第11話 煙の向こうにいる君
朝の校門前は、いつもの学校とは違って見えた。
制服ではない生徒たちが集まっている。
それだけで、私立梅桜高等学校の空気が少しだけ休日みたいに浮いていた。
まだ八時前。
春の朝の風は冷たすぎず、でも少しだけ肌を撫でる。
校門脇の桜はもうほとんど葉桜になっていて、薄い緑が朝日に透けていた。
横田なつきは、自転車を押しながら校門をくぐった。
水色のブラウス。
ベージュのスカート。
白い靴下。
歩きやすいスニーカー。
肩からかけたバッグの中には、スマホ、予備バッテリー、ウェットティッシュ、日焼け止め、タオル、飲み物。
そして、春樹にすすめられた本。
必要ないかもしれない。
でも、持ってきた。
お守りみたいに。
校庭の端には、貸切バスが二台停まっていた。
白い車体が朝の光を受けている。
その前で、担任や学年の先生たちが名簿を持って生徒を確認していた。
校門から昇降口までの間には、すでに二年十一組の生徒たちが集まっている。
「おはよー!」
「私服、誰か分かんない!」
「え、島中その服いいじゃん」
「田辺、部活帰りみたい」
「うるせぇ、動きやすさ重視だよ」
声があちこちで飛び交う。
なつきはその中に入った瞬間、心臓が少しだけ速くなった。
学校の外で見るクラスメイト。
私服のクラスメイト。
それだけで、いつもより距離が近く感じる。
「なつき!」
明るい声がした。
振り返ると、伊藤亜衣が大きく手を振っていた。
亜衣は薄いオレンジのトップスに、動きやすそうなパンツ姿だった。
髪は軽くまとめていて、休日らしい華やかさがある。
その隣に、遠山茜が立っていた。
茜はシンプルなシャツに、落ち着いた色のパンツ。
委員長らしく、すでに名簿のような紙を持っている。
「おはよう、亜衣ちゃん、茜ちゃん」
「おはよう」
茜がなつきを見て、少しだけ頷いた。
「服、似合ってる」
「ほんと?」
「うん。昨日の写真よりいい」
「実物の方がいいってこと?」
「そういうこと」
なつきの胸が少しだけ明るくなる。
亜衣もすぐに近づいてきて、なつきの肩を軽く叩いた。
「やっぱそのブラウス正解! めっちゃ可愛い!」
「声大きいよ」
「可愛いものは大きい声で言うべき」
「やめてぇ……」
なつきは慌てて周りを見る。
何人か女子がこちらを見て笑っていた。
でも、嫌な笑いではない。
少しだけ恥ずかしい。
けれど、嬉しくもあった。
「大國、まだ来てないっぽいよ」
亜衣が小声で言った。
なつきの心臓が跳ねる。
「な、何も聞いてないよ」
「顔に書いてある」
「また顔……」
「今日は特に分かりやすい」
茜が静かに言う。
「朝から大國くん探してる顔」
「そんなに?」
「かなり」
なつきは両手で頬を押さえた。
今日こそ逃げない。
朝、鏡の前でそう言った。
でも、まだ春樹に会ってもいないのに、もう緊張している。
その時だった。
校門の方から、少し落ち着いた声が聞こえた。
「春樹、集合こっち」
板倉紅秋だった。
なつきは、反射的にそちらを見た。
紅秋が歩いてくる。
私服の紅秋は、白いシャツに薄い上着、黒っぽいパンツ。
いつもより少し柔らかい雰囲気だが、清潔感があって、やっぱり整っている。
そして、その隣に。
大國春樹がいた。
なつきの呼吸が、一瞬止まった。
春樹は、濃いネイビーの薄手のパーカーに、白いTシャツ、黒のパンツ。
派手ではない。
とてもシンプル。
けれど、春樹らしかった。
静かで、落ち着いていて、余計なものがない。
制服ではない春樹。
図書室の春樹でも、体育館の春樹でもない。
休日に近い春樹。
その姿を見た瞬間、なつきの胸の中で何かがふわっと広がった。
「……」
「なつき」
茜が小声で呼ぶ。
「見すぎ」
「見てない」
「見てる」
「見てました……」
なつきは素直に認めた。
亜衣が隣でにやにやしている。
「大國、私服だとちょっと雰囲気違うよね」
「うん……」
「かっこいい?」
なつきは固まった。
答えられない。
でも、否定もできない。
