第12話 観覧車の下で
バーベキュー広場を離れると、空気が少しだけ軽くなった気がした。
炭の匂い。
焼けた肉の匂い。
タレの甘い匂い。
それらが服や髪に少し残っている。
けれど、歩き出すと春の風がその匂いを薄くさらっていった。
ひたちなか海浜公園の空は、午前よりも青く見えた。
雲は少なく、遠くまで広がっている。
道の両側には緑があり、ところどころに花が咲いている。
遠くには観覧車が見えた。
ゆっくり、ゆっくり回っている。
その姿が見えた瞬間、伊藤亜衣が声を上げた。
「やっぱ観覧車行きたい!」
亜衣は午前中からずっと元気だった。
バーベキューで肉を食べ、焼きそばを食べ、写真を撮り、島中たちのうざ絡みを流し、それでもまったく疲れた様子がない。
なつきは少しだけ感心していた。
「亜衣ちゃん、元気だね」
「イベントで元気出さないでいつ出すの」
「名言っぽい」
「でしょ」
亜衣は笑いながら前を歩く。
その隣で、遠山茜が園内マップを広げていた。
「まずプレジャーガーデン方面へ行くとして、集合時間まであと二時間少し。移動時間を考えると、乗れるものは限られるわね」
「茜、完全に引率の先生」
亜衣が言う。
「時間管理は大事」
「分かってるけどさ。せっかくだから楽しもうよ」
「楽しむために管理してるの」
「それもそう」
板倉紅秋が横から頷いた。
「遠山さんがいると安心だね」
「班長だから」
茜は淡々と返す。
紅秋は少し笑った。
「じゃあ副班長として、俺も時間は見るよ」
「助かる」
その後ろを、大國春樹が歩いていた。
午前中の火起こしや調理のあとでも、春樹は変わらず落ち着いている。
少しだけ髪が風で乱れている。
パーカーの袖は軽くまくっている。
なつきはその姿を、何度も目で追ってしまった。
バーベキューの時もそうだった。
春樹が炭を並べるところ。
肉を焼くところ。
焼きそばを取り分けるところ。
紙皿を渡してくれたところ。
その一つ一つが、まだなつきの中で温かく残っている。
そして、午後も同じ班で一緒に歩いている。
それだけで胸が少しふわふわした。
でも、今日は写真係だ。
ぼんやり見ているだけではいけない。
なつきはスマホを持ち直した。
「写真、撮るね」
声に出すと、少しだけ背筋が伸びる。
茜が頷く。
「お願い」
亜衣がすぐにピースする。
「撮って撮って。観覧車入るように!」
なつきは少し後ろへ下がった。
亜衣、茜、紅秋、春樹。
四人が歩いているところを、少し斜めから撮る。
観覧車が遠くに入る。
空が広い。
春樹は写真を撮られていると気づくと、少しだけこちらを見る。
なつきは手が震えないように、シャッターを押した。
画面に映る春樹は、午前より少し柔らかく見えた。
気のせいかもしれない。
でも、なつきにはそう見えた。
「撮れた?」
春樹が聞いた。
「うん。観覧車も入った」
「ありがとう」
「ううん。記録係だから」
なつきがそう言うと、春樹は少しだけ頷いた。
「ちゃんとしてる」
なつきは、一瞬だけ固まった。
「え?」
「写真。ちゃんと撮ってる」
「あ……うん」
褒められた。
たぶん。
春樹に。
ちゃんとしてる、と。
なつきは胸の奥が一気に温かくなるのを感じた。
「ありがとう」
「うん」
短い会話。
でも、今日のなつきには十分すぎる。
亜衣が少し前から振り返り、にやにやしていた。
なつきは慌てて視線を逸らす。
茜は何も言わない。
でも、全部見ている気がした。
プレジャーガーデンへ近づくにつれて、周囲の音が変わっていった。
遊具の動く音。
子どもたちの笑い声。
