第116話 同じ物語を読んで、違う言葉を渡す
中間考査まで、あと一週間。
朝の教室には、体育祭前とはまったく違う緊張が広がり始めていた。
あの頃は、誰がどの競技に出るのか、応援合戦の隊形をどうするのか、紅組と白組のどちらが勝つのか。
教室に飛び交う言葉は、どれも外へ向かうものだった。
走る。
声を出す。
誰かを応援する。
勝つ。
けれど今は、みんなの視線が机の上へ落ちている。
問題集。
ノート。
単語帳。
先生から配られた考査範囲表。
黒板の端には、担任が書いた大きな文字が残っていた。
『中間考査まで、あと一週間』
その下に、誰かが小さく書き足している。
『逃げられません』
さらにその下へ、別の誰かが書いたらしい。
『助けてください』
朝からそれを見つけた生徒達が、声を抑えて笑っていた。
「これ書いたの圭くんじゃない?」
亜衣が黒板を見ながら言った。
「俺じゃない!」
圭はすぐに否定した。
けれど、声に説得力がない。
田辺が自分の席から振り返る。
「『助けてください』は三浦っぽい」
「俺ならもっと気持ち込める」
「どういう違いだよ」
島中が笑う。
「『本当に助けてください』って書くとか?」
「そう!」
「認めてるじゃねぇか」
教室に笑いが広がった。
紅秋は黒板を一度見ただけで、静かに教科書を机へ置いた。
「助けを求める前に勉強しろ」
「紅秋、朝から現実」
「考査は現実だ」
「知ってる。知ってるけど聞きたくない」
圭は机に突っ伏す。
なつきはそのやり取りを聞きながら、鞄を机の横へ掛けた。
黒猫のキーホルダーが小さく揺れる。
最近は、その揺れを見ることが朝の習慣になっていた。
黒猫を見る。
春樹を思い出す。
春樹が教室へ来ているかを探す。
まだ来ていなければ、少しだけ待つ。
それが、あまりにも自然になりつつあることに、なつき自身も気づいていた。
「なつき」
亜衣がすぐ横から覗き込む。
「今日も黒猫確認?」
「うん」
「その次は春樹くん確認?」
「……まだ来てないかなって」
もう隠しきれないと思い、なつきは正直に答えた。
亜衣は一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに口元を緩める。
「本当に素直になったね」
「亜衣ちゃんには、隠しても分かるでしょ?」
「分かるけど、なつきから言ってくれるのが嬉しい」
「そういうもの?」
「そういうものです」
茜が後ろから近づいてきた。
「何の話?」
「なつきが春樹くんを待ってる話」
「亜衣ちゃん」
なつきは頬を赤くする。
茜は驚くこともなく、穏やかに微笑んだ。
「そう。もうすぐ来ると思うわ」
「どうして分かるの?」
「さっき昇降口で紅秋くんを見たから。一緒でしょう?」
「あ……そっか」
胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
来ると分かっただけなのに。
もうすぐ会えると思っただけなのに。
なつきは黒猫へもう一度触れた。
◇
教室の扉が開いた。
紅秋と春樹が入ってくる。
なつきは考えるより先に顔を上げていた。
春樹はいつも通りだった。
制服。
鞄。
少し落ち着いた表情。
けれど今日は、その手に一冊の文庫本を持っていた。
なつきが選んだ本。
図書館で、春樹に読んでほしいと思って差し出した本だった。
胸が一度、大きく鳴る。
読み終わったのだろうか。
どこまで読んだのだろう。
どう感じたのだろう。
聞きたい。
でも、朝の教室でいきなり聞くのは少し恥ずかしい。
なつきが迷っている間に、春樹がこちらへ視線を向けた。
黒猫を見る。
それから、なつきを見る。
「おはよう」
「おはよう、春樹くん」
「今日もいる」
「うん」
「見つけた」
もう何度も交わしたやり取り。
それでも、胸はちゃんと温かくなる。
「私も、春樹くん見つけた」
「うん」
春樹は自分の席へ鞄を置いた。
手にしていた本を机へ乗せる。
なつきの視線がそこへ向かう。
春樹はそれに気づいた。
「読んだ」
「全部?」
「うん」
なつきは思わず椅子から少し身を乗り出した。
「どうだった?」
聞いた瞬間、教室の周囲が少しだけ静かになった気がした。
圭が露骨に聞き耳を立てている。
田辺は弁当ではなく朝のパンを持ったまま、わずかにこちらを見る。
島中も机へ頬杖をついていた。
