掴めない人
福井県のとある神社にて。
福井の森の豊かさが、この境内の中にも現れていた。
そこに一歩足を踏み入れると、静寂の中に視界いっぱい緑の世界が広がっている。
なだらかで広い…しかし拝殿まで続く石階段の両脇にめいいっぱい敷き詰められた緑の敷物。
それは無数の苔でできたものだった。
その苔の絨毯が、木々の隙間から差し込まれた陽の光でキラキラと光輝いている。
上へと続く石階段の両脇には大木が静かにそして雄大に立ち並んでいた。
目につく木々は人の胴回りとは比べようもない程に、何倍の太さがある立派な幹を持っていて、地面から生えた苔が自然とその幹の足元にまで苔生している。
足元に広がる苔の美しさから、人の背丈ほどの樹木、そして目線を上げればそこにはそびえ立つ巨木の緑鮮やかに生い茂る樹冠が空を覆っている。
これほどに視界いっぱいの緑を映すことができる場所があるだろうか。
その場で静かに呼吸をしてみると、清らかな空気が体全体に行き渡るようだった。
清々しさを感じながら、拝殿へと向かうために足を一歩進めようとすると、静かな呼吸がどこからか聞こえてくる。
それはまるで、この緑が呼吸しているかのように、ゆっくりと落ち着いたリズム。
「スー…、スー…、」
森の神か、はたまた精霊なのか、大地の息吹のようにも感じられるその吐息は、場違いな電子音によって消されてしまった。
ピリリリリりん!ピリリリリりん!
けたたましく鳴り続ける音に目を向ければ、緑の苔の中に白い素足が見えた。
もしここに参拝客でもいたら目がギョッとさせて「イヤぅそっ!」叫んでいた事だろう。
それはまるで息たえた死体のように体を投げ出して眠っている男性の姿があったから。
長めに伸ばされた黒髪の前髪のせいで表情までは分からなかったが、不機嫌だということは声色で分かった。
「ん、んん…?ん゛あ゛?…だれぇ?」
いかにも怠そうに、寝起きの声を出した男性は自分の苔や土で汚れたズボンのポケットから鳴り続ける携帯電話を取り出した。
ノロノロとした手つきで、スマホ画面を顔元まで持ってくると、そこ表示されていたのは「奥」と書かれた文字。
彼は少しだけ頬を引き攣らせると、ようやく通話ボタンを押した。
するとその瞬間耳元で爆音が広がった。
「こーーーーうちゃん!!!」
自分の耳元でハウリングが起こるのを不快に感じた彼は「五月蝿いよ、奥。」と小さく零したのだが、向こうの相手はそれが聞こえていないのか、それとも気にしてもいないのか、大声で話を続け出した。
「ねえ、ねえ、甲ちゃん!!もう挨拶終わっだ!?終わっでるよね!?」
「…いや、だからうるさ…」
「だよね!!だよね!!じゃあ、今年は二人で一緒に行ごう!!」
「誰も、…終わっとるちゅうって言ってないで…。」
「えええ〜〜!??もう、どうせまた苔ん所で寝とるんだべ!」
「…そうゆん奥こそ、木ん所で寝とるんだろう?」
甲の言葉に、奥は青空を見上げながら「バレたぁ〜!!」とケタケタと声を上げて笑った。
彼女がいるのは樹齢1000年を超えた巨木の盛り上がった根元の上。
まるで竜の背中のように突き上げられたそこは畳2畳ほどの広さがあって、奥が寝転がっていてもまだ余裕があった。
彼女も甲と同じように裸足でダブダブのパーカーを着ているせいか、とてもラフな様子だ。
彼女は己の鮮やかなピンク色の髪を巨木の上に投げ出して、ぐんと左腕を伸ばした。
甲のいる場所とは大分離れた東北の青空に映えた彼女の左手首には、風変わりなバングルが着けられてあった。
よく見てみると、それは水引でできたもので、先日とある人物から送られたものだった。
「ねえ、イズイズちゃんから輪っか貰ったべ?」
「うん…。」
奥に返事を返した甲の左手首にも、それは同じように着けられていた。
甲の返事を聞いた奥は目をキラキラさせてガバリと起き上がると、もう一押しと言わんばかりに声を上げた。
「せばだばっ!!」
「俺は、静かに一人で行く。」
甲の一言でブツリと切られた通話。
奥は「なして!??」と叫ぶと、今度は甲にメッセージを送るために高速で画面をタップした。
もう一度電話しないのは、彼がもう電話に出ないことを知っているから。
彼は子供の頃から静かな場所を探しては、そこで目を瞑り眠っていた。
そんなことを知っているのは、ヒトガミの中でも自分だけだ。
ー電話切らんでよ!
