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残金1,842円|第19話「真鍋亮」

「この会社へ来るとしたら、最初に私の何を止めますか」


 征一が聞くと、真鍋亮は、出されたコーヒーへ手を伸ばしかけていた。


 手が止まった。


 応接室の窓から、新拠点の門が見えた。


 戻ってきた車が速度を落とす。受付で確認を済ませ、決められた場所へ進んでいく。


 真鍋は、その車を一度見てから答えた。


「まだ、分かりません」


「会社の資料は、読んでいただきましたね」


「拝見しました。ただ、今日は見学と、仕事の内容を伺うつもりで来ています。入社するとも、何かを止めるとも決めていません」


 征一は、机へ置いた自分の手を見た。


「先走りました」


「いえ」


 真鍋は、今度はコーヒーを取った。


 一口飲み、戻す。


「どうして、止めることから聞かれたんですか」


 征一は、隣に座る経理責任者を見なかった。


「私が決めた後で、金の準備を考える仕事が増えていると言われました」


「そのために、私へ話を」


「ええ。始める前から、一緒に考える人が必要だと」


 真鍋はうなずいた。


「では、社長が今、始めようとしている仕事を、一つ伺えますか」


 征一は、鞄ではなく、机の横へ置いた資料へ手を伸ばした。



 経理責任者から紹介を受けた時、征一は真鍋の経歴を先に読んだ。


 企業の資金計画と、金融機関との調整に携わってきた。


 今も別の会社で働いている。


 その職場を辞めると決めたわけではなかった。


 面談の日程も、征一が最初に希望した日には合わなかった。


 今の会社で、外せない仕事があるという。


 次に提示された日を、征一が空けた。


 資料を渡す前に、守秘の扱いを確認した。


 荷主名や個人の情報は伏せ、会社の概要と、借入の一覧、直近の収支、今後の支払いが分かるものを用意した。


 経理責任者は、きれいにまとまった表だけを選ばなかった。


 未確認の欄も残した。


「これも、見せますか」


 征一が聞くと、相手は答えた。


「ここを埋める仕事も、お願いしたいので」


 真鍋は、届いた資料へ質問を返してきた。


 不足している紙を責める書き方ではなかった。


 この金額は、契約したものか。


 こちらは、まだ協議中か。


 この支払日は、相手と合意した日か。


 征一は経理責任者と回答を作った。


 一つ、答えられない項目があった。


 そのまま、未確認と書いた。



「改修の相談です」


 征一は図面を広げた。


 別の会社が保有している倉庫だった。


 建物は使っているが、荷物の出し入れに時間がかかる。


 今の持ち主は、物流の運営まで引き受ける会社を探していた。


 取得する話ではない。


 一定の期間、借りて使い、征一の会社が仕事を組む案だった。


「持ち主は、どの工事まで負担する予定ですか」


 真鍋が聞いた。


「既存設備の修理は、向こうです。こちらの運営に必要な変更は、分けて相談します」


「まだ、決まっていない」


「はい」


「仕事を頼む荷主は」


「候補がいます。必要な量と条件を聞いているところです」


「いつ、返事をする予定ですか」


 征一は手帳を開いた。


「来週です」


 真鍋は、図面より先に、その日付を見た。


「何についての返事ですか」


「引き受ける方向で、検討を進められるかどうかです」


「それを伝えた後、相手は何をしますか」


 征一は、すぐには答えなかった。


「ほかの候補との話を、いったん止めるかもしれません」


「工事は」


「見積もりを詰めます」


「費用は、発生しますか」


「調査の範囲によります」


 真鍋は、手元の紙へ短く書いた。


「社長は、何を約束しないつもりですか」


 征一は顔を上げた。


「契約前に、工事代金を払う約束はしません」


「開始日は」


「希望は、聞いています」


「その日に始めると言いますか」


「条件がそろえば、と」


 真鍋はペンを置いた。


「相手が、その条件を同じように理解しているかは、確認が必要ですね」


 征一は図面を見た。


 引き受ける方向です。


 その一言で、話が進むことがある。


 相手が場所を空け、工事の人を探し、今の取引先へ連絡する。


