第115話 分からないところを、隣でほどく
中間考査が近づくにつれて、二年十一組の教室には少しずつ緊張が増えていった。
体育祭の余韻は、まだ完全には消えていない。
圭は今でも時々「紅組魂」と言うし、田辺と島中はリレーや綱引きの話になると少しだけ顔つきが変わる。
亜衣は応援合戦の時の動画を見返したいと言い、茜に「今は考査前」と静かに止められていた。
それでも、黒板に書かれた小テストの予定や、先生達の「ここは出ます」という言葉が、確実に教室の空気を塗り替えていく。
「現実が強い……」
圭が机に突っ伏した。
紅秋が淡々と返す。
「現実は強いものだ」
「紅秋、たまには夢を見せて」
「中間考査が終わったらな」
「終わるまで夢なし!?」
田辺が笑う。
「まあ、勉強するしかないな」
島中も問題集をめくりながら言った。
「図書館でやった分、少しはマシだけどな」
「それはある」
圭が顔を上げる。
「俺、問題文を最後まで読むようになった」
亜衣が拍手するふりをした。
「すごい成長」
「もっと褒めていい」
「調子に乗らない」
教室に笑いが広がる。
なつきも笑いながら、机の上の簿記ノートに目を落とした。
昨日、春樹に見てもらった問題。
昨日より少し解けるようになった問題。
そこには、春樹が小さく描いてくれた矢印が残っている。
現金が増える。
費用が増える。
売上は貸方。
何度も見返しているうちに、その矢印はただの勉強メモではなくなっていた。
春樹が隣で、なつきの分からないところをほどいてくれた跡。
そう思うと、勉強のノートなのに少しだけ大切に見えてしまう。
「なつき」
亜衣が隣から覗き込んだ。
「そのページ、何回見てるの?」
「えっ」
「春樹くんの矢印ページ」
「亜衣ちゃん」
「分かりやすい」
なつきは顔を赤くした。
「復習してるだけだよ」
「うん。復習だね。春樹くんとの」
「言い方」
茜が横から静かに言った。
「でも、復習しているのは良いことよ」
「茜ちゃんまで」
「私は勉強の話をしているわ」
そう言いながら、茜の目は少しだけ笑っていた。
なつきはノートを閉じる。
恥ずかしい。
でも、嬉しい。
最近、その二つが一緒に来ることが増えた。
春樹のことになると、胸が忙しい。
けれど、その忙しさに少しずつ慣れてきている自分もいた。
◇
昼休み。
昨日の放課後図書室での復習が思ったより進んだこともあり、次の勉強会についての話がまた出た。
圭が弁当を食べながら言う。
「今日の放課後もやろうぜ」
田辺が眉を上げる。
「珍しくやる気だな」
「中間が怖い」
「正直でよろしい」
島中も頷く。
「俺も少しやる。昨日やったところ忘れたくないし」
紅秋が言う。
「なら図書室だな。長くても一時間半」
「一時間半!」
圭が少し怯える。
「昨日より長い!」
「考査前だ」
「現実!」
亜衣が笑いながら、なつきへ視線を向けた。
「なつきは?」
「行く」
なつきはすぐに答えた。
自分でも少し驚くくらい早かった。
亜衣がにやっとする。
「春樹くんいるから?」
「勉強したいから」
「それも本当」
「それもって」
茜が優しく笑う。
「両方でいいと思うわ」
なつきは言い返せなかった。
両方。
勉強したい。
春樹と一緒にいたい。
どちらも本当だった。
春樹は静かに弁当を食べていたが、なつきの方を見て言った。
「今日、簿記の続き」
「うん」
「あと英語も少し」
「英語も?」
「範囲に入る」
「現実が増えた」
なつきが小さく言うと、春樹の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「増えた」
「春樹くん、最近ちょっと紅秋くんみたい」
「そう?」
紅秋が遠くから反応する。
「現実を見るのは悪いことではない」
圭が肩を落とした。
「現実担当が増えていく……」
笑い声が広がる。
なつきはその中で、春樹の小さな笑みを見つけた。
それだけで、午後の授業も少し頑張れそうな気がした。
◇
放課後。
図書室には、考査前らしい空気が漂っていた。
いつもより人が多い。
自習スペースには数人の生徒が座っていて、ノートを開いたり、単語帳をめくったりしている。
カウンターには白石祐衣がいた。
いつものように落ち着いた表情で本を整理していたが、なつき達を見ると柔らかく微笑んだ。
「こんにちは」
「祐衣さん、こんにちは」
「今日も勉強ですか?」
