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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第119話 大丈夫という言葉を、朝の教室でもう一度



 中間考査二日目の朝。


 目を覚ましたなつきが最初に思い出したのは、今日受ける数学の公式でも、英語の単語でもなかった。


 昨日、校門の前で春樹に言われた言葉だった。


 ――明日も、大丈夫。


 まだ一日目が終わったばかりなのに、春樹は少し先の朝へ言葉を置いてくれた。


 昨日は、その言い方が春樹らしくて、なつきは笑った。


 けれど、実際に二日目の朝を迎えてみると、その一言が思っていた以上に心の中へ残っていた。


 目覚まし時計が鳴る。


 なつきは布団の中から手を伸ばし、音を止めた。


 部屋の中には、まだ朝の白い光が薄く差しているだけだった。


 カーテンの向こうは晴れているらしい。


 静かな朝だった。


 昨日の簿記は、最後まで解けた。


 国語も、空欄を作らずに書いた。


 結果はまだ分からない。


 貸倒引当金の問題も、本当に合っていたかは自信がない。


 国語の記述も、先生が求める言葉に届いていたか分からない。


 けれど、考査中に諦めなかったことだけは分かっていた。


 その小さな自信を、今日は英語と数学へ持っていかなければならない。


「……大丈夫」


 なつきは、布団の中で小さく言った。


 春樹の声を真似たわけではない。


 けれど、自分の声で言ってみると、少しだけ胸が落ち着いた。


 昨日までは、誰かに言ってもらわなければ信じられなかった。


 今朝はまだ弱々しくても、自分から言葉にできた。


 なつきはゆっくり起き上がる。


 机の横には鞄。


 その横には黒猫のキーホルダー。


 いつもの場所で、小さく揺れていた。


「おはよう」


 なつきは黒猫に触れた。


「今日も、一緒に頑張ろうね」


 もちろん、考査を受けるのは自分一人だ。


 けれど、こうして声に出すと、本当に一人きりではない気がした。


   ◇


 朝食を済ませ、鞄の中を確認する。


 英語の単語帳。


 数学の公式を書いた小さなまとめノート。


 筆箱。


 予備の消しゴム。


 定規。


 全部入っている。


 昨日、帰宅してから勉強は長くやりすぎなかった。


 春樹と紅秋に言われた通り、新しい問題へは手を出さず、間違えたところだけを確認した。


 そのあと、春樹が選んでくれた本を少しだけ読んだ。


 本当は最後まで読みたかった。


 けれど、続きが気になるところで閉じた。


 考査が終わったら、ゆっくり読む。


 春樹へ話したいことも、また増えていた。


 物語の中で、主人公が「隣にいること」に慣れ始める場面。


 特別だった時間が、少しずつ日常へ変わっていく場面。


 それが、今の自分達に少し似ている気がした。


 なつきは本を鞄へ入れようとして、少し迷った。


 今日は考査二日目。


 本を読む時間はほとんどないかもしれない。


 それでも、結局入れた。


 春樹が選んでくれた本が鞄にあるだけで、少し落ち着く気がしたからだ。


   ◇


 通学路には、昨日より疲れた顔の生徒が多かった。


 考査初日の緊張を一度越えたせいか、昨日の朝ほど張り詰めてはいない。


 けれど、その代わり、疲労と焦りが混ざった空気があった。


「昨日の簿記、最後の問題やばくなかった?」


「答え合わせしないって決めたのに、友達が答え言ってきた」


「今日の数学、終わる」


「英単語、もう入らない」


 そんな会話が、駅から学校へ向かう道のあちこちで聞こえる。


 なつきは、なるべく耳に入れすぎないようにした。


 昨日の答え合わせはしない。


 今日の科目へ集中する。


 紅秋が何度も言っていた。


 終わった問題を思い返して不安を増やしても、今日の点数は上がらない。


 頭では分かっている。


 けれど、「簿記」という言葉が聞こえるたび、昨日の答案が頭へ浮かびそうになった。


「貸倒引当金……合ってたかな」


 小さく呟きそうになり、なつきは口を閉じる。


 今は英語。


 数学。


 なつきはバッグの黒猫を指先で撫でた。


   ◇


 校門前には、亜衣がいた。


 昨日と同じ場所。


 けれど、今日は単語帳を片手に持っている。


 歩きながら見ていたのか、なつきに気づくのが少し遅れた。


「あ、なつき。おはよう」


「おはよう、亜衣ちゃん」


「昨日、眠れた?」


「うん。昨日よりは」


「私も。初日終わったからかな」


「でも今日、英語だね」


「言わないで」


 亜衣は単語帳を閉じた。


「今、頭の中で似た単語が全部混ざってる」


「どれ?」


「acceptとexceptとexpect」


「分かる」


「一個ずつなら分かるのに、並ぶと急に怖い」


「英語の罠だね」


 二人で少し笑う。


 昨日の朝より、自然に笑えた。


 初日を越えたことが、二人の中に小さな余裕を作っている。


「なつき、数学は?」


「不安」


「即答」


「でも、昨日よりは少しだけ大丈夫かも」


「春樹くんに言ってもらったから?」


 亜衣の声はからかうというより、確かめるようだった。


 なつきは少しだけ頬を赤くしながら頷く。


「うん。それもある」


「今日も言ってもらう?」


「……言ってほしい」


「素直」


「だって、昨日約束してくれたから」


 言葉にすると、また胸が温かくなる。


 春樹は覚えているだろうか。


 きっと覚えていると思う。


 でも、もし忘れていても、責めるようなことではない。


 考査前の、短いやり取りだった。


 それでも、なつきは覚えていた。


「大丈夫」


 亜衣が突然言った。


「え?」


「春樹くんが来るまで、私が先に言っとく」


 なつきは少し目を丸くした。


 亜衣は笑う。


「なつき、大丈夫。昨日ちゃんとできた。今日も一問ずつやればいい」


 なつきの胸が、じんわり温かくなった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 二人は並んで校舎へ向かった。