 自分はまだ決めていないつもりでも、相手の予定は変わる。


「止めるなら、この返事ですか」


 征一が聞いた。


「今日の資料だけで、止めるとは言えません」


 真鍋は答えた。


「ただ、来週までに何を決めるのかは、先に分けたいです」



 応接室の扉が、軽くたたかれた。


 現場責任者が顔を出した。


 征一は真鍋へ紹介した。


 責任者は挨拶をしてから、征一へ一枚の紙を渡した。


「外注先から、次の月の条件が来ました。今の便数で続ける場合です」


 先月、運転手が来られなくなった朝から、外へ頼む便の一部を残していた。


 新たに入った二人は、まだ教わっている最中だった。


 征一は紙を読んだ。


「この条件なら、計画の範囲ですね」


「はい。ただ、こちらの便を一本戻した場合も、比較を出してあります」


 責任者が二枚目を示した。


 自社で戻せば、外注費は減る。


 その分、車と人を朝へ戻す必要があった。


「いつまでに返事を」


「今週中です」


「明日、配車の人も一緒に、確認させてください」


 責任者はうなずいた。


 退出しようとしたところで、真鍋が声をかけた。


「今、伺ってもよいですか」


 責任者が足を止めた。


「この外注を続ける判断は、どなたがされるんですか」


「来月の勤務と合わせて、私と配車で案を作っています。費用の計画が変わるので、社長と経理へ確認しています」


「一日だけ、臨時に頼む場合は」


「決めた範囲なら、私が発注します。理由と金額は、後で報告します」


 真鍋はうなずいた。


「ありがとうございます」


 責任者が出ていく。


 真鍋は、扉が閉まってから征一を見た。


「こちらは、何を誰が決めるか、分かれていますね」


「最近、決め直しました」


「先ほどの新しい仕事も、同じように分けたいと思いました」


 征一は、机へ渡された二枚を並べた。


 毎月払う外注費を、まだ惜しいと思っている。


 責任者が出した案なら、もう一本、自社へ戻せるかもしれない。


 真鍋は、その判断を取り上げようとはしなかった。


 いつまでに、誰が、何を見て決めるかを聞いていた。



 現場を案内した。


 真鍋は、車や設備の値段を先に尋ねなかった。


 受付で何を確認しているかを聞く。


 数量に違いがあった場合、どの記録へ戻るかを聞く。


 運転手が出した紙が、配車を経て、経理へ渡るところを見た。


「これが、請求する数量になりますか」


 真鍋が聞くと、記録を担当している女性が答えた。


「こちらは受け入れた分です。請求する時には、保管や出荷の記録と合わせます」


「荷主と数字が違う場合は」


「確認した内容を、ここへ残します」


 女性は、教えていた社員へ一度目を向けた。


 社員がうなずく。


 真鍋は、記録の一つを指した。


「これは、確認が終わっていますか」


「数量は終わっています。追加の扱いは、まだです」


「では、入金される額は、まだ確定していない」


「はい」


 征一は、少し後ろで聞いていた。


 荷物は届いている。


 仕事も終わっている。


 その先に、まだ合意を待つ金がある。


 経理責任者は、それを毎月確かめていた。


 真鍋は女性へ礼を言い、紙を戻した。


 見学に来た人間へ、自分の机の全てを説明する必要はない。


 相手が今、仕事をしていることも、分かっているようだった。



 昼前、経理責任者が資金の表を持って応接室へ戻った。


 真鍋が、事前に尋ねていた項目の回答だった。


 ある荷主からの追加分は、金額の確認が終わっていない。


 基本の料金は、合意している。


 入金の見込みを一つにせず、分けてあった。


「この確認が、次の締めまでに終わらなかったら」


 真鍋が聞いた。


「こちらの入金日へ動く可能性があります」


 経理責任者が答えた。


「資金の表には」


「まだ、早い方を置いています。別の試算では、遅い方も見ています」


「どちらを使って、支払いを決めていますか」


 経理責任者は、二枚の紙を引き寄せた。


 征一も見た。


 同じ月末の残高が、違っていた。


 どちらかが誤りではなかった。


 前提が違う。


 ただ、誰がどちらを見て話しているかが、分からなくなることはあった。