五月蝿い。
ーねえ、一緒にイズイズのところ行こ!
奥も一人で行けば良い。
ー久しぶりに会えるんに…
向こうで会える。
それに、まだ早すぎる。
イズ兄に迷惑だ。
ー大丈夫!
スマホ画面に出た「大丈夫」という大きなキャラクターのスタンプを見て、甲は「何が大丈なんだ。」と溜息混じりで呟いた。
このまま、奥の…姉のメッセージを無視しようかと思った時だった。
ピロリンっと、メッセージの着信を告げる音がする。
やれやれと言う気持ちで、スマホ画面に目を向けた甲は「え、」と言う声を零すといつも開き切らない瞳を大きく瞬かせたのだった。
姉の奥から送られたメッセージはこう書いてあった。
ー 要ちゃんが、もうイズイズの所にいるんだって!!
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「ん…、んん?」
誰かの自分を呼ぶような声が聞こえた気がして、要は意識を浮上させた。
最初はぼんやりと目を開けていただけであったが、ふと何かの気配を察して視線を上に上げてみれば、そこには淡い光を灯したステンドグラスが目に入った。
天井近く、奥まった場所にあるそのステンドグラスは、中央に六角形の二重の亀甲紋があり、その中に剣花菱の模様である美しい花びらが表されていた。その周りにも赤や緑など原色に近い色とりどりのガラスが仄かな光に照らされて見事に装飾されている。
要はそれをただ無心で見つめながら、ほうっと小さく息を吐くと同時に言葉を零した。
「…綺麗…」
なぜ自分が寝起きにこんな素敵なものが見えるのか、いやこれは実は夢の中なのか…そんな不思議な感覚でまだ目線を上に上げたままにしていると、己の耳に存外良い声が飛び込んできた。
「ふふ。それは、ありがとうございます。」
― ?ステンドグラスがお礼をした?
寝ぼけていた要は本気でそう思ったが、声がしたのはステンドグラスとは反対の位置だ。
そこに顔を向ければ、自分が眠っていたであろう布団の横で男性が座ってこちらを見ていた。
まだ、頭が追いつかない要は「だれ?」と言う表情で男性を見つめる。
目があった男性は室内からでも分かる、大樹の幹の様な柔らかいローアンバー色の髪をしていた。
彼は要を見つめてにこりと笑うと「おはようございます。」と言った。
要も寝起きの掠れた声で「おはよう…ございまふ。」と返すと、ようやく自分が知らない男性がいる場所で布団に寝かされている現実に気づけた。
「…え、ぁ、…ほぎゃぁぁぁ!!?」
「おや、元気がよろしい。」
上布団をガバリと跳ね除けて、勢いよく上半身を起こすと彼は嬉しそうに「元気になりましたね。」と喜んでいた。
ーどうもありがとうございま…いや、そうじゃねえ!!
危うく、頭を下げる所だった要はバベべッと頭を高速で振ると、もう一度男性の方を見た。
彼はにこりとした笑顔のまま要を静かに見つめていた。
「あ、あ、あの、私、」
「はい。」
慌てて上手く言葉が出ない要とは違い、とても落ち着いた様子の彼はどう見ても自分より年上のようだ。
彼はアイロンのきちんとかけられた爽やかな色のワイシャツと上品で光沢のあるパンツを着こなしていて、男性服など詳しくない要から見ても「なるほど、品があるとはこう言うことか…てか足長ない!?エグっ!!」と思わせていた。
彼を見てから今の状況を判断しようにも、見れば見るほど全くこれまで縁のないような人だった。
「あれ、私どうしたんだっけ?あれ?なんでここに?」
「覚えてらっしゃらないと?」
「え、あの、はい、えーっと…」
すいません、記憶が迷子で…と申し訳なさそうに頭を下げれば、彼は自分の左手で目元をおさえる様にすると、さめざめと「悲しいです。あなたとは…手を繋いだ仲なのに…。」と泣く仕草をした。
― え?て、手ぇ?