亜衣はそれだけで十分だったらしく、楽しそうに笑った。
「はい、答え出ました」
「亜衣ちゃん……」
春樹と紅秋がこちらへ近づいてくる。
なつきは慌てて背筋を伸ばした。
服、大丈夫かな。
髪、変じゃないかな。
表情、変じゃないかな。
水色のブラウス、似合ってるかな。
そんなことばかり考えてしまう。
「おはよう」
紅秋が言った。
「おはよう」
茜が返す。
亜衣も手を上げる。
「おはよー。二人ともちゃんと来たね」
「遅刻する理由がない」
春樹が短く言った。
「大國、真面目」
「普通」
「普通って言う人ほど普通じゃないんだよ」
「そう?」
春樹が少し首を傾げる。
その横顔に、なつきはまた見惚れそうになった。
いけない。
今日は写真係。
班行動。
ちゃんとしないと。
なつきはぎゅっとバッグの持ち手を握った。
その時、春樹の視線がなつきに向いた。
「横田さん」
「は、はい」
「スマホ、充電できた?」
「あ、うん。予備バッテリーも持ってきた」
「よかった」
それだけ。
でも、なつきの胸は大きく揺れた。
覚えていてくれた。
昨日の確認を。
写真係だから。
春樹が自分の役割を気にしてくれた。
「飲み物は?」
「持ってきたよ」
「歩くから、足りなかったら途中で買った方がいい」
「うん」
「靴は?」
春樹の視線が一瞬、なつきの足元へ落ちる。
なつきは少しだけ固まった。
「スニーカーにした」
「その方がいい」
「大國くんが言ってくれたから」
言ってから、なつきは少し恥ずかしくなった。
春樹は一瞬だけ瞬きをした。
「そう」
短い返事。
けれど、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった気がした。
亜衣が横で口元を押さえている。
茜は黙っている。
紅秋は、見てはいけないものを見ないふりをするように空を見た。
なつきは顔を赤くしながら、視線を下げた。
そこへ、にぎやかな声が割って入る。
「おー、四班そろってんじゃん」
島中良だった。
島中は明るい色のシャツに、黒いパンツ。
いつも通り、自分が目立つことを分かっている服装だった。
隣には田辺守。
守は動きやすそうなTシャツにパーカー、スポーツブランドのパンツ。
完全に部活帰りみたいだ。
「なつき、その服珍しいな」
守が言った。
「そう?」
「学校だと制服だから分かんねぇけど、なんか……」
「なんか?」
「ふわっとしてる」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
「ほんとかな」
守は悪気なく笑った。
島中もなつきを見た。
「横田、似合ってるじゃん」
「あ、ありがとう」
島中の言葉は普通に褒め言葉だった。
けれど、少しだけ距離が近い。
なつきは曖昧に笑った。
すると、島中の視線が春樹へ流れる。
「大國も私服シンプルだな」
「うん」
「もうちょい遊べばいいのに」
「動きやすければいい」
「バーベキューだしな」
島中は笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ対抗心のようなものが見えた気がした。
「なつき、写真係なんだろ?」
島中がまたなつきへ向く。
「うん」
「俺らの班も撮ってよ」
「時間あったらね」
「またそれ?」
島中は少しだけ笑う。
「今日くらいサービスしてくれてもいいじゃん」
なつきが返事に困った瞬間、亜衣がすっと入った。
「島中、外部撮影は午後の自由行動で予約して」
「まだ予約制続いてんの?」
「もちろん。四班専属だから」
「伊藤、商売上手いな」
「商業科なんで」
亜衣は軽く言って、場を笑いに変えた。
守は「じゃあ俺も予約」と笑っている。
茜がすかさず言う。
「田辺くん、自分の班の点呼は済んだの?」
「あ、やべ」
「集合前から他班に来ない」
「遠山、朝から厳しい」
「委員長だから」
守は笑いながら自分の班へ戻っていく。
島中も少し遅れて戻った。
ただ、去り際にもう一度、なつきと春樹のいる四班を見た。
