出会ってしまった宿命
巽はフラフラとした足取りで、要が先程までいた駅のホームに入った。
嘘であって欲しかった。
これが現実であって欲しくなかったのだ。
要が、岡山へと向かう列車に乗ってしまったことを。
でも、駅のホームの両側を見ても自分以外に誰もいない。
流れるようにやってくる感情をグッと抑えて、巽はズボンのポケットへと急いで手をやった。
取り出したのは、スマートフォン。
自宅で登録されている電話番号を履歴から選んですぐにタップした。
巽のうちは神社なので、社務所に繋がる番号だ。
この時間帯なら誰かしらいるに違いない。
でも、繋がるまでの電子音がこれ程に長く感じたことはなかった。
中々出てくれない焦りが、巽の肩を震わせていく。
「やばい、やばい、やばい…」
怖かった。
いや、今も怖くて要が乗って行ってしまった列車の方向を喰い入る様に見ることしかできない。
なんだか、自分の体が嘘みたいに冷めていくのを感じた時だった。
聞き慣れた母の声が耳に通ったのだ。
「はい、神森ですが。」
「っ、お袋!どうしよう!?」
「え?巽?どうしたが?急に…」
「まじヤバイんだ!俺、どうしたら良いがやろう!?」
静の声が聞こえた途端、箍が外れた様に巽は叫んだ。
頭の中ではつい先程までの出来事が鮮明に駆け巡っているのに、口に出そうとすると、なぜかうまく舌がまわらかった。
「やばい、どうしよう!」を何度も繰り返す息子に、静は普段とは違う空気を感じてはいたのだが、なんと彼女の後ろには1人の来訪者がいた。
巽が連絡してくるまで、静は丁重におもてなしをしていたところだったのだ。
「お、落ち着いて。落ち着きなさい、巽。…今ね、お客さまが来てるのよ」
お客様の手前か、小声で話そうとする母親に巽は眉間に皺を寄せてこう叫んだ。
「あいつが!人神が汽車に乗っちまった!」
「…え?どう言うこと?要様が?」
やっと自分の言葉に反応を示した静の声に巽はほっとしたのだが、受話器の向こうで聞き慣れない声が聞こえた。
それは女性の声で「要?要が何か?」と母に尋ねるような声だった。
「誰…、そこに誰かおるが?」
「それより要様は?どこにいるの?もう学校は終わったんでしょ?」
聞き慣れない声に一瞬気が逸れてしまったが、静の問いに巽はすぐさま現実に返された。
そうだ、今はそれどころではない。
大変なことが起ころうとしているのだから。
「あいつ、急に叫び出して、」
「え?なんで?」
「そんなん俺に分からん!でも、走り出したと思ったらそのまま特急に乗ってた!」
「特急!?特急って南風のこと!?」
逆ギレに近い巽の言葉に静は怒るどころか、顔色を青くさせた。
なんてことだ!と取り乱しそうになるのを必死で抑えた。
なぜなら、自分よりも息子の方が混乱しているのが声色で伝わってきたからだ。
「そう、それに乗って行った!どうしたらいい!?あいつ、このままやったら岡山に行ってしまう!」
「そんな、まさか、」
短い期間だが、いつも要の側でお世話していた静には想像ができなかった。
要は人神としてうちの神社にやってきて、学校にまで通い出していたのだ。
彼女はもう親元を離れてでも暮らせる年齢だ。
そんな彼女が自分の身の危うい状況に、自ら飛び込むものだろうか。
だが、巽の言葉を聞いて静はその考えを打ち消さなければならなくなった。
「あいつ、何かに怯えちょった!俺には見えんかったけど、何かが見えてて、そんで叫んでから逃げた。」
「何かに叫ぶ?」
静の背中に嫌な汗が伝う。
なんと目の前の女性客が自分と同じように顔を真っ青にしていたからだ。
彼女は震えるように「現れたんだわ…、アレが…」と小さく零した。
異様な空気に包まれた静は、視界が揺れそうになるのを必死で堪えた。
だって息子が現実を知らせてくるからだ。
「どうしよう!このままやったら、また災厄が起こってしまう!」
「!?」
「母さん…、どうしよう。俺、どうしたら?」
静は、ぎゅっと受話器を握りしめると、震えるのをなんとか堪えるように巽に言葉をかけた。
「と、とりあえず要様の携帯に連絡して…、岡山やったらあの方にも連絡しないと…」
静は淡々と言葉を口に出している間も、自身の頭の中で恐ろしいほど色んな考えを巡らしていた。
「巽、…巽?聞いてる?」
「…うん、…うん。」
こんなに憔悴した息子の声を聞かなければ、静も冷静ではいられなかったであろう。
彼女はゆっくりと深呼吸をすると、ゆっくりと…努めて冷静な声で巽に声をかけた。
「巽、とりあえず早く帰ってきなさい。お母さんもお父さん達に相談しないといけないから。…聞いてる?自転車が危なかったら、そのまま汽車で帰ってきなさいね?」
「わ、わかった…。」
「じゃあ、切るわね。」と言う母の声。
続いて受話器を置かれた後の電子音を聞きながら、巽はやはりあの列車の行先へと目を凝らしたのだった。
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気づけば要は、暗闇の中にぽつんと立っていた。
― アレ?
