昔の記録より、今ここにいる人
「今日は駅まで一緒に帰れる?」
朝倉に聞かれた時、僕の鞄はもう机の横に置いてあった。管理局へ寄る予定はない。そう答えようとしたところで、貸与端末が震えた。
僕が画面を見ると、朝倉は手を振った。
「先に出て」
三枝先輩からだった。昔の移送記録を使った要求が、外の連絡窓口へ届いたという。対象は三十二番。患者本人は動かしておらず、治療も変わっていない。
『君たちにも伝えていいと、本人の希望があった。詳しい話は支部で』
僕は短く返事をした。
通話を終えると、朝倉が鞄の紐を肩へかけ直す。
「また今度だね」
「ごめん」
「予定が変わったのは残念。でも、それと怒ってるかどうかは別」
彼女は僕の靴を見た。
「走らなくていい話?」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと歩いて」
僕は頷いた。全部を平気だと言ってくれるわけではないから、残念だったという言葉も、ちゃんと受け取っておきたかった。
◇
旧系統の要求は、現在の病棟へ直接届いたのではなかった。
以前の移送連絡に使われた窓口へ送られたものを、切り離し作業中の現地班が保存していた。宛先には病棟の今の住所がなく、旧研究側の番号があるだけだった。
【CARE TRANSFER:APPROVED】
【DESTINATION:NODE C-07】
「CARE-07と、同じ場所なんですか」
「まだ結びついていない。こちらは移送先として使われた番号。所在も確認中だよ」
白峰主任が答えた。似た文字を見た途端、別の記録まで同じものに見えそうになる。
古い資料からは、M側への確認で身体全体の扱いを決め、S側の返事を不要にする記録が見つかっていた。今回の要求も、その丸を移送許可として使っている。
牧野さんが、現在の返事を書いた紙を置く。
【M-32:移送を希望しない】
「外からこういう要求が来たと説明したところ、今いる場所から移りたくない、と答えました。この返事は湊さんたちにも伝えてよいと」
「S-32さんは?」
「この件についての直接の返事は、まだ確認できていません」
二人とも拒否したとは書かない。それでも、外部の未確認な要求に従って移送を進める理由にはならない。安全のための対処は、職員が引き受けている。
――昔の丸より、今そっちにいる奴を見ろよ。
Sの声に、僕は自分でも頷いていた。
◇
画面が二つに分かれた。
左は旧系統から届いた要求、右は管理局側で並べた現在の状況。本人の返事を敵へ流した画面ではないと、主任が先に説明してくれた。
相手の要求では、現在の返事を未取得としたS-32の欄へ、古い代理確認が適用されていた。
【HISTORICAL PROXY:APPLY】
次の欄は、同意済み。
右側では、本人確認が可能になるまで保留になっている。
同じ番号なのに、片方には勝手な返事があり、片方にはまだ返事がなかった。
「この保留を、向こうへ届ければ止まるんでしょうか」
「受け取る場所と方法を確認しているところだ。ただ、それを試すために患者の情報を丸ごと渡すことはしない」
主任が答える。
その時、牧野さんへ連絡が入った。短く話してから、彼女は僕たちを見た。
「M-32さんが、自分に関する記録を少し見たいそうです。私は医療側へ行ってきます」
僕は一瞬、立ちかけた。
けれど牧野さんは、一緒に来てほしいとは言っていない。記録を見る人の隣に、僕たちが座っている必要はなかった。
「分かりました」
椅子へ座り直すと、Sも黙っていた。
◇
待っている間、僕は朝倉へ短い連絡を送った。
今日は支部で説明を聞いている。怪我は増えていない。駅まで一緒に帰る話は、また日を決めたい。
書き終えてから、Sが言った。
――予定だけなら、今度で済ませんなよ。
(君もそう思う?)
――お前が帰りてぇんだろ。
そうだった。
僕は最後の一文を書き直し、明日の予定はどうかと尋ねた。相手の返事が来る前に、その日で決まったことにはしない。
しばらくして牧野さんが戻った。M-32さんは見たいところだけを確認し、疲れたので今日は休むと決めたという。
「返事は変わりましたか」
「移送を希望しない、のままです。それを改めて自分の今の言葉として残したいと」
それ以上の様子は聞かなかった。何を思い出したのか、苦しかったのか。気になることがあっても、全部を僕たちへ話す約束はしていない。
Sが小さく言った。
――寝かせとけ。
(伝えるまでもないと思う)
――分かってる。
画面にあったS-32の保留も、そのまま残った。
◇
移送先を探す動きは、別の場所で続いていた。
C-07へ到達できないと判断した相手が、代替の受け入れ先を探している。候補に出た三つのうち、一つは停止済み、一つは所在不明。そして最後の一つには、現在使われている施設コードがあった。
技術班の人が地図を開く。
能力者向けの民間相談・一時保護施設。能力者の存在が公表されたあと、新しく開かれた場所だった。
「旧研究所じゃないんですね」
「少なくとも建物と現在の運営は違う。機器をどう引き継いだかは、現地へ確認する」
三枝先輩が連絡を取り始めた。
利用者へ何も知らせず一斉に移動させないこと。危険がある場所からは先に離し、使える通常設備までまとめて止めないこと。相手の窓口の人と、一つずつ条件をすり合わせている。
僕には、その施設にいる人の顔が分からなかった。それでも、病室で今は移りたくないと答えた人と同じように、そこにも今日はどこで休むかを考えている人がいる。
敵の候補一覧には、その事情は何も出ていない。
帰り際、牧野さんが現在の返事の紙を閉じた。その表紙へ、古い記録を保存していることと、現在の希望が優先されることを別々に記す。
僕の端末に、朝倉から返事が届いた。
『明日なら、図書室に寄ってから』
僕は、その予定を手帳へ書いた。機械の画面とは違い、まだ決まっていない帰宅時刻は空けておいた。