 真鍋は、数字を書き換えなかった。


「今、社長が使っているのは、どちらですか」


 征一は、手元の表を出した。


 早い入金を置いた方だった。


「追加分を受け取れなくても、すぐ払えなくなるわけではありません」


 経理責任者が言った。


「はい」


 真鍋はうなずいた。


「ただ、次に使える金を考えるなら、確認待ちの分まで、受け取る日が決まった金と同じには置けませんね」


 征一は自分の表を見た。


 払えるかどうかを、今日初めて指摘されたわけではなかった。


 経理責任者からも、何度も聞いている。


 それでも、机へ置かれた一枚を読む時には、数字になったものを、決まったものとして見ていた。


「何が未確定か、表の中で残しますか」


「残したいです」


 経理責任者が答えた。


 真鍋は、征一ではなく、その返事をした人へうなずいた。



 食事の間、征一は真鍋へ、今の仕事のことを聞いた。


 真鍋は、話せる範囲だけを答えた。


 会社の事情を詳しく語らなかった。


 誰の判断で苦労しているかも、言わなかった。


「不満があって、こちらの話を聞いたわけではないんですか」


 征一が尋ねると、真鍋は箸を置いた。


「今の仕事を、全部終えてからでなければ動けないと言うと、いつまでも動けません。ただ、途中で置いてきてよいとも思っていません」


「こちらへ来るとしたら、時間が必要ですね」


「はい。そもそも、何をする立場かも、まだ決まっていません」


「財務を見ていただきたい」


「見る、というのは」


 征一は、少し考えた。


「銀行へ説明する。資金を組む。新しい仕事の条件を、一緒に考える」


「銀行が貸さないと言った時も、ですか」


「その時に、借りる方法を考えてもらいたい」


 真鍋は、すぐには返事をしなかった。


 征一も、自分の答えを聞いていた。


「借りない方がよい、と申し上げることもあると思います」


「借りなければ、できない仕事なら」


「やらない方がよい場合もあります」


 店の奥で、食器を重ねる音がした。


 征一は水を飲んだ。


「その判断を、あなたがするんですか」


「最後は、会社が決めます。ただ、何が足りず、何を変えればできるかは、決める前に伝えたいです」


「私が、それでも進めると言ったら」


「決まった後も、払う仕事は残ります。ですから、先に言ったので知りません、とはしません」


 真鍋は、征一を見た。


「ただ、根拠のない入金を足したり、決まっていない融資を決まったものとして、銀行へ説明することはできません」


「私が、責任を持つと言っても」


「説明する数字は、変わりません」


 征一は、しばらく黙った。


 強い言い方ではなかった。


 自分を試すための言葉でもない。


 真鍋は、引き受けられない仕事を、その場で一つ示した。


「分かりました」


 征一は言った。


 分かったことと、それを気持ちよく受け入れたことは、同じではなかった。



 午後、征一はビルの収支も見せた。


 五階の入居者が代わった後の実績だった。


 修繕と更新へ残す金。


 取得時の借入の残高と返済。


 新しい十五億円との関係。


 担保に関する契約。


 真鍋は、一枚ずつ読んだ。


「こちらは、売却を検討されたんですね」


「しました」


「売らずに、新拠点へ進んだ」


「はい」


「決めた理由を伺ってもよいですか」


 征一は、家賃の実績を示した。


 持ち続けることで残る収益。


 新拠点の仕事。


 両方を持った場合に、会社全体で払えるかを確かめたこと。


「結果は、今のところ出ています」


「拝見しました」


 真鍋は言った。


「売った方がよかったと、言うんですか」


「今の資料から、それは言えません」


 征一は、椅子の背から体を戻した。


「このまま持つ判断を、いつ確かめ直す予定ですか」


「収支は、毎月見ています」


「売らないと決めた時の条件も、ですか」


 征一は、修繕用の資金を指した。


「これは守っています」


「はい。入居と家賃の条件も、今のところ続いている。では、どこが変わったら、保有をもう一度考えますか」


 征一は、表を見た。


 空室が出れば確認する。


 大きな工事が必要なら、考える。


 会社に資金が必要になれば、売却も選択肢になる。