   ◇


 教室へ入ると、昨日ほどではないものの、やはり静かだった。


 圭は自分の席で数学の公式を見ていた。


 その口が小さく動いている。


「二次方程式……解の公式……」


 田辺が隣で言う。


「声に出すと覚えやすいらしいぞ」


「でも声出すと他の公式が逃げる」


「どんな頭だよ」


 島中は英語のプリントを見ながら眉間へしわを寄せている。


「この単語、昨日覚えたのに消えた」


 紅秋が自分の席から返す。


「消えたならもう一度入れろ」


「簡単に言うな」


「簡単ではない。だから今やっている」


「正論」


 圭が公式集から顔を上げる。


「紅秋、今日も強い」


「考査だからな」


 茜は教室後方で、英語の長文プリントを確認していた。


 なつきと亜衣が入ってくると、顔を上げる。


「おはよう」


「おはよう、茜ちゃん」


「二人とも顔色は悪くないわね」


 亜衣が笑う。


「茜ちゃん、朝の健康観察みたい」


「大切でしょう?」


「うん。昨日よりは眠れたよ」


「ならよかったわ」


 なつきは席へ着く。


 鞄を机の横へ掛ける。


 黒猫が揺れる。


 扉を見る。


 まだ春樹はいない。


 昨日と同じように、少しだけ胸が落ち着かない。


 でも今日は、亜衣からも「大丈夫」と言ってもらった。


 一人で待っている感じはしなかった。


   ◇


 数分後。


 教室の扉が開いた。


 紅秋と春樹が入ってくる。


 春樹は昨日と変わらない。


 静かな表情。


 いつもの制服。


 鞄を肩にかけ、教室へ入る。


 それだけなのに、なつきの胸の緊張が少しだけほどけた。


 春樹がこちらを見る。


 黒猫へ視線を落とす。


 それから、なつきへ戻す。


「おはよう」


「おはよう、春樹くん」


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 いつものやり取り。


 それだけで、朝がちゃんと始まる。


「私も、春樹くん見つけた」


「うん」


 春樹は席へ向かう途中で、少しだけ足を止めた。


「大丈夫」


 なつきは一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 それから、昨日の約束を思い出す。


 胸が大きく鳴った。


「覚えてたの?」


「うん」


「昨日の」


「うん。言ってほしいって言ったから」


 春樹は、当然のことのように答えた。


 なつきは黒猫を握りしめそうになる。


 言ってほしいと言ったことを覚えていた。


 朝、教室へ来てすぐに言ってくれた。


 その事実だけで、数学の公式よりも英単語よりも強く、心に残った。


「……ありがとう」


「うん」


「今日も頑張る」


「うん」


 圭が自分の席で静かに両手を組んでいた。


「尊い……」


 田辺が肩を軽く叩く。


「朝から言うな」


「小声だから」


 島中が笑う。


「小声でも聞こえる」


 亜衣はなつきを見て、嬉しそうに笑っていた。


 紅秋は春樹へ視線を向ける。


「約束は覚えているんだな」


「うん」


「それは良い」


 春樹は首を傾げる。


「褒められた?」


「そう思っておけ」


 教室に小さな笑いが広がった。


   ◇


 朝のホームルームが始まる。


 担任が教室へ入ると、生徒達は机の中を空にし始めた。


「二日目です。初日が終わった安心で気を抜かないように。今日の科目へ集中してください」


 担任の声は、昨日より少し柔らかかった。


「また、昨日の答えについて教室内で話している人がいました。終わった科目の話は考査期間終了後にしましょう」


 何人かが気まずそうに視線を逸らした。


 圭は堂々としている。


 昨日、本当に答え合わせを避けたのだろう。


「三浦くん、今日は珍しく落ち着いていますね」


 担任に言われ、圭が少し胸を張る。


