだけれど。


 それでも嬉しい。


「なつき、今嬉しかったでしょ」


 亜衣が小声で囁く。


「言わないで」


「はいはい」


 五人は、春樹が示した見晴らしの良い場所へ向かった。


 道の途中、島中良と田辺守の班とすれ違った。


 守がすぐになつきを見つける。


「なつきー!」


 声が大きい。


 なつきは少しだけ身構えた。


「田辺」


「何してんの?」


「写真撮りに行くところ」


「俺らも撮って」


「また?」


「今度こそ」


 守は本気で楽しそうだった。


 島中も一緒に近づいてくる。


「横田、外部撮影の空き時間ある?」


 少し冗談めかした言い方。


 でも、目はなつきを見ている。


 亜衣がすぐに反応した。


「今は四班の撮影中なので予約不可でーす」


「伊藤、仕事してんな」


「専属マネージャーなんで」


「なつきの?」


「四班の」


「じゃあ俺らも四班の一員に入れてよ」


「無理」


 亜衣は即答した。


 守が笑う。


「厳しい!」


 島中も笑っていたが、春樹の方をちらりと見た。


「大國、午後も静かに観光?」


「歩いてる」


「それは見れば分かる」


「なら聞かなくていい」


 春樹の返しに、近くの男子が笑った。


 島中は一瞬だけ言葉を止める。


 すぐに笑顔を作った。


「大國って、たまに刺すよな」


「刺したつもりはない」


「それが余計刺さるんだって」


 亜衣が横から言った。


「分かる」


 守も笑った。


 場は笑いに包まれた。


 けれど、なつきは島中の目の奥に少しだけ引っかかるものを感じた。


 春樹と島中。


 教室でも、体育でも、バーベキューでも。


 島中は少しずつ春樹を意識している。


 それはただの男子同士の対抗心なのか。


 それとも、なつきを見ているからなのか。


 なつきには分からなかった。


「じゃあ、また後でな」


 島中が言う。


「横田、写真忘れんなよ」


「時間あったらね」


 なつきは同じ返しをした。


 島中は少しだけ笑って、守たちと去っていった。


 守は最後まで「肉うまかったな」と言っていた。


 四班は再び歩き出す。


 茜が小さく息を吐いた。


「予想通り来るわね」


「本当に」


 亜衣が肩をすくめる。


「まあでも、今回は早めに切れたんじゃない?」


「うん」


 なつきは頷いた。


「亜衣ちゃん、ありがとう」


「いいって。あたしも四班の時間楽しみたいし」


 その言葉が嬉しかった。


 亜衣は、なつきのためだけではなく、自分もこの班を大事にしている。


 そう言ってくれた気がした。


 見晴らしの良い場所に着くと、空がさらに広く見えた。


 少し高い位置から、遊園地エリアの景色が見渡せる。


 観覧車。


 小さなジェットコースター。


 カラフルな遊具。


 歩く人たち。


 遠くには緑が広がっている。


 春の光が柔らかく降りていて、どこを撮っても写真になりそうだった。


「ここいい!」


 亜衣が声を上げる。


「なつき、撮ろ!」


「うん」


 なつきはスマホを構えた。


 まず亜衣と茜を撮る。


 二人で並ぶと、雰囲気が違って面白い。


 亜衣は明るくピース。


 茜は少し控えめに笑う。


 次に紅秋が入る。


「板倉くんも」


「俺も?」


「班の写真だから」


「分かった」


 紅秋は自然に立ち、亜衣が横でふざけたポーズを取る。


 茜が少しだけ笑う。


 その一瞬を撮る。


 そして。


「大國くんも」


 なつきは言った。


 言えた。


 朝よりは少し自然に。


 春樹は頷いて、三人の横に立つ。


 なつきはカメラを向ける。


 画面の中に、春樹がいる。


 観覧車を背景に。


 春の空の下で。


「撮るよ」


「うん」


 シャッター音。


 なつきは画面を確認する。


 いい写真だった。


 春樹の表情はいつも通り控えめ。


 でも、午前よりも少しだけ柔らかい。


 なつきにはそう見えた。


「なつきも入りなよ」


 亜衣が言う。


「でも誰が撮る?」


「通りがかりの先生に頼も」


 ちょうど近くにいた別クラスの先生に、亜衣が明るく声をかけた。


 スマホを渡し、五人で並ぶ。


 今度は、亜衣が意図したのか、なつきの隣に春樹が来た。


 なつきは一瞬固まる。


 春樹が隣に立つ。


 近い。


 バーベキュー前の班写真の時より、少しだけ落ち着いているはずなのに、やっぱり近い。


「横田さん」


 春樹が小さく言う。


「え?」


「また固まってる」