― 凄い暗い
― ここ…どこ?
― なんで私ここにいるの?
自分の足元から頭上を見ても真っ暗で。
もちろ辺りを見回してみても、暗闇ばかりが広がっていた。
それでも何かに手繰り寄せられるかのように、ゆっくり歩いている時だった。
誰かが自分のことを呼ぶ声が聞こえたのだ。
『ーかなめ!ーかなめ!』
― 誰?
― 呼んでる?私を?
― いったい、誰が私を呼んでるの…?
『―かなめ!―かなめ!おーい!』
それは、とても聞き慣れた声だった。
声の主がわかった途端、気づけば要は周りに高い木々がそびえる山道の中にいた。
要は声の主を見ると、驚いて目を見開いた。
「お父さん!?」
そう、自分の父親がこちらに向かって息を切らして走ってきていたからだ。
しかもどうやら父、勲は現在より若く見えた。
スーツではなく、ラフな登山用の格好をした勲は上を目指して駆けて行く。
緩やかではあるが登り坂になっている山道は太陽の光を受けて、とても空気が澄んでいた。
「あ、あれは」
父の上がっていく先に視線をやると、小さな女の子がいた。
要の心臓がどクリと脈打つ。
「もしかして、あの時の…」
こちらに向かって手を振る子供。
見間違えるはずがない…あれはいつかの自分だった。
子供は頬っぺを爛々と輝かせて、嬉しそうに声を上げていた。
「おとうさーん!こっちこっち、早くー!」
「要ーまってくれ~!」
もう、忘れてしまった自分に掛けてくれる父の優しい声に、要は思わず泣きそうになった。
あんな日があったのだ…自分にだって。
毎日幸せしかないって思える自分が、要の目の前で笑っている。
「遅いよ~!」
「はぁ、はぁ、やっと追いついたぞ!」
「あははは!お父さん遅い!」
「要は本当に元気になったなぁ、良かった良かった。」
父は幼い娘の言葉に嬉しそうに笑うと、頭をわしゃわしゃと撫でつけて「でも、元気よすぎるな。」と苦笑いしながらも、ちゃんと屈んで娘の目を見ていた。
「あっちに早く行こう!お花いっぱい咲いてるよ!」
「まあ、待って待って。」
「え〜!」
「ほら?母さん達後ろの方で大変だろう?」
父に言われ、視線を下に向けてみれば、母が後ろの背にリュックと前に妹を抱えて、ゆっくりこちらに登って来ているのが見えた。
母は学生の頃から登山部に入っていたらしく、社会人になっても週末になると都会から1番近い山に登るのが趣味だったらしい。
父も同じようなもので、田舎の高知を思い出すためかよくキャンプをする人だった様で、二人はそんな共通の趣味がきっかけでお付き合いを始めたらしい。
母は苦しそうな顔はしてなかったが、妹を落とさないように気を配りながらの足取りだったので急かすことは無理なようだ。
いくら要でも母に向かって「早くきて!」とは言えなかった。
「…ほんとうだ。じゃあ、お母さんとチエちゃんを迎えに行こう!」
「こらこら、くだりは危ないんだぞ。」
「くだり?」
「下のことだよ。足元見てごらん?小さい岩もあるから危ないんだ。お父さんと手を繋いでいこう。」
父の大きな掌を見て、幼い要は嬉しそうに笑った。
「ふふふ!じゃあ、おんぶ!」
「ええ~、おんぶはもうちょっと待ってくれよ。」
さっき全速力で上がってきたんだぞ、お父さん。と苦笑いする父に要は父の手をぎゅっと握り占めるとブンブンと手を振った。
「もう、仕方ないないな~」
「その話し方お母さんに似てきたな、要は。」
自分のどんな言葉にも全く怒らない父。
要もわかって言ってるのだ。
父は自分のことが大好きだということを。
そして自分も父が大好きだった。
妹が生まれてから母はどうしても知恵の方へと向いてしまう。
でも、父はずっと要が寂しくないように自分を追ってきてくれるのだ。
