僕より僕らしい奴
「デート」
Sがそう言った瞬間。時間が止まった。朝倉美月は目を丸くしている。三枝先輩は無表情。そして僕は身体の奥で絶叫していた。
(違う! 全然違う!)
――聞こえてる。
(だったら訂正して!)
――なんで?
(なんでって!?)
Sは僕の身体のまま、楽しそうに笑う。
「まあ、正確には秘密の特訓だけどな」
「秘密の……?」
朝倉の視線が三枝先輩へ向く。三枝先輩は一秒ほど黙ったあと、
「補習」
と言った。
「補習!?」
僕とSと朝倉の声が重なった。
「真白君は運動能力に問題があるから」
「おい待て」
Sが眉をひそめる。
「俺は速ぇぞ」
「あなたの話はしていない」
「俺もこいつだろ」
「違う」
「喧嘩売ってんのか?」
「買わない」
この二人。相性が悪すぎる。朝倉は完全に置いてけぼりだった。
「あの……真白君?」
「ん?」
Sが振り向く。朝倉は少し困った顔で言った。
「今日、なんか雰囲気違わない?」
まずい。昨日も一瞬だけSが表に出たけれど、学校の連中は混乱していてまともに見ていなかった。今は違う。朝倉は真正面から僕を見ている。
「いつももっと……」
「もっと?」
「その」
言いにくそうにする。
「おとなしい感じというか」
――暗いって言いてぇんだろ。
(言わないで!)
「暗いってこと?」
Sが言った。
(言ったぁぁぁ!)
朝倉が慌てる。
「ち、違うよ!」
「別にいいって。事実だし」
「いや、そんな言い方するつもりじゃ……」
「こいつ気にしてねぇから」
朝倉が首を傾げた。
「こいつ?」
しまった。Sも気づいたらしい。
「……俺」
「俺?」
「俺が俺をこいつって呼んだだけ」
意味が分からない。朝倉も意味が分からない顔をしている。三枝先輩が額に手を当てた。
「真白君」
「何だよ」
「戻って」
「命令すんな」
「本人の社会生活が壊れる」
――もう手遅れじゃね?
(誰のせいだよ!)
僕が叫んだ、そのとき。ふっと身体の感覚が戻ってきた。
「わっ」
声が漏れる。膝が少し揺れた。朝倉が僕を見る。
「大丈夫?」
「う、うん!」
戻った。僕だ。自分の指。自分の声。自分の表情。こんなに安心するものだったのか。
「ごめん」
僕は反射的に言った。
「さっきの、ちょっと変だったよね」
「うん」
即答された。地味に傷つく。
「なんというか」
朝倉が僕の顔を見る。
「別人みたいだった」
心臓が跳ねた。三枝先輩と目が合う。僕は笑って誤魔化した。
「寝不足で」
「寝不足で人格変わる?」
「変わる人もいる……かも」
「へえ」
絶対信じてない。チャイムが鳴った。
「あ」
朝倉が屋上の扉を見る。
「昼休み終わる!」
「まずい!」
僕たちは慌てて教室へ戻ることになった。階段を下りながら。
――お前さ。
Sが言う。
(何)
――朝倉って奴。
(うん)
――お前のこと、結構見てるぞ。
僕は足を滑らせかけた。
(は!?)
――反応デカ。
(いやいやいや、そういう意味じゃないでしょ!)
――知らね。
声が笑っている。絶対からかっている。でも、少しだけ。ほんの少しだけ。僕は気になってしまった。
◇
放課後、僕は教室に残っていた。黒板を消している。日直だからだ。朝倉も一緒だった。よりによって今日。
「真白君」
「はいっ」
声が裏返った。
「なんで敬語?」
「なんとなく……」
朝倉が笑う。普通に話している。それだけなのに僕には少し不思議だった。今まで同じクラスでも、ほとんど会話なんてしたことがなかった。
「昨日さ」
朝倉が黒板消しを置く。
「校舎裏にいたよね」
手が止まった。
「……見てた?」
「少しだけ」
まずい。どこまで。
「私、教室から見えたんだ」
朝倉の表情が暗くなる。
「あの人たちに囲まれてた」
僕は何も言えなかった。
「ずっと?」
「え?」
「前から?」
僕は困った。別に隠していたわけじゃない。でも、言ったところで何が変わるとも思っていなかった。
「まあ……ちょっと」
「ちょっとじゃないでしょ」
朝倉の声が少し強くなる。僕は驚いた。
「なんで誰にも言わなかったの?」
「言っても仕方ないし」
「仕方なくないよ」
「でも」
僕は笑った。いつもの癖だ。
「僕が我慢すれば済むから」
その瞬間、頭の中が急に冷たくなった。
――それだ。
Sだった。
(何?)
――俺が一番嫌いな言葉。
声が低い。
――「俺が我慢すれば済む」。
僕は黙る。朝倉がこちらを見る。
「真白君?」
「ごめん」
僕は首を振った。
「なんでもない」
――なんでもあるだろ。
(今は黙って)
――嫌だね。
Sの声が近い。いつもより。
――お前が我慢すれば済む。
――お前が殴られれば済む。
――お前が傷つけば済む。
――ずっとそれだろ。
(……)
――じゃあ次は?