その視線が少しだけ引っかかったが、すぐに担任の声が響いた。
「はい、十一組集合! 班ごとに並べ!」
生徒たちが一気に動き出す。
なつきたち四班も、自然と一列に集まった。
茜が名簿を確認し、紅秋が持ち物チェックを見て、亜衣が「全員いるね」と軽く言う。
春樹は静かに立っている。
なつきはその少し横で、スマホを取り出した。
「写真、撮っていいかな」
声が少し小さくなった。
でも、言えた。
茜がすぐに頷く。
「出発前の班写真ね。いいと思う」
亜衣が手を叩いた。
「撮ろ撮ろ! 最初の一枚大事!」
紅秋も軽く頷く。
「記録係の初仕事だね」
春樹は少しだけなつきを見た。
「任せる」
また、その言葉。
なつきの胸が温かくなる。
「うん」
なつきはスマホを構えた。
でも、自分が撮ると自分が入れない。
それに気づいた瞬間、少しだけ困った。
「あ、私が入れない」
「先生に頼もう」
茜が言う。
ちょうど近くにいた副担任に声をかけ、スマホを渡す。
四班の五人が並ぶ。
左から、亜衣、茜、なつき、春樹、紅秋。
なつきは、春樹が隣に立ったことに気づいて、全身が固まりそうになった。
近い。
肩が触れるほどではない。
でも、普段よりずっと近い。
春樹の服の布の色が、視界の端に入る。
ほのかに洗剤のような匂いがした気がして、なつきはさらに緊張した。
「横田さん」
春樹が小さく言った。
「え?」
「固まってる」
「あ、ごめん」
「写真だから」
「うん」
なつきは慌てて前を向いた。
副担任が笑う。
「はい、撮るよー」
亜衣が明るくピースをする。
茜は控えめに笑う。
紅秋は自然に立つ。
春樹は表情を大きく変えないが、ちゃんとカメラを見ている。
なつきは必死に笑った。
シャッター音。
一枚目。
四班の最初の写真。
なつきはスマホを返してもらい、画面を確認した。
そこには、自分と春樹が同じ写真に写っていた。
同じ班として。
隣に。
それを見ただけで、胸がきゅっとなる。
「どう?」
亜衣が覗き込む。
「いい感じ?」
「うん」
なつきは小さく頷いた。
いい感じ。
すごく。
自分だけが、そう思っているかもしれないけれど。
八時二十分。
全員の点呼が終わり、バスへ乗り込む。
バスの席は班ごとに近い場所へ座ることになっていた。
四班は中ほどの席。
二人掛けが並ぶ。
ここでまた小さな問題が発生した。
誰が誰と座るか。
茜はすぐに状況を見た。
「私は亜衣と座るわ」
「いいよー」
亜衣がすぐに答える。
紅秋が春樹を見る。
「俺は前の席でいい?」
「うん」
春樹が頷く。
つまり。
なつきと春樹が、隣。
というわけではなかった。
春樹は紅秋と同じ席。
なつきは茜と亜衣の後ろ、空いた席に一人で座る形になりかけた。
少しだけ残念。
でも、隣になる心の準備はまったくできていなかったから、ほっとした気持ちもある。
そんな複雑な顔をしていたのだろう。
亜衣が振り返って小声で言った。
「なつき、ちょっと残念?」
「ち、違うよ」
「ほんと?」
「……ちょっとだけ」
「正直」
亜衣が笑う。
茜は前の席から振り返り、静かに言った。
「行きのバスで燃え尽きるよりはいいでしょ」
「それはそう」
なつきは素直に頷いた。
もし春樹と隣だったら、ひたちなか海浜公園に着く前に心が疲れ果てていたかもしれない。
バスが動き出す。
学校の校門を出て、道路へ。
窓の外に、水戸の街並みが流れていく。
クラスメイトたちはすぐに盛り上がり始めた。
前の方では島中の声が聞こえる。
守の笑い声も混ざる。
亜衣は前の席から時々振り返って、なつきに話しかけてくれる。
茜は酔いやすい生徒がいないか周囲を見ている。
紅秋と春樹は前の席で、静かに何か話していた。
なつきは窓の外を見ながら、時々その後ろ姿を見た。
春樹の私服の背中。
バスの揺れに合わせて、少しだけ肩が動く。
紅秋が何か言うと、春樹が短く返す。
その声はよく聞こえない。
でも、二人の空気は穏やかだった。
なつきはバッグの中の本にそっと触れた。
今日、この本の話をできるだろうか。
