表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君の隣を目指して』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/13

第10話 眠れない夜のあとで


 交流会の前日。


 二年十一組の教室は、朝から少しだけ浮いていた。


 まだ授業はある。


 小テストもある。


 提出物もある。


 先生たちはいつも通りに授業を進める。


 けれど、生徒たちの意識は明らかに明日へ向かっていた。


 ひたちなか海浜公園。


 バーベキュー。


 午後の自由行動。


 班行動。


 バス移動。


 その言葉が、朝から教室のあちこちで飛び交っている。


「明日、雨降らないよな?」


「天気予報、晴れだった」


「肉どれくらい出るんだろ」


「足りなかったら購買で何か買って持ってく?」


「いや、現地だろ」


「遊園地行く班ある?」


「観覧車乗りたい」


 黒板の隅には、担任が書いた明日の集合時間が残っていた。


『明日 八時十五分 学校集合』


『遅刻厳禁』


『動きやすい服装』


 その文字を見るたびに、横田なつきの胸はそわそわした。


 同じ班。


 大國春樹と。


 遠山茜と。


 伊藤亜衣と。


 板倉紅秋と。


 明日、一日を同じ班で過ごす。


 考えないようにしても、無理だった。


 考えない方が不自然だった。


 なつきは自分の席で、明日の持ち物プリントを何度も見返していた。


 飲み物。


 タオル。


 日焼け止め。


 ウェットティッシュ。


 雨具。


 スマホ。


 班で必要なもの。


 服装。


 確認するたびに、もう分かっている内容なのに、不安になる。


 忘れ物をしたらどうしよう。


 服が変だったらどうしよう。


 春樹と話せなかったらどうしよう。


 逆に、急に話す機会が来て、変なことを言ったらどうしよう。


 どうしよう、ばかりが増えていく。


「なつき」


 隣から、遠山茜の声がした。


 茜はすでに明日のプリントにチェックを書き込み終えている。


「はい」


「プリント、穴が開くわよ」


「え?」


「何回見てるの」


「五回くらい?」


「十回は見てる」


「そんなに?」


「少なくとも私は八回目までは数えた」


「途中でやめたんだ」


「数えるのが面倒になった」


 茜は淡々と言った。


 なつきはプリントを机に置いて、小さく息を吐いた。


「落ち着かない」


「知ってる」


「明日、本当に来るんだね」


「来るわよ」


「当たり前なんだけど、なんか、まだ先みたいな気もして」


「班決めの日からずっとそわそわしてたものね」


「そんなに?」


「かなり」


 茜の言葉に、なつきは頬を押さえた。


 自分では隠しているつもりだった。


 でも、たぶん全然隠せていない。


「服、大丈夫かな」


「買った服でしょ」


「うん」


「似合ってた」


「でも学校の人に見られると思うと」


「交流会なんだから全員私服よ」


「そうだけど」


「大國くんに見られると思うと?」


 なつきの身体がぴたりと止まる。


 茜は表情を変えない。


 なつきは小さく口を開いて、閉じた。


「……うん」


 否定できなかった。


 茜は少しだけ笑った。


「変じゃないから大丈夫」


「ほんと?」


「本当」


「子どもっぽくない?」


「なつきらしい」


「それ、前も聞いた」


「事実は変わらない」


「大國くん、何か思うかな」


「思うかもしれないし、思っても言わないかもしれない」


「そこなんだよね……」


 なつきは机に頬をつけそうになった。


 春樹は、たぶん何も言わない。


 服が似合っていても、髪型が少し違っても、きっと大きな反応はしない。


 それでも、見てほしい。


 少しでいいから。


 似合ってる、なんて言わなくていい。


 ただ、気づいてくれたら。


 その想像だけで、胸がいっぱいになる。


「なつき」


 茜が言った。


「大國くんが何か言うかどうかより、自分がその服で行きたいかで決めた方がいい」


「……うん」


「好きな人に見られたい気持ちは、悪いことじゃない。でも、それだけになると苦しくなるから」


 茜の声は落ち着いていた。


 なつきはプリントの端を指で押さえた。


 好きな人に見られたい。


 悪いことじゃない。


 それだけで少し救われた気がした。


「私、明日逃げないようにしたい」


 なつきは小さく言った。


「何から?」


「話すことから」