「あ、ごめん」


「写真」


「うん」


 同じようなやり取り。


 でも、朝より少しだけ柔らかい。


 なつきは前を向いた。


 先生が「撮るよ」と言う。


 亜衣がピース。


 茜が微笑む。


 紅秋が自然に立つ。


 春樹がカメラを見る。


 なつきも笑う。


 シャッター音。


 五人の写真。


 今度は、春樹と隣。


 なつきはスマホを返してもらって、画面を見た。


 そこには、確かに自分と春樹が隣に写っていた。


 心臓が、じんわり温かくなる。


「いい写真?」


 春樹が聞いた。


「うん」


 なつきは頷いた。


「すごく、いい写真」


 声が少しだけ柔らかくなった。


 春樹は画面を覗き込んだ。


 なつきは、スマホを少し傾ける。


 春樹の顔が近づく。


 距離が近い。


 画面を見るためだけ。


 でも、近い。


「いいと思う」


 春樹が言った。


「うん」


「あとで送って」


「え?」


「班のグループに」


「あ、うん。送る」


 なつきは慌てて頷いた。


 当然だ。


 班写真だからグループに送る。


 でも、一瞬だけ、自分に言われたように感じてしまった。


 あとで送って。


 その言葉が耳に残る。


 亜衣がすぐに小声で言う。


「なつき、顔」


「もう言わないで」


「今日何回目かな」


「数えないで」


 その後、四班は軽い乗り物にいくつか乗った。


 激しいものは避けた。


 茜が「酔う人がいるかもしれない」と言い、紅秋が時間を見て、春樹は特に反対しなかった。


 亜衣は少し残念そうだったが、写真を撮る時間が多くなるとすぐに機嫌を直した。


 メリーゴーラウンドの前で写真。


 カラフルなベンチで写真。


 売店のアイスを持って写真。


 なつきは、今までで一番たくさん写真を撮ったかもしれない。


 春樹も、最初は少し戸惑っているようだったが、だんだん写真に慣れてきた。


 カメラを向けると、ちゃんとこちらを見る。


 たまに、亜衣に「大國、顔固い」と言われて、少しだけ眉を寄せる。


 それもまた、なつきには大事な一枚になった。


 途中、売店でアイスを買った。


 なつきはバニラ。


 茜は抹茶。


 亜衣はいちご。


 紅秋はコーヒー。


 春樹はチョコミントだった。


「大國くん、チョコミント好きなんだ」


 なつきが言うと、春樹は頷いた。


「好き」


「意外かも」


「そう?」


「うん。もっと……バニラとか選びそう」


「バニラも好き」


「そうなんだ」


「でも今日はチョコミント」


「気分?」


「うん」


 そんな小さな会話が嬉しい。


 好きな味を知る。


 それだけで、春樹のことをまた一つ知った気になる。


「なつき、バニラ似合う」


 亜衣が笑う。


「どういう意味?」


「ふわっとしてる」


「またふわっと」


「褒めてるって」


 春樹がふと、なつきのアイスを見た。


「バニラ、溶けてる」


「えっ」


 なつきは慌てて手元を見る。


 確かに、少し溶けかけていた。


「あ、ほんとだ」


「早く食べた方がいい」


「うん」


 なつきは慌てて一口食べた。


 冷たさが口に広がる。


 春樹が見ていたから余計に焦ってしまう。


「なつき、アイスにも見守られてる」


 亜衣が言う。


「見守られてるの?」


「大國に」


「亜衣ちゃん!」


「ごめんごめん」


 春樹は意味が分かっていないのか、少しだけ首を傾げていた。


 紅秋は横で静かに笑っている。


 茜は亜衣を軽く睨んでいた。


 午後の時間は、ゆっくり進んでいるようで、思ったより早かった。


 時計を見ると、集合時間まであと一時間を切っている。


 紅秋が言った。


「そろそろ観覧車に行く?」


 亜衣の目が輝く。


「待ってました!」


「待ち時間次第では厳しいかもしれないけど」


「行くだけ行こう!」


 茜が時計を確認する。


「今なら並んでも間に合うと思う。ただし乗ったらすぐ集合場所へ戻ること」


「了解、委員長!」


 四班は観覧車へ向かった。


 近づくにつれて、その大きさが増していく。


 遠くから見ていた時はゆっくりと回っているだけだった観覧車が、近くではずっと大きく、空へ伸びるように立っていた。


 列は少しあったが、長すぎるほどではない。


 五人で並ぶ。


 亜衣はずっと楽しそうにしている。


 茜は時間を気にしている。


 紅秋は景色を見ている。


 春樹は静かに列の進み具合を見ている。


 なつきは、その横顔を見ながら、少しだけ緊張していた。