その言葉が胸に刺さった。
――誰かを庇って死ねば済むのか?
僕は何も返せなかった。朝倉が心配そうに覗き込む。
「本当に大丈夫?」
「うん」
また言おうとした。大丈夫。いつもの言葉。でも、口から出なかった。昨日、能力者の攻撃を受けた。今日。Sが言った。痛い。Sも僕が傷つくたびに同じ痛みを感じている。だったら。
「……ごめん」
僕は小さく言った。朝倉が首を傾げる。
「何が?」
「僕」
少し迷った。
「我慢するの、癖になってるみたい」
朝倉は黙っていた。笑われるかと思った。変なことを言ったと思われるかもしれない。でも、
「じゃあ」
朝倉は言った。
「少しずつやめればいいんじゃない?」
「え?」
「一気には無理でしょ」
あまりにも普通の答えだった。
「嫌なときは嫌って言う」
黒板消しを持ち上げる。
「助けてほしいときは助けてって言う」
それだけ言って。朝倉は黒板を消し始めた。僕は何も言えなかった。
――……。
Sも珍しく黙っていた。
◇
帰り道。三枝先輩が待っていた。校門の横。昨日と同じ無表情。
「遅い」
「日直だったんです」
「報告して」
「何をですか」
「今日の変化」
歩きながら。昼休みのことを説明した。Sが表に出ている状態で、僕が一瞬だけ声を出せたこと三枝先輩はすぐに端末へ記録する。
「重要な変化ね」
「そんなに?」
「人格間の境界が変化している可能性がある」
僕は少し不安になった。
「それって……消えるとか?」
「分からない」
即答。優しさがない。
「ただし」
三枝先輩が続ける。
「現状を見る限り、融合よりも共有範囲の拡大と考えたほうが自然」
「共有範囲?」
「視覚、聴覚、痛覚、記憶。それに加えて」
僕を見る。
「発声」
なるほど。
「そのうち腕一本くらい動かせたり?」
「可能性はある」
――右腕は俺な。
(なんで?)
――殴るから。
(渡さないよ!?)
三枝先輩がこちらを見る。
「また話してる?」
「はい」
「内容は?」
「右腕をよこせって」
「却下」
――お前に聞いてねぇ!
思わず笑ってしまった。すると三枝先輩の端末が鳴った。表情が変わる。
「……はい」
通話。僕は歩みを止める。
「場所は?」
短いやり取り。三枝先輩の目が鋭くなった。
「分かりました。すぐ向かいます」
通話が切れる。
「何かあったんですか」
「能力災害」
嫌な言葉。
「駅前」
僕の身体が固まる。ここから近い。
「真白君は帰宅して」
「でも」
「あなたはまだ登録手続き中。戦闘許可もない」
三枝先輩が走り出そうとする。そのとき。遠くから。爆発音が聞こえた。駅の方向。黒い煙が上がる。悲鳴。人がこちらへ走ってくる。
「逃げろ!」
誰かが叫ぶ。僕は黒煙を見た。三枝先輩が言う。
「帰って」
正しい。そうすべきだ。僕はまだ能力のことすら分かっていない。戦えば邪魔になるかもしれない。怖い。痛い。昨日だって死にかけた。それでも、黒煙の向こうから。小さな子供の泣き声が聞こえた気がした。
――行くな。
Sが言った。意外だった。
(でも)
――でもじゃねぇ。
昨日とは逆だ。
――お前はまた自分が殴られりゃ済むと思ってる。
(違う)
――同じだ。
僕は拳を握る。
(じゃあ、どうすればいい?)
Sは答えない。
(誰かが危ない。でも、僕が行けば僕も危ない)
沈黙。
(どっちを選べばいいんだよ)
長い。ほんの数秒がとても長く感じた。そして、
――俺が行く。
「え?」
声が出た。三枝先輩が振り返る。頭の中でSが言う。
――お前が全部受ける必要はねぇ。
――危なくなったら俺が逃げる。
僕は目を見開いた。
――だから。
Sは不機嫌そうに本当に嫌そうにそれでも、はっきりと言った。
――一人で勝手に死のうとすんな。
その瞬間、胸の奥で何かが少しだけ変わった気がした。僕は三枝先輩を見る。
「僕も行きます」
「許可できない」
「戦うとは言ってません」
「なら何をするの」
僕は少しだけ考えた。そして言った。
「助けてって言われたら」
朝倉の言葉を思い出す。
「助けられるところまでは、助けたいです」
三枝先輩はしばらく僕を見ていた。やがて、ため息をつく。
「私から離れないで」
「はい!」
「命令を無視したら置いていく」
「はい!」
――お前、犬みてぇだな。
(うるさい!)
僕たちは走り出した。駅前へ昨日までは痛みに耐えることしかできなかった僕。傷つかないことしか考えないS。正反対の僕たちが初めて。同じ場所へ向かって走っていた。




