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涙の痛み

 

 『 目を閉じー、己の息を浅く潜めー、そして、ただ耳を澄ます。 』

 

 それだけで、数多くの呼吸を感じるのだとーある日の君はそう言った。






 この地球上に生きる生物は数数多(かずあまた)


 哺乳類…鳥類…昆虫…植物…人の肉眼では捉えれない微細な生き物も含めれば、この地球は誠に命で溢れ返っている惑星と言えるだろう…



そんな数多い生き物の中で、人間だけが認識する存在がある。


それが、『神』だ。


要は今まで神を見たことがなかった。


勿論これまでの人生で、神社仏閣に足を運んだことはあるし、テレビで自国だけでなく世界の偶像を目にしたこともある。

それは自分たちと同じ人の形を模ったものが多かったが、時には動物を連想させるものもあった。


それでも要は現実で神を見たことはなかった。


闘病生活の中、体を突き刺す痛みに耐えるしかなかった苦痛の時間も、息を引き取りそうになった…あの瞬間でさえ、どんなに祈ろうとも要の目には神様という模った存在を目にすることはできなかった。



 だが、もし本当に神がいるとするならば…それはきっと目の前の人のことを言うのかもしれない。


ーそう…今この時、要は心の底から思った。


白いー、どこまでも白い人。

その顔を、表情を、瞳を見たいのに…目を合わせられない。

それは本能がさせているのだということを、額に汗を滲ませた要はまだ気づいていなかった。


清照の肩からサラリと束になって流れる白い絹糸のような髪。

要は咄嗟にこの者を女性だと判断したが、それは髪の長さや腕の細さだけでの基準であった。


要が短い息を吐きながら、よくよく視線を動かせば、イズモに清照と呼ばれたこの存在は、男とも女とも言える顔つきで、そして先程自分に吐かれた辛辣な言葉さえ低いとも高いとも分別できない声域だった。


ただ言えるのは、透明な存在だと言うことだ。

どちらにも、何にも分類できない…透明な存在。


それが、『 清照 』という存在だった。



ー …この、人は一体誰なの?



『………、』



声を出していないのに、目の前の白き人の息使いを感じるだけで自分の心拍数が上がるのが分かった。

 

それは底知れぬ恐怖からなのか、それとも神に出会えたことへの高揚からなのか分からなかったが、それでも要の耳元には清照の静かな息遣いと、自分の早すぎる鼓動音だけが怖いくらいに響いていた。



そのせいで、イズモがすぐ側まで近づいて来てくれたことに、すぐに気づけなかった。


イズモは、深く静かな暗闇の海の…その波際をそっと泳ぐように清照に声をかけた。



「清照…、もう、こちらに着いていたのですね?」


「……。」


「出迎えに行けず申し訳ありませんでした。いつ頃、こちらに?」


「……。」


「桔梗さんは、ご一緒では無いのですか?」



イズモが清照に話しかけている間も、要は清照から目が離せなかった。

それは目の前の清照が一時も自分から視線を外さないからだった。


目を離した瞬間ー、この細く白い指先が、自分の首元を…命を握りしめてしまうのではないかという恐怖が要の脳裏から離れない。

 

どこまでも透明で…だからこそ今この時、恐怖しか存在しない清照のまるで自分の命の根源を見透かされているようなその瞳を、要は見つめ返せないでいるのに、その視線だけで要の頬は涙で濡れていくのだ。