 観覧車。


 五人で乗る。


 でも、ゴンドラの広さ的に、どう座るのだろう。


 向かい合わせ。


 春樹の近くになるかもしれない。


 そんなことを考えてしまう。


 列が進む。


 ゴンドラが近づく。


 係員の案内で、五人が乗り込む。


 自然な流れで、なつきは茜の隣に座った。


 向かいに亜衣と紅秋。


 春樹は、なつきの斜め向かい。


 隣ではない。


 でも、視線を上げればすぐ見える位置だった。


 扉が閉まり、ゴンドラがゆっくり動き出す。


 地面が少しずつ離れていく。


「おおー」


 亜衣が声を上げた。


「高くなってきた!」


「まだ序盤よ」


 茜が言う。


「でも楽しいじゃん」


「それはそう」


 紅秋が窓の外を見る。


「公園、広いね」


「ほんとだ」


 なつきも外を見る。


 バーベキュー広場の方向。


 歩いてきた道。


 遊園地の遊具。


 遠くの緑。


 空。


 全部が少しずつ下へ広がっていく。


 風の音はほとんど聞こえない。


 ゴンドラの中は、外の賑やかさから少し切り離されたように静かだった。


 なつきは、その静けさに少しだけドキドキした。


 春樹が斜め向かいにいる。


 窓の外を見ている。


 横顔が、光を受けている。


 図書室の窓際で見た横顔に、少し似ていた。


 でも、今日は本を持っていない。


 制服でもない。


 観覧車の中で、同じ景色を見ている。


 それが不思議だった。


「なつき、写真」


 亜衣が言った。


「あ、うん」


 なつきはスマホを取り出した。


 ゴンドラの中から外の景色を撮る。


 遠くの空。


 下に広がる公園。


 そして、班のみんな。


 ただ、ゴンドラの中は狭い。


 五人全員を撮るのは難しい。


「自撮りにする?」


 亜衣が言った。


「私、自撮り苦手」


「貸して。あたしやる」


 亜衣がスマホを受け取り、腕を伸ばした。


「みんな寄ってー」


 寄って。


 その言葉で、なつきの横に茜が少し近づき、向かい側の春樹も少し身を乗り出した。


 距離がまた近くなる。


 なつきは息を止めそうになった。


「大國、もうちょいこっち」


 亜衣が言う。


 春樹が少し動く。


 画面に全員が入る。


「なつき、笑って」


「笑ってる」


「固い」


「頑張ってる」


「大國も固い」


「元から」


「開き直らない」


 亜衣が笑いながらシャッターを押した。


 一枚。


 もう一枚。


 三枚。


 なつきは画面を見る。


 少しぎこちない。


 でも、全員が写っている。


 春樹も。


 なつきも。


 同じゴンドラの中で。


「いいじゃん」


 亜衣が満足そうに言う。


「後で送ってね」


「うん」


 スマホがなつきに返ってくる。


 なつきは写真を見ながら、胸が温かくなるのを感じた。


 観覧車の中。


 五人。


 春樹。


 今日の思い出が、また増えた。


 ゴンドラは頂上へ近づいていく。


 外の景色がさらに広がる。


 亜衣が窓に張りつくように外を見て、茜に「危ない」と注意されている。


 紅秋は遠くを眺めながら、集合時間を再確認している。


 春樹は静かに景色を見ていた。


 なつきは少し迷ってから、声をかけた。


「大國くん」


「うん」


「高いところ、平気?」


「平気」


「そうなんだ」


「横田さんは?」


「たぶん平気」


「たぶん?」


「今のところは」


 春樹は少しだけこちらを見た。


「怖かったら、遠くを見るといい」


「遠く?」


「下を見るより」


「なるほど」


 なつきは言われた通り、遠くの空を見た。


 確かに、下を見るより落ち着く。


「本当だ。平気かも」


「よかった」


 春樹が短く言った。


 よかった。


 その言葉が、なつきの胸に優しく残る。


 亜衣と茜は窓の外を見ている。


 紅秋も景色を見ている。


 今、ほんの少しだけ、春樹となつきの会話が二人だけのものになった気がした。


 勘違いかもしれない。


 でも、なつきにはそう感じられた。


「今日」


 なつきは、もう少しだけ勇気を出した。


「楽しいね」


 春樹は頷いた。


「うん」


「大國くんも?」


「楽しい」


 その返事は短い。


 でも、はっきりしていた。


 なつきは目を少し見開いた。


 春樹が、楽しいと言った。


 今日を。


 この班で過ごす時間を。


 そう思っていいのだろうか。


「そっか」


 なつきは小さく笑った。


