第112話 静かな机で、同じ問題を見る
図書館の中は、外より少しだけ涼しかった。
自動ドアをくぐった瞬間、駅前のざわめきや休日の明るい空気が、すっと背中の方へ遠のいていく。
代わりに、紙の匂いと、静かな空調の音と、遠くでページをめくる音が耳に届いた。
学校の図書室より広い。
本棚も高い。
自習スペースにはすでに何人かの学生や大人が座っていて、それぞれノートを開いたり、パソコンに向かったり、本を読んだりしていた。
なつきは思わず背筋を伸ばした。
図書室とも違う。
教室とも違う。
ここは、ちゃんと静かにしなければいけない場所だ。
隣で圭が大きく息を吸いかけた瞬間、亜衣が素早く腕を引いた。
「圭くん」
小声。
「分かってる」
圭も小声で返す。
「図書館モード」
島中が口元を押さえて笑う。
「三浦が小声だと変な感じするな」
「聞こえてるぞ、小声で」
田辺が肩を震わせる。
紅秋が静かに言った。
「まず席を探す。話はそれからだ」
「はい」
圭が素直に頷いた。
その光景に、なつきは少し笑いそうになる。
けれど図書館なので、声には出さなかった。
春樹はいつも通り静かだった。
図書館の空気に自然に馴染んでいる。
祐衣も同じだった。
入口を入った瞬間から、表情が少し落ち着いている。
美優は周囲を見回しながらも、ちゃんと声量を抑えていた。
蓮は全体を見て、自然に人数を確認している。
茜はすでに勉強会の段取りを考えている顔をしていた。
なつきはバッグの黒猫に触れた。
みんなで来た図書館。
春樹と来た図書館。
勉強会。
休日。
その全部が重なって、胸が少しだけ忙しかった。
◇
自習スペースは、完全に全員がまとまって座れるほどは空いていなかった。
けれど、奥の方に四人掛けの机が二つ、その少し隣に二人席がいくつか空いていた。
茜が小声で言う。
「分かれて座りましょう。科目ごとに分かれた方が効率もいいわ」
紅秋も頷く。
「簿記を見る組、英語を見る組、数学を見る組に分けるか」
圭が小声で手を上げる。
「俺、全部不安」
「全部ならまず簿記からだ」
田辺が苦笑する。
「俺も簿記」
島中も言う。
「俺も。商業科だしな」
亜衣がなつきを見た。
「なつきは?」
「簿記……かな」
春樹が静かに言う。
「じゃあ、簿記見る」
なつきの胸が跳ねる。
分かっていた。
昨日から春樹が言ってくれていた。
でも、実際に図書館で、同じ机で勉強するとなると、また違う。
紅秋がすぐに配置を決めた。
「簿記は春樹、横田さん、三浦、田辺、島中。人数が多いからそこの四人机と横の席を使え」
「俺も簿記見る」
蓮が言った。
「春樹一人だと圭くん達で大変そうだし」
「蓮、言い方!」
圭が小声で抗議する。
「事実だろ」
田辺が笑う。
島中も頷いた。
「三浦と俺ら見ながら横田も見るのは大変だな」
なつきは少しだけ申し訳なくなる。
「私、そんなに大変じゃ……」
春樹が首を横に振った。
「大丈夫」
その短い一言で、胸が少し落ち着く。
祐衣は英語を見たいと言い、茜と美優、亜衣がそちらへ回ることになった。
紅秋は全体を見ながら、数学と予定管理役。
結局、最初の一時間は科目ごとに分かれて勉強し、そのあと少し休憩して席を変えることになった。
とても勉強会らしい。
圭は「カフェまで遠い」と小声で嘆いたが、亜衣に「まず勉強」と返されて静かになった。
◇
なつきは春樹の斜め向かいに座った。
同じ机に、春樹、なつき、蓮、田辺。
横の二人席に圭と島中。
机の上には簿記の問題集、ノート、電卓、シャープペン。
図書館の静けさの中で、問題集を開く音がやけに大きく感じられた。