「……清照?」



返答のない相手に、イズモが心配をしながら要の真横まで近づいてきた。

要の視界にイズモの綺麗にアイロンのかかったシャツが見えた時、要はやっと深い息が吐くことができた。

そっと背中を辿ってイズモの腕が、要の肩を支えてくれたのが分かった。

 要はその腕に持たれるように、今度はゆっくりと息を吸う。



『お前は…』


「っ、…!」



だが、清照の声を耳にしてまた要の肩に力が入ったことが、彼女の肩を支えるイズモに直接伝わってしまった。

 それと同時に、この早まる鼓動と共に体が震えていることもバレてしまっている筈だ。



「清照、待ってください。」



イズモの強く諌める声が上がっても、それでも清照は彼に視線を向けることはなかった。

それどころか、自身の指先を要の喉元から横へと移した。



「ひっ、ぁ、」


「清照っ!!」



きっと今、清照の指先には要の乱れた脈拍が伝わっているのだろうが、そんな事など気にも留めず、清照は言葉を続けた。



『…こやつが、怯え、泣き、喚き、そして逃げるは…知らぬからだ。』


「要さんは、まだこちらに来たばかりで…」


『故になんだ…?』


「全てを飲み込むには、いささか時間が必要かと…」


『それでは、こやつは震え、動かぬままだ。』


「……。」



イズモの自分の肩を支える手に、ぎゅっと力が入るのが要には伝わった。

彼の冷たくなってしまった指先のせいで自分の犯した間違いを要は気づいてしまった。


自分は逃げてはいけない、許されない場所から逃げ出そうとしたのだと。



『お前…』


「…ッ、は…ぃ…」



要の喉が張り付くような声が、動けずにいた李人や応達の耳にも届いた。



『稲佐浜にて、神迎えを見たのだろう?』


「神…迎え?」



清照の言葉を聞いて、要はハッとなってイズモを見た。

彼は要の言わんとすることが分かり、小さく頷いた。


昨夜、イズモと夜の稲佐の浜で見たあの神の来光のことを指しているのだと分かった要は照清の方へと向き直り「はい…見ました…。」と返事をした。



『其方は人神あり…人ではない。』


「……。」


『人でないものが集えば、歪む。』


「ゆが、む?」


『歪んだ世界では…見えぬものが、見える。』


「!」



ー だからあの夜、私は神様たちの光が見えたってこと?



要は自分が見ていた奇跡の要因を知り、そして目線を後ろにいる李人達に向けた。

皆が心配そうに、でも動くことができず息を呑みながら要を見つめているのが見えた。


その中でも、李人の目が今まで見たことないくらい緊張しているのが見える。



『今、この時も同じ。』


「…ゆ、歪んでいる?」


『左様。』


「…要さん、」


「……ご、ごめんさい。もう、だ、大丈夫です。」



清照の言葉はあまりに少なかったが、それでも要には伝わった。

いやまだ本質は見えていないのかもしれない。

それでも明らかに清照は「これぐらいのことで騒ぐな。」と言っているのだと要は分かってしまい、そして急激に己の羞恥心に襲われた。


あまりの自分の情けなさで、要は涙で濡れた頬の冷たさが痛いくらいだった。


自分から知りたいと息巻いたくせに、見たこともないものに遭遇した途端に怯え泣き、李人が何か言おうとしてくれていたのに逃げ出そうとした自分が、どこまでも浅はかで情けなかった。



