第八章『娘』
踏切の音が、頭の奥に残っていた。
カン、カン、と規則的な音が、思考の隙間に入り込んでくる。
あの場所で、誰かが死ぬ。
あるいは、誰かを助けて、別の誰かが死ぬ。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
気づけば、車を走らせていた。
行き先は、考えるまでもなかった。
信号をいくつか越えて、住宅街に入る。
見慣れたはずの道。
だが、もう自分の居場所ではない場所。
車を止める。
エンジンを切ると、急に静かになった。
目の前の家を、しばらく見つめる。
カーテンは閉まっている。
だが、生活の気配はある。
インターホンに手を伸ばして、止める。
何を言うつもりだ。
今さら。
それでも、指は勝手に動いた。
ピンポン、と軽い音が鳴る。
数秒の沈黙。
足音。
ドアが、開く。
「……誰」
少し低くなった声。
だが、すぐにわかった。
「……ああ」
目が合う。
娘だった。
最後に会ったのは、いつだったか。
思い出そうとして、やめる。
どうせ、ろくな別れ方じゃない。
「何」
ぶっきらぼうな声。
警戒している。
当然だ。
「……ちょっと、顔見に来ただけだ」
自分でも驚くほど、情けない言い訳だった。
「用がないなら帰って」
即答。
ドアが閉まりかける。
「待て」
思わず、手を伸ばす。
ドアに触れる寸前で、止めた。
触れていいのか、わからなかった。
「……何」
少しだけ、ドアが開いたままになる。
その隙間から、娘がこちらを見ている。
背が伸びていた。
髪も、少し長くなっている。
知らない時間が、そこにあった。
「……元気か」
間抜けな質問だった。
「見ればわかるでしょ」
冷たい返事。
だが、完全に拒絶されているわけでもない。
その微妙な距離が、余計に苦しい。
「学校は」
「普通」
会話が続かない。
昔は、どうしていたんだ。
思い出そうとして、思い出せない。
いや、違う。
思い出したくないだけだ。
「……最近、変なことないか」
娘が眉をひそめる。
「は?」
「その……危ないこととか」
「何それ」
当然の反応だ。
説明できるはずがない。
“三日後に死ぬ”なんて。
言葉を探す。
だが、何も出てこない。
沈黙が落ちる。
「……もういい?」
ドアが、少しだけ閉まる。
「待て」
また同じ言葉。
だが今度は、少し違った。
「……これ」
ポケットから、何かを取り出す。
小さなキーホルダー。
古びたキャラクターのやつだ。
「前に、欲しいって言ってただろ」
娘の視線が、それに落ちる。
一瞬だけ、表情が揺れた。
「……いつの話」
「……昔だ」
曖昧に答える。
本当は覚えている。
だが、具体的に言葉にする勇気がなかった。
娘は少しだけ迷ってから、それを受け取った。
「……別に、いらないけど」
そう言いながら、ポケットに入れる。
嘘だ。
少なくとも、完全な拒絶ではない。
「じゃ」
ドアが閉まる。
今度は、止めなかった。
閉まったドアを、しばらく見つめる。
胸の奥に、妙な感覚が残る。
後悔とも、安堵とも違う。
ただ――
遅すぎた、という感覚。
車に戻り、エンジンをかける。
そのとき、ふと思う。
もし。
もし、この町のルールが、あいつにも適用されるなら。
いつか――
あいつの“死体”が、届く日が来るのか。
ハンドルを握る手に、力が入る。
「……ふざけるな」
小さく呟く。
そんな未来、認めるわけにはいかない。
だが同時に、理解している。
俺には、それを止める力がない。
いや。
違う。
あるかもしれない。
見なければ。
確定させなければ。
その可能性だけが、かすかに残っている。
信号が青に変わる。
アクセルを踏みながら、俺は初めてはっきりと思った。
守りたいものがあるなら、選ばなければならない。
たとえそれが、誰かを見捨てる選択でも。