「うん」


「写真撮る時とか、バーベキューの時とか。大國くんに声をかける機会があったら、ちゃんと言いたい」


「いいと思う」


「でも絶対緊張する」


「それは仕方ない」


「声、変になりそう」


「それも仕方ない」


「仕方ないで済ませる?」


「済ませる」


 茜はあっさり言った。


 なつきは思わず笑った。


「茜ちゃんって、たまにすごく雑」


「考えすぎるなつきには、これくらいでちょうどいいの」


「そうかも」


 そんな話をしていると、教室の後ろから伊藤亜衣がやってきた。


 手には明日のプリント。


 髪をいつもより少し高めにまとめている。


「おはよー。二人とも明日の最終確認してる?」


「亜衣ちゃん、おはよう」


「おはよう。なつき、顔が明日でいっぱい」


「そんな顔ある?」


「あるある。遠足前の小学生みたいな顔」


「小学生……」


「可愛いって意味」


「亜衣ちゃんの可愛いは万能すぎる」


 亜衣は笑いながら、なつきの机の横に腰を軽く寄せた。


「服、決めた?」


「うん。この前買った水色のブラウスにする」


「よし。大正解」


「ほんと?」


「絶対似合う。大國が何も言わなかったら、あたしが代わりに言う」


「それは嬉しいけど、ちょっと違う」


「分かってるって」


 亜衣はにやっとした。


 なつきは頬を赤くする。


 茜が小さく咳払いをした。


「亜衣、朝からからかいすぎ」


「ごめんごめん。でも明日だよ? そわそわしない方が無理じゃない?」


「それはそう」


「茜も楽しみでしょ?」


「楽しみではある」


「あるんだ」


「クラス行事として」


「委員長コメントだ」


 亜衣が笑う。


 茜は少しだけ眉を上げたが、否定はしなかった。


 その時、中央の席から板倉紅秋がやってきた。


 片手にプリントとメモ帳を持っている。


「四班、少し確認してもいい?」


「お、板倉くん仕事早い」


 亜衣が言う。


「前日だからね。明日現地で混乱する方が面倒だから」


 紅秋はそう言って、メモ帳を開いた。


「役割確認。火起こしは春樹。食材管理は俺。全体確認と集合時間管理は遠山さん。写真と行動メモが横田さん。伊藤さんは……」


「あたしは?」


「場を回す係」


「何それ、ざっくり」


「一番向いてる」


「褒めてる?」


「褒めてる」


 紅秋は自然に答えた。


 亜衣は満足そうに頷く。


「ならやる」


 なつきはそのやり取りを見ながら、少しだけ笑った。


 紅秋はやっぱり、場の整理がうまい。


 冷静なのに、堅すぎない。


 亜衣とも普通に話せる。


 春樹とも自然に話す。


 なつきは、紅秋が同じ班にいてくれてよかったと思った。


「大國くんは?」


 なつきが思わず聞いた。


 紅秋が少し振り返る。


 春樹は自分の席で、プリントとメモを見比べていた。


 何かを書き込んでいる。


「春樹は持ち物確認してる」


「ちゃんとしてる……」


 なつきが小さく言うと、紅秋は少し笑った。


「春樹はこういうの、抜けが少ないよ」


「そうなんだ」


「面倒ごとを避けるために準備するタイプ」


「なるほど」


「忘れ物をして困るより、最初から持っていく方が楽らしい」


「大國くんらしい」


 なつきは春樹の方をちらりと見た。


 春樹は静かにプリントへ目を落としている。


 持ち物欄にチェックをつけているようだった。


 その姿すら、なつきには少し特別に見える。


 明日の準備をしている春樹。


 自分と同じ明日を考えている春樹。


 同じ班だから。


 同じ予定だから。


 それだけで、胸が温かくなった。


 すると、春樹が顔を上げた。


 視線がこちらへ向く。


 なつきは慌てて目を逸らしそうになったが、少しだけ踏みとどまった。


「横田さん」


 春樹が言った。


「は、はい」


「スマホの充電、忘れないように」


「え?」


「写真係だから」


「あ、うん。充電する」


「予備バッテリーある?」


「えっと、家にあるかも」


「あるなら持ってきた方がいい。写真撮ると減るから」


「分かった。持ってくる」


「よろしく」


 春樹はそれだけ言って、またプリントへ視線を戻した。


 短い会話。


 でも、なつきの心臓はしっかり反応していた。


 写真係だから。


 ちゃんと考えてくれている。


 春樹が、自分の役割を覚えていてくれた。


 それが嬉しい。


「なつき、顔」


 亜衣が小声で言う。


「言わないで」


「今のは仕方ない」


 茜まで言った。


 なつきは机に額をつけたくなった。