全部はまだ読み終わっていない。
でも、途中まで読んだことはもう伝えた。
次は、もう少し深く話せるだろうか。
バスが市街地を抜け、少しずつ景色が広くなる。
海に近づくほど、空が開けていくように感じた。
生徒たちの声も、目的地が近づくにつれてさらに弾んでいく。
「海浜公園見えてきた?」
「まだじゃね?」
「ネモフィラあるかな」
「時期によるんじゃない?」
「バーベキュー早くしたい」
なつきも窓の外を見た。
ひたちなか海浜公園。
広い公園。
何度か家族で来たことはある。
でも、クラスメイトと来るのは初めてだった。
そして、春樹と同じ班で来るのも。
当たり前だけれど、初めてだった。
バスが駐車場へ入る。
車体がゆっくり停まると、教室とは違う歓声が起きた。
「着いたー!」
「広っ!」
「空気違う!」
ドアが開き、生徒たちが順番に降りていく。
外へ出た瞬間、なつきの頬に風が触れた。
学校とは違う風。
少しだけ海に近い匂い。
広い空。
遠くに見える観覧車。
園内の緑。
道の向こうには、バーベキュー広場へ向かう案内板がある。
なつきは思わず息を吸った。
「気持ちいい……」
「晴れてよかったわね」
茜が隣で言う。
「うん」
亜衣が腕を伸ばす。
「最高じゃん! 写真撮ろ、写真!」
「もう?」
「こういうのは最初が大事!」
なつきはスマホを取り出した。
班で移動する前に、入口付近で何枚か写真を撮る。
観覧車が遠くに入るように。
空が広く写るように。
亜衣はポーズを取る。
茜は少し照れながらも写る。
紅秋は自然に立つ。
春樹は、なつきがカメラを向けると一瞬だけ止まった。
「大國くん」
なつきは勇気を出して言った。
「撮るよ」
「うん」
「こっち向いて」
言えた。
こっち向いて。
亜衣が前に言っていた言葉。
本当に言えた。
春樹はカメラを見る。
表情は大きく変わらない。
でも、ちゃんとこちらを向いている。
なつきは手が少し震えそうになるのを抑えて、シャッターを押した。
春樹の写真。
自然な一枚。
撮ってしまった。
「撮れた?」
春樹が聞く。
「うん。撮れた」
「ありがとう」
「こちらこそ……?」
変な返しになった。
春樹は少しだけ首を傾げた。
亜衣が横で笑いをこらえている。
なつきは顔が熱くなった。
でも、逃げなかった。
ちゃんと声をかけた。
それだけで、朝の自分に少し胸を張れる気がした。
バーベキュー広場へ向かう途中、島中と守の班がすぐ後ろから近づいてきた。
「なつきー、もう写真撮ってんの?」
守が声をかける。
「うん。記録係だから」
「俺も撮って」
「田辺、自分の班で撮ってもらいなよ」
「俺らの班、誰もちゃんと撮らなそう」
島中が笑って言う。
「横田、あとで頼むわ」
「時間あったらね」
「またそれかよ」
「四班優先だから」
なつきが言うと、島中が少し目を丸くした。
いつもなら、なつきは曖昧に笑うだけだった。
でも今日は、少しだけ言えた。
四班優先。
自分の班を大事にする。
春樹たちと過ごす時間を守る。
その小さな意思表示。
島中は一瞬だけ黙り、それから笑った。
「へぇ。横田、今日は言うじゃん」
「えっと……記録係だから」
「なるほどね」
島中の笑顔は明るい。
でも、その奥に少しだけ面白くなさそうな色があった。
守は全然気づいていない。
「じゃあ肉焼けたら呼べよ」
「呼ばないよ」
「なんで!」
「田辺、自分の班!」
亜衣が声を上げる。
「うわ、伊藤ガード固い」
「外部侵入禁止です」
「何の施設だよ」
笑いが起きる。
そのまま、先生の指示で各班はバーベキュー場へ移動した。
広場には、屋根付きの区画がいくつか並んでいた。
テーブル。
コンロ。
炭。
食材セット。
紙皿やトング。
学校側が手配した道具が班ごとに分けられている。
生徒たちは一気に盛り上がった。
「肉だ!」
「野菜多くね?」
「焼きそばある!」
「火起こし誰やる?」
「先生、炭これでいいんですか?」
四班の場所は、比較的端の方だった。
少し離れたところに島中と守の班がある。
近すぎない。