アナウンス。
軽快な音楽。
園内を走る小さな乗り物の音。
クラスメイトたちの姿も増えていく。
あちこちで二年十一組の生徒が写真を撮ったり、乗り物の列に並んだりしていた。
「まず何乗る?」
亜衣が聞く。
「観覧車は最後にしたい」
紅秋が言った。
「なぜ?」
「最後に乗る方が時間調整しやすい。集合場所へ戻る前に位置を確認できるし」
「副班長、堅い」
「でも合理的」
茜が頷く。
「なら、最初は軽めの乗り物か、写真を撮りながら回る?」
「写真撮りたい!」
亜衣が手を上げる。
「なつき、可愛い場所探そう」
「うん」
なつきは頷いた。
そして、少しだけ春樹を見る。
春樹は特に乗りたいものを主張しない。
いつものように静かに班の流れを見ている。
「大國くんは、何か乗りたいのある?」
なつきは勇気を出して聞いた。
自分から。
自然に。
春樹は少し考えた。
「特には」
「そっか」
「でも、歩くのは嫌じゃない」
「うん」
「写真撮るなら、見晴らし良いところがいいと思う」
「見晴らし……」
春樹は少し先の方を見た。
「あっち、少し高くなってる」
なつきもその方向を見る。
園路の向こうに、少し開けた場所がある。
そこから観覧車や遊具が見えそうだった。
「行ってみたい」
なつきが言う。
「じゃあ行こう」
春樹がそう言った。
それだけ。
でも、なつきの胸はまた跳ねた。
自分の「行ってみたい」に、春樹が「行こう」と返してくれた。
ほんの少しだけ、二人で決めたみたいに感じてしまう。
もちろん、班全員で行くのだけれど。
それでも嬉しい。
「なつき、今嬉しかったでしょ」
亜衣が小声で囁く。
「言わないで」
「はいはい」
五人は、春樹が示した見晴らしの良い場所へ向かった。
道の途中、島中良と田辺守の班とすれ違った。
守がすぐになつきを見つける。
「なつきー!」
声が大きい。
なつきは少しだけ身構えた。
「田辺」
「何してんの?」
「写真撮りに行くところ」
「俺らも撮って」
「また?」
「今度こそ」
守は本気で楽しそうだった。
島中も一緒に近づいてくる。
「横田、外部撮影の空き時間ある?」
少し冗談めかした言い方。
でも、目はなつきを見ている。
亜衣がすぐに反応した。
「今は四班の撮影中なので予約不可でーす」
「伊藤、仕事してんな」
「専属マネージャーなんで」
「なつきの?」
「四班の」
「じゃあ俺らも四班の一員に入れてよ」
「無理」
亜衣は即答した。
守が笑う。
「厳しい!」
島中も笑っていたが、春樹の方をちらりと見た。
「大國、午後も静かに観光?」
「歩いてる」
「それは見れば分かる」
「なら聞かなくていい」
春樹の返しに、近くの男子が笑った。
島中は一瞬だけ言葉を止める。
すぐに笑顔を作った。
「大國って、たまに刺すよな」
「刺したつもりはない」
「それが余計刺さるんだって」
亜衣が横から言った。
「分かる」
守も笑った。
場は笑いに包まれた。
けれど、なつきは島中の目の奥に少しだけ引っかかるものを感じた。
春樹と島中。
教室でも、体育でも、バーベキューでも。
島中は少しずつ春樹を意識している。
それはただの男子同士の対抗心なのか。
それとも、なつきを見ているからなのか。
なつきには分からなかった。
「じゃあ、また後でな」
島中が言う。
「横田、写真忘れんなよ」
「時間あったらね」
なつきは同じ返しをした。
島中は少しだけ笑って、守たちと去っていった。
守は最後まで「肉うまかったな」と言っていた。
四班は再び歩き出す。
茜が小さく息を吐いた。
「予想通り来るわね」