「うん。簿記と英語」
「考査前ですものね」
祐衣は少しだけ頷いた。
「私もあとで英語を確認します。よければ一緒に」
「うん。お願い」
春樹も短く言う。
「白石、英語分かりやすい」
祐衣は少し照れたように笑った。
「大國くんにそう言ってもらえると、少し緊張します」
「どうして?」
「大國くんも分かりやすいので」
「そう?」
春樹は首を傾げる。
なつきはそのやり取りを見ながら、少しだけ胸が柔らかくなるのを感じた。
春樹と祐衣の会話。
以前なら、小さな痛みが混じったかもしれない。
でも今は、その会話の中に自分もいられる。
祐衣はなつきにもちゃんと目を向けてくれる。
それが分かっているから、怖くなかった。
奥の席へ向かうと、圭、田辺、島中、紅秋、亜衣、茜もそれぞれ席に着いた。
図書室なので、みんな自然と声を落とす。
圭も小声だ。
「俺、今日も図書館モード」
亜衣が小声で返す。
「ここ学校の図書室だけどね」
「細かい!」
「声」
「はい」
田辺が笑いをこらえ、島中が肩を震わせる。
紅秋が時計を確認した。
「まず一時間。途中で五分休憩。最後に分からないところを共有」
「紅秋くん、完全に先生」
亜衣が言う。
「効率のためだ」
「助かるけどね」
なつきは春樹の隣に座った。
昨日よりも、少しだけ自然だった。
まだ緊張はする。
けれど、椅子を引いて隣に座ることに、前ほど心臓が跳ねすぎることはなかった。
その代わり、じんわりと温かい。
春樹が隣にいる。
それが、少しずつ日常に入り始めている。
◇
簿記の問題集を開く。
春樹が言った。
「昨日の続き」
「うん」
「まず、ここをもう一回」
指されたのは、昨日解いた仕訳の応用問題だった。
なつきは問題文を読む。
最初から最後まで。
圭が昨日から何度も言われている「問題文を最後まで読む」が、なつきの中にも残っていた。
「現金が増える……けど、手数料が引かれる」
「うん」
「だから、現金は実際に入った金額で……手数料は費用」
「うん」
「売上は……総額?」
春樹が少し頷いた。
「合ってる」
「本当?」
「うん。次、書いて」
なつきはノートに仕訳を書く。
手が少し震える。
春樹が見ていると、やっぱり緊張する。
でも、昨日より迷わない。
書き終えて、春樹にノートを向けた。
春樹は少し黙って見た。
その沈黙が、なつきには少し長く感じられる。
図書室の静かな空気の中で、シャープペンを握る指先に力が入る。
「合ってる」
春樹が言った。
なつきは息を吐いた。
「よかった」
「昨日より早い」
「うん。少し分かってきた」
「うん」
「春樹くんのおかげ」
春樹は首を横に振った。
「横田さんが解いた」
また、その言葉。
なつきの胸が温かくなる。
春樹はいつも、なつきの頑張りをなつきへ返してくれる。
それが嬉しい。
「ありがとう」
「うん」
◇
少し離れた席では、圭が問題集を前に固まっていた。
「田辺」
「何だ」
「俺、文章は最後まで読んだ」
「えらい」
「でも分からない」
「読んでも分からない時はある」
島中が小声で笑う。
「成長したけど壁はあるな」
紅秋が席を立ち、圭の問題を見る。
「ここは条件を二つに分けろ。一気に処理しようとするから詰まる」
「二つに分ける」
「そうだ」
「紅秋、先生より分かりやすい時ある」
「先生に失礼だ」
「ごめん」
亜衣と茜は英語のプリントを見ていた。
「ここ、関係代名詞?」
亜衣が聞く。
「ええ。前の名詞を説明しているの」
「英語、急に迷路になるよね」
「慣れれば道筋が見えるわ」
「茜ちゃん、言い方がかっこいい」
祐衣もカウンターの仕事が一段落したのか、途中から英語組へ加わった。
「ここは文を区切ると読みやすいです」
「祐衣さん、お願いします」
亜衣が両手を合わせる。
図書室の中に、小さな勉強の輪ができていた。
大きな声はない。
けれど、誰かが誰かに教え、誰かが頷き、誰かが小さく笑う。
その空気が、なつきには心地よかった。
◇
一時間ほど勉強したあと、短い休憩になった。
図書室の外の廊下で、みんな静かに息を吐く。
「頭使った……」
圭が小声で言う。
田辺が笑う。
「でも進んだだろ」
「進んだ。たぶん」
島中も頷く。
「俺も昨日より分かる」
紅秋が言う。
「それなら意味がある」
亜衣は伸びをしながら、なつきを見た。
「なつきは?」
「昨日より解けた」
「いいじゃん」
「うん。嬉しい」