でも、見える距離。
なつきは少しだけ複雑な気持ちになった。
うざ絡みは、たぶん来る。
でも、四班だけの空気も作れる距離だ。
「じゃあ始めようか」
茜が言った。
「まず食材確認」
紅秋がすぐに箱を開ける。
「肉、野菜、焼きそば、タレ、紙皿、箸。足りてる」
「さすが板倉くん、早い」
亜衣が言う。
「確認しないと後で困るから」
「春樹、炭いける?」
紅秋が振る。
春樹はコンロの前にしゃがみ、炭と着火剤を確認していた。
「いける」
短い返事。
でも、手つきは落ち着いている。
なつきはその姿を見て、また目を奪われた。
春樹が火起こしをしている。
学校の教室では見られない姿。
図書室でも、体育館でもない。
しゃがんで炭を並べ、着火剤の位置を確認し、無駄のない動きで準備していく。
袖を少しだけまくった腕。
真剣な横顔。
風向きを確かめるように少し顔を上げる仕草。
全部が新しくて、なつきはしばらく動けなかった。
「なつき」
茜が小声で呼ぶ。
「はい」
「写真」
「あっ」
そうだった。
写真係。
見惚れている場合ではない。
なつきは慌ててスマホを構えた。
火起こしをする春樹。
食材を確認する紅秋。
紙皿を並べる茜。
トングを持ってはしゃぐ亜衣。
それぞれを撮っていく。
春樹にカメラを向けると、春樹は少しだけ顔を上げた。
「撮る?」
「うん。作業中の写真」
「分かった」
春樹は嫌がらなかった。
それが嬉しい。
なつきはシャッターを押した。
炭の前にしゃがむ春樹。
春の光。
風で少し動く髪。
その一枚が画面に映った瞬間、胸がぎゅっとなった。
「いい写真?」
亜衣が覗き込む。
「うん」
「なつき、顔が完全にカメラマンじゃなくて恋する乙女」
「亜衣ちゃん!」
「小声小声」
亜衣は笑った。
茜が近くで野菜の袋を開けながら言う。
「亜衣、手を動かして」
「はいはい」
四班の準備は思ったより順調だった。
春樹が火をつける。
紅秋が食材を分ける。
茜が皿や箸を整理する。
亜衣が場を明るく回しながら、なつきにも仕事を振る。
なつきは写真を撮りつつ、紙皿を並べたり、野菜を皿に移したりした。
最初は緊張していたが、役割があると少し動きやすい。
春樹も黙々と作業している。
けれど、必要な時にはちゃんと声を出す。
「風、少し強いから紙皿押さえて」
「あ、うん」
なつきが慌てて紙皿を押さえる。
「タレはこっちに置いた方がいい」
「分かった」
「熱くなるから、そこ触らない方がいい」
「え、ここ?」
「うん」
春樹の言葉は短い。
でも、ちゃんと周りを見ている。
なつきはそのたびに、小さく頷いた。
助けられている。
見られている。
それが嬉しい。
そして少しだけ恥ずかしい。
やがて炭に火が回り始めた。
煙がゆっくり上がる。
春の風に乗って、炭の匂いが広がった。
「おお、火ついた!」
亜衣が声を上げる。
「大國、普通にすごい」
「普通」
「出た、普通」
紅秋が笑う。
「春樹の普通は信用しない方がいいよ」
「何それ」
なつきが聞くと、紅秋は軽く肩をすくめた。
「春樹は大抵のことを普通と言う」
「普通だから」
春樹が返す。
「ほら」
亜衣が笑った。
なつきも笑う。
その空気が、思っていたよりずっと楽しかった。
同じ班。
同じテーブル。
同じ火を囲む。
それだけで、教室とは違う距離になる。
肉が網に置かれる。
じゅう、と音がした。
煙が少し強くなる。
野菜も並ぶ。
焼きそばは後半。
亜衣が「肉! 肉!」と楽しそうに言い、茜が「焦げるから待って」と止める。
紅秋が焼き加減を確認し、春樹がトングで肉をひっくり返す。
その手つきがまた落ち着いていて、なつきは写真を撮るふりをしながら見てしまった。
「横田さん」
春樹が言った。
「はい」
「食べる?」
「え?」
春樹がトングで焼けた肉を一枚、紙皿の端に乗せてくれた。
「焼けたから」
なつきは固まった。
春樹が。
焼けた肉を。
自分の皿に。
それだけで、頭の中が大変なことになる。
「あ、ありがとう」
「熱いから気をつけて」
「うん」