「成長しました」


 教室に笑いが起きる。


「その成長を答案にも出してください」


「はい!」


 少し大きな返事。


 担任が眉を上げる。


 圭は慌てて声を下げた。


「はい」


 また笑いが起きる。


 考査前の緊張が、少しだけやわらいだ。


   ◇


 一時間目は英語。


 問題用紙が配られる。


 昨日より、紙を裏返したまま待つ時間に慣れていた。


 それでも、心臓は速い。


 英語は、得意ではない。


 単語。


 文法。


 長文。


 どれか一つが分からなくなると、全部が難しく見える。


 なつきは深呼吸した。


 祐衣に教えてもらったことを思い出す。


 長い文は区切る。


 まず主語と動詞。


 代名詞が何を指しているかを確認する。


 分からない単語があっても、前後の流れを見る。


 亜衣と覚えた単語。


 茜が説明してくれた文法。


 みんなで解いたプリント。


 その時間は、ちゃんと自分の中に残っている。


「始めてください」


 紙を返す。


 最初は単語問題。


 accept。


 except。


 expect。


 朝、亜衣が言っていた単語が本当に並んでいた。


 なつきは思わず笑いそうになる。


 笑っている場合ではない。


 意味を確認する。


 受け入れる。


 除いて。


 予期する。


 一つずつ書く。


 次は文法。


 関係代名詞。


 祐衣の声を思い出す。


 前の名詞を説明する。


 文の中で何が足りないか。


 なつきは選択肢を確認した。


 これ。


 たぶん合っている。


 長文問題へ進む。


 文章が長い。


 一瞬、心が閉じそうになる。


 亜衣が言っていた。


 英語の長文は、見た瞬間に心が閉じる。


 祐衣が返した。


 閉じる前に区切る。


 なつきは鉛筆で斜線を入れた。


 主語。


 動詞。


 接続詞。


 関係代名詞。


 一文ずつ読む。


 最初は意味がぼんやりしていた。


 けれど、段落の最後まで読むと、少しずつ見えてきた。


 家族についての文章。


 離れて暮らす姉へ手紙を書く主人公。


 言えなかったことを、少しずつ文章へする話。


 なつきは、少しだけ胸を動かされた。


 自分の気持ちを言葉にする。


 最初は難しい。


 でも、少しずつ書くことで、本当の気持ちが見えてくる。


 それは、最近の自分にも似ている。


 嬉しい。


 寂しい。


 見つけてほしい。


 また話したい。


 言葉にするたび、自分が何を思っているのか分かってきた。


 なつきは設問へ目を移した。


 主人公が最後に手紙を書けた理由。


 本文の言葉を探す。


 見つける。


 答える。


   ◇


「残り十五分です」


 先生の声。


 なつきは最後の英作文へ進んでいた。


 指定された内容を、自分の言葉で書く問題。


『あなたが、誰かと一緒に努力した経験について書きなさい』


 英語で。


 語数指定あり。


 なつきは少し迷った。


 何を書くか。


 体育祭。


 勉強会。


 どちらも誰かと一緒に努力した経験だった。


 体育祭は、紅組のみんな。


 勉強会は、春樹達。


 なつきは勉強会を書くことにした。


 友達と図書館へ行った。


 簿記と英語を勉強した。


 最初は難しかった。


 けれど、友達が教えてくれた。


 自分で問題を解けた時、嬉しかった。


 簡単な英文。


 難しい表現は使わない。


 スペルを確認する。


 語数を数える。


 少し足りない。


 最後に一文を足す。


『I want to study with them again.』


 また一緒に勉強したい。


 書き終えると、胸が少し温かくなった。


 英作文なのに、本当の気持ちだった。


   ◇


