できなくても、一人にはならない
三つの転送点を止めても、保存された処理がすぐ消えるとは限らない。
白峰主任は、最初にそう説明した。
「通信を切ったあとも、内蔵電源で既に受け取った命令を繰り返す機器がある。だから、線を外すだけでなく、出力する部分を現地で使えなくする」
机の図には、観測記録を受け取る側、調整要求を転送する側、実際に出力へつながる接続が別々に描かれていた。
僕は椅子から動かなかった。学校で習うどの図より分かりにくいのに、分からないまま近づく方が危険だということは分かった。
――行くなよ。
(行かない。今、僕が行っても邪魔だ)
――そこまで分かってんならいい。
Sの声を聞きながら、僕は膝の上へ手を置いた。脛が痛む。肩も重い。MPはほぼ残っておらず、SのSPも使い切っていた。
それでも、休んでいる間に何もできなくなるわけではなかった。外の班は、僕たちが立ち上がらなくても動いている。
◇
「一か所目、出力側を切り離しました。残留の給電を確認中」
技術班の人が報告を読み上げた。
二か所目は通常の通信設備と共用していた。利用者側の通信を別経路へ移し、それが使えることを確かめてから、不審な機器だけを外す。
三か所目では、既に届いた命令の再送が続いている。通常の回線から切り離しても、蓄えた電源が残っていた。
三枝先輩は、現場の人へ急げと言わなかった。
「退避位置を確かめて。出力先の区画に人を入れないで」
返事を待つ数秒が長く感じた。僕が時計へ目を向けると、Sが先に言う。
――睨んでも進む速さ変わんねぇぞ。
(知ってる)
――ならこっち見ろ。
(どっち)
Sが黙った。少しだけ笑ってから、僕は時計から目を離した。
◇
牧野さんが、管理局側の記録用端末を机へ置いた。
「今回の調整で、何を拒否したのかを残したいと希望されていましたね。今、説明を聞けますか」
僕は頷き、Sにも聞いた。
これは相手の試験へ返答を送る画面ではない。正式な記録を古い回線へつなぎ直すことも、新しい能力反応を取ることもない。僕たちが何を望んだかを、後から別の意味に変えられないよう残すためだった。
「M側を主に固定し、S側の身体を動かす要求を止め、能力出力だけを通す調整です」
牧野さんは、研究側の表示と、それに対する説明を並べた。
「僕は参加しません」
僕は画面へ触れず、自分の言葉で答えた。
「Sの身体の使い方も、能力も、僕が一人で決められるものではありません。救助で僕が先に動いたのは、その順番が必要だったからです」
入力された文を読んでから、もう一つ付け足す。
「二つの力を一緒に使える方法は、知りたいです。でも、この方法は望みません」
期待まで拒否したことには、したくなかった。
牧野さんはその違いも残してくれた。
次はSだった。
(直接言う?)
――言う。今なら代われるか。
僕は体調を具体的に答えた。頭痛と吐き気はない。足と肩は痛い。先輩にも確認してもらい、主導権を渡す。
視界が一度ずれ、Sがゆっくり指を開いた。すぐ質問を始めず、揺れが収まるまで待ってから、牧野さんが画面を向ける。
「Sさんは、今回の主従を固定する調整を希望しますか」
「しねぇ。逆でも同じだ。俺が主で、湊の身体への要求を止めるのも嫌だ」
僕は内側でその言葉を聞いた。
「湊から頼まれて、力を使うことはある」
Sが続ける。
「でも、湊がいいって言っただけで、俺のいいまで埋めんな。俺が聞いて、俺がやるって決める」
牧野さんは本人へ文面を確認してから記録を確定した。
Sが表へ出ても、僕の拒否は消えなかった。僕の拒否が先にあっても、それをSの返事として代用しなかった。
その間にも、現場の作業は進んでいた。
◇
「二か所目、通常通信の切り替え確認。不審機器を分離します」
報告のあと、地図の線が一本消えた。
別の画面では、今回の調整要求がまだ流れていた。三か所目の機器が、保存された救助記録を使って、試験の続きを組み立てている。
過去の出力データは有効。新しい返事のない部分は、記録された動作から補う。
Sが舌打ちした。
「こっちの返事、聞いてねぇな」
「今の記録は向こうへ送っていない。送れば納得するとも限らない」
主任が答えた。
「だから、返事を残すことと、危険な出力を止めることを別にしている」
機械の画面だけを見ていれば、僕たちはまた勝手に了承したことにされてしまう。それでも、こちらの記録を同じ嘘に合わせる必要はなかった。