そういえば、左手が何やら温いなと思っていた要は、視線を下にやる。
そこには大きな筋ばった手が自分の手を握って包み込んでいるではないか。
「ギヤぁぁぁぁ!!て、手が!?」
「安心してください。溶けていませんよ。」
― だから、そうじゃねぇ!
もう一度叫び出しそうになった要だったが、この状況に直ぐに既視感を覚えた。
前はこんな穏やかなものでは無かった。
彼は要にメンチを切って怒鳴ったのだ。
「!あの、」
「はい。思い出していただけましたか?」
「いえ、全然これっぽっちも。そ、それよりも!」
ぎゅっと、要の手に力が入ったのを目の前の彼も当然気づいたが、彼は要の言葉を親切に待ってくれた。
だから、要は少し震える様な声でもちゃんと聞くことができた。
「あなたは… 人神…なんですか?」
少し怯えの混じる要の目をまっすぐに見た彼は、またニコリと笑って「はい。」と柔らかく返事をした。
「私は、イズモと申します。この中国地方を守地とさせて頂いております。」
「中国地方…私、岡山で…!」
そこでようやく、要は思い出すことができた。
学校での辛い出来事、下校途中で巽に言われた言葉、そして化け物との遭遇。
ボロボロになった自分が乗った列車の行き先も。
「はい、大変危険な状態でした。でも連絡を頂いた時に、ちょうど私が広島の用事の帰りで岡山の地にいたんですよ。」
「…そうですか。」
「ふふ、あなたは運が良い。」
「…。」
果たしてそれは本当に運が良かったと言えるのだろうか…?
そう要は真っ先に思った。
あのまま、誰にも見つけられることなく、全ての任から解放された方が良かったのでないかと思ってしまったのだ。
それが例え“生きる”という任だとしてもだ。
要の暗い思惑など気づいていないのか、目の前のイズモは嬉しそうな表情で要の肩にそっと手をやった。
「高知の神森家から連絡があった時は驚きましたが、こんなに早くあなたとお会いできるとは。」
「…私のこと、知ってるんですか?」
イズモの長く綺麗な指先を見つめていた要だったが、自分を知っている様な彼の口振りに思わず顔を上げた。
彼は驚く要の顔を見つめると、また同じように顔を綻ばせた。
「勿論。この業界であなたのことを知らない人はいないんじゃないでしょうか?」
「なんで…?」
「なぜ?李人から聞いていないのですか?」
「李人…さんを知ってるの?」
イズモの口から自分も知っている人物の名が出て要は驚いた。
冷静に考えれば、イズモもまた同じ人神であるのだから当然といえばそうなのかもしれないが、それでも要にとってその名前はとても安心するものとなっていた。
イズモにも、要にとって李人は気が置ける人物なのだとすぐに分かった。
それは先程まで顔を強張らせていた彼女が目に見えて力を抜いたから。
だから、イズモは自分は要にとって安全な人間だと言う意味も込めて、彼女の問いに首を縦に振ったのだ。
「勿論。李人とは彼が子供の頃からの知人になります。彼は誰よりもあなたを探すために尽力を注いでおりましたよ。」
「…そう、ですか。」
要の記憶の中で李人の表情が鮮やかに蘇える。
お前をずっと探していた…、彼の言葉は嘘では無かった。
誰からも必要とされていなかった要にとって、いつしか李人の言葉はまるでお守りかのように胸の奥で蛍火のように柔く光っていた。
なのに…、今はそれがとてつもなく辛い。
― 李人が必死で探し出して…せっかく送り出してくれたけど…私は、そこから逃げ出してしまった。
勿論、要は李人にそんなことを頼んだわけではない。
要自身、こんな未来が起こるなんて思っても見なかった。
でも、李人は…彼は自分に生きろと言ってくれた。
例えそれがこの国のためであろうと、なぜか彼の言葉は要の心に真っ直ぐに刺さったのだ。
彼の透き通るようなのような深い青の輝きをもつ瞳が、要をずっと探し求めていたのは、要になんでもない明日を紡がせるための様に思えたから。
そんな彼からも逃げたような気がして、要は空いている右手をぎゅっと心苦しそうに握り締めた。
無意識に下に俯いてしまった要を見たイズモは、それでも雰囲気を変えるように要に言葉をかけた。
「…今度はあなたの名前を伺っても?できれば、あなたの口からちゃんとお名前を伺いたいのです。」
イズモの声に要はハッとする表情を浮かべると、あわあわと分かり易く狼狽え始めた。
「あっ!あの、すみません、私、要です。上盛要です。」
「ふふ、よろしくお願いします。要さん。」
イズモは顔を上げた要にそう言うと、繋いだままの手をぎゅっと握って少しだけ縦に振った。
どこまでも笑みを絶やさない彼に、要は今の自分の状況をもっと詳しく聞きたかった。
自分が逃げ出して、神森家には迷惑をかけた筈だ。
あちらが今、どんな状態なのか今になってとても気になってしまった。
「はい、よろしくお願いします。あの、イズモさん」
「ほら、あなたも挨拶しなさい。」
― え?挨拶?あなたもって?
