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『君の隣を目指して』――図書室、帰り道、教室――。少しずつ距離を縮めていく、高校生たちの等身大の青春ラブストーリー。  作者: 伊佐波瑞樹


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第114話 月曜日の教室に、休日の余韻を持ち込んで



 月曜日の朝。


 なつきは、いつもより少しだけ早く教室に着いた。


 休日の図書館勉強会が終わって、まだ一日しか経っていない。


 それなのに、昨日のことがもう少し遠い出来事のようにも感じる。


 水戸駅前で集合したこと。


 春樹の私服を見つけた瞬間、胸が跳ねたこと。


 図書館の静かな机で、同じ簿記の問題を見たこと。


 春樹が「できてた」と言ってくれたこと。


 カフェで甘いものを食べながら、みんなで体育祭の話をしたこと。


 そして、駅前で。


 ――また、勉強しよう。


 春樹がそう言ってくれたこと。


 なつきは鞄の横で揺れる黒猫に触れた。


 昨日は学校ではない場所に、この黒猫を連れていった。


 そして今日、また教室に戻ってきた。


 体育祭の時もそうだったけれど、特別な一日が終わったあとの教室は、少し違って見える。


 机も黒板も窓も、何も変わっていない。


 けれど、自分の中に昨日の時間が残っているから、同じ教室なのに少しだけ新しく見える。


「おはよう、なつき」


 亜衣が教室に入ってきた。


「おはよう、亜衣ちゃん」


「昨日の疲れ、残ってる?」


「少し。でも体育祭とは違う疲れ」


「頭使った疲れ?」


「うん」


「分かる。私も昨日、帰ってから単語帳開いたまま寝そうになった」


 亜衣は苦笑しながら席に座った。


「でも、楽しかったね」


「うん」


 なつきはすぐに頷いた。


「すごく」


 亜衣はにやっと笑う。


「春樹くんと同じ机だったし?」


「それも……あるけど」


「あるんだ」


「あるよ」


 否定しなかった。


 亜衣は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。


「なつき、最近ほんと素直」


「亜衣ちゃんには隠せないから」


「よろしい」


 なつきは照れながらも笑った。


 以前なら、こういう話題になると、すぐに否定していた。


 春樹のことを意識していると知られるだけで恥ずかしくて、胸が苦しくなっていた。


 でも今は、少しだけ違う。


 恥ずかしい。


 でも、嬉しい。


 その両方を、少しずつ言葉にできるようになっていた。


   ◇


 教室に生徒が増えていくにつれ、休日勉強会の話題も自然に広がった。


 圭は入ってくるなり、昨日の疲れを大げさに語り始めた。


「俺、昨日めちゃくちゃ勉強した!」


 田辺が後ろから入ってきて笑う。


「確かに、いつもよりはしてたな」


「いつもよりじゃない! かなり!」


 島中も鞄を置きながら言う。


「圭が図書館で小声だったのが一番の成長だろ」


「そこ!?」


 亜衣がすかさず言う。


「大事だよ。圭くん、図書館で叫ばなかった」


「俺は子どもか!」


「体育祭の時の声量を思えば」


「反論できない!」


 紅秋が教室に入ってきて、静かに言った。


「昨日は想定より集中できていた。次も同じ形式なら意味はある」


「紅秋が褒めた!」


 圭が感動したように言う。


「褒めたというより評価だ」


「評価でも嬉しい!」


 教室に笑いが広がる。


 なつきも笑った。


 昨日の図書館でのみんなを思い出す。


 小声で苦戦する圭。


 冷静に突っ込む田辺。


 意外と真面目に解いていた島中。


 全体を管理する紅秋。


 穏やかに支える蓮。


 英語を丁寧に見てくれた祐衣。


 数学で悩みながらも明るい美優。


 そして、春樹。


 なつきの隣で、静かに問題を見てくれた春樹。


 胸が、また少し温かくなる。


   ◇


 春樹が教室に入ってきた。


 なつきは自然に顔を上げる。


 もうそれが習慣になりつつあった。


 春樹を見つける。


 そして、春樹にも見つけてもらう。


「おはよう」


 春樹が短く言う。


「おはよう、春樹くん」


 春樹の視線が、いつものように黒猫へ落ちる。


「今日もいる」


「うん」


「見つけた」


 なつきは少しだけ笑った。


「私も、春樹くん見つけた」


「うん」


 それだけのやり取り。


 でも、教室のあちこちが微妙に反応した。


 亜衣は口元を押さえている。


 圭は何か言いたそうにして、田辺に止められている。


 島中は「もう朝の挨拶みたいになってるな」と小声で呟いた。


 紅秋は春樹を見て、軽くため息を吐く。


「春樹」


「何?」


「そのやり取りが日常化していることに、少しは気づけ」


「挨拶?」


「そういう意味ではない」


 春樹は首を傾げた。


 なつきは恥ずかしくなりながらも、笑ってしまった。