揺るがない父の自分を見つめる眼差しに、要はずっと笑っていられた。
「ふふふ!今日は楽しいピクニック!」
「要、もうちょっとゆっくり歩こうな。」
父の…自分の手を握りしめてくれる大きな掌があれば、要はどこにだって行ける気がした。
気分は最高潮だ。
お気に入りの歌だって歌っちゃう。
「シュッパーツ!そろっておでかけ、ランランラン!」
「要はその絵本大好きだな?」
最近、よく口にする娘の歌声に父は足元を気をつけながらそう言った。
要はそれに上機嫌で返事を返した。
「今度みんなで劇するの!」
「本当か?じゃあ、お父さんお休み取らないとな。」
「お父さん来てくれる?」
思わず立ち止まって父の顔を見上げれば、父はゆっくりと頷いてまたぎゅっと手に力を入れた。
「ああ、要の勇姿を目に焼き付けないと。」
新しくビデオカメラ用意しないとな。と言いながら目線を前にした父と要は母の元へと降りていった。
「お母さんの所までとうちゃ~~く!!」
「要、早かったねえ!」
母の笑った声に、父は「すごい早いよ、俺全然追いつかない。」と弱気な発言したのだが、母はそれにさらに嬉しそうに笑った。
「あははは、こりゃ帰りはぐっすりかもねぇ。」
「…ほんまやにゃあ。」
知恵だけでなく、要までおんぶして帰らなくてはいけなくなるかもと思うと、勲は少し尻込みしそうになるが、こればかりは仕方ないと早めに腹を括った。
夫婦の心配をよそに、要は今来た道を指差して母のズボンの袖を握った。
「お母さん、あっちにお花咲いてるよ?早くいこう。」
「はいはい。でも知恵も起きてるからね、もうちょっとゆっくり行こうね。」
「荷物か、知恵もとうか?」
「大丈夫大丈夫!あなたそれ以上持てないわよ!」
母のリュックの中には妹のオムツなどお世話セットくらいで、お弁当やらレジャー用の道具などは全部勲が持っていた。
リュックの大きさから違う夫の姿を見て、母は「これ以上持ったら腰痛めちゃうわ!」と眉を下げた。
父は普段から極力母に重いものを持たせないようにしているのだが、母も趣味は登山の人だったので「平気よ、これくらい!」と笑っている。
そんな妻を見てから繋いだ手の先を見ると、目を爛々に輝かせている娘がいた。
要はまだまだ元気いっぱいだと言葉にせずとも伝わってくる。
勲はそんな要を見て、つい吹き出すように笑ってしまった。
「やっぱり日頃から鍛えないとな。俺は子供の時なんて山で育ったようなもんだったのに。」
山ん中を自分ちの庭みたいに走りまくってたんだよ!と胸を張る勲に、妻も笑って要をみた。
「あら、私も同じようなものよ。」
「要、山は楽しいだろう?景色もいいし、空気もうまい!」
「お父さんの地元の山にもまた上ろうね!」
「うん!早くお弁当食べたい!」
空気もうまいの「うまい」という所だけ切り取った要のお腹からは小さく腹の虫が鳴いた。
父はそれを聞くと、笑いながら「すまんすまん、もうちょっと上がったらご飯にしような!」と要の頭を撫でた。
母も「要の腹の虫は正直ね!あははは!」と笑いながら少しだけ歩みを早めてくれた様だった。
父はまだ可笑そうに、母の足元に気を遣いながら話しかけていた。
「さっき絵本の話してたから、余計腹が空いたのかも。」
「お弁当のやつ?」
「そうそう。」
「あのこ、トマトの役をするのよ。」
「ええ?じゃあ、やっぱり新しいビデオカメラ買わないと!」
「何言ってるの、この前知恵が生まれた時に買い直したじゃない!」
「日々道具は進化するもんなんだよ。」
「駄目!2人のためにも今は貯金が優先です!節約節約!」
「要の迫真の演技が出るかもしれないのに。」
なあ、要?と父に言われたが意味が分かっていない彼女は「?うん!」と適当に返していた。
