昔の「はい」を、今の返事にするな
朝倉は、先生に確認してもらった経路図を鞄の内側へ入れていた。
「貼るの?」
「折ると、ちょうど大事なところが見えなくなるから」
本校舎へ戻る時、シャッターのある廊下を避けて通る道。彼女が選んだ希望と、実際に安全に通れるかどうかの確認は、同じ紙でも別の欄に分かれていた。
僕は自分の控えを探して、課題の下から取り出した。
――なくす前に出てきてよかったな。
(なくしてない)
「その顔、なくしかけてたでしょ」
朝倉にまで言われた。見つかったのだから、それ以上は追及しないでほしかった。
彼女の指がテープの端を押さえる。少しずつ日常へ戻るための準備が、目の前で進んでいた。
その日の午後、僕たちに届いたのは、逆の方向へ引き戻すような記録だった。
◇
「M-32さんたちに、新しい処置はしていない。D-01さんも、今の治療を続けている」
会議室で白峰主任が最初に言った。
「今回動いたのは、外に残っている旧系統への照会だ。こちらの診療記録を見られたわけではない」
監視班が保存した通信を、回収済みの古い資料と突き合わせたという。画面には、照会先が扱う番号として三十二番が出ていた。
救出の時に見た顔が浮かぶ。M-32さんは、番号なら自分だと分かると言っていた。その番号が、今日は本人のいないところで動かされている。
【M-32:ACK CONFIRMED】
【S-32:RESPONSE NOT REQUIRED】
「もう一人の返事は、必要ない……?」
読み上げた声が、自分でも嫌なくらい小さかった。
「この記録を作った側は、そう扱っている」
主任が答える。
M側に丸があれば、それで一つの身体全体への確認が済んだことになる。今のS-32さんが何を望むかは、そもそも尋ねる欄がない。
――聞く気がなかっただけだろ。
Sの声に、僕の指が握られた。勝手に身体が動いたのではない。怒って拳を作っているのは、僕だった。
「二人は今もいるのに」
三枝先輩は、二行目を閉じずに残した。
「だから、今の記録には同じ処理をしない」
機械の照会は、古い丸を有効な確認として扱い、現在の再確認を飛ばそうとしていた。
【CURRENT CONFIRMATION:SKIP】
僕は画面から目を離した。知るために見ているはずなのに、見続けるほど、本人の声が遠ざかるような気がした。
◇
二人に関わる古い照会が見つかったことは、医療側からM-32さんへ伝えていた。
「今は記録を見たくない、とのことです」
牧野さんが言った。
「その希望と、治療が続いていることは、湊さんたちへ伝えてよいと確認しました」
「S-32さんは?」
「この件について、別に安定した返事を聞ける状態とは確認できていません。M-32さんの希望を、S-32さんの希望として書いてはいません」
僕は頷いた。二人分の返事が揃わないことを理由に、必要な治療を止めるわけでもない。危険な照会は職員が止め、知りたくない記録は見せず、本人が答えられる部分だけを残す。
「今日は、聞かないでいいんですね」
「はい。知りたいことができたら、後から聞けます」
その答えに、Sが小さく息を吐いた。
――向こうにも、その欄あればよかったのにな。
(今は見ない、って?)
――ああ。
僕は牧野さんの手元を見た。調査したいことを書いた紙と、本人へ尋ねてよいことを書いた紙は、別々になっていた。
◇
古い照会は、三十二番だけを探していたのではなかった。
同じ形式の確認済み記録を求め、いくつもの番号へ問い合わせている。生存者の一覧でも、現在の住所録でもない。重複や古い仮の登録が含まれるかどうかは、まだ整理できていなかった。
技術班が該当する一件を選んだ時、喉が詰まった。
【LEGACY SUBJECT:SM-01】
Sも黙った。
続く欄には、代理による確認がある、と記されていた。誰が、何のためにした確認なのか。その名前も内容も、この部分だけでは読めない。
「僕だと決まったわけじゃ、ないですよね」
自分から確かめる。主任は頷いた。
「君に結びつけられた番号ではある。でも、以前の映像では後から識別が重ねられていた。今回も、番号だけで本人だとは言えない」
頭では分かった。けれど、母の顔が浮かぶのを止められなかった。
僕の代わりに返事をした人がいたとしたら。何を聞かれて、何に頷いたのだろう。僕の知らない僕を知っている人が、すぐ近くにいたのだろうか。
――湊。今は、その先を見るかどうかだけ決めろ。
Sの声がした。
(君は?)
――見る。お前が嫌なら、ここでやめる。
(僕も見る。でも、全部は決めない)
そう伝えると、主任は次の一行だけを開いた。
【PROXY AUTHORITY:CARE】
個人名ではなく、支援側の代理権限らしい識別。そのあとに、取り消しの記録が続いていた。
【CARE AUTHORITY:REVOKED】
僕は背もたれから身を起こした。
「一度、止められてる」
「この確認に使われた権限については、取り消しが残っている。誰が操作したのか、正確な時期は別の記録と照合する」
最後に、理由の欄が見えた。
【REASON:SUBJECT RESPONSE REQUIRED】
本人の返事が必要。
さっき三十二番の横には、必要ないと書いてあった。同じ古い仕組みの中に、逆の文が残っている。
僕は机へ手を伸ばしたが、画面には触れなかった。
「この取り消しも、昔から残ってたんですか」
「少なくとも、今回こちらが書き足したものではない。変更の前後が残っているから、そこから追える」
Sが静かに言った。
――やっと、変わった場所が出てきた。
その人が僕たちを知っていたのかは分からない。助けようとしたのか、別の理由で処理を止めたのかも、まだ分からない。
それでも、代理でつけられた丸のあとに、終わりではない一行があった。
僕はその行を含めて残してほしいと頼んだ。主任は、前後を切り離さず保存すると答えた。