 英語が終わった瞬間、教室中から小さなため息が漏れた。


 圭が机へ額をつける。


「単語が……」


 亜衣がすぐに聞く。


「accept?」


「exceptとexpectが三つ並んでた」


「やっぱり」


「夢が現実になった」


 なつきが笑う。


「でも分かった?」


「二つは」


「一つは?」


「考査後に確認する」


 紅秋が頷く。


「良い判断だ」


 田辺は長文問題を思い返しそうになり、首を横へ振った。


「答え合わせ禁止」


 島中も言う。


「次、数学だしな」


 その一言で、教室の空気がまた少し重くなる。


 数学。


 今日一番不安な科目。


 なつきは手のひらを握った。


 春樹が振り返る。


「英語、どうだった?」


「長文は思ったより読めた」


「うん」


「英作文、勉強会のこと書いた」


「勉強会?」


「うん。またみんなで勉強したいって」


 春樹は少しだけ目を瞬かせた。


「そっか」


「春樹くんは?」


「図書室のこと」


「同じ?」


「少し」


 なつきの胸が跳ねる。


「何て書いたの?」


「静かな場所だと集中できる。でも、友達と勉強すると分かりやすい」


「……私と似てる」


「うん」


 二人が同じ英作文の題材に、勉強会を選んだ。


 偶然。


 でも、嬉しかった。


 圭が少し離れたところで聞いていた。


「春樹となつき、英作文まで一緒」


 田辺がすぐに言う。


「声」


「小声!」


 島中が笑う。


「お前も勉強会書けばよかっただろ」


「俺は体育祭書いた」


「紅組魂?」


「そう!」


「英語で?」


「Red team spiritって書いた」


 教室中に笑いが起きた。


 紅秋が額を押さえる。


「文として成立しているならいい」


「たぶん!」


「たぶんか」


   ◇


 二時間目。


 数学。


 問題用紙が机へ置かれる。


 英語よりも、待っている時間が長く感じた。


 なつきは机の下で手を軽く握った。


 朝、春樹に言ってもらった。


 大丈夫。


 昨日も、数学の公式を確認した。


 茜にも教えてもらった。


 蓮が美優へ説明していた途中式も、一緒に聞いた。


 できるところから。


 考査開始の合図。


 紙を返す。


 計算問題。


 方程式。


 関数。


 グラフ。


 最初のページは、思っていたより解けそうだった。


 なつきは名前を書き、最初の問題へ進む。


 移項。


 符号に注意。


 計算。


 一問目。


 合っている気がする。


 二問目。


 少し複雑。


 途中式を省かない。


 茜が何度も言っていた。


 途中式を書くと、間違えた場所が分かる。


 なつきは丁寧に書いた。


 三問目。


 分数。


 少し迷う。


 通分する。


 計算する。


 次へ。


 前半は、意外と進んだ。


 けれど、関数の応用問題で手が止まった。


 グラフ。


 交点。


 面積。


 文章を読んでも、最初に何を出せばいいのか分からない。


 心臓が速くなる。


 数学の問題は、分からない時に完全な壁へ見える。


 どこから触ればいいのか分からない。


 なつきは一度、鉛筆を止めた。


 焦らない。


 問題文を分ける。


 求めるもの。


 分かっているもの。


 点の座標。


 直線の式。


 最初から面積を求めようとしない。


 まず交点。


 なつきは式を書いた。


 二つの式を連立する。


 解く。


 座標が出る。


 そこから、底辺と高さ。


 少しずつ形が見えてきた。


「……できるかも」


 声には出さない。


 計算を続ける。


 面積。


 答えを書く。


 自信は半分。


 でも、空欄ではない。


 次の問題へ。


   ◇


 考査時間の半分を過ぎた頃。


 なつきは最後の大問へたどり着いた。


