打ち込んだ闇が追う少女。
眠れない夜に、要は李人の言葉と甘いカルピスの香りを連れられてやさしい眠りに誘われた。
それから…何刻か経ち…要の呼吸が、ひんやりとした室内に溶けようとしていたころ…
しかし、要はどこか遠い所にある…自分の意識の片隅で聞いてしまったのだ。
何かが、音を立てて崩れる…終わりの音を。
「…え?」
いつの間にか、赤黒い世界の中にいた要は目を見開いた。
夢の中だからだろうか、うまく身動きのできない自分がいる。
あたりを見渡すと、焼けて爛れた様な木が何本か遠くに見えた。
ハッとなって上を見上げれば、赤黒い空の上で黒い羽を乱したカラスがギャアギャアと、まるで己を警告するように騒いでいる。
異様な光景の中、先ほどから要の耳には大きな建物が崩れるような衝撃音とガラスが割れるような破壊音が響いている。
その音は、まるで大きな生き物のように自分に向かって近づいてくるのを、要は感じていた。
ー 逃げたい…ここから、逃げたい、逃げなきゃ!早く!はやく、!ここから逃げないと!
ー 何かわからないけれど、…追いつかれてしまう!
見えない恐怖、恐ろしいものが迫りくる感覚が要の背中に這いあがるように駆け巡ってくる。
それでも頑なに動こうとしない自分の足に、視線をやると同時に要は「ひぃっ!」と叫んでいた。
自分の足に、黒い血に染まった何かが纏わりついていたのだ。
ぐるぐると要の両足から胴体にまで這いあがってくる悍ましさから、ゾゾゾゾッ…!と鳥肌が立つ感覚が否応なく襲ってくる。
そのとぐろを巻く姿から、要はとっさに己の身を襲うものが蛇だと思った。
それは時折、鈍い光を放ち…しかしドロリと滑るように血の色を這わせていた。
「んぐっ…!」
夢の中なのに、要は思わず鼻と口を塞いだ。
それはこれまで嗅いだことのない悪臭が漂ってきたから。
ー 苦しい…!
息を止めながら、ギュッと眉間に皺をよせる要。
彼女は薄い視界の中で、絶対に吸い込んでしまってはいけない何かがあると、そう強く感じたのだ。
自分の体を下から上へと這いあがってくる黒い蛇のようなものが、ずるずると、要の体を締め上げながらゆっくり上ってくる。
ーこ、怖い! いやだ! やめて! い、痛い!
叫びたいのに、叫べれない。
息を吸いたいのに、それを拒否する本能。
生きることを許されない…その感覚を…要は嫌でも知っていた。
死だ・・・・これは、【死】そのものなんだ。
頭でハッキリそう思った時には、その黒い蛇のようなものは要の首絞め、そして要の目の前で動きを止めた。
「・・・っ、」
見たくないけど、分かってしまった。
死が、自分の目を見ていたのだ。
要は夢の中で震え、泣いた。
死が笑っていたからだ。
自分を見て、とても愉快に笑っていたのだ。
そしてぐわりと口を開いた。
途端に鼻についたのは、肉が腐ったような強烈な匂い。
腐敗色のボコボコした突起のある、先が割れた蛇のような舌…
口の中は爛れて、ボロボロと色んなものが朽ちていた。
前歯には裂くように鋭い獣のような牙があるのに、その奥はまるで不揃いの人間のような歯がボロボロと口の中で落ちて溶けていくのだ。
口の中の濁り溜まった血の中に、ぼちょん、ぼちょん、と歯が落ちてはジュっと音を立てて溶けていく。
その度に、口の奥…闇のような黒い喉から悲鳴のように「イタぃヨ、イタぃ、ヨ」と子供のように幼い声と年老いた老人のような声が混ざった、耳を塞ぎたくなるような呻き声が要の耳元まで届いた。
自分の歯がカタカタと震え嚙み合わさる音が耳元で響いていく。
要には全身を震えることしかできなかった。
ただ、それだけが許されていた。
瞳を瞬かせることも許されず、ぼたぼたと大粒の涙が自分の頬を濡らしていく。
と同時に要の思考が何かに侵されていく。
ぼぅっと頭が揺らいでいく中で要はおもわず考えてしまった。
ー 怖い…やだ…し、しに・・たぃ
【死】の裂けた口元に歪な弧が描かれるのを要が目の端でとらえた時、耳元でまた嬉しそうな声が聞こえた。
【 っ・カまぇ、タぁッ 】
その瞬間、死の頭上にブチブチと裂くような音と共に付きあがったのは大きな対の角だった。
要は今度は叫ぶことを止めれなかった。
その大きな化け物のように奇怪な形の角を、要は知っていから。
