同じ瞬間でも、同じ命令じゃない
「真白君、そっち持てる?」
朝倉が差し出したのは、図書室の展示に使う大きなボードだった。薄い段ボール製で、重くはない。ただ、両手を広げると肩へ響きそうだったので、端を左手で持つ。
長机を戻す仕事は先生たちが引き受けていた。僕たちは、その上へ載せる掲示物だけを運ぶ。本校舎の使える範囲が広がり、図書室も少しずつ元の配置へ戻っていた。
「角、曲がるよ」
僕が歩き出すと、反対側で朝倉が止まった。ボードが斜めになり、壁へ触れそうになる。
「待って。こっち、まだ机ある」
「あ、ごめん」
――自分の前しか見てねぇからだ。
(君も見えてたなら言ってよ)
――今言った。
僕は一度手を下ろした。朝倉が内側を小さく回り、僕が外へ膨らめばよさそうだった。声をかけ直して曲がると、今度は角をぶつけずに済む。
机へ載せたあと、朝倉が僕の指先を見た。
「残りもいける?」
「これは大丈夫。でも、腕を広げっぱなしは少し嫌」
「じゃあ、そっちはブックスタンド係」
渡されたのは、小さな金属の板だった。仕事がなくなったのではなく、僕が持てる大きさへ変わった。
先生に机の位置を聞かれ、朝倉が通路を確かめる。彼女自身も、シャッターのある側へ戻らなくていい配置を選んでいた。
作業が終わると、窓際に席が二つ空いた。朝倉が鞄を置き、僕も隣へ座る。
「今日は、読む時間もあるね」
そう言われて、初めて本を選びに来たことを思い出した。
◇
その日の検査後、主任から渡されたのは、昨日より文字の増えた紙だった。
「新しく読めた部分だけ。原記録を開くのは、そのあとでもいい」
僕はSと一緒に目を通した。二系統の線が重なる直前に、身体を動かす要求が複数あったと記されている。その実行結果は、不完全。
【MOTOR REQUEST:MULTIPLE】
「右へ行こうとした側と、左へ行こうとした側がいたんですか」
「その可能性もある。別々の部位を動かそうとしたのかもしれない。ただ、何をしようとしたかの欄は、まだこの部分へつながっていない」
技術班の人が、欠損している領域を囲んだ。別に残る複製と照合し、元の並びを確かめているらしい。都合のいいところだけを順に読む作業ではなかった。
――だったら、二つの能力がぶつかったって話でもねぇな。
僕が伝えると、主任は頷いた。
「運動の要求と能力の出力を、同じものとして読まない方がいい」
昨日より期待が少し小さくなった。その代わり、研究側が何をしたかったのかが気になった。
失敗のあとに残されていた案は、片方の要求を遅らせること、主となる側を固定すること、支配状態へ修正することだった。
――相談する、がねぇな。
「二人へ、どう動きたいか聞いた記録は?」
僕が尋ねると、主任は検索結果を見た。
「今読めるこの制御手順にはない。研究全体のどこにも会話がなかった、とまでは言えないけれど」
三枝先輩が椅子へ肘をついた。
「急いで止めなければ身体が危ない時はある。でも、毎回片方の要求を通さない仕組みとは別」
「緊急停止と、ずっと黙らせることは違う」
「そう」
短い答えを聞きながら、僕は昼休みのボードを思い出した。いったん下ろして、角の曲がり方を合わせた。どんな時でも立ち止まれるとは限らない。それでも、止まって相談した時間まで全部失敗にしてしまえば、最初の持ち方しか残らない。
ただ、ボードと僕たちの身体を、そのまま同じにはできなかった。
僕と朝倉には別々の腕がある。Sと僕が今しているのは、相談して一方へ身体を渡すことだ。二人が同時に腕を動かしているわけではない。
(話が合えばできる、くらい簡単ならよかったのにね)
――お前、宿題の答えすら俺と合わねぇだろ。
(あれは君が途中式を飛ばすから)
――間違ってんのはお前だ。
そういう時だけ返事が速い。僕は悔しくなったが、今日の課題で同じ指摘を受けたばかりだったので言い返せなかった。
◇
技術班の人が、別地域の機器から取り出した処理を説明してくれた。
「実物は現地で通信と出力を外しています。こちらへ来たのは、保存内容の複製です」
現在の通信と似た形式で、MとSの二つの反応を受け取る欄がある。同じ時間枠で届いたものを比べ、優先順位を決める部分へ渡していた。
【PRIORITY EVALUATION:PENDING】
「何を比べるんでしょう。強さですか」
「それを確かめる。実際の君たちの反応を入力する必要はない。内容や到着順を変えた仮の記録で、どの処理が動くか見る」
主任は画面を消さず、装置の写真も並べた。外側には比較的新しい部品があり、古い制御部分をつなぎ替えた跡がある。いつ誰がそうしたかは、まだ分からないという。
「昔の試験を、そのまま街でやろうとしてるんですか」
「共通する処理はある。ただ、全部同じだとはまだ言えない」
同じ形の箱が増えたのではない。別の箱へ、似た考え方が入り込んでいるのかもしれない。僕は写真のねじ穴を見つめた。そこには、機械自身にはできない作業の跡があった。
「取り付けた人も、探してるんですよね」
「設置や点検の記録を現場が追っている。通信の表示だけから、今の操作者まで一人に決めることはしない」
MASTERという名は出なかった。だから無関係だと安心することも、またあの人だと決めることもできない。
帰る準備をしている間に、外部監視の記録が追加された。二つの反応を待つ欄の下で、優先順位が未解決のまま残っている。
僕は画面を見続けず、鞄を閉じた。借りた本が一冊入っている。今日読めなかった続きを、家なら少しは読めそうだった。
(帰りたいんだけど、君は?)
――帰る。本、夕飯のとこまで持ち込むなよ。
(まだ何も言ってない)
――言いそうだった。
三枝先輩へ帰宅の希望を伝える。見張りは外の班が続けていると聞き、僕は任せて会議室を出た。
エレベーターのボタンを押す前に、Sが言った。
――向こうの早い遅いに、付き合ってやることねぇぞ。
僕は頷いた。閉まりかけた扉を追いかけず、次を待つことにした。




