水族館に行く前に
「真白、これ。家でも確認しておいてくれ」
担任から渡されたしおりは、いつものプリントより少し厚かった。青い海を背景に魚の写真が印刷され、表紙には水族館の名前が大きく載っている。
行き先が決まった時にも嬉しかったけれど、手に持てるものになると、いよいよ本当に行くのだという気がした。
――やっと来たな。
(何が?)
――しおり。口だけの予定じゃなかったらしい。
(先生を疑いすぎだよ)
席へ戻りながら笑いかけて、右肩に鈍い痛みが走った。脇に挟んだ鞄がずれたせいだ。机へ置き直すと、隣から美月が顔を覗き込んできた。
「まだ痛む?」
「うん。でも、前よりは」
「それ、この前も聞いた。今のはどのくらい?」
「鞄を持ち直した時に、ちょっと。置けば大丈夫」
「じゃあ、今日は机に置いとこう」
美月は僕の鞄のために、自分のしおりを少し引っ込めた。
――お前の扱い、上手くなったな。
(君も、痛い時はちゃんと言ってね)
――俺は言ってるだろ。
(言いながら平気なふりをする時がある)
返事が止まった。僕が口元を緩めると、美月が眉を上げる。
「またSと喋ってる?」
「うん。平気なふりをするかどうかで」
「どっちが?」
「両方」
――巻き込むな。
美月が吹き出した。教室の前では担任が配布物の枚数を数え、窓際では誰かがバスの席順を相談している。僕たちの会話も、そのざわめきの中に混ざっていた。
もちろん、何もかもが変わったわけじゃない。廊下で二度見されることも、知らない生徒に「今、どっちなの」と聞かれることもある。能力の存在が公表されたからといって、僕たちの事情まで皆が知っているわけではなかった。
それでも、しおりについていた別紙には、最初から僕とSの希望を書く場所があった。
新しく名前を認めてもらうための紙ではない。当日どこを見て、どこで休みたいかを書く紙だった。
「自由見学、けっこう長いね」
美月が自分のしおりを開いて、机を寄せる。
大水槽、深海生物、海獣エリア。配置図を指でたどっていた僕は、水槽の中をくぐる長いトンネルの写真で手を止めた。
――これだ。
(トンネル?)
――上も横も魚なんだろ。面白そうじゃねぇか。
「Sはトンネルを見たいって」
「私も。あとクラゲ」
――クラゲ? ずっと漂ってるだけじゃねぇの。
(それを眺めるんじゃない?)
――暇じゃねぇか。
「S、クラゲには厳しいみたい」
「見てもいないのに?」
美月は笑いながら、自分の配置図の二か所へ丸をつけた。
「じゃあ、トンネルのあとにクラゲね」
――俺の意見は。
(トンネルに行くところで採用されてるよ)
――都合のいい数え方すんな。
その抗議を伝えようとしたところで、予鈴が鳴った。美月が慌てて机を戻し、僕もしおりの間へ別紙を挟む。授業中に読まないように閉じたはずなのに、魚の写真が少しだけ端から見えていた。
◇
昼休み、僕たちは購買へ向かった。
階段を下りる時は手すりを使う。脛の痛みは歩けないほどではないけれど、長く動くと重くなることがあった。水族館でも途中に休憩を入れるつもりだ。急がずに下りている僕を、今日はSもせかさなかった。
――水族館って、肉あるか。
(魚ならいるけど、食べる方じゃないよ)
――知ってるわ。売ってる飯の話だ。
(軽食の店はあるみたい。メニューまでは載ってなかったけど)
――焼肉パン。
(それは購買で買っていけばいいんじゃない?)
――なるほど。
妙に素直な返事がおかしくて笑うと、前を歩いていた倉田が振り返った。
「何だよ」
「水族館に焼肉パンがあるかって話」
「知らねぇよ。魚見に行くんだろ」
「そうなんだけど」
購買の前で、倉田の視線が一度だけ僕の肩へ向いた。
「荷物、持ててんのか」
「今日は軽くしたから」
「ならいい」
倉田は扉を開けて先へ入った。僕も少し間を空けて続く。
普通に話せることは増えた。それでも、不意に近くへ来られると身体が固くなる時がある。今日も扉の前で一瞬ためらったけれど、倉田は振り返らず、後ろの人のために扉を押さえていた。
「ありがとう」
「おう」
僕はその横を通り、棚からカレーパンを取った。奥には焼肉パンも一つだけ残っている。
――湊。
(今日は、今すぐの交代はしないよ。午後も授業あるし)
――まだ何も言ってねぇ。
(食べたい顔してる)
――内側にいる奴の顔が見えんのかよ。
それは見えない。ただ、声でだいたい分かった。
財布の小銭を数える。飲み物を買わなければ二つとも買えそうだった。水筒は鞄に入っている。
(放課後、身体の調子がよかったら、自分で食べる?)
――食う。
(具合が悪かったら、別の日ね)
――分かったから、売れる前に取れ。
急かされて焼肉パンへ手を伸ばす。袋の上からでも、まだ少し温かかった。
レジの列で待っている間に、またトンネルの写真を思い出す。どこを見るか、何を食べるか。実際に行ったら、しおりを読んでいる今よりずっと揉めそうだ。
――トンネル、一周で終わる気ねぇからな。
(まだ一周もしてないのに?)
――もう一回見たくなるだろ、あれ。
僕もそう思っていた。だから頷きかけて、Sには声で返す。
(うん。時間があれば、もう一周しよう)
――よし。
列が進んだ。僕は二つのパンをレジへ置き、放課後の分を潰さないよう、そっと鞄にしまった。