要がイズモの言葉に首を傾げた時だった、掛けられた布団の足元で何かが跳ねた衝撃があったのだ。
なんとそこに小さな白い物体が鎮座していた。
「え?…わぁ!?布団の上にう、ウサギ!?」
最初起き上がった時は、白い布団と同化して気づけなかったのか、そこには黒い大きな瞳を持った子兎が要の方をじっと見つめていた。
驚く要を他所に、イズモは慣れた手つきで子兎を撫で始めた。
「はい、ペットのコナです。」
「こな、ちゃん?」
「正式には粉雪です。白いので。」
「ああ、なるほど。」
イズモの言う通り、小さな子兎は粉雪のように真っ白で目を細めて撫でられている姿に、要は胸がキュンとさせられてしまった。
― か、可愛い…。
「私も撫でてみても良いですか?」と要が言おうとイズモの方へ顔を向けると、彼は嬉しそうにこう言い加えてきた。
「因みにコナの父親がドカで。母親がササメです。」
「…ドカ雪、細雪。」
きっと大きいウサギと、ほっそりとしたウサギなんだろうな…と要は遠くを見たが、イズモの「可愛いでしょう?」と言う嬉しそうな言葉に、彼の名付けのセンスに口を挟むのは止めておこうと思った。
冷静を装うように「異論ありません。」と返事を返せば、またイズモは嬉しそうに「良かったです。」と笑った。
― なんだか、変わった人だな。イズモさんって…。
要がそんなことを思いながら、自分の方へと近づいてきたコナを撫でていると、イズモは小さく咳払いをして要に声をかけた。
「先程の話の続きですが…私や李人だけでなく、他の人神にもあなたのことは知れ渡っています。」
「他の… 人神。」
― 李人さんと、イズモさん…そして、あと4人…
「はい。あなたは四国の守地を治める…先代がお亡くりになる前から行方不明でした。そのため政府の通達は毎日のように私の方にも届いておりました。新しき四国の地の人神の捜索を願うと…。
そして、10年以上も続いた捜索の末に…先日李人から見つかったと聞いたときは皆が安心しました。」
「李人…さんが。」
「ええ。」
なんでだろう、李人の名前を聞くたびに要は泣きそうになる。
自分を見て悪態をついた彼、ヤンキーと言えば怖いぐらいメンチきって怒鳴ってきて、見た目は悪くないのに、制服も砕けた着方をするからだらしなく見える。
なのに、どうしてだろう…彼の隣にいる空気はとても居心地が良かった。
怒られてもいい。
そう思えるくらい要は無性に、李人の声が聴きたくなった。
「あの、私。」
「要さん、」
「はい!な、なんでしょうか?」
「手を離してみても大丈夫でしょうか?」
「!!すみません!いつの間にか繋いでおりまして!他意はないんです!決して!変態では」
指摘されて己の手を見れば、要の意識が戻ってからも繋ぎ続けていたイズモの掌が見える。
気を失ってから握られてものだから、勿論要の意志ではない。
だが彼女は目の前の綺麗な男性を傷つけない様になのか、変な気の使い方が出てしまったようだ。
変態疑惑を打ち払うために必死の形相をする要の顔を見て、イズモは笑いを堪えることができなかった。
「ふふふ、落ち着いてください。大丈夫ですよ。私から握ったんですから、ふふふ。」
出雲は左手で口元を押さえながら笑いを我慢している様だが、要の顔が面白すぎてもう彼女の顔を直視できなかった。
要を見ないように顔を背け「ヒー… !」と小さく笑い声を漏らすと、まだ肩を大きく揺らしていた。
