第九章『観測という行為』
踏切の音は、まだ鳴っていない。
だが、時間は近づいている。
俺と椎名は、例の場所から少し離れた位置に立っていた。
直接見ないためだ。
“観測”を避けるために。
「本当に、見なくていいのか」
俺は低く呟く。
「はい」
椎名は即答した。
「むしろ、見ない方がいい」
その言葉には、迷いがなかった。
「見た瞬間に、固定されるんだろ」
「そうです」
あまりにも単純なルール。
だが、その単純さが現実感を奪う。
「じゃあ、逆に言えば」
俺は視線を踏切から外したまま、言う。
「見なければ、まだ決まってない」
「はい」
短い肯定。
「ただし」
一拍。
「完全に自由というわけではありません」
「どういう意味だ」
椎名は、少しだけ考えるように目を細める。
「“観測される可能性”があるものは、収束します」
「収束?」
「はい」
彼女は地面に視線を落とし、続ける。
「例えば、サイコロを振るとします」
突然の例え話に、一瞬戸惑う。
「出る目は振るまで決まっていません」
「……まあ、そうだな」
「でも、一度見てしまえば、それは固定される」
「当たり前だ」
「この町で起きているのは、それと同じです」
顔を上げる。
「違うのは、“振る前に結果だけが見えている”こと」
背筋が、わずかに冷える。
「そして」
椎名の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「見えた結果に、現実が合わせにいく」
沈黙。
風の音だけが、耳に残る。
「……じゃあ」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺たちは、結果に従わされてるのか」
「いいえ」
椎名は首を振る。
「あなたが見たから、そうなるんです」
その言葉は、静かに突き刺さった。
「責任の話か」
「はい」
一切の躊躇なく、彼女は言い切る。
「観測するということは、その未来を選ぶことと同じです」
踏切の警報が、遠くで鳴り始める。
カン、カン、カン。
反射的に、そちらを見そうになる。
「見ないでください」
鋭く、椎名が言った。
初めて聞く強い口調だった。
俺は、ぎりぎりで視線を止める。
呼吸が、浅くなる。
音だけが、近づいてくる。
何が起きているのか、見えない。
だが、確実に“何か”が進行している。
数秒。
いや、数十秒か。
やがて。
警報が止まった。
静寂。
何も起きなかったかのような、静けさ。
「……終わったのか」
「はい」
椎名の声も、元に戻っている。
「少なくとも、“確定はしていません”」
その言葉の意味を、ゆっくりと噛み締める。
見ていない。
だから、固定されていない。
つまり――
まだ、取り返せる可能性がある。
胸の奥に、小さな光が灯る。
だが同時に、わずかな恐怖も生まれていた。
見なかったことで、何を見逃したのか。
その代償は、どこに現れるのか。
まだ、わからない。




