零れた名前
三重の伊勢にてー。
広大な土地の中に新緑の森が広がっている。
森の中には人影もあるが、早朝は小鳥や小動物も多く見受けられる。
長い年月をもって成長した木々には、そういった生き物の巣になっているものも多いことだろう。
いきものの朝は早い。
小鳥達はまるで人間が喋るかのように、ぴちち…と甲高い鳴き声で会話しているし、その下では朝露に濡れた草葉を食む鹿の親子がいた。
鳥だけでなく、リスや塒へと帰るムササビ達は木々と木々の間を縫うように跳ぶものもいれば、宮の屋根に止まるものもいるようだ。
ここは森の奥にある深い山からできた朝靄に朝の陽の光が差し込み、静かで幻想的な風景が広がっている。
息を吸い込む度に鼻の奥に残る深緑の香りが、この緑の濃さを伝えている。
植物や生物の息吹ー、いや命そのものが肌で分かる。
そう、この地は八百万の神々のなかで最高位に座す天照大御神を祀る場所。
まさに…この日の本の神社の中心となる場所だ。
そこに、ある一つの屋敷が構えられていた。
しかし、まるで長い時を刻んできた、大きく美しい化粧垂木が並ぶ軒が印象的なその屋敷には、小動物の鳴き声はいっさい聞こえてこない。
聞こえるのは、この土地に流れる清らかな小川のせせらぎのみ。
そして、それに耳を澄ましている女性が一人…この屋敷の座敷で静かに佇んでいた。
女性…というのも、後ろ姿だけでは性別や年齢は分かりかねるが、肩の流れや髪の長さから見て推測しているに過ぎない。
しかも、その人は絹糸のように真っ白な髪を長く、豊かに伸ばしていた。
早朝の…まだ目覚めたばかりの朝日がその髪に光を注ぐと、まるで天からの賜物のように黄金色となって輝きだす。
ただ、その人はそのことなど気にもせず瞼を閉じているようだ。
僅かに垣間見えたその人の長い睫毛は、その御髪と共に輝いている。
この静寂の中で一人置かれている事を憂いているのだろうか。
それとも、何かに耳を澄ませているのだろうか。
そっと、僅かだが彼女の頬を揺らす空気があった。
「お姫様。」
奥から現れた初老の女性は、飾り気のない濃紺の色を纏った着物姿で現れた。
しかし、その立ち振る舞いからは気品と同時に威厳まで伝わってくるようだった。
彼女もまた静かな面持ちで、その場に膝をつき正座した。
そして彼女が礼をするように首を垂れると、ようやく金色の睫毛から輝く瞳が現れた。
「…なにようか?」
それは、この静寂の空間の中でないと聞き逃しそうな程にあまりにも小さな声であったが、初老の女性は慣れように会話を続ける。
「先程、出雲より連絡がありまして…」
「それならば、不要。」
初老の女性が言い終わる前に、告げられた言葉。
姫と呼ばれた彼女は自分に告げられる内容が手に取るように解かるのか、言葉を短く切るように言い放つ。
「…さようでございましたか。」
「桔梗よ、支度は?」
桔梗と呼ばれた初老の女性は、そろりと首を上げると視線を主人へと移して、まっすぐな声でこう言った。
「はい、滞りなく。例年通り、まずは奈良の土地から各々に挨拶を交わす順路で参りましょう。」
支度、奈良、といった単語からどうやら彼女たちは今から移動するようだ。
しかしそれは何やら大事な祭事のようだ。
陽の光に照らされた彼女の肩が、僅かだが揺れたように見えた。
「…急がねばな。」
彼女の細い顎の先が見えた。
彼女の瞳は、今、どこに向けられているのだろうか。
それは誰にも分からなかったが、桔梗は静かに「左様に。」とだけ返事を返した。
ここで、会話は終わるはずだったのが…今日は珍しく桔梗の声が漏れた。
「しかし…」
「?」
「いえ、ここ最近は四国の人神様の話題で事欠かぬとお思いまして…。」
桔梗の言葉は、この静かな部屋であまりにも辛辣に響いてしまった。
「…。」
「口が過ぎました…、ご容赦くださりませ。」
また桔梗が首を垂れるのを肩で感じながら、姫と呼ばれた彼女は「…よい。」と小さく零す。
許しを得た桔梗は、そっと息を漏らすと顔を上げて「お車の準備をして参ります。」と言ってその場を後にした。
鳥が一羽、この屋敷を避けるように遠くへと飛んで行くのが見えた。
きっと顔を上げた彼女にも見えていた事だろう。
「うえさか…かなめ…」
そう口にすると、また白き彼女は静寂の中へと一人になった。
いや、
ひとりではなかった。
「では参ろうか、オロチよ ―。」
屋敷の屋根を覆う程の…大蛇が蜷局を巻いた姿を見えるのは、同じ白き姫のみ。
次の更新は2月27日予定です。




