今の返事は、今の僕らがする
保健室の時計が、さっきから気になっていた。Sがそちらへ目を向けるたび、僕も長針の位置を確かめてしまう。
身体を動かしているのはSのままだ。脛には冷却材があり、梯子を握った掌にも赤い跡が残っている。SPはもう使い切った。僕のMPも、可動台をずらすのにほとんど使っていた。
「時計、睨むな」
Sが言った。
(見てるだけ)
――同じだ。こっちまで落ち着かねぇ。
三枝先輩が水を置く。
「二人とも休む。次は能力を使う仕事じゃない」
Sはペットボトルを持ち上げた。今度は蓋が開いたので、そのことには誰も触れなかった。
端末では、照合の不一致を示す文字が点滅していた。
昔の六十四件から作られた許可。僕たちが人を助けるために使った力。そして、本人の同意は確認されていないという記録。
三つが同じ実行処理の中で食い違い、まだ命令は通っていない。
◇
白峰主任が保健室へ来た時、現地の班は複数の照合器を作業中の状態に固定していた。
通常の支援に必要な部分は別へ移し、不審な更新を受け取る線を外す。一方で、今回の実行に関する照会だけは、技術班が管理する保守口から返せるようにする。
「放送で全機器へ言い聞かせるわけじゃない」
主任は、通る情報を絞った図を見せた。
「現地で確保した照合器へ、今回の処理に対応する訂正を渡す。同じ実行許可を使っている機器は、その結果を確認しなければ出力できない」
「古い丸は消すのか」
Sが聞いた。
「消さない。治療や生活支援について残された記録かもしれない。取り消すのは、それを今回の覚醒と制御への許可へ変えた部分だ」
「六十四の中身を、俺らが全部断るんじゃねぇんだな」
「そう。君たちは、君たちの現在の反応を同意に使わせない。それが同じ許可の照合をやり直させる理由になる」
古い確認を何にでも使える丸へ変え、僕たちの反応と束ねていた。その束の一部が本人の返事と食い違えば、元の用途まで照合し直す処理が残っている。
すでに複製環境では、相談への参加を別の命令へ使った要求が弾かれていた。今度は、その機器が本物の出力へつながる場所で止める。
「別の人の反応に替えられたら?」
Sが僕の質問を声にした。
「この実行許可は、君たちの反応を結びつけたところで固定されている。付け替えるには、いったん破棄して作り直す。その間に、現地側で残る機器を外す」
永久に使える解決ではない。相手が違う仕様へ替えれば、また別の対処が要る。
それでも今は、止める場所と、そのあとに何をするかが分かっていた。
◇
牧野さんが置いたのは、管理局側の本人確認用の端末だった。
敵の機械へ僕たちが直接触れることはない。こちらへ残した返事のうち、今回の処理番号と対象の対応に必要な情報だけを、別の機器へ取り出す。住所も診療内容も、新しい登録記録の全体も送らない。
「これは、答えないと支援を止める質問ではありません」
牧野さんが先に言った。
「今は答えられないなら、未確認のまま残します。その間の危険への対処は、現地の班が続けます」
Sは頷いた。
「俺は答える」
「今回の覚醒と制御の実行に、同意しますか」
「しねぇ」
ためらいのない声だった。
「今日使った力は、人を助けるためだ。そっちの計画に参加する返事じゃねぇ。それも残せ」
牧野さんは入力し、文面を本人へ向けた。Sが読み、そこで初めて記録を確定する。
僕は内側で聞いていた。Sの分を、僕が言い直す必要はなかった。
返事を終えても、すぐには交代しない。先輩が脛の状態を確かめ、Sが水を飲み切るのを待った。
――返すか。
(うん。もう大丈夫だと思う)
――「思う」で隠してんならやめる。
(頭は重くない。吐き気もない。足は痛い)
「足は俺も痛ぇ」
Sが声に出し、先輩が小さく頷いた。
安全を確かめてから、主導権を受け取る。視界が一度ずれ、頭の奥が重くなった。僕がそれを伝えると、牧野さんは質問を始めずに待った。
廊下では職員の足音がする。外の班から届く短い報告を、主任が聞いている。僕一人が急いで返事をしなくても、その間を支える人がいた。
重さが薄れてから、僕は自分で顔を上げた。
「質問、お願いします」
同じ問いを聞き、同じ拒否を、今度は自分の声で言う。
「同意しません。僕がMomentumを使ったのは、出口を塞がれた人を助けるためです」
画面の文を読んだ。僕の言葉が、勝手に短くされていないかを確かめる。
「能力を使ったことを、同意したことにしないでください」
牧野さんは、その一文も残した。
◇
現地の保守口から、現在の返事が渡された。
技術班が受け付けを確認する。声を聞いた機械が考え直したのではない。今回の照会に対応する記録として、必要な形式で入力されたのだ。
Sの拒否。僕の拒否。助けるために使った力であり、覚醒と制御へ参加する意思ではないという説明。
画面の六十四という数は消えなかった。
その下へ、以前の試験でも見た文字が現れる。
【SCOPE:MISMATCH】
元の記録と、現在の実行目的が一致しない。
【AUTHORITY QUORUM:INVALID】
六十四個あっても、今回の許可にはならない。