「本当に」
亜衣が肩をすくめる。
「まあでも、今回は早めに切れたんじゃない?」
「うん」
なつきは頷いた。
「亜衣ちゃん、ありがとう」
「いいって。あたしも四班の時間楽しみたいし」
その言葉が嬉しかった。
亜衣は、なつきのためだけではなく、自分もこの班を大事にしている。
そう言ってくれた気がした。
見晴らしの良い場所に着くと、空がさらに広く見えた。
少し高い位置から、遊園地エリアの景色が見渡せる。
観覧車。
小さなジェットコースター。
カラフルな遊具。
歩く人たち。
遠くには緑が広がっている。
春の光が柔らかく降りていて、どこを撮っても写真になりそうだった。
「ここいい!」
亜衣が声を上げる。
「なつき、撮ろ!」
「うん」
なつきはスマホを構えた。
まず亜衣と茜を撮る。
二人で並ぶと、雰囲気が違って面白い。
亜衣は明るくピース。
茜は少し控えめに笑う。
次に紅秋が入る。
「板倉くんも」
「俺も?」
「班の写真だから」
「分かった」
紅秋は自然に立ち、亜衣が横でふざけたポーズを取る。
茜が少しだけ笑う。
その一瞬を撮る。
そして。
「大國くんも」
なつきは言った。
言えた。
朝よりは少し自然に。
春樹は頷いて、三人の横に立つ。
なつきはカメラを向ける。
画面の中に、春樹がいる。
観覧車を背景に。
春の空の下で。
「撮るよ」
「うん」
シャッター音。
なつきは画面を確認する。
いい写真だった。
春樹の表情はいつも通り控えめ。
でも、午前よりも少しだけ柔らかい。
なつきにはそう見えた。
「なつきも入りなよ」
亜衣が言う。
「でも誰が撮る?」
「通りがかりの先生に頼も」
ちょうど近くにいた別クラスの先生に、亜衣が明るく声をかけた。
スマホを渡し、五人で並ぶ。
今度は、亜衣が意図したのか、なつきの隣に春樹が来た。
なつきは一瞬固まる。
春樹が隣に立つ。
近い。
バーベキュー前の班写真の時より、少しだけ落ち着いているはずなのに、やっぱり近い。
「横田さん」
春樹が小さく言う。
「え?」
「また固まってる」
「あ、ごめん」
「写真」
「うん」
同じようなやり取り。
でも、朝より少しだけ柔らかい。
なつきは前を向いた。
先生が「撮るよ」と言う。
亜衣がピース。
茜が微笑む。
紅秋が自然に立つ。
春樹がカメラを見る。
なつきも笑う。
シャッター音。
五人の写真。
今度は、春樹と隣。
なつきはスマホを返してもらって、画面を見た。
そこには、確かに自分と春樹が隣に写っていた。
心臓が、じんわり温かくなる。
「いい写真?」
春樹が聞いた。
「うん」
なつきは頷いた。
「すごく、いい写真」
声が少しだけ柔らかくなった。
春樹は画面を覗き込んだ。
なつきは、スマホを少し傾ける。
春樹の顔が近づく。
距離が近い。
画面を見るためだけ。
でも、近い。
「いいと思う」
春樹が言った。
「うん」
「あとで送って」
「え?」
「班のグループに」
「あ、うん。送る」
なつきは慌てて頷いた。
当然だ。
班写真だからグループに送る。
でも、一瞬だけ、自分に言われたように感じてしまった。
あとで送って。
その言葉が耳に残る。
亜衣がすぐに小声で言う。
「なつき、顔」
「もう言わないで」
「今日何回目かな」
「数えないで」
その後、四班は軽い乗り物にいくつか乗った。
激しいものは避けた。
茜が「酔う人がいるかもしれない」と言い、紅秋が時間を見て、春樹は特に反対しなかった。
亜衣は少し残念そうだったが、写真を撮る時間が多くなるとすぐに機嫌を直した。
メリーゴーラウンドの前で写真。