三か所目から、短い声が届いた。
『保存分の再送を確認。回線側は隔離済み。出力部の切り離しに入ります』
先輩が端末へ顔を寄せる。
「作業位置は」
『防護板の後ろです。対象側の区画も無人を確認しています』
画面の処理が一段進んだ。
【PRIMARY LOCK:M】
Sの手が止まった。僕も内側で息を詰める。
けれど、身体を動かしているのはSのままだった。僕が勝手に表へ出ることも、Sの声が遠ざかることもない。
『出力部、分離しました。給電を外します』
少し遅れて現場の報告が入り、最後の経路にも停止の印が付いた。
主任が言った。
「今のロックは、相手側で設定した値だ。二人の身体がその状態になったという検査結果ではない」
Sは黙って聞いていた。
「何も起きなかったのは、要求を届ける経路を遮断し、現地で出力を外したから。意志が強ければ装置は効かない、という話にしないで」
「分かってる。……止めた奴らに礼言っとけ」
Sの指が緩んだ。僕も呼吸を戻す。
現地で保存した最後の応答には、対象側の反応を受け取れず、調整に失敗したと記されていた。
【CALIBRATION:FAILED】
誰も、その一語だけで終わったとは言わなかった。
外の測定班が、今回の調整用出力が対象へ届いていないことを確認する。三地点から残る電源を外した報告がそろい、避難した人たちに新たな異常がないかの確認も続いた。
最後の報告を聞いてから、三枝先輩が頷いた。
「今回の試験は止めた。二人は、もう休んでいい」
Sが椅子の背へ身体を預けた。僕も同じ身体の奥で、ようやく長く息を吐けた。
◇
三つの機器を外しても、全人類を強制覚醒させようとする計画の終わりにはならなかった。
別地域の同系統の通信、誰が機器を取り付けたのか、今誰が運用しているのか。調査は残っている。MASTERの名も、僕たちの過去も、それだけで答えが出たわけではない。
けれど、今回使われるはずだった場所では、人を試験のために動かさずに済んだ。
M-32さんたちやD-01の治療も、そのまま続いた。比べるために呼び出された人はいないと聞いて、僕はSと一緒に安堵した。
身体を返してもらう前に、Sが主任へ聞いた。
「あの二本の線、残すんだろ」
「残す。誰の何の記録か、まだ調べる必要がある」
研究側が失敗と呼んだ資料も、現在の機器が誤って主従へ分類した救助の記録も、証拠として保全された。使って人を支配するための接続は止め、何が行われたかを確かめる資料は消さない。
僕は内側からSへ聞いた。
(いつか、僕たちもできると思う?)
――知らねぇ。
少し間を置いて、声が続いた。
――できたら、使い道はあるだろ。でも、できねぇからって、お前を黙らせる理由にはなんねぇよ。
(僕も、君を黙らせない)
今の答えは、そこまでだった。
二人のまま、同じ瞬間に身体へ力を通す方法は、まだ分からない。今日もMomentumとSpeedを一緒に使えたわけではない。
それでも、分からないところを支配という答えで埋めなくてよかった。
休憩と状態の確認を挟み、僕はSから主導権を受け取った。頭の重さが薄れるまで座り、その間に、貸してもらった椅子の肘掛けを指で撫でた。
一脚の椅子でも、僕たちは二人とも休めた。
◇
学校へ戻れた朝、校外学習の行き先が発表された。
水族館で調整がついたという。教室に声が上がり、朝倉がこちらへ顔を向けた。
「よかったね」
「うん」
配られた案内には、館内の地図も載っていた。Sが水中トンネルを見つけたので、僕はそこへ指を置く。
――ここ、行くぞ。
(分かってる。その前に、大きい水槽の方も見たい)
――戻れる道あるだろ。両方行きゃいい。
僕が線を目で追っていると、倉田が後ろから覗いた。
「まだ行ってねぇのに、そんな顔すんのか」
「Sと回り方を話してる」
「知ってる。顔見りゃ分かる」
朝倉が笑った。彼女は混みそうな通路と、別の階へ行く道を自分でも確かめていた。怖かったことが全部消えたわけではなくても、行くための準備はできるらしい。
僕の足にも、まだ痛みは残っている。無理に急がない予定を考えながら、地図を鞄へ入れた。
(楽しみだね)
――ああ。
その返事は、どちらが先かを決めるためのものではなかった。
Sはトンネルへ行きたい。僕は大きな水槽の前で、少し長く座っていたい。
両方を覚えたまま、僕は次の授業の教科書を開いた。