「昨日」


 春樹が言った。


「うん?」


「簿記、復習した?」


「少しだけ」


「えらい」


 不意に言われて、なつきは固まった。


「え、えらい?」


「うん」


 春樹は普通に頷く。


「忘れる前にやるといい」


「うん。ありがとう」


 胸が熱い。


 春樹に褒められると、勉強の話なのに心臓が忙しい。


 亜衣が隣で小声で囁く。


「今の、強い」


「聞こえてるよ」


「聞こえるように言った」


「もう」


   ◇


 ホームルームでは、中間考査の範囲がさらに具体的に伝えられた。


 担任がプリントを配りながら言う。


「昨日あたりに勉強会をした人もいるようですね。非常に良いことです。ただし、一回で満足しないように」


 教室の何人かが、なつき達の方を見る。


 圭が小さく胸を張る。


 亜衣がすぐに小声で言う。


「圭くん、今は胸張らない」


「勉強したから」


「したけど」


 担任が続ける。


「商業科目は積み重ねです。分からないところをそのままにしないこと。特に簿記は、貸借の感覚が曖昧な人は早めに確認してください」


 なつきは思わずノートの端にメモをした。


 貸借。


 昨日、春樹に教えてもらったところ。


 現金が増える。


 売上は反対。


 手数料は費用。


 自分で説明して、春樹に「合ってる」と言ってもらえた。


 思い出すと、少しだけ自信が出る。


 まだ完璧ではない。


 でも、前より怖くない。


 それだけで大きかった。


   ◇


 授業が始まると、教室は少しずつ現実へ戻っていった。


 チョークの音。


 ノートを取る音。


 先生の説明。


 時々、圭が眠そうにして紅秋に小さく注意される。


 田辺が真面目にノートを取り、島中が時々眉を寄せる。


 亜衣が分からないところに印をつけ、茜が横から小さく補足する。


 なつきも、昨日の勉強会を思い出しながら、いつもより集中していた。


 問題の説明を聞いていると、春樹の声が頭の中で重なる。


 ――ここ、逆。


 ――考え方は合ってる。


 ――横田さんが解いた。


 その言葉が、なつきの中で小さな支えになっている。


 授業中、春樹が一度だけ振り返った。


 目が合う。


 なつきはノートを少しだけ見せるようにして、小さく頷いた。


 春樹も頷く。


 まるで、ちゃんとやってる、と言われた気がした。


   ◇


 昼休み。


 勉強会の話は、再び広がった。


「次、いつやる?」


 圭が弁当を開けながら言った。


「早いな」


 田辺が笑う。


「でも中間まで時間ないし」


 島中が頷く。


「もう一回くらいはやりたいな」


 紅秋も同意する。


「必要だろう。昨日だけで終わらせるには範囲が広い」


 亜衣がなつきを見る。


「なつきもやりたい?」


「うん」


 なつきは素直に頷いた。


「昨日、分かったところを忘れたくないし」


 春樹が言う。


「次は演習多め」


「演習……」


 なつきが少しだけ肩を落とすと、春樹は短く言った。


「大丈夫」


「本当?」


「昨日できてた」


 また、その言葉。


 なつきは少しだけ笑った。


「じゃあ、頑張る」


「うん」


 圭が震える。


「春樹がなつきにだけ優しい……」


 春樹は不思議そうに圭を見る。


「圭にも教えた」


「教えてくれたけど!」


 田辺が笑う。


「三浦はまず問題文読めって言われてたな」


「それも優しさ!」


 島中が頷く。


「圭に必要な一番の助言だった」


「みんな言う!」


 笑いが起きる。


 なつきはその輪の中で、春樹を見た。


 春樹も少しだけ笑っていた。


 その小さな笑みを見つけられることが、嬉しい。


   ◇


 昼休みの途中で、蓮と美優、白石祐衣も教室へ来た。


 昨日の勉強会の続きの話をするためだった。


 美優は教室に入るなり、明るく手を振る。


「昨日、お疲れ様!」


 圭がすぐに返す。


「お疲れ! 俺、めっちゃ勉強した!」


「知ってる。圭くん、カフェでずっと言ってた」


「言ってた!」


 蓮が笑う。


「次もやるなら、早めに予定決めようか」


 祐衣も頷く。


「私も参加したいです。昨日、英語の確認ができて助かりました」


 なつきは祐衣を見る。


「祐衣さんに教えてもらえて、私も助かったよ」


「本当ですか?」


「うん。文の流れ、分かりやすかった」


 祐衣は嬉しそうに微笑んだ。


「よかったです」


 美優がなつきの隣に来る。


「横田さん、簿記どうだった?」


「少し分かってきた」


「春樹、短く教えるでしょ」


「うん。でも分かりやすい」


「横田さん、春樹の短さに慣れてきたね」


 美優が笑う。


 なつきは少し照れながら頷いた。


「うん。少し」


 以前なら、この会話に少し胸が痛んでいたかもしれない。


 美優が春樹を昔から知っているように話すことに、苦しくなっていたかもしれない。


 でも今は、その痛みは小さかった。


 美優が知っている春樹。