「…わ、笑わないでください!」
これには要も羞恥心を抑えられずに抗議を申し立てれば、イズモは「んっ、失礼。」と要の方へと顔を向き直した。
「すみません。とても可愛らしくて、ふふ。」
「か、揶揄わないで下さい。」
「からかって無いですよ?では、手を離しますね。」
絶対揶揄われている…と思いながら要はイズモの大きな掌を見つめた。
ゆっくりと離された先にある自分の手には、絆創膏やガーゼで傷口を処置してくれたあとが見えた。
要は自分の掌を見ながら、恐る恐る何回か握ってみたがそれほどに痛みはないようだ。
「どうですか?」
「え?」
「息苦しさや、動悸を感じますか?」
「あ、いいえ!全然平気です!」
「ふふ、それはよかった。」
「あの、手当してもらってすみません。」
要が深々とお礼する姿を見てイズモは「いいえ、お礼を言う程のことではありませんよ。」と目を細めた。
イズモはどこまでも優しかった。
李人とは起き抜けに何回か怒鳴られた記憶しかないから余計にそんなことを思うのかもしれないが。
― 傷口…沁みないといいな。
要はそんなことを思いながらも二人だけの空間が気になって、何か話題を広げようとイズモに声をかけてみた。
「えーと、イズモさんは何歳なんですか?」
「22歳で大学生です。」
「大学生。」
「はい、ちなみに野球は広島がファンなんです。」
「ごめんなさい、私、あんまり野球詳しくなくて…ですね。」
せっかく彼から話題を振ってくれたのに、うまく返せない自分がとことん嫌になる。
これだから学校でもうまく立ち回れなかったのでないかと、要は自己嫌悪に陥りながら肩を落とした。
だから、そんな彼女を見つめていたイズモが少しだけ瞳を鋭くしたのにも気づけなかったのだ。
イズモはスッと音も出さない滑らかな動きで要に近づくと、両手で彼女の顔を包み込んだ。
「ふふふ、良いんですよ。顔を上げてください。」
「うあ、」
「で、目はこっちを見て」
急に持ち上げられた自分の顔。
驚いた視線の先にイズモの端正な顔がある。
イズモの透き通った瞳の中に、目を見開き驚いた要の顔が写り込んでいた。
要の心臓が高速ドラムの様にドゴココ!!!とパッションし始めた。
「ぎゃっ!あっ、あぇ!あのぅ!!」
「ちゃんと、こちらを見て下さい。」
「ヒャ、ヒャいっ!」
顔が自分でも急激に熱くなるのを感じて、要は目を閉じたいのに閉じられない状況に涙が出そうになる。
そんな彼女とは対照的にイズモは無表情のまま、要の目の奥を見つめるとなんでもないように口を開いた。
「要さん、」
「な、なんでございましょう!?」
イケメンの前で白目にだけはなりたくない!と必死に眉間に力を寄せていた要はいつしかの李人の様にメンチを切っていたのだが、彼女はそんなこと勿論気づいていない。
それよりもすげぇイケメンに見つめられているという…この状況に耐えられない要は意識を別に逸らすために「なんかイズモさんから良い香りがする、くそ!女子か!?」と脳内で叫んでいた。
「しばらくの間ですが、要さんのことをこちらで預かることにしました。」
「…え?…今、なんて?」
― 預かるって言った?…私のことを!?
― え、聞き間違いじゃなくて?
「この地を収めるヒトガミとしては魅力ある中国地方の様々な場所をご案内したいところなのですが…」
― 案内…ここって、私が倒れた岡山県なの?それとも広島?