なつきは箸で肉をつまんだ。
熱い。
でも、それ以上に胸が熱い。
春樹が焼いてくれた。
ただ班の作業として。
分かっている。
みんなにも配っている。
それでも、自分の皿に置かれた一枚は、特別に見えた。
「なつき、顔」
亜衣が小声で言う。
「今は見ないで」
「はいはい」
なつきは肉を口に入れた。
熱くて、少し焦げ目があって、タレの味がした。
「おいしい」
自然に言葉が出た。
春樹が少しだけこちらを見る。
「よかった」
短い返事。
でも、なつきには十分だった。
その瞬間。
「おーい、四班!」
予想通りの声がした。
守だった。
なつきは少しだけ肩を落とす。
島中と守の班から、二人がこちらへ近づいてくる。
守は紙皿を持っている。
島中は手ぶらだが、完全に様子を見に来た顔だった。
「肉焼けた?」
守が聞く。
「焼けたけど、自分の班は?」
亜衣がすぐに返す。
「まだ火が安定しねぇ」
「田辺が炭いじりすぎるからでしょ」
島中が笑う。
「お前も見てただけだろ」
「俺は指示してた」
「それが一番邪魔」
二人はいつもの調子で言い合っている。
島中は四班の網を見て、少し笑った。
「こっち、ちゃんとしてんな。さすが大國と板倉」
「遠山さんもいるしね」
紅秋が言う。
「横田も働いてる?」
島中がなつきへ視線を向ける。
「働いてるよ」
「写真ばっか撮ってない?」
「写真も仕事だから」
「言うじゃん」
島中は笑った。
その笑顔は明るい。
でも、なつきの横にいる春樹をちらりと見た。
「大國、火起こし上手いんだな」
「たまたま」
「たまたまで火つくなら苦労しねぇよ」
「手順通りやれば」
「出た、手順」
島中は軽く笑う。
少しだけ張り合うような声だった。
守はそんな空気に気づかず、網を覗き込む。
「なつき、一枚くれ」
「だめ」
「即答!?」
「自分の班の食べて」
「まだ焼けてねぇんだって」
「待てばいいよ」
「冷たい」
なつきが少し強めに言うと、守は本気で驚いた顔をした。
亜衣が小さく拍手する。
「なつき、いいぞ」
「亜衣ちゃん、拍手しないで」
茜も少しだけ口元を緩めた。
春樹は何も言わない。
けれど、なつきの方を一瞬だけ見た。
その視線に気づいて、なつきは胸が少し跳ねた。
言えた。
田辺に、だめって。
小さなことだけど、自分にとっては大きい。
島中はそのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
「横田、今日は四班に忠実だな」
「班行動だから」
「そっか」
島中は笑った。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ薄かった。
「じゃああとで写真撮ってよ。今度はマジで」
「時間あったら」
「またそれ」
「うん」
なつきは笑った。
でも、今回は曖昧に流した笑いではなかった。
四班の時間を大事にしたい。
そう思っている笑いだった。
守と島中はしばらく絡んだあと、先生に「自分の班に戻れ」と注意されて戻っていった。
四班に、少しだけ静けさが戻る。
亜衣がふうと息を吐いた。
「予想通り来たね」
「早かったわね」
茜が言う。
「でも、なつきちゃんと言えてた」
亜衣が笑う。
「肉あげなかった」
「そこ?」
「大事大事。田辺に流されない第一歩」
なつきは少し恥ずかしくなった。
「大げさだよ」
「大げさじゃない」
茜が言った。
「自分の班を優先できたなら、それでいい」
「うん」
なつきは頷いた。
春樹がトングで野菜を返しながら、静かに言った。
「肉、足りなくなると困るし」
なつきは春樹を見る。
春樹は網を見たままだった。
「だから、あげなくていいと思う」
なつきの胸が、また温かくなった。
春樹が肯定してくれた。
自分の小さな拒否を。
間違っていないと言ってくれた気がした。
「うん」
なつきは小さく返した。
「そうする」
バーベキューは、少しずつ本格的に進んでいった。
肉が焼ける。
野菜が焦げかける。
亜衣が「ピーマン苦手」と言い、茜に「一つは食べなさい」と言われる。
