第11話:【絶叫】トラックは崖を登る。助手席の獣人は気絶する
「ぎゃあああああああああああああっ! 落ちる落ちる落ちるぅぅぅ!」
車内は、私の一方的な阿鼻叫喚の地獄と化していた。
フロントガラスの向こうに見えるのは、完全に垂直な岩肌のみ。
私たちは今、高さ数十メートルの絶壁の途中で、文字通り宙吊りになっていた。
「どうして! どうして鉄の箱が宙に浮いてるんですかぁぁぁ!」
「……浮いてはいない。フロントバンパーから射出したウインチのワイヤーで牽引しているだけだ。ただの物理的な巻き上げ作業だぞ」
駆さんは、まるでクレーンでも操作しているかのような無表情で、手元のウインチ操作レバーを引いていた。
ギギギギギギギッ!
と、トラックの車重を支える極太のワイヤーが悲鳴を上げている。
「ただの作業って! そのワイヤーが切れたら終わりじゃないですか! まっさかさまに谷底ですよぉぉ!」
「安心しろ。このウインチのワイヤーの耐荷重は10トンだ。2トンの車体を吊り上げるくらい、余裕で安全圏内だ」
「じゃあ、ワイヤーの先のアンカー! あれが岩からスッポ抜けたらどうするんですか! 岩の強度なんて分からないでしょ!」
「……事前の目視で、あの岩盤が火成岩であることを確認済みだ。アンカーは深さ2メートルまで打ち込んである。抜けることはない」
駆さんは淡々と私のツッコミを論破していく。
どうしてこんな異常事態で、そんなに冷静でいられるのだ。
「それに、ただ吊り上げられているだけじゃない。見ろ」
駆さんがアクセルペダルを軽く踏み込む。
キュルルルルッ!
「ひっ!?」
なんと、空転していると思っていた四つのタイヤが、垂直の岩肌にピタリと接地し、力強く壁を蹴り始めたのだ。
「……前輪と後輪のタイヤを壁面に押し当てて、4WDの駆動力で登攀をアシストしている。こうすればワイヤーへの負担も減るし、速度も上がるからな」
「壁を! 壁を走るなぁぁぁぁぁっ!」
私は両手で頭を抱え、座席の上でエビのように反り返った。
重力が背中の方から強烈にかかり、まるで宇宙の彼方へ飛ばされるロケットの中にいるような感覚だ。
呼吸すら苦しい。
「か、駆さん……私、もうダメかもしれません……」
「……どうした。車酔いか。エチケット袋ならグローブボックスの中にあるぞ」
「違いますぅ……重力が……怖すぎて……頭に血が上って……」
私の視界が、ぐにゃりと歪み始めた。
恐怖と、異常な重力のかかり方のせいで、脳に酸素がいかなくなっているのだ。
「……おい、ミオ。しっかりしろ。ナビが寝たら困る」
「ナビは……垂直の壁の案内なんて……できません……」
ふわりと、目の前が真っ白になった。
お花畑が見える。
あ、行商人時代に借金を残して夜逃げした時の、あの大自然の風景だ。
借金取りのおじさんが、なぜか笑顔で手を振っている。
「……あ、お花畑だ……綺麗だなぁ……」
「……ミオ?」
「おやすみ……なさい……」
ガクッ。
私の首が折れ曲がり、意識は完全に深い闇の底へと沈んでいった。
* * *
「……気絶したか」
駆は、白目を剥いて首をダラリと垂れ下げた獣人の少女を一瞥し、短くため息をついた。
「まあいい。騒ぎ声が消えて、これで運転に集中できる」
駆は再び前方を向き、ウインチのレバーとアクセルペダルを巧みに操作し続けた。
トラックは垂直の壁を、尺取り虫のように、しかし確実な速度で這い上がっていく。
やがて、フロントガラスの向こうの岩肌が途切れ、青空が見えた。
「……頂上(尾根)に到達したな」
ガコンッ! という音と共に、トラックの前輪が崖の上へと乗り上げる。