カラフルなベンチで写真。
売店のアイスを持って写真。
なつきは、今までで一番たくさん写真を撮ったかもしれない。
春樹も、最初は少し戸惑っているようだったが、だんだん写真に慣れてきた。
カメラを向けると、ちゃんとこちらを見る。
たまに、亜衣に「大國、顔固い」と言われて、少しだけ眉を寄せる。
それもまた、なつきには大事な一枚になった。
途中、売店でアイスを買った。
なつきはバニラ。
茜は抹茶。
亜衣はいちご。
紅秋はコーヒー。
春樹はチョコミントだった。
「大國くん、チョコミント好きなんだ」
なつきが言うと、春樹は頷いた。
「好き」
「意外かも」
「そう?」
「うん。もっと……バニラとか選びそう」
「バニラも好き」
「そうなんだ」
「でも今日はチョコミント」
「気分?」
「うん」
そんな小さな会話が嬉しい。
好きな味を知る。
それだけで、春樹のことをまた一つ知った気になる。
「なつき、バニラ似合う」
亜衣が笑う。
「どういう意味?」
「ふわっとしてる」
「またふわっと」
「褒めてるって」
春樹がふと、なつきのアイスを見た。
「バニラ、溶けてる」
「えっ」
なつきは慌てて手元を見る。
確かに、少し溶けかけていた。
「あ、ほんとだ」
「早く食べた方がいい」
「うん」
なつきは慌てて一口食べた。
冷たさが口に広がる。
春樹が見ていたから余計に焦ってしまう。
「なつき、アイスにも見守られてる」
亜衣が言う。
「見守られてるの?」
「大國に」
「亜衣ちゃん!」
「ごめんごめん」
春樹は意味が分かっていないのか、少しだけ首を傾げていた。
紅秋は横で静かに笑っている。
茜は亜衣を軽く睨んでいた。
午後の時間は、ゆっくり進んでいるようで、思ったより早かった。
時計を見ると、集合時間まであと一時間を切っている。
紅秋が言った。
「そろそろ観覧車に行く?」
亜衣の目が輝く。
「待ってました!」
「待ち時間次第では厳しいかもしれないけど」
「行くだけ行こう!」
茜が時計を確認する。
「今なら並んでも間に合うと思う。ただし乗ったらすぐ集合場所へ戻ること」
「了解、委員長!」
四班は観覧車へ向かった。
近づくにつれて、その大きさが増していく。
遠くから見ていた時はゆっくりと回っているだけだった観覧車が、近くではずっと大きく、空へ伸びるように立っていた。
列は少しあったが、長すぎるほどではない。
五人で並ぶ。
亜衣はずっと楽しそうにしている。
茜は時間を気にしている。
紅秋は景色を見ている。
春樹は静かに列の進み具合を見ている。
なつきは、その横顔を見ながら、少しだけ緊張していた。
観覧車。
五人で乗る。
でも、ゴンドラの広さ的に、どう座るのだろう。
向かい合わせ。
春樹の近くになるかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
列が進む。
ゴンドラが近づく。
係員の案内で、五人が乗り込む。
自然な流れで、なつきは茜の隣に座った。
向かいに亜衣と紅秋。
春樹は、なつきの斜め向かい。
隣ではない。
でも、視線を上げればすぐ見える位置だった。
扉が閉まり、ゴンドラがゆっくり動き出す。
地面が少しずつ離れていく。
「おおー」
亜衣が声を上げた。
「高くなってきた!」
「まだ序盤よ」
茜が言う。
「でも楽しいじゃん」
「それはそう」
紅秋が窓の外を見る。
「公園、広いね」
「ほんとだ」
なつきも外を見る。
バーベキュー広場の方向。
歩いてきた道。
遊園地の遊具。
遠くの緑。
空。
全部が少しずつ下へ広がっていく。