亜衣は完全に待っている顔だった。
春樹は少し考えた。
すぐには答えない。
なつきが選んだ本について、ちゃんと言葉を探してくれている。
その沈黙が嬉しかった。
「静かだった」
「うん」
「でも、最後まで何も起きないわけじゃなかった」
「うん」
「大きいことは起きないけど、少しずつ変わってた」
なつきの胸が、ゆっくり熱くなった。
自分がこの本を春樹へ選んだ理由。
淡々としている。
でも、言葉がきれい。
大きな出来事ではなく、少しずつ人の距離が変わっていく物語。
春樹は、ちゃんとそこを読んでくれた。
「好きだった?」
なつきは少しだけ緊張しながら聞いた。
春樹は頷いた。
「うん」
「よかった」
「横田さんが選んだから、読んだ」
教室の空気が止まった。
なつき自身も止まった。
春樹はただ事実を言ったような顔をしている。
「……私が選んだから?」
「うん」
「それ、言っていいの?」
「何が?」
紅秋がゆっくりと額へ手を当てた。
「春樹」
「何?」
「朝から横田さんの心臓へ負担をかけるな」
「心臓?」
圭が堪えきれず、小さく机を叩いた。
「春樹ぃ……!」
亜衣も両手で口元を押さえている。
「強い。今日も強い」
田辺が苦笑した。
「大國、無自覚なのが一番すごいな」
島中も笑う。
「横田、顔真っ赤だぞ」
「言わないで」
なつきは俯きかけた。
けれど、逃げきらなかった。
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
でも、嬉しい。
自分が選んだから読んだ。
その言葉をなかったことにはしたくなかった。
「……ありがとう」
なつきは小さく言った。
春樹は頷く。
「うん」
「私も、春樹くんが選んでくれた本、もう少しで読み終わる」
「そっか」
「読み終わったら、ちゃんと感想言うね」
「うん。聞く」
また一つ、約束が残った。
小さな約束。
でも、なつきには大切だった。
◇
朝のホームルームが始まると、教室は中間考査前の現実へ戻された。
担任が考査範囲表を持ち、教卓の前に立つ。
「はい。黒板の落書きはあとで消しますが、内容としては間違っていません」
教室に笑いが起きる。
黒板にはまだ、
『中間考査まで、あと一週間』
『逃げられません』
『助けてください』
と書かれていた。
担任は少し笑いながら続ける。
「逃げられません。ただし、助けを求めるのは悪くありません。分からないところは、今週中に先生か友達へ確認してください」
圭が小声で言う。
「先生が助けてくれるって」
紅秋が返す。
「まず自分で問題を読め」
「昨日からみんなそれ言う」
「必要だからだ」
担任が教室全体を見渡す。
「最近、放課後に図書室で勉強している人達もいるようですね。良いことです。ただし、教えてもらって分かった気になるだけではなく、自分で解き直すこと」
なつきは少しだけ姿勢を正した。
昨日、春樹に教えてもらった問題。
春樹は何度も言ってくれた。
横田さんが解いた。
なつき自身が書いた。
その意味が、担任の言葉でさらに分かった気がした。
春樹は答えを渡すだけではない。
なつきが自分で解けるまで待ってくれる。
なつきができた時、それをなつきの頑張りとして返してくれる。
だから、少しずつ自信がついてきた。
黒板へ視線を戻す。
考査まで一週間。
怖い。
でも、前ほどではない。
◇
午前中の授業は、考査範囲の復習が中心だった。
商業科目では、先生が仕訳の問題を黒板へ書いた。
「では、これは誰かに解いてもらいましょう」
教室の空気が一瞬で固くなる。
視線を逸らす生徒。
急にノートを見始める生徒。
圭は先生と目が合わないよう、黒板の端を見ていた。
「三浦くん」
「なんで!?」
教室に笑いが起きる。
圭は観念したように立ち上がった。
「問題文は最後まで読みましたか?」
先生が聞く。
教室の数人が吹き出しそうになる。
田辺が肩を震わせ、島中は顔を伏せていた。
圭は真剣に答える。
「読みました」
「では、黒板へ」
圭は前へ出て、少し迷いながら仕訳を書く。
以前なら、途中で固まっていたかもしれない。
でも今日は、問題文をもう一度確認しながら、最後まで書いた。
先生が見る。
「一つだけ逆ですね。ただ、考え方は合っています」
圭が振り返る。
「惜しい?」
「惜しいです」
紅秋が静かに拍手を一度した。
田辺も机を軽く叩く。
