第113話 静かな勉強会のあとで、甘いものを少しだけ
図書館の時計が、昼に近づいていた。
大きな音はしない。
時計の針が進む音も、周囲のページをめくる音やペンを走らせる音に紛れて、ほとんど聞こえなかった。
けれど、なつきには分かった。
時間が少しずつ進んでいる。
集中している時の時間は、妙に早い。
最初に図書館へ入った時は、まだ少し緊張していた。
休日にみんなで集まること。
春樹と同じ机で勉強すること。
美優や白石祐衣と一緒にいること。
その全部が少し特別で、問題集を開いても文字が浮ついて見えた。
でも今は、違う。
机の上には、書き込みが増えたノート。
丸がついた問題。
間違えたところに引いた線。
春樹が描いてくれた小さな矢印。
祐衣が英語の文法で教えてくれたメモ。
亜衣が「ここ間違えやすい」と書いた付箋。
それらが、ちゃんと勉強会をした証拠として残っている。
なつきはシャープペンを置き、小さく息を吐いた。
疲れた。
でも、嫌な疲れではなかった。
体育祭の時のように喉が熱くなる疲れではない。
頭を使って、少しずつ絡まっていた糸がほどけていくような疲れ。
それが、少し心地よかった。
「横田さん」
春樹が小声で言った。
「うん?」
「休む?」
「うん。少し」
「かなり解けてた」
「本当?」
「うん」
なつきはノートを見る。
自分でも、最初より理解できている気がした。
「春樹くんのおかげ」
「横田さんが解いた」
「教えてくれたから」
「でも、書いたのは横田さん」
短い言葉。
けれど、その言葉に胸が温かくなる。
春樹は、なつきが頑張ったところをちゃんと見てくれる。
できたところを、なつき自身のものとして返してくれる。
「ありがとう」
なつきは小さく言った。
春樹は頷いた。
「うん」
◇
隣の席では、圭が完全に燃え尽きかけていた。
「俺は……やった……」
声は小さい。
図書館だから、圭なりにかなり抑えている。
けれど表情は大げさだった。
田辺が笑いをこらえる。
「まだ中間本番じゃねぇぞ」
「今日一日で三日分くらい勉強した」
島中が問題集を閉じながら言う。
「それは普段やらなすぎなんだよ」
「否定できない!」
蓮が圭のノートを覗き込む。
「でも、最初よりかなり進んだよ」
「蓮……!」
「春樹もかなり見てたしね」
春樹は静かに頷く。
「問題、最後まで読めるようになってた」
圭が胸を押さえる。
「春樹に褒められた」
「褒めてるのか、それ」
田辺が笑う。
「褒めてる」
春樹は普通に言った。
圭はさらに胸を押さえた。
「よし、カフェ行ける」
紅秋が少し離れた席から時計を見た。
「あと十分だけ確認してからだ」
「まだある!」
亜衣が英語のプリントを閉じながら言う。
「圭くん、カフェのために頑張れ」
「頑張る」
美優も少し疲れたように伸びをした。
「数学、頭使った……」
祐衣が微笑む。
「でも、途中式はずっと良くなっていました」
「祐衣、ほんと優しい」
「本当のことです」
茜が全体を見ながら頷いた。
「今日は思ったより進んだわね」
紅秋も静かに同意する。
「騒がずにできたのが大きい」
全員の視線が圭へ向く。
圭は小声で胸を張った。
「俺、静かだった」
「普段比でね」
亜衣が言う。
「普段比!」
小さな笑いが、図書館の空気を乱さない程度に広がった。
なつきも笑いながら、その輪を見た。
紅組も白組もない。
特進も商業も少しだけ混ざっている。
体育祭の熱を引きずりながら、中間考査へ向かって勉強する。
不思議な集まり。
でも、すごく楽しい。
◇
最後の十分は、それぞれ分からなかったところを確認する時間になった。
なつきは簿記の問題をもう一度見直した。
春樹が隣に来て、ノートを覗く。
距離が近い。
何度か同じ机で勉強しているはずなのに、まだ慣れきることはない。
春樹の手元。
シャープペン。
問題集を押さえる指。
そんな小さなものが視界に入るだけで、胸が少しだけ跳ねる。
けれど、前ほど頭が真っ白にはならなかった。
春樹が近い。
それは緊張する。