続いて後輪も接地し、車体は完全に水平を取り戻した。
「ウインチ、巻き取り完了。アンカー、パージ」
駆がスイッチを押すと、岩に突き刺さっていたアンカーが自動的に切り離され、ワイヤーがシュルシュルとバンパーの中へ収納されていった。
「さて、荷台の状況はどうだ」
駆はルームミラーで後方を確認する。
荷台の中を監視するカメラの映像が、小さなモニターに映し出されていた。
モニターの中では、特効薬である『世界樹の朝露』が入ったガラス瓶が、プチプチの緩衝材に包まれたまま、ピタリと静止している。
「……温度2度。振動ゼロ。電子制御式エアサスペンションの働きは完璧だな。魔法の薬とやらも、一切の劣化をしていない」
駆は満足そうに頷くと、シフトレバーを操作した。
「ここからは下り坂だ。時間を稼ぐぞ」
ヴァリス山脈の尾根を越えると、眼下にはオルテシア伯爵領の広大な平野が広がっていた。
道なき道であることは変わりないが、木々の隙間を縫って下っていけば、街道を迂回するよりも遥かに早い。
「……長い下り坂でフットブレーキを多用すると、フェード現象やベーパーロック現象を引き起こす。エンジンブレーキと排気ブレーキの併用が必須だな」
駆は独り言を呟きながら、ハンドルの左奥にあるレバーを引いた。
プシュウウウウウッ!
トラックの下部から、圧縮された空気が抜けるような独特の音が鳴り響く。
排気管を意図的に塞ぎ、エンジンの回転抵抗を利用して強力な制動力を生み出す『排気ブレーキ』だ。
急勾配の下り坂。
重さ2トンの鉄の塊が、重力に引かれて猛スピードで転げ落ちそうになるのを、駆は絶妙なブレーキ操作とハンドル捌きでコントロールしていく。
ズザザザザザッ!
時にはタイヤを滑らせながら(ドリフトしながら)木々を避け、時には岩をジャンプ台にして飛び越える。
「……ふむ。なかなか走りがいのあるコースだ。あのクソ女神を轢き殺した時より、アドレナリンが出ているかもしれない」
駆の死んだ魚の目に、微かな高揚の色が浮かんでいた。
傍から見れば、森の中を暴走する狂気の鉄の魔獣である。
そのままトラックは、一直線に山を下り続けた。
* * *
「はっ!」
私は、弾かれたように目を覚ました。
「お花畑! お花畑はどこ!?」
慌てて周囲を見回す。
私は助手席に座っており、シートベルトでしっかりと固定されていた。
フロントガラスの向こうには、猛スピードで後ろへ飛び去っていく森の木々と、オレンジ色に染まり始めた夕暮れの空が見える。
「……おはよう。よく寝ていたな」
隣から、平坦な声が聞こえた。
駆さんだ。
相変わらず、無表情でハンドルを握っている。
「か、駆さん! 私、どうなったんですか!? あの絶壁は!?」
「とっくに越えた。お前が気絶していた時間は約1時間20分。今はすでに山を下りきって、オルテシア伯爵領の平野部を走行中だ」
「い、1時間20分……」
私は信じられない思いで窓の外を見た。
さっきまで見上げていたヴァリス山脈が、今は背後の遠くの方にそびえ立っている。
「嘘でしょ……本当に、道なき山を、一直線に越えちゃったの……?」
「俺が嘘をついてどうする。それより、ナビが寝ているせいで道がわからなかったぞ。あの丘の上に見える建物が、目的地で合っているか?」
駆さんが指差した方向を、私は慌てて確認した。
夕日に照らされた平野の向こう。
小高い丘の上に、城壁に囲まれた立派な街並みと、ひときわ巨大で豪華な館が見えた。
「あ、あれです! オルテシア伯爵領の館! 間違いありません!」
私は歓喜の声を上げた。
「やりました! 到着です! 山越えを成功させたんですよ、私たち!」