 でも、今は恥ずかしさより嬉しさが勝っていた。


 その空気を破るように、廊下側から田辺守の声が飛んできた。


「なつきー、明日お菓子持ってく?」


 守が島中良と一緒に近づいてくる。


 守はいつも通り気軽な顔。


 島中は笑っているが、その目は四班のメンバーをざっと見た。


「お菓子?」


 なつきが聞き返す。


「バスで食うやつ」


「先生、バスの中で食べすぎるなって言ってなかった?」


「食べすぎなきゃいいんだろ」


「田辺は食べすぎそう」


「失礼だな」


「事実確認」


「遠山の言い方うつってる」


 守が笑う。


 島中がなつきの机の前に立った。


「横田、明日その班、ちゃんと肉焼けんの?」


「え?」


「大國と板倉って、火加減とか妙に細かそうじゃん」


 紅秋が静かに反応した。


「火加減は大事だよ」


「ほら」


 島中が笑う。


「板倉、絶対焼肉奉行になるタイプ」


「焼肉奉行というより、食材を無駄にしたくないだけ」


「それがもう奉行っぽいんだって」


 周りの男子が笑う。


 春樹は席から静かに言った。


「肉は焼ければいい」


「大國はシンプルだな」


「焦がさなければ」


「結局細かいじゃん」


 島中は笑った。


 なつきも少し笑う。


 けれど、島中の視線が自分に戻ってくると、少しだけ身体が固くなった。


「明日、俺らの班近かったらそっち行くわ」


「え?」


「肉の焼け具合チェックしに」


 守が横から乗る。


「俺も行く。なつきの班、絶対平和そうだし」


「田辺は自分の班で食べなよ」


「食べるけど、様子見」


「様子見って何」


「なつきがちゃんと働いてるか確認」


「なんで田辺に確認されるの?」


「中学からの付き合いだから?」


「関係ないよ」


 守は本気で不思議そうに笑っている。


 悪気はない。


 でも、明日もこうやって来るのだろう。


 なつきは苦笑しながらも、少しだけ不安になった。


 せっかく春樹と同じ班。


 ちゃんと話したい。


 写真も撮りたい。


 でも、島中と守が何度も来たら、またタイミングを逃すかもしれない。


「田辺くん」


 茜が静かに言った。


「明日は班行動が基本よ」


「分かってるって」


「分かっているなら、自分の班の仕事を優先しなさい」


「遠山、真面目だな」


「委員長だから」


「出た」


 守が笑う。


 島中も軽く笑ったが、茜の目は揺れなかった。


「島中くんも」


「俺も?」


「他班の邪魔にならない範囲で」


「邪魔なんてしないって」


「なら大丈夫ね」


 茜は言い切った。


 島中は少しだけ笑顔を止めた。


 それから、いつもの顔に戻る。


「まあ、明日は楽しもうぜ。横田も、せっかくだし」


「うん」


「写真撮るんだろ? 俺もかっこよく撮ってよ」


「えっと、班の写真係だから」


「俺らも撮ってくれていいじゃん」


「時間あったらね」


 なつきは曖昧に笑った。


 島中はその笑顔を少し見ていた。


「時間作ってよ」


 軽い声。


 でも、少しだけ強い。


 なつきは返事に詰まる。


 すると、亜衣が明るく割って入った。


「島中、なつきは四班専属カメラマンだから予約制ね」


「予約制?」


「そう。まず四班優先。外部撮影は空き時間のみ」


「なんだよ外部って」


「他班」


「伊藤、商売っぽいな」


「商業科だから」


 亜衣が笑うと、周りも笑った。


 その軽さに救われて、なつきはほっとした。


 島中も笑ったが、どこか完全には流しきれていないように見えた。


 ホームルームでは、担任から最後の確認があった。


 集合時間。


 バスの席。


 服装。


 注意事項。


 園内での行動範囲。


 緊急時の連絡。


 班長の確認。


 四班の班長は、自然と茜になった。


 副班長のような役割を紅秋が引き受ける。


 春樹は火起こし。


 亜衣は場を回す係。


 なつきは写真と記録。


 それぞれの役割が決まっていくたびに、明日が現実になっていく。


 放課後。


 教室から帰る前に、四班はもう一度だけ集まった。


「集合は学校で八時十五分。遅刻しないこと」


 茜が言う。


「はい」


 なつきが返事をする。


「なつき、そこは自信なさそうにしない」


「頑張る」


「頑張るじゃなくて、来る」


「来ます」


 亜衣が笑う。


「なつき、前日から目覚まし三個かけた方がいいよ」


「かける」


「ほんとにかけるんだ」


「不安だから」


 紅秋がメモ帳を閉じながら言った。