でも同時に、安心する。
不思議な距離だった。
「ここ」
春樹が指で示す。
「この仕訳、もう一回説明できる?」
「説明?」
「うん。自分で言うと覚える」
「えっと……現金が増えるから借方で、売上は貸方。で、手数料がある場合は……」
なつきはたどたどしく説明する。
途中で少し詰まる。
春樹は何も言わずに待ってくれる。
その沈黙に急かされる感じはない。
言葉を探していい。
間違えてもいい。
そう思える沈黙だった。
「……手数料は費用だから、借方?」
「うん」
「で、差額を見る」
「合ってる」
春樹が頷いた。
なつきはほっと息を吐く。
「よかった」
「覚えてる」
「春樹くんが教えてくれたから」
「横田さんが説明できた」
また、春樹はそう言う。
なつきは胸が温かくなった。
「うん」
今度は素直に頷けた。
「少し分かってきたかも」
「うん」
「中間、ちょっとだけ怖くなくなった」
「よかった」
短い言葉。
でも、それが嬉しい。
◇
勉強会の前半終了を紅秋が告げると、全員が静かに片づけ始めた。
図書館なので、椅子を引く音にも気をつける。
問題集を閉じる音。
ペンケースをしまう音。
ノートを揃える音。
その一つ一つが、静かな達成感に包まれているようだった。
「よし」
紅秋が小声で言う。
「予定通り、カフェへ移動しよう。ただし長居はしない」
「はい!」
圭が小声で返事する。
「小声、上手くなったね」
亜衣が笑う。
「成長した」
田辺が言う。
「図書館で鍛えられたな」
島中が肩をすくめる。
「声量の勉強会でもあったな」
美優が笑いをこらえる。
「圭くん、面白い」
圭は少し得意げだった。
「笑いも取れて勉強もした」
「図書館で笑いを取りに行かない」
茜が優しく注意する。
圭は小さく「はい」と返事をした。
なつきは鞄にノートをしまい、黒猫に触れた。
春樹がそれを見る。
「疲れた?」
「少し。でも、楽しかった」
「勉強が?」
「うん。みんなでやると」
「うん」
春樹は頷いた。
「俺も」
なつきは少し驚く。
「春樹くんも楽しかった?」
「うん」
「そっか」
それだけで、カフェに行く前から胸が少し満たされた。
◇
図書館を出ると、外の空気は少し暖かかった。
静かな図書館の中にいたからか、外の音が一気に戻ってくる。
車の音。
人の声。
遠くで鳴る信号の音。
休日の街のざわめき。
圭が大きく息を吸い込んだ。
「外だー!」
亜衣がすぐに言う。
「声量」
「外だから!」
「でも駅前」
「はい」
みんなで笑う。
図書館からカフェまでは歩いて少しの距離だった。
勉強で固まった体をほぐすように、みんなゆっくり歩き出す。
行きと同じように、自然といくつかの小さな集団に分かれる。
圭、田辺、島中、蓮は前方で勉強の愚痴を言い合っている。
「簿記、少し分かった気がする」
圭が言う。
「少しな」
田辺が返す。
「その少しが大事!」
島中が頷く。
「まあ、家で一人でやるよりは進んだ」
蓮が笑う。
「またやればいいんじゃない?」
「また?」
圭が少しだけ怯える。
「カフェ付きなら」
「圭くん、条件付き」
後ろで亜衣が笑う。
なつきは春樹の近くを歩いていた。
美優と祐衣、茜、亜衣も近くにいる。
休日の街。
学校ではない道。
私服のみんな。
その中に春樹がいる。
それだけで、何度も胸が少し浮く。
「横田さん」
美優が声をかけてきた。
「今日、簿記どうだった?」
「最初より分かった気がする」
「春樹、教えるの短くない?」
美優が笑いながら言う。
なつきも笑った。
「短いけど、分かりやすいよ」
「そっか。春樹らしい」
美優のその言葉に、少しだけ胸が揺れる。
昔から知っているような言い方。
でも、もう大きく沈むことはなかった。
なつきも、春樹の教え方を知っている。
自分に向けてくれる短い言葉を知っている。
「うん。春樹くんらしい」
そう言えた。
美優は少しだけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「横田さん、いいね」
