SとMは、何の頭文字?
「S/M」
モニターに表示された二文字が消えたあとも、僕たちはしばらく誰も喋れなかった。さっきまで聞こえていた端末や空調の音まで遠のいて、今は自分の鼓動ばかりが耳につく。
(S)
――分かってる。
いつもの軽口がない。それだけで、僕の中にも緊張が走る。
「三枝先輩」
僕は声を出した。
「今の……知ってるんですよね」
「……何を」
「SとMです」
三枝先輩は黙る。
「さっきも能力名の頭文字に反応してた」
僕たちがSとMと呼び合っていると知った時も、三枝先輩は「偶然?」と確認した。全部つながっている。
「教えてください」
「機密事項よ」
「僕たちのことなのに?」
「真白君」
「だったらなおさら知る権利あるでしょう!」
思ったより強い声が出て、自分でも驚いた。昔の僕なら、相手が嫌そうな顔をしただけで「分かりました」と引いて、勝手に我慢していた。
でも今は嫌だ。自分たちのことなのに、自分たちだけ知らないまま扱われるのは。
「僕たちだけ何も知らないのは嫌です」
三枝先輩が僕の顔を見る。その視線の奥に少しだけ迷いがあった。そして、
「……少しだけ」
言った。
「正式名称は、まだ話せない」
「正式名称?」
「SとMは単なる分類記号じゃない」
やっぱり。
「能力者研究のごく初期から使われている概念」
三枝先輩が端末を操作すると、古い紙資料をスキャンした画像が表示された。中央にあるのは、二つの文字。
【S】
【M】
「能力者は、大きくS型とM型に分けられる」
三枝先輩が古い資料を拡大する。
「S型は、他者へ攻撃や苦痛、損害を与えることでSPを得る。M型は、自分が攻撃や苦痛、損害を受けることでMPを得る」
「SPとMP……」
「SはSadistic、MはMasochism。そこから、SPはSadistic Point、MPはMasochism Pointと呼ばれている」
僕は数秒、黙った。
「……名前、ひどくないですか」
――俺は嫌いじゃねぇ。
(君はそうだろうね)
三枝先輩は無視して続ける。
「さらに、固有能力の名称にも傾向がある。S型はSから始まる能力、M型はMから始まる能力」
MomentumはM。SpeedはS。偶然だと思っていた二つの文字が、急に僕たちだけのものではなくなった。
――気に入らねぇな。
Sが言う。
(何が?)
――勝手に分類されてんのが。
分かる。僕も少し嫌だ。
「じゃあ」
僕は続ける。
「さっきのリベルの人が出したS/Mは」
「同じ概念を指している可能性が高い」
「リベルも知ってる」
「それだけじゃない」
三枝先輩の顔が険しくなる。
「この分類は、一般公開されていない」
寒気がした。つまり、リベルは政府内部の研究情報を知っている。
「内通者……」
昨日の言葉がまた浮かぶ。三枝先輩が何か言おうとした。その時、部屋の扉が開いた。
「玲奈」
知らない声。振り返る。そこにいたのはスーツ姿の男性だった。三十代後半くらい。眼鏡。柔らかそうな笑顔。でも、三枝先輩の表情が明らかに固くなった。
「……主任」
「勝手に機密資料を見せるのは感心しないな」
「必要最低限です」
「必要かどうかは君が決めることじゃない」
男は僕を見る。
「真白湊君だね」
「……はい」
「初めまして」
笑顔。
「管理局第三支部能力研究主任、白峰透だ」
差し出された手。僕はなぜかすぐ握れなかった。理由は分からない。ただ、頭の奥で。
――こいつ嫌いだ。
Sが言った。
(会ったばかりだよ)
――知らねぇ。
でも僕も少し同じことを思っていた。
「警戒しなくていい」
白峰主任が笑う。
「君については非常に興味がある」
その言い方。実験動物を見ているみたいで嫌だった。
「SとM」
白峰主任が言う。三枝先輩を見る。
「そこまで話した?」
「分類の概要だけです」
「ならいい」
そして。僕へ。
「君は非常に珍しい」
またそれだ。
「一人の人間に二つの能力」
「……二人です」
「ん?」
「僕たちは二人です」
思わず。言い直していた。白峰主任が少しだけ目を細める。
「なるほど」
笑う。
「そういう認識か」
そういう。その一言が引っかかった。
「違うんですか」
「さあ」
「主任」