「横田さんは写真係だから、スマホと充電器。あと予備バッテリー」


「うん」


 春樹が続ける。


「飲み物も多めに」


「うん」


「海浜公園、歩くから」


「そうだよね」


「あと靴」


「靴?」


「歩きやすい方がいい」


「分かった。スニーカーにする」


「その方がいい」


 春樹が淡々と言う。


 なつきは頷きながら、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


 春樹は必要なことを言っているだけ。


 それは分かっている。


 でも、なつきのことを心配してくれているように聞こえてしまう。


 歩きやすい靴。


 飲み物。


 充電。


 どれも大事な確認。


 それが春樹の口から出るだけで、特別になる。


「大國、保護者みたい」


 亜衣が笑った。


「普通の確認」


「なつき、ちゃんと聞いときなよ」


「聞いてるよ」


「大國の言うことなら覚えるでしょ」


「亜衣ちゃん」


 なつきは頬を赤くした。


 春樹は少しだけ首を傾げたが、深く聞かなかった。


 紅秋は何かに気づいたように薄く笑っていた。


 茜は黙っていた。


 その沈黙が少し怖い。


 でも、嫌ではなかった。


 帰り道。


 なつきは自転車を押しながら、茜と並んで校門を出た。


 空は夕方の色に変わり始めている。


 明日は晴れるらしい。


 天気予報では降水確率も低い。


 それだけで嬉しい。


「明日、本当に晴れそうだね」


 なつきが言う。


「そうね」


「よかった」


「服、濡れないし」


「そこ?」


「大事でしょ」


「大事」


 なつきは笑った。


 でも、すぐに少しだけ真面目な顔になる。


「茜ちゃん」


「何?」


「明日、私が変に固まってたら、背中押して」


「いつも押してる」


「明日はいつもより強めで」


「転ぶわよ」


「会話で?」


「物理的に」


「それは困る」


 茜は少し笑った。


「でも、必要なら声はかける」


「うん」


「ただ、全部は助けないわよ」


「え?」


「なつきが自分で動くことも必要だから」


 その言葉に、なつきは小さく頷いた。


 分かっている。


 茜や亜衣に助けてもらうだけでは、春樹との距離は変わらない。


 自分で声をかける。


 自分で写真を撮る。


 自分で感想を言う。


 それが必要だ。


「頑張る」


「うん」


「逃げない」


「うん」


 夕方の風が、二人の間を抜けていった。


 家に帰ってからのなつきは、落ち着かなかった。


 まず、明日の服をベッドの上に広げた。


 水色のブラウス。


 動きやすいベージュのスカート。


 白い靴下。


 スニーカー。


 羽織る用の薄いカーディガン。


 それを一つずつ確認する。


 次に、バッグ。


 スマホの充電器。


 予備バッテリー。


 ウェットティッシュ。


 日焼け止め。


 ハンカチ。


 タオル。


 絆創膏。


 飲み物。


 春樹にすすめられた本。


 持っていくか迷った。


 交流会に本は必要ない。


 でも、バスの中で読むかもしれない。


 いや、たぶん読まない。


 でも、持っていると落ち着く。


 なつきは少し迷って、バッグの内ポケットに本を入れた。


 角が折れないように、そっと。


 桜色のしおりも挟まっている。


「よし」


 なつきは一度頷いた。


 それから、また不安になってバッグの中を確認した。


 さっき入れたばかりのものをもう一度出して、また入れる。


 スマホの充電を確認する。


 予備バッテリーを充電器につなぐ。


 目覚ましを三つセットする。


 六時。


 六時五分。


 六時十分。


 それでも不安になって、六時十五分にも設定した。


 スマホが震えた。


 班の女子三人のグループだった。


 亜衣から。


『準備終わった?』


 なつきは写真を撮った。


 ベッドの上に並べた服とバッグ。


『たぶん終わった』


 すぐに亜衣から返事。


『たぶん禁止』


 茜からも来る。


『目覚ましは?』


『四つかけた』


 亜衣。


『多っ』


 茜。


『それでいい』


 亜衣。


『服、水色のやつだよね?』


『うん』


『絶対かわいい。明日写真撮ろ』


『私が撮る係なのに?』


『なつきも写るの』


 なつきはスマホを見つめた。


 自分も写る。


 春樹と同じ班の写真。


 班全員で撮るなら、自分も春樹も同じ一枚に入る。


 そう思っただけで、また胸が忙しくなる。