幼いころから植え付けられた恐怖。
「きゃああああぁぁぁぁぁっ!!」
「ぁ・あ、ルじ…ァる、ジ、ココ、に、ィル…ヨ」
白いはずの、あの、自分を追いかけてきた、あの、あいつが・・・・なぜ、こんな姿になったのか。
そんなことを思う暇もなく、何本もの角が自分の頭へと振り下ろされるようになるのを見て、要は締め上げられた体を必死の思いで揺らしながら叫んだ。
「いや!嫌だっ!誰か、助けて!!助けてっ!!」
要の目の前で、黒い死が熊のような大きな爪で裂かれるのが見えたのと、甲高い応の自分を呼ぶ声が響いたのは同時だった。
「要ちゃんっ!!しっかりして、要ちゃん!!」
「ぇ、ぁ・・・・応ちゃ、ん?」
要の目の前にあるのは、明るい天井と泣きそうな眼で自分を見つめる応の姿だった。
「要ちゃん、すっごい魘されてたんだよ!」と応に言われるまで、要は自分が先ほどまで夢を見ていたことすら気づけなかった。
ー あれが、夢? あんなに、リアルで、恐ろしい…世界が…
要の混乱する思考とは別に、己の体はいまだにあの死に締め上げられた感覚が残っていた。
急激に息を吸い込んだことで咳込む要を、応は心配そうに背中を摩ってくれた。
「大丈夫、要ちゃん?」
「ゴホっ、だ、大丈夫。ありがとう、応ちゃん。」
「ううん。ちょうど、1階に行こうとして要ちゃんの部屋の前を通りすぎる所だったの。」
「1階に?もう、朝ご飯の準備の時間?」
応の言葉を聞いて、部屋にかけられた時計を目にすると時刻はまだ朝の6時前だった。
空もまだ薄ら暗く、要の部屋の中も応が明かりをつけてくれてなければ真暗かったはずだ。
要が応に「応ちゃん、すごい早起きだね。」と言うと、彼女は「ううん。」と苦笑いで首を振った。
「さっきね、なんか声がしたような気がして。」
「声?」
「玄関の方から扉が開く音と、何人かの足音も聞こえたの。」
「…こんな時間に?」
「気のせいなら、良いんだけど。1階には甲ちゃん達がいるから…ちょっと心配で。」
「一緒に、見に行こうか?」
要がそう応に声をかけた時だった。
階下から「どういうことです!?」と女性の荒げるような声が響いてきたのだ。
要と応が反射的に振り返ったのは、部屋の扉の方。
応が、要の魘された声に慌てて部屋に入った時に扉を閉めることを忘れていたようで、半分開いたままの扉からは、また同じ女性の声が響いていた。
「いま、イズイズの声が聞こえた!」
「え?」
「誰かが、イズイズと話してる!」
「ちょ、ちょっと待って、応ちゃん!」
応が要の前でバッと勢いよく立ち上がると、そのまま駆けるように扉の方へ向かうので、要は慌ててベッドから起き上がった。
要が部屋を出た時には、応は階段の半分を下りきったところだった。
要も慌てて下りようとしたが、なんだか音を立ててはいけないような気がして、足元ばかり見ていた。
そんな時だった、また金切声のような女性の叫び声が響いたのだ。
要と応は分かりやすく肩を震わせると、その声が聞こえた客間の方へと目をやった。
薄暗い廊下とは別に、煌々と明かりがさす畳が敷かれたその部屋でイズモは入り口を背にして正座していた。
要と応は二人で足がつりそうになりながらも客間の方を覗くと、イズモの前に座り声を荒げる持ち主を目にして驚きのあまり目を見開いてしまった。
「イズモ様、これはどういったことですか!?ちゃんと、説明くださりませ!」
「桔梗さん…、」
イズモが口にした女性の名は、あの清照のお付きで傍にいた桔梗だった。
彼女の剣幕はそれは凄いもので、イズモを睨むように見つめ拳を力強く握りしめると、また声を張り上げて叫んだ。
「こんなことは前代未聞です!お姫ひい様になにかあればどうするのです!?」
「そう言われましても、私にも状況がまだつかめずにいまして・・・」
「ここは、あなた様の守地でございましょう!?何が分からないと申すのです!?」
「桔梗さん、落ち着いてください。」
「落ち着けますか、こんな大事な時に!万が一にでもお姫様の身に何かあれば、私の命だけでは償いきれません!」
「それは、私たちも同じ事です。…今、恩地さんと李人に確認してもらっています。あと、少しばかりお待ち願えないでしょうか?」
ー え、今…恩じいと李人の名前も出たよね?
