二人だから、ここまで来た
(S)
返事はなかった。
目の前には膝をついたD-01がいる。隔壁の向こうで工具が唸り、三枝先輩が僕を呼んでいる。
外の音は、こんなにはっきり聞こえる。
頭の中だけが、空っぽだった。
『思考が澄んだだろう』
あの男の声が言った。
『彼は君の防衛反応だ。必要な時にだけ使えばいい』
「返事を止めておいて、便利になったみたいに言わないでください」
僕は床へ手をつき、立ち上がった。膝が震える。
『彼が何なのか、君は説明できるのか』
「友達は……ちょっと違うし、兄弟でもないです」
自分で言って、困った。
相棒と呼べば、Sはきっと笑う。そんな格好のいいものかよ、と悪態をつく。
「Sは、Sです」
『意味が分からない』
「分からなくても、ここにいてよかったんです」
僕は空いたままの内側へ、もう一度呼びかけた。
(聞こえなくても、勝手に君の分まで返事はしないから)
天井から短い電子音がした。
D-01の首の装置が光る。男が顔を上げ、苦しそうに口を開いた。
「逃げろ。俺は……止まれない」
身体が前へ投げ出されるように動く。
拳が来た。
僕は横へ転がった。
床へ拳が当たり、破片が頬をかすめる。受けてMPにする必要はない。これ以上、僕たちの身体を壊さなくていい。
そう言ってくれる声はなかった。
でも、何度も言われたことまで消えたわけじゃない。
◇
『真白君、首の機器は無理に壊すな。室内側の中継器を切る』
白峰主任の通信が聞こえた。
『さっき非常停止盤を動かした時、信号の経路が見えた。奥の壁際、赤い表示のある箱だ』
三枝先輩の声が重なる。
『外の給電を止める。予備系へ切り替わる前に、中継器を壊して』
できるだろうか。
Sへ聞きそうになり、唇を噛んだ。
さっきD-01から受けた二発分。移動に使った残りのMPが、身体の奥にある。目的の箱までは遠くない。
怖い。でも、順番は分かった。
「合図をください」
D-01が進路へ入る。仮面の残った顔は冷たいのに、片目が僕を追っていた。
腕が上がる。
僕は拳ではなく肩を見た。Sに何度も言われ、真似してきた見方だった。
外へ踏み込もうとした瞬間、男の足がわずかに止まる。
自分で止めたのか、もう一人なのかは分からない。
ただ、その遅れがあった。
「ありがとう」
届いたかどうか分からないまま、僕は横を抜ける。
『今!』
室内の明かりが落ちた。
僕は中継器の台座へ掌を置き、Momentumを流し込んだ。自分の首を壊すためではなく、僕らを押さえつけている機械を止めるために。
必要な分だけ。狙う場所を決めて。
小さな破裂音がして、箱の表示が消えた。
頭の奥を締めていた重さが、少しだけ緩む。
『予備系への切替不能』
機械音声が途切れた。
僕は首の装置へ触れず、その場にしゃがみ込んだ。耳鳴りがする。指先の感覚が薄い。
(S)
呼びかけた直後、ひどく遠くで舌打ちがした。
――……下手くそ。
息が止まった。
「S?」
――何回呼ぶんだよ。
「S!」
――聞こえてるっつってんだろ。
笑おうとしたら、息が引っかかった。
(おかえり)
長いようで、ほんの短い間があった。
――……おう。
声はまだ弱かった。けれど、僕の呼びかけに何を返すかを、Sが自分で決めていた。
「戻りました。Sが」
『交代は急がないで』
三枝先輩の声が届く。
『首の機器を外す。そこから動かないで』
隔壁の下に隙間ができた。先輩が滑り込み、僕とD-01の間へ槍を立てる。
能力による加速を抑え、その間に別の隊員が首の機器を安全に取り外した。切れた接続部から、細い火花が散った。
Sの声が、少しだけ近くなる。
――俺を黙らせといて、てめぇだけ無茶してんじゃねぇよ。
(できることは、やったよ)
――見てた。
僕は顔を上げた。
(聞こえなくても?)
――全部じゃねぇ。でも、勝手に俺の分まで返事しねぇってのは聞こえた。
胸の奥が熱くなった。
それを喜ぶ時間は、まだなかった。
◇
天井で警報が鳴る。
『区画閉鎖。残存記録を消去』
D-01の首だけが、まだ赤く光っていた。施設からの信号が切れても、局所の制御が残っているらしい。
男が手を上げる。命令に逆らうように、反対の手でその腕を押さえた。
「俺も……外せ」
三枝先輩が隊員へ合図する。通路の奥で、隔壁が何枚も落ちる音が重なった。その振動に合わせ、戦闘で傷んだ天井から固定具が外れ、出口までの床を叩いた。
『上部で破断音。急いで!』
外の班から通信が入る。
――湊。代われ。
(頭、大丈夫?)
