返事を待ってしまう朝
窓の外で、何かが鳴っていた。
鳥かと思ったけれど、目を開けると、廊下を通る配膳車の音だった。白い天井と、半分だけ閉じたカーテンが見える。管理局の医療区画で一晩を過ごしたことを、僕は少しずつ思い出した。
(S。朝だよ)
呼びかけてから、思い出したくなかったところまで戻ってきた。
返事はない。耳には配膳車の車輪も、扉の外で交わされる挨拶も聞こえているのに、いつも横槍を入れてくる声だけがなかった。
布団から出した手を、握って開く。昨日も何度もやったことだった。僕が動かそうと思えば動く。その先を確かめたくなって、指を止めた。
受け取る感覚のない交代を、今朝も繰り返してはいけない。
「……おはよう」
声に出すと、喉が痛んだ。泣いたあとだからだろう。枕へ顔を寄せたところでカーテンが開き、玲奈先輩が入ってきた。
「眠れた?」
「少しは。いつ寝たのか、分かりません」
頭痛と吐き気は今はない。右肩は寝返りを打つと痛むし、脛の重さも残っている。順番に答えたあと、僕は先輩を見た。
「Sは、まだです」
「うん」
先輩は、もう一度呼んでみて、とは言わなかった。椅子をベッドへ寄せ、食事の載った台を動かしてくれる。
ご飯と味噌汁と卵焼き。箸を持っただけなのに、これを全部食べるのは無理だと思った。
「残してもいいですか」
「食べられた量を伝えればいい。最初から全部食べる約束はしてない」
卵焼きを箸で割る。どちらから食べるかなど、Sに聞かなくても決められる。それでも僕は、口へ運ぶ前に少し待ってしまった。
結局、その一切れを皿へ戻した。
「大丈夫です」
聞かれる前に言っていた。先輩が何も返さないので、自分の声の不自然さが余計にはっきりした。
「……大丈夫じゃないです」
「何が一番つらい?」
「分からないです。今、食べないと怒られると思って。でも、怒られないから」
箸の先が皿に触れ、かち、と鳴った。
「僕、毎回こんなことになるんですかね。ご飯のたびに」
先輩はすぐに答えなかった。卓上のティッシュを僕の手の届くところへ置き、味噌汁の蓋を取った。
「今朝のことだけ、今は考えよう」
湯気が細く上がった。僕はしばらくそれを見てから、卵焼きを半分だけ食べた。味はちゃんと分かったし、もう半分なら食べられそうだった。
けれど、次の箸を伸ばすまでには、また時間がかかった。
◇
午前中、白峰主任が医師と一緒に来た。
昨夜の装置は停止したままで、医療区画の周辺にも同じ出力は確認されていない。それでも、Sに結びつく反応は戻っていなかった。
「戻す方法も、まだ分からないんですね」
「そうだ。今ある記録を調べている」
主任は椅子に腰を下ろした。僕が黙っていても、次の検査の準備を始めたりはしなかった。
昨日のことを思い出す。もっと強い刺激を加えたら、Sが出てくるのではないかと、一瞬考えた。今朝も、考えなかったわけではない。
でも、痛くすれば答えが分かるわけではない。そのくらいのことは、Sに止められなくても僕は知っていた。
「僕が何もしていない間も、調べてもらえますか」
「もちろん」
「学校へ行ったり、眠ったりしていても?」
聞いてから、変な質問だと思った。主任は笑わなかった。
「君がずっと画面を見ていないと進まない仕事にはしない。身体を確かめる必要がある時は、その理由から説明する」
僕は頷いた。ほっとしたはずなのに、胸の苦しさはあまり変わらない。
何かをしていれば、待つ時間を短くできる気がしていたのだ。
「今は、何もしないのもつらいです」
「それは医師にも伝えてほしい。原因を調べる仕事と、今日を過ごせるようにする仕事は、両方進める」
僕は、まだ机に残っていた朝食を見た。ご飯はほとんど減っていなかった。
「食べるのに、時間がかかります」
まずはそれから話すことにした。
◇
母が来たのは昼前だった。
顔を見るなり抱きしめられ、僕は思わず息を詰めた。母はすぐに腕を緩める。
「ごめん。肩、まだ痛いんだった」
「うん。でも、今のは平気」
母は椅子に座り、持ってきた着替えを膝へ置いた。何か聞こうとして、やめたように見えた。
「S、返事がないんだ」
僕から言うと、母は小さく頷いた。
「三枝さんから聞いた」
「僕も、それ以上はうまく説明できない」
「今、説明しなくていい」
持ってきた袋から、いつものタオルが出てきた。次に下着、それから、なぜか靴下が何足も並ぶ。
「こんなに泊まるつもり?」
「何を入れたか分からなくなって、もう一回入れたの」
「数えればいいのに」
「それができたら、こうなってないでしょ」
少し笑ってしまった。母も笑ったけれど、すぐ目元を押さえた。僕は膝の上の靴下を、同じ柄ごとに揃えた。
机のスマートフォンには、美月から連絡が来ていた。学校のプリントを取っておく、と書いてある。
母へ画面を見せ、電話をかけてもいいか先輩に確かめた。授業の合間かどうかを短くメッセージで聞くと、すぐに通話が返ってきた。
『湊? 今、話せる?』
「うん。朝倉に、伝えたいことがある」
喉のところで言葉が詰まった。内側へ助けを求めそうになり、それを待つ代わりに、机の縁へ手をつく。
「Sが、聞こえなくなったんだ。交代もできなくて。検査でも、今は確認できないって」
向こうで息を吸う音がした。
『……今、一人?』
「母さんと、三枝先輩がいる」
『そっか』
美月は、それなら大丈夫だとは言わなかった。
『学校で何か聞かれたら、どこまで話していい?』
「体調が悪くて休んでるって。倉田には、今言ったところまで伝えていい」
『分かった。プリント、急いでやらなくていいからね』
「ありがとう」
電話を切ると、話している間は我慢できていた涙が落ちた。母がタオルを一枚広げ、僕に渡した。
美月へ伝えられたからといって、平気にはならなかった。
それでも、明日もう一度同じ説明をしなくていい。それだけは、少し助かった。