「5歳児が?子役になれるかしら?」
「我が家から大女優誕生、なんて。」
「親バカって笑われちゃうわよ。」
「要!父さん、要のトマトの演技楽しみにしてるからな!」
「うん!真っ赤になるね!」
「おう、真っ赤になれ!」
「なんじゃそりゃ。」
「あははは!」
「キャキャ、」
自分の胸元から柔らかな笑い声が聞こえて、母は嬉しそうに抱っこ紐の中を覗き込んだ。
小さな娘は目を細めて笑っている。
「あら、知恵ちゃんもごきげんさんだね〜?」
「本当に今日は天気が良くて最高だな。」
「本当にね!」
― 家族が笑っていられたのは…ここまで。
近くで家族を見つめていた、傷だらけの要はグッと目を閉じた。
見ていられなかったからだ。
これから起こる惨事に。
「お母さん!ほら!お花が見えたよ!」
「わあ、本当だ、綺麗だね!」
― 家族全員が、要の声で前を向いた時だった。
「早く!こっちに、いっぱい…」
― 現れたのだ。
「なんだ、あれは?」
「え?何かあったの?」
― それは異形の形をした…
「しか…さん?」
最初、それは白い大きな塊に見えた。
そして気づいたら真横にいる父から叫び声が上がっていた。
「要!こっちに来なさい!!」
すぐさま娘を腕の中に引き寄せ叫び声を出した勲に、良子は目を開いて驚いた。
現状がまだ把握できないが、要を抱きしめている勲のこめかみには汗が浮かんでいて、ただならぬ気配を感じた。
「あなた…、どうしたの、急に?」
「お母さん、シカさんがいるよ。」
「え?どこに?どこにいるの?」
要の声に、良子は覗き込むように前を見つめたが、彼女の目にはあれが捉えられていないようだ。
あらぬところに視線を送る妻に、勲はさらに恐怖を募らせた。
「良子…、アレが見えないのか?」
「どこにいるの?野生の鹿って珍しいわね。」
鹿なんてものじゃない。
アレはそんな大きさじゃない。
ヘラジカより大きく、何よりあんなツノを持った生き物見たことがなかった。
あんなに異形の形をしたものがどうして妻には見えないのか勲が混乱する中、要の声で勲はハッとした。
「お父さん、シカさん…こっちに来るよ?」
「要、抱っこしよう、早く!!」
「うん…!」
「あなた?要?」
「鹿みたいな、いや、あれは鹿なんかじゃない!大きすぎる!!」
「どうゆうこと?」
「とにかく離れないと!早くっっ!」
「ええ?」
「お父さん、怖い…こ、こっちに来る。」
「なんだ、あれは?化け物なのか?」
「どう言うことなの?私には全然見えないんだけど!?」
「とにかく、逃げるぞ!走れるか?」
「お父さん、後ろ、」
要の声で後ろを振り向けば、もう化け物の顔がはっきり見えるとこまで距離が詰められていた。
全く足音がしないのに、その目は完全に自分達を捉えている。
勲は奥歯をグッと噛み締めると同時に、すぐさま決意した。
自分が身代わりになるんだと。
「要は母さんと行きなさい!」
夫の声に、良子は急いで要の方へと手を伸ばす。
「要、お母さんの手を握って!」と言えば、要は不安な顔をしながらも素直に母の手を握りしめた。
だが、ここで不思議なことが起こった。
要の手を握った瞬間、良子が叫んだのだ!
「あなた!あれはなんなの!?あの、白いのは、」
妻の視線の先がなぜ今になって定まったのか驚きだったが、勲は家族を守るのに必死だった。
妻にも見えたのなら都合が良い。
早く、彼女たちを遠くに逃さなければ。
妻たちの前で大きく手を広げると、叫びながら前を向いた。
「早く逃げろ!俺が引きつけるから…!?」
そして、今度は勲の前から化け物が消えたのだ。
アレほど近距離にいたのが嘘のように、あの巨体がどこにも見えない。
― そんな、馬鹿な!