僕の手が、膝の上で緩みかけた。その時、別の報告が割り込んだ。
『上位側から再計算要求。古い許可を戻そうとしています』
主任がすぐに答える。
「同じ実行番号への再適用を遮断。確保済みの照合器から出力を外して」
『現地確認中。支援用の系統は切り替え済みです』
相手は、その結果を受け入れて終わるつもりではなかった。現在の拒否を無視し、古い許可をもう一度通そうとしている。
けれど、そこには技術班の人がいた。書き換え用の通信を止め、現地の出力を切り離す。別の場所では、施設職員が利用者を安全な部屋へ案内し、必要な支援を手作業で続けていた。
画面の外で、その作業が終わるまで待つ。
【CURRENT ANCHOR:INVALID】
今日の反応を基準にした実行許可も失効する。対象を付け替える処理は、今回の許可を破棄してからの待機へ戻った。
【EXECUTION WINDOW:CLOSED】
誰も、まだ終わったとは言わなかった。
別支部の監視班から、覚醒用の信号は出ていないと報告が来る。現地の設備担当から、不審な出力部分を切り離したと返事が続く。医療側では、移送も追加処置も行わずに済んだことを確認していた。
主任が紙へ印をつけるたび、さっきまで名前も知らなかった場所が、一つずつ現在の結果に変わった。
最後の報告を聞いて、三枝先輩が言った。
「今回確認した実行系統は止まった。患者と施設利用者に、新たな強制覚醒や制御の被害は確認されていない」
息が抜けた。
僕は椅子の背にもたれた。脛が痛み、肩も重い。それでも、その痛みを次の力に変えるために立つ必要はなかった。
――休め。
Sが言った。
(君もね)
返ってきたのは、短い鼻息だけだった。
◇
そのあとも、現地の作業は続いた。
正規の相談や医療の記録を残し、不正に実行許可を作っていた部分だけを使えなくする。古い六十四件は証拠として保管し、誰に関する何の記録なのかを調べる。保存されているから、今も同意しているという扱いには戻さない。
M-32さんの移送を希望しないという返事は、そのまま残った。S-32さんのこの件への返事は、まだ未確認。D-01についても、確認のために能力を再現させたり、治療の途中で呼び出したりはしていない。
小日向さんからは、自分の保留が維持されていることを確かめたと連絡が来た。続いて、資料だけ受け取る手続きも済んだ、と一行付け足されていた。
僕はそこをSへ読んだ。
――あいつ、欲しい物はちゃんともらうな。
(いいことでしょう)
――悪いとは言ってねぇ。
数日後、主任は停止直前の記録を、僕たちが見るかどうか先に聞いてくれた。
古い確認と代理確認を使う二つの方法が失敗した、という評価。そのあとに、次に必要な条件として現在の本人の返事が挙がっていた。
【CURRENT SUBJECT RESPONSE】
「相手が、きちんと聞くようになったんですか」
僕は言ってから、そうとは限らないと思い直した。
主任も同じだった。
「この表示だけでは、何をするつもりか分からない。誰が変更を指示したのかも、自動処理なのかも、まだ確認できていない」
MASTERの正体も、Sの過去も、CAREの権限を取り消した人の名も、答えにはならなかった。
ただ、僕たちに結びつけられた古い確認と、それを取り消した一行は、どちらも消えずに残っていた。
今は、それを全部読む必要はなかった。僕は新しい記録だけを見たところで、今日はここまでにすると伝えた。
◇
学校では、再点検を終えた部分から、授業を戻す準備が始まっていた。
体育館の仮設機器は調査が続いている。日常へ戻る道が一本開いても、全部が安全になったと決めているわけではない。
朝倉が鞄を持って、僕の机へ来た。
「今日は図書室、開いてるって」
「じゃあ、寄って帰ろう」
「足は?」
「ゆっくりなら大丈夫。階段は遠回りしたい」
「分かった」
机には、事件の前に書きかけた避難先の希望が二枚あった。僕は別棟。Sは校外。本人が書いた方には、閉じ込められにくい場所がいい、と理由が添えてある。
「まだ違うんだね」
朝倉が言った。
「うん。実際はその時の安全を見て決めるけど、気にしてるところは両方伝える」
――外に出りゃいいってもんでもねぇしな。
(雨の日は?)
――飯食える屋根のある場所。
(最後にそれがつくんだ)
僕が笑うと、倉田が通りがかりに落ちかけたプリントを指した。
「真白。そっち、名前まだだぞ」
「ありがとう。危なかった」
僕の方だけ、署名を忘れていた。Sの笑い声が頭の奥で響く。
朝倉は待っていた。倉田は自分の用事へ戻り、担任は次の生徒の相談を聞いている。誰かが僕の代わりにペンを持つ必要はなかった。
僕は自分の名前を書き、二枚を揃えて提出した。先生は違う希望を一つへ直さず、どちらも受け取った。
帰る前に、Sへ聞く。
(図書室に寄ってから駅まで。いい?)
――いい。飯までには帰れ。
(帰るよ)
朝倉が扉の前で振り返った。
「行ける?」
「うん」
今度は、予定通りに教室を出た。歩く速さは少し遅かったけれど、急かす声はどこからも聞こえなかった。