三枝先輩の声が強くなる。
「不必要な刺激は」
「分かってるよ」
白峰主任は両手を上げた。
「ただ一つだけ」
僕を見る。
「君に聞きたい」
「何ですか」
「Sは」
僕の中にいるS。
「いつから存在している?」
前にも聞かれた。僕は答える。
「分かりません。小さい頃から」
「具体的には?」
「覚えてないです」
「最初に声を聞いた記憶は?」
僕は考える。小学生。いや、もっと前?思い出そうとする。でも、霧がかかったみたいにうまく思い出せない。
「……分からない」
「そうか」
白峰主任はなぜか。嬉しそうだった。ほんの一瞬。笑ったように見えた。
「では」
主任が端末を取り出す。
「検査しよう」
「検査?」
「人格と能力の相関を見るだけだ」
「今日はもう」
三枝先輩が遮る。
「真白君は戦闘直後です」
「簡単な検査だよ」
「必要ありません」
空気が変わる。二人とも笑っていない。
「玲奈」
主任の声が少し低くなる。
「これは命令だ」
三枝先輩の手が拳を作った。
「……分かりました」
嫌な予感。ものすごく。嫌な予感。
◇
連れてこられたのは昨日とは別の検査室だった。中央に椅子。頭の周囲に機械。
「これを?」
「座るだけ」
白峰主任が言う。三枝先輩も同席している。でも、明らかに不機嫌。僕は椅子に座る。頭に電極のようなものを付けられる。
「何を見るんですか」
「脳活動」
主任が答える。
「まず通常状態」
機械が動く。画面に波形。
「次に」
主任が言う。
「Sへ交代して」
僕は固まる。
(S)
――嫌だ。
ですよね。
「拒否しています」
「なら刺激を加える」
その言葉に三枝先輩が動いた。
「主任」
「痛みは与えない」
機械の横。光。耳元で大きな警報音が鳴った。
「っ!」
身体が反射する。
――うるせぇ!
視界が一瞬で変わった。Sだ。
「てめぇ……!」
Sが立ち上がろうとする。でも、椅子が固定されている。
「落ち着け」
白峰主任は画面しか見ていない。
「興味深い」
波形が二つ。違う形に。
「やはり」
主任が小さく呟く。
「切り替わっている」
(何が?)
僕は中から聞く。
「脳活動パターンが別人レベルで違う」
主任が言う。
「だが」
別の画面。一部分だけ。二つの波形が重なっている。
「完全に分離しているわけでもない」
三枝先輩が画面を見る。
「共有領域……?」
「おそらく」
主任の声が少し興奮している。
「面白い」
――ぶん殴っていいか。
(駄目)
「次」
主任が言う。
「Sの状態で、M側の反応が出るか見たい」
「は?」
Sと僕が同時に固まる。
「Momentumはこいつの能力だ」
「その前提が正しいかを確かめる」
小さな機械がSの腕へ軽い衝撃を与えた。ぽん、と間の抜けた音がする。
「どう?」
「何もねぇ」
もう一度。今度は少し強い。
ドン。
Sが眉をひそめた。
(どう?)
――……さっきまであった熱が、揺れた気はする。
白峰主任が画面を見て、目を細める。M側の波形が、ごく小さく反応していた。
「興味深い」
「今、Momentumを使ったんですか?」
「そこまでは言えない」
白峰主任は意外にも即答を避けた。
「直前まで真白君が表にいたことで残った反応かもしれない。衝撃そのものは共通の肉体へ入る。能力の器が肉体側にあり、獲得や使用の権限だけ人格側にある可能性もある」
三枝先輩が画面を見る。
「つまり、まだ仮説」
「そう。SがMomentumを使えるとも、真白君がSpeedを使えるとも、今の段階では断定できない」
それでも画面には、MとS、二種類の反応が同じ身体から出ている。僕たちは別々だ。でも、身体は一つだ。その当たり前の事実が、急に怖く見えた。Sが黙る。僕も何も言えない。その時、白峰主任が本当に小さな声で呟いた。
「成功例かもしれない」
「……え?」
僕は聞いた。三枝先輩も聞いた。主任の表情が止まる。
「今」
三枝先輩が言う。声が冷たい。
「何と言いました?」
一秒。沈黙。そして、白峰主任はいつもの笑顔に戻った。
「聞き間違いだよ」
でも僕は確かに聞いた。Sも。
――聞いた。
そう言った。成功例。何の成功例?その言葉だけが僕たち二人の中に黒い染みみたいに残った。




