僕が君を支配するくらいなら、負けた方がいい
翌朝、朝倉は僕の腫れた頬を見て、何も言わずに椅子を引いた。
「保健室、行った?」
「管理局で診てもらった」
「それは昨日。今は?」
――正論。
(君も同じ顔なんだけど)
僕が素直に頷くと、朝倉は机の上の紙へ目を落とした。
【校内能力者登録・連絡先等変更届】
昨日の管理票を補足するためにもらったものだ。氏名とは別に、連絡時に使ってほしい呼称を書く欄があった。
「S君、名前は決めたの?」
「まだ」
――君付けすんな。
「君付けは嫌だそうです」
「じゃあ、決まるまで待つね」
朝倉はそれだけ言って、僕の背中を廊下へ向けた。
「保健室は待たない」
僕たちの返事は、珍しく揃った。
◇
その日の午後、管理局の監視端末へ新たな通知が届いた。
【M人格によるS人格の従属を要求。】
【拒否した場合、D-01の廃棄処分を開始する。】
添付映像には、昨日の訓練室で座っている男が映っていた。白い仮面の下、首へ巻かれた装置が赤く点滅している。
あれは通信機だけではなかった。
「旧式の神経干渉装置に近い構造だ」
白峰主任が画像を拡大する。
「首の機器だけで処理しているわけではない。施設側の制御器と信号を往復させている」
「止められますか」
「外部からの解析は続けている。ただ、向こうは接続先を切り替えられる。救出班が届くまでに、何をされるか分からない」
施設は封鎖されていた。調査員も撤収していない。それでも地下の区画には独立した電源と隔壁が残り、内側からの妨害で救助に入れずにいた。
【SM-01の到着を確認後、試験開始まで処分を保留する。】
僕は画面から目を離せなかった。
――条件を呑むな。
Sが先に言った。
(でも、助けたい)
――俺もだ。だから、あいつを助けるのと、俺を差し出すのを一緒にすんな。
僕は大きく息を吐いた。
「行けば時間は稼げます。その間に、制御器を止められませんか」
三枝先輩が主任を見る。
「中から位置を絞り、外の班が遮断する。本人を処分させないために入るのであって、試験には従わない」
「僕も、そのつもりです」
「Sは?」
――同じだ。ただし、殴られ続けて時間稼ぎとか言い出したら止める。
その返事をそのまま伝えた。先輩は頷いた。
「そこも作戦に入れておく」
◇
訓練室の入口は開いていた。
D-01が中央の椅子から立ち上がる。今日は僕が表だ。すぐに交代するのではなく、三枝先輩が制御盤を調べる間、僕が話しかける役になっている。
「その首の装置、外してもいいですか」
男の指がわずかに動いた。
「必要ない」
「処分されるって、連絡が来ました」
「命令だ」
答えが少しも変わらないことが、かえって怖かった。
床の白線が点灯した。
『M人格を確認。DOMINANCE試験を開始します』
「しません」
僕は天井へ言った。
「彼を助けに来ただけです」
背後で隔壁が落ちる。三枝先輩は外周の制御盤側へ分断された。打ち合わせどおり外の班へ解除を指示する声が、通信へ入る。
『向こうの指示には従わないで。こちらは作業を続ける』
「分かりました」
D-01が拳を構えた。
「戦え。そうしなければ、俺は廃棄される」
「Sを支配しても、あなたを助けたことにはならないでしょう」
男が踏み込む。横へ退こうとした僕の進路を、膝が塞いだ。
腹へ拳が入り、床へ倒れる。痛みと衝撃でMPが増えた。
次も受ければ、装置を壊すだけの力が溜まる。
そう考えた自分に、気づくのが遅れた。二撃目を肩で受けた瞬間、Sが叫んだ。
――その時間稼ぎはなしって言っただろ!
僕は息を詰めた。
――てめぇ一人だけが痛ぇみたいな顔すんな!