島中が小声で言う。
「圭、やるじゃん」
亜衣も笑う。
「問題文効果」
教室に温かい笑いが広がった。
圭は席へ戻ると、小さく胸を張った。
「俺、成長した」
「うん」
なつきも言った。
「すごいよ、圭くん」
「なつきに褒められた!」
「声」
亜衣が注意する。
「はい」
次の問題で、先生は別の生徒を指名した。
なつきは少しだけ安心する。
でも同時に、いつか自分も当てられると思った。
怖い。
けれど、春樹に教えてもらったところなら、少しはできるかもしれない。
その考えが浮かんだこと自体、以前とは違っていた。
◇
昼休み。
いつものように机が寄せられた。
中間考査が近いこともあり、弁当の横に問題集や単語帳を置いている生徒が多い。
圭はさっき黒板で解けたことをまだ誇らしそうにしていた。
「俺、先生に惜しいって言われた」
田辺が笑う。
「朝から何回目だよ」
「大事なことだから」
島中も言う。
「でも本当に前よりはマシだったな」
「マシじゃなくて成長」
「はいはい」
亜衣が圭のノートを覗く。
「でもここ、直しておいた方がいいよ」
「お疲れ会の時より厳しい」
「考査前だから」
茜も弁当を食べながら、英語のプリントを確認していた。
「今日の放課後、英語も少しやりたいわね」
祐衣は図書委員の当番がある。
途中から合流できるだろう。
美優や蓮も、放課後に時間が合えば来ると聞いていた。
勉強会の輪が、少しずつ当たり前になっている。
「今日も図書室?」
田辺が聞く。
紅秋が頷いた。
「一時間半。昨日の続きと、考査範囲の確認」
圭が小さく呻く。
「一時間半」
「昨日もやっただろ」
「昨日の俺と今日の俺は違う」
「どう違う?」
「今日の俺は疲れてる」
島中が笑う。
「昨日も言ってたぞ」
春樹は静かに弁当を食べていた。
なつきは少し迷ってから声をかける。
「春樹くん」
「何?」
「今日、本の感想も話せる?」
「読み終わった?」
「たぶん放課後までには無理。でも、途中まででも」
「うん」
「勉強の休憩中に、少しだけ」
「分かった」
なつきはほっとした。
春樹が選んでくれた本について、伝えたいことがある。
ゆっくり進む物語。
大きな事件は起きない。
でも、登場人物同士の距離が少しずつ変わる。
最初は気づかないくらい小さく。
でも、振り返れば確かに変わっている。
それが、どこか自分達に似ている。
前にも少し言った。
でも、読み進めるほど、その思いが強くなっていた。
それを春樹に伝えるのは、少し怖い。
同時に、伝えたい。
◇
昼休みの途中、美優と蓮が教室へやってきた。
美優は英語のプリントを持っている。
「今日も勉強会するって聞いた」
圭が頷く。
「する!」
「元気だね」
「今は元気。放課後は分からない」
蓮が笑う。
「正直だね」
美優は春樹の近くに来ると、プリントを見せた。
「春樹、ここ分かる?」
なつきの胸が、ほんの少しだけ揺れた。
美優が春樹へ自然に近づく。
昔から知っている二人。
距離の取り方に迷いがない。
それでも、なつきは目を逸らさなかった。
春樹はプリントを見る。
「これ、紅秋か茜の方が分かる」
「春樹は?」
「分かるけど、説明は紅秋の方が上手い」
紅秋が顔を上げる。
「見せてみろ」
「ありがとう」
美優は自然に紅秋の方へ移動した。
春樹はまた弁当に戻る。
なつきは少しだけ息を吐いた。
何も起きていない。
美優はただ問題を聞いた。
春樹は答えた。
それだけ。
でも、胸は揺れた。
揺れたことを否定せず、そのままにしておく。
それができるようになっていた。
亜衣が小声で聞く。
「大丈夫?」
「うん。少しだけ揺れたけど」
「うん」
「でも、大丈夫」
亜衣は優しく頷いた。
「それなら大丈夫」
美優が問題を教えてもらいながら、ふとこちらを見た。
目が合う。
美優は少しだけ笑った。
なつきも笑い返した。
その瞬間、胸の揺れは少しだけ小さくなった。
◇
放課後。
図書室は昨日よりもさらに人が多かった。
考査前の空気が、校内全体へ広がっている。
普段は部活へ直行する生徒も、少しだけ問題集を開いてから向かうらしい。
カウンターでは祐衣が返却本を処理していた。
「こんにちは」
「祐衣さん、こんにちは」
「今日も勉強ですね」
「うん」
「私も仕事が終わったら合流します」
「英語、またお願いしてもいい?」
「もちろんです」