 それぞれに答えはあった。


 だが、その言葉を聞く前に、別のものが胸へ触れた。


 売らずにできた。


 自分の判断は、正しかった。


 仕事が動くほど、その答えが固くなる。


「毎月、売るかどうかを決め直すのは、現実的ではありません」


 征一は言った。


「それは、私もそう思います」


「なら」


「変わった条件があった時に、前の決定へ戻れるようにしたいんです。前に正しかったことまで、間違いにする必要はありません」


 真鍋は、ビルの収支を戻した。


「今の収益を残す理由は、分かります。だから、次に条件が変わっても、同じ理由で持ち続けてよいかを確かめたいです」


 征一は、しばらく紙から目を離さなかった。


 経理責任者も、口を挟まなかった。


「売却した場合の試算は、残しています」


 やがて征一が言った。


「必要になれば、作り直せます」


「その時に、何を見て作り直すかも、一緒に考えたいです」


 真鍋は答えた。



 最初の面談では、採用は決まらなかった。


 帰る前に、征一は聞いた。


「条件を出しても、よいですか」


「仕事の範囲も含めて、拝見したいです」


 真鍋は言った。


「こちらからも、確認したいことを送ります」


 翌週、届いた質問には、給与だけではないものが並んでいた。


 会社の資料を、どこまで見られるか。


 金融機関へ、誰と話せるか。


 新しい契約の検討に、どの時点から入るか。


 経理責任者との分担。


 決裁する人と、確認する人。


 会社へ懸念を伝えた場合の記録。


 征一は、最後の項目をしばらく見た。


 言ったことを残す。


 後で責任を避けるためにも見えた。


 そう思ったまま、次の面談で尋ねた。


「これは、なぜ必要ですか」


 真鍋は、質問の紙を見た。


「誰が反対したかを残すためだけではありません。何が未解決のまま、進めると決めたかを、後で見られるようにしたいです」


「議事録なら、今もあります」


「では、それを使いたいです。社長が決めた後、ほかの人が何を前提に動くかが分かるものに」


「私の判断を、毎回疑う形になりますか」


「同じことを、私の見込みにもしていただきたいです」


 真鍋は言った。


「私が大丈夫だと言った計画が、外れることもあります。その時、何を見落としたかを残さなければ、次も同じ表を作ります」


 征一は質問の紙を裏返した。


 余白へ、今の言葉を書いた。



 条件の協議は、何度か続いた。


 財務を担当する。


 ただし、既存の経理の仕事を、一度に全部引き取るわけではない。


 日々の処理と月次の確定は、経理責任者を中心に続ける。


 真鍋は、会社全体の資金と、先の契約、投資、調達をつなぐ。


 そのために必要な資料へアクセスする。


 銀行との話には、征一と一緒に入り、必要な確認は担当者へ直接できるようにする。


 会社として決めることは、所定の承認を経る。


 真鍋が一人で事業を止める権限を持つわけではなかった。


 だが、未確認の条件を確認済みに変える役目でもなかった。


 入社日を、征一は早めに希望した。


 真鍋は、その日では難しいと答えた。


「今の会社で、引き継ぐものがあります」


「そこは、何とか」


 征一が言いかけると、真鍋は、用意した日程を出した。


「この日なら、責任を持って調整できます。早められる部分は確認しますが、今日、できるとは言えません」


 征一は日付を見た。


 人が足りない間も、仕事は来る。


 待つ時間には費用がかかる。


 それでも、今の職場へ同じことを残して来る人を迎えたかったのかと考えると、簡単に押せなかった。


「分かりました。その日で進めてください」


 給与などの条件を確かめた。


 職務の範囲と、入社後にまず確認する仕事を、書面にした。


 真鍋は、その場で全部へ署名しなかった。


 持ち帰って確認し、返事をする日を伝えた。


 約束した日に、連絡があった。


「お受けします」


 征一は、受話器を持ち直した。


「ありがとうございます」


「ただ、入った時点で、会社の全部が分かるわけではありません」


「はい」


「分からないことは、分からないと申し上げます」


「そのつもりで、お願いします」