グッと下唇を噛み締めて要は手に力を込めると、支えてくれていたイズモの腕から背中をあげてその場で座り直した。


自分の手の先は、まだ震えている。


それでも要は清照の前で姿勢を正すと、小さく頭を下げてこう言った。



「…ごめんなさい。私、何も知らずに叫んでしまって。」


「要さん…、そんな」


『イズモ』


「…はい。」


『其方は、緩慢すぎる。…無知が許されるは、乳飲子のみじゃ。』


「…!そんな、清照それではあんまりにも」



清照の無惨な言葉に、イズモが感情的な表情を出したのが要には見えた。

彼は要よりも前に出ようと腕を差し出した。

そしてその瞬間、扉のすぐ側である廊下から女性の厳しい声が響いた。



「離れられませい!」


『桔梗…』



清照に名を呼ばれた女性は、サっとその場で正座し頭を下げると、すぐにイズモへと鋭い視線を投げ固い態度を見せつけた。



「イズモ様、それよりお(ひい)様に近づくこと許されませぬ。」



桔梗の言葉にイズモは自分の伸びた腕を、自身の手で収めた。

そして桔梗が現れてからの清照の表情を見て、イズモは眉を下げた。



「いらしていたのですね、桔梗さん…」



イズモの言葉に桔梗は「ええ。」とだけ簡単に返すと、すぐに身体ごと清照へと向き直り静かに首を垂れた。



「お姫様、迎えが遅くなりすみませぬ。段取りに手まどいました。」


『言い訳は、無用。』


「はい、誠に申し訳ありませぬ。」



深々と頭を下げる桔梗を見ようともせず、清照は要の目の前で音も立てずに立ち上がると『ゆくぞ…』とだけ声を出した。


信じられないことに…なぜだか、要はそんな清照に声をかけていた。



「ま、待ってください!」


『 …… 』



清照は要の声など聞こえないように、元あった廊下の方へとその身を振り返っていた。



「あの、私は、」



要は清照に何を話すつもりなのか自分自身でも分かっていなかった。

そもそも彼女が何者であるかも知らないのだ。

それでも要は、彼女と離れがたかった。

あれほど怖くて震えが止まらなくなる人なのに、今は側から離れるのが堪らなく寂しかった。


このチグハグで自分でも理解できない気持ちが彼女の足に力を入れさせたのか、要が清照の後を追うために立ちあがろうとした時、それでもやはり止めに入ったのは桔梗だった。



「弁えなされ、四国の人神よ。」


「ぁ、」


「目の前におわすお姫様は、通常であればあなたなど声を掛けることはおろか、目にすることさえ許されぬお人なのです。」


「桔梗さん、そんな言い方ないでしょう!」


「イズモ様も大概になさいませ。」


「!」


「あなた方と、お姫様は()()のです。」


「…ちがう?」



要の呟くような声と同時に、部屋の底を一瞬で凍らすような声が地鳴りのように響いた。



【 …セイショウ… 】


「ヒッ!」


「ブイいいいいいいい!!!」



地を這う様な声とブーイの叫び声に要が咄嗟に後ろを振り返った時だった、滝が流れる障子の奥に白い大きな塊が見えた。

それは、要が先ほど目にした同じ白い鱗を纏った大蛇だった。



「何・・・あれ、夢?」



縦2メートルの何枚連なった障子が小さく見える。

その尋常でない大きさの大蛇は、鋭利に裂けた自身の口をぐわりと開けると、舌を這わせながらぐるりと要達のいる部屋の中を見渡した。


部屋の中に入って来ずとも、その視線だけで自分の体など丸呑みれそうな感覚がこの場にいる全員の背に伝わってくる。

それは本当に蛇の体や長く伸びた舌先が、自分の体の上を這う感覚と同じだった。


 叫び声を上げたブーイは可哀想なほどに震え琉宝の腕の中で震えてしまっている。

同じ様に震えて声が出ない応を庇うように甲が睨んではいるが、すぐにその2人を己の背で庇う様に立ちはだかっていたのは恩地だった。


視界の端で、要を包み込む腕が見えた。



「…要、息を止めろ。絶対喋るな。」



気づけば李人の腕の中にいた要は、訳もわからず小さく頷くので必死だった。



【…セイショウ…】


「お姫様は、ここにおりまする…。」



桔梗の声の方が大きい筈なのに、大蛇への恐怖を隠しきれないせいか彼女の声には微塵も覇気が感じられなかった。

しかしその声に反応したのは他でもない大蛇で、桔梗の声を聞くやいなや口の裂け目がパックリと見えるほど口を大きく開き、2本の鋭い毒牙をこちらへ突き立てるような仕草をして叫び出した。