『大國くんと同じ写真になるかな』


 打ってから、送るか迷った。


 迷って。


 送った。


 すぐに亜衣から返信。


『なるようにする』


 なつきはベッドの上で固まった。


『えっ』


 茜。


『不自然にならない範囲でね』


 亜衣。


『分かってるって。自然に班写真撮ればいいだけ』


 なつきはスマホを胸に抱えた。


 ありがたい。


 でも恥ずかしい。


 でも、やっぱり嬉しい。


『ありがとう』


 そう送ると、亜衣から短く返ってきた。


『明日楽しも』


 茜からも。


『早く寝なさい』


 なつきは笑った。


 早く寝る。


 そのつもりだった。


 けれど、夜はなかなか眠れなかった。


 部屋の電気を消して、ベッドに入る。


 窓の外は静かだった。


 遠くで車の音がする。


 部屋の時計の針が進む音が、いつもより大きく聞こえる。


 なつきは布団の中で何度も寝返りを打った。


 目を閉じると、明日のことが浮かぶ。


 学校集合。


 春樹の私服。


 バスの席。


 ひたちなか海浜公園。


 バーベキューの煙。


 火起こしをする春樹。


 写真を撮る自分。


 島中と守が来て、亜衣が流して、茜が止める。


 紅秋がさりげなく場を整える。


 春樹と少し話す。


 どんな話をする?


 本の続き?


 写真?


 バーベキュー?


 服?


 服は無理。


 大國くんは何も言わないかもしれない。


 でも、もし。


 もし少しだけ見てくれたら。


 なつきは布団を顔まで引き上げた。


「無理……」


 声が小さく漏れる。


 まだ明日になっていないのに、もう心臓がもたない気がする。


 でも、嫌ではない。


 怖いけれど、楽しみ。


 緊張するけれど、早く朝になってほしい。


 そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、なつきは長い時間眠れずにいた。


 ようやくうとうとしたのは、日付が変わってしばらくしてからだった。


 そして。


 朝は、思ったより早く来た。


 六時。


 一つ目の目覚ましが鳴る。


 なつきは反射的に目を開けた。


 眠い。


 けれど、一瞬で思い出す。


 今日だ。


 交流会。


 ひたちなか海浜公園。


 春樹と同じ班。


 眠気が一気に薄くなった。


 目覚ましを止める。


 二つ目が鳴る前に、スマホを手に取った。


 画面には、茜からのメッセージが来ていた。


『起きてる?』


 時間は六時二分。


 なつきは笑ってしまった。


『起きた』


 すぐに返事。


『えらい』


 亜衣からも来た。


『おはよー!今日楽しも!』


 なつきはベッドの上で深呼吸した。


 カーテンを開ける。


 朝の光が部屋に入ってくる。


 空は晴れていた。


 薄い青。


 白い雲が少し。


 風は穏やかそうだった。


「晴れた……」


 それだけで、胸が明るくなる。


 なつきはベッドから降り、準備を始めた。


 顔を洗う。


 髪を整える。


 水色のブラウスに袖を通す。


 スカートを履く。


 カーディガンを羽織る。


 鏡の前に立つ。


 昨日買った服。


 今日のために選んだ服。


 好きな人と同じ班で過ごす日の服。


 なつきは鏡の中の自分を見た。


 少し緊張した顔。


 でも、いつもより少しだけ背筋が伸びている。


 変じゃない。


 たぶん。


 茜も似合うと言ってくれた。


 亜衣も可愛いと言ってくれた。


 大丈夫。


 大丈夫。


 なつきはバッグを持ち、もう一度中身を確認した。


 スマホ。


 予備バッテリー。


 ウェットティッシュ。


 日焼け止め。


 タオル。


 飲み物。


 本。


 全部ある。


 玄関へ向かう前に、もう一度鏡を見た。


 心臓はまだ速い。


 手のひらも少し冷たい。


 でも、昨日の夜に決めたことを思い出す。


 逃げない。


 緊張してもいい。


 声が少し変になってもいい。


 うまく話せなくてもいい。


 でも、逃げない。


 春樹と同じ班で過ごす今日を、ちゃんと自分で歩く。


 なつきは鏡の中の自分に向かって、小さく頷いた。


「今日は、逃げない」


 声は小さかった。


 でも、はっきりしていた。


 玄関の扉を開ける。


 朝の空気が頬に触れた。


 ひたちなか海浜公園へ向かう日。


 なつきの長い一日が、始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