祐衣は嬉しそうに微笑んだ。
春樹も短く言う。
「白石、英語」
「はい。大國くんは簿記ですか?」
「うん」
なつきはその横で、自然に言葉を続ける。
「春樹くんに簿記見てもらって、あとで祐衣さんに英語教えてもらう予定」
「では、分担ですね」
「うん」
こうして三人で話せることが、もう特別に怖くはなかった。
それどころか、少し嬉しかった。
祐衣の優しさを知っている。
春樹の短い言葉も知っている。
それぞれ違う。
だからこそ、どちらにも助けてもらえる。
◇
奥の席へ着く。
今日は、なつきの隣に春樹。
向かいに亜衣と茜。
少し離れた机に圭、田辺、島中、紅秋、蓮、美優。
美優は紅秋へ英語を聞き、蓮は圭の数学を見ていた。
図書室の中に、複数の小さな勉強の輪ができる。
「横田さん」
「うん?」
「今日は演習」
「うん」
「一人で解いて、最後に見る」
なつきは少し緊張した。
「最初から教えてくれない?」
「分からなくなったら聞いて」
「うん」
「でも、まず自分で」
「……分かった」
春樹は冷たいわけではない。
なつきが自分で解けるようにしてくれている。
それは分かっている。
だから、頑張りたい。
問題文を読む。
条件を確認する。
現金。
手数料。
売上。
貸借。
一つずつ、昨日までの説明を思い出す。
春樹は隣で別の問題を見ている。
近くにいる。
でも、すぐには口を出さない。
その沈黙に、なつきは少しだけ緊張した。
同時に、信じてもらえている気もした。
シャープペンを動かす。
途中で一度止まる。
手数料は費用。
借方。
売上は貸方。
書く。
計算する。
もう一度見直す。
「できた」
なつきは小声で言った。
春樹がノートを見る。
しばらく黙っている。
なつきの心臓が少し速くなる。
「合ってる」
「本当?」
「うん」
「全部?」
「全部」
なつきは思わず笑った。
「できた」
「うん」
「一人でできた」
「うん」
春樹は少しだけ口元を緩めた。
「すごい」
その一言に、なつきの胸がいっぱいになる。
「……ありがとう」
「うん」
「春樹くんが教えてくれたから」
「でも、今日は一人で解いた」
「うん」
なつきは頷いた。
「私が解いた」
「うん」
自分で言えた。
そのことが、問題が解けたことと同じくらい嬉しかった。
◇
一時間ほど経ったところで、紅秋が短い休憩を入れた。
図書室の外の廊下へ出る。
窓の外は、少しずつ夕方へ向かっていた。
圭は壁にもたれる。
「頭が熱い」
田辺が笑う。
「ちゃんと使った証拠だ」
島中も肩を回す。
「俺も昨日より進んだ」
蓮が頷く。
「みんな、少しずつ慣れてきたね」
美優は英語プリントを持ったまま言う。
「紅秋、説明分かりやすかった」
「それはよかった」
「でも少し厳しい」
「考査前だからな」
亜衣が笑う。
「紅秋くん、先生化してる」
祐衣も休憩へ加わった。
「英語組も、あとで一度確認しましょう」
「お願いします」
なつきが言うと、祐衣は頷く。
春樹は窓際に立っていた。
なつきは少し迷い、それから隣へ行った。
バッグから本を取り出す。
春樹が見る。
「読んだ?」
「まだ最後までは。でも、話したいところがある」
「うん」
廊下には他の生徒達もいる。
けれど、みんな少し離れて話している。
なつきは本を胸の前で持った。
「この話」
「うん」
「最初は、何も変わってないように見えるでしょ」
「うん」
「でも、少しずつ会話が増えたり、隣にいる時間が増えたりして」
「うん」
「気づいたら、最初よりすごく近くなってる」
春樹は黙って聞いている。
なつきは少しだけ顔が熱くなった。
ここから先を言うのは、勇気が必要だった。
「なんか」
「うん」
「私たちみたいだなって思った」
言った。
前にも似ているかもと話した。
でも、今度はもう少しはっきり言った。
私たち。
その言葉が、胸の中で大きく響く。
春樹はすぐに答えなかった。
なつきは少し不安になる。
言いすぎたかもしれない。
春樹はそう思っていないかもしれない。
ただ本を選び合って、勉強しているだけかもしれない。
沈黙が少し長く感じられた。
廊下の向こうで、圭が何かを言って田辺達が笑っている。
でも、なつきには遠く聞こえた。
「似てる」
春樹が言った。
なつきは顔を上げる。
「本当に?」
「うん」
「どこが?」
聞いてから、自分で欲張りだと思った。