 証明問題。


 文章で理由を書く。


 数学なのに、国語のようでもある。


 条件を確認する。


 等しい辺。


 共通な角。


 平行線。


 何を使えば合同を示せるのか。


 なつきは図へ印をつけた。


 以前なら、証明問題を見るだけで諦めたくなっていた。


 けれど今日は、書けるところだけでも書こうと思えた。


 分かっている条件を並べる。


 理由を書く。


 最後に、合同条件。


 文章が少し不自然かもしれない。


 でも、必要な要素は入っていると思う。


 なつきは書き終えた。


 視界の端に、斜め前の春樹が見える。


 春樹は静かに見直しをしているようだった。


 その背中を見て、なつきは少しだけ呼吸を整える。


 春樹がいるから答えが分かるわけではない。


 でも、一緒に考査へ向かってきた時間がある。


 その時間が、自分の中に残っている。


   ◇


「残り十分です」


 先生の声。


 なつきは見直しへ入った。


 符号。


 計算。


 途中式。


 一問目。


 大丈夫。


 二問目。


 途中のマイナスを見落としている。


 消す。


 書き直す。


 三問目。


 合っている。


 関数。


 面積の計算をもう一度。


 数字が一つ違う。


 最初の計算で、座標を取り違えていた。


 なつきの胸が大きく鳴る。


 時間はある。


 落ち着く。


 連立方程式をもう一度解く。


 座標。


 面積。


 書き直す。


 残り四分。


 証明問題を確認する。


 言葉が少し足りない。


 条件を一つ追加する。


「終了です」


 鉛筆を置く。


 なつきは深く息を吐いた。


 最後まで見直せた。


 途中で修正もできた。


 全部合っているかは分からない。


 でも、昨日と同じ。


 諦めなかった。


 答案用紙が回収されていく。


 手元から離れた瞬間、指先の力が抜けた。


   ◇


 数学が終わると、教室は英語の時以上に疲れ切っていた。


「終わった」


 圭が言う。


 田辺が聞く。


「考査が?」


「俺が」


「まだ三日目あるぞ」


「言わないで」


 島中は机へ突っ伏す。


「関数、何あれ」


 紅秋が静かに水を飲む。


「答え合わせはしない」


「分かってる」


「今は次の科目へ」


「まだある?」


「今日は終わりだ」


 圭が勢いよく顔を上げる。


「終わり!?」


「今日の分は」


「帰れる!」


 教室に笑いが戻る。


 考査二日目は午前中で終了だった。


 明日も科目は残っている。


 けれど、英語と数学という大きな山を越えた。


 なつきは机へ少しだけ頬を近づけ、息を吐いた。


「疲れた……」


 亜衣が隣へ来る。


「お疲れ」


「亜衣ちゃんも」


「数学どうだった?」


「関数で止まったけど、最後に直せた」


「すごい」


「合ってるかは分からない」


「でも気づけたんでしょ?」


「うん」


「それなら大きいよ」


 茜も振り返る。


「証明は書けた?」


「一応、最後まで」


「十分よ」


「茜ちゃんは?」


「最後の計算が少し不安」


「茜ちゃんでも不安なんだ」


「もちろん。不安は誰にでもあるわ」


 その言葉に、なつきは少し安心した。


 茜も不安になる。


 春樹も、もしかしたら不安になる。


 みんな同じ。


 その中で、自分の答案を最後まで書く。


 それでいい。


   ◇


 春樹が振り返った。


「横田さん」


「うん?」


「どうだった?」


「英語は思ったより読めた。数学は関数で止まったけど、最後に直した」


「うん」


「大丈夫だったかな」


 言ってから、少しだけ笑った。


 朝と同じ言葉を求めている自分に気づいた。


 春樹はなつきを見た。


「大丈夫」


「まだ結果分からないよ?」