紅秋が焼きそばのタイミングを見計らう。
春樹が火加減を調整する。
なつきは写真を撮りながら、ときどき箸を動かした。
楽しい。
素直にそう思った。
春樹と同じ班だから、というだけではない。
この五人の空気が、楽しかった。
亜衣が明るくして、茜が整えて、紅秋が支えて、春樹が静かに動いて、自分もその中にいる。
去年の自分なら、きっと遠くから見ていただけだった。
でも今日は違う。
同じテーブルにいる。
同じ煙の中にいる。
同じ肉を焼いている。
それが、信じられないくらい嬉しかった。
焼きそばを作る段階になると、亜衣がテンションを上げた。
「焼きそばは任せて!」
「亜衣ちゃん、できるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
茜がすぐ反応する。
「家でたまにやるし」
「なら大丈夫か」
「ただし量が多い」
紅秋が麺の袋を見ながら言う。
「火力を見ながらやろう」
春樹が言った。
「先に野菜」
「お、春樹先生」
亜衣が笑う。
「先生ではない」
「じゃあ大國シェフ」
「違う」
「火起こし職人?」
「もっと違う」
四班に笑いが起きる。
なつきも笑いながら、その様子を写真に撮った。
春樹が笑っている。
ほんの少し。
でも、確かに。
なつきは画面を見て、息を止めた。
撮れた。
春樹の小さな笑み。
教室ではなかなか見られない表情。
図書室で、紅秋と話す時に少しだけ見せる表情。
それが、今日、自分のスマホに残った。
胸がいっぱいになった。
「横田さん」
春樹の声。
「えっ」
「焼きそば、食べる?」
「あ、うん」
「できたから」
春樹が紙皿を差し出してくれた。
焼きそばが乗っている。
湯気が立っている。
なつきは両手で受け取った。
「ありがとう」
「熱い」
「うん、気をつける」
春樹は短く頷き、また次の皿を用意する。
ただの班作業。
でも、なつきには一つ一つが特別だった。
午前の時間は、思っていたより早く過ぎていった。
食べて、焼いて、片付けて、写真を撮って、少し笑って。
島中と守が何度か遠くから手を振ってきたが、亜衣がうまく流し、茜が必要以上に近づけないようにした。
守は本当にただ遊びに来たそうだった。
島中は、そのたびに春樹を見ていた。
なつきは少しだけその視線が気になったが、今日はそれよりも目の前の時間を大事にしたかった。
片付けが終わる頃、先生が全体に声をかけた。
「午前のバーベキューはここまで! この後、午後は自由行動だ。ただし班単位で動くこと。集合時間は十五時三十分。遅れないように!」
自由行動。
その言葉に、生徒たちが一気に盛り上がる。
「遊園地行こう!」
「観覧車!」
「アイス食べたい!」
「写真撮ろ!」
四班も、自然と顔を見合わせた。
亜衣が真っ先に言う。
「プレジャーガーデン行こうよ!」
「遊園地の方ね」
茜が確認する。
「うん。せっかくだし」
紅秋が時計を見る。
「時間的には行ける」
春樹も頷いた。
「集合時間に戻れるなら」
なつきは少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
午後の自由行動。
遊園地。
春樹と同じ班で。
まだ午前だけで十分すぎるくらい胸がいっぱいなのに、今日はまだ続く。
なつきはスマホを握り直した。
画面の中には、今日撮った写真がたくさんある。
春樹の横顔。
火起こし。
焼きそば。
班写真。
笑う亜衣。
真面目な茜。
整える紅秋。
そして、煙の向こうにいる春樹。
なつきはその中の一枚を、そっと見つめた。
春樹が少しだけ笑っている写真。
今日の午前で、たぶん一番大事な一枚。
「行こう」
茜が言った。
「うん」
なつきは頷いた。
春の空は、午前より少し青くなっていた。
バーベキューの煙の匂いを残したまま、四班は午後の自由行動へ向かって歩き出した。
まだ、今日の一日は終わらない。
むしろ。
なつきの胸は、ここから何かが始まるような予感で、静かに震えていた。