ー 確認って、なに?
ー なにが起こっているの?
どうして昨日、自分たちの前から去った筈の桔梗が早朝から屋敷に押しかけ、叫んでいるのか要には見当がつかなかった。
それでも、あの桔梗の取り乱したような姿と発言で、なにやら只ならぬことが起こっていることだけは伝わってくる。
ただ、あまりにも空気が張り詰めたこの空間に、要も応もどう切り出せばいいか分からず、そして自分たちが入って良い状況なのか分からずに困っていた時、応が小声で「あっ、甲ちゃん!」と口にした。
要が「え?」と口にした時には、応は邂逅の間へと続く廊下に目をやっていった。
甲が自分たちに気づいたのか「応も、要さんも起きちゃったか。」と小声で呟いていたが、それよりも要は邂逅の間の襖の前に見知らぬ2人の人間が座っていることに驚いた。
襖の前で跪座した男女二人組は紺色の袴姿で、要の見間違いでなければ、彼らの右側の足元には日本刀のようなものがある。
ー ようなものって・・・・柄と鞘があれば日本刀やろがい!!?ここ銃刀法違反を重んじるJPAN!!
要が刀と見知らぬ男女を交互に見比べながら突っ込みをいれている間に、応は甲に詰め寄って「これ、どうゆう状況!?ねえ、甲ちゃん!」と彼の黒いルームウェアの袖を引っ張ていた。
甲は応の廊下で冷えた手を取って、「伸びるからやめて。」と静かに言った。
ゆるりとした動きから、どうやら甲は朝に弱いらしい。
しかし、彼はその視線を鋭くさせると「これは、まだ決定事項じゃないから。」と言うと、要と応に向かって「落ち着いて聞いてね。」と続けて言った。
応は甲のいつもと違う空気を察知したのか、彼の目を見て静かに頷いた。
要も慌てて首を縦に振る。
二人の頷いた姿を確認すると、甲はそっとその視線を邂逅の間の方にチラリと移すと「僕も、さっきね。イズ兄と清照さんが話している所を少しだけ聞いたんだけど…」と口にした。
次の瞬間、甲が応の口元を光の速さでおさえた。
彼は応が「え!?いま、清照さんがいるの!?」と叫びそうになるのを察したのだ。
要は甲の反射力に驚くと同時に、邂逅の間の方へとまた視線を戻した。
あの、恐ろしく、美しい、白き人が・・・また自分の近くにいることを知ってなぜだか落ち着かなかった。
激しくなる動悸を落ち着かせようと、己の胸に手をやったとき、甲の静かに息を吸うが聞こえた。
甲の顔には冷え切った汗が浮かんでいた。
応は甲の手を握りしめながら「甲ちゃん?」と彼の名前を呼んだ。
甲は、片割れである応見て、そしてその視線を要に移すと、呟くように言った。
「大変なことになったみたい。」
「…大変な、こと?」
要の声に、甲は小さく頷くと、またその声を震わせた。
「僕たち…全員、この土地に閉じ込められてるみたい。」
朝の光が差し込みだした冷たい廊下に、甲の声が静かに落ちたのだった。