なつきは少し緊張していた。
学校の教室で勉強するのとは違う。
図書館。
休日。
私服の春樹。
同じ机。
それだけで、問題集の数字が少し遠く見える。
「横田さん」
春樹の声がした。
小声だった。
「うん?」
「どこが分からない?」
「あ、えっと」
なつきは慌てて問題集に付箋を貼ったページを開く。
「ここ。仕訳はなんとなく分かるんだけど、貸借が途中で分からなくなる」
春樹は問題を覗き込む。
距離が少し近い。
なつきは息を止めそうになる。
春樹は真剣に問題を見ているだけ。
それは分かっている。
でも、春樹の横顔が近い。
私服の袖。
手元のシャープペン。
ノートに触れる指先。
そんな細かいところまで見えてしまって、なつきの頭が少しだけ勉強から離れそうになる。
「まず、現金が増える」
「うん」
「増えるから借方」
「うん」
「売上は貸方」
「うん」
春樹は短く、でも丁寧に説明してくれる。
なつきは必死にノートへ書いた。
春樹の説明は分かりやすい。
余計な言葉が少ないから、迷いにくい。
けれど、時々短すぎて、なつきが首を傾げると、すぐに言い直してくれる。
「ここ、分からない?」
「うん。なんでこっちに来るのかが……」
「じゃあ、図にする」
春樹はなつきのノートの端に、小さく矢印を書いた。
「お金が入る。だから増える。増える場所はこっち」
「なるほど」
「売った理由は売上。だから反対側」
「……分かったかも」
「じゃあ、次は自分で」
「うん」
なつきは問題を解く。
春樹は黙って待つ。
その沈黙は、緊張するけれど、急かされるものではない。
間違えても大丈夫だと思える沈黙だった。
なつきは一つ仕訳を書き終えた。
「これで……どう?」
春樹が見る。
「合ってる」
「本当?」
「うん」
なつきは小さく息を吐いた。
「よかった」
春樹は少しだけ頷く。
「できてる」
その言葉が嬉しかった。
勉強のことなのに。
ただ問題が一つ合っただけなのに。
春樹に「できてる」と言われると、胸が温かくなる。
◇
横の席では、圭が小声で苦戦していた。
「島中、ここ何?」
「俺に聞くな。俺も分からん」
「田辺ー」
田辺が小声で返す。
「まず問題読め」
「読んだ」
「本当に?」
「半分」
「読め」
蓮が笑いをこらえながら、圭の問題集を覗き込む。
「圭くん、ここは文章の中に答えあるよ」
「文章が長い」
「二行だよ」
「簿記の二行は重い」
島中が肩を震わせる。
「名言っぽく言うな」
図書館なので、みんな小声だ。
けれど、その小声のやり取りが余計に面白かった。
なつきは笑いそうになるのをこらえ、ノートに目を戻す。
春樹もほんの少し口元を緩めていた。
「春樹くん、笑ってる」
なつきが小声で言うと、春樹は少しだけ首を傾げた。
「少し」
「圭くん達、面白いね」
「うん」
その短いやり取りだけで、勉強の緊張が少しやわらぐ。
前の机では、英語組も静かに勉強していた。
祐衣が英文を読み、茜が文法を確認し、美優が時々「これ、どこで切るの?」と小声で聞いている。
亜衣は単語帳を開きながら、時々こちらを見てにやっとしてくる。
なつきは見なかったことにした。
◇
三十分ほど経つと、最初の緊張は少しずつ解けてきた。
なつきは春樹に教えてもらいながら、仕訳の問題をいくつか解いた。
間違えたところもある。
でも、春樹は淡々と直してくれる。
「ここ、逆」
「あ、また」
「でも考え方は合ってる」
「本当?」
「うん。最後の位置だけ」
「そっか」
「惜しい」
惜しい。
その言葉が、なつきには少し嬉しい。
全部だめではない。
もう少しで届く。
そう思える。
「春樹くん」