「この時期は残念なことに時間がありません。本当に残念です。」
「はあ。」
― あれ今、ここはどこなの?
「なので、まずはこの出雲のことを少しでも知って貰える様にご案内しますね。」
「イズモさんを?」
「いえいえ、この出雲の土地をですよ?」
― 土地…出雲の土地?
― 今更ですが、私が寝てるところって……すごっく広くない!?
― っていうか、なにあれ、祭壇!?
要は己がいかに愚鈍かが身に染みた。
なぜならイズモの後ろにある締め切られた御簾の奥に祭壇なるものが見えたからだ。
ならばここは、間違いなく神社の本殿の中である。
もう経験上…いや、まだ2回目だが間違いなくここは名だたる神社に違いなかった。
「同じ名前でややこしくてすみません。」
イズモさんが、言ったのだ。
日本でも有名な神社の名前を。
「え、ここって出雲?」
「はい。」
「し、島根県?」
「お詳しいですね。」
「も、もももも…」
「桃?」
桃は岡山県が名産ですよ、と小首をかしげるイズモの目を見ながら要は3回目の「だから、そうじゃない!」と心の中で叫んだ。
もう別の意味で冷や汗が止まらない。
― もしかして私、だいぶヤバイところにいるんじゃない!?
「あのっ!ここってあのしめ縄で有名な所ですか!?」
「!ふふふ、正解です。」
ニコリと笑ったイズモは、まだ要の顔を包み込んだままだ。
だが、要はそんな彼の腕をガっと掴むと「おお…おい、お暇します!こんな恐れ多いところにいられません!!」と顔を青くさせた。
震える要を見ながら、イズモはなんでもないように首を振ると「ここは神楽殿。結婚式でも使われるような所なので、そんなに畏れなくても大丈夫ですよ。」と口元を緩めた。
「あの、よくテレビで映るところ。」
「はい、よく本殿と勘違いされる方もおられる様でして。」
「そ、そんな由緒ある厳かな場所に…一般人の私が…」
「一般人…ですか?」
「だって、私は、」
― ただの、人間だもの。
そう、目の前の彼に言おうとした時だった。
イズモの目の奥に、鋭い刃物の切っ先の様な光が見えた。
その冷たい光が外すことの許されない瞳を通して要の奥底に突き刺さった様だ。
まだ残暑が残る暑苦しい季節の中で、異様な寒気が体中に駆け巡る。
― 息が寒い。なんで?イズモさんが怖い。
「要さん、この日の本の国に神社ってどれ位あると思います?」
「え?」
「なんでもない質問です。気軽に答えて下さい。」
突然のイズモからの質問に意表をつかれた要は最初なにを言われたのか分からなかったが、目の前の彼に逆らうことはもう許されないように必死で返答を口にした。
「あー、えーと、5000…くらい?」
「答えは8万社です。」
「は、はちまん!?」
要の反応に僅かに口元が緩んだイズモだったが、彼の目は笑っていなかった。
イズモは要を見下ろしながら話の続きを淡々と進めていく。
「これも正確な数とは確証できないので、もしかしたらもっと多いのかもしれません。」
「す、すごい。」
「ふふ、そしてこの国に存在する人神は…僅か7人だけです。」
イズモの、彼の瞳に、自分の命が掌握される感覚。
要は自分の頬に伝う冷たい雫が、自分の涙なんだとようやく気づいた。
「…そ、」
「その中の一人が…あなたなんですよ、要さん。」
「そ、れは。」
イズモの掌が、ようやく要の頬から離されて冷たい空気が彼女を包み込んだ。
彼の長い綺麗な指先によって要の涙が優しく拭われるのを、茫然と見つめるしかなかった。
「人神…要様。」
「イズモさん…。」
「ようこそ、この出雲の地に。」
要は、混乱していた。
目の前の彼が、優しい人なのか、それとも逆なのか。
わからなくて、怖くて、でも目が離せない。
彼は瞳を弓形に細めると、また要にニコリと笑いかける。
「どうぞこの地で…ごゆるりとお過ごしくださいね。」
要はまるで子兎の様に身を固くする他なかったのだった。
今回は予定より少し早めにアップします。
次の更新予定は3月13日です。