風の音はほとんど聞こえない。
ゴンドラの中は、外の賑やかさから少し切り離されたように静かだった。
なつきは、その静けさに少しだけドキドキした。
春樹が斜め向かいにいる。
窓の外を見ている。
横顔が、光を受けている。
図書室の窓際で見た横顔に、少し似ていた。
でも、今日は本を持っていない。
制服でもない。
観覧車の中で、同じ景色を見ている。
それが不思議だった。
「なつき、写真」
亜衣が言った。
「あ、うん」
なつきはスマホを取り出した。
ゴンドラの中から外の景色を撮る。
遠くの空。
下に広がる公園。
そして、班のみんな。
ただ、ゴンドラの中は狭い。
五人全員を撮るのは難しい。
「自撮りにする?」
亜衣が言った。
「私、自撮り苦手」
「貸して。あたしやる」
亜衣がスマホを受け取り、腕を伸ばした。
「みんな寄ってー」
寄って。
その言葉で、なつきの横に茜が少し近づき、向かい側の春樹も少し身を乗り出した。
距離がまた近くなる。
なつきは息を止めそうになった。
「大國、もうちょいこっち」
亜衣が言う。
春樹が少し動く。
画面に全員が入る。
「なつき、笑って」
「笑ってる」
「固い」
「頑張ってる」
「大國も固い」
「元から」
「開き直らない」
亜衣が笑いながらシャッターを押した。
一枚。
もう一枚。
三枚。
なつきは画面を見る。
少しぎこちない。
でも、全員が写っている。
春樹も。
なつきも。
同じゴンドラの中で。
「いいじゃん」
亜衣が満足そうに言う。
「後で送ってね」
「うん」
スマホがなつきに返ってくる。
なつきは写真を見ながら、胸が温かくなるのを感じた。
観覧車の中。
五人。
春樹。
今日の思い出が、また増えた。
ゴンドラは頂上へ近づいていく。
外の景色がさらに広がる。
亜衣が窓に張りつくように外を見て、茜に「危ない」と注意されている。
紅秋は遠くを眺めながら、集合時間を再確認している。
春樹は静かに景色を見ていた。
なつきは少し迷ってから、声をかけた。
「大國くん」
「うん」
「高いところ、平気?」
「平気」
「そうなんだ」
「横田さんは?」
「たぶん平気」
「たぶん?」
「今のところは」
春樹は少しだけこちらを見た。
「怖かったら、遠くを見るといい」
「遠く?」
「下を見るより」
「なるほど」
なつきは言われた通り、遠くの空を見た。
確かに、下を見るより落ち着く。
「本当だ。平気かも」
「よかった」
春樹が短く言った。
よかった。
その言葉が、なつきの胸に優しく残る。
亜衣と茜は窓の外を見ている。
紅秋も景色を見ている。
今、ほんの少しだけ、春樹となつきの会話が二人だけのものになった気がした。
勘違いかもしれない。
でも、なつきにはそう感じられた。
「今日」
なつきは、もう少しだけ勇気を出した。
「楽しいね」
春樹は頷いた。
「うん」
「大國くんも?」
「楽しい」
その返事は短い。
でも、はっきりしていた。
なつきは目を少し見開いた。
春樹が、楽しいと言った。
今日を。
この班で過ごす時間を。
そう思っていいのだろうか。
「そっか」
なつきは小さく笑った。
「よかった」
春樹が少しだけ、なつきを見た。
「横田さんは?」
「え?」
「楽しい?」
聞き返された。
春樹から。
なつきは、一瞬だけ言葉を失った。
楽しい。
もちろん楽しい。
でも、その中には春樹がいるからという気持ちが大きすぎる。
それをそのまま言うことはできない。
けれど、嘘もつきたくない。
「楽しい」
なつきは答えた。
「すごく」
声は小さかった。