「何?」
「教えるの、上手いね」
「そう?」
「うん。短いけど、分かりやすい」
「短い」
「あ、悪い意味じゃなくて」
「うん」
春樹は少しだけ考えた。
「横田さん、分からないところをちゃんと言うから、教えやすい」
なつきは少し驚いた。
「そう?」
「うん」
「前は、分からないって言うの苦手だったかも」
「今は言えてる」
その言葉に、なつきは胸が少し熱くなった。
勉強の話。
でも、それだけではない気がした。
分からない。
嬉しい。
怖い。
寂しい。
楽しい。
最近のなつきは、そういう気持ちを少しずつ言えるようになっている。
春樹にも。
亜衣にも。
茜にも。
だから、前より少しだけ進めているのかもしれない。
「……春樹くんが、ちゃんと聞いてくれるから」
なつきは小さく言った。
春樹はなつきを見た。
ほんの少しの沈黙。
図書館の静けさが二人の間に落ちる。
「聞く」
春樹は言った。
「横田さんが言うなら」
なつきの胸が大きく鳴った。
「……ありがとう」
「うん」
それだけで、しばらくノートの数字が見えなくなりそうだった。
◇
一時間が経つ頃、最初の休憩になった。
紅秋が腕時計を見て、小声で言う。
「一度休憩にしよう。集中力が落ちる前に切る」
「やった」
圭が小さく喜ぶ。
「小声でも喜びが大きい」
亜衣が笑う。
全員で図書館の休憩スペースへ移動した。
飲み物を飲める場所で、少しだけ肩の力を抜く。
圭は水を飲んでから、大きく息を吐いた。
「図書館で一時間勉強した俺、えらい」
「声」
亜衣が言う。
「小声!」
「小声でも自分を褒めるのね」
茜が笑う。
田辺がノートを閉じながら言う。
「でも、意外と進んだな」
島中も頷く。
「家だと絶対ここまで集中しない」
蓮が笑う。
「みんながいると、やらざるを得ないからね」
美優が肩を落とす。
「数学、思ったより忘れてた」
祐衣が優しく言う。
「でも、途中式は合っていましたよ」
「祐衣、優しい」
「本当のことです」
なつきはそのやり取りを見て、自然に笑った。
美優と祐衣が並んでいる。
春樹の近くにいる二人。
けれど今は、同じ勉強会の仲間として見られる。
そのことに、なつきは自分でも少し驚いた。
春樹は休憩スペースの端で、ペットボトルのお茶を飲んでいる。
なつきが見ると、春樹もこちらを見た。
「疲れた?」
春樹が聞く。
「少し。でも、分かってきた気がする」
「よかった」
「春樹くんは?」
「大丈夫」
「教えるの疲れない?」
「大丈夫」
「本当?」
「うん」
春樹は少しだけ間を置いて言った。
「横田さんが分かると、嬉しい」
なつきの胸が、また大きく鳴った。
休憩スペースなのに。
みんなが近くにいるのに。
春樹は平然と言う。
「……私も」
なつきは小さく返した。
「分かると嬉しい」
「うん」
亜衣が遠くで完全にこちらを見ていた。
なつきは目を逸らした。
◇
休憩の後、席を少し変えることになった。
今度は英語と簿記を少し混ぜる。
なつきは祐衣と亜衣、美優と同じ机に移動し、英語の確認をすることになった。
春樹は圭と田辺、島中の簿記を見る。
少し離れる。
それだけで、なつきはほんの少し寂しさを感じた。
けれど、すぐに黒猫に触れる。
同じ図書館にいる。
同じ勉強会にいる。
それで十分だ。
祐衣が英文プリントを広げる。
「ここから一緒に読みましょうか」
「うん」
美優がなつきの隣に座る。
「横田さん、英語得意?」
「普通かな。文法は苦手」
「私も」
亜衣が言う。
「私は単語が抜ける」
「みんなで補えば大丈夫です」
祐衣が優しく言う。
その言葉に、なつきは少し安心した。
