交代する時間がない
水族館から数日経っても、Sは鞄につけたサメの位置にうるさかった。
――そっちにつけると壁に当たる。
(君がつけたんだよ)
――じゃあ直せばいいだろ。
帰り道、美月が指でサメを揺らす。
「やっぱり気に入ってるじゃん」
「壁に当たるのが気になるらしいよ」
「大事にしてるねえ」
――からかってんのか。
僕が返事を伝える前に、歩道の向こうで金属が軋んだ。
「下がって!」
工事用のベストを着た男性が叫ぶ。
外壁工事の昇降機だった。資材を載せた荷台が大きく傾き、柵の内側で金属板が滑っている。非常停止のボタンが押され、続いて電源を切る声がした。モーターの音は消えたのに、傾いた台は止まらなかった。
「吊ってる側を支えろ! 下へ入るな!」
作業員たちが動く。登下校の警戒で同行していた玲奈先輩も、すぐ僕たちの前へ出た。
「朝倉、消防へ。倉田、歩道の手前で人を止めて。道路へ飛び出させないで」
「分かった!」
美月が電話を取り出し、倉田が歩いてくる人へ大きく腕を振る。
僕も下がろうとした。その時、外れた柵の棒が跳ねた。
避けたつもりの足に硬いものが当たり、脛に鋭い痛みが走る。僕は膝をついた。古い傷の痛みとは別に、今受けた衝撃が身体の奥へ溜まっていく。
MPが生まれる感覚だった。
――立てるか。
(立てる。でも、痛い)
「湊、柵から離れて」
玲奈先輩の指した場所まで、僕は手をついて下がった。その向こうから、別の声が聞こえた。
「足が抜けない!」
作業員が一人、倒れた資材に脚を挟まれていた。二人の同僚が道具を差し込み、資材を持ち上げようとしている。頭上ではロープを掛けた荷台が軋み、端へ寄った金属板を別の作業員が見上げていた。
僕が腰を浮かせると、先輩の腕が前へ出る。
「動く前に、どこへ出すか確認して」
慌てて足元を見る。最短の出口には変形した安全柵が倒れ込み、その向こうは通行人を退避させた歩道につながっていた。
(S。あの人を運ぶなら、速さがいる)
――そうだな。でも、今は加速に回せるSPがねぇ。
現場の責任者が、倒れた柵を指した。
「そこの出口を開けたい! 柵がねじれて動かないんだ!」
作業員の手に、長い工具があった。台を支える方へ呼ばれ、柵を外す作業を中断していたらしい。
僕は玲奈先輩へ言った。
「Sへ交代します。出口を開けて、脚が抜けたら運びます。僕が戻らないとできない作業は、頼んでください」
先輩は責任者と退避先を確かめ、頷いた。
「運ぶのは一度。受け取る人は向こうにいる。救助のあとに交代を重ねないで」
(任せるよ)
――おう。
僕は柵から離れた場所で身体を低くし、Sへ意識を譲った。
視界が揺れる。Sは地面へ手をつき、息を吐いてから立った。脛の痛みも肩の重さも、消えていない。
「頭は?」
「重いけど、揺れは収まった」
Sは作業員から工具を受け取り、まだ普通の速さで柵へ向かった。
荷台を固定する声が飛ぶ。先輩が退避口の人を下がらせると、Sは工具を振り、ねじれて引っかかった柵の金具へ叩きつけた。金属が裂け、もう一度押し倒すと出口が開く。
危険な柵を壊したことで、Sの側へSPが溜まった。
――これで行ける。
資材が持ち上がり、男性の足が抜けた。
「今だ!」
SがSpeedを使った。
狭い隙間へ踏み込み、男性の身体を肩と腕で支える。作業員たちが持ち上げていた資材を下ろすより早く、Sは開いた出口へ向かっていた。
頭上で、何かが外れた。
荷台の端に残っていた金属板が滑り落ちる。真下は、僕たちの進路だった。
(右!)
――曲がりきれねぇ!
Sは既に身体をひねっていた。でも、抱えた男性の重さが外へ振られる。加速をやめるだけでは、前へ進む勢いまで消せない。交代して僕が表へ出る時間など、もっとなかった。
右側には、先輩たちが空けた歩道がある。
僕の中には、脛を打たれた時のMPが残っていた。Sへ渡したものではなく、まだ僕自身が持っている力だ。
(S、そのまま! 僕が右へ押す!)
返事を待つ間もなく、彼が踏み込む足の感覚へ意識を向けた。
自分の足を動かそうとしたのではない。Sが地面を蹴る、その一瞬へ、自分の力を重ねようとした。
Momentum。
靴底と地面の間で衝撃が弾けた。
僕は内側にいる。それなのに、自分のMPが確かに減っていく。Sの加速は続いたまま、僕たちの身体が斜め右へ押し出された。
金属板が左側へ落ち、足元から轟音が突き上げた。
Sは作業員をかばいながら歩道へ転がり込んだ。二つの力が途切れた途端、頭の奥を殴られたような痛みが走る。
「ぐっ……!」
視界が白くちらつき、腕が震えた。Sが息を吸おうとしても、吐き気で喉が詰まる。僕も内側で声を失った。
「動かないで!」
玲奈先輩が駆け寄る。作業員は別の人たちに受け取られ、Sの腕から重みが離れた。
――今、お前……。
(分からない。僕も、どうやったのか)
あの一発に使ったMPは尽きていた。Sも、もう加速する分は残っていないと言った。現場へ戻れる状態ではない。
「助けた人は」
Sが掠れた声で聞く。
「意識はある。向こうで処置する。あなたたちはここで止まって」
先輩に支えられて横になると、遠くのサイレンが近づいてきた。
傾いた台は作業員たちが固定を続けている。僕たちの通った出口へ、救急隊員が入ってきた。誰かが仕事を引き継いでくれたのを見て、ようやく息が抜けた。
診察を受ける間もSが表にいた。質問へ短く答える合間に、彼が内側へ声を落とす。
――同時だったよな。
(うん)
確かめるためにもう一度使おうとは思わなかった。身体が拒んでいるのが分かるし、使える力も残っていない。何より、手順を説明しろと言われても僕にはできなかった。
それでも、あの一瞬、SのSpeedは切れていなかった。僕はその間に、自分のMomentumを使った。
(できた、のかな)
――一回だけな。
痛そうな声に、少しだけ笑いが混ざっていた。
運ばれる途中、助けた男性が横の担架から手を上げた。Sが上げようとした手を、先輩がそっと戻す。僕たちは頷くだけにして、救急車へ乗せてもらった。