「なぜ?消えた…?あいつはどこだ!?」
「どこって、もう、目の前よ!」
妻の叫び声に嘘なんてあり得ない。
そんなこと言われなくてもわかっているのに、どうしてか自分にはアレが見えなくなってしまったのだ。
「なッ!?なんでだ?見えないぞ!」
狼狽える父の後ろ、もう1メートルもない距離にまでその白い巨体が迫っているのを、要は母の腕の中で見た。
「お父さんっ!」
気づけば、要は母の腕から飛び出していた。
「駄目だっ!かなめ、来るんじゃないっ!!」
父が私に向かって走り出してくる。
それが、まるでスローモーションのように見えた。
あんなに笑っていた父が嘘のように、顔を歪ませて自分の名前を叫んでいる。
「あなた!要!」
「ふぎゃあ!ふぎゃあ!」
母と泣き叫ぶ妹の体温を背中に感じて、要は家族に抱きしめられているのだと、ようやく分かった。
父の震える腕が、家族を守るように強く抱きしめられていた。
せめて子供だけでもと身構えた勲と良子は、化け物から来るであろう衝撃に備えて身を固くした時だった。
聞いたことのない、音を聞いたのだ。
それが聲だと認識するのには、あまりに研ぎ澄まされた音色だった。
“主よ― 、”
「「「!?」」」
“主よ― 、”
思わず良子が顔を上げてみれば、白い大きな獣はこちらから一歩下がった場所に静かに佇んでいた。
少しだけ顎元が揺れるのが見えたと思ったら、またあの聲が聞こえてくるではないか。
「…しゃべったの?」
「こいつが?なんで…」
勲が小さく「化け物だ…」と口ずさんだの見て良子はまた身を固くしたが、獣が前脚を出すために僅かに動いたのを見過ごさなかった。
たまらず、良子は叫んでしまう。
「ひッ!こ、こっちに来ないでっ!」
「来るな!来るんじゃない!」
山の獣にあったら大声を出して刺激してはいけないとわかっていても、夫婦は必死に抗うように叫び続けた。
人間の言葉を話すなら、言葉の意味を理解しているのではないかという僅かな希望だったのだ。
震えながら怯える勲たちを見つめ、白い獣は僅かに首を振るう。
そんな小さな動作を要は父の腕の隙間から静かに見つめていた。
「シカさん、」
要の呟くような声を、獣の耳は喜びと共に拾い上げた。
獣はそっと傅くように、首を垂れたのだ。
“次の…我の主人となるヒトガミよ― 、”
「!?」
「ヒトガミ?何?」
「シカさんがしゃべってる…。」
“先代が身罷われようとしている― …早く、主人にこの輪廻の宿命を授けたい― ”
「何?」
「先代って?ヒトガミの?あるじって…」
「何を言ってるんだ?」
「お父さん!シカさんがしゃべってるよ!」
「要、静かにしなさい。お父さんにもっとひっついて!」
“我の主人の名は、要― ”
「!?」
「か、要!?」
父と母の瞳が要の姿を瞬時に射止める。
そのせいか要には二人の恐怖と困惑の感情が有りありと伝わったのだ。
要の小さな手が父のシャツをぎゅっと握りしめた。
誰が飲みこんだか分からない息の音だけが嫌に耳につく。
「あ、」
勲、良子、要、3人が気づいた時には、もう獣の首は皆の頭上に降りていた。
勲たちの腕の中にいた要には、それがまるでキラキラと上から星が降りてきたような輝きに見えた。
“今、ここに授ける。カナメー、我の、この国のヒトガミよ。”
“生きとし生けるもの、その中で、この日いずる国をすべるもの。”
“四方を海に囲まれて、緑豊かなこの土地を、そなたに授ける。”
「何を言ってるんだ?」
「あなた!要が!?」
獣の発した言葉の意味が理解できず、首を傾ける勲に良子から悲鳴のような叫びが聞こえた。
目線を下ろした先にいたのは、娘の要だ。
その娘がどんどん眩しいほどに輝いている。
「要!?どうした?なんで光ってるんだ!?」
「お父さん?…光ってる?」
“お星様じゃないの?― ”
“要が光っているの?― ”
