二周目のトンネル
校外学習の朝、鞄はいつもより軽かった。
教科書の代わりに入っているのは、しおりと財布と飲み物、それから体調についての学校用の確認票だ。別紙にはSの文字も残っている。
『俺もトンネルを見る。二周目』
――何回確認すんだよ。
(忘れ物がないか見てるだけ)
――紙より財布見ろ。飯買えなくなるぞ。
バスの座席で鞄を閉じると、隣の美月が窓から顔を戻した。
「S、もう起きてる?」
「朝からずっと」
「じゃあ、クラゲも忘れてないって伝えといて」
――お前も何回確認すんだよ。
前の席から倉田が振り返る。
「着く前から疲れそうな班だな」
「僕、まだ何も言ってないよ」
「顔がうるせぇ」
美月に笑われて、僕は窓の方を向いた。バスが曲がると、鞄の中で水筒が小さく転がった。
◇
最初の大水槽で、僕たちはしばらく動けなくなった。
青い光の奥を魚の群れが流れていく。群れが向きを変えるたび、一匹ずつ光ったはずの鱗が、銀色の大きな布みたいにつながって見えた。
「あ、今の見た?」
美月が僕の袖を引く。頭の上を、翼を広げたようなエイが通っていた。
「見た」
――腹、あんな顔なんだな。
(顔じゃないと思うけど)
その先が、待っていた水槽トンネルだった。
一周目は僕が表のまま入る。頭上まで水に囲まれると、足元の床だけが妙に細く見えた。魚の影が靴の先を横切り、見上げていた僕は危うく前の人へぶつかりそうになる。
――前も見ろ。
(見てるよ)
――上しか見てねぇだろ。
注意しているSも、サメが横切った瞬間には黙った。僕は出口まで何度も首を上げ、外へ出たところでやっと息を吐く。
「どうだった?」
「もう一周したい」
「うん。それは知ってた」
美月は笑って、次の展示の矢印を指した。
クラゲの部屋では、水槽の淡い光が皆の顔まで青く染めていた。透明な傘が閉じたり開いたりしながら、ゆっくり上へ動いていく。
(どう?)
――遅ぇ。
(感想、それだけ?)
――さっきと同じ場所にいるぞ、あいつ。
「S、何て?」
「一匹、ずっと見てるみたい」
「気に入ったんだ」
――観察してるだけだ。
美月へ伝えようとしたら、笑いが先に出た。暗い部屋では少し響いてしまい、僕は慌てて口元を押さえる。
肩が重くなってきたので、休憩スペースへ向かった。途中、天井に畳まれた防火シャッターの下で、美月の歩みがわずかに鈍る。
「私、あっちの明るい通路から行くね。椅子のところで合流しよう」
「うん。僕もそっちでいい?」
「もちろん」
先生へ伝えてから、案内図でつながっている方へ回った。少し遠回りだったけれど、その通路には小さな魚の水槽が並んでいて、美月は途中で二度足を止めた。
◇
椅子へ腰を下ろすと、担任が様子を見に来た。
肩は少し重い。脛も張っているけれど、座ると落ち着く。僕がそう伝えると、先生はSの希望も確かめてから言った。
「交代したら、揺れが収まるまでここで休め。二周目は、その後で決めよう」
――行くつもりで休むからな。
(うん。でも、駄目なら言ってね)
僕は背もたれへ身体を預け、Sへ任せた。
視界が揺れ、遠くの話し声が少し響く。Sはすぐには立たず、水を一口飲んでから目を閉じた。美月も倉田も、隣の椅子で待っている。
「頭、まだ重い?」
美月に聞かれ、Sが目を開けた。
「だいぶまし。肩は同じだな」
「じゃあ、ゆっくり行こう」
先生へ声をかけてから、僕たちはトンネルへ戻った。
Sは入口をくぐると歩幅を狭めた。前を歩く人との間を空け、天井の継ぎ目に沿って視線を動かす。
さっきも見たサメが頭上を通った。
「でか……」
思わず出たような声に、美月が振り返る。
「サメ好き?」
「別に」
「すごく見てるけど」
「でけぇから見てんだよ」
Sはそう言いながら、サメが水槽の奥へ消えるまで動かなかった。僕にも同じ姿が見えている。ただ、自分ならそろそろ歩き出したかもしれない場所で、Sはまだ待っている。
(どう?)
――すげぇな。
今度は内側に、小さな声が返った。
出口で美月が時計を見ると、Sもすぐに覗き込んだ。
「もう一回いけるだろ」
「二周目は今ので終わったよ?」
「今のは下見」
(ずるい)
――お前も、さっきのサメもう一回見たいだろ。
否定できずに黙ると、Sが少し得意そうに鼻を鳴らした。
倉田がしおりを開く。
「売店を短くすれば間に合う。でも、これで最後な」
「分かってる」
先生へ確認し、僕たちはもう一度入口へ戻った。Sは今度こそ立ち止まりすぎないように歩いたけれど、サメが来るとやっぱり少し足が遅くなった。
◇
帰り際の売店で、美月はクラゲのキーホルダーを選んだ。
Sも、少し離れた棚の前で止まる。黒っぽいサメの、小さなキーホルダーが並んでいた。
(欲しい?)
――見てるだけだ。
(見学時間、ここにも使うんだね)
――うるせぇ。値段見てんだよ。
財布を確かめたあと、Sは一つ取ってレジへ向かった。会計を済ませ、鞄につけたサメを美月が覗き込む。
「やっぱり好きなんじゃん」
「記念だよ」
「はいはい」
バスに乗る前に休憩を取り、僕へ戻した。交代のあとの頭の重さに、今日は歩いた疲れも加わっていた。座席へ身体を預けると、すぐに眠ってしまいそうだった。
(楽しかった?)
――まあな。
(また来る?)
――来てもいい。
僕は鞄のサメを指で揺らした。
「また来ようか」
独り言を聞いた美月が、隣で顔を上げる。
「うん。次はもう少しゆっくり回ろう」
――四周。
(増えてるじゃん)
――お前も見たいだろ。
返す言葉を考えているうちに、バスが動き出した。サメの尾が窓に当たり、小さく音を立てる。
僕は鞄を少しだけ手前へ寄せた。Sはまだ、次に来る時の昼ご飯の話をしていた。




