返事がない
医療車が動き出した。
玲奈先輩は僕の隣へ座り、医療スタッフが固定具を確かめる。前を走る車から、確認済みの退避路へ入るという連絡が届いた。
「湊。今、Sは?」
(S)
――いる。
「います」
「頭痛や吐き気は?」
「ありません。Sも、今はないって」
先輩が頷く。通信の向こうでは、現地班が別の旧保守区画へ向かっていた。
『送信元候補を絞りました。第二地点から北へ約八百メートル。短い指示を出した区画です』
『医療車周辺でも外部出力の変化を確認。表示だけではありません』
僕は手を握った。
さっきまで機械の中で並んでいた言葉が、身体のすぐ外へ来ている。車が曲がり、窓の向こうの灯りが横へ流れた。
――画面、見なくていい。
(でも、止まったかどうか)
――止まったら、ちゃんと言ってくれるだろ。
僕は端末から目を離した。隣にいる先輩の袖と、自分の膝が見える。
(聞こえてるよ)
――知ってる。
そのぶっきらぼうな返事で、少しだけ息ができた。
◇
『旧保守区画、到着。周辺に人はいません』
現地班の報告が入った。
送られてきた映像を、先輩が確認している。僕は見なかったけれど、隊員たちが筐体を開ける音と、短い指示が聞こえた。
『外部から受けた指示が、内部に保存されています。通信を切っても動作が残る構成です』
白峰主任の声が続く。
『通信と出力の両方を切る。周囲への出力を測りながら進めて』
『通信部、分離。出力は継続』
車がもう一つ角を曲がった。
その瞬間、頭の奥で、Sの気配がずれた。
耳に聞こえる音は変わっていない。車輪が路面を踏む振動も、医療スタッフの声も近いままだ。でも、いつも返事が来るはずの場所が、うまく分からない。
(S?)
――聞こえ、てる。
「先輩。声が遠い」
言い終える前に、先輩の手が僕の手首へ触れた。
「分かった。話せるところだけでいい。身体はここに預けて」
『出力部の取り外しに入ります。固定が内側へ回っている』
『給電も並行して落とす。蓄積側を確認して』
現地の報告を聞きながら、僕はもう一度Sを呼んだ。
返事より先に、頭の奥へ鋭い痛みが走る。
「っ……!」
目の前が白くなった。先輩の手を握り返そうとして、指先が言うことを聞かない。
――湊。
声がした。
(いるよ!)
――聞こえる。
まだ聞こえている。僕の声も、Sへ届いている。
『電源本体を分離。蓄積側に出力が残っています』
隊員の声に重なって、工具が硬いものへ当たる音が続いた。表示の給電が落ちても、外部測定の値はまだ下がりきっていないという。
『出力の接続を外します。そこから離れて』
僕は隣の袖へ指をかけた。
(S)
――いる。
(もう一回)
――しつけぇな。
ほんの少し、笑ったように聞こえた。
でも、その声がどこにあるのか分からない。遠くへ追いかけようとしても、近くへ引き戻そうとしても、僕には何も掴めなかった。
――湊。返事。
(いるよ)
すぐに答える。ちゃんと返せと言われたのだから、返したかった。
(Sも、返事して)
――いるって。
僕は喉を詰まらせながら、もう一度名前を呼んだ。
――湊、
その声が途中で切れた。
急に静かになった、というのとも違った。車の音はする。誰かが僕の名前を呼んでいる。握っていた袖の感触も分かる。
ただ、Sへ返そうとした言葉だけが、どこにも届かなかった。
(S?)