「最後までやったから」


「……うん」


「直せたって言った」


「うん」


「なら大丈夫」


 春樹の「大丈夫」は、点数を保証するものではない。


 全部正解だと言っているわけでもない。


 最後までやったこと。


 途中で直せたこと。


 そこを見て言ってくれる。


 だから、信じられる。


「ありがとう」


「うん」


「春樹くんは?」


「普通」


「また普通」


 なつきは笑った。


「英作文、勉強会のこと書いたんだよね?」


「うん」


「何て書いたの?」


 春樹は少し考える。


「一人だと分からないことも、友達となら分かることがある」


 なつきの胸が温かくなる。


「いいね」


「横田さんは?」


「私は、またみんなで勉強したいって」


「似てる」


「うん。似てるね」


 昨日、本の感想で交わした言葉と同じ。


 同じものを見て、少し違う言葉を使う。


 でも、見ているところは似ている。


   ◇


 帰りのホームルーム。


 担任は、明日の科目と注意を簡単に伝えた。


「二日目、お疲れ様でした。明日で中間考査は終了です」


 その言葉に、教室のあちこちから小さな反応が上がる。


「あと一日」


「長い」


「もう少し」


 圭は机へ両手をついた。


「終わりが見えた」


 担任が続ける。


「見えたからといって走りすぎないこと。今日も帰宅後は、明日の範囲を軽く確認して早く休んでください」


 紅秋が圭を見る。


 圭は先に言った。


「夜更かししません」


「よし」


 教室に笑いが起きる。


「また、明日の考査がすべて終わるまでは、これまでの答案の答え合わせは控えましょう」


 圭が頷く。


「全部終わったら祭り」


 島中が言う。


「答え合わせ祭り?」


「それは嫌だ」


 田辺も笑う。


「普通にお疲れ会でいいだろ」


 亜衣がなつきを見る。


「中間終わったら、またカフェ行きたいね」


「うん」


「本の感想会も?」


「うん」


 なつきは春樹を見る。


 春樹もこちらを見ていた。


「最後まで読んだ?」


 春樹が聞く。


「昨日、少しだけ進んだ。今日帰ったら読めそう」


「そっか」


「考査終わったら話そうね」


「うん」


 祐衣も一緒に。


 三人で本の話をする約束。


 それも、考査後の楽しみだった。


   ◇


 教室を出る前。


 美優と蓮、祐衣が二年十一組へ顔を出した。


 特進科も二日目の考査を終えたらしい。


 美優は入ってくるなり、机へ手をついた。


「数学、疲れた」


 圭が手を上げる。


「仲間」


「仲間」


 昨日と同じように二人が頷き合う。


 蓮が苦笑する。


「美優、最後まで解けたでしょ」


「解けたけど、疲れるものは疲れる」


 祐衣も少しだけ疲れた顔をしていた。


 なつきが声をかける。


「祐衣さん、英語どうだった?」


「長文は読めました。でも、文法が一つ不安です」


「祐衣さんでも?」


「はい。不安になります」


 茜が頷く。


「考査が終わるまでは確認しない方がいいわね」


「そうですね」


 祐衣はなつきを見る。


「横田さんは?」


「祐衣さんに教えてもらった区切り方、使えたよ」


「本当ですか?」


「うん。長文、前より読めた」


 祐衣の表情がやわらかくなる。


「よかったです」


「ありがとう」


 春樹が隣から言う。


「白石、教えるの上手い」


 祐衣は少し照れた。


「ありがとうございます」


 なつきはその会話を見て、自然に笑った。


 胸はもう、大きく揺れなかった。


 祐衣へ感謝している。


 春樹も祐衣を認めている。


 その両方を、穏やかに受け止められる。


   ◇


 昇降口へ向かう廊下。


 考査二日目を終えた生徒達の声が、少し明るくなっていた。


 明日で終わる。


