疑心の先に現れた者
要がいなくなってしまった神森家にてー、
いつもなら小気味よい包丁の音や湯気が漂う台所に、今はただ静寂だけが取り残されていた。
台所を任されている静は、いつもの食卓に一人空を見るように座っている…。
彼女はこの神社に嫁として入ってからずっと、朝は日が昇るとともに目覚め、そして己の身を清めると、拝殿へと参拝し、広い境内の掃除を済ませてから、台所に立つ毎日を送っていた。
これも全て高知神社を支えるため、ひいては守地を収める人神様をお支えし守るためだった。
そう、強く信じていた。
だから、先代の人神様が逝去されてしまい悲しみに暮れた時も、次の人神様が中々現れなかった時も、それによって周りの人間から謂れも無いことを言われた時も、己の芯を保つことができた。
やっとの思いで、それこそ念願だった今代の人神である要の姿を目にできた時は、喜びのあまり目に涙が浮かんでしまった。
そんな自分を見て取り乱すように慌てる人神様は、まだあどけない10代の女の子だった。
息子の巽と同い年の女の子は謂わば娘のようなものだったが、静は急いで首を横振った。
ー なんと恐れ多いことを考えてしまったのか。
彼女…、いやこのお方をずっと守っていかなければならない。
それが神森家の宿命だ。
今代の人神様が女性で在らせられるのであれば、それこそ自分が身を削ってでも寄り添い支えていかなければなるまいと…そう、強く思ったのだ。
ただ、まだ親元を離れて不安げな瞳を持つ10代の子に、いらぬ心配や負担をかけない様に人一倍気をつけておかねばなるまい。
美味しいものをお腹いっぱい食べてもらい、気持ちの良い寝具で寝て貰って、学業も安心して取り組めるように算段せねばと奮闘した。
少し気がかりだったのは己の息子のことだったが、時間が経てばなんとかなるだろうと、つい横に置いてしまった。
そんな息子が急に泣きそうな声で叫んだのだ。
「どうしよう!お袋!」
あんなに取り乱した息子の声を聞いたのは初めてだった。
憔悴しきった様子でなんとか自宅に帰り着いた時も、肩をガクリと落としていた。
顔色を青くさせ、小さな声で「ごめん。ごめん、母さん、俺.…どうしよう。」と繰り返すばかり…。
息子の大きくなったと思っていたその肩を優しく撫でて「大丈夫、イズモ様に連絡したから。ひとまずは様子を見ましょう。」となんとかその場を収めはしたが…。
本当の所、1番心が乱れたのは自分かも知れない。
人神様が己の意志でこの守地を去るなんて聞いたことがない。
なぜ?どうして?
ここでの暮らしに、何か不満でもあったのか?
それとも学校で何かあったのか?
それとも、それとも…
考え出せばキリが無いと分かってはいても思考が止められなかった。
行き着く先は、結局自分へと戻ってしまう。
私のせいではないのか…と。
私が要様に… 人神様に不快な思いをさせてしまったのではないか?
口に合わない料理を出してしまった?
行きたく無い場所に誘い出してしまったのではないか?
良かれと思ってきた自分の行動の全てを否定されたこの状況が、静の心を無常に削ぎ落としていく。
なにが…、どれが…、もしや…全てが間違っていたのだろうか?
そんなことをぐるぐる考えあぐねていると、控えめに自分を呼ぶ息子の声が肩を揺らした。
「…母さん、」
「ぇ、」
振り向けば、学生服を着た巽が心許なさそうに立ち竦んでいた…
まるで迷子の子供の様な瞳、大人になったと思っていた息子のそんな顔を見て、静はハッとなった。
気づけば台所から見える食台の近くにある時計の針が、いつもの朝食をとる時間となっていたのだ。
本当であれば今頃は朝ご飯の準備を完了させて、横にはお弁当の用意までできている筈なのに…。
「ごめんなさい!どうしたがやろう…お母さん、なんかぼんやりしちょって…!」
「母さん、」
「ごめんね、巽、今から急いで作るきね!」
「い、いいよ!大丈夫やき!」
「え…、?」
巽の言葉に静は耳を疑った。
いつもなら食べ盛りの息子から耳が痛いほどの小言を貰っている筈なのに、まさかの発言に驚いた。
振り返って彼の顔を見てみれば、息子の方が自分のことを心配そうに見ているではないか。
ー どこか、具合でも悪いのかしら?