「……まだ着いていない。油断するな。現在時刻は16時40分。依頼主の言っていた『夕方』のリミットまで、あとわずかだ」
「大丈夫ですよ! ここからなら、あと5分で着きます! 金貨300枚は私たちのものです!」
私は興奮のあまり、座席の上でバタバタと足を動かした。
土砂崩れという絶望的なトラブルを乗り越え、ついに栄光のゴールが目の前に迫っているのだ。
「特効薬も無事なんですよね!?」
「ああ。荷台のサスペンションが完璧に振動を殺した。品質は出荷時のままだ」
「最高です! 駆さん、一生ついていきます!」
トラックは平野部を猛スピードで駆け抜け、丘の上の伯爵邸へと続く真っ直ぐな道に入った。
「よし。ラストスパートだ」
駆さんがさらにアクセルを踏み込む。
ディーゼルエンジンが唸りを上げ、トラックは時速60キロで丘を駆け上がっていく。
しかし。
近づくにつれて、私はある異変に気がついた。
「……あれ? 駆さん、ちょっと待ってください」
「どうした」
「あの館の入り口……城門が、完全に閉まってませんか?」
私が目を凝らして見ると、丘の上の館へと続く唯一の入り口である重厚な鉄格子の門が、固く閉ざされていたのだ。
それだけではない。
門の前の城壁には、槍や弓を構えた兵士たちがズラリと並び、こちらに向かって何やら大声で叫んでいる。
「……何やら歓迎されているようだな」
駆さんは無表情のまま呟いた。
「歓迎じゃないですよ! あれ、完全に警戒態勢です! 武器を構えてます!」
私は慌てて窓を開け、兵士たちの声に耳を澄ませた。
『敵襲だぁぁぁぁっ!』
『見ろ! 山の方から、凄まじい砂埃を上げて謎の鉄の魔獣が向かってくるぞ!』
『魔王軍の古代兵器だ! 門を絶対に開けるな! 魔法障壁を展開しろぉぉぉ!』
兵士たちのパニックになった声が、風に乗って聞こえてくる。
「か、勘違いされてます! 私たちのトラックを、敵の兵器だと思って完全に守りを固めちゃってますよ!」
無理もない。
土砂崩れで道が塞がっているはずの山側から、見たこともない鉄の塊が爆音を響かせて突っ込んでくるのだ。
誰だって敵襲だと思うだろう。
城壁の上で、魔術師らしき者たちが一斉に杖を掲げた。
『神聖結界魔法、最大出力! 物理・魔法、完全遮断!』
ブゥンッ! という重低音と共に、鉄格子の門の前に、分厚い半透明の光の壁(結界)が出現した。
「わわわっ! 結界まで張られちゃいました! 駆さん、早くブレーキを踏んで止まってください! 誤解を解かないと!」
私は身を乗り出して叫んだ。
しかし、駆さんはアクセルから足を離そうとしない。
「……ミオ。現在時刻を確認しろ」
「えっ? 16時45分ですけど……」
「5時を過ぎたら、納期遅れになる」
駆さんの声が、一段と冷たく、低くなった。
「俺はプロの運送屋だ。停車して、門番に事情を説明し、結界を解除してもらう。……そんな無駄な手続きをしている時間はない」
「え? まさか……」
私は、信じられないものを見る目で駆さんの横顔を見た。
「あの光の壁(結界)の手前に、車を停めるスペースはない。つまり」
駆さんは、ハンドルの中心に右手を添え、ゆっくりと押し込んだ。
ファアアアアアアアアアアアアアアアアンッッッ!!!!!!
本日最大音量のクラクションが、夕暮れの空気を切り裂いて鳴り響く。
「そのまま突破(納品)する。衝撃に備えろ」
「いやあああああああああああああああああっ!!!!」
私の絶叫と共に。
時速60キロの2トントラックは、一切の減速を見せることなく、貴族の館の堅牢な結界と鉄格子の門へと、正面から突撃していったのだった。