祐衣は教え方も穏やかだった。
春樹とは違う。
春樹は短く整理してくれる。
祐衣は文章の流れを丁寧に追ってくれる。
「ここは、前の文を受けています」
「これ?」
「はい。だから、この it はこの内容ですね」
「あ、なるほど」
美優が感心したように言う。
「祐衣、先生みたい」
「そんなことありません」
祐衣は少し照れる。
亜衣が笑う。
「でも分かりやすい」
「ありがとう」
なつきも頷いた。
「祐衣さん、すごく分かりやすい」
祐衣は嬉しそうに微笑んだ。
「そう言ってもらえると安心します」
その横顔を見て、なつきは思った。
祐衣とこうして同じ机で勉強できるのが、嬉しい。
春樹に近い人だから怖いのではなく。
自分にはない静けさを持っている人だから、もっと知りたい。
そんなふうに思えるようになっていた。
◇
少し離れた席では、春樹が圭に簿記を教えていた。
圭は頭を抱えている。
「春樹、借方と貸方が俺を挟んで戦ってる」
「戦ってない」
春樹が静かに返す。
「こっちが増える。こっちが減る」
「なるほど」
「問題を読む」
「はい」
田辺が笑いをこらえる。
「三浦、春樹にまで問題読めって言われてる」
「みんな言う!」
島中が小声で言う。
「言われるだけの理由がある」
春樹は淡々と続ける。
「圭は、最初に文章を最後まで読む」
「はい」
「田辺は計算は合ってる。仕訳の名前を確認」
「おう」
「島中は途中で焦らない」
「……分かった」
なつきはその様子を少し遠くから見ていた。
春樹はやっぱり、ちゃんと見ている。
圭のことも。
田辺のことも。
島中のことも。
それぞれの苦手なところを、短く見つけている。
なつきは胸が温かくなる。
自分だけではない。
春樹は、周りをよく見ている。
だからこそ、あの日なつきも見つけてもらえたのだ。
◇
勉強会の前半が終わる頃には、みんな少し疲れていた。
けれど、悪い疲れではなかった。
問題集に進んだ跡がある。
ノートに書き込みが増えている。
分からなかったところに印がつき、分かったところには丸がついている。
圭は疲れ切っていたが、少し誇らしげでもあった。
「俺、今日勉強した」
亜衣が小声で言う。
「うん。ちゃんとしてた」
「カフェ、行ける?」
紅秋が時計を見る。
「予定通りなら、あと少しだけ確認してからだ」
「まだある!」
「ある」
圭は机に崩れかけたが、田辺に支えられた。
「頑張れ。カフェが待ってる」
「頑張る」
なつきは笑った。
春樹が隣に戻ってくる。
「横田さん」
「うん?」
「簿記、あと一問だけやる?」
「うん。やる」
自分でそう言えた。
疲れている。
でも、春樹が見てくれるなら、もう一問頑張れる気がした。
春樹は小さく頷いた。
「じゃあ、これ」
二人で同じ問題を見る。
図書館の静かな机。
問題集。
ノート。
隣に春樹。
向こうには友達の小さな笑い声。
なつきはシャープペンを持ち直した。
体育祭のような大きな声はない。
でも、ここにも確かに熱がある。
静かで、ゆっくりで、少しずつ前に進む熱。
なつきは問題文を読みながら思った。
君の隣を目指す日々は、走るだけではない。
声を出すだけでもない。
こうして同じ問題を見て、少しずつ分かることを増やしていく時間も、きっとその一部なのだ。
春樹が隣で静かに待っている。
なつきは数字を確認し、ゆっくり仕訳を書いた。
「できた」
春樹が見る。
少しだけ間がある。
その沈黙に、なつきの胸が小さく鳴る。
春樹は頷いた。
「合ってる」
なつきは小さく笑った。
「よかった」
その瞬間、勉強会の前半が、なつきの中で少し特別な時間になった。