「え?」
「なんか、自然」
なつきの顔が熱くなる。
祐衣も穏やかに微笑んだ。
「大國くんの短い言葉を、横田さんはちゃんと受け取っている感じがします」
「祐衣さんまで」
亜衣が横でにやにやしている。
「いい流れ」
なつきは恥ずかしくなって、黒猫に触れた。
春樹は少し不思議そうにこちらを見ている。
「何?」
「何でもない」
美優と亜衣が同時に言って、祐衣が小さく笑った。
◇
カフェに入ると、昼過ぎの店内はほどよく賑わっていた。
明るい照明。
コーヒーの香り。
焼き菓子の甘い匂い。
小さく流れる音楽。
図書館の静けさとは違う、やわらかいざわめき。
人数が多いので、席は二つに分かれることになった。
大きめのテーブルに、なつき、亜衣、茜、美優、祐衣、春樹。
隣のテーブルに、圭、田辺、島中、蓮、紅秋。
圭は少し残念そうだった。
「春樹となつきの近くで実況したかった」
「実況するな」
田辺が言う。
紅秋も静かに言った。
「カフェでも勉強会の延長だ。騒ぎすぎるな」
「はい」
島中が笑う。
「紅秋、完全に監督だな」
「必要ならする」
蓮が穏やかに笑った。
「圭くんの声量管理役だね」
圭は小声で「管理されてる」と呟いた。
なつき達のテーブルでは、メニューを見ながら少しだけ悩む時間になった。
「何にしよう」
亜衣が言う。
「甘いもの食べたい」
美優も頷く。
「勉強した後だしね」
茜は少し考えて、紅茶にすると言った。
祐衣はカフェオレ。
なつきは迷った末に、ミルクティーと小さなケーキにした。
春樹はコーヒーとシンプルな焼き菓子。
「春樹くん、甘いものは?」
なつきが聞く。
「少しなら」
「じゃあ焼き菓子?」
「うん」
「春樹くんらしい」
言ってから、少しだけ驚いた。
自然に言えた。
美優がにこっと笑う。
「横田さんも言うようになったね」
「えっ」
「春樹らしいって」
なつきは頬が熱くなる。
春樹は首を傾げる。
「俺らしい?」
「うん」
なつきは小さく頷いた。
「静かで、でもちゃんと選んでる感じ」
春樹は少し黙った。
「そう」
「うん」
その沈黙は短かったけれど、なつきには少し特別だった。
◇
飲み物と甘いものが運ばれてくると、テーブルの空気がふっとやわらいだ。
勉強会の緊張が解ける。
ミルクティーの湯気。
ケーキの甘い香り。
カップに触れる指先。
図書館で集中していた頭が、少しずつほどけていく。
「勉強会、思ったよりちゃんと勉強したね」
亜衣が言う。
茜が頷く。
「ええ。良い時間だったと思うわ」
美優がスプーンを持ちながら言う。
「私、数学ちょっと分かった気がする」
祐衣が微笑む。
「途中式を丁寧に書くと、かなり見やすくなっていました」
「祐衣、褒め上手」
「本当のことです」
なつきも言う。
「私も簿記、少し怖くなくなった」
春樹が頷く。
「できてた」
「春樹くん、それ何回も言ってくれるね」
「できてたから」
なつきは照れながらも嬉しくなる。
「ありがとう」
亜衣がカップを持ちながら、にやっとする。
「春樹くん、なつき褒めるの上手くなってる」
「そう?」
春樹が不思議そうにする。
美優が笑う。
「うん。昔はもっと無言だったよね」
「そう?」
「そう」
美優の言葉に、なつきの胸が少し揺れる。
昔の春樹。
自分が知らない春樹。
でも、その揺れは柔らかかった。
美優が知っている春樹。
なつきが今知っていく春樹。
どちらも春樹だ。
比べなくてもいい。
なつきはミルクティーを一口飲んだ。
温かさが喉を通って、胸に落ちる。
◇
隣のテーブルでは、圭が小さな声で体育祭の話を始めていた。
「やっぱり紅組、応援合戦は勝ってたと思う」
田辺が笑う。
「まだ言うか」
「言う!」
島中も頷く。
「まあ、紅組の応援はよかったな」
蓮が穏やかに言う。
「白組もよかったよ」
「もちろん!」
圭はすぐに頷く。
「でも紅組魂が」
紅秋がコーヒーを飲みながら言う。
「魂は中間考査には出ない」
「紅秋、カフェでも現実!」
みんなが笑う。
なつき達のテーブルにもその笑いが届いた。