【 ダレガ発言ヲ許シタアァッ!!? 】


「も、申し訳、ご」



桔梗が自身の額を床に擦れるほど押し当て慌てて詫びの言葉を口にするが、そんな彼女を見ようともせずに、照清はなんでもないように言葉を発した。



『オロチよー、案ずるな。我はここにおる。』



清照の言葉に、オロチと呼ばれた大蛇は、尻尾から出していた威嚇音を押さえた。

しかし、急に何かを嗅ぐような仕草をしたかと思えば李人の方を見てニタリと目を細めた。



【…ソイツハ、ダレダ…】



嗅ぎ慣れない匂いがする…そう要の耳にオロチの声が聞こえた途端、李人の腕に力が込められたのが要には分かった。



「…ッ、」



要は叫び出したかった。

そして震えたかった。

いやもしかしたら震えていたのかもしれないが、それが分からなくなる程に李人にきつく抱きしめられていたのだ。


叫ばずにいられたのは、間違いなく李人のおかげだった。

そんな李人の心臓の音が要の耳にも響いた時、清照の声がまたオロチへと届いた。



『其奴は…四国の人神だ。取り合うほどの者では無い。』



なんでも無いようにそう告げた清照の言葉を聞いて、オロチはもう一度李人の腕から見える要を凝視して愉快そうに笑ったのだった。



【ソウカ…ミツカッタカ。ククク…】


『………。』


「…ッ、」



誰も、何も発言できずに長い時間が経った様な感覚に、要は意識が朦朧としそうになった。

自分が今暑いと感じているのか、それとも寒さで凍りそうなのかも分からない。

李人の顳顬から静かに伝ってきた汗の滴が、要の額に落ちた時イズモの動く気配と同時に、清照の律する様な声が部屋中に静かに反響していった。



『もう、ここにいる必要は無くなった…行くぞ、オロチ…』



この言葉に、皆がオロチへと意識を向けたのが分かった。

オロチは清照の言葉に小さな瞬きを返すと【アイ、ワカッタ…】という言葉を残し、その身を一瞬で消したのだった。


続けて「清照!」と彼女を呼び追いかけようとするイズモの声が聞こえたが、要が顔を上げた時には清照も桔梗もその姿を消していたのだった。



「大丈夫か?要?」



やっとその声が李人から自分に向けられたものだと理解するのに、要は少しだけ時間がかかった。

方針状態のまま顔を上げた要は、李人の方を見て力無く返事を返すので精一杯だった。



「うん、だ、大丈夫。」



誰が見ても大丈夫そうにない要に、イズモが急いで駆け寄ってくる。



「怖い思いをさせてすみません、要さん。まさかオロチまで出てくるとは…」



イズモの瞳がまだ僅かに揺れているのを見て、要はあれが自分が見た悪夢ではなく現実に起こったことなのだと嫌でも理解した。

要は震える声で、イズモに声をかけた。



「イズモさん、あれは、あの人は一体…誰なんですか?私、何が何だかまだ理解できてなくて…。」


「落ち着いてください、要さん。」



要は視線を彷徨わせながらも、自分に起こった状況を整理したかった。

それなのに頭の中は混乱するばかりで上手く話せないでいる彼女に、応たちも急いで駆け寄ってきた。



「要ちゃん!大丈夫!?」


「要、大丈夫か!?」


「要ネーネー!」



琉宝の小さな手にも過敏に反応してしまう要を見て、甲は部屋に入ってくる時に持ってきていた水の入ったペットボトルを要へと差し出してくれた。



「要さん、これ飲んでいいから。」



震える手でそれを掴もうとする要の姿に李人は「要、大丈夫だ。もう大丈夫だから」とその細い肩を優しくゆっくり摩りながら言った。

 

要は心配してくれる皆んなの方へ顔をあげると、安心させるように小く笑った。

だが現実には笑うことなどできてはいなくて、代わりに零れたのは恐怖に濡れた涙だった。


その音も立てず零れた要の涙を見て、イズモは悲痛の面持ちをした。

彼は自分の大きな手を要が怖がらいように、そっと彼女の手にのせるとキュッと握りしめて瞳を合わせた。



「要さん、落ち着いて聞いてくださいね。」



要はイズモの唇から紡がれた言葉を、まるでおとぎ話でも聞いたかの様に捉えた。

だって彼はこう言ったのだ。



「清照は…、彼女は僕らと同じこの国の人神です。」


「え?」


「オロチは、清照の…いえ、清照の家に先祖代々使える神の使いなのです。」



要はそう言ったイズモの顔見て、次に応…甲…琉宝…恩地…最後に自分を抱きしめてくれた李人を見た。



誰も、嘘をついている顔には見えなかった。

イズモの言葉が真実であるならば…

それは、清照が…彼女の存在が…有り得る筈のない、



「・・・8人目の・・・人神?」



要の脳裏に、美しく刺繍された白い着物のキレだけが優雅に舞ったのだった。




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