でも、聞きたかった。
春樹は少し考える。
「最初より話す」
「うん」
「一緒にいることも増えた」
「うん」
「横田さん、前より分からないって言う」
「それは勉強?」
「勉強も。それ以外も」
なつきの胸が鳴る。
「それ以外?」
「嬉しいとか、寂しいとか」
春樹は、ちゃんと見ていた。
なつきが少しずつ自分の気持ちを言えるようになったことを。
「……うん」
「俺も、前より話す」
春樹が続ける。
「横田さんと」
胸がいっぱいになる。
大きな告白ではない。
好きだと言われたわけでもない。
でも、春樹が二人の変化を見ている。
そのことが、なつきには嬉しかった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、やっぱり似てるね」
「うん」
なつきは本を少し強く抱えた。
春樹が選んでくれた本。
ただの物語ではなくなっている。
二人の距離を、言葉にするためのきっかけになった。
◇
休憩が終わり、英語の確認へ移った。
祐衣が中心になり、なつき、亜衣、美優、茜が同じ机へ座る。
春樹は少し離れた席で、圭達の簿記を見る。
なつきは英語のプリントを開きながらも、さっきの会話が胸に残っていた。
私たちみたい。
似てる。
最初より話す。
一緒にいることも増えた。
春樹も、前より話す。
横田さんと。
思い返すたび、顔が熱くなりそうになる。
「横田さん」
祐衣が優しく声をかける。
「大丈夫ですか?」
「あ、ごめん」
「少しぼんやりしていました」
亜衣が横でにやっとする。
「本の感想、深かった?」
「亜衣ちゃん」
祐衣が少しだけ目を細めた。
「大國くんと感想を話していたんですね」
「うん」
「どうでした?」
なつきは少し迷った。
全部を話すのは恥ずかしい。
でも、祐衣にも少し伝えたかった。
「同じ本を読んでも、春樹くんの言葉と私の言葉、違った」
「はい」
「でも、見てるところは少し似てた」
祐衣は穏やかに微笑んだ。
「素敵ですね」
「うん」
「同じ物語を読んで、違う言葉を渡し合えるのは、とても素敵だと思います」
その言葉が、なつきの胸へ静かに落ちた。
同じ物語。
違う言葉。
でも、ちゃんと受け取れる。
春樹となつきの会話も、そうなのかもしれない。
春樹は短い。
なつきは迷いながら話す。
違う言葉の使い方。
でも、少しずつ分かり合えている。
「祐衣さん」
「はい?」
「今度、三人で本の話しよう」
祐衣は少し驚いた。
それから、嬉しそうに頷いた。
「ぜひ」
「春樹くんも」
「大國くんが嫌でなければ」
少し離れた席から、春樹の声が聞こえた。
「いい」
聞いていたらしい。
祐衣が小さく笑う。
なつきも笑った。
「じゃあ、決まり」
◇
図書室を出る頃には、空が夕方の色に変わっていた。
考査前の勉強会。
問題集。
本の感想。
いろいろな言葉を交わした。
圭は今日も疲れ切っていたが、少し満足そうだった。
「俺、今日も成長した」
田辺が言う。
「毎日言ってんな」
「成長は毎日するもの」
島中が笑う。
「いいこと言ってるようで、たぶん何も考えてない」
「考えてる!」
紅秋がノートをしまいながら言う。
「次回までに今日の範囲を解き直せ」
「現実!」
亜衣が笑う。
「圭くん、それも毎日言ってる」
「現実が毎日来るから」
みんなで笑った。
なつきはその輪の中で、春樹の隣に少し近い位置を歩いた。
手には本。
鞄には問題集。
横には友達。
そして、少し離れずに歩く春樹。
「春樹くん」
「何?」
「今日、感想話せてよかった」
「うん」
「最後まで読んだら、また話していい?」
「うん。聞く」
「春樹くんの感想も、もう少し聞きたい」
「考えておく」
なつきは思わず笑った。
「宿題みたい」
「感想の?」
「うん」
春樹もほんの少し笑った。
「じゃあ、宿題」
「分かった」
また、次へ続く言葉ができた。
考査が終わるまで、勉強の日々が続く。
でも、その中には本の話がある。
春樹との会話がある。
祐衣との新しい約束もある。
なつきは黒猫をそっと揺らした。
分からない問題を、隣でほどく。
言葉にならない気持ちを、本の感想に重ねて渡す。
少しずつ。
急がずに。
同じ物語を読みながら、違う言葉を渡し合う。
その積み重ねが、また一歩、春樹の隣へ近づく道になる。
なつきはそう思いながら、夕方の廊下を歩いていった。