体育祭は終わったのに、まだこうして話題になる。
けれど、それはもう寂しさだけではなかった。
思い出として、笑いながら話せるものになっている。
「体育祭」
なつきはぽつりと言った。
「終わって寂しかったけど、こうしてまた集まれてよかった」
テーブルの会話が少しだけ止まる。
亜衣が優しく笑う。
「うん」
茜も頷く。
「体育祭がきっかけで、こういう時間ができたのね」
美優が明るく言う。
「紅組と白組、混ざったね」
祐衣が静かに続ける。
「組が違ったからこそ、見えたこともありました」
春樹はなつきを見た。
「横田さん、紅組だった」
「うん」
「声、出てた」
また、その言葉。
体育祭から何度も言われているのに、そのたびに胸が温かくなる。
「うん。頑張った」
なつきは自分で言った。
春樹は頷く。
「うん」
◇
カフェでの時間は、予定通り長すぎないものだった。
紅秋と茜が時計を確認し、勉強会としての節度を保つ。
圭は少し名残惜しそうだったが、今日はちゃんと勉強した達成感があるのか、文句は少なかった。
「次もやろう!」
圭が言う。
「次はカフェ長めで!」
紅秋が即座に返す。
「勉強の進み次第だ」
「条件付き!」
田辺が笑う。
「まあ、次もありだな」
島中も頷く。
「家でやるより進むし」
蓮も言う。
「中間までにもう一回くらいできるといいね」
美優が頷く。
「私もやりたい」
祐衣も静かに言う。
「予定が合えば、ぜひ」
なつきは春樹を見る。
「春樹くんも?」
「うん」
「また教えてくれる?」
「うん」
「ありがとう」
春樹は少しだけ間を置いた。
「本の感想も」
なつきの胸が鳴る。
「うん。感想も」
勉強会。
カフェ。
本の感想。
次の約束がまた一つできる。
それが、何より嬉しかった。
◇
店を出ると、午後の光は少しやわらかくなっていた。
駅前の人通りはまだ多い。
けれど、朝ほどの緊張はもうなかった。
みんなで図書館へ行き、勉強して、カフェで少し話した。
休日の特別な時間が、少しずつ終わりに近づいている。
それぞれ帰る方向が違うので、駅前で解散することになった。
「今日はお疲れ!」
圭が言う。
「声量」
亜衣が最後まで注意する。
「外だから!」
「でも駅前」
「はい!」
みんなで笑う。
美優がなつきに手を振る。
「横田さん、また学校でね」
「うん。美優さん、またね」
祐衣も微笑む。
「本の話、またしましょう」
「うん。祐衣さんも」
蓮が春樹と紅秋に声をかけ、田辺と島中は圭を軽く押しながら駅の方へ向かう。
茜と亜衣はなつきと途中まで同じ方向だった。
春樹は駅へ向かう前に、なつきの方を見た。
「横田さん」
「うん?」
「今日は、できてた」
簿記のことだと分かった。
でも、それだけではない気がした。
「ありがとう」
「うん」
「春樹くんも、教えるの上手だった」
「そう?」
「うん」
少しだけ沈黙。
休日の駅前のざわめきの中で、二人の間だけ静かになる。
「また」
春樹が言った。
「うん?」
「勉強しよう」
なつきは胸が温かくなった。
「うん」
少しだけ勇気を出して続ける。
「本の話も」
「うん」
「またね、春樹くん」
「また」
春樹は頷き、紅秋と一緒に駅の方へ歩いていった。
なつきはその背中を見送る。
黒猫がバッグの横で揺れる。
今日は、体育祭のような大きな出来事はなかった。
でも、確かに特別だった。
同じ机で問題を見た。
分からないところを教えてもらった。
友達と笑った。
カフェで甘いものを食べた。
また勉強しようと約束した。
そういう小さな積み重ねが、春樹の隣へ少しずつ近づいていく道になる。
なつきは黒猫にそっと触れた。
「また、見つけよう」
小さく呟く。
亜衣が隣で笑った。
「聞こえた」
「亜衣ちゃん」
「いいじゃん。なつきらしい」
茜も優しく微笑む。
「少しずつね」
「うん」
なつきは頷いた。
休日の駅前。
図書館帰りのバッグ。
甘いものの余韻。
春樹の短い言葉。
その全部を胸に抱えて、なつきは帰り道を歩き出した。