素直に言うと、亜衣は嬉しそうに笑った。
「よしよし」
「子ども扱い」
「成長を褒めています」
茜も微笑む。
「本当に表情が明るいわ」
「そうかな」
「ええ」
なつきは黒猫に触れた。
勉強が分かること。
春樹が隣にいること。
友達が一緒に頑張っていること。
それらが全部、少しずつなつきの背中を押してくれている。
廊下の窓からは、夕方の校庭が見えた。
体育祭の白線はもうほとんど消えていた。
でも、あの日に得たものは消えていない。
紅組で声を出せた自分。
春樹に見つけてもらえた自分。
そして今、分からないところを言葉にして、隣でほどいてもらっている自分。
少しずつ、変わっている。
◇
休憩のあと、英語の確認に入った。
なつきは祐衣、亜衣、茜と同じ机に座った。
春樹は圭達の簿記をもう少し見ることになった。
少し離れる。
けれど、寂しさは小さかった。
同じ図書室にいる。
同じ勉強会にいる。
それに、祐衣と英語を見る時間も楽しみだった。
「ここから読みましょう」
祐衣がプリントを広げる。
声は静かで、図書室によく馴染む。
「この文は長く見えますが、まず主語と動詞を探します」
「主語と動詞……」
なつきは英文を見つめる。
亜衣が小声で言う。
「英語の長文、見た瞬間に心が閉じる」
「分かる」
なつきが頷く。
茜が言う。
「閉じる前に区切るの」
「茜ちゃんも先生みたい」
祐衣が微笑む。
「では、一緒に区切りましょう」
少しずつ文を分けていく。
分からなかった文が、短いかたまりになる。
すると、不思議と意味が見えてきた。
「あ、ここまでで一つなんだ」
「はい」
「そっか。全部まとめて見てたから分からなかった」
「長い文ほど、分けると楽になります」
祐衣の説明は本当に丁寧だった。
なつきは素直に感心する。
「祐衣さん、すごい」
「そんなことは」
「分かりやすいよ」
亜衣も頷く。
「本当。祐衣ちゃん先生」
祐衣は少し照れた。
「ありがとうございます」
なつきはその表情を見て、胸が柔らかくなった。
祐衣とこうして笑えるのが嬉しい。
春樹を通じて知った相手ではあるけれど、それだけではなくなっている。
自分の友達になっていく感じがした。
◇
放課後の勉強会が終わる頃には、みんな少し疲れていた。
けれど、昨日の休日勉強会の時と同じように、悪い疲れではなかった。
圭は問題集を閉じながら言う。
「俺、今日も勉強した」
田辺が笑う。
「毎回言う気か」
「言う。自分を褒める」
島中もノートをしまいながら言った。
「まあ、今日は褒めていいんじゃね」
紅秋が頷く。
「昨日より集中していた」
「紅秋がまた評価してくれた!」
亜衣が笑う。
「圭くん、伸びてるね」
「伸びしろの塊!」
「声」
「はい」
なつきも問題集を閉じた。
春樹が隣に戻ってくる。
「横田さん」
「うん?」
「今日、進んだ」
「うん。春樹くんのおかげで」
「横田さんがやった」
「……うん」
なつきは頷いた。
「私がやった」
自分で言うのは少し照れくさい。
でも、言えた。
春樹は小さく頷く。
「うん」
それだけで、胸が満たされた。
◇
図書室を出ると、廊下には夕方の光が差していた。
いつもの放課後。
でも、少しだけ特別な帰り道。
亜衣が隣に来る。
「なつき、今日かなりいい感じだったね」
「うん。少し分かった」
「春樹くん効果?」
「それもある」
なつきは正直に言った。
亜衣は目を丸くしてから、嬉しそうに笑う。
「認めた」
「うん。でも、祐衣さんにも教えてもらえたし、みんなでやったから」
「うん。それもいいね」
茜も頷く。
「勉強会として良い形になっているわ」
春樹が少し後ろから言う。
「次もやる」
「うん」
なつきは振り返る。
「次もよろしくね」
「うん」
「本の感想も、そろそろ話したい」
「読んだ?」
「半分くらい」
「俺も」
「じゃあ、途中までの感想でもいい?」
「うん」
また一つ、話す理由ができた。
なつきは黒猫をそっと撫でた。
中間考査は不安だ。
勉強は簡単ではない。
でも、分からないところを隣でほどいてくれる人がいる。
一緒に笑ってくれる友達がいる。
少しずつ、自分でもできることが増えていく。
それなら、頑張れる気がした。
夕方の廊下を歩きながら、なつきは春樹の隣に少しだけ近い場所を歩いた。
急がずに。
でも、止まらずに。
君の隣を目指す日々は、今日も静かに続いていた。