いつもの間を待った。
返事は来ない。
「……S」
声に出した。隣の先輩が、僕の顔を覗き込む。
「湊」
「返事が、ありません」
言った途端、もう一度呼ばなければと思った。聞き違いかもしれない。僕が気づかなかっただけかもしれない。
(S)
何も返らなかった。
『出力部、分離完了!』
通信の向こうで声が上がる。
『外部測定、低下。蓄積側も隔離できました』
少しして、ゼロを確認したという報告が届いた。医療車の周辺でも同じことが確かめられた。
止まったのだ。
僕は待った。
でも、Sは何も言わなかった。
◇
管理局の医療区画へ着いても、声は戻らなかった。
医師の診察を受け、痛みと身体の状態を確かめてもらう。白峰主任が来た時、僕はベッドの上で何度も手を開いたり閉じたりしていた。
僕の思った通りにしか、動かない。
「交代を、確かめたいです」
僕が言うと、主任は医師と確認してから椅子を寄せた。
「強く引き出そうとしないこと。刺激を加える検査はしない。普段通りに呼びかけて、受け取る感覚があるか、一度だけ聞かせて」
僕は目を閉じた。
(S。任せるよ)
いつもなら、向こうが受け取るのを感じられる。面倒くさそうな返事だったり、先に身体の具合を聞かれたりする。
今日は何もなかった。
自分の意識を引こうとしても、手足を受け取る相手が感じられない。目を開けても、僕のままだった。
「できません」
声が裏返った。
通常の検査でも、Sに結びつく反応は確認できなかった。主任は結果を何度も見直したあと、僕から目を逸らさずにそう伝えた。
「消えたんですか」
「この結果だけでは、そうは言えない」
「じゃあ、いるんですか」
主任の口が止まった。
頷いてほしかった。ここにいるから心配するなと、今だけでも言ってほしかった。
「今の方法では、確認できない」
主任はそう答えた。
僕はシーツを握った。もっと強い何かがあれば、と考えかけた。痛みでも危険でも、Sが黙っていられなくなるような何かがあれば。
けれど、握っていた手をゆっくり開いた。
人を呼べ、とSは言った。僕自身も、傷つけば答えが分かるわけではないと知っている。
「先輩」
玲奈先輩の袖を、今度は自分から掴んだ。
「一人にしないでください」
「ここにいる」
すぐ返事があった。僕はその手を離せなかった。
◇
牧野さんが来たのは、僕が少し落ち着いてからだった。
何を聞けて、いつ返事が途切れたか。途中で休みながら、分かるところだけ話した。
記録の画面には、僕の回答欄とSの回答欄が分かれていた。牧野さんはS本人の言葉を書く場所を空けたまま、別の経過欄へ確認できない状態を記している。
「僕が、何か答えても」
「Sさんの回答にはしません」
言い終わる前に、静かな声が返った。
「返事がないことを、同意にも、消滅にも置き換えません。名前も記録も、そのまま残します」
僕は頷いた。
残っている名前を見ても、そこから声が出てくることはなかった。
◇
医療室の照明を落としてもらったあと、僕は鞄から感想文を取り出した。
母には先輩から連絡してもらった。何を聞かれても、今はうまく説明できる気がしなかった。水を飲む時も、紙を取る時も、つい内側へ声をかけてしまう。
(ちょっと、そこ)
言いかけて、何を頼もうとしたのか分からなくなった。鞄を開けるのは、僕の手でできることだった。
サメのキーホルダーが、ベッドの柵へ当たった。
Sが嫌がると思い、僕は鞄を引き寄せる。引き寄せてから、何も言われなかったことに気づいた。
感想文を裏返す。
『次は名前もちゃんと見る。四周する』
Sの筆圧で、紙の裏まで少し膨らんでいた。指でなぞると、その跡が分かる。
(四周は多いよ)
待っても、言い返されない。
(クラゲだって見るからね)
それでも静かだった。
水族館の帰り、次は焼肉パンを持っていくと言っていた。今日も帰りに食べるものを相談していた。宿題は手伝わないと言いながら、間違いだけは教えるつもりだった。
その続きを、僕だけが覚えているような静けさだった。
僕は紙を胸へ寄せた。
いつから一緒だったのか、最初の日を思い出せない。学校へ入る前から、こんな力を知る前から、Sの声はそばにあった。うるさいと思って返事をしなかった日も、何を言われても聞こえないふりをした日もある。
今は、何でもよかった。
文句でも、悪口でも、宿題の間違いでもいい。四周すると言ってくれたら、もう回数で揉めたりしないと思った。その考え方までSに笑われそうで、僕は顔を上げた。
「S」
先輩が隣の椅子から身を寄せた。でも、僕が待っている返事は来なかった。
涙が紙へ落ちそうになり、慌てて胸から離した。文字を滲ませたくなかった。机へ置こうとして、手が震えた。先輩が下から支え、紙を平らなところへ置いてくれた。
僕は空になった手を握り、声が出るままに泣いた。
装置は止まった。ここまで帰ってこられた。Sの名前も、自分で書いた字も、買ったサメも残っている。
どうして、返事だけがないのだろう。
「……おやすみ、S」
眠れる気はしなかった。それでも、いつもの言葉を口にした。
面倒くさそうでもいいから、返してほしかった。
いつもなら、「おう。おやすみ」と返してくれる。
その短い返事を、僕は待った。
消灯後の廊下を誰かが歩き、扉の外で足音が遠ざかっていく。隣で先輩が椅子を引く音がした。自分の息も、まだうまく整わなかった。
そのどこにも、Sの声はなかった。