 電話を切った後、征一は経理責任者を呼んだ。


 相手は返事を聞き、肩を少し落とした。


 安心したようにも、ようやく疲れを表に出したようにも見えた。



 真鍋が入社した日、最初の机は、経理責任者の近くに置いた。


 引き出しには、まだ何も入っていない。


 新しい名刺が届いていた。


 真鍋は箱を開き、一枚だけ内容を確かめて戻した。


 それから、机の電話の使い方を聞いた。


 どの資料が最新かを聞いた。


 使われなくなった表が、共有先に残っていないかを聞いた。


 最初の午前中、真鍋は会社を変える話をしなかった。


 経理の担当者が、普段の仕事を説明していた。


 誰から記録が来るか。


 来ない時は、誰へ聞くか。


 支払いを進める前に、何をそろえるか。


 昼過ぎ、真鍋が征一の部屋へ来た。


「来週の倉庫の打ち合わせに、同席できますか」


 最初の面談で見せた、別の倉庫の案件だった。


「もちろんです」


「その前に、相手へ返事をする内容を確認したいです」


 真鍋は、一枚の紙を出した。


 分かっていること。


 まだ確認していないこと。


 次に誰が確認するか。


 返事をする期限。


 征一は読んだ。


 まだ、金額が一つに固まっていない。


 開始日も確定していない。


 それでも、次に進むための仕事は、紙の上にあった。


「こちらの調査は、費用がかかりますね」


「はい。見積もりを取り、範囲を決める必要があります」


「相手に、引き受ける意思が弱いと思われませんか」


「引き受けるために、ここを確認したいと伝えます」


 真鍋は答えた。


 征一は、紙を机へ置いた。


「分かりました。一緒に行きましょう」



 打ち合わせ当日、倉庫の持ち主は、改修の開始時期を先に確かめた。


「来月には、今ある設備を片づけられます。そちらも、そこから入れますか」


 征一は図面を見た。


 場所が空く。


 調査を早めれば、動ける部分はある。


 相手は待っている。


 征一は口を開いた。


「準備は、そこへ合わせて――」


 隣で、真鍋が紙を一枚、前へ出した。


「開始をお約束する前に、工事の負担範囲を確認させてください」


 相手の手が止まった。


 征一も、言葉を止めた。


「設備を撤去した後の状態について、まだ確認できていない箇所があります。調査を進める合意と、運営を始める契約は、今日は分けたいと考えています」


 持ち主は、征一を見た。


「社長としても、それでよいんですか」


 部屋の空調の音が聞こえた。


 征一は、机に置かれた紙を読んだ。


 自分も確認した内容だった。


 ここへ来る前には、それでよいと思った。


 今、目の前で相手が待つと、もう少し先へ約束したくなる。


 工事の人を押さえられる。


 場所が空く日を逃さずに済む。


 その速さで、取ってきた仕事があった。


 隣の真鍋は、何も言わずに待っていた。


「はい」


 征一は答えた。


「今日決めたいのは、調査する範囲と費用です。始める条件は、確認してから詰めさせてください」


 持ち主は、椅子へ座り直した。


「それなら、こちらも、ほかの候補を全部止めるわけにはいきません」


「承知しました」


 言いながら、征一は胸の奥が硬くなるのを感じた。


 相手を待たせない代わりに、自分が失うかもしれないものが残った。


 調査の範囲を決めた。


 費用の負担と、成果を共有する相手を決める。


 運営を引き受けることが決まらなかった場合の扱いも確かめた。


 その日の打ち合わせは、そこで終わった。



 帰りの車で、征一はしばらく黙っていた。


 真鍋は、打ち合わせの記録を整理していた。


「さっきは、もう少し進められたと思います」


 征一が言った。


「はい」


「はい、なんですか」


「社長がそう考えられることは、分かります」


「私が先に約束してからでは、遅い」


「負担する工事が分からないまま開始日を約束すると、間に合わせる方が先になります」


 征一は前を見た。


「それで、相手が別へ決めたら」


「この仕事は、取れないかもしれません」


 真鍋は答えた。


 征一は、短く息を吐いた。


 気休めはなかった。


 必ず取れる方法を持った人を雇ったのではなかった。