三撃目が来る。今度は横へ転がり、壁際の機器の陰へ逃げた。
共有しているのは能力じゃない。傷も、痛みも、逃げられなくなる身体もだ。
(ごめん。もう受けない)
――謝るより足動かせ。
MPはすでにある。僕はその一部を脚から押し出し、D-01の正面ではなく、非常停止盤へ飛び込んだ。
Momentumで生んだ勢いが、数歩分の距離を縮める。
『右下のカバー!』
主任の指示で開け、停止レバーを引く。
反応はない。ただ、表示の一部が切り替わり、信号が別の制御器へ渡されたことだけが分かった。
『位置が絞れた。その操作盤はもう触らず、離れて!』
振り向いた時、D-01がすぐ後ろにいた。
僕の首へ伸びた手が、数センチ手前で止まる。
「……動け」
男が自分の腕へ命じた。
手は震えたまま、前へ出なかった。
◇
「今、誰かが止めたんですか」
僕の質問に、D-01が顔を上げる。
「異常だ」
「声は?」
「いない。俺は完成個体だ」
「それは、あの人が決めた呼び方でしょう」
僕は半歩だけ下がった。逃げ道を確保したまま、男を見る。
「M-32さんにも、もう一人の声が戻り始めています」
男の指が首の装置へ触れた。
「失敗だ」
「そう呼ばれたくないから、何も聞かないんですか」
返事がなかった。
男が仮面へ手をかける。力が入りすぎたのか、白い表面に亀裂が走った。
「一人でなければ、完成じゃない」
「完成じゃなかったら、ここにいちゃ駄目ですか」
男の手が止まる。
「僕は、あなたが何人なのか分かりません。今ここで答えろとも言いません。ただ、助けてほしいと思うなら、それを命令で消さなくていい」
仮面の半分が床へ落ちた。
見えたのは、僕より少し年上に見える男の顔だった。片目から涙が流れている。
D-01は頬へ触れ、濡れた指を見た。
「俺は、泣いていない」
誰へ説明しているのか分からない声だった。
首の装置が激しく点滅する。
『指導個体に人格分離兆候。命令を実行してください』
「……うるさい」
男が膝をついた。
「俺は――」
口が一度閉じ、違う調子で開いた。
「助けて」
小さな声だった。けれど、あの平坦な命令口調ではなかった。
――湊。
(聞こえた)
僕が手を伸ばしかけた時、室内の音声が切り替わった。
『やはり、支配が足りない』
加工の薄い、静かな男の声。
第一分室の記録で聞いた声に似ていた。Sの気配が、急に強張る。
「……MASTER」
本人か、記録か、その名前を使う誰かなのか。確かめる余裕はなかった。
『久しぶりだね、真白湊。そしてS』
床の白線が赤へ変わった。
『君たちは、選択を返してしまう。なら、返す相手の声を止めよう』
――下がれ!
Sの声で後ろへ飛んだ。足元から跳ねた細い機械片が肩口をかすめ、そのまま首の付け根へ貼りついた。
鋭い痛み。次いで、頭の奥を押さえつけられるような重さ。
『M人格を主とする。S人格への接続を抑制』
「やめろ!」
装置へ手を伸ばす。通信から、無理に引き剥がすなという主任の声が聞こえた。
(S!)
――いる。勝手に――
声が遠ざかる。
以前も、接続を弱められたことはあった。あの時は、呼べばかすかな返事があった。
(S!)
今度は、途中から何も返ってこない。
呼びかけを受け止める相手が、どこにも見つからなかった。
『その方が静かだろう?』
男の声が、室内へ響いた。
僕は首の装置に触れたまま、震える息を吐いた。
Sに黙ってほしいと思ったことは、何度もある。授業中も、寝る前も、朝倉と話している時も。
でも、返事をしないかどうかまで、あいつが選べなくなることを望んだことはない。
「……勝手に、黙らせるな」
頭の中には、僕の声しかなかった。