 なつきが知っていく春樹。


 どちらも大切で、どちらかを否定する必要はない。


 そう思えるようになっていた。


   ◇


 次の勉強会は、平日の放課後に学校の図書室で短くやる案が出た。


 休日に大人数で集まるのは楽しいが、毎回は難しい。


 中間考査までは時間も限られている。


 だから、まずは放課後に一時間だけ。


 分からないところを持ち寄る。


 そのあと、必要ならまた休日に集まる。


 茜と紅秋が中心になって、現実的な予定にまとめていく。


「圭くん、放課後一時間なら集中できる?」


 亜衣が聞く。


「カフェは?」


「ない」


「じゃあ……頑張る」


「えらい」


 田辺が笑う。


「カフェなしでもやる気出せ」


 島中も言う。


「中間で痛い目見るよりマシだろ」


「それはそう」


 圭は素直に頷いた。


 春樹がなつきへ言う。


「横田さん、今日の放課後は?」


「今日は……図書室行けるよ」


「じゃあ、昨日の復習」


「うん」


 自然に予定が決まる。


 それが嬉しかった。


 特別な約束ではない。


 けれど、日常の中で春樹と同じ時間ができる。


 それが、今のなつきにはとても大切だった。


   ◇


 放課後。


 図書室には、昨日の休日図書館とは違う静けさがあった。


 学校の図書室。


 いつもの場所。


 でも、昨日の公共図書館での勉強会を経験したあとだと、ここが少し身近に感じられる。


 カウンターには祐衣がいた。


「横田さん、大國くん」


「祐衣さん、こんにちは」


「こんにちは」


 祐衣は二人を見て微笑んだ。


「昨日の続きですか?」


「うん。簿記の復習」


「頑張ってください」


 春樹が短く言う。


「白石も英語?」


「はい。少し確認します」


 祐衣はなつきへ目を向けた。


「あとで、昨日の続きも少し見ますね」


「ありがとう」


 なつきは嬉しくなった。


 春樹と勉強する。


 祐衣とも勉強する。


 こうして少しずつ、輪が広がっていく。


 奥の席に座り、なつきは問題集を開いた。


 春樹が隣に座る。


 昨日と同じように、問題を見る。


 でも今日は、学校の図書室。


 制服。


 放課後。


 いつもの日常。


 なつきはシャープペンを持った。


「春樹くん」


「何?」


「昨日より、少しできる気がする」


 春樹は頷いた。


「うん」


「でも、間違えたら教えてね」


「うん」


「短くてもいいから」


「短いと思う」


「知ってる」


 二人で少しだけ笑う。


 図書室の静けさの中、その小さな笑いがすぐに消える。


 でも、胸には残った。


   ◇


 問題を解き始める。


 昨日より、手が止まらない。


 まだ迷う。


 けれど、全部が分からないわけではない。


 春樹が教えてくれた矢印を思い出す。


 現金が増える。


 費用が増える。


 売上は貸方。


 少しずつ、線がつながっていく。


「できた」


 なつきが言うと、春樹がノートを見る。


 短い沈黙。


 その間、なつきの心臓が少し鳴る。


 春樹は頷いた。


「合ってる」


 なつきは小さく息を吐いた。


「よかった」


「昨日より早い」


「本当?」


「うん」


「嬉しい」


 素直に言えた。


 春樹はなつきを見て、短く言った。


「俺も」


 なつきの胸が止まりそうになる。


「え?」


「横田さんができると、嬉しい」


 昨日も似たことを言ってくれた。


 でも、何度聞いても慣れない。


 春樹は普通に言う。


 だから余計に、心に残る。


「……ありがとう」


「うん」


 なつきは黒猫に触れた。


 勉強が少し分かるようになったこと。


 春樹が隣で見てくれること。


 その両方が、同じくらい嬉しかった。


   ◇


 放課後の図書室を出る頃、廊下には夕方の光が差していた。


 昨日の図書館から続いた一日が、ここで少し落ち着いた気がした。


「横田さん」


 春樹が言う。


「うん?」


「次も、やろう」


「勉強?」


「うん」


「うん。やりたい」


「本の感想も」


「うん。まだ途中だけど、少し話したい」


「俺も」


 また一つ、約束が増える。


 なつきは胸の奥が温かくなった。


 階段の方から亜衣がやってくる。


「おかえり。どうだった?」


「昨日より解けた」


「おお!」


「春樹くんが見てくれたから」


 亜衣はにやっとする。


「素直でよろしい」


「もう」


 春樹は不思議そうにしている。


 なつきは笑った。


 体育祭が終わり、休日勉強会も終わり、中間考査へ向かう日々が始まっている。


 派手なことはない。


 でも、毎日の中で少しずつ距離が縮まっていく。


 黒猫が鞄の横で小さく揺れた。


 なつきはその揺れを感じながら、夕方の廊下を春樹たちと歩き出した。

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