 その事実が、疲れた足を少し軽くしている。


 圭達は前を歩いていた。


「明日終わったら何食べる?」


 圭が聞く。


 田辺が言う。


「まず帰って寝る」


 島中も頷く。


「それな」


 蓮が笑う。


「カフェの話は?」


「寝たあと」


 紅秋が言う。


「まず考査を終えろ」


「最後まで現実」


 美優と祐衣は茜、亜衣と話している。


 なつきは春樹と少し近い位置を歩いていた。


 肩が触れるほどではない。


 けれど、離れすぎてもいない。


 最近、この距離が自然になってきた。


「春樹くん」


「何?」


「朝、大丈夫って言ってくれてありがとう」


「うん」


「覚えててくれたの、嬉しかった」


「言ってほしいって言ったから」


「それでも」


 なつきは少しだけ黒猫へ触れた。


「私の言ったこと、覚えててくれたのが嬉しい」


 春樹は少し黙った。


 廊下のざわめき。


 窓から入る風。


 少し離れたところで笑う圭達。


 その中で、春樹は静かに言った。


「覚えてる」


「うん?」


「横田さんが言ったこと」


 胸が大きく鳴った。


「全部?」


「全部ではないかも」


 春樹らしい正直な答え。


 なつきは少し笑った。


「そっか」


「でも、大事なのは覚えてる」


 笑いが止まった。


 なつきは春樹を見る。


 春樹はいつも通りの顔だった。


 でも、その言葉だけが、胸の中へ深く落ちていく。


「……大事なの?」


「言ってほしいって言ったから」


「それが?」


「うん。横田さんが必要って言った」


 なつきは何も言えなくなった。


 昨日、自分は「必要」と言った。


 明日も大丈夫と言ってほしい。


 春樹はそれを覚えていて、今朝言ってくれた。


 なつきが必要だと言ったから。


「ありがとう」


 やっと言えた。


 春樹は頷く。


「うん」


   ◇


 校門の前で、みんなが帰る方向へ分かれ始める。


 美優が手を振る。


「明日、最後頑張ろうね」


「うん」


 なつきも手を振り返す。


 祐衣が微笑む。


「終わったら、本のお話をしましょう」


「うん。楽しみにしてる」


 蓮が圭達へ声をかけ、田辺と島中も駅の方へ歩き出す。


 紅秋が春樹を待っている。


「春樹」


「うん」


 春樹はなつきを見る。


「また明日」


「うん。また明日」


 少しだけ間を置く。


 なつきは、期待している自分に気づいた。


 春樹もそれに気づいたのかもしれない。


「明日も、大丈夫」


 なつきの胸が温かくなる。


「うん」


 今度は、自分からも言いたかった。


「春樹くんも、大丈夫」


 春樹が少しだけ目を瞬かせた。


 なつきは続ける。


「いつも普通って言うけど、春樹くんだって考査受けてるし。疲れるでしょ?」


「少し」


「だから」


 なつきは小さく笑った。


「春樹くんも、大丈夫」


 春樹は少し黙った。


 それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「うん」


「届いた?」


「届いた」


 その返事に、なつきも笑った。


 いつも春樹からもらっている言葉を、今日は少しだけ返せた。


 見つけてもらうだけではなく。


 支えてもらうだけではなく。


 自分も春樹へ何かを渡したい。


 そんな気持ちが、少しずつ言葉になっている。


 黒猫が鞄の横で揺れる。


 中間考査は、あと一日。


 不安はまだある。


 でも、朝よりずっと小さくなっていた。


 明日も、春樹を見つける。


 春樹にも、見つけてもらう。


 そして今度は、自分からも大丈夫と言う。


 その小さな約束を胸に、なつきは夕方の帰り道へ歩き出した。

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