――大丈夫とは言わねぇ。だから一回で済ませる。
僕は先輩へ伝えた。彼女は出口とD-01の距離を見て、頷く。
「短い移動だけ。私が速度を抑えている間に、その人をこちらへ」
(任せる。僕は、外の指示を聞く)
主導権を渡した。
視界が揺れ、こめかみへ痛みが走る。Sはすぐ動かず、膝へ手をついて息を整えた。
「……てめぇ」
天井のスピーカーを睨む。
「人の返事に蓋してんじゃねぇぞ」
『君は彼を守るために生まれた』
男の声が返った。
「かもな。でも、守り方までてめぇに決められる筋合いはねぇ」
SはSPを持っていない。僕が貯めたMPも使えない。
だから最初の一歩は、普通の速さだった。
出口を閉じようとしている補助制御盤へ近づき、すでに外された覆いの内側を打ち壊す。必要な設備破壊でSPを得て、その少量をSpeedへ回した。
一度だけ、景色が流れた。
D-01の横へ回り、攻撃しようとする腕の外側から身体を支える。殴らず、出口側の遮蔽物へ移す。
「その首の、外すぞ。いいな」
男がかすかに頷いた。
三枝先輩が能力の抑制を続け、隊員が制御装置の接続を切る。最後の固定具が外れた時、D-01はSにもたれかかった。
「……俺を殴れば、もっと」
男の声が掠れる。
「強くなれる」
「いらねぇよ」
Sは男の腕を自分の肩へ回した。
「今、欲しいのは出口だ」
(重そうだけど、大丈夫?)
――半分持て。
(身体は一個だよ!)
「二人で話してないで、こっち!」
三枝先輩がD-01の反対側へ肩を入れる。
出口の先で担架が待っていた。Sは男をそこまで運び、残っていたSPを扉の落下前に回り込むための数歩へ使った。
足がもつれる。隊員に腕を掴まれ、Sは文句も言わずに支えられた。
全員が非常通路へ出たあと、訓練区画から重い崩落音が響いた。
スピーカーの声は、最後まで静かだった。
『次は、もっと大きな実験になる』
通信が切れる。
僕らは振り返らなかった。
◇
数日後、管理局の病室で、僕たちは面会の許可が出るのを待っていた。
D-01は生きている。もう一人の声については、少しずつ確かめている途中だという。二つの能力をどう使っていたかも、急いで再現させないことになった。
M-32とS-32からは、短い伝言が届いた。
『飯の好みが合わない。お前らはどうしてる』
――ピーマン以外なら揉める。
(参考にならないよ)
返事を考えていると、白峰主任が回収記録の報告へ来た。
僕らの過去だと見せられた映像は、識別名が映像本体とは別に重ねられていた。映っている子供が誰なのかは、依然として確認できない。
身体が覚えているような感覚や、D-01と似た動きまで説明できたわけではなかった。けれど、画面にSM-01と出たことだけで、僕らの過去が決まるわけでもなくなった。
もう一つ、消去される前に外の班が確保した記録があった。
【全人類覚醒/制御器・分散配置】
全国規模の強制覚醒計画は、すでに知っていた。今回残っていたのは、その先へ進めるための機器を、一般社会へ分けて配置する工程だった。
「施設一か所を止めれば済む形ではなくなる」
主任が言う。
MASTERと呼ばれる相手の所在も、正体も分からない。声が途切れたことは、計画が終わった証拠ではなかった。
「資料はこっちで調べる。二人は、まず治すこと」
三枝先輩に言われ、僕たちは不満を言いかけた。
けれど、今日は頷いた。
◇
追加の検査を終えた日、牧野さんが新しい登録用紙を持ってきた。
古い照会回線から切り離した正式な記録に、S本人の希望を残すためのものだった。
「名前は、今のままでも変更しても構いません。まだ保留でも」
僕は内側へ聞く。
(どうする?)
――Sでいい。
(本当に?)
――前は、お前が勝手につけた呼び方だった。
(根に持ってるね)
――今は違う。俺が選ぶ。
僕はペンを取った。
それから、まだ何も書かずに机へ戻した。
「本人が書きます。交代してもいいですか」
三枝先輩が僕たちの状態を確認し、頷く。牧野さんは用紙を少しだけこちらへ寄せた。
主導権を渡すと、Sはペンを持った。
【S】
たった一文字。
迷わず書いたのに、書き終わってからしばらく見ていた。
「SpeedのS?」
三枝先輩が聞く。
「違う」
「S型のS?」
「それも違う」
「では、何の略でしょう」
牧野さんの問いに、Sは顔を上げた。
「略じゃねぇ。俺の名前」
彼女は頷き、余計な説明を足さずに記録した。
「写真も撮り直しますか」
「撮る」
(そこは即答なんだ)
――お前の眠そうな顔で一生登録されてたまるか。
(同じ顔だってば!)
口元が勝手に笑った。それが僕のせいなのか、S自身が笑ったのか、どちらでもよかった。
牧野さんは最初の管理票と、今の用紙を重ねた。足りなかった欄には別紙が追加され、本人の意思を確かめる相手として、二つの名前が並んでいる。
まだ、何もかもが二人分になったわけじゃない。身体は一つだし、傷つけば二人とも困る。意見が合わない時に、うまく話せるとも限らない。
それでも、僕一人の返事で済ませない場所ができた。
Sは書類を返し、ペンを机へ置いた。
(よろしく、S)
――今さらかよ。
(自分で決めた名前で、最初に呼んだだけ)
少し間があった。
――……おう。
返事は、ちゃんとこちらへ届いた。
僕たちはこれからも、同じ身体で違うことを考える。
そのたびに話せばいい。任せる時には渡して、終わったら返す。分からなければ、ほかの人へ聞いてもいい。
一枚の紙に収まらなかった僕たちの名前は、二枚目まで使えば並べて書けた。
Sが選んだ一文字の横には、僕の名前も残っていた。