「今日の調査で、条件が合うと分かったら、すぐ出せる案は作ってください」


「作ります。今ある仕事の支払いと重なる時期も、先に確認します」


 征一はうなずいた。


 車が信号で止まった。


 真鍋は記録の一行を指した。


「この返事の期限は、社長も入れる日ですか」


 征一は手帳を出した。



 会社へ戻ると、経理責任者が入金の確認を待っていた。


 未確定だった追加料金のうち、一件は金額が決まった。


 支払日は、早い方には間に合わない。


 もう一件は、まだ確認中だった。


 真鍋は、入金日を動かした表を出した。


 その先の支払いを並べ直す。


 契約上、決まっているもの。


 発注する前のもの。


 延期できるが、相手への確認が必要なもの。


 征一は、新たに出す予定だった調査の費用を見た。


「これも、入っていますね」


「はい。今日の合意の内容です」


 小さな支払いだった。


 会社全体から見れば、大きな金額ではない。


 ただ、次も、その次も入る。


 征一が一件ずつ進めた話が、同じ表へ来ていた。


「今週、こちらの発注は待てますか」


 真鍋が聞いた。


 まだ相手へ発注していない設備だった。


 現場へ確認が必要だった。


「待てるか、聞きます」


 征一は内線を取った。


 担当者を呼び、理由を聞く。


 納期を確認する。


 いつまでなら、必要な日に間に合うかを確かめた。


 その日まで、発注を待つことにした。


 払うべき給与や返済を遅らせる話ではなかった。


 まだ決めていない支払いを、いつ決めるかの話だった。


 征一は内線を置いた。


「こういうことを、先にしたいんですね」


「はい」


 真鍋は、日付を書き直した。


「今日、決めなくてよいものまで先に決めると、後で変えられるものが減ります」


 征一は、変更された日付を見た。



 夕方、銀行の担当者へ、真鍋の紹介のために電話した。


 征一が事情を伝え、受話器を渡す。


 真鍋は名乗った。


 資料の送付先。


 定例の報告。


 確認事項の連絡先。


 まず、今ある仕事の引き継ぎから話していた。


 新しい借入を頼む電話ではなかった。


 電話が終わると、真鍋は確認した内容を経理責任者へ共有した。


 征一は、自分の部屋へ戻った。


 机には、十五億円の返済予定表があった。


 以前からの借入も、別の行に残っている。


 ビルの家賃は続いていた。


 新拠点にも、仕事がある。


 人が入り、その人たちが動くことで、征一が受け取らずに済む電話が増えた。


 一方で、征一が先へ進もうとした時、隣から確認を求める声も増える。


 欲しかったのは、会社を動かせる人だった。


 動かすために、今日はここで待つと言う人も、その中にいた。



 帰る前、征一は経理の机へ寄った。


 真鍋と経理責任者が、翌週までの予定を合わせていた。


 銀行へ出す資料。


 荷主へ確認する金額。


 調査の見積もり。


 採用した二人の、次の給与。


 全て、前からあった仕事だった。


 真鍋は、それらを一枚の予定へ移していた。


「明日の午前、少し時間をいただけますか」


 征一に気づくと、真鍋が言った。


「何時ですか」


「九時から。今日持ち帰った条件を、社長が先方へ返事をする前に、確認したいです」


 征一は手帳を開いた。


 九時には、電話を一本入れるつもりだった。


 相手の名前を見た。


 その下へ、真鍋の名前を書いた。


「分かりました」


 真鍋は、手元の予定にも時刻を入れた。


 征一は部屋へ戻り、机に残っていたメモを取った。


 倉庫の持ち主へ伝えるつもりで、朝、書いたものだった。


 来月、開始準備。


 その文字を、一本の線で消した。


 すぐ下へ書く。


 調査結果と費用確認後、回答。


 書き終えても、気持ちは少し先へ走っていた。


 窓の外には、戻ってきた車が止まっている。


 運転手が降り、事務所へ歩いてきた。


 明日も仕事がある。


 次の仕事も、取りたかった。


 征一は受話器を引き寄せた。


 倉庫の持ち主の番号を見てから、受話器を戻した。


 先に、真鍋との約束が入っていた。

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