「よかった」


 春樹が少しだけ、なつきを見た。


「横田さんは?」


「え?」


「楽しい?」


 聞き返された。


 春樹から。


 なつきは、一瞬だけ言葉を失った。


 楽しい。


 もちろん楽しい。


 でも、その中には春樹がいるからという気持ちが大きすぎる。


 それをそのまま言うことはできない。


 けれど、嘘もつきたくない。


「楽しい」


 なつきは答えた。


「すごく」


 声は小さかった。


 でも、本心だった。


 春樹は静かに頷いた。


「なら、よかった」


 また、その言葉。


 なつきは胸がいっぱいになった。


 ゴンドラはゆっくり下り始めていた。


 楽しい時間は、いつも少し早く過ぎていく。


 観覧車を降りると、集合時間まであまり余裕はなかった。


 四班は急ぎすぎない程度に、集合場所へ向かって歩き始める。


 途中で、亜衣がアイスのごみを捨て、紅秋が道を確認し、茜が時間を見た。


 春樹は歩調を合わせている。


 なつきは、その少し横を歩いた。


 午後の光が、少し傾き始めている。


 午前よりも風が柔らかい。


 なつきはスマホの中に増えた写真を思い出しながら歩いた。


 今日、たくさん写真を撮った。


 春樹の写真も。


 班の写真も。


 隣に写った写真も。


 観覧車の中の写真も。


 全部、大事な一枚になった。


 集合場所が近づくと、他の班も集まってきていた。


 島中と守の班もいる。


 守がこちらを見つけて手を振る。


「なつきー、観覧車乗った?」


「乗ったよ」


「いいなー。俺ら時間なくて乗れなかった」


「写真撮った?」


「撮ってねぇ。撮ってくれればよかったのに」


「田辺、自分で撮りなよ」


「忘れてた」


「田辺らしい」


 守は笑っている。


 島中も近くにいたが、なつきたちの様子を見て少しだけ黙っていた。


「横田、楽しそうだな」


 島中が言った。


「うん。楽しかったよ」


 なつきは素直に答えた。


 その言葉に、島中の表情が一瞬だけ揺れる。


 なつきは気づいたが、どう返せばいいか分からなかった。


 亜衣がすぐに言う。


「四班、めっちゃ満喫したからね」


「へぇ」


 島中は笑った。


「写真、あとで見せてよ」


「班のグループに送るから、見せるかはなつき次第」


 亜衣が返す。


「伊藤、またガード」


「当然」


 島中は肩をすくめた。


 先生の集合の声が響き、会話はそこで切れた。


 全員点呼。


 班ごとの確認。


 忘れ物がないか。


 体調不良がいないか。


 なつきは写真係として、行動メモを茜に見せた。


 バーベキュー。


 写真スポット。


 アイス。


 観覧車。


 集合時間。


「ちゃんと書けてる」


 茜が言った。


「よかった」


「記録係、よくできました」


「茜ちゃんに褒められると嬉しい」


 なつきが笑うと、茜も少しだけ笑った。


 春樹が横から言った。


「写真も」


「え?」


「ちゃんと撮れてた」


 なつきは春樹を見る。


「ありがとう」


「送って」


「うん。帰ったら送るね」


「うん」


 その約束も、また小さく胸に残った。


 帰りのバスに乗る前、なつきは一度だけ振り返った。


 観覧車が遠くに見える。


 ゆっくり回っている。


 さっきまで自分たちが乗っていた場所。


 春樹と同じ景色を見た場所。


 なつきはスマホを握りしめた。


 今日は、逃げなかった。


 全部ではない。


 まだ言えなかったこともある。


 緊張して固まったこともあった。


 でも、写真を撮る時に声をかけた。


 こっち向いてと言えた。


 楽しいねと言えた。


 春樹も楽しいと言ってくれた。


 それだけで、胸がいっぱいだった。


 春の空の下。


 観覧車の下で。


 なつきは、昨日より少しだけ春樹の近くに立てた気がした。


 バスへ乗り込む。


 クラスメイトたちの疲れた声と笑い声が混ざる。


 席に座ったなつきは、スマホの画面をそっと開いた。


 今日撮った写真が並んでいる。


 その中に、春樹が少しだけ笑っている写真があった。


 なつきはそれを見て、胸の奥で小さく呟いた。


 今日、来てよかった。


 同じ班になれてよかった。


 そして。


 好きになってよかった。


 まだ声には出せない気持ちを、写真の中の春樹にだけ、そっと伝えるように。


 なつきは画面を静かに閉じた。

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