でも、本心だった。
春樹は静かに頷いた。
「なら、よかった」
また、その言葉。
なつきは胸がいっぱいになった。
ゴンドラはゆっくり下り始めていた。
楽しい時間は、いつも少し早く過ぎていく。
観覧車を降りると、集合時間まであまり余裕はなかった。
四班は急ぎすぎない程度に、集合場所へ向かって歩き始める。
途中で、亜衣がアイスのごみを捨て、紅秋が道を確認し、茜が時間を見た。
春樹は歩調を合わせている。
なつきは、その少し横を歩いた。
午後の光が、少し傾き始めている。
午前よりも風が柔らかい。
なつきはスマホの中に増えた写真を思い出しながら歩いた。
今日、たくさん写真を撮った。
春樹の写真も。
班の写真も。
隣に写った写真も。
観覧車の中の写真も。
全部、大事な一枚になった。
集合場所が近づくと、他の班も集まってきていた。
島中と守の班もいる。
守がこちらを見つけて手を振る。
「なつきー、観覧車乗った?」
「乗ったよ」
「いいなー。俺ら時間なくて乗れなかった」
「写真撮った?」
「撮ってねぇ。撮ってくれればよかったのに」
「田辺、自分で撮りなよ」
「忘れてた」
「田辺らしい」
守は笑っている。
島中も近くにいたが、なつきたちの様子を見て少しだけ黙っていた。
「横田、楽しそうだな」
島中が言った。
「うん。楽しかったよ」
なつきは素直に答えた。
その言葉に、島中の表情が一瞬だけ揺れる。
なつきは気づいたが、どう返せばいいか分からなかった。
亜衣がすぐに言う。
「四班、めっちゃ満喫したからね」
「へぇ」
島中は笑った。
「写真、あとで見せてよ」
「班のグループに送るから、見せるかはなつき次第」
亜衣が返す。
「伊藤、またガード」
「当然」
島中は肩をすくめた。
先生の集合の声が響き、会話はそこで切れた。
全員点呼。
班ごとの確認。
忘れ物がないか。
体調不良がいないか。
なつきは写真係として、行動メモを茜に見せた。
バーベキュー。
写真スポット。
アイス。
観覧車。
集合時間。
「ちゃんと書けてる」
茜が言った。
「よかった」
「記録係、よくできました」
「茜ちゃんに褒められると嬉しい」
なつきが笑うと、茜も少しだけ笑った。
春樹が横から言った。
「写真も」
「え?」
「ちゃんと撮れてた」
なつきは春樹を見る。
「ありがとう」
「送って」
「うん。帰ったら送るね」
「うん」
その約束も、また小さく胸に残った。
帰りのバスに乗る前、なつきは一度だけ振り返った。
観覧車が遠くに見える。
ゆっくり回っている。
さっきまで自分たちが乗っていた場所。
春樹と同じ景色を見た場所。
なつきはスマホを握りしめた。
今日は、逃げなかった。
全部ではない。
まだ言えなかったこともある。
緊張して固まったこともあった。
でも、写真を撮る時に声をかけた。
こっち向いてと言えた。
楽しいねと言えた。
春樹も楽しいと言ってくれた。
それだけで、胸がいっぱいだった。
春の空の下。
観覧車の下で。
なつきは、昨日より少しだけ春樹の近くに立てた気がした。
バスへ乗り込む。
クラスメイトたちの疲れた声と笑い声が混ざる。
席に座ったなつきは、スマホの画面をそっと開いた。
今日撮った写真が並んでいる。
その中に、春樹が少しだけ笑っている写真があった。
なつきはそれを見て、胸の奥で小さく呟いた。
今日、来てよかった。
同じ班になれてよかった。
そして。
好きになってよかった。
まだ声には出せない気持ちを、写真の中の春樹にだけ、そっと伝えるように。
なつきは画面を静かに閉じた。