そう思って一歩近づこうとした時、巽から小さく前に手を出されて静はその場で動きを止めることとなった。
「ほんとに大丈夫やき、学校行く途中でコンビニでも寄るわ。」
「……そ、そう?」
「うん…じゃあ…行ってきます。」
「うん…行ってらっしゃい。気をつけてね。」
「…うん…」
パタリとドアの閉まる音に、続いて玄関まで歩く音が聞こえてくる。
先程までの巽の姿を思い出して、静は自分が情けなくなって小さなため息を一つこぼした。
ー 息子にまで気を遣わせてしまった…母親失格だわ。
「ハァ……。どうしたら良いがやろう…。」
あるかどうかもわからない答えを求め、静の口からは虚しさが募る問いが止むことはなかった。
そして、それは巽も同じで…。
彼もまた重い足取りで学び舎へと向かうべく家を出ている所だった。
…それは巽が家の車庫から通学用の自転車を出している時だった。
ギャアギャアと、耳をつん裂く様な声が頭上から聞こえてきたのだ。
何事かと思い空を見上げてみれば、彼から見て北東の空に黒い塊があった。
それは、無数のカラスの群れだった。
曇天の空に、その異様な光景はあまりにも不吉めいていて、巽は思わず背筋がブルリとしたが、急いで自転車を道沿いまで持っていくと見ないフリをするように、自転車にまたがり足速に家を後にしたのだった。
今思えば、これは災いが起こる前触れに過ぎなかった。
奇しくも…それに気づいたのは巽だけ。
しかし、彼にはまだこれから起こる大事件に気づいていない。
巽は結局曇天の先とは別の方向に向けて歩みを進めたのだった。
ガサリッー、ガサッー、と険しい藪の中をかき分けながら山の方へと歩みを進める一つの人影があった。
先刻、立ち入り禁止のロープが貼られた領域を易々と越えていったこの人影は、どんどんと奥へと足を運んでいく。
獣道もないような生い茂った草木の中で、それは何かに憑かれた様に雑草を薙ぎ払いながら一進に前へ前へと突き進んでいく。
どれ程に…進んだ時だったかー、
その者の足元には引き抜いた草の蔓や葉、小枝が無惨にも散らばっていた。
そして影の前には大きく太い大量の蔓が這う岩肌が現れていた。
そっとその蔓に触れれば、長い時の中成長したからだろう…手で掴んでも容易には引き抜けそうにないほど丈夫に見える。
一体そこに何があるのか…、一見ただの大きな一枚岩に草木が生え渡っているだけに見えるが、その者は自分の足元をよく見ていたようだ。
なんとその者の足元にあった落ち葉が揺れ動いているではないか。
それはこの蔓で覆われた岩の奥から空気の流れがあることを指していた。
暗い…、仄暗い笑みがそこにはあった。
その人影は今、ある確信を得て腰に下げていた鉈を取り出すと、躊躇することなく人の腕ほどある蔓に向かって振り下ろした。
ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!!!!!!!!!!!
一心不乱に振り下ろされた鉈には、赤黒く錆びた様な何かがこびり付いている。
この異様な光景は、きっと誰か目撃者がいれば息を呑む程の恐ろしい光景だったに違いない。
だが、その者は誰に止められるでなく…とうとう目の前の蔓を全て取り払ってしまったのだった。
そして現れたのは人が一人入れるほどの小さな洞穴だった。
だが、それがただの洞穴でないことは一目瞭然だった。
なぜなら、そこには入り口から何かを出さないための結界とでも言う様に、黒く変色したしめ縄が交差するように洞穴の出入り口を塞いでいたのだ。
それを見た人影の笑みは益々歪に深いものへと変わっていく。
その者は躊躇することなく、その朽ちかけそうな縄に手をやるとブツリ、という音を立てて無情に引き裂いていった。
そして、その手首に嵌め込まれていたものは、どこかで見た事のある赤と白の水引でできた腕輪だったー。
すみませんが、更新予定を変更します
次回更新予定は4月17日です。
読んで下さる読者様、大変申し訳ございません。
(2023年4月10日)