要の声がまるで獣から発せられるような音に聞こえて、勲たちは震え上がった。
要は自分に起きていることに気づいていないようで、不思議そうに自分の掌を見つめている。
知恵を抱いた良子が、僅かに…ほんの数ミリ要から距離を取ってしまったのは、子供を守ろうとする母親の本能からなのか。
理解が追いつかず恐怖で動けない両親をよそに要が獣の方へと視線を上げると、要の額に獣の鼻先が触れようとした。
要は優しく目を閉じる。
それはまるで誰かに教えられたかのように…いや、それが定めのように。
“さあ、ヒトガミの力を…この宿命を…”
少女の額と、獣の鼻先が触れ合う瞬間だった。
勲の脳裏に故郷の母の叫び声が響いた。
『 勲、あんまり山に行ったらいかん!ヒトガミ様になったら大変やき! 』
母の険しい顔が乗り移ったかのように、勲は叫び声を上げた。
「 やめろっっ!!!! 」
「あなた!」
勲は勢いよく立ち上がると、担いでいたリュックを勢いよく振り上げた。
どこにそんな力があったのか、間違いなく火事場の馬鹿力なのだろうが、彼は文字通り必死だっのだ。
要を失ってしまうかもしれない恐怖が、背中に張り付いて離れない。
「この子は俺の子だ!!触るなぁっ!!」
「お父さん…」
ぶんっ、という音を立てながらリュックを獣に投げつければ、獣の前足は煙のように散っていく。
要の口から小さく「あっ、」という声が漏れた。
その声を聞いた良子が気づいた時には要はもう光っていなかった。
それと同時に、勲にはあの獣が見えなくなっていた。
だが、安心はできない。
なぜかあの獣は姿を隠せるのだから。
勲たちが目を硬らせながら周たりの森に目をやった時だった。
「あんたら、大きな声出してどうしたんや?」
「ひっ…!あっ、人!?」
後ろの茂みから現れた男性2人組の声に、勲たちは分かり易く肩をびくりと振わせた。
振り向いてみると、そこにはオレンジの発光色のベストを着た中年の男性達がいる。
「あ、あなた方は…」
怯える勲たちを安心させるためか、男性たちはにこりと笑うと胸元に描かれた「猟友」の文字を見えやすい様に引っ張った。
「ああ、儂らこうやって見回ってるんよ。たまにやけど、ここにも猪とか熊が出るからね。」
先程までのことを何も知らない男性たちは、要や良子を目にすると銃を見て怖がっているのかと勘違いしたようだ。
彼らは明るく要たちに話しかけてくれた。
「ハハハ、おじさん達は怖くないよ。これは威嚇用やからね!」
勲は辺りに目を凝らしたが、それでも獣の姿は見えなかった。
それは自分だけでなく、良子も、要も、この男性達にも。
「いない……今度こそ消えたのか?」
「そうみたい。私にも、もう見えないわ。」
良子が震える足をなんとか立たせて勲の傍にいくと、目線を少しだけ上にあげた。
そこはあの白い獣が現れたところ。
だが、まるで夢を見ていたかのように、そこにはただ静かに木陰が作った山道が続いているだけだった。
「なんだったんだ、あれは…あの化け物は。」
「わからない。でも、要の名前を言ってたわ。あと、ヒトガミとか、」
「…昔、小さい頃にお袋から聞いたような気がする」
「え?お義母さん?」
勲は良子の目を見て小さく頷く。
彼の中に早る想いが生まれていた。
― お袋に、あのヒトガミのことを聞かなければ…嫌な予感がする。
「とにかく、下山しよう。ここから早く離れないと。」
「ええ。要、行こう。」
呼ばれた要は、母の顔を見る。
母の目の奥に残った恐怖の色が、自分に向けられているようでならなかった。
でも、自分の前に差し出された母の手を疑いたくなかった。
「要?」
「…うん。」
そっと、母の手を握る。
「要。もう大丈夫だから。さっきのことは…忘れちゃいなさい。」
覚えている記憶の中で、母の手はずっと冷たいままだった。
つぎの更新は2月13日の予定です。




